低い入口の天井で首を曲げるように立っていて
その横で未踏が待っていた
「ありがとう」とだけ言うと そばで
忙しそうに動いていた小太りのおばさんに
軽く頭を下げた
「ああ はいはい 未踏ちゃんの大切なお客様だね
ご案内しましょう こっちこっち」
未踏はちょっと手を振ってから消えた
ピアノが懐かしい曲を鳴らしていた
たぶんあれはアデリーヌのための・・・
中はそんなに広くはなかった
テーブル席20はあるかないかで
海の見える窓とは反対の奥にソファー席
「ほら あそこのベージュのクロスのテーブルよ」
と楽しそうな笑顔のおばさんが指さした
その席はちょうどセミ・グランドの鍵盤側
ピアノはたぶんステージになる空間の左手だったので
僕は歌い手を右頬の側から見ることになる
ちょっと緊張して座ると
すぐさっきのひとがやってきて
「夜はね ここのとこのメニューだけなんだけど
何にしましょう」
僕はとてもビーフにがっつく気分ではなく
と言ってポークじゃなんだかマヌケなような気がして
チキンのトマト・ソース煮を指さした
どきどきハートの僕にはお似合いのメニューだろ
「ライス?ピラフ添えもできますよ」「じゃピラフ添えで」
食べることなんかに専念できるわけもないと思ったから
「お飲み物は?」と聞かれて僕は少し戸惑う
見越したようにおばさんが
「ワイン ボトルでいいですね うちワインは安い黒猫だけ」
フランス名のレストランのワインはドイツ
なんかそれらしくって「はい」と笑ってしまう
オーダーはどうでもよくて
座る前から気になっていた
イージー・リスニングの帝王たちの曲を
もっと軽く でも少し哀愁色に鳴らしていたピアノ弾き
ちょっと疲れたツイードを着て
くわえ煙草で楽しそうに弾いている
たぶんしばらくはこの人の時間だな
それにしてもいい
いっぺんに好きになる
ときどき常連だろう入ってきた客に
アゴで挨拶して笑う
客の半分は常連でオフの船乗りか地元の人
でなければ港の夜を楽しみに来た
(この寒い夜?寒いからだよね言うまでもなく)
カップルか
店のオーナーとでも知り合いの老夫婦
僕のすぐ右のほぼ中央の席に
みごとに白髪の老人が背筋をピンと伸ばして
座っている テーブルにもたせかけた杖と
頬やアゴの深いシワが生きてきた年月を物語る
でも日焼けした肌と
おしゃれな上着は漁師とかじゃない 昔は
ナラした船乗りで大型貨物船の船長だったと言っても
誰も疑わない
おばさんが楽しそうに料理とワインを両手で
持ってきた頃には
ソファーの方は話し込んでいるカップル一組だけで
その前のテーブル2つ3つ開いているだけになっていた
あれきり未踏は姿を見せない
そりゃあステージがあるんだから
『でも オレの女だろ』とダンディ気取って
心の中だけで僕は言う
それも本当かどうかわからないこの頃で
ワインを自分で注いだら
もう少しで溢れそうになる
さすがに言葉はダンディで心は
チキンの僕らしい
ピアノがちょっと途絶えて
十分ほどでグラスを片手に戻ってきたピアノが
さっきの老紳士と可笑しそうに冗談を言い合っている
なんだ 時間は勝手に過ぎていく
どうすればいいかなんて考える暇もなく
僕の胸を少し絞めつけたのは
ピアノに戻ったピアノ弾きが弾きだした
Music Box Dancer
オルゴールの上の人形の踊り子を描いた
明るくて子どもっぽい笑顔思い浮かべる曲なのに
何度も繰り返されるうち どこか
悲しくなってくる
父親が残したCDで聴いてから大好きになった
あの曲で
それが流れると誰かが「待ってたよ 未踏~」と言う
それから
見たこともない青さのニットのドレスを着た未踏が
ほんのり化粧した顔で
カーテンの影から現れて
少しだけ笑ってピアノのそばに
まっすぐに立つ

こめんとらん

