至近距離から5発 スロバキア首相“銃撃” なぜ狙われた? (24年5月17日 newsYahoo! テレビ朝日系(ANN))
記事
(1)白昼の屋外で国のリーダーが銃撃されました。スロバキアの首相はなぜ狙われたのでしょうか。
リンク【写真】スロバキア首相 銃撃の瞬間
■スロバキア首相を“銃撃” 男を拘束
(2)銃撃事件直前、政府の会合に出席していたスロバキアのフィツォ首相です。その会合のあと、集まった人たちに近寄った時でした。
男がフィツォ首相に至近距離から発砲。その場で取り押さえられ拘束された男。
(3)地元メディアなどによると、容疑者は71歳の男でショッピングモールの元警備員。作家、あるいは詩人とも報じられています。
フィツォ首相が集まった人たちに近づき、握手した時を捉えて、男は5発発砲したとみられています。
(4)複数のメディアは、そのうちの1発がフィツォ首相の腹部に当たったと報道。映像では、フィツォ首相とみられる人物が倒れ込む姿が確認できました。
(現場にいた人)
「彼(フィツォ首相)が柵の前で倒れました。これは悪夢だと思いました」
(5)スロバキアの副首相は、BBCの取材に「手術はうまくいった。現時点では命に別状はない」と話していますが、詳しい容体はわかっていません。
(6)フィツォ首相はなぜ狙われたのか?
(佐藤裕樹記者報告)
「衝撃的な事件から一夜明け、容疑者の男は事件後、警察署で政府の政策に同意できないものがあったと話したということです」
安倍元総理と会談したこともあるフィツォ首相は、去年の総選挙で、ウクライナへの軍事支援の停止などを訴えて政権をとり、再び首相に就任。ロシア寄りとされています。
(7)(スロバキア政治に詳しい 成城大学法学部 福田宏教授)
「フィツォ首相という政治家は、弱者に優しいということで支持を得てきたところがある。ただ一方では、非常に攻撃的な物言いがあったり、表現の自由とかそういう規制をかけるとか、EU的な価値観とか人権などの面で問題があるのではないかとか、社会の分断を招く政治家の一人。ある意味、敵が多かった」
スロバキアのエストク内相は、「犯行は4月の大統領選後に決められた政治的な動機」だと発表。その大統領選では、フィツォ首相に近い人物が勝利していました。
テレビ朝日
■ロベルト・フィツォ ウィキペディア
現在、同国首相(3期目。2006年7月4日 - 2010年7月8日、2012年4月4日 - 2018年3月22日、2023年10月25日 - 現職)。中道左派政党「スメル(方向)・社会民主主義」 (SMER-SD) の党首。
政歴
1989年のビロード革命で社会主義政権が崩壊した後、スロバキア共産党主流派が結成した民主左翼党 (SDĽ: Strana demokratickej ľavice) に参加し、副党首に就任。
1992年の国民議会選挙で初当選した。
民主左翼党は1998年選挙で連立与党として第一次ミクラーシュ・ズリンダ政権に加わったが、1999年に離党して下野。新党のスメル (SMER) を結成して党首に就任した[1]。
2002年選挙で左派政党が惨敗したことを受けて社会民主主義路線を強め、2004年12月に民主左翼党や社会民主オルタナティブ(SDA: Sociálnodemokratická alternatíva)など中道左派系の諸政党を糾合する形で方向・社会民主主義 (SMER-SD: SMER-sociálna demokracia) を結成。
フィツォはポピュリスト政党や民主運動、ナショナリズム政党ら野党の各党の既存政治家を上回る支持を集める有力政治家となった。
首相時代
2006年国民議会選挙でSMER-SDは29.1%の得票率を得て50議席を獲得して第一党になり、SNSおよび人民党・民主スロバキア運動 (ĽS-HZDS) と連立政権を組んで首相に就任した。
外国からの投資を呼び込み経済成長を実現した前政権の経済自由化政策を受け継ぎつつも、左派政権として賃金引き上げや年金制度の改革などを実施して軌道修正した。
一方、与党第二党のSNS党首スロタの意向を汲んだ民族主義的政策も展開した。
2009年6月には文書、看板、記念碑などに記載される公の情報をスロバキア語で記述しない場合に罰則を課すなど、公の場における少数民族言語の使用制限を盛り込んだ改正国家言語法(スロバキア共和国国民議会2009年法律第318号)を成立させた。
2010年3月にはスロタが提出した教育機関の一週間の始業前および公共イベント開始前における国家斉唱や教室での国旗掲示などを義務づける愛国心促進法案を可決させた。
これに対し、SMKのみならずスロバキア民主キリスト教連合・民主党 など野党の中道右派各党が厳しく批判した。
このため同年4月、ガシュパロヴィチ大統領は愛国心促進法案に署名せず、再審議が必要だとして国民議会に差し戻した。
連立与党の敗退
世界金融危機の影響で2009年の経済成長率がマイナスに転じ、失業率が15%にまで上昇した。
2010年国民議会選挙ではSMER-SDが得票率34.79%で前回を上回る62議席を獲得して引き続き第一党の座を確保した反面、連立相手のĽS-HZDSは議席をすべて失い、SNSも改選前の20議席を大きく下回る9議席にとどまって共に惨敗。
与党が過半数を維持できなくなり、中道右派連立のラジチョヴァーに政権を明け渡したが、新たに国民議会の副議長に就任した[3]。
2度目の首相登板と批判記者暗殺関与疑惑辞任
2012年3月10日に繰り上げ実施された国民議会選挙でスメルは83議席と過半数を制し、4月4日に再び首相に就任した[4]。
2018年2月に政権幹部の汚職批判追求報道していた記者のヤン・クツィアクとその婚約者が遺体で発見されるという事件が起こり、死んだクツィアクの取材内容が明らかとなるとフィツォへの批判が噴出。3月14日、前倒し総選挙の回避・後継首相を自身の党から出すことを条件に首相辞任を表明した。しかし、党首の地位からは辞任しなかった
3度目の首相登板
2023年にはスメル党首として、ウクライナ支援とロシア制裁への反対を表明し国内の親露派の支持を集めた[8]。
9月30日に執行された国民議会選挙(英語版)でスメルは150議席中42議席を獲得し第1党となりズザナ・チャプトヴァー大統領より組閣を要請された[10]。
10月11日、スメルと中道左派政党の声・社会民主主義、民族主義的右派政党の人生・国民党(英語版)は3党連立政権を樹立することで合意した[11][12]。
同年10月25日午後2時に、チャプトヴァー大統領より首相に任命された[13]。
直後の翌26日、ロシアによるウクライナ侵攻は我々には一切無関係であるとして、選挙時の公約通りウクライナに対する支援は人道および民生分野にとどめ、軍事支援は停止すると発表した[14]。
首相在任中の銃撃事件
詳細は「ロベルト・フィツォ銃撃事件」を参照