春だというのに
四月だというのに風が冷たくなってきた
家の中から主の声がした
もうすぐ市内の行きつけのレストランから
料理が届くと
日頃は質素な食事しかしないのに
そしてそれはほとんどこのひとの手料理だったが
たぶん少し特別な客たちのときはそうなるのだろう
山裾の桜は満開に近いのか
確かその行きつけのレストランはその桜の道の中にあった
たぶん料理は途中まで調理され主人ともども
やってくるのだろう
「食事の準備中に今度は君が話したらいい」と
家の中に戻った僕にあのひとが言った
ダフネと会ったときのことでも話せというのか
「君がどういうことをしている人間なのか知りたいそうだ」と言う
僕のことなど話しても益もないことだと思えたが
「君がどんな勉強をして何を考えて毎日を過ごしているのか
そんなことでも話せばいい
英語でも通じるようだが日本語でもいい
しかし自己紹介めいたことは要らない」と
あのひとは面白い出来事を期待するような笑顔で言った
不思議な要求だと僕は思う
どのみち二度と会うことのない人たちに
そんなことを話すのか
ダフネがまだ家の中には戻りたくなさそうだったので
仕方なく僕はそれに応じて
自分の専門分野のことや趣味
まるでお見合いの席に居るみたいなことばかり話していた
ダフネの叔父夫婦はいかにも興味深いという顔をして
僕の話を聴きときどき相の手代わりに簡単な質問までした
習慣どおりの時間だった
小太りのレストランの主人がやってきて
「いやあ今日は風が強いですな
いやいや先生のお望みなら店を閉めてもいいところだが
お陰様でもう息子も十分やっていけるようになりましてな」
と楽しそうに言いながらキッチンに入って行く
僕はあの人が最後の数年は政治家でもあったことを思い出す
なぜなのか恐らくは妥協と虚仮威しの世界を好まなかったのか
あの人はすぐに隠居を決め込んだらしかった
それでも今もやってくるその筋の客たちのために
あの店の主は十分に儲けさせてもらっているのだろう
時計が3時を回り食事がテーブルに運ばれてきた
「ダフネ」と大きな声で呼んだのはあのひとだった
ダフネが芝生の虜になったまま動かないのを見ながら
あの人が僕に目配せしてダフネを呼べと言う
僕は立ち上がってテラスから「ダフネ」と呼ぶ
するとダフネが諦めたように立ち上がり部屋に入ってきた
そういう儀式めいた呼びかけを叔父夫婦は眺めている
陽が少しずつ傾く庭を客人たちが見られるように
僕とあのひとが向かい合って庭側に座り
僕の隣にダフネ
その隣にダフネの叔母がさらに叔父と通訳が座った
座るときまた叔母が「ダフネ」と声をかけたが
ダフネは特に愛想よく反応することはない
そうだったわねという様子で座り直す叔母に
僕は少し同情する
あまりお互いに知らない者たちが
ただ機械人形のような少女に関わっているというだけで
食卓を囲んでいるのが奇妙に思える
ましてそのホステスであるべきダフネは
その役を果たすことは決してないのだ
それにも関わらず
どう言ったらいいのか日本料理とフランス料理
イタリア料理までまぜこぜにしたような
刺身をドレッシングで食べるような
それでいてするりと舌から喉へ滑っていきそうな味のおかげで
そしてまた僕には決してできない
外交辞令の美しい盛り合わせのおかげで
事もなく和気藹々と時間が過ぎる
あのひとは最近の日本の出来事を
客人たちの国の出来事と比べたりして
話術の腕を思うさま見せつけ
そういうことの苦手な僕は圧倒される
ダフネの話は全然出てこない
すべてはもう決定されていて
僕が思うことを伝える機会はないのだろう
ダフネがもう食べられないのか椅子の上で膝を抱え
ダフネの叔父の髭を蓄えた長い顔がワインで紅潮する頃
「さてさてデザートはあちらの部屋にしましょうか
どうも硬い椅子は年寄りには辛い」と
あのひとが応接室の方を指して言う
「後片付けもあるだろうし」
嘘をつけ
一日中だってその椅子に座って本を読んでいるくせに
と僕は思った
遅い昼ご飯というよりは早い夕食が終わり
結論が出る時間になったということだろうと
数日のドラマは幕を引く
そうやって束の間の出来事は時間に飲み込まれ
僕の時間とダフネの時間は切り離される
「ドアが古くなり動きが悪くて」と家の主が言いながら
応接室のドアを開け叔父夫婦に先を譲り
ダフネが自動的に夫婦と僕の間にはさまれる恰好で
部屋に入った
ダフネの叔母が振り返って「ダフネ」と声をかけ
ダフネの肩を抱くようにして自分たちの間に座らせようとしたときだった
ことのほかおとなしかった今日のダフネが硬直したように
動かなくなったのは
「ダフネ さあ」と叔母がもう一度言って
長めのソファの自分の隣を指す
でもダフネは動かず俯いたままになる
「ダフネ」と三度目の
とびきり優しげな言葉を聞いた途端に
ダフネは大きな声で「ファントモ」と叫んで
弾かれたように飛び上がり
通訳が座ろうと手をかけた椅子を跳ね飛ばし
犬に追われた猫みたいに走って
僕の後ろに回って僕の右腕にしがみついたまま
またあの声とも音ともつかない
「ファントモ」を繰り返し始める
もう一度ダフネの叔母が手を伸べて
「ダフネ」と言おうとしたが途中で力を失って
「ダフ・・」で消えた
それはダフネのこたえ
ダフネの意思表示なのだと僕は思おうとし
同時にそれがいかにも無力な意思表示であると思う
ダフネはまだ11なのだ
ましてこの国には一時的に滞在していたに過ぎない
僕は何も言えず何もできずにいた
ただダフネが僕の左腕の内側にもぐりこんだとき
自然とダフネをかばうように
僕の左腕は動いてダフネの肩を抱いた
それから起きた出来事は僕には全く
予想できていないことだった
叔父夫婦は二人ともソファにすとんと腰を下ろし
落胆したようにダフネを見た
「ここしばらくのこともあるので
急にはダフネも対処できないのでしょう」と
入り口にいたあのひとが日本語で慰めるように言った
でも
その言葉が通訳される前に
座ったばかりの叔父が立ち上がり
つかつかと僕の前まで来て
まるでとうに決めていたかのように
僕の右手をとって握り低い声で何か言い始めた
通訳が少し公式な言い方で通訳する
「今日はもう帰ります
夫人も長旅で疲れているので
でも先生がおっしゃることはわかりました
とにかくダフネに再会できて
こんなに嬉しいことはない
ありがとうございますと」
一行はそのままデザートをキャンセルして
急ぐように帰途についた
玄関で靴に履き替える前にダフネの叔母が
振り返って僕を抱きしめ
僕の頬に挨拶のキスをした
まるでダフネを抱擁するように
大きな温かい身体が震えているのが分かった
扉が閉じられるとき
玄関先の何かはわからない花の匂いが
入り込んできて
僕は思った
あのひとに訊かねばならないと
このダフネの返答を演出した理由が何かを
見送って振り返ったとき
後ろにいたダフネが僕の首に
両腕を回して正面から抱きついてきた
吸い込んだ僕の息は
ダフネの髪の甘い香りでいっぱいになる
訊かねばならない
この三文芝居がただ
ただダフネのためだけを考えて
演出されたものであるかどうかを