午後の四時を過ぎた頃
まるで台風の目にでも入ったかのように
風が止んだ
雨も薄れていく雨雲とともに小降りになって
傾いた太陽が顔を出し
家の白壁を肌色に染め始めた
ダフネは期待に満ちてガラス戸を開け
庭にゆっくりと出て
海を眺め始める
海はまだ白く泡立っていて
陸の周りに迫ったままだったが
風が凪いだせいか
波音は弱まってレースの
テーブル・クロスのように陸を包んでいた
嵐は去ったのか
予報ではまだこれから激しくなるはずだった
掻き消えた雨雲がまた急襲するのだろう
ダフネがあまりに身を乗り出して
レースの海を見つめているので
その泡立つ波頭のそばにダフネを
連れていきたくなった
こんな突然の凪
いつもの僕なら海に近づくことはしない
まして小さな子を連れて
でも嵐のせいか
僕の保守的な安全感覚は麻痺していた
ダフネに「行くか」と言うと
答えもせずに家を回って門の方へ走り出した
膝までもある
船員の着ていそうな粗いニットの分厚いシャツを
借り着していたダフネはまるで
風に飛ばされる凧のように
道を駆け下りていく
肌色の陽が染めていたのは白壁だけでなく
泡立つように近づき一気に広がってくる波頭も
淡く染めていた
ダフネの白いニットもダフネの白い頬や足も
波打ち際をダフネが走る
何か歌うのかそれとも興奮のあまり叫んでいるのか
ダフネの喉はピュウーピュウと鳴った
まるで津波がくる前のように
潮が遠くまで退いて濡れた砂が広がる
ダフネがその束の間の領土を深追いしないように
ときどき僕はダフネを捕まえて抱きかかえ
海から遠ざけた
そして時には
僕の腕に抗って暴れるダフネを
濡れた砂に抑え込まなければならなかった
そういうときのダフネのか細いはずの
腕や足は強靭な鋼のように抗った
そんなとき
全く予想もしていなかった
大きな塊が物凄いスピードで
ダフネに近づいてきた
抑え込んだダフネの手を引っ張って
立ち上がらせようとしていた僕の目の端に
唸るように広がる白い塊
モーゼだった
彼は人を襲ったこともなければ
自ら近づこうとしたこともない
けれどこのときばかりは
その長く保たれた掟は破られ
僕はモーゼの体当たりを喰らって転び
起き上がりかけのダフネを
モーゼは押し倒した
ダフネは波打ち際の波の中に倒れて
波を浴び顔は水面の下にもぐって
苦しげにもがいている
両腕が浅い水面を何度も叩く
もう少しで僕は長い知り合いのこの野獣を
蹴り倒してしまうところだった
それをさせなかったのは
泡立つ波頭の中から伸び上がったダフネの
白い両腕だった
うぶ毛が濡れて光る腕はまっすぐに伸び上がり
モーゼの太い首筋を抱きしめた
まるで以前から知っていたもののように
繰り返し腕がモーゼを包み
それからダフネは両足を水中から撥ねあげ
振り下ろす反動で上体を持ち上げた
モーゼはダフネがつかまって立ち上がりやすいように
首を下げてじっとしていた
孤高のモーゼがダフネに近づき
まるで従者か長い友人のように
ダフネに頭をすり寄せている
ダフネが飼い主の一家の誰かに似ていたのだろうか
でもモーゼの目は近づいてみると白濁し
視力が保たれているのかさえわからないほどになっていた
あとはダフネの叫ぶような声と
花のような香りが
モーゼを揺さぶったと考えるほかはない
退いたはずの潮が戻り
真っ黒な雲が空を覆い始めた
見上げる顔に音を立てて大粒の雨が降ってきた
僕はダフネの肩を強く抱いて
上の道への登り口の方へ押しやった
ダフネは右手をモーゼの方に伸ばして
モーゼの首をつかみたがった
届かないと知るとダフネは暴れた
「だめだよ ダフネ
こいつは付いてきたりはしない奴なんだ」
そう言いながら僕はダフネを抱きかかえて歩いた
そのときだった
僕が出会ってから一度として破られなかっただろう掟が
もう一つ破られた
モーゼが後に付いてくる
老いたのか
譲ることのない孤高のモーゼ
それを見たダフネの力はすーっと抜け
僕の腕に絡まった葦の束のように静かになった
もうダフネを無理やり抱きかかえている必要は
僕にはなかった
とうとう家までついてきたモーゼを
ダフネはしっかりと抱いたままだ
さすがにモーゼはすぐには家の中には入ろうとしなかった
夏の家として作られた家の庇は長く
雨に打たれることは防いだが
風は凶暴に吠え始めていた
けっきょく
僕たちはダフネとモーゼを急き立てて
雨と風が波のように白く荒れる外を歩かせ
玄関に招じ入れた
慌てて物置から引きずってきたマットレスの上で
哀れな恋人たちが寄り添って眠るのを
ストーブが温め続ける
そこで着替えさせた大きなタオル地のバス・ローブと
モーゼの白い毛の中で
ダフネは眠っている
「しょうがない ここで一緒に酒でも飲むか」と
玄関の板の間に座り込んだ家の主は
僕の顔を面白そうに見て笑い
「今夜は深酒だな かわいい恋人を老犬に奪われた青年と
恋について語るのもいいだろう」
と言った