先述のとおり、この()(らん)の中心堂宇である金堂(こんどう)には本尊として(しゃ)()(にょ)(らい)が安置されました。この本尊は三重の塔に安置された報身の過去仏としての釈迦如来とは違った意味合いをもつ仏であると思います。

 

 この釈迦尊像は、( てん)(だい)(しゅう)()( でん)(ぎょう)(だい)師最(さい)(ちょう)(しょう)(にん)()(てん)(だい)(ほっ)()(しゅう)の本尊とされた「(じょう)(じゃっ)(こう)()(だい)(いち)()(たい)()(おん)(じつ)(じょう)(りょう)(ぜん)(じょう)()()(ほう)(たっ)(ちゅう)(だい)()()(そん)」に相当すると考えます。

 さて、この長いお名前の仏はどのような仏なのでしょうか。

 

 『法華経』の(けっ)(きょう)といわれる『(かん)()(げん)()(さつ)(ぎょう)(ぼう)(きょう)』には「(しゃ)()()()をば()()(しゃ)()(へん)一切処(いっさいしょ)と名づけたてまつる。其の仏の(じゅう)(しょ)(じょう)(じゃっ)(こう)(なづ)く。」と説かれます。釈迦が(ほっ)(しん)(真理の本体)・毘廬遮那と一体であり、常寂光土(真理そのままの浄土)に住処しているとされるのです。つまり毘盧遮那と一体の釈迦の教えもまた「第一義諦」(真理そのままの教え)であるといえるのです。

 

 天( てん)(だい)(だい)()()()は『(ほっ)()(もん)()』の中で、仏の「(さん)(じん)」(法身・報身・応身)について「()(ほう)(ほう)(身)(ぶつ)を表し、(しゃく)(そん)(釈迦)は(ほう)(身)(ぶつ)を表し、(ふん)(じん)(諸仏)は(おう)(身)(ぶつ)を表す。三仏は三なりと(いえど)も、しかも(いち)()ならず」と示されています。また同じく「(ほっ)(しん)の如来を毘廬遮那と(なづ)く、(ここ)には(へん)(いっ)(さい)(しょ)(一切処に遍満(へんまん)していること)と(ほん)ず、(ほう)(じん)の如来を()(しゃ)()と名く、此に(じょう)(まん)(清浄に満ちていること)と翻ず、(おう)(じん)の如来を(しゃ)()(もん)と名く、此に()(よく)(しょう)(煩悩から救うこと)と翻ず」と説かれています。(カッコ内筆者補注)

 

①   真理の本体である「法身」=多宝如来(全身宝塔)・毘廬遮那如来(遍一切処)

②   慈悲の行(菩薩行)の報いとしての仏格を現す「報身」=久遠実成の釈迦・盧舎那如来・薬師如来・弥勒如来・阿弥陀如来など

③   現世に応じて現れた「応身」=十方分身諸仏(十方世界で法を説く分身の釈迦・十方尊)

 

という三身の仏のあり方がそのまま「三なりといえども、一異ならず」、つまりは「三身具足」の「常寂光土第一義諦霊山浄土久遠実成多宝塔中大牟尼尊」であり、天台法華宗の本尊とされるのです。

 

 この迷いの世界の内に『法華経』にもとづく()(かい)(びょう)(どう)(ぶつ)()を築こうと志した清衡公にとって、天台法華宗の本尊・三身具足の釈迦如来は、その本尊とするに相応(ふさわ)しいものでした。

 

 中尊寺の「鎮護国家大伽藍」は天台教学に基づき、常寂光土から(ぼん)(しょう)(どう)()()(ぼん)()と聖者の同居する浄土)へと展開する浄土が表現されていました。つまり三身具足の釈迦如来が、法身仏の毘廬遮那如来から()()(ぎょう)発願(ほつがん)によって(ぶっ)(とく)をあらわす報身の諸仏へと展開し、さらには()に応じてあらゆる場所であらゆる衆生を救済する応身の十方尊が現れ、()()(こうべ)を直に()でてくださる「(しょ)(ぶつ)()(ちょう)(にわ)()」を表現していたのです。

 

現在の中尊寺本堂本尊 釈迦如来像

参考文献

 多田孝文・山田俊和「特別対談 中尊の釈迦」(中尊寺寺報『関山』第19号)

 

次回「中尊寺落慶900年 ⑦三世の仏」へ続く。