令和6年(2024年)11月20日㈬


「令和6年11月中旬 の旅」は佐賀県唐津市に来ました。

福岡空港から乗った福岡市交通局空港線・JR九州筑肥線直通列車

1623C   福岡空港903発 快速 西唐津行き

は唐津1026着
高架駅の唐津

駅前には唐津曳山像



これから向かうのは日本100名城に選定されている名護屋城跡、唐津駅から17km先。

名護屋城跡へ向かうバスは唐津駅前には寄らず、駅から500m先の唐津バスセンターから発着。




肥後堀に面した櫓を模したトイレ

その後ろに見えるのは唐津市役所

このようなカラーマンホールもありました。

唐津バスセンターに到着、新しそうなビル

※唐津大手口バスセンター 

佐賀県唐津市南城内(大手口地区)にある昭和自動車(昭和バス)のバスターミナルである。バスの車内放送では「大手口」とだけ案内される。
唐津市中心部の大手口に位置し、複合ビル「大手口センタービル」の1階に入居する。昭和バスの唐津地区の路線の運行上の拠点となっており、同社の一般路線バス・高速バス路線が発着する。かつて西鉄バスや西肥バス・長崎県営バスなどが当バスセンターに発着していた時期もあったが、路線廃止や運行撤退により、現在は唐津市内発着のすべての高速・特急バスが昭和バスによる単独運行となったため、当ターミナルには昭和バスのみ発着する。 約400m離れたJR唐津駅北口にも「唐津駅」バス停があるが、発着する路線は市内循環バスのみであるため、鉄道からバスに乗り換える利用者の多くが当バスセンターを利用する。 「Otte(おーて)」を愛称とする大手口センタービルは7階建て。2011年10月18日に落成式を行い、10月20日より店舗の営業を開始[2]、バスセンター機能は同年12月11日より運用開始した。唐津市民交流プラザ(3階)、唐津市役所大手口別館(5階・6階)[4]、レストランやカフェ、書店[1]、コミュニティ放送のFMからつなどが入居する。 旧大手口バスセンターの建物は2010年に解体されている、唐津市の中心市街地活性化を目的に、隣接する旧まいづる百貨店(2000年に閉店、規模縮小して100mほど東の建物に転居)などとともに解体、再開発により現在のビルが建てられている。

wikipediaより引用


乗車するのは

昭和バス 21H   大手口1105発 呼子・波戸岬行き

※昭和バス 湊・波戸岬線 21(波戸岬国民宿舎行きは21H) 大手口 - 西唐津駅前 - 唐房入口 - 唐房 - 相賀 - 湊 - みなと園 - 屋形石 - 七ツ釜入口 - 呼子 - 名護屋城博物館入口 - 波戸岬国民宿舎 

国道204号を経由して海沿いにやや遠回りする形で呼子町へ向かう路線


大手口を出発

途中、呼子を経由

全国を旅してながら、「呼子」という地名を今回、初めて知りました。
 
「鉄道の旅」に偏っていると駅から遠い場所には疎くなってしまいやふ。。

呼子町(よぶこちょう)

佐賀県の最北部にあった町。2005年(平成17年)1月1日に唐津市と東松浦郡(玄海町・七山村を除く)の8市町村で合併(新設合併)し、「唐津市呼子町」となった。
漁業が盛んで新鮮な海産物と「呼子の朝市」で知られ、観光客も多い。夏には呼子大綱引が行われ、町全体がにぎわう。気候は、玄界灘からの北風の影響により、夏は比較的涼しい。

東松浦半島の北部に位置しており、南は旧鎮西町と接する。北は玄界灘に面し、沿岸はリアス式海岸になっている。呼子港のすぐ前に位置する加部島とは呼子大橋(1989年(平成元年)開通)によって結ばれている。沿岸部は玄海国定公園に指定されている。
1200着の名護屋城博物館入口で下車

運賃960円

バスは波戸岬へ走り去って行きました。

奥に見える丘が名護屋城跡。

名護屋城跡の周辺は意外と?栄えていました。

訪れる前は静かな港町と勝手に想像していましたが





バスでの前には道の駅

道の駅 桃山天下市


名護屋城跡・名護屋城バスは0.5km先

このような道を歩き

階段を登ると名護屋城跡

入口脇には「信長の野望」のパネル

名護屋城は信長の死後に建てられたはずですが…

※「はじまりの名護屋城。」×「信長の野望」コラボスタンプラリー

名護屋城跡・陣跡と歴史シミュレーションゲーム「信長の野望」とコラボしたスタンプラリー

期間 2024年6年4月27日(土)~11月30日(土)
坂道を登り

名護屋城跡は後ほどにして

まずは日本100名城スタンプが設置されている名護屋城博物館へ

立派な施設ですが入館料無料











日本100名城スタンプを押しました。

御城印2種類と

城カードを購入

名護屋城博物館から見た名護屋城跡

館内から木下延俊陣跡へ向かう通路がありますが

野生ザルに注意の文字

この文面にビビって行くのをやめました。
山里丸草案茶室(復元)





名護屋城博物館を出て名護屋城跡へ向かいます。




※名護屋城跡で撮影した画像はコチラ

名護屋城跡の見物を終えて帰途に

名護屋城跡周辺には多くの武将の陣跡

次のバスは

昭和バス 21   名護屋城博物館前1441発 呼子・大手町(唐津BC)行き

バスの出発まで時間があるので



停留所から近い前田利家陣跡へ

道の駅 桃山天下市の裏手にありました。










前田利家陣跡に残る400年前の石垣



陣跡にはブルーシート









昭和バス 21   名護屋城博物館前1441発 呼子・大手町(唐津BC)行き


画像は名護屋大橋を通過中の車窓

※名護屋大橋

佐賀県唐津市鎮西町名護屋と同市呼子町殿ノ浦を結ぶ、国道204号の橋梁。橋長は258メートル、最大支間長176メートルで、形式はPC3径間連続有ヒンジラーメン箱桁橋である。
終点の大手口(佐賀BC)1535着

