よく眠れなかったのは当然だった
混乱した思考の糸くずが
もつれては解けまたもつれた
ただ花にふと見とれただけのはずだったものが
いつの間にか自分の喉元に突き刺さり
気軽な同情や好奇心は切り刻まれていた
花の香りに酔っているまに道は狭まり脆くなり
崩れ落ちかけていた
ダフネはけっきょく僕にかじりついたまま眠った
その腕のしなやかさに似合わない力が
なおさら僕の眠りを妨げている気がしたが
それがなかったら僕はこの夜をどう過ごせただろう
朝が近づく頃にダフネの腕は緩んで
僕は束の間深く眠ったらしい
キイキキキという張り詰めて長く尾を引く
鳥の声がした
朝ダフネは部屋にも庭にもいなかった
「浜の方に降りていったよ
心配することはない
ダフネは今朝は安定していると思う」と
昨日僕を攻め立てた老人が言う
庭のフェンスから身を乗り出して見ると
ダフネらしい人影が水際に見えた
白と黒のシャープなコントラストの一点が
ゆっくり波打ち際を歩いている
陶器の椅子に座ると
また鳥が啼いた
何という鳥か僕にはわからない
しかし磯鷸(イソシギ)の仲間のように
細長いくちばしが思い浮かんだ
この辺りで磯鷸を見たことはなかったが
僕もダフネに会おうと小径を降りたが
どこで行き違ったか浜にダフネはいなかった
嘘のように静かに寄せる波
仕方なく上の道に戻ると
深い藍色に塗った公用車らしい車が止まっていた
彼らも眠れなかったのだろう
そう思いながら門をくぐって玄関先まで来ると
あのひととダフネの叔父それから通訳官が
立ち話をしているのが見えた
ダフネの叔母の姿は見えない
「ダフネは?」とあのひとが聞いた
知らないと首を横に振るのがいけないことのように思えた
通訳が近づいてきて
「お話ししたいことがあるそうです」と小声で言った
叔父が近づいてきてまた強く僕の手を握り
硬い英語で言った
「きょう妻はホテルに留まっています
ダフネには会わないほうがいいと
他にしなければならないことを済ませたら
私たちは夕方には国に向かいます」
そう言ってから大きな紙袋を二つ僕に渡して
「国からダフネに持ってきた服です
妻が選んだ
あなたに託します
あの方にもお願いしました
どのくらいの期間になるのかわかりません
しかしダフネの変化がこのまま続くなら
私たちはそれを止めたくはありません
ご無理でないなら
どうか」
そこまで一気に言って深く息を吸い
紙袋を持った僕の手をまた握った
「この方が手続きをしてくれると言ってくれました
いつでも
いつでもあなたが持て余すときには
ダフネを引き取りにまたここに来ます
それから様子を
せめて一週間に一度でも知らせてほしいと
これは妻からの
もちろんダフネの叔父である私からの
願いです」
思わず握り返した僕の手をまたダフネの
たった一人の姪を愛しているに違いない叔父が
また握り返し
その儀式がいつまでも続くような気がした
またあの鳥が
でも今度は頭の上の空で啼いた
「バレの校長にも連絡することにしてあるよ」と
長身の叔父の後ろであのひとが言う
何もかも脚本どおりだった
ただ僕の何かを除いては
「ダフネを探してきます」と僕が言うと
長身の叔父はまっすぐ立ったまま
「必要はありません」ときっぱり言う
「ダフネが元気であることはよくわかりましたから
会っても昨日ほどの喜びはないと思います」
これがこの人の
思いつめた
というか
思い切った表情なのだろうと僕は思い
「わかりました」と僕は言う
家の主と握手を交わして
二人の来客は去ろうとしていた
乗り込んだ大きな公用車の中から
ダフネの叔父が両手を祈るように組んで
僕に振って見せ少しだけ笑う
いったいどうして物事はこんなふうな進み方をするのだろう
望むとき欲するときは滞ることばかりなのに
迷うときには迷いのかけら一つ許さずに進んでいく
車が走り出し遠ざかる
道が広い車道に出るところまで来たとき
背の高い草むらの中からひょっこりとダフネが現れ
すぐ傍を走り去る車に驚いたような顔をする
通り過ぎた車の後部座席で振り返って
ダフネの姿を見るひとの顔の表情が
僕の目にははっきりと見えた
ダフネは立ったまま車がやがて点になって
それからふっと見えなくなるまで
じっとしていた