モチベーションを生む種になる動機づけには
外的なものと内的なものがある。
 
内的なものに集中している状態を
ゾーンとか、三昧(仏教用語)という。
 
外的動機付けにも捉え方の影響があり、
結果の予期と効力の予期がある。
 
結果の予期とは、
行動の結果にいいものを予想すること
 
効力の予期とは、
自分がその行動を実行できると
信じていることである。
 
この両方が揃わないと
人はやる気を起こせない。
 
 
7/29(日)15時から 東京芸術劇場で
直感スケッチ×自信を引き出す!
イメージワークショップ♪

https://www.facebook.com/events/1557265717728928/

前提①:
自信は、他の人の反応から
得られることがほとんどである。
 
だが、他の人が
どう反応したかについての記憶は、
あなたの中に存在している。
 
 
7/29(日)15時から 東京芸術劇場で
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娘の音楽発表会があって、

小学校に行った。

 

そのまま引き取り訓練

(避難訓練的なもの)をやるというので、

校庭で待つ。

 

併設された小学校のプールでは

カモが一羽悠々と泳いでいて、

オナガが木々の天辺から天辺を

横切って飛んでいく。

(学校のプールって塩素キツクないのかな? 笑)

 

校庭の端には

フェンスの小屋があって

うさぎが二羽飼われている。

 

僕は、犬派?猫派?と

聞かれたら

うさぎ派だと答える人なので、

 

フェンス越しに

あのふわふわした毛並みを

触れないけれど、

ずっとうさぎを眺めていた。

 

さて、そこに

多分まだ幼稚園くらいの

男の子が近づいてきた。

 

多分そんな子が多いのだろう。

フェンスの前には、

 

「餌をあげない、

大きな声を出さない、

モノを投げない」

 

と注意書きが貼ってある。

 

その男の子は、

「おい!うさぎ!」とか

言いながら近づいてきて、

 

うさぎに石ころを

投げ始めた。

 

こちらに背を向けている

うさぎのお尻がビクッと震えて

怯えているようだ。

 

僕は、カッチーンと来たが

(娘だったら無言で後ろから

頭をはたくところからスタートだ)

 

ふと頭が巡る。

 

男の子の目には、

うさぎが怯えてることなんか

見えていない、入っていない。

 

この子に怒ってもしょうがない。

 

僕はだから、

男の子の坊主頭に

ポンと手を置いて

 

「石を投げるのは、やめな。

こわがってる」

 

と、言った。

 

男の子は無言で駆けていき、

後ろの方にいたお父さんにつかまって

すげー怒られてた。

 

いやいや、

見てたんなら止めろよと思ったし、

できればお父さんには、

なあ、何て言われたの?って

聞いてみて欲しかったけど。

 

僕がその時

気づいたのは、

 

怯えるうさぎへの共感と

怒りや腹立ちは、

男の子のせいなのではなくて

僕の中にあるものだということ。

 

僕は確かに、

腹が立って感情が動いた。

 

だけど、その男の子は

まったく悪気が無くって、

というか何も考えていないようで

そう、それは

無邪気というものだった。

 

それに気付いたなら僕は、

自分の中に感じた感情とは別に

“それをどのように表現するのか”

を選ぶことができる。

 

だって僕の腹立ちは、

その無邪気な子とは関係ないものね。

 

 

人は意外に、自分のことを

分かっていない。

 

無意識でオートマチックに

判断し、思考し、反応している。

 

自分をコントロールする、

自律できる人になる前に、

まず、自分と出会うことが

大切なのである。

「旅人」の採用脚光!
という記事を見た。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180620-00000016-fsi-bus_all

旅を通じて身につけたチャレンジ精神や
コミュニケーション能力に企業も注目!
だそうだ。

さて。

このニュースを見て僕が思ったのは、

旅に出る人って、
仕事が思い通りにならなかったり、
つまらないような仕事をさせられたり
するのに耐えるのは苦手そうだな―、
ということだった。


友だちに、宅配寿司の会社に入って
釜めしのチェーンを作り
大成功させた人がいるのだが、

その会社では全社員の
ストレスチェックをして、ストレス耐性を
調べていたらしい。

店長はストレス耐性がある人しか
勤まらない。
融通は利かないのだけど、とにかく
愚直に働くようなタイプ。

そういう人をトップにするのだそうだ。

だけどそれでは、臨機応変に
現場を回して運用することが難しく
なりませんか?と聞いてみた。

そうしたら、即答されたのが


「はい、だからバイトリーダーの
人選が大事なんです」

ということだった。

気配りができる、繊細な人を
そこに据えて、それを理解して
フォローするのだそうだ。

というわけで、
「旅人」を会社で使おうとするには
けっこうな気遣いと工夫がいると
思われる。

だが、多様性のある人材を望むからには
それを覚悟して、投げ出さず
向かい合って欲しい。

社会の中にいる
多様な人材を多用に活かせるのは、
とても豊穣な社会だと思うから。

うちの会社には幽霊が出ると

もっぱらの噂だ。

 

女性陣が言うには、

ビルの六階、男子トイレには

幽霊が出るのだそうだ。

 

さて、僕は六階で仕事してて

夜勤で月数回単位で泊り、

勿論そのトイレにも行くのだが

幽霊は見たことがない(笑

 

どうやら、その噂の発信源らしき

女性の証言に行き当たった。

 

節電のために、トイレから出るとき

電気を消す人がほとんどなのだが、

夜、誰もいなくて真っ暗な中で

 

男子トイレから

トイレの水が流れる音がしていた!

