未踏からの招待状(7) | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある


 蝋燭に幸せの火がともると悲しみの火がひとつ消え
 悲しみの火がともると幸せの火が消える
 まるで二本の蝋燭を同時に燃やすだけの
 酸素が世界にないかのように


 まだ寝足りない未踏と僕
 それから
 ずっとピアノを弾いていたのか
 それともどこかで眠ったかした
 Aさんと 三人で朝食を済ませた

 Aさんはよく笑うが余りおしゃべりではない
 きっとAさんも未踏のように
 ピアノだけを表現として生きている人なのだろう
 僕も何を言ったらいいのかわからなく
 三人ともそろって無口に食べた

 その日
 外は快晴で海が真近に迫っているように思え
 風は凪いだままだった
 港で目を覚すのは家で目を覚ますのと
 格段に違う気がする
 目を覚ますとすぐに海がそこにある
 そういう感覚は僕の大好きな感覚だった

 「じゃあ また明後日の夜」と
 Aさんと別れ際に未踏が言った
 Aさんはニコリと笑うと
 「ずいぶんと歌えるようになったなあ」とポツリ

 僕は「また明後日」じゃなかったから黙っていたが
 昨夜のこと ピアノのやさしさや
 未踏があんなに生き生きと歌えるのは
 Aさんのおかげだと
 何かそんなことを言いたかったが
 いろいろな矛盾するような気持ちが重なりあって
 うまく言葉にならず
 「楽しかったです」とだけ言おうと
 なのにAさんの笑顔を見て僕の口が言ったのは
 「幸せな夜だった」

 それはある意味正直過ぎる告白
 まるで子どもみたいな台詞を聞いて
 Aさんはまた微笑んだが 何を思ったのか
 僕の隣に立って僕の肩に腕を回して言った
 「俺もだよ 幸せな夢を見た」
 ウミネコがにゃあと鳴いて
 未踏は肩を組んだ僕たちを
 珍しいものを見るような目で眺めていた

 未踏は何を考えていたのだろう
 未踏はAさんが死ぬほど好きなのに違いない
 レストランの人たちはそれを知っている
 いや おそらくAさんがもっともよく知っているはずだ
 Aさんを見るときの未踏の大きな瞳
 まるで犬のようにAさんの言葉を聞く未踏が
 そうでないなんて誰も考えはしない

 でも二倍も年上で
 ということは二倍も人生を生きてきた
 父親と言ってもおかしくはないAさんを
 愛することがどういうことか
 二人をよく知っている人たちにもわからなかった
 何より未踏にもわからない

 そういう歯がゆい想いで
 Aさんでない伴奏者を探した結果が
 あの夕暮れの駅のギターとの路上ライブだったのだ
 ギターが巧い英文の先輩と意気投合し
 小さなバンドを作れれば何かが変わるかと思って
 小さなバンドは成功だったけれど
 そのまま続けることは
 未踏自身ができなかったのだと思う
 何が不足で?
 それはきっと深い息
 Aさんのピアノで歌うときには
 自然と大きく膨らむ胸がふくらまなかったのだ

 レストランの誰にも未踏にもわからなかったことが
 よそ者の
 そして未踏が好きな僕には 
 痛いほどよくわかる

 Aさんという
 僕から見ても素晴らしい人に出会った後で
 その「わかること」をどうしていいのか
 僕にはわからない


 未踏を家まで送ることになって僕たちは
 Aさんとわかれて歩き出す
 不思議に暖かい陽射しが満たす港の道を

 未踏が僕の腕に寄りかかる
 まだきっとAさんは僕たちを見送っているはずだった
 そうやってAさんに焼き餅を焼かせることなんか
 未踏は決して考えない
 考えられない人間なのだ
 未踏の矛盾が僕の胸をしめつける

 「どうすれば」と未踏がぽつりと言う
 「え?」と聞き返す僕の腕を未踏が強く抱きしめ
 それきり黙りこんだ
 30メートルもそうやって歩いたとき
 未踏が立ち止まって僕に真っ直ぐな目を向けて言う
 「クリスマス・イブ 会いにいきたい」と
 僕は当惑する それは僕になのか それとも
 
 「歌があるんじゃないの」と僕
 「その後で」と未踏は言ってから
 息を深く吸い込んでから付け加える
 「Aさんと話してみたいから
 それで その後で」
 僕は空いている方の手で自分の胸を押さえる
 ドキドキと鳴る心臓を抑えこみたくて
 それから「いいよ」とだけ言う

 僕にはそれしかできない
 もしも僕にピアノが弾けたなら
 何かもっと別のことができたかもしれない
 いや仮にAさんよりも
 素晴らしいピアニストだったとしても
 数年という時間をかけて醸成された
 美しい酒を造ることは僕にはできない
 僕にできる最大のことは
 静かに
 起きていく出来事に抗わず
 ただ静かに
 待つこと
 待って未踏の気持ちが何なのか
 Aさんの気持ちが何なのかを
 確かめて
 それに従順に従うことだけだ


 でも
 未踏がそうやって
 愛とは何かを確かめると決めたとき
 僕も未踏に負けまいと考えたときには
 すでに出来事は大きく動き出していた
 未踏を そして
 未踏の歌の力を知り尽くし
 僕たちを見送ったピアノ弾きの

 たった二週間ほど先の
 クリスマス・イブを待たなかった
 せっかちな決心で