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WEBマーケティング屋のブログ

WEBマーケティング屋ブログでは
・役に立つツールのご紹介
・業者任せにしない自社サイトの運営方法
などを中心にWEB担当者、中小企業様でWEBを活用したい
経営者、担当者の方々に向けて情報を発信していきたいと思います。

1.午前中:カバン縫製者トレーニングセンター 
(10:00~11:30)現地集合、現地解散
http://toyooka-hosei.com/
伝統産業の後継者不足に悩まされている地域が数多くありますが、豊岡の伝統産業「豊岡鞄」の職人育成を目的にされた施設です。

2.午後:東海バネ工業株式会社 豊岡神美工場 
(13:00~16:00)現地集合、現地解散。質疑応答あり。
https://www.tokaibane.com/
『日本でいちばん大切にしたい会社4』に掲載されている会社です。「いい会社」の実際に見学し、体感して頂きます。

 
 

過去開催時の見学会から数社抜粋

 

 

2012年8月1日 伊那食品工業株式会社様訪問

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

昨年受講させて頂き、HPでもお世話になっているアテニューム社レゴセミナー

 


【体験コース】レゴ®シリアスプレイ®メソッドと 教材を活用したワークショップ 〜潜在能⼒を呼び覚ます! 新しい価値の創造〜

『レゴ®シリアスプレイ®』とは・・・

レゴ社の研究開発者が思考を形にするメソッドを開発したもので、ブロックを⽤いて、⾃分の⼼の中にある感情や考えなど、⾒えないものを「⾒える化」し、それをメンバーと共有していく過程で⾃分の思う未来像や⾃分が提供できる価値を明確にしていきます。これまでNASAを始め、多くの企業、⼤学、病院等において活⽤されてきました。
今回のワークショップでは、異なる業種や⽴場で゙参加されるメンバーでグループ討知識の共有をしながら問題解決と意思決定を図っていただきます。
また、その過程の中から、⾃分の能⼒を更に発揮できるための新しいビジョンや価値を⼀緒に創造していきたいと思います。

 

ブロックを用いて、自分の心の中にある感情や考えなど、見えないものを「見える化」し、それをメンバーと共有していく過程で自分の思う未来像や自分が提供できる価値を明確にしていきます。

 当コースでは、個々の役割や強みを知り、相互の価値観の違いを理解しながら、自分のやるべきことや気づきを経て、自主的に動ける人材になる方法について体験

実際に体験してみて

基本的に即効性が求められます。。

相手が創ったものを無理やり・・?ストーリー化して自分が創ったもののようにプレゼンしたり

頭の中を物を作りながら表現する等々

チームワークの部分も相手の頭の中や心の中までを目を見て、その人の雰囲気を把握してよりかは

レゴという共通のおもちゃを使って意思を一緒に探しながら共通項を探しながらという過程の中でチームワークが磨かれるのではないか?と年齢、性別、職歴関係なく出来るんだなぁと感じます。

 

100年セミナーでご一緒させて頂いてから

いろいろとお会いする機会が多い いちご王子がこの度ハリウッドデビュー

3月4日にアメリカのハリウッドで行われるアカデミー賞の記念VIPイベントのプレミアムギフトに「いちごの約束」が選ばれまし
た!

アカデミー賞にノミネートされた役者や監督やプロデューサー、アメリカで活躍する有名スポーツ選手などの世界的なセレブたちに
「いちごの約束」を直接手にとって、味わっていただきます!

いちご王子に応援を

アカデミー賞VIPイベントのサポーターの一人としてご支援をいただき、一緒に「いちごの約束」のハリウッド進出を応援
していただきたいのです。

ご支援いただいた方には、感謝の気持ちを込めて、ご支援相当額以上の「いちごの約束」の商品を贈らせていただきます。

ぜひ皆様のあたたかい応援とご支援をお願いいたします。

「いちごの約束」アカデミー賞
VIPイベント・サポート支援

ご支援 : 1口 15000円 (複数口、大歓迎)

特典: 1口に付き いちごの約束18000円相当を
お送りさせていただきます。

※ 取扱店様の特典は、お問い合わせください。

5口以上、応援いただける方には、
いちごの約束の特典以外に5口に付き、
私のコア・バリューブランド コンサルを
3時間分、本気で提供させていただきます。

特典商品は、3月中にお送りさせていただきます

心温まるご支援、心より感謝申し上げます。

ご支援は、こちらから
https://ssl.form-mailer.jp/fms/bc027901548293

禅の知恵と古典に学ぶ人間学勉強会

次回は3月29日の開催になります。

また、今回笠倉先生の新著「禅の人間学」が出版されました。

自分を救うのは「知識」ではなく「知恵」。悩みも、不安も、成功体験も手ばなす。会計士が説くビジネスと人生に活かす禅的思考。

変化のスピードが速く、ストレスの多い現代社会。真面目に努力しても、必ずしも報われるとは限らない環境の中で、さまざまな悩みを抱えて暮らしている私たち。

その中で、「悔いのない人生を送るには、どうしたらよいか?」という根本的な疑問に対して、

禅は、「自己を深く知れば、道が開ける」と教えます。
人間や社会について、これまでとは違った角度で人間学的な活きた知恵のヒントが得られる一冊。
会計士が説くビジネスと人生に活かす禅的思考とは。

 

今回の勉強会は言志四録を取り上げて解説


言志四録についての紹介

「日本の論語」「人生訓の名著」「指導者(リーダー)のための教科書」と言われる『言志四録(げんし-しろく)』は、江戸時代末期の儒学者、佐藤一斎(さとういっさい)が著した随想録・語録です。

 


佐藤一斎は、42歳で筆を執った『言志録(げんしろく)』を皮切りに、『言志後録(げんし-こうろく)』『言志晩録(げんし-ばんろく)』を著し、最終作となる『言志耋録(げんし-てつろく)』を書き上げたのは82歳のときでした。


内容は学問修養の心得、倫理道徳の規範から、指導者論、そして処世の教訓、身体の養生法まで多岐にわたっています。
全体で1133条ありますが、明治維新を導いた薩摩藩の西郷隆盛は、『言志四録』を座右に置き愛読書としていました。さらに、その中から101条を撰び、修養の資(もと)として暗誦するほど読みこみました。


一斎先生の門に学んだ人々は数千人になるといわれますが、その中でも有名な人物は、山田方谷(やまだ-ほうこく)、佐久間象山(さくま-ぞうざん)、安積艮斎(あさか-ごんさい)、大橋訥庵(おおはし-とつあん)、横井小楠(よこい-しょうなん)など、幕末を代表する学者や思想家がいます。

山田方谷(やまだ-ほうこく)

、幕末期に財政破綻寸前の備中松山藩5万石を立て直した名財政家であり、卓越した政治家である。わずか8年間の改革で借金10万両(現在の価値で約300億円)を返済し、余剰金10万両を作った。

明治に入ってからは、薩長閥の重鎮で元勲の大久保利通、木戸孝允などから新政府の要職への就任要請があったが、方谷は固辞。根本思想は「武士も農民も慈しみ愛情をもって育て、藩士・領民全体を物心ともに幸福にする」「領民を富ませることが国を富ませ活力を生む」という「士民撫育」の考え方

そして、彼の物事に向かう基本姿勢は「至誠惻怛(しせいそくだつ)」である。「真心(至誠)と悼み悲しむ心(惻怛)」を人間としての正しい道、最高の行動規範とした。

 

安積艮斎(あさか-ごんさい)

、60歳で江戸幕府直轄の最高学府「昌平坂学問所」の教授を務め、ペリー来航時のアメリカ国書翻訳や、プチャーチンが持参したロシア国書の翻訳及び返書起草に携わるなど、幕末の政治・外交を支えました。艮斎が学び教えていた朱子学は江戸幕府の正学とされており、江戸幕府が国を治めるために利用されていました。ですが、師であった佐藤一斎の影響を受けたのでしょう。艮斎は、朱子学だけではなく、危険視されていた陽明学など他の学問や宗教も摂取した新しい思想を唱えます。また、外国事情にも詳しく、海防論の論客としても知られました。
艮斎の教え子たちは、幕末・維新という日本の大変革期において、中央や地方で指導的な役割を果たし、近代国家日本建設の人材となりました。艮斎の塾は、著名な門人が200人も綺羅星の如く輩出した、日本史上有数の学塾です。

 

大橋訥庵(おおはし-とつあん)

江戸末期の儒学者。江戸の人。日本橋の豪商大橋家の養子。佐藤一斎に学び、朱子学を唱えて、攘夷(じょうい)を主張した。老中安藤信正襲撃を計画して投獄され、獄死。著「闢邪小言(へきじゃしょうげん)」「元寇紀略(げんこうきりゃく)」など。

大橋訥庵の目標、戦略は、「大日本国を蛮夷にならせじと申す所に大活眼を着けたまわねば恢復の成功を得たまうべからず」。
すなわち「日本を蛮夷(野蛮な外国)にしないことが王政復古を成功させる」ことと言っております。

 

横井小楠(よこい-しょうなん)

幕末の熊本藩士・政治家・思想家。肥後生。名は時存、字は子操、通称平四郎、別号に沼山。江戸に遊学して藤田東湖らと交わる。藩校時習館の守旧的な学風を批判、元田永孚らと実学党をつくり、私塾小楠堂で子弟を教育する。のち福井藩主松平慶永(春獄)に招かれて藩の政治顧問となり藩政改革を指導