のだそうである。

 

・・・。

 

女性はあまりご存知ないでしょうが

男子が小用を足すトイレには

設備保持水流といって、

誰もいない時に水を流す機能が

ついているものがある。

 

男性は、トイレのところに

「誰もいなくても水が流れることがあります」

と書かれているから分かるのだが、

女性は分からなくても不思議はない。

 

 

さて。

 

この話しを女性の同僚が詳しく

聞いたとする。

 

そうしたら、細かい話しは抜きにして

「幽霊を見た人がいるらしい」

って話しになって伝わる。

(水うんぬんは伝わらない)

 

これって、地震の時の流言飛語が

伝わるのと一緒だよね。

 

ワカラナイ、コワイ、ものに

警戒しようという本能はそれだけ

強いのである。

 

 

さて。

 

情報伝播の時に気を付けること

は一般でも色々言われる。

 

情報の出どころ、根拠を

きちんと確認しましょうと。

 

だけど、僕が気にかけるのは

少し違うことだ。

 

その情報が

“何かのプラスになる、助けになる

役に立つ” 情報なのかどうか、だ。

 

それならさ、

実際に助けようと思った時に

具体的な相手がそこにいるでしょ?

 

うん、これは

普段の情報発信の姿勢と繋がる。

 

自分が怖いものに

振り回されるのじゃなくて、

 

与えられるものを探すことが

大きな安心に繋がる道なのだ。

今日は、銀座で毎月朝活を開催している

ドクラボさんと

逆鱗cafeのコラボをしてきました。

 

イベントはこんな感じ^^

https://www.facebook.com/events/248781025681990/?active_tab=about

 

 

 

誰でもコンプレックスとか

トラウマとか、

心の中のドロドロした何かとか

持っているものだ。

 

必ずしもそれを

すぐに直さなきゃいけないとは

僕は思っていない。

 

だけど、心理学が力になることは

きっとあって、

僕は逆鱗cafeはそのいいラインだと

思っているのだよね。

 

どこまでが、自分にとって大切なことで
どこまでが、実は手放せるものか。
 
自分の感覚ではどれも大事に思える。
だから、知識が必要。
 
「まず、事実をつかめ。
それから思うまま曲解せよ」
―マーク・トウェイン
 
自分の人生の物語を紡ぐのも、
同じことだよ^^

他人を殺すことで、
自分を殺そうとする人がいる。
 
自分を殺すことで、
他人を殺そうとする人がいる。
 
僕はそのことに
最近気がついた。
 
その人たちが、
自分が何をしたいのかに
気づいていないことも。
 
いや、
何をしたいかというより
何かし続けても
満たされないことが
問題なのである。
 
本当は、
あなたが大事にしたいと
思っているものが
悲しいくらい好きではないと
気づかねばならない。
 
でも、思ってみると
僕も同じだったのだろう。
 
他人を笑うことで
自分を笑い
他人を認めないことで
自分を認めない。
 
人は自分を通して他人と世界を見、
他人に映る自分を見ている。

たとえあなたが
死にたいくらいに辛くて
 
それは自分に
価値が無いからなんだって
心の中で決めたとしても
 
それは全て無駄である。
 
世界はあなたを生んだけれど
あなたを世話するわけではない。
 
それを思えば、そう感じれば
きっと何かが起こる。
そう決めたあなたがいただけなのだ。
 
だけど、
あなたがそれを
私に話してくれるとき、
 
誰がなんと言おうと
あなたの中に価値はある。
 
私とあなたの間に、
それは芽生える。
 
たとえあなたが
いいえと言ったとしても。

この共読会では
新渡戸の武士道から、エヴァンゲリオンが飛び出す。

 

どうしてかというと、

主君の菅原道真のために
自分の息子を犠牲にした部下の逸話を
新渡戸が持ち出したからである。

(そこから、

ワンネス→エヴァ→新渡戸→江戸の商人→年功序列制

に話しがひろがったw)
 
古い道徳観とか価値観は
今でもみなの多様な琴線を揺らす。
 
新渡戸は
分かって書いている。
 
「なんて残虐なと思われるでしょう?」
って書いているくらいだ。
 
だが、
まさかこれほどの時を超えて
エヴァと並んで語られる日が
来るとは思うまい(笑
 
 
毎月第二金曜日(来月は第一金曜)
今月は8日です♪
https://peraichi.com/landing_pages/view/0vfoz
 
みなが語りながら飲んでいるのは、
ゆきさんが毎月チョイスしてくれる
特選お菓子と絶品の煎茶
(100g 3000円とかするのだ)
 
