令和6年(2024年)8月1日㈭

2024年8月初日は今夏3回目の青春18きっぷ使用、新潟からJR東日本上り信越本線に乗り長岡に来ました、


*この記事の続きです。

新潟(855発) から乗車した 133M   は終点の長岡1009着。車両はE129系6両編成

←新潟 E129系B17編成4連+E129系A7編成2連 長岡→







2日連続の長岡下車、前日は乗り換えの合間に改札外に出ただけ


*長岡まつり

新潟県長岡市で開催される祭である。概要 編集 毎年8月1日から3日にかけ、長岡市内で行われる。内容は大きく分けて平和祭・昼行事・大花火大会でありその他にも灯籠流しなどがある



長岡駅を出て最初に向かうのは0.3km先の

長岡市シティホールプラザアオーレ長岡(アオーレ長岡)


*長岡市シティホールプラザアオーレ長岡

2012年(平成24年)4月にオープンした新潟県長岡市大手通1丁目にある複合交流施設。愛称はアオーレ長岡。

 施設は長岡市役所本庁舎と、アリーナ、市民交流ホールなどを擁する交流施設、屋根付き広場「ナカドマ」の3つから成る。

wikipediaより引用


アオーレ長岡の屋根付き広場「ナカドマ」には長岡まつりの御神輿



アオーレ長岡西棟3階にある ながおか市民協働センター  へ

長岡市民協働センターではマンホールカードを配布、入口には「マンホールカード」のノボリが立っています。




ながおか市民協働センター で配布されている長岡市のマンホールカード 「火炎土器マンホールカード」を頂きました。

配布時間 午前8時30分~午後9時 

休館日:12月29日~1月3日


ながおか市民協働センター と同フロア、

アオーレ長岡西棟3階にある 


NPO法人ながおか未来創造ネットワーク窓口では。


長岡城の御城印、「二の丸跡版」を販売


こちらも購入しました。


現在、アオーレ長岡のある場所は長岡城二の丸跡

アオーレ長岡の隣に建つ「長岡城二の丸跡」の石碑

明治元年(1868年)に廃城となった長岡城、跡地は長岡駅や市街地かされ遺構は失われました。

城があった頃からの城内稲荷神社


長岡まつり初日の市内を歩きます。

アオーレ長岡前の歩道には「火炎土器」のデザインマンホール

先ほど頂いた、ながおか市民協働センター で配布されているマンホールカードのデザインです。 

「火炎土器」のデザインマンホールから約50m先には「新潟アルビレックスBB」のデザインマンホール

新潟アルビレックスBBは新潟県長岡市をホームタウンとするプロバスケットボールチーム。

新潟アルビレックスBBマンホールカードは近くにあるながおか市民センターにて配布



その先にもデザインマンホール、「長岡の四季」


長岡の四季マンホールカード は近くの米百俵プレイス ミライエ長岡 にて配布

アオーレ長岡から300m先にある

米百姓プレイズ ミライエ長岡

長岡市大手通の再開発により建てられたビル、2023年竣工。図書館と産業支援を組みあわせた複合施設。 

米百姓プレイズ ミライエ長岡の近くのには

「米百姓之碑」

*米百俵(こめひゃっぴょう)