 「実際に役立つ学問こそ、最も大事」という小楠の教えを受けた人たちのグループを「実学党」と言います。当時の熊本(肥後藩)には、実学党に対して、保守的な「学校党」とか、尊皇攘夷をめざす「勤王党」などのグループがあり、幕末から明治にかけて、政争を繰り返していました。

文久2年(1862)、幕政改革のため、次のような「国是7カ条」というものをまとめています。

国是7カ条

  • 大将軍上洛して、烈世の無礼を謝せ(将軍は自ら京にいって、天皇へ過去の無礼を謝る)
  • 諸侯の参勤を止め、述職とせよ(参勤交代制度の廃止)
  • 諸侯の室家を帰せ(大名の妻子を国元に帰す)
  • 外様譜代に限らず、賢を選んで政官となせ(優れた考えの人を幕府の役人に選ぶ)
  • 大いに言路を開き、天下公共の政をなせ(多くの人の意見を出し合い、公の政治を行う)
  • 海軍を興し、兵威を強くせよ(海軍をつくり軍の力を強くする)
  • 相対貿易を止め、官の交易となせ(貿易は幕府が統括する)

勝海舟曰く「おれは今までに天下で恐ろしいものを二人見た。横井小楠と西郷南洲だ」。日本史の教科書でもろくに取り上げられず、幕末もののドラマで登場することもほとんどない。しかし小楠こそ、坂本龍馬や西郷隆盛をはじめ、幕末維新の英傑たちに絶大な影響を与えた「陰の指南役」であった。

 

 


このうち、幕末日本の先覚者といわれる象山(ぞうざん)の門下から、勝海舟(かつ-かいしゅう)、坂本竜馬、吉田松陰(しょういん)、小林虎三郎などの幕末の日本を動かした志士が輩出しました。
また、吉田松陰の門下からは高杉晋作、久坂玄瑞(くさかげんずい)、木戸孝允(きどたかよし)、伊藤博文、山県有朋(やまがたありとも)などが輩出して、輝かしい明治維新を形成することとなります。

生前に次々と刊行された『言志四録』によって、一斎と直接面識のない幕末の志士にも大きな精神的影響を与えたのです。
なかでも、西郷隆盛は、『言志四録』をほとんど暗誦するまで繰り返し熟読してその中から101の言葉を選び出したのでした。こうして『西郷南洲(なんしゅう)手抄(しゅしょう)言志録』が生まれたのです。佐藤一斎の教えは、『言志四録』によって、ことに西郷隆盛によって、明治維新の精神的支柱となったと言えます。

「言志四録」「言志四録」は、佐藤一斎の人格と学問が結集した名著で、40年をかけて書きつづられた随想録です。
一斎の生前に『言志録』、『言志後録』、『言志晩録』、『言志耋(てつ)録』の4書として出版されました。その総称を「言志四録」といいます。比較的短い箴言(しんげん)の集まりですが、記載されたものは全体で1133条にもなります。西郷隆盛は、その中から101条を抄録して、繰り返し味読しました。

(1)天につかえる心

凡(およ)そ事を作(な)すには、
須(すべか)らく天に事(つか)うるの心(こころ)有るを要すべし。
人に示すの念(ねん)有るを要せず。
(言志録・第3条)

(現代語訳)
すべて事業や行動を起こすには、天(大自然・神・仏)に生かされていることを考え、それに感謝し、敬(うやま)う気持ちを忘れてはならない。他人に誇り、認めてもらおうとする気持ち(私心)があってはならない。

この言葉は『言志四録』の中でもとても有名な章で、私たちが日常生活の中でつい忘れがちな真理を教えてくれています。


「天に事(つか)うる」とは、天を敬して己を尽くして誠実に生きることです。佐藤一斎は、上記の言葉をさらに短く、「尽己(じんこ:己を尽くす)」という二文字にして、弟子の山田方谷に書いて贈ったと伝わっています。


自分をあざむかずに、誠実に物事に取り組むことによって、はじめて人間が真実となり、自分が関わるところの一隅を照らすことができるようになります。一隅を照らす人間になれることが、この世に生きる私たちにとって最も肝要なことであり、他人の評価を気にする必要はないと

一斎は教えています。

 

『修身教授録』で有名な森信三先生は、つぎのように開設されています。
<森信三先生の解説:『西郷南洲の遺訓に学ぶ』より>
p.127 相対をすてて絶対に帰する

この節は甚(はなは)だ簡明ではありますが、しかし翁の根本信念を示すにおいて、おそらくは、最も根本的な節と申すべきでありましょう。すべてはこれだけに尽きていると申してもよいのであります。

「人を相手にせず、天を相手にせよ」これすなわち相対(そうたい)をすてて絶対(ぜったい)に帰するということでありましょう。

人というものは、我と相対立するもので五分五分のものであります。かく相対的な五分五分の関係では、向うが変わればこちらも変わるのである。すなわち動揺(どうよう)恒(つね)なきものであります。向うが強ければこちらが引き摺(ず)られ操られる、これが相対的関係というものであります。
それから脱して天を相手にする、すなわち絶対を相手にして絶対に帰し、絶対に自己をささげる。そこではじめて相対的なる人情の離反(りはん)合不合ということによって一々自己が動かされることがなくなるのであります。

天を相手にすることによって、始めて人は己れを尽して人を咎(とが)めず、つねに自己の誠の足らざるを尋ねるという処にも到るのである。天を相手にすれば、己れを尽すということは自然に出来るのであります。(中略)

人を相手にしていると、人の態度が一々問題になります。人をはなれて、天を相手にすれば、人の事は第二義、第三義になって、成程(なるほど)よい方がよいには違いないが、しかし仮りによくしてくれなくても、それが第一義的な関心事とはならなくなるのであります。
道理からすれば「天を相手にせよ」とただそれだけでよい。天を相手にすれば、それ以下のことは自らにして出来るわけであります。

そこで又、「己れを尽(つく)して人を咎(とが)めず、わが真の足らざるを尋ねる」ということは、天を相手にするという態度を一歩一歩徹して行く。すなわち工夫の一歩一歩という意味を持つのであります。

一燈の明るさを頼りに進む

一燈(いっとう)を提(ひっさ)げて、暗夜(あんや)を行く。
暗夜を憂(うれ)うる勿(なか)れ、只(ただ)一燈を頼(たの)め。
(言志晩録・第13条)
(現代語訳)
暗い夜道をひとつの提灯(ちょうちん)をさげて行くとき、闇夜の暗さを心配するのではなく、ただ提灯の明るさを頼って行けばよい。
(後ろを向いて不安がるのではなく、前を向いて進め)

「言志四録」の中でも最も有名な言葉の一つです。ここでいう「一燈」とは、すべての人の心の中にある霊的な光(心の力)のことです。禅宗では仏心といいます。人が前向きに進もうとするとき、心の光は、意志となり、知恵となって、行く先を照らしてくれるということを佐藤一斎は述べています。
逆にいえば、心が光を失って暗く沈むとき、たとえ行く先に明かりがあっても、その明かりを見失って、暗闇にさ迷うことになるとも言えます。そうならないために、日ごろから古典を学び、心を磨いて行く必要があるのではないでしょうか。

日ごろ親しくさせて頂いております上岡社長

 

の書籍の紹介

新刊「株は1つの鉄板銘柄で1億稼ぐ」
新刊「株は1つの鉄板銘柄で1億稼ぐ」

【著者】上岡正明(かみおか まさあき) ◎MBA(多摩大学大学院)博士前期課程※2018年卒業予定。1975年生まれ。放送作家として「笑っていいとも」「スーパーJチャンネル」「めざましテレビ」「タモリのスーパーぼきゃぶら天国」などの人気番組を手がける。 ◎27歳で起業。戦略PR、ブランド構築のコンサルティング会社を設立。これまでに三井物産やSONYなど200社以上の企業ブランド構築、スウェーデン大使館やドバイ政府観光局などの国際観光誘致イベントやPRなどを行う。起業後、元手200万円で株式投資をスタートさせ、現在は株の保有資産が2億円超。 ◎バンタンJカレッジ客員講師、日本神経心理学会会員、日本行動心理学協会会員、一般社団法人日本行動分析学会会員。大学や大使館に招聘されての講演、また全国の商工会議所や東京都中小企業公社で300名規模のセミナー講師を務めるなど、講演者やメディアプランナーとしても活躍。著書に『うねりチャート底値買い投資術』(ダイヤモンド社)などがある。

 

15年の株式投資ライフで2億円の利益を得てきた著者。 そして、利益の7割は、ただ1つの銘柄を売買して、稼ぎ出したものだった――。 そのメソッドは超カンタン。株価の動きには、一定の上げ下げを繰り返す法則性(うねり)があるので、うねりのクセをつかんで、安値で買って高値で売って……を繰り返すというもの。 本書では、そんなオイシイ投資ができる銘柄を「鉄板銘柄」とネーミング。 著者が15年かけて蓄積してきた中でも、初心者にこそ知ってほしい大事な知識(正しい買い方・売り方、待ち方、そして負け方)から、「鉄板銘柄」の見つけ方まで、わかりやすくレクチャーします。

 

自分には程遠い世界の話ですが。。 HPはじめ、公私共にお世話になっている方についてはしっかり内容を把握していこうと。 そんなことが勉強しようというモチベーションにつながるきっかけになります。

感性論哲学入門講座

 

感性論哲学を学びたいと思う方への入門講座です。こちらの講座を受けてから東京思風塾に臨まれると、理解が深く、多くの気づきが得やすいでしょう。


人間の本質は感性で命の本質も感性 それを基準にしているのが感性論哲学
多くの人達は問題があってから考える。
それは哲学なき生き方であり、哲学を持って生きるという事が大切。
哲学は人間が幸せになりたいというのが根本にあり、時代時代に合わせて変わってきた。
現在は理性から感性の時代に原理的に変化しようとしている。

