令和5年(2023年)9月8日㈮
「令和5年9月上旬の旅」の最終日3日目は徳島県徳島市に来ました。
徳島駅付近からの眉山の麓を目指します。時刻は16時過ぎ
*この記事の続きです。
徳島県徳島市を訪れるのは昨年5月以来
*2022年5月に訪れた徳島、今回の記事と訪れた場所がカブリます。
旧高原ビルの現在の名称は「国際東船場113ビル」、徳島県徳島市東船場町一丁目に位置する商業ビル。旧館の旧高原ビルと1998年(平成10年)に増築された新館(本館)で構成される複合ビルである。
ビル内1階の説明板には「徳島大空襲のいき証人」の表記
以下はwikipediaより引用
歴史 石油と食用油の卸売業を営んでいた旧高原商店(後の「高原石油株式会社」、2007年に廃業)が1932年(昭和7年)に建てた、鉄筋コンクリート3階建て、延べ194m2の旧高原ビルは、ドイツ製防火窓やロマネスク風の装飾などに特徴がある洋風建築で、完成当時は阿波農工銀行(旧農工銀行)の本店として利用されていた。 設計は当時の建築業界の先達であり、名古屋における近代建築の開祖とされる鈴木禎次(1870 - 1941年)が手がけ、1931年(昭和6年)に着工、翌年3月の竣工となった。当時の徳島市における鉄筋コンクリート造の建物といえば徳島県庁、徳島市役所、銀行、百貨店のみで、民間にあってはこの建物が初めてであったという。 1945年(昭和20年)7月4日未明に徳島市を襲った徳島大空襲により、同市のほとんどが焼け野原となった時、高原ビルとわずかな建物が奇跡的に残っていた。今も建築当時の装飾変わらぬ旧高原ビルは、窓ガラスに空襲時の大火による熱割れや縦横に走った亀裂が残るなど戦争の悲惨さと凄まじさを伝えている。 1997年(平成9年)に、「高原ビル」として国の登録有形文化財に登録された。また、1998年(平成10年)に新館が増築され「TiO-TAKAHARA」(旧館の「旧高原ビル」と新館を合わせた名称)となり[1]、さらに2008年(平成20年)5月にはビルの所有者が前年に廃業した高原石油から株式会社国際(徳島市の総合建設業者)に変わり、ビル名も「国際東船場113ビル」と改称されたが、「戦禍の生き証人」である高原ビルを残していく考えから、旧高原ビル内の一室を個展・展示会などのギャラリー「新町川文化ギャラリー」として公開している。人々に活用されるテナントビルとして使用しながら保存していくということで、歴史研究家からも保存に期待が寄せられている。
徳島市内を流れる新町川
再び徳島駅へ、バスターミナルに行くと
徳島なのに伊予鉄バスが停車中
徳島〜松山にて運行される「吉野川エクスプレス」
徳島駅前1730発 JR松山駅行き
このバスには乗らず
徳島バス 空港線 徳島駅前1735発 徳島阿波おどり空港行き
に乗車、金曜夕方のためかほぼ満席
徳島阿波おどり空港1803着、運賃600円
昨年5月以来の徳島阿波おどり空港
台風13号の影響が心配されますが飛行機は運行されそうです。
*令和5年台風第13号による大雨
令和5年(2023年)9月7日~9月9日 南から暖かく湿った空気が台風第13号の東側に流入し台風の中心から離れた場所で雨雲が発達して、関東甲信地方や東北太平洋側では、8日から9日にかけて大雨となった。東京都(伊豆諸島)、千葉県、茨城県及び福島県では線状降水帯が発生し、1時間に80ミリ以上の猛烈な雨が降った所があった。 概要 9月5日に日本の南で発生した台風第13号は、7日にかけて日本の南を北上し、8日には東海道沖に進んで熱帯低気圧に変わった。その後、熱帯低気圧は9日にかけて東海道沖にほとんど停滞した 南から暖かく湿った空気が台風の東側に流入し、台風の中心から離れた場所で雨雲が発達して、関東甲信地方や東北太平洋側では、8日から9日にかけて大雨となった。 このうち、東京都(伊豆諸島)、千葉県、茨城県及び福島県では線状降水帯が発生し、1時間に80ミリ以上の猛烈な雨が降った所があった。これらの地域では1時間降水量が観測史上1位の値を更新した地点があったほか、7日から9日にかけての総降水量が400ミリを超えた地点や平年の9月の月降水量を超えた地点もあった。
2023年は四国4県の空港を訪れて御翔印を購入しました。
*この2日前に訪れた高知空港
*5月10日㈬に訪れた松山空港
横浜からは根岸線にて帰途に、深夜の電車の客層は……