
令和5年(2023年)11月30日㈭
「令和5年11月下旬の旅」2日目の朝は大阪阿部野橋から近鉄南大阪線・吉野線直通の特急に乗り壺阪山に来ました。
ここは奈良県高市郡高取町
*この記事の続きです。

壺阪山は無人駅、先ほどまで雨が降っていたのか路面が濡れています。


壺阪山駅は日本100名城である高取城跡の最寄り駅
駅から高取城は6.8km 徒歩では約2時間
駅前から奈良交通バスに乗り「壺阪寺前」下車→2.7km徒歩約50分
とかなり訪れにくい場所
高取城 日本100名城スタンプが設置されている
高取町観光案内所 夢創館
は駅から0.9km
今回は時間の都合上、城跡は訪れずスタンプを押すのみとします。

駅を出て

土佐街道と呼ばれる古い町並み

高取町観光ガイドHPによると
*土佐街道
高取藩2万5千石の城下町として栄えた高取町のメインストリート。当時は500軒もの商家が軒を連ねたといい、今も低い軒先や連子窓といった古い家並みの随所に、往時の繁栄ぶりを偲ぶことができる。両脇に水路が流れる街道の石畳には、阪神淡路大震災の復旧工事で出た石が活用されている。 街道に土佐の名が付く由来は、飛鳥時代の初期にまで遡る。大和朝廷の都造りに駆り出された土佐(高知)の人々が帰郷できず、この地に住み着いたことが起源とされている。土佐の名は古くから住民に愛着がもたれており、明治22(1889)年に町村が合併した際には「高取」か「土佐」かで村名が争われたほどである。高取山を正面に望む細長い城下町は、現在の上土佐と下土佐を中心に発展。寛永7(1640)年に植村氏が藩主となって以後、山城での生活は不便と藩主や家臣の屋敷は街道筋に移された。ほとんどが平屋の商家と町家は、2階部分を屋根裏程度の空間に留めた「つし2階建て」。殿様を見下ろさないよう虫籠窓が設けられ、家々の隙間は壁で塗り込めたり、板を張って行列を襲う者が忍ぶことを避けた。城下町の風情を一層高める石畳は、平成7(1995)年の震災後に行われた復旧工事の際、大量に出土した阪神国道線の敷石。埋め込まれたタイルには9種の薬草が描かれ、薬の町としても賑わった高取の歴史を伝えている。



高取城 日本100名城スタンプが設置されている
高取町観光案内所 夢創館まであと150m

土佐町大年寄 池田屋伊兵衛 池田邸屋敷跡 と刻まれた石碑

この辺りは土佐町


新しい建物の前には説明板

旧増田邸の説明板
明治15年に建てられた旧増田邸は平成30年に解体

高取町観光案内所 夢創館
*城下町の観光の拠点として、大正時代に呉服屋として栄えていた旧山崎邸を改修し、平成14年にオープン。ギャラリーや資料の展示、地場産品の販売が行われ、高取町の観光情報を提供。
開館時間 午前9時30分~午後4時30分
休館日 年末年始
高取町観光ガイドHPより

日本100名城スタンプ 高取城 は入口前に設置されていました。

夢創館の裏手、蔵を改装した「くすり資料館」
高取の地場産業である薬業に関する資料が展示されている。

夢創館の近くにある駐車場の一角に建つ石碑

伊勢屋屋敷跡 と刻まれています

説明板によると
重要文化財 臼井家(伊勢屋)屋敷跡地
南朝延元年間(一三三六~一三三九)の頃に、南朝の武士であった臼井は 南北朝の動乱により、三重県伊勢より高取に移住し油・醤油・塩・薬などを扱う商人となった。(屋号「伊勢屋」) 後年、高取藩の公用伝馬の役や大年寄を務めた。伝承お里・沢市物語由縁の伊勢屋である。 現存する臼井家主屋の住宅は元禄年間(一六八八~一七〇三)に建てられた。昭和四九年に国の重要文化財の指定と同時に、奈良県民俗博物館(大和民俗公園)(大和郡山市)に移築され、一般公開されている。

夢創館から0.7km先の児童公園にある高取城松丿門

説明板によると
松ノ門は、高取城内にあった建築物のひとつで図のような門であったとされています。 明治4年の廃藩置県により高取城が廃城となった際、多くの建築物は取り壊されましたが、数棟は移築されました。 その中のひとつ「松ノ門」は、明治25年に土佐小学校の校門として移築されていました。 しかし、昭和19年の火災により一部が焼失したため、解体されたままとなっていました。 現在の門は、地元の熱い要望と当時材を取得保管されていた臼井氏(金剛力酒造株式会社)からの材の提供により、図の朱色部分について復元したものです。 平成16年度 街なみ環境整備事業 高取町(土佐地区)
復元された門でした。