雨が上がった朝
僕は早起きしてコーヒーを淹れ
マーガリンを落として焼いたフランスパンをかじって
朝食にする
「出かけるのかね」とあのひとが聞く
「ええ」と僕
「急ぎなのかね」
「特にそうでもないんですが生活を戻すには早起きが気持ちいいかと」
「そうか ならば車で行き給え ダフネを乗せて
校長には昨日電話してオーケーをとってある」
「今日からですか」と少し驚いて聞く僕に
「なんでも思い立ったら早い方がいい 早起きと同じだろう」と言い
まだテーブルの上にあったキーを投げてよこす
なにもかもこの調子か
思い返せば昔からこういう人だった
「そうしましょう」と階段の方を見たとき
二階のドアが閉まる音がしてダフネが降りて来た
「バレ?」と語尾をいささか不自然に上げて聞くと
「バレ」という声が返ってくる
谺は語尾が上がらずにすとんと落ちた
坂を降りながら見ると
コム・ゴギャンの周辺の桜が色を増したのがわかる
きっと強い雨と時折吹いた風で散った花びらが多かったのだろう
花芯と萼の色が目立つようになり
花の雲は色づいている
暖かさが本格的になる気配もする
まだ冬みたいな格好の僕は暑いと感じ
車の窓を少し開ける
風が入って来てダフネの髪を揺らしている
バレの学校はもう二つ向こうの市にあった
ナビを見ていたのに少し迷った
校長先生は細い筋肉質の女性で
もしかしたら昔はバレリーナだったのだろうか
ただのバレの学校ではないから
特殊教育関係の人かもしれないが
「ダフネ お帰りなさい」はきはきした話し方で言う
この間の事情はきっとあのひとがもう十二分に説明してしまっているだろう
そう思って僕はただ「よろしくお願いします」と頭を下げる
「あなたが里親モドキさん? まだお若いのに
夕方は何時に来ます?」
テキパキと事務処理をこなすような言い方だったが僕は好感を持った
「何時までここはやっているんでしょうか」
「あのね ここが何時までかではなく
あなたが何時に来られるかを聞きました
ここはね 私がいるときは24時間エイギョウなのです」
先生に叱られた小学生みたいに僕はかしこまって
「7時には迎えに来られると思います」と答えた
「了解しました さ ダフネ」と
校長先生は風のような触り方でダフネの背中を押し
ダフネは振り向かずに建物に入って行った
習慣だったのだから当然のことだろうと僕は思う
「ほとんどの場合
人間は自分の習慣という奴に従順なものだよ
大きな出来事が人生を変えることもないではないが
それだって多かれ少なかれそれまでの習慣を完全に吹き飛ばすことはない
そして
どんな習慣も一歩めは習慣なんかではなくて
ただ偶然やってみたことだったりして
その先繰り返されるかどうかもわからないものさ
ただ何でもそうだが
一度でもやってみると
やらずにあれこれ思い悩んだことなど人は忘れて
物事の受け止めようががらりと変わるのだ
どんなに稚拙なやり方であれ
やらずにいたことは無かったことで
やったことは確乎として事実だからな
諺をもじって言うなら『百考は一事に如かず』」
このあいだ
いやまだ一昨日のことだ
あのひとが珍しく熱くなって言ったことの中で
僕の頭の隅にひっかかっていた言葉が蘇る
それが正しいのなら
この一歩がこれからを決める一事なのかもしれなかった
僕はしばらく戻っていない自分の部屋に寄って
たかだか一二週間の不在が部屋を倉庫みたいに冷たくしたのを感じ
「住処というものは不思議な場所だな」と
聞き手の居ない独り言を言う
「やあ 君はラッキーだ!」と出会い頭にU先生が大声で言った
一瞬僕はドキリとする
僕が懐かしいあのサモエドだと言われたような気がしたからだ
「まあそりゃあ あの解法はエレガントでナルホドだったから
評価する人はいるとは思っていたが
灯台もと暗しだな」
「なんなんですか?」と僕は聞いた
「観測分室で計算関係のアシスタントが欲しいのだそうだよ
どうだ いいチャンスじゃないか 行くかね?
しかもお名指しだ」
それはどうやら少しまともな食い扶持ということらしかった
「ですが それはここを出て行けということでしょうか」と僕
「とんでもない
まだ君にはここに居てもらわなければならないし
君も区切りがついていないじゃないか
週のうち二三日あっちへ行ってくればいいということだ
こっちが片付いて
あっちが軌道に乗ればパーマネントになるかもしれない
そういう見込みで考えていいということらしいぞ」
僕は海が好きだし潮汐の変化の話には関心がある
それから空想を膨らませてくれる星も身近に感じるが
それは僕の分野ではなかった
というか計算機が必要というだけの共通点しかなかった
もっともまた僕は一週間以下の誤差で地震を予測していたけれど
今や科学の世界は組織力でひとつ事にもいろいろな人間が要る
その一端ということなのだろう
まあ先の見通しという付録がちょっと付いた
肩書きのあるアルバイトというところだった
僕はほとんど迷わずに「行かせてください」と言った
「そうかね そうかね すぐに電話しよう」
勢いこんだ言葉が返ってきた
いつもなら僕はせめて一日はくださいと言っただろう
遠い将来を考え決心して即答したのではなかった
僕が即答したのは大学の観測センターが
あのひとの家から見える岬の突端にあったからだった