モーゼはまだ生きていた
さすがに白い毛はしなやかさを失っていたが
その他のモーゼらしい特徴は失われていなかった
鋭い眼光は遥か前方を睨み
厚い胸板は風に抗していた
仲間を率いる巧まざる威光
自らは約束の地に辿り着くことを許されず
海に妨げられて
僕がモーゼに会ったのは数年前のことだった
壮年の盛りの勢いに満ちた姿は神々しくさえ見え
海辺を目的もなく歩き回っていたとき
遠くからモーゼは浅い川を渡ってやってきた
決して人に媚びることのない高い鼻
それだけでも他を圧する大きな体躯
なぜか僕の傍までくると
モーゼは立ち止まって数歩のところに座った
こちらを見るわけではない
海を
ちょうど今日のように荒れた海を
まっすぐに見ていた
子どもたちが珍しそうに
手を伸ばしてモーゼに触ろうとしても
モーゼはされるままにして
身じろぎ一つしなかった
たぶんその苦悩の歴史のせいで
モーゼは自ら人に近づきはしなかったが
近づく者を拒むことはなかった
長く白い毛足の彼に
モーゼという名を与えたのは僕だった
モーゼは海をひとしきり眺めると
太い足で立ち上がり
波打ち際を超えて海に入って行き
まっすぐに
沖を目指して泳ぎ続ける
浜からは姿が見えなくなるまで
モーゼは進み
やがて出て行ったときと同じように
まっすぐに泳ぎ帰り
力尽きたように浜に倒れる
その無意味な
シジフォスの営みを毎日繰り返して
生きていた
そこに止め置かれた者の生を
小さな入り江の浜辺で僕は
毎日のようにモーゼに会い
不思議な邂逅はやがて
僕たちの決められた儀式のようになり
僕はモーゼと触れ得ない距離を保ったまま
友情を交わした
モーゼがどうやって命をつないでいるのか
今も僕にはわからない
彼は一度も僕の差し出したパンを受け取ったことがない
それから僕がこの入り江に来るたびに
僕はモーゼに出会い続けた
僕が去るときもモーゼが悲しそうな顔をしたことはない
まるで永久にこの海辺に止め置かれるものと
確信しているようだった
今朝の
そのモーゼは老いて足取りも危うげになっていたが
彼はまだ海と対峙し戦い
しかし勝利することなく
波打ち際に戻された
地元の人によれば
モーゼの主はモーゼが船に乗るのを拒んだために
彼を海辺に老いたまま海を渡って去った
そのことをモーゼは理解しなかったのか
あるいは理解しても譲らなかったのか
この海辺にとどまって
約束の地を求め続けている
取り残された者の生き方を考えるとき
僕はいつもこの堂々たる犬の姿を思い出し
その荘厳とさえ思える生き方に頭を下げながら
これはモーゼだけが背負うべき定めだと
自分に言い聞かせる
今朝の彼を見ればその戦いが終わるのは
もうそれほど遠くない日になるだろうと思う
風が急に哮るように強まり出し
波が壁のようにせり上がって
山のように崩れ落ちる
嵐がさらにモーゼを阻み始めた
神はなぜモーゼをここに止め置いたのか
大粒の雨と
砂を巻き上げる風に負けて僕は立ち上がる
僕もモーゼを置いて去る者だった
花のダフネに
モーゼの壮絶な生は似合わない
その花は約束の地で咲き誇らねばならないと
僕は願うように思った