つまり、現代においては心を求める時代になってきたという事。それが今まで理性的な考えで日々の生活や世の中が動いてきたことがこれからは感性を大切にする時代への過渡期になろうとしている。人間が幸せになる、幸せにする為には理性だけでは難しく感性を取り入れる事でより日々の生活や仕事、人間関係において良好な関係を築くという心が求められる時代。

その様な心を基にした感性論哲学を分かりやすく解説しながら実生活に活かしていこうとする講座になります。

偶数月の第1月曜日18:30〜21:00に開催

①4/2(月)18:30〜21:00
②6/4(月)18:30〜21:00
③8/6(月)18:30〜21:00
④10/1(月)18:30〜21:00
⑤12/3(月)18:30〜21:00

過去開催時の中から

「人生は愛と意志のドラマである」

感性論哲学は理性を否定するのではなく
感性は主で、理性は押さえつける為にあるのではなく育てる為にあるということ。

そして人生は愛と意志のドラマであり
愛と意志の両方とも力をつけていく事が大切で、どちらか一方ではなく両方とも大切である。
理性能力が知識、技術であるとするなら
愛も能力として育てていくべきものであり、
愛がついていかずに意志だけだと、希薄な人間関係や正しい事は言ってても心では伝わらない、そんな人間関係を作ってしまうかもしれない。

だからこそ、愛について学び、育てていく事が人間関係を解決するきっかけになるかもしれない。

その愛の延長線上において、円滑な人間関係と意志である能力を兼ね備える事が出来れば仕事においても人に喜んでいただける能力と人間性を高めて本物の人間になる事を目的としています。日々の行動に置き換えた際に感性論哲学があなたの行動に活きる哲学として共に学んでいきましょうという事でお話頂きました。

 

 

2018年4月2日(月)感性論哲学入門講座開催します。

 

2018年4月2日(月)感性論哲学入門講座開催します。

 

2018年4月2日(月)感性論哲学入門講座開催します。

 

2018年4月2日(月)感性論哲学入門講座開催します。

2018年4月2日(月)感性論哲学入門講座開催します。

 

2018年4月2日(月)感性論哲学入門講座開催します。

 

2018年4月2日(月)感性論哲学入門講座開催します。

 

2018年4月2日(月)感性論哲学入門講座開催します。

2018年4月2日(月)感性論哲学入門講座開催します。

 

 

感性論哲学について

「感性論哲学」は、芳村思風先生が30数年前から提唱されている「感性」を原理にした新しいこれからの時代の哲学です。

感性論哲学とは

人間の本質は感性で命の本質も感性 それを基準にしているのが感性論哲学

多くの人達は問題があってから考える。

それは哲学なき生き方であり、哲学を持って生きるという事が大切。

 

哲学は人間が幸せになりたいというのが根本にあり、時代時代に合わせて変わってきた。
現在は理性から感性の時代に原理的に変化しようとしている。

つまり、現代においては心を求める時代になってきたという事。それが今まで理性的な考えで日々の生活や世の中が動いてきたことがこれからは感性を大切にする時代への過渡期になろうとしている。人間が幸せになる、幸せにする為には理性だけでは難しく感性を取り入れる事でより日々の生活や仕事、人間関係において良好な関係を築くという心が求められる時代。
・欲求
・欲望
・興味
・関心
・好奇心
これら沸いてくるものが今までは理性で抑えられていたが、感性の視点から人間の心の中で湧き上がってくるものを育てていく。そして人に迷惑をかけないために理性を使う。

 

人間に例えて見た場合に、人間の感性の実態は3つの作用があり
統一作用、合理作用、調和作用
「感性」は、この3つの能力によって、何が一番適切な行動であるか、優れた判断であるか、それを常に探り求めながら活動しているとの事です。
「感性」は常に真実なるものを求め感じる力、本物を求め感じる力。感動を求め感じる力、人間において本当に素晴らしいものを求め感じる力として働いています。

人間の本質が感性であり、その実態が愛と意志ならば、現象として起こる問題は、愛の実力を高めるために生じたり、意志を明確にするために起こるのだと解釈できます。それが分かれば、問題に対する不安や恐れは和らぎます。
本質と現象。これは同じもので勝手には起きない。

本質を「感性」と置き換えると、興味関心のあることに目がいって、同じく興味関心のある人と出会う事がある。
人間の心は意味と価値を感じる感性であるから意味と価値を感じる方に人は行く。

そこに対しておのずと愛着を持っている様な現象が起きる。愛が薄ければ薄い現象が起きる。

愛と意志が人間の本質であった場合
意志なき愛は人を堕落させる
愛なき意志は、人を傷つけることなしには、その目的を達成しえない。
(人生において生きがいや喜び、充実感を求めるならば、人間は誰でも心から愛することができるものと、人生を賭けて意志するものを持たなくてはいけません)

そして

感性論哲学は理性を否定するのではなく
感性は主で、理性は押さえつける為にあるのではなく育てる為にあるということ。

そして人生は愛と意志のドラマであり
愛と意志の両方とも力をつけていく事が大切で、どちらか一方ではなく両方とも大切である。
理性能力が知識、技術であるとするなら
愛も能力として育てていくべきものであり、
愛がついていかずに意志だけだと、希薄な人間関係や正しい事は言ってても心では伝わらない、そんな人間関係を作ってしまうかもしれない。

だからこそ、愛について学び、育てていく事が人間関係を解決するきっかけになるかもしれない。

 

 

 

 

行徳哲男先生の出会い

 

昭和51年11月。
芳村思風先生 34歳の時、「感性論哲学の世界」という本を自費出版した。どこの出版社でも取り扱ってくれない。東京の大きな書店を回り、4~5冊ずつ置いてまわった。

 

「代金も利益もいらないから、この本を置いてください」「もし売れたら店長のお小遣いにしてください。」

2,500円の本だ。
いくつかの書店でレジの横に平積みにしてくれたそうだ。
その中の1件に、渋谷駅前の大盛堂という書店があった。

本を並べた翌日。

行徳哲男先生が何気なく、その本屋に立ち寄って、
「感性論哲学の世界」を手にした。

 

「考え方ではなく感じ方が人間を決定する」

 

行徳先生は、扉に書かれたこの言葉を見て、衝撃が走った。自分がやってきたこと、やろうとしていたことの裏づけが、その本に書かれていた。今までやってきたことに間違いはなかった!そう確信したそうです。行徳哲男先生は、その日のうちに、芳村思風先生に連絡を取った。翌日、芳村思風先生は、三重県鳥羽市から、東京の行徳哲男先生のもとへ駆けつけた。「その日から私の人生は変わりました」と芳村思風先生はいつも言う。先人の哲学者の研究という象牙の塔の世界から離れ、20代で、「感性論哲学」を考え出した。もちろん受け入れられるはずがなかった。

「感性」という言葉すら、今のようにはとらえられていなかった時代。
「理性」を磨くことが第一の時代。
「人間の本質は、理性である」と言われていた時代。

「人間の本質は、感性である。」34歳の時書いた「感性論哲学の世界」を、自分の考えを、一人でも聞いて欲しい。ただそれだけの気持ちで、本屋さんに置いてまわった。行徳先生が、実業の世界へと結び付けてくれた。

 

感性論哲学を人生に活かす。
感性論哲学を経営に活かす。

 

多くの経営者の方が、感性論哲学との出会いで「自分の中に1本の芯ができた」と話されています。

「いろいろな問題や悩みはあるけど、少しくらいの事では、動揺しなくなった。」そんなお話をよく聞きます。

「行徳先生がおられなかったら、今の自分はありません」「行徳哲男先生は、わたしにとって100%の存在です」一人でも自分の考え方を知ってもらうだけでいい、と自費出版の本を配ってまわった芳村先生。1冊の本と出会って、すぐに行動した行徳先生。以来30数年、変わらず二人の盟友関係が続いているそうです。

 

 

行徳哲男

2016年11月3日、第4回思風会全国大会inTOKYO

 

行徳哲男

日本BE研究所 所長
行徳哲男 (ぎょうとくてつお)

1933年福岡県生まれ。成蹊大学卒業後、大手財閥系企業に入社。労働運動の激しき時代に衝撃的な労使紛争を体験し、「人間とは何か」の求道に開眼。69年渡米、Tグループと出合い、米国流の行動科学・感受性訓練と、日本の禅や哲学を融合させ「BE訓練(Basic Encounter Training)」を開発。71年日本BE研究所を設立し、人間開発・感性のダイナミズムを取り戻す4泊5日間の山中訓練を完成させ、99年に終了するまで、政財界、スポーツ界、芸能界など各界のリーダー及びその子弟18000余名が参加する。その影響力は、日本にとどまらず、韓国、中国、アジアの政財界リーダーに及ぶ。現在、感性論哲学者の芳村思風氏、筑波大学名誉教授の村上和雄氏らと共に、シンポジウムを通じて「21 世紀の日本の使命」を担い得る若者たちを育てる夢に賭けている。著書・共著に「いま、感性は力」「いまこそ、感性は力」他、多数。

 

 

ジャパンベンチャーアウォード(JVA)2018

経済産業大臣賞は、株式会社ミライロ 代表取締役社長垣内俊哉氏が受賞

ミライロ様、大阪事務所にて垣内社長のお話お伺いする機会があり

ユニバーサルデザインとバリアバリューという言葉について熱い想いを語っていただきました。

障害も見方を変えれば強みととらえられる。障害を価値としてとらえる『バリアバリュー』

ユニバーサルデザインは当時、障害者のためという側面が強く、ひとごとと受け止める人が多かった。90年ごろにユニバーサルデザインという言葉が広がり始め、現在高齢化が進み、20年のパラリンピックも控え、海外の人も多く日本に足を運ぶ。バリアフリーよりも広い視野で多様性を考えた言葉に進化しつつある。

正直、年下でありハンデを背負いながらも堂々としている姿、そして過去の苦労を克服した時のお話など、特に思春期の頃に自殺未遂を何度もしてしまう程の所から独立起業に至るまで

ハンデを背負ったからこそ見えて感じる事の出来た大変さと素晴らしさ両面を語っていただいたのが印象深かったです。

 

釈正輪 講話会

毎月開催されている講和会において参加しながら歴史、仏教、宗教、その他もろもろと様々な分野について先生の話を聞きながら、自分自身にどう応用していくか?の視点で常に学ばせて頂いております。釈先生がいつもおっしゃられるのは
「日本人が世界に旅立つ事。そして日本の文化が世界に誇れる人材がどんどん海外に出て尊敬される事」という事で活動されていらっしゃいます。
自分たちのルーツを知る、他人のも知る。その差異を認

めながら
新しい文化、文明を創る事が必要と!

