さて、()(かい)(かわら)(ぶき)(きょう)(ぞう)に安置された(もん)(じゅ)()(さつ)はどのように位置づけられるでしょうか。

 

 文殊菩薩について『(しゅ)(りょう)(ごん)(ざん)(まい)(きょう)』には次のように説かれています。

 

文殊五尊像(大長寿院蔵)

 

「過( か)()()(おん)()(りょう)()(へん)()()()()()(そう)()(こう)に、その時に仏あり。(りゅう)(しゅ)(じょう)(にょ)(らい)(おう)()(しょう)(へん)()(みょう)(ぎょう)(そく)(ぜん)(ぜい)()(けん)()()(じょう)()調(じょう)()(じょう)()(てん)(にん)()(ぶつ)()(そん)(ごう)す。(中略)()(しょう)よ、(なんじ)がその時の(びょう)(どう)()(かい)(りゅう)(しゅ)(じょう)(ぶつ)()うは、()異人(これひと)ならんや。この()を生ずることなかれ。所以(ゆえん)はいかん。すなわち(もん)(じゅ)()()(ほう)(おう)()これなり。迦葉よ、汝、今(しばら)(しゅ)(りょう)(ごん)(ざん)(まい)勢力(せいりき)(かん)ぜよ。(もろもろ)の大菩薩この力をもっての故に(にっ)(たい)し、(しょ)(しょう)し、出家(しゅっけ)し、()(だい)(じゅ)(いた)り・道場(どうじょう)()し、(みょう)(ほう)(りん)(てん)じ、(はつ)()(はん)に入り、(しゃ)()を分布するを()(げん)して、しかもまた菩薩の法を捨てず。般涅槃において(ひっ)(きょう)して(めっ)せず。」

 

(遠い昔、龍種上如来という仏がおられた。その時の龍種上如来こそ、疑うなかれ文殊菩薩に他ならないのである。首楞厳三昧という(すぐ)れた瞑想(めいそう)の力によって、文殊のような大菩薩は、母の胎内(たいない)に入り、出生し、出家し、菩提樹下に(いた)って悟りを開かれ、道場に坐して仏法を説かれ、滅して涅槃に入り、舎利(遺骨)を広く(しゅ)(じょう)に分け施すといった相を示しながら、菩薩の法を捨てず畢竟の(じゃく)(めつ)(そう)に入ることなく衆生を(きょう)()し続けるのである。)

 

 仏の修行を完成させながら、菩薩として釈迦を補佐し衆生を(きょう)()する文殊菩薩は(じょう)(しゅ)菩薩(菩薩の筆頭)と(さん)(ごう)されています。文殊菩薩もまた、他の応身仏同様、仮に生死を示して衆生を導く、分身としての仏といえるのです。

 

 文殊菩薩はであり、菩薩()であり、また「()(げん)」を(めぐ)らして「()(りき)」を運び、仏法(経)を護持(ごじ)する「(いっ)(さい)(きょう)(ぞう)(あるじ)」でもあります。つまりは(ぶっ)()帰依(きえ)する三宝(さんぼう)(仏・法・僧)の体現者でもあるのです。

 

 中尊寺の(ちん)()(こっ)()(だい)()(らん)には上首菩薩の文殊菩薩と、(しょう)(らい)(ぶつ)(釈迦の次に成仏が約された仏)となる()(ろく)菩薩という二大菩薩がそろって安置されたのです。

 

 また文殊菩薩といえば、中尊寺の(かん)(じょう)(かい)(ざん)と仰がれた()(かく)(だい)()円仁(えんにん)が、唐の()(だい)(さん)(きん)(かく)()()()(もん)(じゅ)()(さつ)(ぞう)(きょう)(ぞう)(かく)(こん)(ぺき)()に金銀字で写経された大蔵(だいぞう)(きょう)6千余巻を拝観したという古事も思い起こされます。

 

次回「中尊寺落慶900年 ⑥三身具足の仏」へ続く。



 

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