
令和5年(2023年)3月10日㈮
「令和5年3月上旬の旅」2日目は、大黒様きっぷを使用して弘前からは弘南鉄道弘南線に乗車、新里に来ました。
弘前1150発 黒石行き は新里1158着
コチラの続きです。
弘南鉄道弘南線は9年ぶりの乗車
*2014年6月 弘南鉄道弘南線に乗車

1258発 黒石行き
車両はデハ7100形・デハ7150形
画像は弘前方のデハ7105
東急7000系の譲渡車両、東急時代は中間車だった車両で、いずれも構内入線に際し、先頭車化改造がされている。
弘南鉄道弘南線はワンマン運転、無人駅の乗降は先頭車前扉からします。
車内はほぼ満席、これでは車窓が撮りづらい、終点の黒石まで車窓を撮ることはなく。

終点の黒石1326着、9年ぶりの下車

黒石駅構内に停車中の電気機関車
ED33 3
大正12(1923)製、今年で100年!
元武蔵野鉄道(→西武)デキカ10形13→11形13、昭和36(1961)年に西武鉄道で廃車、弘南鉄道に譲渡、ナンバーもED 33 3に変更、
、弘南線における貨物列車牽引の主力機として運用された。1984年(昭和59年)7月1日付で弘南線の貨物輸送が全廃となったのちは、構内入換用途のほか冬季の線路除雪列車運行に際してラッセル車(キ100形)の動力車として用いられる
ラッセル車 キ104
昭和4(1929)年に鉄道省(国鉄)キ100形キ104として製造 、昭和43(1968)年に弘南鉄道に譲渡、
単線用ラッセル式雪かき車である。

黒石は有人駅、大黒様きっぷを駅員に提示して下車
空き地が目につく駅前、黒石駅に隣接していたコープあおもり黒石店(旧弘南生協黒石店)は2020年6月に閉店、後に解体。

駅の外から見たED33 3とキ104

雨上がりの曇り空の下、黒石駅から歩くこと800m

黒石陣屋跡の御幸公園へ向かいます。

御幸公園に隣接する黒石稲荷神社

拝殿

黒石稲荷神社の案内板
古くから"黒石稲荷さま"と称し黒石村中の産土神として信仰されていた。 文安3年(1446)に秋覚と名乗る人物が別当となり改めて稲荷神が勧請され祭祀が行われるようになり、江戸時代初期に花山院忠長卿(江戸時代初期の朝臣、慶長14年:1609年、後陽成天皇の女官と密通した罪により黒石に配流)により「稲荷宮」として蝦夷館付近に遷座した。慶安4年(1651)には村中で社殿の造営が行われ、慶安5年(1652)に花山院が許され京都に戻る際に岩間家を神官として定め、以降、岩間家が祭祀を司っている。 明暦2年(1656)に津軽信英に黒石領5千石(後の黒石藩1万石)が与えられると当地に黒石陣屋が築かれ稲荷宮は歴代黒石津軽家の祈願所となった(弘前藩領と黒石藩領との境界を決める際、稲荷神が関わったとされる)。 元禄4年(1691 )年、黒石陣屋に隣接した現在地に遷座、社殿の再建や大鳥居の建立などは藩費で行われるなど庇護され、享保11年(1726 )年には「黒石鎮守正一位稲荷大明神」の神位を勅許されています。明治時代に入り八幡宮(江戸時代には境内社として勧請されていた。)を合祀し明治6年(1873)年に郷社に列している。

陣屋は明暦2年(1656年)交代寄合旗本であった津軽信英により築かれた。8代当主親足の代の文化6年(1809年)、加増により1万石を領し大名に列し、黒石藩として立藩した。11代承叙の代に明治維新を迎えている。明治4年(1871年)7月の廃藩置県と黒石県の成立、9月の弘前県への吸収合併により、存在意義を失い廃城となった。 南側には浅瀬石川が流れ、陣屋との間には宇和堰があり、地形的にも自然の要塞を呈していた。大手門近くには、町令所や太鼓櫓があった。さらに、中門、無常門、御制札場などが北側にあった。西側には馬場、南東には津軽信英を祀った御廟があり、南側には蝦夷館(えぞだて)と呼ばれる地が置かれている。御門内に入るためには、大手門か西門を通過しなければならないが、これらは典型的な枡形門となっていた。陣屋の東側には、空堀があったが、明治の初め埋め立てられている。陣屋内には、御殿、台所、御蔵、焔廠蔵が配されていた。浅瀬石川に臨む段丘は比高13mの高さがあり陣屋地では唯一の要害である。 陣屋跡は明治6年(1873年)8月28日、黒石小学校が建設され(後に現在地に移転)。市民文化会館や中央スポーツ館の敷地などとなり、馬場跡が黒石公園(後に御幸公園)となった。
wikipediaより引用
この御幸公園は黒石陣屋馬場跡とのこと

黒石陣屋跡ですが公園内の石碑は「黒石城趾」

御幸公園内、残雪の上に降った雨で歩きにくい


空堀跡?に架かる橋

御幸公園をあとにして次に向かったのは