 

 

 

 

過去開催の内容から

興味深いテーマを何点か。

「命の重み」

「仏教は宗教ではない」

「真実のイエスキリストの教え」

「日本とイスラエルの類似」

「正しい歴史観を持つという正史観」

 

「命の重み」は即身仏について

即身仏には即身成仏という(生きたまま悟りを開く)という教えがあり、自分の死を持ってその方々の苦しみを救いたい、死後の霊力で助けたいというのがあるそうです。仏教の教えでは、他人の為に亡くなる行為は自殺とは言わないそうです。また、ここ半年において昨今の凶悪犯罪で釈先生自身被害を受けた方との面識があり、何故普通に生きて生活しているのにも関わらずそういう方が被害を受けるのか。。

祈りや加持祈祷ではどうしようもない事もあると。

そんな中において、本当に大切なのは「友」(仲間の存在)それがあるから頑張れる。

 

「仏教は宗教ではない」

仏教は仏道であり、宗教ではない。言い換えると仏教は思想である。本当の仏教と言うのは、超ニヒリズムで、現実的お釈迦様(ガウタマ・シッダールタが本名)の誕生から亡くなるまでの内容を事細かく教えて頂き神様、仏様と手を合わせて拝むのを望んでいたのではなく、自分自身の心に向き合う事を説いていたという事で

 

「人間の心の中から全て苦しみが生まれる」

心の境地を仏道と捉え四諦という言葉で


苦諦:苦という真理(このなかに生きる悩み、老いる悩み、病気の悩み、死ぬ悩み)
集諦:苦の原因という真理
滅諦:苦の滅という真理
道諦:苦の滅を実現する道という真理


という事で4つの苦しみがさらに細分化して四苦八苦という言葉が生まれた。

お釈迦様は上記の様な悩み、苦しみを心を正して不安を少しでも和らげていく為に正しい言葉、姿勢、反省をする事が大切
そして

「使命があって意味があって生まれてきている」

幸せになる為に私のことを認めてくれる人がいて、私の周りにいる事が大切とお釈迦様が説いている。

私と相手同じ目線で見てくれる、認めてくれる人がいる時にカルマというのが浄化されブッダになっていく(なお、ブッダは誰という事ではなく誰でもなれるとの事で悟りし者の名前)
その為にも対話説法を重視して行っていたとの事です。

 

つまり、絶対的な権威があって、これでなければいけない!という事ではなく、その人その人に合わせて同じ目線で見ていたという事かなと思います。
お釈迦様は現在のインド(当時北インド、現ネパール)でシャカ族(シャーキャー族)の王様として29歳までは過保護に豪遊生活をしていたが、外の世界を見た時にこれではいけないという事で6年間修行に出て何故生まれ、老い、死ぬのかを問い続け、その後80歳の2月15日に亡くなるまで対話説法を続けていたと。

 

「真実のイエスキリストの教え」

戦国時代の武将(大友宗麟、蒲生氏郷 、黒田長政 、小西行長 、
高山右近等)が何故当時厳しい時代に新しく入ってきたキリスト教に改宗(キリシタン大名)になったのか?

その何故が重要で。そこには「愛」があったと。

それまでは主従関係が当たり前で、与えたら求めるというのが当たり前だった時代に

「イエスは与え続ける」当時与えるというのが新鮮で、当時の武将がキリスト教になった経緯はみんな千利休の影響が強いと言われ、利休の下に集まった武将は改宗し、その後影響が強くなった為に秀吉に弾圧されたと。

「日本人が世界に旅立つ事。そして日本の文化が世界に誇れる人材がどんどん海外に出て尊敬される事」

という事は昔から今も仰られていて、
自分たちのルーツを知る、他人のも知る。その差異を認めながら新しい文化、文明を創る事が大切!

その文化を学ぶ為に

歴史を学ぶ講和会から
座禅・写経教室
礼法教室
体験修行

等々

聖職者の活動は伽藍維持や儀礼が主体であるべきではなく、如何に衆生を救うかにあります。寺院にはそれ自体、衆生を癒す働きがありますが、しかし僧侶本来の責務とは、人々に「今を力強く生かさせる」勇気を与える為の流布でなくてはなりません。

 

日本とイスラエルの類似

まずは古代イスラエルと近代イスラエルとの違いについて
近代イスラエルついてはユダヤ人を中心に
「ユダ族」が世界中を放浪しており(当時のユダ族においては国を創りたいというのが夢であった)

ユダ族が世界中で商売を行って利益が出て(ただし、金貸しでの利益であったこと)と

汗水流して働く事が仕事の基本とみなされていた時でありそのお金をアメリカ、イギリスに渡して、その見返りにイスラエルという国家を創り近くにパレスチナがあってパレスチナ人を排除して結果中東戦争につながっていったという経緯。


古代イスラエルについては
アダムとイブがおりサタンがイブにりんごを与えてそのりんごを噛じった結果、羞恥心が芽生え性の営みを持たせてアダムにも食べさせて神の逆鱗に触れてしまったと。


また、今回のテーマの日本とイスラエルついてはモーゼの話に遡るのですがモーゼは実は桃太郎と非常に類似した過去があり
どんぶらこのお椀が川で流れてくるところからこれは神様が与えてくれた子供だと思い、育てられただし、モーゼは自分がカナンの出身だということを知って親子の対立が生じてしまうと。

 

モーゼは兄がいることを知り(名前はアロン)アロンはパレスチナを建設し初代国王の名前がダビデであったと。
イスラエルは北イスラエルと南イスラエルとに分かれており、アシリア帝国が治めた後にバビロニア帝国が出てペルシャ帝国が出来た。ペルシャの立法で自治を認めていた時に、イスラエルに帰る事を許されている中で、唯一戻ったのがユダ族であったと。
ほかは東へ東へ移動して日本にたどり着いたと言われています。また、日本にたどり着くまでにおいては朝鮮半島を経由して渡った経緯があるとの事でその様な我々の文化文明がたどり着くまでの歴史や背景を知る事が重要であると説いていらっしゃいます。

 

 

「正しい歴史観を持つという正史観」

歴史(古代)について天武天皇、藤原不比等により古代文献、古代文書が抹殺されたであろう話から、天皇家とのかかわり

歴史的に抹殺されたであろう部族は恐らくたくさんいるとのこと。だから歴史的に古事記がスタートになっていて、それ以前の書物が残っていない状況。

書物としては残っていないが恐らく歴史的に抹殺されているであろうから公に世には出せないとのことでした。

また、士農工商において現在の制度になっているのは江戸時代以降から、その前は士農工商の下には2つ分類されており

実はその1つに天皇家とのかかわりの所があったとのこと。

 

 

何故なら血統(血をまぜらせたくない)それは卜部族や忌部族はその名の通り、占いをやって、葬式をやっていた。それも天皇家のを行っていたとのことで、血統がまざっているであろうというのは近親相姦で障害を持つ可能性が高く、血統を大切にするからこそそこに他の血が交わらない様にとのことであえて他の部族が入らない様に排除する形式を持っていたとのこと。

 

面白いのは、Y染色体というのがあり

人間は23対の染色体を持ちその性染色体は、女性は『XX』で男性は『XY』と呼ばれている

この一つだけ違う『Y』の部分が男性になることを決定するので、『Y染色体』は父親から息子にのみしか遺伝しない

 

つまり「男系男子」のみに『Y染色体』が継承されるということになる

 

Y染色体は、その男性の父親のものであり、同時に祖父、曽祖父のものとも同一、神武天皇から今上天皇まで受け継がれてきたという事。

そのY染色体が男系にしか継がれないからこそ、皇位継承においても男系が大切と捉えられているという事があり、昔から血統(血筋)を大切にしてきたことにより遺伝子(DNA)が受け継がれている。その視点に置いていい悪いは別として男系を重視するのはそこにあるとのことでした。

 

 

参考情報

皇統の本質はY染色体である

何故天皇家は男系の血筋を守るのか?

