QUEEN⑰より続きます。
映画のシーンはジョン・リードとの決別をし、「Another One Bites The Dust」邦題(地獄へ道連れ)のレコーディング・シーンへと移ります。
「Another One Bites The Dust」邦題(地獄へ道連れ)は1980年リリースのアルバム「The Game」に収録されている曲で、ジョン・ディーコンの作曲です。
1980年8月にシングル・カットされ、全米1位を獲得しました。
マイケル・ジャクソンがシングル・カットを勧めたとも伝えられています。
フレディー存命時代、QUEEN史上最も売れた曲としても認知されています。
映画ではディスコっぽい曲調に他のメンバーが難色を見せているように描かれていますが、この前作になるアルバム『Jazz』にはロジャー作の「Fun It」というディスコ調の曲が収録されていることから、さほど抵抗はなかったのではないか?と思われます。
むしろ他のメンバーが作ってきた曲の素材を、自分自身の好みとは切り離して、「どのように生かしていくか」に重きを置いていたのが、この時期だと思います。
この曲のシンセサイザーのように聞こえる音は、実際にはピアノやギターなどの逆回転再生音です。
また、映画ではフレディーとロジャーが言い争いをしていますが、実際にはこの時期、ブライアンとロジャー喧嘩のほうが多かった、というのが事実です。
仲裁していたのはジョンだったとも伝えられています。
フレディーはどちらかといえば中立を保っていたようですね。
ジム・ビーチがマネージメントを請け負うシーンもありますが、史実では1978年ですね。
映画で「Another One Bites the Dust 」のレコーディングのシーンだとすれば、1979年から1980年にかけてのエピソードをモチーフにしているはずです。
アルバム「Hot Space」リリースに伴う、記者会見のシーン。
映画を見ても、当時の体験者としても、何よりも怒りを覚えるシーンです。
特に好奇の目を向けるマスメディアにはほとほと嫌気が差しますね。
アルバム・リリースの会見であるにも関わらず、個人への家庭環境や性的志向への興味ばかりを押し付けるインタビューアー。
時代だったとはいえ、実際にこういった行為は、フレディーの心を孤独へと追い詰めていった事を容易に想像できます。
時代が今であれば、少しは違ったのでしょうか?
残念でしかありません。
アルバム「Hot Space」は1982年5月のリリースされました。
前述のように、ロジャーのソロ・アルバム「Fun in Space」は1981年の4月。
それ以前にもロジャーは単発のシングルを1977年7月にリリースしています。
「Hot Space」にはデヴィッド・ボウイとの共演作「Under Pressure」やアルバム全体のファンクやディスコっぽいイメージと、QUEENとしては最も異質な問題作なように位置付けられているようです。
史実としての時系列を追っていくと・・・
1979年10月シングル「Crazy Little Thing Called Love」をリリース。ジョン・レノンを音楽活動に戻すきっかけになったと言われている
1980年6月アルバム「The Game」リリース
1980年11月ジョン・レノンが5年ぶりのアルバム「Double Fantasy」をリリース
1980年12月8日 ジョン・レノンが殺害される
1982年リリースの「Hot Space」には2曲のジョン・レノンへの追悼曲が収められている
つまり、フレディーからしてみれば「自分が敬愛したジョン・レノンが、自分の曲によって音楽活動を再スタートさせたために殺されてしまった」と解釈できる時系列になっています。
QUEENは、1982年が終わるころから1983年の前半までバンドとしての活動を休んでいます。
各自がソロ・アルバム等の制作のため当初一年間休もうという話だったようで、決して不仲などではなく、休止中もメンバーたちは頻繁に会っていたと伝えられています。
単純にそれぞれがそれぞれの思う事をして、充電期間にしようと距離を置いたのだと思われます。
しかし、何も知らされないファンにとっては、「解散危機」が現実味を帯びた時期でもありました。
「I Want To Break Free」邦題 (自由への旅立ち)は1984年2月にリリースされたアルバム「The Works」からの2枚目のシングル曲です。
リリースは1984年4月。
作曲はジョン・ディーコン。
この曲はプロモーション・ビデオの中で、メンバーが全員女装、曲の中間部ではフレディーがバレエの「牧神の午後」のニジンスキーに扮するなど、話題になりました。
映画ではこの女装のアイディアから、MTVで放送禁止になり、アメリカの聴衆を失ったなど揉める原因として描かれていますが、史実としてはその他にも深刻な背景がありました。
「I Want To Break Free 」の歌詞からメッセージ性を感じ取った、当時社会問題と化していたアパルトヘイトに反対する団体や、アフリカの民族会議運動に参加している人々にとっては、文字通り自由を勝ち取るためのテーマソングになっていたのです。
当時、白人ミュージシャンが南アフリカでツアーを行う事は、アパルト・ヘイトを助長するものだと、タブー化されていました。
1984年の10月にQUEENが南アフリカのサンシティでライヴを行ったこと自体も物議をかもしたのですが、フレディーはアンコールでこの曲を歌う際に、ビデオと同様の女装をして現れ、ときには衣装を持ち上げて作り物のバストを聴衆に見せるパフォーマンスを行ったのです。
