片思いしてたおばさんが働くレコード屋に会いに行く。以前は僕も働いていたらしい。久しぶりに会えたのにおばさんは僕を無視する様に働いている。そんなおばさんを気にしながら、かつての仲間2人と食事に行く。仲間の1人は女性で、トレンチコートの裾からキレイな脹ら脛が見える。もう1人は妙な手押し車キャリアを押す兄ちゃんである。彼は雨で濡れた地面をパチャパチャと音をたてて急ぐ。僕たちは、学校のように人が沢山往来する場所を横切って行く。
太平洋戦争も終わりに近い昭和19年11月7日、茨城県の大津浜から大きな気球が打ち上げられました。風船爆弾です。日本軍は極秘裡に「ふ号作戦」と呼んでいました。

昨年の震災による太平洋岸から流出した生活漂流物は米国本土に達しました。これは海流がアジア大陸側の西から東へと対流しているためです。実は風も米国に向かって吹いているのです。日本の上空、高度8000mから12000mには、秋から冬にかけて早い偏西風(ジェット気流)がアメリカ大陸に向かって吹いています。

この気流は時速200kmから300kmという非常に速い風なんですが、このジェット気流にうまく浮遊物体を乗せると40~50時間で米国本土に到着するんですね。

風船爆弾は、薄い和紙だけで作られた直径10mというかなり大きな気球に水素ガスを入れて膨らませて、その下に爆弾を吊り下げたものです。気球は和紙4~5枚をコンニャク糊で貼り合わせて原紙とします。これを細長く裁断してから貼り合わせて気球の形に仕上げるのです。

無人の風船爆弾というと、ありもしない神を拝む宗教のようにバカみたいなイメージですが、凄いのは上空の気圧に応じて自動的に重量を下げて一定の高度が保てるように高度保持装置が付いていて、気球を安定させるための砂袋のバラストを落とせるようにしていたことです。さらに風船爆弾は2k焼夷弾2個と15k爆弾を投下したあと、自動的に引火して焼失する構造になっていました。つまり証拠を消すのです。

風船爆弾は茨木県(大津)および福島県(勿来)、千葉県(一宮)の太平洋側の海岸から米国本土に向けて放球されました。

アメリカにはいくつも風船爆弾が到着したのですが、米国政府は秘密裏に対応しました。米国政府は日本から風船爆弾が打ち上げられたことを知っていました。カリフォルニア沖で風船爆弾の残骸が発見されたからです。米国政府が最も恐れたのは風船爆弾に細菌、または化学兵器を搭載していたらということでした。今考えても恐ろしいことです。米国本土に到達したと思われる風船爆弾の数は約1000個で、確認されたもので約285個といわれています。日本から放球した数は約9000個といわれていますので、約10%がアメリカ大陸に到達したわけです。米国内では原因不明の山火事がいくつも発生しました。すべて風船爆弾によるものでした。

風船爆弾による犠牲者は1件だけでした。オレゴン州ブライという田舎町で牧師の奥さんと日曜学校の子供を含む6人が亡くなっています。これを「オレゴンの悲劇」というそうです。

櫻井誠子さんの「風船爆弾秘話」(光人社)が2007年に発行されています。この本発行時にはテレビでもドキュメンタリー番組が放送されました 。

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「お晩は卵と、それから缶詰をひとつ開けて、トマトを切って……」
小母さんはいつもそれからはっきりと間を置いて、
「そうそう、あのお魚もありましたっけね」
とつけくわえる。
だからブラックバスを料理するのはいつも彼の仕事だった。
その家の台所はたまたま食用油のルートだけは妙にしっかり確保されていて、醤油がなく、砂糖がなく、メリケン粉がないときでも、食用油だけは大きな罐になみなみと入っていた。

途中略

その油をつかって、ブラックバスはいつも唐揚げにだれた。
金褐色にからりと揚がったブラックバスの眺めはすばらしく豪華で、彼は小学生の頃ときどき両親に連れて行かれた南京町の支那料理屋の食卓を決まって思い出した。
揚げられて、すっかりあかぬけて、うまそうになってからも、小母さんはまったくその皿を黙殺した。
「目つきがいやですよ」
と小母さんは頑として喰わず嫌いを通した。


