夕飯に何を食べたのか覚えていなかった
ダフネが骨をつかんで鶏肉と格闘しているのが
嬉しく思えたことだけは印象に残ったが
家の主は一足先に食べ終わると
分厚い本を食卓において読み始め僕には話しかけない
その目を見ていると
このひとも歳をとったのだなと思う
隠居を決め込んで
特にハウス・キーパーも頼まずにいる
稀に来客があるときも
親しい知人というよりは
さっさと退いてしまった仕事の関係の人が多いようだった
そういう意味ではこのひとは孤独を選んでいるのだろう
ダフネがなかなか風呂から出て来ないので
中で眠ってしまったのではないかと気になった僕は
脱衣室のドアを半分開けて
こんなときにダフネが返事をするはずもないと思いながら
「ダフネ」と声をかける
バス・タブの中のダフネが動いて湯がパシャリと音を立て
それから少し高めのダフネの声が
単音節分だけ喉を鳴らすのが聞こえた
声と音のあいだのようなダフネの言葉
読書家のところにもどると
「眠ってなかったか」と目も上げずに聞いたので
「ええ」とだけ僕は答える
このひとは何を考えているのだろう
「ダフネをひきとっても」と言ったのは本気だったのだろうか
このひとがやると言えば
確実に物事を動かさずにはいないだろう
でも僕はその掌の上の駒になろうと思ったことがなかった
僕の父親のようにはならないと
バタンと音がしてダフネが階段をペタペタと上がって行った
ダフネには考えるということがあるのだろうか
ひどく疲れているような気がした
風呂の明かりを点けないまま
寝そべるように湯につかり頭をバス・タブの縁にひっかけると
淡い闇の中で身体が浮き上がるような気がする
そのときになって僕はやっと右腕に
十数センチもある引っ掻き傷が何本もあるのに気がついた
暗い褐色の太い瘡蓋からすると
これはダフネに引っ掻かれたのではない
モーゼの太い爪に違いない
今の今まで痛みすら感じなかった
モーゼ
この傷が消えずに僕に残るように
お前が僕に触れた最初の出来事が
僕に残した傷なのだから
不確かな消え去りやすい記憶ではなく
この傷を永く留めておいてくれないものかと
僕は願った
それに比べて
頭の中には明日についての考えのかけらもなかった
二三日の出来事がまるで今目前で起きているかのように浮かんできて
考えることを許さない
しかし明日は
決めなければならないのだということだけで
その先も後も何も考えることができなかった
意思というものがない木偶人形なのか
それでも
ダフネのように長く湯につかっているうちに
僕はだんだんと最初からの結論に傾いて行く
明日はダフネを花の国の人たちの手に戻そう
それ以外に現実的な答えなどあるはずもなかった
僕はただ数日のあいだの幻を見ているだけだと
風が出て来たのか
窓ガラスがキシキシと鳴った
脱衣室のドアが風に押されたように
無機的な音を立てた
生き物の意志が押したのではない音
でも入ってきたのはダフネだった
磨りガラスの向こうに動くのが見える
白く細い指が風呂のガラス戸を引き開けて
裸のダフネが入ってきた
幻ではない
いつもの気ままなダフネだ
そのダフネはすばやく近づいてきて
バス・タブの縁に腰を下ろした
暖房をつけていなかった二階が寒かったのか
湯の中に座り直した僕の胸を
ダフネは座ったまま右手を伸ばし
小さな二本の指で力を込めて押す
押しては手を今度は自分の胸に持って行き
同じ人差し指と中指で
若く膨らんだ胸の間を叩いてみせる
「あなた」「わたし」とでも言うように
でも
その動作はすぐにいつものような
機械的な反復の儀式にかわってしまう
往復する指の力がだんだん強くなり
やがて
ダフネは開いた掌で僕の胸を叩いては
手を引っ込めて自分の胸を叩くようになり
その繰り返しの中で
僕の胸に手を押し当てるたびに「ファントモ」と
自分の胸に手を戻してまた「ファントモ」と言った
あまりに強く叩いたせいで
ダフネの白い胸は見るまに赤くなる
「ダフネ」と僕が声をあげても反復は
止まりそうもない
幾度となく繰り返されるファントモを止めようと
仕方なく僕がダフネの細い腕をつかんだので
勢いこんでいたダフネはバランスを失って
前にのめって
僕の頭に両腕でしがみついてきた
首を折られるかと思うほどの力で
ダフネの胸と腕ごしに見上げると
ダフネの上気した頬に
湯気とも涙ともつかないものが
幾筋も伝い落ちていた
繰り返されたファントモにどういう意味があったのか
僕にはわからない
たぶんそこには言葉としての意味はなかったのだろう
動作と声がこれほどまでに反復されるということ以外の意味は
僕はしがみついているダフネを抱き上げて
濡れたまま二階の部屋まで運んで
ベッドに降ろし
厚いタオルにくるんで寝かせた
片腕だけを出して僕の右手をつかんだダフネは黙り
静かになった
僕の中に幾重にも彼女の谺を響かせたまま
従うのならこの谺のままに?