これに対して一部の聴衆は曲の威厳を損なうものだとして、ブーイング。
険悪な雰囲気だけが残ったとされています。
後にメンバーから語られたところでは、「そんなつもりじゃなかった。楽しんで欲しかっただけだ」と伝えられています。
1985年1月の「Rock in Rio」でも同様の演出をし、同様の反応がありました。
この時はその後の曲でブラジル国旗をまとって登場した事が、騒ぎを収めることになります。
こういった行為が映画にあるようにQUEENの「恥さらし行為」と取られ、バッシングを受けていたのは事実です。
尚、時系列でいえば、ブライアンは1983年の10月にエディ・ヴァン・ヘイレンらとともに「Star Fleet Project」として実質的なソロ・アルバムをリリース。これにはロジャーも一部参加しています。
1984年6月にはロジャーの2枚目のソロアルバム「Strange Frontier」をリリース。
フレディ、ブライアン、ジョンがそれぞれ一部参加しています。
「Under Pressure」はクイーン&デヴィッド・ボウイ名義の曲です。
この曲のリリース経緯は複雑で、当初クイーンにとって初のベスト・アルバムとなる「Greatest Hits」が1981年10月にリリースされた際に、同時にシングルとして発売され、かつ「Greatest Hits」にも収録されていました。
その後1982年5月リリースの「Hot Space」にも収録されました。
2018年現在では「Greatest Hits Ⅱ」に収録されています。
「Greatest Hits」は1981年のリリース当初、世界各国で収録曲が微妙に異なっていました。例えば日本盤には「Teo Torriatte」(手をとりあって)のシングル・バージョンが入っているなどです。
「Under Pressure」の製作経緯は1981年7月、クイーンが「Hot Space」のレコーディングをスイスで行っていた際に、デビッド・ボウイがスタジオに遊びに来て、ジャム・セッションしているうちにアイディアが形になったものです。
詳しくはQUEEN⑦にも記載がありますので、ご覧下さい。
このセッションについて、ロジャーは「とても誇りに思っている」とコメントしています。
Mr. Bad Guy
ソロ・アルバムのためにメンバーと仲たがいし、ソロ・アルバムの曲作りをするシーン。
後に「Mr. Bad Guy」として1985年4月にリリースされることになるこの作品の曲は、1982年の「Hot Space』と1984年の「The Works」のために作られた曲のうち、バンドでは受け入れられなかった曲も含まれています。
つまり曲の素材そのものは1981年には既にあったものが含まれているのです。
前述の通り、「ソロ・アルバムを作るのか?!」という映画上での他のメンバーからの反発は、実際にはありませんでした。
この時点でロジャーは2枚、ブライアンは1枚、ソロ・プロジェクトとして既にリリースをしていて、1983年のグループとしての休暇を利用して制作されたアルバムです。ただし、映画にあるように、フレディーのCBSとの契約金は相当な額だったようです。
満を持してのフレディーのソロアルバムでしたが、結果的にバンドのものほど販売結果は良くなく、評価としても高くはありませんでした。映画にあるようにスイスで雇ったミュージシャンへの失望も事実としてフレディーにはあったようです。
では、この時期にメンバー間の確執はなかったのかというとそうでもなく、1983年に一年間の予定で休もうということになったのも、アルバム、ツアー、アルバム、ツアーとずっと働き詰めであったために、あまりにもメンバー間の距離が近くなりすぎて、少しのことで言い争いが起きていたようですし、解散という文字もちらついた時期がありました。
1984年2月のサン・レモのバックステージでは、ブライアンとロジャーが壮絶なケンカをしたというエピソードも伝えられていますし、ワークス・ツアーとして1985年5月まで続いた日本公演の後にも、バンドとしてのモチベーションは上がらず、解散するのではないかと言われていました。
日本公演最終日の大阪城ホールでは舞台最後の挨拶でブライアンが「素晴らしいバンドだった。スタッフも最高だった。みんなありがとう!」と意味深な過去形にしたことも引退を示唆しているのではないか?と不安を煽りました。
(私はこの場にいました。)
映画の中で、仲違いの後、活動再開の条件として「作曲クレジットを全員にする」というものがありましたが、実際にはライヴ・エイド後のアルバム「A Kind Of Magic」でも、1曲を除いてメンバーの名前になったままで、作曲者がQueenと統一表記されるようになったのはその次のアルバム「The Miracle」からになります。
つまり、事実としてはライヴ・エイド前に、フレディーと他のメンバー間で曲のクレジットをめぐる取り決めをしなければいけないような軋轢はなかった。という事です。
またフレディーに対して不信感を持つ事などもなく、単にバンドとしての方向性が見えず、雰囲気があまり良くない時期であったという事です。
1986年6月リリースのアルバム「A Kind Of Magic」からの曲です。
つまり、時系列的にはLive Aidよりも後の曲で、映画の中ではフレディが自分の体の不調に気付き、鏡に向き合うシーンから流れています。
