未踏がそろそろ時間だという顔をしたとき
誰かがAさんに「クリスマス・イブを」と
Aさんはかすかに苦笑いしたように見えたが
グラスをもった手を軽くあげてOKサイン
でも笑ってしまった
スイング利かせすぎの
まるで演歌みたいな弾き方で
それでもリクエストした人は
しみじみとした顔で聴き終わると
すごくまじめな顔で拍手する
未踏が立ち上がったのと
悪戯を少し後悔したのかAさんが
「未踏 歌ったら?」と言ったのが
ほとんど同時だった
この季節には定番の名曲になってしまったあの歌は
「きっと君は来ない ひとりきりの」と
歌うのに
Aさんはそう言ってさっさと老紳士のテーブルへ
未踏はピアノなしにクリスマス・イブを歌いだす
あの歌は言葉は悲しい歌なのに
なぜか人の心にロマンチックな灯をともす
それがクリスマス・イブのことだからなのか
キリストを信じてもいない日本人のクリスマス
それは師走という一年の終わりでありながら
何かが再び心を通わす復活の日のイメージがある
未踏が
「かならず今夜なら言えそうな気がした」を
すごくゆっくりと歌ったとき
僕はAさんの口がSilent nightと歌ったのを
見逃さなかった
未踏はそんなAさんの方を見てはいなかったし
僕の方を向いてもいなかった
そのときの未踏はいつもの
どこか遠いところを見て歌う未踏になっていた
休憩の後はいつもこういう時間なのだろうか
特に決まったプログラムがあるわけではなく
ディナー・ショーというものでもなく
気ままにその日に選ばれた歌を歌うのだと
いやそもそも第一部(?)からして
プログラムなんかないのだろう
Aさんか未踏かが歌いたい歌を歌い
弾きたい曲を弾くだけなのだ
それが
そろそろ満腹し酔いが回った幸せな客たちの
もっと幸せにという欲張りな雰囲気に煽られる
次々に口々にリクエスト
Aさんもピアノに戻って弾きはじめる
そうやって何年となく続いてきた夜
僕は初めてそこにやってきた異邦人だった
けれど
さっきのLa Tendresseが「君も仲間だ」と
言ってくれているのだと僕は思う
少しずつ帰っていく客が出始める頃
後ろのテーブルで一人飲みつづけていた
ごま塩頭の男が「マライヤ・未踏~」と
半分呂律が回らなくなった口で言う
するとAさんもフロア係の陽気なおばさんも
急に笑い出し未踏も照れたように笑う
きっと常連にしかわからない何かがあるのだろう
「未踏ちゃん
今日は素敵なお客さんがいるんだから」と
笑いをこらえながら言う 「ねぇKさん」と
同意を求められても僕には何のことだか
Aさんがピアノに戻って
静かでゆっくりしたイントロを弾く
照れ笑いしながら未踏が歌いだすと
Aさんは突然立ち上がって
すごいテンポで鍵盤をたたき始める
驚いたことに未踏が早い身振りで踊りだす
歌に合わせて歌いながら
それはまるで
身体にぴったりの青いドレスを着たまま
子どもにかえった未踏が大人の歌手の身振りを
まねてでもいるようだ
こんな未踏を見たことがない
魅入られた歌い手ではなく
まるで歌と遊ぶように
バックダンサーみたいに激しく
両肩を交互に揺らしながら
ああこの歌はAll what I want for Christmas
舌を噛みそうなアップ・テンポで歌いつづけ
踊りつづけた未踏が最後になって
可笑しいくらいスローに
All what I want for Christmas is youと繰り返し
長く伸ばしたYOUのときに
僕のほうに向き直って手を伸ばす
それを薄目で見ていたごま塩頭が
「おいおい 今日はおじさんには言ってくれないのかよ」
と言うと どっとまたみんなが笑う
未踏は確かに僕の目を見つめるように
その最後の歌詞を歌ったのだ
そして
それをみんなが幸せそうに眺めて微笑んでいた
なんていう夜なんだ
と僕は思う
そうやって夜は更け
ごま塩頭がテーブルにつっぷして眠った頃には
もう客はほとんどいなかった
「毛布出してやってくれ」と言ったのは
終始楽しそうに笑っていた老紳士で
そのまま杖でぐいと立ち上がると僕に
「まあ夜はこれからだが私はそろそろ寝る
ごゆっくり楽しんでいってください
Aも今夜は乗っているようだから徹夜かもな」
老紳士がここのオーナーだったのだ
時間はどんどん流れ
「なあに 私も昔はこれが着られたのよ」と
未踏が着ていた身体にぴったりのドレスが
フロア係のおばさんからのプレゼントだったこと
なぜ未踏がさっきの曲では踊ってしまうのか
それからMusic Box Dancerも未踏が歌い始めた頃に
Aさんが未踏のテーマにしてしまったのだということも
教えられた それは まるで一晩で
何年間ものレスポワールの
レスポワールとAさんと未踏の歴史を
新参者の僕に教えこむために
密度高く用意された本のようだった
それは「希望」の夜だったと僕は思う
たとえ未踏のis youと伸ばした手が
中学生の頃のものまねダンスを
みんなが愛してプログラムのひとつにして
しまったものだとしても
いつの間にか疲れてソファで
毛布にくるまったまま眠ってしまう頃
未踏は僕の隣で同じ毛布の中
静かな寝息をたて始める
Aさんはまだ一人でピアノを弾いていた
何の曲だったか
それを聴いているうちに僕も
幸せな眠りに落ちていき
それは「希望」の夜だったと重ねて僕は思う
まだ続くピアノの曲の中で
眠そうな目を開けた未踏が
「K あなたが好き」と言ったのが
飲めないワインを勢いで僕と乾杯した
未踏のうすれゆく意識が言わせた
言葉だったとしても
たしかに未踏はこの夜
僕とともに
僕のそばに
いた

こめんとらん
