令和4年(2022年)9月8日㈭



「令和4年9月上旬の旅」2日目はJR西日本舞鶴線に乗り西舞鶴に来ました。
昨年7月以来の西舞鶴、前回は京都丹後鉄道に乗って来ました。



西舞鶴駅から約500m、田辺城址の舞鶴公園へ

*舞鶴公園(まいづるこうえん)は、京都府舞鶴市の田辺城跡地にある公園。田辺城公園(たなべじょうこうえん)と呼ばれることもある。田辺城の本丸および二の丸の藩主邸の庭園に相当する。19,800m2は「田辺城址」として舞鶴市指定文化財(史跡)となっている。JR西日本および京都丹後鉄道の西舞鶴駅から徒歩7分。

*田辺城(たなべじょう)は、京都府舞鶴市にある戦国時代から江戸時代にかけての日本の城。別名は舞鶴城(ぶがくじょう)。鎌倉幕府・室町幕府の八田守護所(丹後守護所)の後身ともされる。舞鶴市指定史跡

「田辺城の戦い」  1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いが勃発すると、当主になっていた細川忠興は石田三成率いる西軍の誘いを退け、徳川家康率いる東軍に加勢した。隠居していた藤孝は自分の居城である宮津城では西軍の攻勢を防げないと考え、宮津城を焼き払い、田辺城に入城、西軍を迎え撃った。田辺城は石田三成の家老島清興の親族にあたる小野木重勝や豊臣家の重臣前田玄以の子茂勝が率いる西軍・1万5千人に包囲されると、50日に及ぶ戦となった。戦闘の末、藤孝は自身のもつ「古今伝授の書」が戦火で忘却されるのを恐れ、それを後陽成天皇に献上した。藤孝の戦死を憂いた後陽成天皇の仲介で西軍は攻撃をするのをやめ、命を助けられた。田辺城を開城した藤孝は敵将前田茂勝の丹波亀山城に入った。なお、7月15日に田辺城に入城した三刀谷孝和の見聞と叙述を記述したものが『三刀谷田辺記』である。子細な城内事情を詳しく伝えており、当時の一般部将の時局認識の素朴な実態を物語ったものである。

現在の田辺城跡は舞鶴公園になっており、1940年(昭和15年)に復興された二層櫓の彰古館、本来の外堀上に1992年(平成4年)に復興された城門には田辺城資料館、天守台石塁などがある。また濠はすべて埋め立てられていて存在しない。 

wikipediaより引用
舞鶴公園入口に建つ大手門と二層櫓


8年ぶりに訪れた舞鶴公園、前回は無料で見学できた田辺城資料館は入館料200円となっていました。




大手門二階には田辺城資料館

入口にて入館料200円にて入館

入館と同時に購入

田辺城 御城印

今回の田辺城再訪は御城印購入のためでした。 
復興二層櫓の名称は「彰古館」

こちらは入館無料

一階
階段を登り

二階へ、狭い!
彰古館二階からの眺め

彰古館を出て舞鶴公園内を歩きます。

庭園、心種園
本丸石垣
舞鶴公園の前にある小学校の閉ざされた門は

藩校 明倫館の遺構



西舞鶴駅近く

京都丹後鉄道西舞鶴運転所脇の公道から

 KTR001形「タンゴエクスプローラー」 3両編成2本形が雨ざらしで置かれていました。

 2013年(平成25年)3月16日のダイヤ改正により、KTR001形の定期運用は終了定期運用

この車両もまもなく解体されるとの情報から見に行きました。

*この13日後の9月21日、画像手前に留置されているKTR00第1編成の解体が始まったとの事。
奥の第2編成はまだ現存している模様 
サビの浮いた車体が痛々しい

西舞鶴運転所では「丹後くろまつ」専用車両のKTR707が入換作業中




さらば「タンゴエクスプローラー」、もう二度と見ることはないであろう