僕たちに残された時はない
僕たちに残された場所はない
供に築いてきた夢を支えてきたものは
僕らの手をすり抜け何処かへ行ってしまった
永遠に生きたいと誰が思うだろう
永遠に生きたいと誰が望むというのだろう
ブライアンによるこの曲の歌詞は映画のシーンにぴったりなのですが、実はこの歌詞はフレディの病気とは全く関係ありません。
これは1986年公開の映画「ハイランダー」のために作られた曲で、アルバム「A Kind Of Magic」とは、この映画のために書き下ろされた曲が占めています。
主人公は首をはねられない限り永遠の生命を持ち続ける設定で、全く老いていかない彼と、死んでいく妻との別れのシーンのためにブライアンが書き下ろしたものが「Who Wants Live Forever」です。
ブライアンはこの映画のサントラのオファーの時点では、あまり乗り気ではなかったそうですが、試写版を見せられたとたんにヤル気になり、僕にしか出来ないと受けたそうです。
「ボヘミアン・ラプソディ」以外で、映画の中をQUEENの曲が占める、最初の映画でもあります。
映画では、ライヴ・エイドのリハーサル中に、病気のために声が思うように出ないフレディが描かれ、メンバーたちに自分の病気について告白するシーンになります。
この映画を見た方の多くが言及していますが、このライヴ・エイドの前は、フレディは自身の病気に気づいていないし、おそらく感染もしていないと考えられてきました。
喉の炎症はあったと伝えられていますが、それは感染症のせいではなく長年の酷使によるもので、まして喀血をしたという事実も伝わっていませんでした。
メアリー・オースチンやジム・ハットンの証言として、フレディーに対してHIV陽性の診断が出たのは1987年と言われており、それはライヴ・エイドの2年後。
メンバーがフレディから聞いたのはさらにその2年後の1989年だと伝えられてきていました。
しかし、最近になってブライアンが明かしたところによると、やはりこのLive Aidの時にはフレディーの体調変化はあったようです。
ブライアンはこう語っています。
「彼が問題を抱えているのは知っていたし、放射線治療を受けているのも知っていた。彼が自分で告白するまでのあいだ、僕らはずっと疑っていたけれど、直接問いただす勇気がなかったんだ」
またその前には
「僕らは脚本を書いていないが、この映画でいくつかのを出来事が起きた時期をずらすことを許可している」とも発言しています。
つまり時系列について、ブライアンもロジャーも「許可という形で」ある程度の意見を聞かれる立場にあった。
そうなると、史実でもライブ・エイドの時点でフレディー自身の健康状態について何らかの異変をすでに察していて、少なくともブライアンは「フレディが健康上の問題を抱え、放射線治療を受けているのを知っていた」そんな精神状況の中でパフォーマンスしていたことになります。
そこは映画も史実も一致するという事なのでしょう。
その後「A Kind Of Magic」では、映画のための曲作りという外的な刺激を伴ったアルバムを制作します。
ライブ・エイドで受けた刺激そのままにヨーロッパ・ツアーを敢行。
この頃がQUEENの最高潮とも評されます。
おそらくは身体的変調から1986年をもってツアーをやめ、フレディーの本当にやりたかった事。
モンセラート・カバリエとのタッグでアルバムを制作。
その後、1989年リリースのアルバム「The Miracle」
時期的にはこの結束こそがフレディーの体調によるものだったと思われます。
フレディー存命最後のアルバム「Innuendo」制作時には、フレディー自身はもう殆んど自力では立っていられない状態だったといいます。
映画「ボヘミアン・ラプソディ」を観て、私のような年代者は、こぞってQUEEN最高!フレディー・マーキュリー神!
そして楽曲や時系列、事実、デマ、と捲し立てます。
私もここにこういった形で書いていますが・・・
映画「ボヘミアン・ラプソディ」はとても良くできたヒューマン・ドラマです。
SNSなどで「いいね!」が欲しいだけの希薄な繋がりではなく、人が己れをさらけ出し、全てを賭けて人と向き合う。
そうした中で深まっていく情熱と絆を描いた物語です。
そこにピースとして実在の人物をはめ込んだ。
実在の音楽とともに。
だから涙が出るほどに感動できるのでしょう。
映画にもありましたが、フレディー・マーキュリーという人は、音楽に人生を捧げた人です。
あらぬ迫害を受けましたが、並外れた才能と努力を兼ね備えた人物でした。
時代が今であれば、性的志向や育った環境なども、さほど追及されることもなかったでしょう。
ですが、当時はそんな時代だったのです。
ただ、そんな腐りきった環境でさえ、フレディー・マーキュリーは逆境として音楽を作っていった。
私はそう捉えています。
フレディー・マーキュリーの、QUEENの音楽は、魂の叫びなんだと。
長々とお付き合いありがとうございました。
映画「ボヘミアン・ラプソディ」に関しては、ここで一段落させていただきます。
QUEENについては、まだまだネタはつきません。
40年近くファンだった想いが募れば、また書かせていただきます。
記事中、楽曲の題名の色が変わっている部分には、その書いてある楽曲のYouTubeを張り付けてあります。
クリックしてご覧下さい。
因みにYouTubeのQUEENオフィシャルでは、QUEENに関するほぼ全曲を見られるように網羅されています。