「子どものなかった私たち夫婦はね
ヨーロッパにいるときはよく
子どもたちの施設を訪ねたりしたものだった」と
ソファの上に仰向けに寝転んで
細い足をばたばたさせているダフネを優しげに見ながら
あのひとが言う
「そんなこと訊いているんじゃありません」と僕
「なんだ怒ってでもいるのかね」
夜の八時をリビングの時計が打った
あのひとは客が帰った後
ダフネと僕をほったらかしたまま
自分の部屋に戻ってなかなか出てこなかったのだ
僕が話があると呼びにいくまでは
「何をあの人たちに言ったんですか」と
ウィスキーのグラスに手をつけずに僕は訊く
連れて帰ると言ってもおかしくないところだったのに
「君の知らないことだ」と僕の方を横目で見ながらあの人は言う
「知らないというか
覚えていないことだと言ったほうがいいか」
「僕たちがここに来始めた頃のことですか
そんなことダフネのこととは関係ないでしょうし
父や母がどう思ってあなたのところに遊びに来たか
そんなことなら確かに僕には覚えがないですね」
僕の剣幕を聞き流すように
「ほらそこの飾り棚のガラス戸の枠」とあのひとが言う
「左側の枠を折ったのは君だよ 暴れん坊の」
見ると確かに枠の左下部分に補修した跡があった
僕は言い返せなくなって黙る
黙ってあのひとが古い話をし続けるのを聴く
夕闇の中で
春の花びらが目の前をかすめて落ちるように
僕の意識の中に何かが落ちてくる
「ダフネほどではないが
君は男の子で力が強かったからね
君はその腕白ぶりを覚えていないらしい
須佐之男命と呼ばれていたのは覚えているだろうか」
それは唐突に切り出された僕の記憶
確かにそうだった
「なぜだと思うね」
「腕白だったのはそうだったのでしょうね
遊び回ってなかなか家に帰らなかったと」
「そうか」
そう言ってからあのひとはしばらく黙って
続けたものかどうか少しだけ迷っているように見えた
「君は走るダフネみたいな子どもだった
そこら中走り回ってなかなかご両親の手に戻らない
ダフネが君に似ていると言ったのはそういうことだ」
「今でも走っていますよ僕は」
「そうかね」とあのひとは言ってグラスを口に持っていき
顔を少しばかり顰めながら
ゆっくり味わうように飲む
「ここでも君は走り回って手を焼かせた
止めようとするオヤジさんを振り切って
その勢いでそれにぶつかって
ガラスを割ったのだ 枠も折れた」
「それはすみませんでした」と
僕は昔の僕に代わって仕方なしに詫びる
あのひとはそれを聞いてもいなかったように
話を変えてしまう
いや変えたのではなく僕の胸を
十分用意しきった槍で深々と突いたのだ
「ダフネだがこの子がオーティズムらしいことは
君もわかっているのじゃないかね」と言った
「典型的な特徴がそろっている」
その言葉に僕は震え上がる
出会ってすぐはそうは思わなかったが
ともに居る時間が長くなるにつれ
僕の頭を何度もかすめていった言葉だった
「私が最初にそういう種類の子に出会ったのは
スイスに居たときだ
可愛い目の綺麗な少年だった
しかしほとんど当時の私には狂人に見えた
半分は仕事で子どもたちの施設を訪ねたときだ
壁に頭を打ち付けて止まらない子や
同じ言葉を執拗に繰り返し
話が全く通じない上に
暴れだすと止まらない
目が合っただけでパニックになる
それがオーティズムというものだと知って
私は子どものいない自分たちを
半分は幸せだったのかと思ったものだよ
それから私たちは休暇を利用しては
この不思議な子どもたちを訪ねるようになった」
「いつからですか」と僕は聞いた
「いつからダフネがそうだと」
「さあ はっきりと最初から思ったわけではなかった
何か不幸というものが人をおかしくすることはある
君の話からはそういうことなのかと
しかしあまり長くはかからなかった
君の子どもの頃を思い出したからだ」
最後の言葉を聞いて僕の息の根が止まる
冷静に話そうとして言葉が舌に絡んだ
「僕がダフネと同じ病気だったということですか
確かに僕は人付き合いが上手い人間じゃないですが」
そこまで言うだけで息が千切れそうだった
「いやそうではなかったろう
ダフネのようにひどくはなかった
ただ私がヨーロッパで出会った子どもたちの中には
君みたいな連中も居た
知能の遅れはないのにけもののような
暴れるという意味で言うのではないのだ
繰り替えされる独り言
人の口まねをし始めると止まらなくなった
