梅雨ですね。

梅雨入りしてから雨が降らなくって、空梅雨みたいな感じでしたが、ようやく雨が降り出しました。ただしザーーーっと降るような強い雨ではなく、スーツのスラックスの折り目をじわじわとなくしていくような霧状の雨ですね。

この季節には積乱雲の発生から竜巻などが発生する可能性も高く、注意が必要ですが、今のところそういった心配もなさそうですね。

それでも油断は禁物です。最近の災害は想定外がつきものです。

沖縄では例年よりも9日も早い梅雨明けが宣言されていますし、関東地方も例年よりは早い梅雨明けが予想されますね。

昨年は5月の連休時に茨城県の北条地区で竜巻が発生して僕も発生翌日に独自取材させていただきました。

いずれにせよ、想定外の災害には十分注意をお願いしたいですね。



「茨城県北条地区竜巻の翌日」
http://ameblo.jp/yushima-tank/entry-11246658039.html


「ミドリ安全.comの雨・水害特集記事へ」
そういえば「八重の桜」で、顔面暴力と言われる小沢仁志が世良修造を演じています。小沢修造…だらしなく見えるだけの鬘が奇妙な以外は、ぴったりの役どころですね。世良は長州周防の生まれで武士の家柄ではありません(Wikipediaには庄屋の息子と書かれています)。元奇兵隊士です。

会津を守るために東北諸藩による「奥羽列藩同盟」が結成されますが、この盟主は輪王寺宮の北白川宮能久親王です。上野寛永寺で寛永寺貫主・日光輪王寺門跡を努めていた彼を徳川方が天皇の代わりにしようとしたのですね。徳川幕府は江戸開府当初から敵対勢力が京都の天皇を擁して倒幕運動を起こした場合に、徳川家が朝敵とされるのを防ぐため、擁立できる皇統を関東に置いたという説があります。

ところが彼は仁孝天皇の猶子でありながら何の力もありませんでした。この大分前に彼は慶喜助命嘆願の役を押しつけられ、危険な目に遭いながら東山道軍の有栖川宮熾仁(こいつも仁孝天皇の猶子?)がいる静岡まで行ってかけあうのですが、有栖川宮に相手にされないどころか馬鹿にされ、屈辱的な仕打ちを受けるのです。

輪王寺宮は実に可哀想な人で、この後、上野彰義隊の代表にさせられたり、彰義隊が敗れると仙台に向かい、前述の様に奥羽列藩同盟の盟主とされてしまうのですね。彼の最期も酷く惨めで私は好きですね。彼を描いた小説として吉村昭さんの「彰義隊」がありますので是非ご一読を。

おっと世良でした。彼は奥羽鎮撫総督府の下参謀(総督、副総督、参謀には公家が任命され、下参謀には武家の代表者が任命されました)として新政府軍の威嚇先鋒として派遣されました。ところが世良は会津の武力討伐に凝り固まっており、列藩同盟の重鎮である仙台藩や米沢藩は当初は弱腰で応対したものの次第に世良が疎ましくなってくるんですね。

仙台藩や米沢藩の会津救済依頼を一蹴するだけでなく、世良が当時秋田にいる大山格之助に宛てた密書には「奥羽皆敵と見て迎撃の大策に致度候…」と書かれていて、その密書を途中で奪った仙台藩士たちは驚きました。

それで世良を暗殺しちゃうんです。世良が宿泊していた金沢屋という旅館を仙台藩士や福島藩士らが襲撃します。布団の上から彼を押さえようとするのですが、世良はガバッとはね起きて短刀で応戦します。しかしあっという間に叩き落とされ、今度は拳銃を撃とうとしますが、発砲しなかったんです。

それから阿武隈川河畔に連れ出されて従者の勝見善太郎とともに斬首されちゃうんです。世良は首を打たれる前に河畔で筆を要求しますが拒否されてしまいます。辞世を書こうとしたのでしょうかね?世良修造のイメージって僕には新撰組の芹沢鴨とダブって見えちゃうんですねぇ。

