二重写しの心 | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある


 もともと心は複雑な二重構造をしているのだろう

 僕が誰かの心を考えるとき
 あるいは心があると感じるときは
 その誰かの表情や顔の色
 手や足の動きから心というものを感じ取る
 けれど物でもなく目にも見えないのだとしたら
 それは僕らの五感ではとらえられないから
 心を感じるのは
 心を直接に感じるのではないはずだ

 直観で心を感じ取っているように思えるけれど
 そんなことをできる目や耳を僕らはもってはいない
 かすかではっきりとはしない手の動きや
 目の動きからその誰かの意識を感じ取る
 僕らはその誰かの目を見ることだってできる

 つまりは相手の行為を僕らの意識に取り込んだとき
 それを心と感じるのだと言ってもかまわない
 それはある一瞬の中で起きることではなくて
 気がつかないほど短い時間の中の
 小さな身体の動きの変化から心を感じたと思うのだ

 他人の目が何かを見ているとしたら
 見ているのはその目の奥に住む小人だと
 考えてもおかしくなはい


 実に同じように僕らは自分の心を
 自分の行為や表情に
 震える声や震える身体
 熱い身体や苦しい息に感じ取る
 でも僕らが自分の目を見ることはないように
 僕らは身体の中の感情を
 見るのではなくて感じるだけだ

 あなたが日頃何かを見て心が揺れたとしても
 そのあなた自身の目を見ることはないはずだし
 その奥から目を通して世界を見ている小人を感じることもない
 目を通してなんて感じずに
 ただ僕ら自身が世界の物事を見ていると思うのだ
 でもその物事を見ることは
 心の一部なのではないだろうか

 
 ほかの誰かの心は表情や目の動き
 身体の動きの向こう側の奥にあると感じるけれど
 それでもそう感じる根拠は
 僕らが見ている
 僕らに見聞きできる行為や表情からそう感じるだけで
 僕らが自分の心について感じることとはすごく違うのだ

 言うならば僕ら自身にとって心を感じることと
 僕らが誰かほかに人に心を感じることとは
 似ているようでも実はとてつもなく違うことなのだ
 僕らは他人の心を行為の向こうに感じるが
 僕ら自身の心は行為のこちら側に感じている

 他人の心は目に見える姿の中に見えるけど
 自分の心は目で見ることはないものの
 身体の内で感じ取る変化に感じとる

 他人の心は目に見えないというけれど
 そう言葉で言うのなら
 実は自分の心の方だって
 いや自分の心こそ目に見えない

 それほどに
 自分の心を感じる感じ方と
 他人の心を感じる感じ方は異なっていて
 にもかかわらず
 僕らはどちらにも寸分違わぬ同じ
 「心」という言葉を当てる
 だから
 「心」がわけの分からないものになる
 つまり心の二重性は
 実は言葉の至らなさによるものなのだと僕は思う

 自分の心を感じる感じ方と
 他人の心を感じる感じ方は異なっているのに
 僕らは「心」という一つの言葉で
 外から見た他人の心と
 内で感じた自分の心とを
 両方の場合を
 見事に重ね合わせつなぎ合わせ
 とても巧みに
 たったひとつの心を作ってしまう
 それは気づかぬうちに
 仕立てあげられた外と内のパッチワーク
 ほんとうは
 切れているメビウスの帯

 誰も人の心を身体の中から感じることはなく
 自分の心を身体の外から見ることはないというのに


 でも
 ただの一瞬だけ

 遠くから見ていた他人に触れて
 肌の温かさや湿り具合や
 引きつっている筋肉の動きや
 荒い息を感じると
 その人の心の近くにいるように
 その人の心をじかに感じ取ったように思うのだ

 そうやって僕らは一つの身体になるからこそ
 一つの心になる

 離れればまた
 僕らは外から人の心を見るだけになる

 その内と外との繰り返し
 生きているからこそ起きる反復が
 僕らが心と呼ぶ
 二重写しの
 ほんとうは異なった二つの時に写された
 二重露光の写真なのではないのだろうか