
令和5年(2023年) 6月7日㈬
「令和5年6月の旅」1日目は久大本線の豊後森に来ました。
久大本線豊後森駅から2.3km先にある三島公園は豊後森藩森陣屋跡、標高576mの角埋山の麓
その三島公園から角牟礼城跡へ向かいます。
*この記事の続きです。
*角牟礼城(つのむれじょう)
大分県玖珠郡玖珠町の角埋山(つのむれやま)にあった山城。弘安年間(1278年 - 1288年)に玖珠郡衆の森朝通により角埋山(576メートル)に築かれたと伝えられる。 その後、戦国時代には、豊前の大内氏と豊後の大友氏との争いを背景により堅固に補強された。天正14年(1586年)の島津義弘による豊後侵攻の折には、玖珠郡衆が籠城したが、島津軍の攻撃にも落城することはなく、難攻不落の城として名を高めた。 文禄3年(1594年)から慶長5年(1600年)にかけて、日田の毛利高政が玖珠の拠点として角牟礼城を整備した。しかし、慶長6年(1601年)に来島長親が入封し森藩が立藩されると、来島氏が城主の格式を有さなかったため角牟礼城は廃城とされ、山麓に陣屋が置かれた。 2017年(平成29年)、続日本100名城(192番)に選定された。
wikipediaより引用

このような道を登ります。

坂道を登ると末廣神社の境内、この建物は栖鳳楼(せいほうろう)と呼ばれる茶屋

*森藩陣屋の敷地内には、来島氏の故地である伊予大三島の大山祇神社の祭神を勧請して三島神社(末広神社)が造営されていたが、天保8年(1837年)、第8代藩主の久留島通嘉が、三島神社の改築を口実として、石垣や茶屋の「栖鳳楼」(せいほうろう)を増築するとともに、藩主御殿庭園、栖鳳楼庭園、清水御門庭園を造らせ、城構えのように整えた。
栖鳳楼は楼閣形式の茶屋で、8代、通嘉による三島神社修築の際に天守に見立てて建てられたといわれており、陣屋の象徴的な建物となっていた。 2重2階で、初重を瓦葺き、2重目を杉皮葺きとする寄棟屋根(現在2重目は銅板葺き)を被せ、紅い漆喰塗りの真壁造で、最上階を雨戸付きの内縁高欄の望楼としている。石垣に接して建てられており、建物1階と神社石垣の間に玄関がある。 近代の簡易な補修や老朽化によっていたんでいたため、2000年から3年かけて従来の姿に修築、復元されている。建物の一般公開は行われていない。
wikipediaより引用

昭和9年(1934年)築の扇形庫と転車台は登録有形文化財、蒸気機関車29612も展示