 

大阪思風塾、テーマはこの命何のために使うのか
思風先生曰く
「このためになら死んでもいい」
と思えるものを見つけること。
「このためになら死んでもいい」という仕事や「この人のためになら命も惜しくない」という人
との出会いが、命を燃えさせる。

「このためになら死んでもいい」という想いで、どういう生き方をするか、何をするかということを自ら考えていくところに人間的な生き方の基本がある。

理性で考えた夢・目的・目標は、決して人間の命に真の喜びは与えない。
理性で作った目的を実現しようとした瞬間から、その目的や結果に囚われてしまう。

自分の使命は、これだと思っても、問題が出てくると「これでいいのか」と不安になることもある。
「このためになら・・・」と燃えるものがあれば、どんな問題も乗り越えていける。

燃えてこそ人生。
感じてこそ人生。

 

また、3月からは後継者育成講座もスタートします。

感性論哲学を仕事にどうを活かしていくか、生活や教育にどう活かすかを他の参加者の方の話や思風先生との質疑を通して考えていくための講座です。感性論哲学を学び、取り入れて自分の哲学として、実践を通して、「感性論哲学」を後世に伝えていく後継者の育成講座

大阪開催の様子(思風会全国大会in大阪から)

 

「つながる」対立から思いやりの心へ

思風先生からは、人間同士がつながるにはどうつながればいいのか?それは人間の本質は心であるから心のつながりが大切という事で講演頂きました。

世の中はまだまだ仕事や親子の関係など、理屈で言ったり、対応したりなど理屈で物事が解決するというのが多い状況において、心をあげるということを行っているのがまだまだ少ない。その心をあげるというのはどういう事なのか?

それを感性論哲学では、「人生は意志と愛のドラマ」と捉え、意志と愛を持ち、そして与える事が心をあげる事である。

・認めてもらいたい
・分かってもらいたい
・褒めてもらいたい
・好きになってもらいたい
・信じてもらいたい
・許してもらいたい
・待ってもらいたい

そういう気持ちが現実社会で生きる中の心の欲しい叫びではないか。

心をあげるとは

・認めてもらいたい努力をする事
・分かってもらいたい努力をする事
・褒めてもらいたい努力をする事
・好きになってもらいたい努力をする事
・信じてもらいたい努力をする事
・許してもらいたい努力をする事
・待ってもらいたい努力をする事

努力を何度も申し上げるのは、愛というのは努力なしに相手に通じない。

 

愛の実践は努力

相手のために努力する気持ちがなくなれば愛は無くなるが相手のために努力する気持ちがあれば愛は存在する。努力の姿勢を相手の前に示して見せる。言葉をかえれば思いやりの心!行動に示して相手に対し提供するのが思いやり

それを確かめる為には
相手が自分のためにどの程度自己犠牲的な努力をしてくれるかで、相手が自分を愛してくれているかがわかる。

会社経営について「企業に人間味を与える」

仕事のつながり、役職のつながりだけで動いていくのではなく人間の本質は理性から感性へと変わっているのであれば、会社において強い団結力、一体性をつくろうと思ったら、会社の土台に心のつながりを作っていく必要がある。これからの企業のあり方として

会社の土台に心のつながりを作る

その上に仕事のつながりを作り

その上に役職のつながりを持たせる

そういう3次元の形で企業経営を進めていくのは全世界的に、人間味を持たせるという理屈を超えた心のつながりを持たせる事が求められている。

対立について

対立を乗り越えてよい人間関係に戻していくには!まず対立とはどういう事かを把握する所から始めるべきであり、違いが原因となって対立が生じるのが対立。

その違いが出てくるのは後天的に作られるもの。

それには5つあり

1、体験が違う
2、経験が違う
3、知識情報が違う
4、物事の解釈が違う
5、人生におけるさまざまな出会いが違う

それぞれの違いがある中、考えが違うのは自分にはない体験や知識情報など、自分に持ってないものを誰が持っているかを教えてくれる事!と捉える事が大切。

同じ考えの人とばかり付き合うのでは対立しない分気楽ではあるが成長する事は難しい。

相手から学ぶという事が大切であり、自分に無いものを相手から学びあい教えあうという事で対立、違いという事事態、解釈を変えて自分に持ってないものを誰が持っているかを教えてくれる事と捉える。

最後に

人間を愛するとは

人間は長所半分、短所半分。

人間を愛するとはその人の長所も短所も含めて受け入れる事。

短所を愛する努力

人間関係が壊れずに思いやりの心を持つには短所に対してどう向き合うかが大切。伸びる長所を伸ばしていくと短所は何も努力しなくても人間味に変わる。その長所を伸ばして人間味が出てくる事を感性論哲学では角熟という言葉を用いている。

まん丸にはならず、とんがったところが個性(角熟)。角張ったまま成長していくという事。個性のある本物は、角張ったまま熟していくのです。角張ったまま熟していくところに、個性ある本物の人間の姿があります。

思風会

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思風会全国大会

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思風会全国大会

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平成の世は来年平成30年を最後に大きな転換期を迎えようとしています。このような時代は、感性から捉えるとまさに歓迎すべき時代の到来とも言えましょう。これからの混沌とした時代をリードしていくのは日本人だと感性論哲学は説きます。そのために日本人の覚醒こそが求められていると感じます。


日時:2018年2月22日18:30〜
会場:株式会社アドバネクス本社会議室
〒114-0014 東京都北区田端6丁目1−1 田端アスカタワー 3F
http://www.advanex.co.jp/corp/company/map_headquarters.htm

会費:無料

懇親会:会議終了後、懇親会を予定しています。
一人でも多くの方のご参加を期待しております。

大遷都委員会とは


大遷都論は、感性論哲学の創始者である芳村思風先生が、20年以上前から、感性論哲学の帰結として、強く説いていらっしゃいます。

「日本人が果たす役割」

日本の真上に世界の中心がある。日本人自身が人類の指導者になるべき、我々が目標を掲げて人類を導いていく指導的役割を日本人が自覚する。

その自覚を持つきっかけとして
日本が東京から広島へ日本の首都を移す大遷都があります。

我々は思風先生の想いを基に大遷都が叶う事でいかに日本が発展し、世界から尊敬される日本になれるかを東京思風塾の塾生と共に勉強会を通じて学んでいます。

時代を捉える背景として
1、歴史は風土と民族と国家と思想で変わりながら進んでいく
2、全ての存在は存在する事への必然性を持って存在している
3、全ての存在は存在する事への必然性を実現しきった時完成され衰退していく
4、一度完成された形式に到達したものは保守化して時代に取り残されていく
5、一度歴史的使命を終えた時、潜在能力を出し切った者は2度と歴史の主役になり得ない
6、人類は人類としての潜在能力を実現しきった時衰退する
7、世界の歴史を動かす力は2つある。「因果律と自由律」
8、時代を興す原理はまた時代を壊す原理でもある
9、不安を解消し安心を実現する事を目的に歴史が創られる
10、時代欲求や時代感情、時代感性が歴史の方向性を決定する
日本人自身が人類の指導者となり、我々が人類に未来への目標を掲げて導いていく。その様な指導的役割を持てるのが日本人である。

どう表現するかというとやり方として大遷都が挙げられる。

大遷都を東京から広島へ。何故広島かというと明らかに戦争から平和の時代に変わっており平和の原点というのは世界の共通認識。
世界から認められ認識されるのは広島に首都が移るという事が日本人が平和を実現する指導者として世界の認識が変わってくる。

 

 

日本の遷都の歴史

 

1難波遷都

第33代推古天皇から第40代天武天皇までは, “一代一皇居時代” といって, 天皇が予め用意された都にいて政治を見るのではなくて, 一代ごとに皇居をかえるのが一般であった。 しかしこの間も皇居が奈良県高市明日香村あたり, ずなわち飛鳥川流域で, 天香久山から畝傍山にはさまれた狭い地域を, 第34代野明天皇は飛鳥岡本宮, 第35代皇極天皇は飛鳥板蓋宮, 第37代斉明天皇は後飛鳥岡本宮,第40代天武天皇は飛鳥浄御原宮というよ うに移動している。

しかしこの時代にも二度ばかり都が飛鳥の地を離れたことがある。 その第一回目は第36代孝徳天皇が大化元年 (645年) に都を現大阪市にあたる難波長柄豊碕宮に移した時であり, 第二回目は第38代天智天皇が天智6年(船7年) に近江の大津宮に移した時である。まず第一回目についていえば, この年の6月それまでわが国政を実質的に握っていた大豪族蘇我入鹿を, 中大兄王子 (後の天智天皇)
と中臣鎌足とが暗殺し, いわゆる “大化改新" と呼ぶ大改革にのりだした時期でぁる〝すなわちそれまでは氏姓制度に基づく豪族たちが, 土地と人民とを個別的に支配していたのを否定し, 公地公民制による中央集権・ 官僚支配体制の積藁を目指し, また京師〟 国 ・郡 ・ 里などの地方行政組織, 戸籍調ー度の導入と班田収技法, 租・農・翼といった統一的税制の確立がはかられた。 統一国家としてのわが国の出発を目指す大改革であった。難波遷都の理由は, 氏姓制度に基礎をおく豪族達の勢力がまだ強く残っている飛鳥地方を脱出して, この改革遂行のフリー ・ ハン ドを保っためであった〟 しかし都を他の撮所ではなく , あえて難波の地 (現大阪) を選んだことにっいては, いま一つ当時わが国が直面していた対外問題があった。
 
 

2藤原京時代

大化改新の立て役者中大兄皇子 (天智天 皇) と, 大海人皇子 (天武天皇) とは兄弟で あるが, 兄がどちらかといえば外向型政治家 であるのに対し, 弟は内政型政治家であった。 大海人皇子は第37代斉明天皇 (女帝で第35代 皇櫃天皇軍詐 ・ 中大兄皇子はその皇太子) が 百済救援のため九州に行幸している時も, 中 央にあって内政を担当, その声望は高かった。 百済救援が失敗, 中大兄皇子が都を大津に移 し即位して天智天皇となるとその皇太子とな るが, 天皇との仲は円滑にゆかず, やがて出 家して吉野に退去した。

