すごく久々に、映画を見た。
「フロリダ・プロジェクト」という映画の
この記事をたまたま読んで、
https://news.yahoo.co.jp/byline/atsumishiho/20180512-00084472/
衝動的に新宿のバルト9に
飛び込んだ。
(そしたらその日が、たまたま毎月1日の
ファーストデー割引という奇跡w)
さ、ここからはネタバレである。
映画を見て、こちらに戻って来て欲しいw
映画の各シーンは美しかった。
原色の町は色あせているし、
虹もかかってるのはどんよりした空だ。
だけど、
管理人のボビーが黄昏時に煙草をふかし
ディズニーワールドの花火の音だけが
ドーン ドーン と上がる中、
花火を映さずにモーテルの回廊の照明が
パパパパと点っていく。
そんなリアルなシーンが美しいと思う。
ストーリーは、起承転結が少ない。
流れるようにコミカルに日常が進んでく。
だから、取っ掛かりが少ないのだけど
最後のシーン、結末について語りたい。
最後、親子は児童局に引き離される。
その時に娘のムーニーは、
ずっと仲が良かった二人の友達に
さよならを言いにいく。
お母さん同士が喧嘩して
一緒に遊ばせてもらえなくなった
スクーティー(男の子)には
普通にさよならと言った。
実はお母さんのヘイリーが
喧嘩でぼこぼこにしてしまった
スクーティーのお母さんアシュリーにも
怪我、お大事になんて
大人びた挨拶をする。
それまでムーニーは、
器用に大人たちをの真似をして
アイスクリームショップの前で
観光客から小銭をせしめ、
管理人のボビーにも
可愛がられて
口八丁のいたずら三昧だった。
映画を見たら分かると思うけど
ムーニーの世界の大人は
嘘つきばかりだ。
周りに隠して売春を始めた
お母さんのヘイリーも
最初親友だったのに
何が悪いのか直接言わずに
ムーニーと遊ぶのをやめさせた
スクーティーのお母さんの
アシュリーもそうだ。
児童局の大人たちは
「ちょっとだけよそに行くのよ」
と言って、
ムーニーを連れ出そうとするのだ。
ムーニーは児童局の人に
「お母さんと別れるのは嫌」
言って走って逃げだす。
それで、
友だちのジャンシーのところに行って
何か言おうとするけれど、
言葉が出ない。
ジャンシーは
どうしたの?と聞くけれど
「分かんない、
何て言ったらいいか分かんないよ。」
…
と
涙をポロポロ流して
「でも、多分もう、ここには戻れないの。
さよなら」
と、踵を返して行こうとする。
ジャンシーもよく分からない。
分からないながら
少し涙ぐんで聞いていたが、
ここでムーニーの手を掴んで、
走り出すのだ。
僕はここで、泣いてしまった。
子供の頃、
友だちに正直に謝れなくて
正直に、出来なかったことを
言えなくて
そのまま気まずくなったまま
別れてしまうことって
よくあるでしょう?
ムーニーのお母さんの
ヘイリーとアシュリーも、
最初は仲良しの親友同士でいたけど
何か隠したままで言えなくて、
結局友情が壊れてしまう。
だけど、最後のムーニーは、
とっても真っ直ぐだった。
それで悲しくて、
でも何をどうしたらいいかも分からなくて
それをそのままジャンシーに
見せたのである。
僕はその真っ直ぐさと、
張り裂けそうな悲しさと
その中で何か言おうとしている
ムーニーの健気さに、
打たれたのである。
ジャンシーは、
そのムーニーの手を取った。
さよなら、という最後の言葉を
そのままにしなかった。
ただ一時、その場から
逃げるだけだったかも知れないけれど
ジャンシーはムーニーを
そのままにしなかったのだ。
ムーニーとジャンシーは、
モーテルの親たちに出来なかったことを
したんじゃないかと思う。
友情とかそういうことだけじゃない。
倒れたまま成長している木が好きだって言って
一緒に食べた食パンが、世界一美味しいと
言い合った友情だけじゃない。
それは、偽らずに相手に接すること
自分をそのままの姿で相手に見せるという
そういうことだと思うのだ。
そのことが、貧困という問題を
解決することは無いかも知れない。
(当たり前である)
でも、どうだろう。
本当に誰かが辛い時、
本当にどうしようもなく悲しい時
その手を取って一緒に走り出す。
それくらいしか、
元々僕らに出来ることは
ないのではないだろうか。