正午に天皇の終戦の勅が放送された後‥‥‥。

彼は台所に立ってゆき、ブラックバスの料理にかかった。なにかしている方が気が楽だった。よく太った魚で、夜あけに釣ったので腹を割いてみてもなにも食べていなかった。
彼は魚に丹念に粉をまぶして行った。油は鍋で静かに音をたてはじめていた。
人の気配を感じてふりむくと、キリン(登場人物のあだ名)が立って、彼の手の動きを見ていた。
そして、ちょっとばつの悪そうな笑顔を見せると、
「料理もうまいんだね」
といった。
魚は鍋に入れると鍋いっぱいになり、尾の先が鍋のふちにかかった。
「火が少し弱くないの?」
とキリンがいった。
「とろ火でね、長い時間かけて揚げるんだ。それがコツなんだよ」
二人は黙って鍋のなかの魚を長いこと見つめていた。

魚は皿に乗せられるとすばらしく立派に見えた。キリンは古びたボストン・バックから罐詰を二つとり出した。ひとつは鮭で、もうひとつは驚いたことにアスパラガスだった。二人は鮭を晩に廻すことに決めて、わくわくしながらアスパラガスの罐を切った。

…………

ブラックバスというのは淡水魚だけあって、妙に青臭い魚です。外見は惚けたような受け口の顔をしていて、見た目は”緑色のスズキ”といった感じなのですが、なんだか食べる気にならないのです。一度、山中湖で釣り上げた30センチほどのバスを現場でしめて持ち帰って捌いたことがあります。美味そうな白身なのですが、骨もが太く、体全体が固くて、調理法もわからないので、ついに食べることができずにそのまま捨ててしまったことがあります。今では箱根や霞ヶ浦ではフライなどにされて定食化しているので一度食べてみたいと思っています。

神吉さんの作品は終戦日にブラックバスを揚げ、アスパラガスの罐詰を開けて食べるのですが、バスの唐揚げやアスパラガスの缶詰を食べる描写も、その味に関する感想もないので読んでいて不思議な感じです。

小説は戦争が終わった解放感から食後にフランク・シナトラのレコードをかけるのです。
「I'll never smile again... 」


釣り文学ってジャンル?があるかどうか知りませんが、そんなジャンルがあれば必ず入るであろうヘミングウェイの「二つの心臓の大川」のように、なんてことない食べ物が実に美味そうに表現されている作品があります。というと・・・釣り文学というかアウトドア文学というかグルメ(この言葉嫌い)文学というか・・・なんだかわからなくなっちゃった。ま、上記のような要素が入った文学作品が僕の好みなのですね。

小品ですが神吉拓郎(かんきたくろう)さんの「ブラックバス」は、実に品の良い、育ちの良い空気が全体に漂う爽やかな作品です。この作品も釣りをし、食べ物も出てくるので、前述のなんだかわからない僕の好みのジャンルに入ると思います。しかも池波さんや開高さんとは違って食通気取りや、ガツガツした野性味がないのが素晴らしい。

未読ですが神吉さんの作品には「洋食セーヌ軒」なんてグルメ小説(多分)もあるようですね。読んでみたいです。

さて、「ブラックバス」です。いまや生態系を破壊する”悪党”と思われていますが、バス本人には罪がないのです。こいつを無闇に放流して釣り場を増やしている人間こそが悪党なのですもの。

あ、また脱線しました。お話の舞台は終戦を迎える直前の箱根・・・だと思います。東京の家が焼けて、湖畔の別荘に疎開してきたとか、じいさんの友人がこの湖に初めてブラックバスを入れた・・・という記述がありますから箱根に間違いありません。

ブラックバスは赤星鉄馬という人が大正14年(1925)箱根にブラックバスを放流したのが、わが国におけるブラックバス移植の初まりです。ちなみにブラックバスと同様に外来魚害魚とされているのはブルーギルというピラニアみたいな魚ですが、こっちは今の天皇が皇太子時代にアメリカから15尾持ち帰って伊豆の一碧湖に放流したのが初まりです。