人の言うことをまともに聞いているとは思えないような
でも君はそういう範疇に分類されはしなかった
当時としては
いや今でもこの国では誤解されていることだから
誰も君をそういうふうに扱わなかった
ただご両親は心配していたのだ
オヤジさんが仕事で海外を連れ歩いたことが
お母さんも仕事で一緒には行けないことが
多かったのがいけなかったのかと
知り合ってしばらくして言っていたものだ
だから君たちはここに来た
私は医者ではないから確かではなかったが
君はただの腕白坊主だと
ご両親に言ったものだが
ふと思いついて君にプレゼントをしたのだ
正確に言えば君の家にだが
覚えていないだろうか
白いスピッツみたいな
プレゼントしたときにはあんなに大きくなる種だとは
思っていなかったが」
僕は完全に言葉を失っていた
ラッキーを思い出したからだ
スピッツにしては大き過ぎると祖父が言っていたことも
ほとんど同時に僕はモーゼを思い出す
「ピレネーズだったんですか」とおそるおそる僕は聞く
「いやモーゼではない
君にあげたのは何といったか
とにかくピレネーズほどは大きくなかったし
顔つきも違う
たしかシベリアの古くからの種で
ロシア人の友人からもらったものだった
ああサモエド
そうだサモエドという種類で
頭の良さそうな
よく笑う」
「笑う?」
「いやそれは表現が変だがそう見えた
君はその犬に魅入られた
いつも一緒だった
君は幼稚園に通った記憶があるかね
それ以降その犬が死ぬまで
君には海外渡航歴がないはずだ
ご両親が同時に出かけるときは君はここにいたからだ
あの犬と一緒に」
僕は完全に打ちのめされていた
書けるようになるまで僕には一日も必要だった
何ということだろう
人間という奴は子どものときのことを
いとも簡単に忘れてしまうのだ
メアリー・ポピンズが
「子どもの頃はみんな鳥の言葉がわかるのよ
大人になる頃にはみんな忘れてしまうけれど」と言ったように
「覚えていなくても無理はない
小学校に入いる前の
ダフネよりはるかに小さいときのことだからね」
あのひとが古い辞書のページを見るような目をして言う
「私は良かったと今でも思う
犬を君にプレゼントしたことだ
ほんの思いつきに過ぎなかったが
君は次第に落ち着きのある子になっていったからね
家に帰ればサモエドが待っていると分かるようになり
学校にも通い始めた
あのサモエドが君を救ったかどうかは知らない
他にもいろいろな事が有ったろう
しかも君は早熟な言葉で人を驚かせるようにさえなった
それはとてつもなく速い変化だったと思う
ただ君の言葉は何と言えばいいか
そらぞらしい感じが付いて回る
いやともかくも
あの犬
モーゼだが可愛そうなことだった
一目で私のように老いていると思った
あれと君が知り合ったのはサモエドが死んでから何年も後だ
正直な話
私は恐ろしいことだと思ったよ
ダフネがモーゼにしがみついて離れないのを見たときは
どういう天の采配だか知らないが
自分がそろそろあの世の声を聞きそうな歳になったときに
その私の目の前で
繰り返され始める偶然というやつを」
春の夜の薄ら寒さのせいか僕は震えがとまらなくなっていた
口元までふるふると揺れている気がする
「飲み給え
酒は驚きを当然の出来事だったかのように変えるものだ」
あのひとは哲学者のように言って
手に持ったグラスで僕のグラスを押してよこした
結露した水滴に乗って
マホガニーの上をつるつると滑り
僕のグラスがテーブルの端まで来て止まる
それから僕は声にならない声をあげて驚く
不意に生温かいダフネの腕が僕の後ろから
僕の首に絡みついてきたからだ
ダフネがソファから起き上がったことにすら気づかなかった
「もうこれくらいにしよう
昔のことを思い出さされると誰でも息がつまるものだ」
とダフネの顔をしげしげと見ながらあの人が言う
「でも聞かれたことだけは答えておこうか
あの人たちにはこう言ったのだ
昔あの青年はダフネみたいな子どもだったと
どういう結果になるにせよ
この偶然の出会いは意味があり
今は立派な青年になっている彼は
ダフネのために何かできることがあるはずだと」
僕の後ろでダフネが「ダフネ?」と一度だけ尋ねるように言った
どこか微笑んでいるような声に聞こえたが
それを確かめるために振り向く力は僕にはなかった
ただやがて
ダフネの体温が僕の震えを止めたのには気がついた