やがて壬申の乱がお こ り, 近江の大友皇子軍に勝って飛鳥浄御原 で即位した〟 第40代天武天皇である。 天皇は 浄御原律令の制定, 国史の選餐, 旗姓を改め て八色の姓を定め, また欝位60階の制定な ど, もっぱら皇室を中心と した律令体制堅め に力を入れた。 この方針はやがて天武天皇の皇后で, 天皇 死亡のあと皇位をついだ持統天皇 (第4ー代) にひきつがれ, わが国最初の皇都である “藤 原京” の建設へと発展した。 “藤原京” は大 和三山 (耳成山・天香具山・畝傍山) の間に ひろがる平地に中国の王都を模して造られた 皇都で (中国北魏の洛陽を模したとの説もあ り, また唐の長安を模したとの説もあるあ それまでの “飛ノ鳥宮" が, その西北部に発展した形でっく られており, 現在の奈良県橿原 市と明日香村に位置している。 南北約3-ーキ ロメートル, 東西約2.ーキロメー トルで, そ こに南北ー2条, 東西には左京 - 右京に分れる が, その各々に四坊の条坊制がしかれていた と考えられている。

京城の北部に天皇の住居内裏と, 政務をと る官庁とが設けられていた。 これが大内裏で ある〟 ここに出仕ずる官人としての豪族たち は, 京中に集住される仕組で官庁の市港設け られていた。 つま り古代豪族たちはそれまで のよ うに自領に住んでいるのではなく , それ を捨てて新京に住み政庁に出仕して律令官人 になることを強制されたわけである。 いわば 藤原京の造営は, それまでの天皇と豪族の連 合政権であったわが国の政体を, 天皇とその 官人による政体に切りかえる作用を伴うの で, それに乗り, それを積極的に利用した農 原氏は栄え, それに乗り切れなかった大伴氏 は衰退の途をたどっているよ うに, 単なる宮 の位置および規模 ・ 形態の変化ではなく, 政 治体制, 社会体制の変革を秘めたものであっ た。

ここに都があったのは持統8年 (694年) から, 和銅3年 (7ー0年) までのー7年間, 天皇 で数えると第4ー代持統・第42代文武・第盤代 元明の三代であるが, ここで刑部親王 ・薦原 不比等などの手で大宝律令が編纂され, 律令 国家体制が, 法制的にも整えられた)

 
藤原京(ふじわらきょう)は、飛鳥京の西北部、奈良県橿原市と明日香村にかかる地域にあった飛鳥時代の都城。日本史上で最初の条坊制を布いた本格的な唐風都城でもある。平城京に遷都されるまでの日本の首都とされた。

 
壬申の乱
壬申の乱(じんしんのらん)は、天武天皇元年6月24日 - 7月23日、(ユリウス暦672年7月24日 - 8月21日[1])に起こった古代日本最大の内乱である。
天智天皇の太子・大友皇子(弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたものである。反乱者である大海人皇子が勝利するという、例の少ない内乱であった。

3平城京時代

薦原京において, 天皇制官人国家の体調ーは 急速に発展をとげ, やがて狭い藤原京では政 治を賄いきれなくなった。 そのため新たに造 営されたのが平城京である。

藤原京は奈良盆地の一番南端に営まれてい たが, 平城京は北端に営された。 それまでの 政治の中心地であった盆地南端部から北端部 に移ったことは, この地に残っている氏姓制的豪族体制をよ り完全にふり切って, 天皇制 官人体制を確立ずるという狙いもあったろう が, 基本的には狭すぎる藤原京を, よ り適し た盆地北端部に移しかえたと考えてよいだろ う。 その証拠として, さしあたり次の二っの ことがあげられる。 その一つは, 奈良盆地に は, 盆地東端山際にそって走る “上ッ道” と, それとほぼ並行して南北に走る “中ッ 道” と “下ッ道” との三本の道がある〟 藤原 京はその “中ツ道” と “下ッ道” にはさまれ る形で造られているが, 平城京は “下ッ道” を新京の朱雀大路として, その西側に右京を つく っている。 っま り東西は藤原京の約二倍 に設計されているわけである。

南北も藤原京 よ り長く , また左京の東側に外京も造られて いるので, 面積は約三倍, そこに住んでいた 人は昭和初期別万人との説がだされ, 以降そ れが定説になっているが実際はその半分く ら いであろうと推定されている。 また右京と左 京に各々東市と西市とが設けられ, 毎年前半 と後半とに分けて交互に市が闇かれ, 住民の 需要を満たすよ うになっていた。 その第二 は, 藤原京時代弟盤代文武天皇のもとで大宝- 律令を撰集した藤原不比等が平城京に移って さらにそれを撃正して養老律令を編集, ここ に以降の日本政治を規定ずる律令政治の基本 法が完成していることである。 この平城京は和銅3年から延暦 3年まで約74年間続く , わが国最初 の長期にわたる都であり, この間律令国家体 制が整う。

また律令官人としての藤原氏と, 鎮護国家仏教と しての仏教の拾頭で特徴づけ られている〝 まず薦原氏は鎌足の子不比等の 代になっているが, 彼は大宝律令, つづいて 養老律令と, 律令国家の基本法の編さんに抜 群の力を示し, 律令官人の ト ップの地位を占 め, さらにその娘宮子を第42代文武天皇に, さらに光明子を第45代聖武天皇に納れるなど して, 皇室の外戚と して地位を高めた。 また 仏教もわが国に渡来以来, 国家鎮護を旗印に勢力を伸ばして来たが, と くに聖武天皇は仏 教に対する信仰が厚く, 諸国に国分寺, 奈良 に纏国分寺として東大寺を建立するなど, 仏 教を律令国家体御ーの精神的支柱としたため, その繁栄は目を見はるものがあった。

しかし平城京時代も平和 ・ 繁栄の一途をた どったわけではなく , 若干の波乱もみられた。 まず天平元年 (729年) には, 藤原氏が光明子 を皇后に立てよ うとするのを, 皇后は皇族に 限るというそれまでの慣習を盾に, 左大臣の 長屋王が反対するだろうとして, 王に謀反の 疑いがあるとして自殺させた, 長屋王の事件 がおきている。 しかしせっかく築いた藤原氏 の地位も, 当主および一族のつぎつぎの病死 によって力が劣え, かわって橘諸兄が拾頭し てくると, 一族の劣勢を盛りかえそう と, 天 平ー2年 (740年) 藤原広嗣が九州太宰府で約 ー万の兵を集めて乱をおこした〟 これを藤原 広嗣の乱というが, 広嗣は橘諸兄政権のみな らず諸兄を登用した聖武天皇までも批判の対 象にしていたので, 天皇はそれを恐れてせっ かくの平城京を捨てて, 恭仁=紫香楽・難波 と転々と遷都をく りかえし, 五年後にゃっと 平城京に帰っている。 聖武天皇が光明子との間にできた娘孝謙天 皇 (第46代) に譲位すると, その籠愛ずる僧 道鏡が政権を握り, やがて彼は宇佐八幡宮の 神職とはかり, 神託にことよせて皇位をねら う事件がおこった。 これは和気清麻呂らに よって阻止されるが, 平城京においては段々 と僧侶・寺院による政治関与が激しくなり, 正常な政治が困難となったので, やがて山城 の長岡 ・平安京への遷都問題が登場してくる。

4長岡京時代

第50代垣武天皇は天応元年 (78ー年) 4月 に即位するが, この年は辛酉の年にあたり陰 陽道にいう革命の年でもあった” 天皇は平城 京初年の間に強大になり, 政治そのものまで左右するよ うになっていた寺院勢力をふりき り, 人心を~新して新しい政治を行い律令体 制を建て直そうと考えた。

そのためには都を 替えるのが一番良いと考え, これまで宮都の あった大和の地を捨てて, 平城京よ り遠く離 れた山城国乙訓郡長岡の地を選んだ。 これを 長岡京という

長岡京は長い間平安京ができ るまでの臨時の都と考えられていたが, 調査 が進むにしたがって, 条坊制に基づく計画さ れた都市で, 仮の都ではなく て本格的な都市 づく りが行われ, 中心部分の造営はほとんど 終っていたことが明らかになってきた。 まず 立地的な条件から見ると, 平城京が人口10~ 20万という人口を賄うには, 大賽の物資輸送 手段である水遣の便を欠いていたのに反し, 長岡京は桂川 ・ 鴨川 ・ 宇治川に接し, 膨大な 消費を賄う条件を備えていた。

工事は順調に 進んでいたが, 造営長官である藤原種継が反 対派に暗殺され, その容疑者として皇太子早 良親王が捕えられたが, 親王はそれを冤罪だ と して憤死する事件がおきた~ そのため事の 真相は判らずに終ったが, 遷都というのは, それほど利害関係が複雑にからむ問題だとい う ことを, はしなく もこの事件は露呈するこ ととなった〟 たまたまこのころ天皇の身辺に 度々不吉な事がおころが, それは早良親王の 怨霊だという説が流布し, ためにせっかくの 長岡京を捨てて, 桂川を渡った北東の位置を えらんで平安京を造ることになったといわれ る。

