花の雨 | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある


 桜並木をダフネと歩いた夜
 密集する花びらの中を歩くと花の匂いがした
 ダフネと歩くとダフネの匂いがする
 ダフネの皮膚と髪の匂いに僕は酔う
 ちょうど静かに咲いた花の匂いに酔うように
 ダフネは踊る木
 ひとり成り立って薫る

 僕が嬉しいと思ったのは
 まるで夏の朝に雨戸を開け
 目の高さにこちらを向いて咲いている朝顔を
 見たときと同じ
 誰のものでもない朝顔が
 僕の方を向いて咲いたという僥倖

 ダフネが僕の腕にすがって歩くのは
 桜の枝が高すぎて届かなかったから
 花を見上げて歩くための松葉杖
 ダフネの鋭い嗅覚に花の匂いが押し寄せて
 くらくらとしてまっすぐに立っていられなかったから
 僕もダフネも揺れる大地を予見して
 花の津波に呑み込まれまいと
 お互いにすがっていた藁しべの舟

 帰り道ダフネはなおも
 ハンドルを握る僕の左腕をつかんだまま離さなかった
 支えにならない支柱のように
 ただそこにあるだけの意味しかもたない
 僕の腕を
 揺れる車は時の舟
 ただ流れていくだけの


 家に戻るとドアは施錠されてなく
 主はもう一階にはいなかった
 ダフネと僕は何日も水を手にしなかった者たちのように
 冷たさの快い
 ガラスのコップで水を何杯も飲んだ
 ふたりとも妙に喉が渇いていた

 見るとダフネの髪に桜の花びらが載っていた
 「花びらが」と言う僕を
 驚いたような顔でダフネは見上げる
 花びらをとろうと手を伸ばして
 僕は思い直し花びらをそのままにした
 黒に近い濃い褐色のダフネの髪の上に
 ふたひらの桜の冠
 
 伸ばして止まった僕の腕をつかまえて
 二階に上がる階段の方へと
 ダフネが僕をひっぱった
 今夜はもう何も食べずに眠りたいということなのか
 たしかに僕も胸いっぱいのダフネと桜の香りで
 食べるという感覚がない

 部屋に戻るとダフネは服を脱いで
 きちんとたたんでサイド・テーブルの上に置く
 躾の行き届いた娘のように
 服の隣には昨夜の花の小枝が並んでいた
 野生児のように振る舞うことの多いダフネの
 この几帳面さは不思議な感じがするが
 僕がダフネと出会った時からそうだった
 きっとこれは躾ではなく
 そこにいたはずのモーゼがいなかったことに
 パニックを起こしたのと同じようなダフネらしさ
 いつまでも世界に変わらないでほしいと言うような

 そのとき僕は忘れ物をしたことに気がつく
 車の中に買ったパジャマを置いたままだった

 「後片付け」が終わるとダフネは 
 ベッドに座ってダフネを見ていた僕に近づいてきて
 僕の左側にちょこんと座り僕の腕に自分の腕を絡ませる
 
 まるでまだ帰り道の車の中にいるかのようだ
 左手を奪われて
 僕は座ったダフネの肩を抱いてやることができずに
 ふたりして窓の方を見る
 なんだか心中する前の二人連れみたいだなと思う
 ダフネの素足が暗がりの中で夜桜のように白く浮かんでいる
 「さあ もう寝よう 一緒に寝るかい」と
 答えの帰ってこない質問をする
 僕がベッドに横になればダフネはきっと何も言わずに
 腕をつかんだままするりと僕の横に滑り込み
 そのまま眠ることだろう
 
 でもこの夜
 またもう一つダフネは今までとは違う姿を見せる
 「一緒に寝るかい」と聞いた僕の隣で
 ダフネが前を向いたまま
 こくりとうなづいたのだ

 受け答えをしないということが
 言葉のたどたどしさと一緒になって
 ダフネと僕を隔てる河になっていた
 うなづくという一瞬の簡単な動作が
 その川に渡し舟を漕ぎ出すことになるような気がする
 舟は僕らをもっと親しくさせるだろうか
 
 それはまだわからない いや
 僕はわかりたくないのかもしれない
 咲き誇る桜の花の匂いに背中を押されたように
 ダフネの変化が速まっていくなかで
 そうやってダフネがふつうの子のように
 人と会話しつながりを深めていけるなら
 これは素晴らしい兆しに違いなく
 もしかしたらダフネはもっと女の子らしくなり
 やがては人を恋するようになり
 さらには
 かなうことなら人を愛せるようになってほしいと
 僕は思う

 でも同時に今日一日僕にわだかまっている
 矛盾だらけの感情が
 ダフネの変化がもっとゆっくりと
 長い時間をかけて進むことを願っていた

 僕にはわからない
 ほんとうのダフネはどのダフネなのかということが

 悲しみや苦痛が一時的にダフネを変えていたのなら
 回復したダフネがほんとうのダフネだと言えるはずだった
 けれど出会ったときのダフネがほんとうのダフネなら
 この変化はダフネを違った者に変えてしまうことになる

 「馬鹿げたこの世界」とあのひとが言ったけれど
 言葉のやりとりができることで
 そんな人間臭い世界に生きていけるようになることが
 ほんとうにダフネの幸せなのだろうか
 きっとまだ
 木のように一人で成り立っているダフネには
 鳥の言葉がわかるにちがいない
 けれど人の言葉に染まった日には
 ダフネにはもう鳥の言葉が聞こえなくなる

 それだけでなく
 ダフネが人を恋するようになる日には
 ダフネはもう僕の隣にはいないだろう
 仮にダフネがそばにいることを望んだとしても
 僕はそれを許せないに違いない
 僕とダフネは並んで歩くようにと出会った気がする
 決して向き合ってお互いを抱くためにではなく

 せめて今夜だけは
 ダフネを抱いて眠りたいと思った
 腕を抱かれたまま僕がベッドに横になると
 ダフネも横になる
 そうやってふたり並んで天井を見ながら眠ろうと
 腕を解いてダフネの肩を抱く
 でもこの日
 ダフネはふっと動いて僕の方に向き直り
 僕の胸に顔を埋めてきたので
 僕はダフネの頭を子どもをあやすように抱きしめる

 またダフネの花のような匂いがし
 ダフネは静かに寝息を立て始めていた
 
 
 その静けさの向こう側から
 降り始めた強い雨の音が聞こえてくる
 花びらが雨に打たれて
 闇の中を舞い落ち始めるのが
 見えたように思った