その阿武隈河畔って僕が福島市に住んでいた頃に通勤通学のために父親と船で渡ったり、車に轢かれて死んだ愛犬をみかん箱に入れて流した川なんですが、世良の斬首場所は、ちょいと違います。合田一道さんの「日本史の現場検証」の世良修造殺害見取り図によれば、市内、長楽寺の右手、今の福島県青年会館や福島県教育会館の周辺のようです。
今朝、偶然、トランスジャパンアルプスレースの再放送を見た。人力による長距離マラソンのようなもの。でも、マラソンのようにギャラリーはいない。当然だ。日本海富山側から太平洋静岡側まで415キロを8日以内で北アルプス、中央アルプス、南アルプスの尾根を縦走するレースだからだ。スタートは富山県富山湾早月川河口、ゴールは静岡県大浜海岸。真夜中、漆黒の闇の山中を縦走する恐怖。時には道に迷う。コースは左右を深い崖が牙をむき、時には冷たい雨が参加者を襲う。

派手なマラソンと違って、地上に降りてきても見物人もいない。誰もこのレースの存在を知らないからだ。ゴールにも祝福する人も少ない。まさに孤独な戦い。単純だからさ、僕自身が見習うこともできない精神力および体力の凄さに感動しちゃったのである。

過酷なレース…似たようなものをどこかで見たことがある…と思ったら2006年までTV中継をしていた富士登山駅伝だった。TV中継はしていないが、現在でも毎年行われている。これも凄い。麓から登山道を頂上まで走って、急勾配の須走を経て、再び麓まで駆け下りてくるのだ。見所は須走。多くの参加者がタスキを渡す際に全力を使い果たすが、急勾配を疾走してくるのでそのまま吹っ飛んで気を失ってしまうのだ。

僕が知らないだけで、他にもこういった過酷なレースが全国にはあるんだろうなぁ。


元治元年7月19日(1864年8月20日)の禁門の変は1日で終わるが、戦闘によって発生した火災は翌々日まで続き、京都市中の大半を焼いてしまった。

火災被害に遭った京都民衆の怒りは、騒ぎを起こした張本人の長州藩にではなく、会津藩に向けられた。現在、残る史料には「長州藩追悼の許可を朝廷が認めてくれないので、業を煮やした会津藩が勝手に長州藩を襲った」しかも「京都のほとんどは会津藩によって焼かれた」という説が当時の京都の街に満ちていたと記されたものがある。

その歪んだ噂を形成した要因には、「下関戦争によって攘夷を実行した長州藩への同情と共感」にあった。攘夷をとなえる朝廷を無視し、横浜を開港して以来、日用品価格の高騰が相次ぎ、幕府への民衆の反感は募るばかりで、そのような中で排外行為に立ち上がった長州藩に民衆は喝采を送ったのだ。

京都の人々は元々朝廷と密接な関係にあるから仕方がないが、一般的にも民衆は常に自分の損得勘定で善悪を決める。そのために不毛なる争いを発生させ自滅への道を選択するという図式がある。

それはともかくとして…京都の人々の会津藩への反感をさらに高めた要因には、禁門の変後の落武者探しと、残虐行為だった。

勝海舟が日記に「薩・会の処置が暴に過ぎ正中(適正)をえざるものあり」「聞く、京地(京都)にて会藩、生け捕りの者、残らず斬首と云う。或いは私怨に出づるか」と書くほどだったという。

変後に逃走した長州藩兵が落命すると、京都民衆は、その死を悼んで彼らの墓に詣でた。これを「残念さん信仰」という。

不思議なのは禁門の変には薩摩藩も参加し、しかも彼らの働きによって禁門守護がなされたといってもいいのに、京都民衆は彼らを憎悪しないことだ。彼らも「薩英戦争や生麦事件」によって攘夷を実行したからだろうか?

常に薩摩藩は要領よく振舞う。彼らはしたたかであり、しかも人心を掴む力がある。そして僕は長州よりも薩摩が嫌いである。




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黄砂の組成成分

専門ではないのでWikipediaから抜粋転載します。

黄砂の組成を見ると、主に石英、長石、雲母、緑泥石、カオリナイト、方解石(炭酸カルシウム)、石膏(硫酸カルシウム)、硫酸アンモニウムなどからなる。日本の普通の表土に比べるとカルシウムの含有率が高いことが特徴の1つである。