5平安京時代

長岡京から平安京に移る延暦ー3年 (794 年), 種武天皇は諸国の神々の弊帛を奉り , 遷都と撮東経路の成功を祈願している。 新し い都の造営と東北地方の経営とは, 種武天皇 の二大政策だったわけで, 後者のためには先 の征討副使と して東北経営にあたらせていた 坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命している〟 また造都を推進する役所造宮城には, 約ー60 人もの大人員を配し, その長官 (造営大夫) には藤原小黒麻呂, りづいて和気清麻呂を配 している。 そしてその労働力 く造官役夫) と して諸国から公民を徴発するが, 役夫を出し た国に対しては租を免じるとともに, 出挙 (春に貸しだし, 秋の収穫後熟ー子をつけて返 さずという雑税の一種, 利率は約5割) の利 率を引きさげ, 役夫をださない国々とのパラ ンスをとった。

このよ うにして新都 (平安京) はできた が, また遷都反対派は根強く残っており, 大 同元年 (806年) 垣武天皇が死ぬと, 新帝 (平 城天皇) に, わが国では前天皇の忌明には, 新宮を建てるのが例になっている, と遷都を すずめる者があった。 これは容れられなかっ た。 しかし平城天皇の妃の生母藤原薬子は, 天皇が病弱のため退位すると, 勢力が失墜す るのを恐れ, 兄仲成らとはかって平城上皇を 平城京に移し, その重誰をはかって挙兵した が債圧されて自殺した。 これを薬子の乱とい う〟

このよ うに大和平城京から山城への遷都 は始めは波乱含みであったが, 以降建久2年 (ーー92年) 源頼朝が鎌倉幕府を開く までの約 400年間日本の政治をと りしきる “都” と なった。

なお, “都” を政治ではなくて天皇 の居所と解釈ずると, 明治2年 (ー869年) の 東京遷都ま で, 平安京 (京都) はー000年の都 であったということになる。 平安京は東西約4.6キロメ ー トル, 南北約 5ー3キロメー トルの, 南北に細長い長方形で, その大きさは平城京とほぼ同 じで, 京城の北 部中央に宮城を設け, その中央から南に走る朱雀大路によって右京と左京とに分けられ平 城京同様条坊制がしかれていたが, 右京は低 温地が多く , 去る者はあっても来る者はない 有様で, 都の重心は次第に左京に傾いてゆ き, さらに鴨川を束に渡って現在のよ うに なっていった。

人口は9世紀段階でー0~ー5万 人であったろうと考えられている。 平安京では仏教の影響を断った律令政治が 広く行われたが, 荘園制が進行するに伴い, 官人と しての藤原氏の勢力が段々と強ま り, やがて摂政 ・ 関白の地位を独占 し政治は藤原 氏に握られるようになる。

これを摂関政治と いう。 しかし=世紀末になると, 白河上皇が 政治の実権を院に移したことから藤原氏の力 は次第に劣え, いわゆる白河・鳥羽・後白河 上皇による院政政治が続くが, この間おこっ た保元の乱 (1156年), 平治の乱 (1159年) を 経て, 政治の実権は武家の棟梁である平清盛 に移ってゆく。 清盛の祖父は北面の武士と して白河上皇に っかえ, 僧兵の強訴を防ぎ, 九州の賊を討つ など軍功があり, 父忠盛は鳥羽法皇につか え, 瀬戸内 ・ 九州に載扈していた海賊討伐に 功があった。 清盛は実父は白河上皇との説も あるが, 保元 ・平治の乱で力を伸ばし, っい には従一位太政大臣の地位にまで登り, その ~門には公卿 (3位以上の責族) 16人, 段上 人 (5位以上の素族) 30人, 知行国は日本全 土の半分に近い加国あま り, 荘園は500ヵ所 に及んだといわれている】 また清盛は娘徳子 を高倉天皇の女御とし, その皇子は治承4年 (1180年) に即位して, 第8ー代安徳天皇と なった。 この頃清盛と法王および家衆との関係は次 第に悪化, 同年5月には平家に対ずる最初の 武力による反抗運動がおきた。 源頼政 ・ 以仁 王との宇治挙兵である。

清盛は突如安徳天皇 を奉じて福原に移った。 福原とは今の神戸で 平氏の別荘があったところである。 旧勢力を 断って新しい政治をしょ う という狙いだったろうが, 土地が狭少で造営が思うにまかせぬ うえ, 京都にいる公家や僧侶寺社の反発をう けて, その年のうちに再び京都にひきかえし た。 なおこの福原の舎殿は平家が都落ちをし て西に走る際火をかけて焼払ってしまった。 このよ うに平氏は武家として出発しなが ら, 無限に貴族化することでその勢力を伸ば していった。 しかしその事は逆に武家と して は弱体することで, やがて源頼朝を棟梁と ずる武家勢力におされて亡んでいった。武家政権でありながら, そのまま旧政権の 所在地である京都に優をすえ, 無限にそれに 近づく ことで結局は去勢されて亡んでいった 平家の姿をまのあたりに見た源頼朝は, 自分 の開いた幕府を都から遠く離れた鎌倉の地に おいた。

ここは関東武士発祥の地にあり, 旧 勢力に毒される恐れの最も少ない土地であっ た。 鎌倉は海にひらかれた港湾都市でもあり, ここから奥州や北九州, さらに中国まで船で 往来ずることが出来た。 そのうえ背後は東・ 北 ・ 西の三方を丘陵で囲まれており, それを こえて中に入り込む道は尾根を切り開いた “切通し” を通らればならぬよ う設計されて いた。 “切通し” は鎌倉七口といって, 西か ら極楽寺坂, 大仏坂, 化粧坂, 亀谷坂, 巨福 呂坂, 朝比奈坂, 名越坂の七つあり, それら をつなぐ尾根は, 人工的に切り落した崖と なっていて, その内部は一個の巨大な城塞と なっていた。 この中幕府の政庁と町屋があっ たのだが, 政庁は海岸から裏まった谷戸に設 けられ, 町屋は海に近い比較的広い地域にっ く られていた。 人口を測る史料は皆無に近い が, 建長4年 (ー252年) に幕府が行った民家 の酒壺の詞査からー 約ー万戸( らいの戸数が あったろう との推定がある。 この時代の一戸 の推定人口を示ず数字もないが, 江戸時代の 平均一戸約5人よ り多いとすると, 5~ー0万 の人口はあったろうと考えられる。 ともあれ 前代の平安京 ・平城京にく らべると著しく狭 い市城になるので, かなりの過密都市であっ たろうことは疑いない。

ここで御成敗式自 (貞永式目) が制定さ れ, 律令による政治とは異った武家の政治が 行われた。 未曽有の困難といわれた元冠は幸 に切りぬけることができた。 その愚鸞をめ ぐって武将たちの不構をまわき, 元弘3年(ー333年) 新田義貞軍に攻められ, 執権高時 以下自殺して鎌倉政権は亡んだ。 北条氏滅亡後政権の主導権をめぐって争い がおき, 一時新田義貞と組んだ後醍醐天皇が 政権を握ったかにみえたが (建武中興), や がて足利尊氏におされ南北朝分裂ののち, 実 権は尊氏の手に握られた。 延元元年 (ー336 年) 尊氏は京都に幕府を開き, 建武式目を定 め, 同3年北朝から征夷大将軍に任ぜられた。 これから坊代将軍足弔ー義昭が織田信長のため に京都から追放された天正ー5年 (ー573年) ま での約2仙年を室町時代と呼ぶ。 室町時代, または室町幕府という呼び名は, 3代将軍足 利義満が, その邸宅を京都北小路, 室町に営 んだことから出た言葉である。

武家による政権の所在地が, 鎌倉から京都 に移ったわけで, 武家政権の遷都であるが, では何故北条氏から足甲ー氏に政権が移った場 合, その政庁の所在地を鎌倉から京都へと大 きく移動させたのであろうか。 その答は簡単 で将軍家北条氏は亡びたとはいえ, 関東には まだ北条氏の勢力が強く残っており, 足利氏 による新しい政治のためには, それからのフ リー 〝ハンドを得るためには遠く離れ, 天皇 の居所であり, また日本の最大の 手工業 都市であった京都が適正だったからである。

6安土・桃山 ・江戸時代

守護地頭といった武家領主と寺社公家ら荘 園領主たちの連合政権といった性格をもった 室町政権は, その出発点から安定性に欠けて いたが, 応仁元年 (1467年) 将軍家の相続争 いに, 将軍家を支える有力守護大名家の相続 争いもからんで, 二派に分れた将軍家にこれ も二派に分れた守護大名たちが加わって争い を始めた。

東軍は細川勝元を中心に24ヶ国ー6 万, 西軍は山名持費を中心に20ヶ国9万の軍 兵が京都を舞台に来て しない争いをつづけた。 これを応仁の乱と呼んで約100年も続く がこの間に京都の町は戦火に焼かれてしまい, 将軍家の勢力は地におち, またそれを支えて いた大名達も薫に疲れはてていった〟 このよ うにこれまで日本を支配し続けていた上層社 会の力は衰え, 守護代以下の在地勢力が段々 と力を伸ばし, お互いに相手を征服してよ り 強大になるための武翼をく りかえすよ うにな る〝 これが下麺上の時代と呼ばれる戦国時代 である。

淘汰・統合は段々と進みー6世紀半ば ころには, 伊達・上杉・後北条・武田 ・今川 ・織田 ・毛利・長宗我部・大友・ 島津といっ た人達が一頭地を抜く有様になっていたが, そのなかでも織田信長が頭角をあらわしてき た。 彼は天正4年 (1576年) 近江の安土に, それまでにみられない巨大な近世城下町をつ く った く近世城下町はこの2年前に, 羽柴秀 吉が近江の長浜にっく ったのが最初だといわ れている)。 近世城下町とは, それまでの中 世城郭とちがって, 要害を主と した山城では なく, 領国の中央, 政治経済の中心地に設けられ, 天守をいただく城郭部分と, その周囲 をと りま く町屋部分とが一体の存在で, 大量 輸送を考えて舟遣のき く水につけているのが 一般であり, 長浜も安土も琵琶湖にっけてっ く られていた。

