嵐の荒(すさ)ぶ日は | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある


 嵐の荒ぶ日は美しい
 雲は厚く空は暗い
 木々は身をよじって
 折りとられないように自分を守るが
 負ければ枝を地に与えて
 そこに新しい明日を植える
 鳥は乱流の中を迷わずに飛び
 叩きつけられれば
 翼の形象を静かに残し
 雨は地上の汚れを押し流す
 花は風にさらわれて去り
 濁流の川は地を削り
 海は陸を侵略する
 都市を覆った雷雲が
 光の通知を叩きつける
 生きることの感触を
 これほどまでに
 凄まじくもたらすものは
 他に何があるだろう

 嵐が去れば木は静寂を取り戻すが
 地上で人は折れ落ちた枝を踏み
 吹雪のように泥を彩る花びらと
 潤った泥濘(ぬかるみ)が一面に展がる
 空は碧々とのびやかに歌い始め
 陽の光がだんだんと空気を満たしていく
 浜辺は黒く濡れ
 海は波打ち際に
 さまざまなミルや海苔やテングサ
 若布や黒海布(クロメ)を打ち上げる
 どこから流れ着いたか
 見たこともない文字を書いた空き瓶と
 忘れ去られていたブイや
 時には色あせた人形たちを
 届けてくる
 まだ木の船が海洋の王だった頃ならば
 難破した船の
 折れた舳先や見事に屈曲した船体のかけらを
 もたらしたことだろう

 それらの中をまだ泡立ちのさめない波が
 するすると行き来して
 奇妙に澄み切った海水が
 陸に残された海の泡を洗っていく
 荒ぶ波と風と雨がこぞって
 海と陸が何であったかを教えてくれるのだ

 浜では嵐を見送った漁師たちが
 絡まった網や折れた海苔粗朶を片付け
 漁の備えを始めるために三々五々集まってくる
 
 その人だかりの声高に話す男たちの中に
 モーゼの亡骸があった
 波に洗われた白い毛は海に清められ
 豊かだった尾は潮にとりまとめられて
 閉じた目の周りには平和が
 長く与えられなかった静寂が広がっていた
 わずかに開いた口から
 象牙色の歯が笑ってでもいるかのようにこぼれ
 逞しかった四本の足は
 奇麗にそろって眠っていた


 夜明け前ダフネが暴れる音で僕は目が覚めた
 犬の習慣を知る家の主は玄関の扉を施錠しなかったので
 モーゼが出て行ったからだった
 ダフネの温かな寝床
 やさしい父親のようなモーゼが消えたことを
 目の当たりにしたダフネは
 傘立てを倒し靴を投げ散らし
 花を生けた花瓶を割っても止まらず
 挙げ句の果てには
 蜜蝋のようにやわらかな額を扉に打ちつけて
 無理矢理に押さえ込もうとする僕の手首に噛みついて
 犬のように唸った
 その嵐が過ぎ
 死んだように動かなくなったダフネに
 毛布を何枚もかけ
 僕は僕の素晴らしい恋敵を捜しに家を出て
 モーゼがまた沖を目指しているはずのところまで


 老いた漁師らしい男が嗄れた声で言った
 「とうとう逝ったか」と
 男たちの足下に僕は跪きモーゼの長い鼻を撫でた
 「俺が葬ってやろう」と四十過ぎの
 屈強そうな男が言ったので
 僕は見上げて聞いた
 「どこにですか」と
 モーゼを崖の上まで抱きかかえて帰り
 庭に
 海を望む庭に埋めてやりたいと思ったが
 すぐに
 そんなことをすれば
 動かなくなったモーゼをダフネが見るだろうと
 男は「決まっているだろうが」と
 よく日焼けした腕で海を指した
 「沖まで運んで沈めてやるのだ」

 それが約束の地であるならば
 そうすればいい
 不自由な陸地の土の下には
 モーゼの眠る場所はないだろう
 モーゼがなぜ節を曲げダフネに従ったのか
 僕にはわからない
 それはダフネの持っている何かのためだったのか
 それとも
 この海辺で過ごした長い年月に疲れた者が
 その最後に思いを託そうとした相手が
 うら若きダフネだったのか

 僕は風の冷たさに身震いした
 僕にはまたひとつ
 ダフネに言うことのできないことが増えた

 
 嵐の荒ぶ日は美しい
 時を費やして生きた命の最後の一息を
 長い願いを叶えようと燃やしては
 軽い一吹きで消し去ってしまう
 そして嵐の残り香は
 束の間しか残らない