卒業研究でハズレのテーマにあたり、英国の大学院への留学を決意した。そして、修士課程の最後にひらめいた理論を研究テーマとし、博士課程にすすんだ。博士課程の前半までは、成果も上がり、比較的順調に過ごすことができた。
しかし、博士課程の後半あたりから、いま思えば少しずつ雲ゆきがあやしくなりはじめていたと思う。
博士の学位取得で暗黙に求められる条件であった国際ジャーナルへの投稿論文も2年目の半ばでクリアしていた。また、指導教員からは、このペースでいけば、3年もかからずに博士号を修了させられるだろうとまで言われた。国際会議での発表も決まり、まさに順風満帆であった。
しかし、それは表面的なこと。実は、この時点で、修士課程の終わりに提案していた理論に関してやりたかったことはほぼ全てやってしまい、その後の方向性を見失っていた。
俗にいう、研究が暗礁にのりあげてしまったというやつである。
さらに、このあたりから、指導教員の先生とも意見が合わない事が多くなり、お互いに距離をとるようになってしまった。研究室でも、少し孤立していたかもしれない。
その一方で、ずっとやってみたかった国際会議での発表などのイベントがあったり、そこで、優秀論文賞をとったり、といったことも起きて調子に乗っていたため、この辺りの問題にきちんと向き合わずに過ごしてしまったのもまずかったかもしれない。
当時は、そのようなことはあまり気にしておらず、博士課程の3年目に入ってしばらくした頃に、そろそろ、最終審査のための博士論文の執筆にとりかかることになった。
一応、先生とも構成について相談し、それに従って、論文のファーストドラフトを書いた。
この辺りから、本格的におかしくなってきた。
彼は、一週間くらいでフィードバックすると言っていたにもかかわらず、私の論文を後回しにしてなかなか読んでくれない。このような状況が続き、あっという間に半年が過ぎた。この時点で、3年かからずに卒業するという私の目標は消えた。
私が出られるかもしれなかった卒業式を見送るのが本当につらかったのをおぼえている。人間にとってもっともつらい状況は、前進も後退も出来ない状態なのではないかと思った。
それでも、ようやく論文提出とその審査にこぎつけた。
しかし、私には次の試練が待ち受けていた。数時間にも及ぶ口頭試問の結果、審査官からは多くの修正事項を求められ、その修正でぶつかった英語の壁である。
語学学校で英語力を高め、修士課程では私の英語が問題にされることはなかったため、私の英語はそこそこのレベルにきているものと思っていたが、実はそうではなかったことを嫌というほど突き付けられた。
英語ネイティブの審査官は、私の英文の不備を徹底的に指摘した。正直、なにをどう修正すれば、彼が納得してくれるのか、全くわからず途方にくれた。論文の修正は、帰国した後もメールや郵送によりおこない、最後は、しびれを切らした指導教員が、その審査員に直接かけあってくれて、ようやく合格となった。
指導教員が、その気になれば、私の研究をMPhil相当ということにして、研究室から追い出すこともできただろう。
しかし、なんだかんだ言って私の博士取得の最後まで付き合ってくれたのは、まぎれもなく、彼の武士?の情けだと思っている。
いずれにせよ、ここまで至る過程で、私は研究者としてやっていく自信をとっくになくしていた。
そのようななか、一時帰国したときに、新卒者にまじって就活をおこなったところ、私は、優良企業から内定をいただくことができた。この時は、空前のグローバル人材ブームも追い風となった。
私は、修士課程の最後の段階で、研究テーマを自分で見つけたつもりでいたが、考えても見れば、それは所詮、指導教員が決めてくれた範囲のテーマであった。そこから、いつの間にかそれてしまい、最後まで先生の方向性との軌道修正を実現する事ができなかった。
結局、英国留学、博士、奨学金、学会発表、論文発表、そういった表面的な成果ばかりにこだわり、実は、中身が伴っていなかったことにも気が付いた。
以前、超優秀であった私の友人について語ったが、その人が見ていた景色も、おそらくこれだったのだろう。
そう考えると、心がおれずに博士課程をやりきるためには、学力的な優秀さはそれほど重要ではないのかもしれない。
おそらく、本当に必要なのは、なにがあっても、その研究テーマを通じて解決しようと考えている問題が、本当に問題であると信じられる、鋼の意思なのではないかと思っている。
私が、博士課程にすすむ人には、まず確固たる問題意識が必要であると考えるようになったのは、このような経験があったからである。