次回は6月30日です! | whitetiger-7のブログ

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みなさんこんにちは。
平原ゆきこの父平原ゆきおです。
今回三日早く投稿させていただきます。今週末そして来週もよろしくお願いします。
さて、「ヒルティ幸福論」の第二章「エピクテトス」についての話の続きになりますが、ヒルティ先生のストア哲学の位置づけとして、「人格を養う自己教育と模範のうち、自己教育を達成することの出来るただ二つの方法は、ストア主義とキリスト教である。」という考えがあるようです。
これは、私達のような東洋人とかアジア人には、正直ピンとこない。おそらく中東の方々も同じくビビッとしないと思います。
これはヒルティ先生がヨーロッパのスイスの方だから、そう思われるというのが適当なんじゃないかなと私は思います。
ストア哲学のみならずギリシャ哲学とキリスト教は、入れ替わる格好でローマに大きく影響を与えています。
ローマはゲルマン、スラブ、アングロサクソン、ケルト、スキタイもルーシもヨーロッパにいるいわゆるコーカソイド全部(適語ではないが外見がヨーロッパ風の異人さん?)に影響を与えました。
だから、ヒルティ先生は自信を持って、そういうことを言うのだと思います。
それは正しいと思います。
でも私達のようなアジア人には、「あれれ、ヒルティ先生、宗教に洗脳されちまってら。」と思うのが結構いるんじゃないかなと思うんですよ。
それがさ、ギャップなんだよ。
グローバルギャップだよ。
つまりさ、多様化とはこういうことだよ。
東洋人にとっての自己教育とは、古くは家庭や日常にあったと私は考えています。
それは、いつからいつまでかというと答えられないんですけど、そこは欧米の感覚と違うところなんじゃないかなと思います。
だから、新渡戸稲造は「日本には、宗教教育がない!?それではどうやって道徳を教えるのか?!」と聞かれた時に答えられなくて、それが「武士道」を著するきっかけになったんですな。
俺達日本人にとっては、宗教と道徳はさほど関係ないんすよ。
皆が割と適当にルールを守って生活するんですよ。
こうやって書くと、「白人は家庭や日常でバイオレンスで野蛮なのか?より黄色人の方が、もともとは人格的に上のように言いたいのか?」と感じるかもしれませんが、それも違うんですよ。
それもちゃうちゃう。チャウチャウ犬なんですよ。
(鎖国していた江戸時代には、肉を食べる外国人に対してそういう偏見があったようである。)
日本人は単一民族だし、アジア人って似ているじゃないですか。
だから人種差別で戦争に発展することが少ないから、宗教で道徳観を作る必要がないんと違うかな。
そうだよー。
「俺の父は、英国の白人に殺された、、、あの白いのに、、、あの白い奴に、、、」と、「俺の母は、城のバカ殿に殺された、、、あのバカ殿に、、、バカ殿に、、、」と、では道徳観に与える影響は、、、
いや、そんな比較が出来るレベルの悲劇話ではないだろ!
おそらく、釈迦の教えが東に向かって行ってしまった為に、キリスト教やユダヤ教を?と思う人達の疑問を満たしてくれる存在が(あまり資料が知られていなかった)ヘレニズム哲学の最大勢力であるストア派のテキストに集中したという事でないかなと思います。
教えっちゅうのは、ひとつだけでは現実的にはよくないんと違うかな。
比較対象ができないじゃないですか。
今、イスラエルは暴走して自分達の敵を全滅しょうとしていますけど、ネタニヤフ首相をはじめとしてそういう考えの人は、兵法とか歴史は一応学んだけれど結局は身についておらず、主が「お前たちを選んだ。」という言葉を過大解釈して、「俺達は特別だー。特別だー。」
途中で「お前たち駄目。」みたいな事を何回も言われちゃってんじゃん。
聖書を暗唱したり愛読するのは、いいですよ。
でも、あれってあくまで人が書いたものだから、完全だとも絶対だとも言い切れないものです。
俺がネタニヤフ首相だったら、あれだけ人を殺した事を恥じて、外国に小さな家を建てて、おとなしく静かに暮らすけどな。
いや暗殺されるよ。
「されませんよ」
「なぜですか?」
正しい事をしたのでしょ〜!?
あ〜
駄目だな〜。
全滅作戦は〜。
遺恨が残るだろうなー。
ちょっと脱線しましたけど、ヨーロッパの歴史は戦争の歴史なので、ローマが変貌していく中で、人種が入り乱れてバベル状態のまま中世に突入していったという事になるのかな。
ただ、アジアも戦争の歴史であったし、仮にヨーロッパと同じ宗教観や道徳観だったとしたら、似たような歴史になったかもしれません。
キリスト教とユダヤ教の神は他の神を否定しますから、例えば和の心もそれに伴って変容する。
なんか、自分で言ってて、わからなくなってきた。
??
ストア哲学は、解釈によりますが超自然的なものがなく、現実的な制約の中で洗練された仏教(仏教にも色々ありますけどね。)に似ているんじゃないかな。
そう思うオリエント世界の人は、多いんじゃないかな。
ヒルティ先生自身、「幸福論」の中で、当時のストア哲学の資料がもっとあるようだが、入手できないという意図のことを書いてあります。
おそらくエピクロスも当時は、現代ほど知られていなかったのではないかなと思われます。
私、平原ゆきおはストアとエピクロスは、相互に関わって発展してきたという学説的立場に立っております関係上から、当時は現代ほどヘレニズム哲学は知られていなかったと考えることにいたしまする。
ヒルティ先生は、その生涯におかれまして教会と関わっておられました関係で、面白い話も触れて下さっています。
それはですね。
エピクテトスが奴隷だった時の主人エパプロディトスが新約聖書のパウロ書簡「コロサイ人への手紙」に出てくるエパフラス、それから「ピリピ人への手紙」に出てくるエパフロデト、と同一人物である。という説があった。
う、、、うーむ。さすがにそれはないかな。
可能性は14.5パーセントぐらいじゃないかな。
ただ、使徒パウロはローマに在住して、監視されていただか軟禁されていただかの状態ではあったけれども、訪問してくる誰とでも思う通りに話せた。と書かれてあるので、ネロ帝時代のギリシャ哲学者がパウロを訪問した可能性は、かなりあるでしょうね。


















ラジオ番組「ホワイトタイガーのミュージックタイム」の収録を6月18日にやりましたので、来週に放送が行われます。
6月27日木曜日の14時30分〜15時と21時30分〜22時の二回放送という事で、今回も山陰地方ダラズFM79.8MHzをよろしくお願いします!