私は、たまに日本語の英訳を頼まれることがある。
そう言った場合、その英訳を、依頼してきた関係者に「英語として読みにくい。」的なことを言われてしまうことがある。不思議と、その人たちからは、それほど悪意は感じない。
その人たちは、多くの場合、職場で英語ができるというキャラを確立している。おそらく、その自らのキャラをさらに強固なものとするために、英語を見ると思わずそういったことを言ってしまうのではないかと推察している。
私は、「評価は他人がするものだ」と私に言ってくる人間が嫌いである。しかし、評価は他人によってなされるのも確かだと思っている。
なので、その人が私の英文を読んで、それが英語として読みにくいという評価を下したという事実は受け入れなければならないと思う。
10年前の自分なら、謙虚な気持ちで、「まだまだ修行が足りない、もっと勉強しなければ!頑張らなければ!」などと思ったのかもしれない。しかし、今の自分は、過去の経験の積み重ねから、これを素直に受け止めることはできない。
私は、修士課程、博士課程を英国の大学で過ごし、それこそ自分の英文が読みにくいという現実を突きつけられ、数年にわたって地獄の苦しみを味わった。そこそこ英語は勉強していたつもりなのにこのような事態になってしまったことが理解できなかった。
どのように英語に向き合っていれば、当時の自分は、あのような塗炭の苦しみを経験せずにすんだのか!?
これまでに、海外プロジェクトに参加したり、かつての私のように英語を母国語としない留学生や英語論文執筆にもがき苦しむ学生達に向き合ったりすることを通じて、10年以上にわたりその問いへの答えを探していた。
そして、最後に至った考え方は、高度な英語を流暢に書けたり話せたりすることに越したことはないが、ある一定のレベルを越えれば、割と洗練された英語によるコミュニケーションは可能ではないかと言うものであった。そして、細かな文法や言い回しよりも、大切なのは、その一定のレベルを越えるために必要なもの、つまり、最低限、読みやすい英文を書くために必要となってくる技術であり、これに関する私なりの理解を以下の著書にまとめた。
そんな技術を駆使して書いた英文が、「英語として読みにくい」と言われてしまった場合、自分としては、だったら、もう自分と関わらないでくれと思ってしまう。自分は、ネイティブみたいに英語を話したり書いたりできるようになることは、ほぼ不可能と判断して諦めているし、もう自分が書く英文の質を向上させる努力はするつもりもない。
文句があるなら、次からは自分でやるか、別の人に頼んで欲しいと、こう言うことがあるといつも思うのである。
なんとなく、昔は人に何か言われると、努力して見返してやろうとか奮い立ったものなのだが、最近そういう感情が減ってきた様に思う。これが、歳をとるということか。