春風の日のダフネ | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある


 風はとても強かったが
 空はうっすら雲がかかる程度で
 ほとんど快晴の日になりそうだった

 十時少し前に玄関のチャイムが鳴った
 「最初に私が話そう
  私の意見は差し挟まないから
  すまないが紅茶でも頼めるかな」
 と家の主が言って立ち上がる
 「そのときにできればダフネも」

 扉が開く音と数人の人が入ってくる気配がした
 若々しい男の声が流暢な日本語で挨拶し
 長く外交官だった家の主は
 日本語と英語それからもう一つ
 別の言語を取り混ぜて応じているらしい
 この人が話せばすべてがそつなく
 滞ることなく進んでいくに違いない

 応接室に入っていく後ろ姿を見たところでは
 ダフネの叔父とおぼしき男性は
 おそろしく背が高く190くらいはありそうで
 きちんとした黒のスーツを着ていた
 夫人の方は190はなかったが
 あの人よりも高く見えたので170は超えている
 太ってはいないがごろりと大柄な女性だった
 どちらがダフネと血がつながっているにせよ
 ダフネのすらりと伸びた身体の
 故郷の人たちだと思う
 通訳か書記官かわからないが
 もうひとりは服の感じや髪型で
 僕よりは年上に見えるが
 30前だろうか

 僕はその一行が妙に場にそぐわしくない感じがした
 おかしなことだが
 野性のようなダフネの叔父夫婦と聞いて
 最初に想像した姿は古代ギリシャかローマの
 彫刻のような姿だったから
 これがリアルというやつなんだなと僕は思う

 紅茶を持っていくと
 紹介もされていないのに三人はすぐに立ち上がり
 一番若いのが日本人のように頭を下げた
 紅茶のトレイは僕がテーブルに置く前に
 近寄ってきた夫人にさっさと受け取られ
 神経質そうに見えた背の高いダフネの叔父が
 両手で僕の手をとって痛いほど握りしめ
 物凄い早口で話し始めた
 礼を述べているのだろうが言葉は分からなかったので
 英語で遠くから大変でしたねというような
 形式的な挨拶をすると
 ダフネの叔母も何かしゃべりだし
 顔をクシャクシャにして涙を流し始める
 通訳が何か口をはさもうとしたがあの人が手で断った

 第一印象とは違って田舎の夫婦みたいに
 素直に感情をぶつけてくる人たちだなと思ったが
 それだけダフネは大切な姪っ子なのだろうとも思う
 情熱的な挨拶が続けば続くほど
 それが僕には
 「ダフネはどこですか ダフネを早く返して」と
 言っているように聞こえ出した
 
 夫人の目が僕を通り越して止まったので振り向くと
 戸口に黒いワンピースのダフネが棒のように立っていた
 「ダフネ」とダフネの叔母がしゃくりあげるような声をあげる
 この人ならきっとダフネに突進し抱きしめるのだろうと

 でもダフネの叔母は何度も「ダフネ」と呼んだが
 まるで怯えた子猫に対するように
 ゆっくりとダフネに近づいていく
 ダフネのことをよく知っているひとなのだと思う
 ダフネは後退りしてしまわないだろうか
 僕もその婦人も同じことを考えていたのだろう

 ダフネは逃げなかった 立ったまま
 叔母が近づいてダフネを抱きしめるままにしていた
 押し殺していたような声がひときわ大きくなって
 感極まったように「ダフネ ダフネ」と言いながら
 ダフネの髪の毛をクシャクシャにしている
 夫人とダフネを呆然と見ていた叔父がまた
 僕の手を強く握ってまくし立て始める
 とうとう通訳が「こんなことは今までなかったことだと
 言っております」と丁重に言った

 感動的な再会が一段落したのを見極めたように
 あのひとが「ここは海がよく見えます」というようなことを言い
 庭の方を指しながら「ご覧になりませんか」と言った

 リビングを抜けて庭に出ると美しい海が見えた
 こんなに晴れ渡った空と温かそうな碧色の海
 この数日の滞在で初めて見る気がした
 フェンスに寄りかかかって海を見ていたダフネが
 芝の上で踊り始める
 三人の客はそれを見て口々に
 愛らしいとか幸せそうだとかいうようなことを言った

 そうなのだなと僕も思う
 ここで起きた事どもは皆見知らぬ土地で見た夢に過ぎない
 どんなドラマも慣れ親しんだ人たちの
 ぬくもりに勝ることはない
 難しい少女のダフネも同じように人の子なのだと

 ダフネから目をそむけて僕は水平線を眺める
 大小の船影が
 空と海を区切る線上を過ぎていく
 
 ダフネの踊りが春風の中で激しくなる