音楽は音を楽しむと書くのだけれど
人は歌に何を聴くのだろう
音 声 それとも 言葉?
そのすべてを聴くのだが
ときどき僕は
息を聴いているんじゃないだろうかと思う
音と声のあいだの
音が声になる前の?
いや違うな うまく頭の中でまとまらない
未踏は歌いつづける
ほとんど休むことなしに
ポピュラーなジャズ・ナンバーを
ぜんぜんポピュラーでない歌い方で
身体を動かすことなく ただ
呼吸のためだけに上半身が動き
やわらかなニットのドレスのおかげで
隠しようもない息をする胸の動き
あとは口と
かすかに裸の肩が動くだけだ
立ち尽くして歌う歌手
身体の動きで表されるはずの情熱も
すべて声に託される
いつもほとんど座って歌っている未踏が
立って歌う分だけ余計に
そのことが浮き彫りになる
歌うことのすべてを声のみで歌う歌手
僕は未踏の歌に何を聴くのだろう
ナイフもフォークもワインのグラスも
手に取る余裕がないほどに
未踏に引きこまれる
フロアもかすかに食器の音がするだけになる
未踏の歌を聴くために来た人も
そうでない人も息を呑んだ
気だるく流れ
僕たちの毎日の営みから
絶妙な距離を保っているはずのジャズ
煙草の煙に燻されながら
腐った酒を舌で転がしながら
疲れた頭で聞くはずのジャズが
潮騒だけを相手に練習した未踏の歌で
こんなふうに強く人をつかんでしまうのは
なぜなのだろう
未踏がどうしても人に焦がれ
人を抱きしめてしまうからなのか
未踏にとって
これは歌ではない
何かとてつもなく歌とは違うものだと
僕は思う
いつもどこか遠くを
僕の方でなくどこか遠くを見ているようだと
思っていた未踏の目 今夜は
ときどきまっすぐに僕を見る
見つめ返して僕は少したじろぐ
あの目は他の誰でもない僕を見ているときですら
僕の目も顔も身体すら見ていない
僕は自分の呼吸が見られているような気がして
震え上がる まるで
未踏の歌に自分の呼吸をつかみとられているようだ
と
今夜の未踏が
いつもの
気弱にさえ見えることのある未踏と違うのは
きっとここが未踏のほんとうの住処だからなのだ
何年も歌ってきた家
この店なしでは未踏というひと自体が
成り立たないのではないかと思うほど
今夜の未踏は熱く息をして生きている
休みの前の最後の曲を未踏が歌いきる
客たちは波のように拍手し唸る
未踏は頭をさげずに
ただ嬉しそうに笑う
その笑みはきっと客たちにとって
どんな平身低頭よりも深い感謝に見えるのだ
未踏が消えるあいだもピアノ弾きは
最後の曲をリフレインする
ほんとうに巧みな弾き手
あれだけ
ピアノをまるで玩具で遊ぶみたいに自在に
弾くのだから
歌に取り憑かれた歌姫を圧倒することも
できるに違いないのに
少し後ろに引き下がって
未踏があわてずに曲にのめりこんでいけるように
ゆっくりと弾く
立派なソリストがよい伴奏者であるとは限らない
でもこの弾き手はおそらく
どちらでもある
こんな場所でセミ・グランドを弾いているような
男だろうか
僕は未踏に酔い
この弾き手に酔った
そして何よりも
酔った僕に息を深く吸い込ませたのは
あまりにも見事に
ぴったりと合い続けた
この二人の音と声の
息だった

こめんとらん