運賃960円


再び唐津市内に戻って来ました。



唐津城跡 佐賀県唐津市

令和6年(2024年)11月20日㈬ 撮影


唐津市内を歩き唐津城の麓に来ました。標高42mの満島山に建つ天守が見えます。
地下道を潜り

唐津城の入口へ







天守閣のある本丸へは有料エレベーターもありますが





歩いて向かいます。





山頂に来ました。見渡せば唐津湾




※唐津城

佐賀県唐津市東城内にあった城。別名舞鶴城。
唐津市街の北部に位置し、松浦川が唐津湾に注ぐ河口の左岸、満島山に位置する。唐津湾に突き出た満島山上に本丸が配され、その西側に二の丸、三の丸が配された連郭式の平山城である。北面は唐津湾に面するため、海城ともいわれ、萩城とともに現在も直接海に聳える石垣が見られる。松浦川の右岸には虹の松原(国の特別名勝)が広がり、城から左右に広がる砂浜が鶴が翼を広げたように見えることから舞鶴城とも呼ばれる。 江戸時代初期の慶長7年(1602年)から慶長13年(1608年)にかけて築城され、江戸時代を通じて唐津藩の藩庁となった。 廃城後、本丸は舞鶴公園となり、二の丸御殿跡に早稲田佐賀中学校・高等学校があり、その他の二の丸・三の丸跡は市街化している。現存する遺構としては石垣・堀がある。1966年(昭和41年)10月に天守台に慶長様式の天守(模擬天守)が建てられた。このほか櫓や門が建てられ、石垣・堀が復元されている。麓から舞鶴公園上段広場までは高低差が34mあるため、有料の斜行エレベーターが備えられている。
平成29年(2017年)4月6日、続日本100名城(185番)に選定された。

wikipediaより引用


※唐津城天守は天守台までしか建築されなかった。築城当初は天守が存在していたといわれることもあるが、寛永4年(1627年)の幕府の記録には天守の存在は記されていないほか、天守の存在を示す資料は確認されていない。天守を描いた絵図や設計図もなく、現在の天守は慶長期の様式で建築されていたと想定して昭和41年(1966年)に文化観光施設として5層5階の模擬天守が築かれ、門・櫓も同時に再建された。 

wikipediaより引用














天守閣前からの眺め





エレベーター出入口

「唐津城」石碑

天守閣に入ります。

唐津城天守閣

入場料 一般 500円 小・中学生 250円 未就学児無料 ※

 営業時間 9:00~17:00(入館は16:40まで) ※季節により開館時間変更 

休み 12/29~12/31  

唐津城天守閣一階に設置されている続日本100名城スタンプを押しました。

御城印も購入







五層五階の天守閣最上階へ

























天守閣を出ました。









坂道を下り



唐津駅へ向かいます。






名護屋城跡

佐賀県唐津市

令和6年(2024年)11月20日㈬ 撮影


名護屋城本丸跡に来ました。

※この記事の続きです。


※名護屋城

佐賀県唐津市、東松浦郡玄海町にあった城。太閤豊臣秀吉が文禄の役を始める前に築かせた。現在、国の特別史跡に指定されている。平成18年(2006年)には日本100名城に選定された。

名護屋(古くは名久野)は海岸線沿いに細長く広がる松浦郡の北東部の小さな湾内に位置し、中世には松浦党の交易拠点の一つであった。ここにはもともと松浦党の旗頭・波多氏の一族である名護屋氏の居城、垣副城があった。天正19年(1591年)、豊臣秀吉は大陸への侵攻を企図した際、ここを前線基地として大掛かりな築城を行った。 名護屋城は波戸岬の丘陵(標高約90メートルほど)を中心に170,000平方メートルにわたり築かれた平山城の陣城である。五重天守や御殿が建てられ、周囲約3キロメートル内に120ヵ所ほどの陣屋がおかれた。 城の周囲には城下町が築かれ、最盛期には人口10万人を超えるほど繁栄した。 慶長3年(1598年) 、秀吉の死亡後、大陸侵攻が中止されたために城は廃城となったと考えられており、建物は寺沢広高によって唐津城に移築されたと伝わる。石垣も江戸時代の島原の乱の後に一揆などの立て篭もりを防ぐ目的で要所が破却され、現在は部分が残る。歴史上人為的に破却された城跡であり、破却箇所の状況が復元保存されている。


wikipediaより引用


「名護屋城址」と刻まれた石碑

奥に見えるのは玄界灘の馬渡島(まだらしま)
天守台





五層七階(地上六階、地下一階)の天守が建っていました。江戸時代に破却


天守台の下は遊撃丸

左から馬渡島、松島、加部島

















本丸多聞櫓跡

本丸多聞櫓跡



本丸南西隅櫓跡

本丸南西隅櫓跡



本丸南西隅櫓跡



本丸新石垣檜台



本丸新石垣檜台



本丸旧石垣

本丸旧石垣

本丸旧石垣

本丸大手

本丸大手

三ノ丸

三ノ丸

三ノ丸

三ノ丸井戸跡

三ノ丸井戸跡

三ノ丸櫓台

三ノ丸櫓台

三ノ丸櫓台





馬場櫓台跡

馬場櫓台跡



本丸南西隅石垣

二ノ丸へ

二ノ丸

二ノ丸長屋建物跡

二ノ丸長屋建物跡









遊撃丸へ

遊撃丸

遊撃丸

遊撃丸から見た本丸天守台



















名護屋城跡から帰途に