ありゃりゃ?長くなってしまいました。書きたかったことは簡単なことなのですが、文章が下手だから長々と書いてしまうのですね。気をつけましょうヽ(´Д`;)ノ

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本日から放送が始まる「大奥」では徳川将軍が女性という設定です。原作はまたまた漫画でがっくりですが、その”男女逆転”という発想はあまり面白くありません。だって本当の話ではないのですからね。

九代将軍の徳川家重は女性だったという説があります。こちらの方が本当に近い?から、ずうっと面白いです。

「九代将軍は女だった!”平成になって覆された江戸の歴史”」という古川愛哲さんの著書(講談社α新書)があります。2008年に出版されたちょいと古い本です。

家重は八代将軍の吉宗の子ですが、江戸学の大家・三田村鳶魚(えんぎょ)は「家重はほとんど廃人に近かった」と書いています。これによって、以降は「酒好き、女好きのしょうがない将軍」というのが通説となってしまいます。

家重は、生まれつきの病身で大奥に入り浸って酒ばかり飲んでいた。歩行困難で首をたえず左右に振っていたといいます。さらに言語も不明瞭で、家重の言葉を理解できるのは大岡忠光だけだったようです。

そんな家重でしたから外出も思うようにはいきません。家重のあだ名は「小便公方」でした。尿意が近く、公用で外出する時には、たとえ近隣であっても道筋に仮設便所を設けるというほどでした。

十一代の徳川家斉や十三代の家定(嫁は、あの篤姫)も下が緩くて評判でした。特に家定は狩に出た帰路、本所あたりで尿意に耐え切れなくなって番小屋に駆け込んで畳の上にジャーーーっと放出しました。その畳は縄で囲われて”公方様の尊い小便の跡”として町内で祝宴が行われたそうです。それでも家重のように「小便公方」などというあだ名はつけられませんでした。

残されたいくつかの情報から家重は「アテトーゼ・タイプの脳性まひだったのではないか?」と診断されているのですが、14歳時の書を見ると、筆を自在に使いこなし花押にもしっかりとした直線が引かれているために前述の病気は当てはまらないのでは?と著者・古川さんは書きます。

昭和33年(1958)から35年(1960)にかけて芝増上寺の歴代の将軍廟の改装工事が行われた際に、家重の遺体は保存状態が良好で、膝を崩して正座し、両手を前に揃えた姿で葬られていました。歴代将軍はほとんどが胡坐をかいた姿勢で葬られており、なぜか家重の遺体だけが正座でした。正室や側室の遺体は桂昌院のみが胡坐に近い姿勢でしたが、他の女性たちのほとんどは正座に近い姿で葬られていたのです。

家重の身長は156.3センチ。当時の男性の平均身長は157.1センチ。女性は145.6センチでした。家重の父親である吉宗の身長は六尺(180センチ)と言われていますが、その大男の吉宗の息子にしては身長が低いのです。母親は紀州藩の大久保八郎五郎忠直の娘おすま(深徳院)です。

家重の遺体からわかったのは「顔が大きいけれど細面、鼻筋の通った美しい顔、全体的に小柄で、常に歯ぎしりをしていた跡があった。上顎歯槽(歯並び)はV字形」と分析されました。

当時の男性の歯並びは一般的に「楕円形」で、女性はV字形でした。また顔が大きく全体的に小柄というのは当時の女性の体型だったようです。さらに家重は当時の男性よりも骨が細く、大腿骨の長さが5%も短かかった。これも当時の女性の特徴でした。

つまり家重は”女性っぽい”のです。

おっと・・・あとは興味のある方は本を買って、借りて読んでみてください。

ただし、古川さんの本は1冊全部が「家重女性説」ではなく、”平成になって覆された江戸の歴史”と副題があるように家康の密約、江戸時代に発生した大事件、大名たちの苦しみ、幕末の真相・・・などについて1冊にまとめられているので、がっかりしないでくださいね。