今年一番の音楽は? ブログネタ:今年一番の音楽は? 参加中

高校の頃に、もっぱら溜まっていたのは高田馬場界隈だったのですが、代々木にある予備校に通いだしてからは、渋谷の喫茶店も貯まり場として利用し始めていました。

渋谷の駅から恵比寿方向に少し戻った路地にその店はありました。パっと見てマッポあたりが目をつけない店構えが必須条件でしたが、その店は入ってすぐに螺旋階段があり、2階が客席になっていました。中途半端はワルの私達には最高の環境でした。

まだ若いその店のマスターはR&Bが好きな私達の好みに合わせて来店中にはソウルフルな曲ばかりを店内に流してくれていました。大学受験まで半年余りになった高校3年の夏、あの伝説的な曲ロバータ・フラックの「優しく歌って」が発売されたのです。マスターは早速レコードを購入、来店中の私達に「これいい歌だよ」とかけてくれたのでした。

ところが、肝腎のサビの部分で針が飛んでしまったのです。店内でドンドンと騒いでいたわけでもなかったので、再度最初からかけ直してもらったのですが、やはり同じところで飛んでしまいます。「あれ?レコードが悪いみたいだなあ。換えてもらってくるわ」マスターは買ったばかりのレコードを交換しに行ってくれました。

10分程たって、交換したばかりのレコードがターンテーブルに乗りました。静かな曲が店内に流れました。ところが、前のレコードとまったく同じところでまた針が飛んでしまったのです。マスターは再びレコード屋に向かいました。が、2度目の交換でも結果は同じでした。

ただとてもいい曲ではあったので、私と友人は帰りがけにそのレコードを購入しました。帰宅して自宅で聞くと、ちゃんと最後まで聞けるではありませんか。まあ、当たり前の話なのですが、なぜか渋谷の店では飛んでしまって最後まで聞けません。

今までで一番印象的な曲でもあり、たまにその曲が有線などで流れると、当時のマスターの困惑した顔と飛んでしまう部分を思い出してしまうのでした。
(18)で書いた平塚球技場の第2試合で起きたお話です。

「春眠暁を覚えず」M山さんの爆笑ミーティングが終わり次の試合は一角獣と京都の野生の雄豚の交流戦でした。私のポジションは一番後ろのバックジャッジ、主にパスプレイ時の判定やロングゲインを判定する位置です。
試合は野生の雄豚がリードしていました。関西のチームは関東のチームに比べて、比較的パスが多く、私のポジションは大忙しでした。雄豚が一角獣のレッドゾーンに攻め込み、一発TDを狙ったパスをQBが投じた時にそれは起こりました。

バックジャッジの位置は守備側の一番後ろのプレイヤーよりも後ろ、ボールの位置からは約25ヤード離れているのですが、プレイに反応してプレイヤーに近づくことになります。そのプレイの時もパスカバーをするSSに合わせて彼に近づいていました。パスは成功、タックルをかわしたレシーバーはエンドゾーンを目指します。

パスがキャッチされた後は、当然その後のブロックやタックル時の反則や得点の判定のためにレシーバーの周辺を見るために、そちらへ移動することになります。エンドゾーンの中で横に移動中、逆サイドのDBがタックルのためにリアクションして私の方に向かってきました。

その時にレシーバーは走るコースを変え、あろうことか彼も私に向かってきたのです。「あっ」と思った瞬間にはリアクションしたDBは私と激突しようとしていました。思わず手を突っ張ったのですが、私の手は空しくもDBの喉元へ。勢いのついていたDBは若干勢いは衰えたものの、そのまま私の上半身に激突しました。一瞬息が詰まって倒れ込んでしまったのですが、私はすぐに立ち上がることができました。かわいそうだったのは私に喉元を突かれたDBでした。倒れたまましばらく起き上がれず、結局タンカで運び出されてしまいました。

観客席で見ていたカミさんは、審判が巻き込まれて倒れたのは見ていたのですが、まさかそれが私だとは思っていなかったようて、試合後に「あら、あなただったの?」と言って爆笑されました。

男と女の決定的な違いは? ブログネタ:男と女の決定的な違いは? 参加中

マネージャー以外でアメフトに女性が関わることはできるでしょうか?私が知る限り女性でチームのコーチになったのは1人だけです。審判は過去に何人かいるようですが、私は同じクルーを組んだことはありません。最近ではアメリカの女子プロフットボールに島根大のOGが入団したというニュースがありましたが、彼女は現役時にプレイヤーをしていたそうです。


