「以下は、旧版『筋権党宣言 草稿』に、その後発見された原稿や資料をもとに再編集したものである。特に前半には動画資料が追加された」

 

 

筋力劣者が2kg〜6kgのダンベルとペットボトルに頼って自分を糊塗している

 

 

 

 

 

 

 

 

気まぐれ再掲です。宜しければご覧下さい。くれぐれも過度なご期待はなさらないで下さい。

「はじめに

以下は『天宝5号事変』後の捜査で押収された文書を発見順に羅列し、公開のために刊行したものである。このうち、冒頭以下、大半の部分は佐和山清太郎が生前にリーフレットとして頒布したものである。その後の部分は佐和山を信奉する集団、自称『佐和山研究会』が佐和山の遺稿を編集して出版しようとしていたものを警察が押収したものである。

もとより最終的にどのような形になる予定だったものかは不明だが、同『事変』のような惨劇を二度と引き起こさないために、世の諸賢子の学術研究に供するために、ここに草稿の偶然的な発見順にそのまま、できるだけ手を加えずに刊行する」

 

↑猫動画

 

「怒ることは『権利』である。しかしその『権利』は万人に等しく与えられるものではない。

それではその資格要件は何か。

その怒りを抱くに至った理由の正当性か?

否!

 

 

↑外国の侵略や内乱に際して自らの腕力でこれを排除するのに貢献する自信のない者の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

このような者は何者にもなれない。せいぜい「大昔の餓鬼軍団」か「再生雑魚怪人軍団」くらいのものである。

 

 

 

それ以前に周囲が、その人物が『怒り』という感情を抱くのを許されるにふさわしい、抱いてよいと認めるに足る筋力を有していなければならない。その個人が怒ってよいかどうかは、その人格によって判断されるのである。人が他者の人格を判断する理由はもちろん一つではない。しかし、理想はどうあれ、現実には大多数の人々は個人の人格を必ずその筋力についての第一印象からも判断する。必ずだ。つまり圧倒的多数派によって筋力の第一印象は、人格判断の絶対的必要条件とされるのである。

 

 

したがってその資格要件の一つは一定以上の筋力なのである。いかに正当な理由があったとしてもその条件を満たさない者が怒ることを多数者が認めることは絶対にない。せいぜいその怒りに同調する別の者がそれに見合った筋力を持っていれば、その者にその怒りの行使をゆだねる場合がある程度である。

 

 

なぜこのようにならざるを得ないのか。それは、怒る者がその怒りの正当性の当否を自分で判断することは至難だからである。そしてその認識のために最も必要とされるものこそ『一定水準以上の筋力』に他ならない。だからそれを持たない者は自分自身についての判断を信頼されない。

 

 

 

 

『自分で自分を判断する』

そのために本来要求される水準は『超人』と言っても過言ではない。そのことはドイツのニーチェも述べているところのものである。

 

 

↑外国の侵略や内乱に際して自らの腕力でこれを排除するのに貢献する自信のない者の例。これでは自らの腕力で国防に貢献することはできない。つまり国民ではないので人間と呼ばれるのに値せず、本来は『非国民』=『非人間(人でなし)』として扱われなければならない。そのように扱われていないのは国家の温情による。

 

 

 

その筋力は一つには、判断する過程で材料として必要な知識を経験によって得るのに必要となる。しかし、それだけではない。

 

多くの場合意識されないが、正に判断という行為は筋力によって支えられているのである。その瞬間には、それをやり遂げるのに全身の莫大な筋力が消費される。そして高い水準の判断にはそれに見合った『超人的な筋力』が求められるのである。これは『正当に怒る』のに見合った超人的な筋力を持った人間でなければわからない。

イエス、釈迦、孔子といった『怒れる聖人』がそれである。

ある者は『他者の痛みを知るために必要であったからだ』と言う。

笑止!

何と迂遠な解釈であることか。こうした論者は現実に起こった出来事を、弱い自分を正当化したうえで合理的に説明するために、このような説明をせざるを得ないのである。急峻な坂を上り乗り越えた先人の足跡を辿るのに臆し、安楽な回り道をしているようなものだ。それでいて聖人に列する賢者としての称賛だけは受けたいのである。正に独善のための曲学の筆法である。

真実は、他者を統治するのに筋力による強制を直接用いず、形としては言葉によって心服せしめるには、まず自らを完璧に律しなければならず、そのためには心身両面を陶冶しなければならなかったのであり、まず身体の鍛錬によってのみ可能なのである。そうして身体能力に余裕が生まれることから、精神にも余裕ができ、それを前提として真意は自陣の絶対優位を意味する『敵に寛容であれ』という魅惑的なイデオロギー、つまり虚偽の空理空論に説得力を持たせることができた。そしてこれにより、聞く者の心を意のままに動かし、自由意思を失わしめて従属せしめることができたのである。『敵に寛容であれ』という言葉から賢者が学ぶべきものは、こうしたマキャベリズムの知恵なのである。

 

 

『敵に寛容であれ』という言葉は、その敵を独力で素手で殺せるほどの筋力を持つと信じられる者の口から発せられて初めて『真実である』と信じせしめるほどの説得力を持つ。だから所謂『広義のアンガーマネジメント』即ち『否定的な感情の自己管理』を他者に行わせる者は須く『自分一人で素手で敵を殺せる』ほどの筋力を持つと暗黙に信じられている。そのように信じせしめるため、すなわち『敵に寛容であれ』と口にする資格を得るためにイエスや釈迦は苦行を積んだのである。正に人心収攬によって己が理想とする秩序を実現するための第一歩であった。だからこそそれを成し遂げた後にイエスは『神の国は近づいた』と言い、釈迦は『仏法を悟った』という確信を得た。『神の国』といい、『仏法』といい、これらはいずれも『苦行の無意味を悟った』と言うかのような外見とは裏腹に、指導者が身体を極限まで鍛錬することによってのみ到達しうる理想の秩序の謂いなのである。

 

 

これは、過程は違えど孔子も同じである。

孔子は戦いに道あるべしと説いたが、自身はその生身の剛腕で敵の首をひねり潰すと信じるに足る偉丈夫であった。

同じことは所謂『文民政治家』のうち、高邁な『人道』と称する道徳的理想を語った者のなかでも、単に舌先三寸の詐欺師でなく統治と外交の実を上げた史上名高い者たちにも言えるのである。

 

 

 

 

生物としてのヒトの群れは本来その筋力、及びそれに基づく威嚇を隠さない『武人』にのみ追随する。そうでない場合は、『文人』『文民』であっても『武人』と同等の身体、したがって『精神』の能力を有しているか、邪な詐欺師に騙されているかのいずれかしかないのである」