未踏からの招待状(5) | 不完全な切り紙細工

不完全な切り紙細工

 誰も聴く人がいないのに歌いつづける歌がある
誰も見る人がいないのに踊りつづける踊り手がいる
誰も読む人がいないのに書きつづけられる言葉があって
不完全な切り紙細工を幾つも幾つもつなげていけば
そこに何かの絵が生まれるものと願う鋏がここにある


 人が歩く一生はきっと多くの起伏があって
 幸せなときもあれば悲しいときもあるんだろう
 未踏の今夜の歌はどちらだろうか
 音楽が止まって
 ほとんど自分の中に浸って僕はそんな
 らちもないことを考えていた

 「ほんとにねぇ」といつのまにか
 陽気なフロア係がそばに立っていた
 「あの人も不思議なひとだよ
 もう何年もここにいるのに何を考えてるんだか
 ちっともわからない」
 独り言のように言ったけど僕に
 話しかけているのは確かだった

 「ちょっとお邪魔するよ」と僕の前に座る
 なんでもピアノ弾きのAさんが
 この店にやってきたのはもう十年近くも
 前のことなのだそうだ
 すらりと背の高い綺麗な相手と
 食事にやってきた
 「そのうち何だか深刻な雰囲気になっちゃって
 お互いにそっぽを向いているんだよ
 それで急に私たちのところにつかつか
 やってきて『あれ弾いていいかな』」
 とオーナーが『いつか弾く人もあるかもしれない』と
 調律だけは欠かさなかったピアノのそばに行き
 さっさと弾き出したのだと言う
 「なんていう曲だったか 確かロシアの
 そうそうチャイコフスキーのなんか悲しい名前の曲を
 弾きつづけるんだよ そうしたら相手の女は
 さっさと席を立って出ていってしまった」
 それでもそのときAさんは弾くのをやめなかった

 「それっきり居ついちゃったのさ
 近くのアパートに転がり込んだままね
 それで時々食事に来ては弾かせてくれってさ
 お客さんたちにもだんだん馴染みになって
 けっきょくそれで今は食ってるんだけどねぇ」
 とおばさんは溜息をつく
 「オーナーがいいって言うわけだしね
 でもどういう人だかほとんど誰も知らない」

 そんな話をしているときに未踏がふらりと
 現れて馴染み客のそばを挨拶しながら
 通り過ぎて僕たちのところに
 「おやおやお邪魔だね ごめんごめん
 そう言や この娘もAさんが居てくれたおかげだった
 はいはい選手交代」
 
 「いいの?」と腰をおろした未踏に尋ねる
 まだ次があるのだろうし
 「ちょっとだけ」と未踏
 ほんとうに今夜は顔色まで明るく見える
 
 未踏に聞いたAさんのこと

 中学校の頃ここに家族と食べにきたとき
 それまで眠っていたはずのピアノを弾く人がいる
 こんなピアノを聞いたことなんてなかったと
 どういうジャンルの何という曲かわからないまま
 夢中になって聴いたという
 それから親にねだって日曜日とかに来るたびに
 Aさんのピアノを聴いた 食べるのも忘れて
 そうしてある日とうとう
 Aさんがボックスまでやってきて
 「ピアノがすきなの?」と

 その頃はすでに歌を習っていた未踏が
 Aさんの伴奏でまだ子どもっぽかった歌を歌ったのが
 お客さんにうけて
 最初は楽しいファミリー・ムードで
 みんなが拍手してくれるのが嬉しかったと

 でもそれが たまの日曜日から毎週に
 そして夕方までならという条件で店で歌うように
 なるまでに一年もかからなかった
 それからもう数年

 僕はその話をする未踏を見て
 はっきりと理解する
 未踏が愛しているひとはAさんにちがいない
 どういうつながりがあるのかはわからない
 でも歌が好きで生きているような未踏にとって
 Aさんは先生であり仲間であり憧れだった
 そうでないはずはなかった

 僕は未踏の輝く顔を眺めている
 幸せとは何だろうと考えながら

 ピアノにAさんが戻ってくる
 そのとき初めて僕はAさんの顔を正面から見た
 桟橋の男の人だった
 Aさんは自分のほうに目を向けた僕たちに
 にっこり笑い返してから弾きはじめる
 La Tendresse
 思いやり やさしさ という短い曲を
 あるいはそれは「やさしきひとよ」だったのかもしれない
 僕らが話し終わるまで
 何度も
 まるで僕までが愛されているようなやさしさで
 どこか食いたりず簡潔すぎると思える
 クレイダーマンを
 こみあげる熱い想いに変えてしまうピアノ弾き
 なぜ今その曲を






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