令和3年(2021年)8月10日㈫
長崎電気軌道電車が一日乗り放題
電車一日乗車券 500円
を使用する長崎市内巡りは岩屋橋で下車
停留所から歩くこと数100m

JR九州長崎本線の踏切が見えてきました。
この付近の長崎本線は喜々津~浦上の新線と喜々津~長与~浦上の旧線が合流する付近、2本の線路は複線ではなく単線並列、
画像手前の線路は電化の新線、奥は非電化の長与回り旧線
踏切の向こうの道路脇の斜面には蒸気機関車が描かれた看板と半分の動輪


原爆列車運行の地 1945.8.9
以下はWikipediaより引用
昭和20(1945)年8月9日の長崎原爆投下後、(市内被爆のため長与駅で抑止されていた下り旅客列車を転用したもの)が、原爆投下から3時間後で炎がまだ燃え盛る爆心地近くまで接近し、多数の負傷者を乗せて沿線の病院などへ搬送した
被爆当日救援列車運行に当たった乗務員の証言によると、最初に救援に入った第311列車(鳥栖駅6時40分発)は途中で15分の遅れが出たため長与駅の到着は11時。出発準備の最中に原爆投下があり、当時長与駅に隣接して設置されていた長崎管理部の職員が同乗して道ノ尾駅まで入ったのが12時頃。被爆者を乗せて13時頃出発し、諫早・大村・川棚の海軍病院に輸送した。この後14時頃に第807列車、16時頃に第317列車、19時頃に第329列車が救援列車として浦上川鉄橋直前まで入った(爆風により橋脚がずれたためこれより先には進めなかった)。さらにもう一本救援列車が運転されたとの話があるが、確認されていない。第311列車が所定のダイヤ通りの運行だと原爆投下時には浦上川鉄橋あたりを走行していたことになるが、途中での遅れのために後続の貨物列車が途中で先行し浦上駅で被爆。乗務員は全員死亡したという。


半分に切断された蒸気機関車の動輪、コンクリートに埋まっているように見えます。
この動輪は2017年に解体、長崎中央公園に保存展示れていた C57 100のものhttps://ameblo.jp/week7rx/entry-12683929979.html


3系統 岩屋橋1339発 赤迫行き
300形310号「みなと」
長崎電気気動車のHP、車両案内から引用
水戸岡鋭治デザイン 310号「みなと」
JR九州の「ななつ星in九州」をはじめとして多くの鉄道車両を手掛けた水戸岡鋭治氏のデザインで路面電車を1両リニューアルし、2017年4月10日より運行を開始しました。 愛称は「 み な と 」です。 「みなと」は単なる移動手段としてではなく乗車している間は内装と車窓の風景を楽しんだり、外装は長崎の景観と一体化して走行している様子を楽しんだりできる車両となっています。 多くの方がご乗車いただけるよう通常の営業車両として運行しております。

乗客は私ひとりの貸切状態

終点の赤迫1344着
赤迫は1面1線の長いホームに2両並んで停車
310号の前方には

交通量の多い道路の中央に位置する赤迫電停
滞在時間10分、早々と折り返し

1系統 赤迫1354発 崇福寺
1300形1304号、長崎銀行の広告電車
終点の崇福寺1429着

崇福寺の車止め

崇福寺も2年ぶりに来ました。https://ameblo.jp/week7rx/entry-12445035425.html
当時の1304号は広告電車ではなく標準色の車体
この頃の情勢
*神奈川は4月20日からまん延防止重点措置適用、8月2日からは3回目の緊急事態宣言
東京都は6月20日から(3回目の)緊急事態宣言からまん延防止重点措置に移行、7月12日から再度(4回目)の緊急事態宣言発令
首都圏1都3県は「不要不急の外出自粛」、「都道府県を跨ぐ移動の自粛」が要請されていました。
まん延防止等重点措置の下での遠出、よって記事タイトルは「令和3年8月上旬の旅」ではなく「令和3年8月上旬の不要不急」とします