幕末から明治初期にかけて活躍した長岡藩の藩士小林虎三郎による教育にまつわる故事。後に山本有三による戯曲[2]で有名になった。この逸話は、現在の辛抱が将来利益となることを象徴する物語として引用される。
河井継之助が率いた北越戦争(戊辰戦争の一つ)で敗れた長岡藩は、7万4000石から2万4000石に減知され、実収にして6割を失って財政が窮乏し、藩士たちはその日の食にも苦慮する状態であった。このため窮状を見かねた長岡藩の支藩三根山藩から百俵の米が贈られることとなった。
藩士たちは、これで生活が少しでも楽になると喜んだが、藩の大参事小林虎三郎は、贈られた米を藩士に分け与えず、売却の上で学校設立の費用(学校設備の費用とも)とすることを決定する。藩士たちはこの通達に驚き反発して虎三郎のもとへと押しかけ抗議するが、それに対し虎三郎は、 「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万、百万俵となる」 と諭し、自らの政策を押しきった。 この米百俵の売却金によって開校したのが「国漢学校」であり、洋学局と医学局が設置された。この学校は士族によって建てられた学校であるが、一定の学力に達した庶民の入学も許可された。国漢学校は、現在の長岡市立阪之上小学校、新潟県立長岡高等学校の前身となった。なお長岡藩江戸上屋敷にも国漢学校があり、長崎に医術の修行のため内地留学]も出していた。 この物語は「米百俵の精神」という言葉になり、内閣総理大臣だった小泉純一郎が、小泉内閣発足直後の国会の所信表明演説で引用されて有名になり、2001年の流行語大賞にも選ばれた。 長岡市内では音楽イベント「米百俵フェス」や秋に行われる「米百俵まつり」、再開発地区「米百俵プレイス」など様々な場面で名前が取り入れられている。

wikipediaより引用
ミライエ長岡3階へ

ミライエ長岡3階にて配布

長岡の四季マンホールカード

を頂きました。

配布時間 平日・土曜日 午前9時~午後9時 

日曜日・祝日 午前9時~午後6時 ※

休館日:毎月第2木曜日、毎月の末日、年末年始(12月29日から翌年1月3日まで

ミライエ長岡から100m程先、長岡駅ほうめんへ

ながおか市民センター

2000年(平成12年)8月をもって閉店した「ザ・プライス 丸大店」のビルを長岡市が賃借、改装を施して市庁舎・市民交流スペースとしだ施設。

ながおか市民センター1階にて配布されている


新潟アルビレックスBBマンホールカード


を頂きました。

配布時間 平日:午前9時~午後6時 土日祝:午前10時~午後6時 ※休館日:
再び長岡駅へ

長岡駅前に建つ「長岡城本丸跡」の碑

長岡城御城印 本丸跡版は長岡駅観光案内所にて販売、購入しました。
山本五十六の生家跡がある山本記念公園は駅から約900m.

暑い中、歩きました。

その途上にある河井継之助記念館




入口には「エアコン故障中」の張り紙


山本五十六記念館

山本五十六生誕の地、山本記念公園


山本 五十六(1884- 1943)

元帥海軍大将。

1884年(明治17年)、新潟県古志郡長岡本町玉蔵院町(現在の長岡市坂之上町3丁目付近)で、旧越後長岡藩士(120石[)・高野貞吉の六男として誕生する。当時の父親の年齢から「五十六(いそろく)」と名付けられた。
( 1914年(大正3年)、海軍大学校(甲種14期)に入学。在学中の1915年(大正4年)、旧長岡藩家老の家柄である山本家を相続する。  
海軍次官を経て、連合艦隊司令長官。
昭和18年(1943年)戦死、元帥の称号をうけた。
生家は戦災で焼失し、後に復元した。
公園内に建つ山本五十六の胸像





復元された生家

公開中でした。

















二階へ













山本五十六生家を出て




山本記念公園の近く

明治公園へ



「明治天皇行在所御遺蹟」の碑



明治公園内の説明板

「長岡空襲爆撃中心点の碑」 

米軍は、昭和20(1945)年6月に長岡地域を空襲し、リト・モザイクと呼ばれる精密な航空写真を作成した。そこに爆撃目標範囲となる半径4,000フィート(訳1.2km)の円を描き、その円の中心点を狙って爆撃する作戦をとった。その地点がここ明治公園にあたり、長岡空襲における爆撃中心点である。 同年8月1日の長岡空襲では、この作戦に基づき125機の米軍爆撃機B29が大量の焼夷弾を投下した。それにより市街地の約8割が焼け野原となり、現在わかっているだけで1,486人の尊い命が失われた。 長岡空襲の史実を後世に継承し平和の尊さを伝えるため、ここに碑を建立する


平潟神社にお詣り

平潟神社

新潟県長岡市にある諏訪神社。旧社格は初め郷社、後に県社。『長岡市史』では平潟諏訪神社と表記されている。





再び長岡駅へ

上り上越線に乗ります。