粒子の種類によって度合いは異なるものの、黄砂は空気中のさまざまな粒子を吸着する。北京など中国の主要都市では、黄砂が増加する冬季にエアロゾル(気中分散粒子系、煙霧体)の量が増加するためその多くが黄砂であると考えられているが、黄砂発生地の土壌・エアロゾルと中国主要都市のエアロゾルの成分を比較すると、後者のほうが硫酸イオンや硝酸イオン、重金属である鉛の濃度が高くなっていた。また実験により、黄砂の粒子が触媒となって、二酸化硫黄ガスが黄砂粒子の表面に吸着されて反応し硫酸イオンになることや、中国主要都市の大気に多く含まれる硫酸アンモニウムが、湿度が高いときに黄砂に吸着され、黄砂中のカルシウムがアンモニアと置換反応して硫酸カルシウム(石膏)になることも分かった。

黄砂は上空を浮遊しながら次第に大気中のさまざまな粒子を吸着するため、その成分は発生する地域と通過する地域により異なると考えられている。中国・韓国・日本などの工業地帯を通過した黄砂は硫黄酸化物や窒素酸化物を吸着すると考えられているが、中国と日本の茨城県つくば市でそれぞれ採取された黄砂の成分調査によると、つくば市のものは二酸化窒素 (NO2) や硫酸水素 (HSO4) が増加しており、これを裏付けている。

さらに、通過する地域や気象条件(汚染地域への停滞の様子など)によって、同じ地点で観測される黄砂においても、黄砂中の汚染成分の濃度が毎回変化し、汚染成分の多い黄砂と少ない黄砂の2パターンがあることも分かっている。

2001年にアジアの黄砂発生源を3つに区分(中国西部・中国北部・黄土高原)して行われた黄砂の原子組成分析では、質量が多い順にケイ素が 24 – 30% 、カルシウムが 7 – 12% 、アルミニウムが 7% 、鉄が 4 – 6% 、カリウムが 2 - 3% 、マグネシウムが 1 – 3% ほどを占めた。このほか、微量のマンガン、チタン、リンなどが検出された[52]。また、北京の浮遊粒子状物質 (PM10) 及び長崎県壱岐の黄砂の分子組成分析では、どちらも二酸化ケイ素 (SiO2) が最も多く、次いで酸化アルミニウム、酸化鉄、酸化カルシウムなどが多く検出されている。なお、北京では大気汚染物質であるカーボン(すす)が多く検出されたほか、壱岐では北京よりも二酸化ケイ素の割合が高かった。

鳥取県衛生環境研究所の調査では、2005年4月に黄砂を含む大気中の成分を調べたところ、平均値に比べてヒ素が22倍、マンガンが13倍、クロムが7倍、ニッケルが3倍という高い数値を記録しており、黄砂の飛来時には大気の成分が通常とは異なることを示唆している。

また、黄砂飛来時に大気中のダイオキシン類の濃度が増加するとの調査結果も出ている。台湾中央研究院環境変遷研究センターの調査では、大気中の濃度が通常時よりも 35% 増加するとの結果が出ている。

釜慶大ダイオキシン研究センターが釜山で行った調査では、黄砂飛来時は粉塵中の濃度が通常の2.5倍(2001年)、人体への摂取量が通常時は約0.01pg-TEQ/kg/日だが、黄砂の日は0.028–0.038pg-TEQ/kg/日と2倍以上になる(2007年)、と報告されている。

韓国農村振興庁が黄砂を採取して行った検査では、地域差があるものの、細菌の濃度が通常の大気の7–22倍、カビの濃度が15–26倍と高かった。黄砂が飛来するときに細菌やカビを吸着し、それが繁殖しやすい気温や湿度となるためではないかとされており、人間や家畜・作物への影響が懸念されている[57]。また、韓国の研究チームが2003年、黄砂の飛来する前後に行った疫学調査では、尿の成分測定で多環芳香族炭化水素 (PAH) に属する発ガン性物質が平均で 25% 増加した。

黄砂の後に麦の病害である黒さび病が増加することは日本で知られていたが、研究により同じく麦の病害である黄さび病の胞子も毎年黄砂とともに日本に飛来することが分かっている。

また、採取した黄砂を培養液に入れるとカビ類、グラム陽性菌、酵母菌類などが検出されたとの研究報告がある。

大気中を進むうちに、日光に含まれる紫外線によって、細菌の一部は死滅すると考えられているが、化学物質が分解されて有害なものになることも懸念されている。