アメフトの審判は7人でクルーを組み、アンパイアを除く6人が「BOX IN」という外側からプレイを見る体勢を取ります。一見プレイヤーとの接触がなく安全なように見えますが、プレイの展開によってはサイドライン付近ばかりでなくフィールド内でもプレイに巻き込まれることがあります。男性の審判でプレイヤー経験者がほとんどを占めるのは、こうしたプレイへの巻き込みに機敏に対応できるから、ということは理由の一つと言えるでしょう。そんな経験者の審判でさえ、年に何度かはプレイに巻き込まれることがありますし、私なんぞは、巻き込まれるのを避けようとして転んだり、足をつったという経験もあるくらいです。プレイヤー未経験(現役時にマネージャーだったり、アメフトそのものの未経験者)の審判もいますが、やはり審判はボランティアであるという性格上、怪我しないようにフィールドに入るよりはタイマーなどのポジションになることの方が多いようです。


女性に関してはどうでしょうか。何年か前に北海道で女性審判がフィールドに登場した、という記事が出たことがありました。関東でも数年前までは女性の登録もあったようです。まあ、先に述べたようにプレイに巻き込まれる恐れであるとか、更衣室のやシャワーの問題があるので、フィールドで笛を吹くということは難しいのかもしれません。また、審判の技術習得は、やはり体育会の色彩が強い部分もあるので、結構怒鳴ったりしますから・・・・


私は会社で女性の新入社員が入ってきてもすべて呼び捨てしていますし、男性の新人とまったく同じ扱いをするようにしています。おそらく審判で女性の新人が入ってきても同じ対応をするとは思うのですが、相手がそれに順応してくれない限り、長続きはしないでしょうし、技術の習得も遅れてしまうということになります。女性差別の意識はまったくないのですが、ことアメフトに関しては、男女の決定的な違いというものは存在すると言わざるをえないでしょうね。

横浜に住んでいた時には、主に神奈川県内のグランドにアサインされることが多くありました。大学のグランドは、湘南の海神、横須賀の士官候補生、川崎の斧、横浜の台風など、公共グランドでは川崎球場や等々力スタジアムはまだアメフトには開放されておらず、横浜スタジアムや湘南ベルマーレの平塚球技場などに派遣されていました。

ある春のオープン戦で平塚球技場に行きました。その日は暖かい日曜日で、絶好の試合日和、観戦日和、審判日和でした。当時、公共会場でのみゲームクロックが使用されていたため、審判は8人、一人がタイマーです。

試合は順調に進み、第3Qも半ばを過ぎたあたりでそれは起こりました。プレイはパス失敗、当然時間は止まります。ところがゲームクロックはプレイ終了後もカウントダウンを続けていたのです。
タイマー担当は今や1部チームの監督をされているM山さんでした。フィールド内のクルーが彼に注目しました。なんと、彼はうららかな気候にクロック脇に置いた椅子に腰掛け、フネをこいでいたのです。

「お~い」と呼び掛けたレフリーの声に素早く反応したのはさすがでした。試合後のミーティングで「いやあ、寝ちゃったよ」の言い訳に全員で爆笑したのは言うまでもありません。

私が1年の春、雉達は30人以上の部員がいました。春のオープン戦が終わり、最後に紅白戦をやろうということになりました。なんせ当時の4年が1期なわけですから、OB戦をやろうにもOBがいないのです。

ラグビー部に交渉して朝霞のグランドを借り、2チームに分かれての練習を積み、当日を迎えました。もちろん1年ですから、他の誰よりも早くグランドに行き、ライン引きなどの雑用をしなければなりません。それでも先に購入した防具を始めて実践で着けられる喜びでみなうきうきしていました。私は白チーム、人数が合計で30人くらいですから当然両面です。HBとDBの兼任でした。


試合が始まってしばらくしても、お互い手の内がわかっているので得点をあげることができません。ようやく白チームがTDをあげ、TFP(当時は当然2ポイント)は私のカウンターでした。結果は・・・・・2ydsまではゲインできたのですが、あと一歩及ばず、TDの6点のみでした。


後半に入り、白チームの攻撃、ハドルで急造QBの#31I田さんのコールは「ノーマルTから左のスィープ」でした。私はリードブロッカーです。プレイが始まり、DEをブロックしようと向かっていくとI田さんの声が聞こえてきました。なんと「おい、ボール持て」。

ふと見るとフルバックとボールキャリアをやるはずのHBは右左を間違えて右オープンに展開しています。左オープンにいたのは私とQBのI田さんだけでした。しかもI田さんはディフェンスにタックルされそうになっており、私に声をかけているようでした。時間にすればほんのコンマ数秒のことだったのですが、I田さんの手からボールはピッチされ、私がキャッチ、左オープンを進むというプレイブックにないプレイが行われたのでした。


今でいう「リードオプション」なのですが、雉達としては初の試みでした。結果は3ydsほどのゲインにとどまったのですが、審判をされていた「5年」のA部さんが夏休み中にこのプレイを参考にして「ノーフェイクオプション」としてプレイブックに載ることになったのでした。


この年の最終戦で靭帯断裂となり、私はオフェンスではほとんど出場しなくなりました。もっぱらDBと練習時のQB、学連役のマネージャーとして残りの3年間を過ごしました。