織田信長が安土を選んだ理由は, この土地 は東と西とをつな ぐ交通の要衝であるのみな らず, 日本海側と京都をつな ぐ物資輸送路で ある琵琶湖水上輸送路もおさえる位置にあっ たからである (当時までは日本海側の物資は 若狭湾に面した敦賀か小浜で陸上げされ, 陸 路で琵琶湖まで運ばれ, 湖を舟で都へと運ば れていた〟 西廻りの航路が開発され, 大阪の 地位が上るのは江戸時代に入った1650年ころ である)〟

安土はこのよ うに当時としては他に比類の ない交通の要衝であるうえ, 京都の旧勢力か らは離れ, しかも旧勢力を監視するには好個 を占めていた。 これが信長が天下統一 の拠点として安土をえらんだ理由である〟しかし信長の時代は長く続かず, それに 替った豊臣秀吉 (大阪 ・ 桃山を本拠とずる) の時代も短く て, 世は徳川氏の江戸時代に 移っていった。

` 徳川家康が江戸に入ったのは天正18年 (15 90年) 8月 1 日のことである。 従来の領地 (三河・遠江・信濃 ・ 甲斐・伊豆) に代って, 関東を与えられた からである。 この時これら5ヶ国を失うぐら いなら, いっそこの際秀吉に反して兵を挙げ よ うと騒ぎたてる家臣たちのなか, 家康は一 人満足げに笑っていた, という話がある。 江戸に入ったとき, もちろん太田道灌 の遺樓なるものが残っていて, 本丸・二九・ 三丸なるものがあったが, 石垣はなく土をか きあげた土手があり, 海岸に出入りずるとこ ろに数ヵ所木戸があり, 城内の建物も華ぶき の古屋で, 玄関には階と しては舟板が三枚な らべられている程度, しかも城下には茅葦き の家が100件ほどあった程度のものだった。

これに大改撃を加えて天下の城下町, 将軍の 御膝元と して体裁をととのえるのは, 裏長8 年 (1603年) からはじまる江戸市街地の建設 と, 同9年からはじまる江戸城の大改築であ る。 これらは, “天下普請" といって, ほと んど全国の大名たちを動員して行われ, 寛永10年 (1633年) ころ, ほぼ予定の仕事が終 わった。 しかし翌11年の “諸大名妻子在府 制” , 翌12年の “参勤交替制” 実施によ り江 戸は大膨張をはじめ, 再開発計画にと りか かった矢先, 明暦3年 (1657年) の江戸大火 (名層大火) で, 江戸城天守閣以下ほとんど の市城が焼失してしまった。 その後若干の計 画のもとに再建にと りかかるが計画を上回る 大発展をとげ, 幕府はじまって約100年経過 した元禄時代には, 人口ー00万といわれる世界有数の巨大都市になった。

このよ うに関東の江戸を政権の本拠と した 徳川家康と, その前の実権者豊臣秀吉とでは 政権構想が大きく ちがっていた。 豊臣秀吉に ついては, 尾張中村の小百姓の出でなくて, さる皇族の御落胤であるという , 責種落胤伝 説があるが, これは彼自身が流したものだと いわれている〟 これで判るよ うに彼は天下を 握ると, 天正13年 (1585年) 関白となり姓を 藤原と改め, 翌14年には律令官制では最高位 の太政大臣となり, 豊臣という姓を朝廷から 賜り, 同16年には京都に聚落第をつく って後 陽成天皇の行幸をあおぐなど, 彼は新しく生 まれた社会の新しい支配者でありながら, わ が国古来の伝統的権威である皇室に, 限りな く近づく ことで自己の権力を権威づけるとい う手法をとっている〟 これに対し秀吉のあとをうけた徳川家康は かなり越を異にしている。 彼は裏長8年 (16 03年) 征夷大将軍に任命されたことを政権掌 握の拠り処として, 江戸に幕府を開くが, 彼 はあく まで武家の棟梁として政権を握るとい う, 鎌倉政権, 室町政権の伝統に乗ろうとし ている。

家康は三河国松平郷を本拠とする在地小領 主の出であるが, 天下を取ると自己の家柄を 権威づけるために, 上州世良田郷に住む足利 氏の支流の親氏が, 某年某日落飾して諸国流 浪の旅に出, 松平郷で入婿したのが徳川氏の 祖先であるという話を組みあげている。 これ も一種の賽種流離譚であるが, 責董はあく ま で室町将軍家をつく った足利氏であって, 秀 吉のよ うに皇室ではない。 したがって皇室の 下にあって自分を無限にそれに近づけよ うと した秀吉と, 皇室をあく まで自己の政権の下 に置いて (たとえば 「禁中並武家諸法度」), これをコント ロールしょうとする家康の政治 姿勢に違いがでてく るのである】 それは自己 の政権政庁を天皇の居所と しての京都そのも のではないが' それに出来るだけ近い桃山 ・大阪にごいた秀吉と, 大きく切り離された江 戸におく という政都のえらびかたの違いにも 現われてくるのである。 それ以前の日本が, 上から下へと組みたて た社会とずれば, 江戸時代からは下から上へ と組みあげた社会である。 江戸時代は300諸 侯というが, 実際には約2冊ほどの諸侯 (大 名) がおり, その上に幕府が乗るという組み たてになっていた。 したがって江戸時代に “国” というのは, 今日の日本ではなくて約 270ほどの藩のことであった。 その幕は徳川 幕府に一定の制約をうけていたが, 経済的に は自立した存在で, その暮独自の財政と税制 をもっており, したがって独自の経済政策を 持っていた。

そのよ うな藩の政庁 (都) が城 下町と呼ばれる存在であった。 徳川氏といえ どもその中の一つの藩で, 約700万石という 他に抜きん出た領地を持っているほか, 幕府 という幕連合体を統・ コント ロールをする役 目をもつ存在であった。 したがって江戸は大 名と しての徳川氏と日本全体の統率者として の両機龍を兼ねた城下町であった。 城下町は一定のルールでっく られた人工的 都市であった。

まず城下町は海・河川 ・運河・湖 などの違いはあるが, 水についているのが原 則であった。 これは領内人口の約一割を豪め た巨大消費都市の消費物資と, 領内の物産を移出し, また移入するための運輸の便を考え てのことであった。 つぎに城下町の中心には 城郭部分があり, 領主の居所・政庁および, 場合によっては藩の最上級家臣の居所もここ にぁった。 っぎは武家地で, ここに家臣団が ほぼ階層別, 職種別に居住していた。 その外 側は川や構 ・ 堀などで区切られている事が多 いが, 領内から集められた商職人が集往して いた。 江戸時代では “兵農分離" ということ がよ く云われるが, 農商の分離も同時に行わ れ, 兵と商 (工を含む) が農から分離して城 下町に住むのが一般であった。 またこの町地 (町人地ともいう) には他領から入り, 他領 に抜ける “天下の公道” が通っているのが一 般であった〟 町地の外は寺社地で, ここは城 下町防衛も考慮した配慮で, 一朝事ある時は ここが城下町防衛の外郭陣地となる筈であっ たが, 江戸時代は平和が続いたので, 現実に は市民のレク リエーショ ンの場としての役割 をした。

幕末期の遷都

幕末期、京都には多くの武士が集い政治上の重要拠点となりました。しかし、京都ではなく大坂を首都に定めようとしたのは、新しい政治体制を組織するために従来の場所から離れる必要があったからです。ところが、この大坂遷都論に触発される形で、驚くことに幕臣の前島密らが江戸遷都論を大久保に上申したことが、江戸が首都となるきっかけになりました。彼らが江戸を推薦した理由として、蝦夷地の開拓を視野に入れていることや、その当時の江戸が人口や土木・建築技術において世界の首都と見劣りしないものであったことなどを挙げています。大久保らは今後の徳川家の処分に加えて、明治政府内部から江戸遷都論が少なからず出たこともあって、江戸を首都とする方向に傾いていったようです。遷都自体については、明治2(1869)年に皇城とした江戸城に天皇が入城した後も明確な声明はなく、なしくずし的に江戸(1868年 7 月17日より東京に名称変更)を首都にする形となりました。
 遷都自体は奈良時代、平安時代にも行われていたことで、前例の無い事例ではありません。しかも、明治政府は徳川幕府を倒して勝者となった以上、躇う必要はなかったとも考えられます。それでも遷都という表現を避け続けてきた理由は、一千年以上の伝統を持つ京都に対して憚はばかりを感じていたからだと。このように変革は、その内容が斬新で、旧来の制度や慣習などを大きく変えてしまうものほど実行は困難になります。後の四民平等や徴兵制度に見られる武士階級の撤廃の場合、武士の強い反発を招き、最後は西南の役に見られる戦争に発展しました。
 現代も、政治家によって多くの社会・政治改革案が提唱されていますが、反対勢力の抵抗などで成立を見ずに頓挫したものもあります。また、実施に持ち込めても、それが理想とは違い、地域や国民の利害にそぐわぬ結果に終わった改
革も存在します。したがって、いつの時代でも改革は現状を大きく変えてしまうことが前提であり、立案前に広範な視点からの検討を積み重ねることが求められます。