
5月19日(木)
令和4年5月の旅2日目は徳島に来ました。
駅を出て

徳島の町を歩きます。徳島は何度も訪れているものの中心街を歩いたことはほとんどありませんでした。
眉山の方向へ歩きます。

新町川に架かる新町橋を渡ります。

川岸のしんまちボードウォークから見た新町橋。
対岸に見える中央のビルはアミコビル、一昨年までそごう徳島店が営業していました。

しんまちボードウォークの近くに建つ古いビルは登録有形文化財、昭和7(1932)年築の「旧高原ビル」

旧高原ビルの現在の名称は国際東船場113ビル、(は、徳島県徳島市東船場町一丁目に位置する商業ビル。旧館の旧高原ビルと1998年(平成10年)に増築された新館(本館)で構成される複合ビルである。

ビル内の説明板には「徳島大空襲のいき証人」の表記
以下はwikipediaより引用
歴史 石油と食用油の卸売業を営んでいた旧高原商店(後の「高原石油株式会社」、2007年に廃業)が1932年(昭和7年)に建てた、鉄筋コンクリート3階建て、延べ194m2の旧高原ビルは、ドイツ製防火窓やロマネスク風の装飾などに特徴がある洋風建築で、完成当時は阿波農工銀行(旧農工銀行)の本店として利用されていた。 設計は当時の建築業界の先達であり、名古屋における近代建築の開祖とされる鈴木禎次(1870 - 1941年)が手がけ、1931年(昭和6年)に着工、翌年3月の竣工となった。当時の徳島市における鉄筋コンクリート造の建物といえば徳島県庁、徳島市役所、銀行、百貨店のみで、民間にあってはこの建物が初めてであったという。 1945年(昭和20年)7月4日未明に徳島市を襲った徳島大空襲により、同市のほとんどが焼け野原となった時、高原ビルとわずかな建物が奇跡的に残っていた。今も建築当時の装飾変わらぬ旧高原ビルは、窓ガラスに空襲時の大火による熱割れや縦横に走った亀裂が残るなど戦争の悲惨さと凄まじさを伝えている。 1997年(平成9年)に、「高原ビル」として国の登録有形文化財に登録された。また、1998年(平成10年)に新館が増築され「TiO-TAKAHARA」(旧館の「旧高原ビル」と新館を合わせた名称)となり[1]、さらに2008年(平成20年)5月にはビルの所有者が前年に廃業した高原石油から株式会社国際(徳島市の総合建設業者)に変わり、ビル名も「国際東船場113ビル」と改称されたが、「戦禍の生き証人」である高原ビルを残していく考えから、旧高原ビル内の一室を個展・展示会などのギャラリー「新町川文化ギャラリー」として公開している。人々に活用されるテナントビルとして使用しながら保存していくということで、歴史研究家からも保存に期待が寄せられている。

新町川沿いを約900m歩き

JR牟岐線 徳島〜阿波富田の車窓からも見える古い住宅、三河家住宅
*三河家住宅(みかわけじゅうたく)は、徳島県徳島市富田浜にある歴史的建造物。国の重要文化財に指定されている。とくしま市民遺産選定。
昭和4年(1929年)、産婦人科病院を開院していた医学博士である三河義行がドイツ留学中に徳島県立工業学校建築科(現徳島県立徳島工業高等学校)出身の建築家である木内豊次郎と出会い、同世代ということもあり意気投合、交流を深めた。帰国後、木内に「友情の証」として自邸を設計させて建てたのが、現在の三河家住宅である。 当時としては珍しいドイツ風の鉄筋コンクリート造3階建で、展望台として活用できる塔屋を高く立ち上げ、2階には波形平面のテラスを設けている。また関東大震災の被害を踏まえ、芸術性だけでなく耐震性も考慮されている。地方における近代建築の展開を物語っており、歴史的価値が高いことから1997年7月15日に登録有形文化財を経て、2007年12月4日に国の重要文化財に指定された[1]。 主屋のほか、岩屋(コンクリート製の倉庫、ヨーロッパのバロック庭園によく観られる)、外便所、門及び塀が重要文化財の附(つけたり)として指定され、宅地815m2(庭門、裏庭門、石敷、像、浄化槽を含む)も「建造物と一体をなして価値を形成しているもの」として重要文化財に指定されている。構造の強化だけでなく、装飾にいたってもコンクリートの特性を最大限に生かし、他に類を見ないユニークな建築物となった。 現在は徳島市の所有となっているが、公開はされておらず、市は活用方法を検討中である。
wikipediaより引用

三河家住宅のすぐ脇はJR牟岐線のガード