こちらもお楽しみ。
興味ある方、ぜひコメント下さいね~^^

すごく久々に、映画を見た。

 

「フロリダ・プロジェクト」という映画の

この記事をたまたま読んで、

https://news.yahoo.co.jp/byline/atsumishiho/20180512-00084472/

 

衝動的に新宿のバルト9に

飛び込んだ。

(そしたらその日が、たまたま毎月1日の

ファーストデー割引という奇跡w)

 

 

さ、ここからはネタバレである。

映画を見て、こちらに戻って来て欲しいw

 

映画の各シーンは美しかった。

 

原色の町は色あせているし、

虹もかかってるのはどんよりした空だ。

 

だけど、

管理人のボビーが黄昏時に煙草をふかし

ディズニーワールドの花火の音だけが

ドーン ドーン と上がる中、

花火を映さずにモーテルの回廊の照明が

パパパパと点っていく。

 

そんなリアルなシーンが美しいと思う。

 

 

ストーリーは、起承転結が少ない。

流れるようにコミカルに日常が進んでく。

 

だから、取っ掛かりが少ないのだけど

最後のシーン、結末について語りたい。

 

 

最後、親子は児童局に引き離される。

その時に娘のムーニーは、

ずっと仲が良かった二人の友達に

さよならを言いにいく。

 

お母さん同士が喧嘩して

一緒に遊ばせてもらえなくなった

スクーティー(男の子)には

普通にさよならと言った。

 

実はお母さんのヘイリーが

喧嘩でぼこぼこにしてしまった

スクーティーのお母さんアシュリーにも

怪我、お大事になんて

大人びた挨拶をする。

 

それまでムーニーは、

器用に大人たちをの真似をして

アイスクリームショップの前で

観光客から小銭をせしめ、

 

管理人のボビーにも

可愛がられて

口八丁のいたずら三昧だった。

 

 

映画を見たら分かると思うけど

ムーニーの世界の大人は

嘘つきばかりだ。

 

周りに隠して売春を始めた

お母さんのヘイリーも

 

最初親友だったのに

何が悪いのか直接言わずに

ムーニーと遊ぶのをやめさせた

スクーティーのお母さんの

アシュリーもそうだ。

 

児童局の大人たちは

「ちょっとだけよそに行くのよ」

と言って、

ムーニーを連れ出そうとするのだ。

 

ムーニーは児童局の人に

「お母さんと別れるのは嫌」

言って走って逃げだす。

 

それで、

友だちのジャンシーのところに行って

何か言おうとするけれど、

言葉が出ない。

 

ジャンシーは

どうしたの?と聞くけれど

 

「分かんない、

何て言ったらいいか分かんないよ。」

 

涙をポロポロ流して

 

「でも、多分もう、ここには戻れないの。

さよなら」

 

と、踵を返して行こうとする。

 

ジャンシーもよく分からない。

分からないながら

少し涙ぐんで聞いていたが、

ここでムーニーの手を掴んで、

走り出すのだ。

 

 

僕はここで、泣いてしまった。

 

子供の頃、

友だちに正直に謝れなくて

正直に、出来なかったことを

言えなくて

そのまま気まずくなったまま

別れてしまうことって

よくあるでしょう?

 

ムーニーのお母さんの

ヘイリーとアシュリーも、

最初は仲良しの親友同士でいたけど

何か隠したままで言えなくて、

結局友情が壊れてしまう。

 

だけど、最後のムーニーは、

とっても真っ直ぐだった。

 

それで悲しくて、

でも何をどうしたらいいかも分からなくて

それをそのままジャンシーに

見せたのである。

 

僕はその真っ直ぐさと、

張り裂けそうな悲しさと

その中で何か言おうとしている

ムーニーの健気さに、

打たれたのである。

 

 

ジャンシーは、

そのムーニーの手を取った。

さよなら、という最後の言葉を

そのままにしなかった。

 

ただ一時、その場から

逃げるだけだったかも知れないけれど

ジャンシーはムーニーを

そのままにしなかったのだ。

 

ムーニーとジャンシーは、

モーテルの親たちに出来なかったことを

したんじゃないかと思う。

 

友情とかそういうことだけじゃない。

倒れたまま成長している木が好きだって言って

一緒に食べた食パンが、世界一美味しいと

言い合った友情だけじゃない。

 

それは、偽らずに相手に接すること

自分をそのままの姿で相手に見せるという

そういうことだと思うのだ。

 

 

そのことが、貧困という問題を

解決することは無いかも知れない。

(当たり前である)

 

でも、どうだろう。

 

本当に誰かが辛い時、

本当にどうしようもなく悲しい時

 

その手を取って一緒に走り出す。

 

それくらいしか、

元々僕らに出来ることは

ないのではないだろうか。