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平成の世は来年平成30年を最後に大きな転換期を迎えようとしています。このような時代は、感性から捉えるとまさに歓迎すべき時代の到来とも言えましょう。これからの混沌とした時代をリードしていくのは日本人だと感性論哲学は説きます。そのために日本人の覚醒こそが求められていると感じます。


日時:2018年2月22日18:30〜
会場:株式会社アドバネクス本社会議室
〒114-0014 東京都北区田端6丁目1−1 田端アスカタワー 3F
http://www.advanex.co.jp/corp/company/map_headquarters.htm

会費:無料

懇親会:会議終了後、懇親会を予定しています。
一人でも多くの方のご参加を期待しております。

大遷都委員会とは


大遷都論は、感性論哲学の創始者である芳村思風先生が、20年以上前から、感性論哲学の帰結として、強く説いていらっしゃいます。

「日本人が果たす役割」

日本の真上に世界の中心がある。日本人自身が人類の指導者になるべき、我々が目標を掲げて人類を導いていく指導的役割を日本人が自覚する。

その自覚を持つきっかけとして
日本が東京から広島へ日本の首都を移す大遷都があります。

我々は思風先生の想いを基に大遷都が叶う事でいかに日本が発展し、世界から尊敬される日本になれるかを東京思風塾の塾生と共に勉強会を通じて学んでいます。

時代を捉える背景として
1、歴史は風土と民族と国家と思想で変わりながら進んでいく
2、全ての存在は存在する事への必然性を持って存在している
3、全ての存在は存在する事への必然性を実現しきった時完成され衰退していく
4、一度完成された形式に到達したものは保守化して時代に取り残されていく
5、一度歴史的使命を終えた時、潜在能力を出し切った者は2度と歴史の主役になり得ない
6、人類は人類としての潜在能力を実現しきった時衰退する
7、世界の歴史を動かす力は2つある。「因果律と自由律」
8、時代を興す原理はまた時代を壊す原理でもある
9、不安を解消し安心を実現する事を目的に歴史が創られる
10、時代欲求や時代感情、時代感性が歴史の方向性を決定する
日本人自身が人類の指導者となり、我々が人類に未来への目標を掲げて導いていく。その様な指導的役割を持てるのが日本人である。

どう表現するかというとやり方として大遷都が挙げられる。

大遷都を東京から広島へ。何故広島かというと明らかに戦争から平和の時代に変わっており平和の原点というのは世界の共通認識。
世界から認められ認識されるのは広島に首都が移るという事が日本人が平和を実現する指導者として世界の認識が変わってくる。

 

 

日本の遷都の歴史

 

1難波遷都

第33代推古天皇から第40代天武天皇までは, “一代一皇居時代” といって, 天皇が予め用意された都にいて政治を見るのではなくて, 一代ごとに皇居をかえるのが一般であった。 しかしこの間も皇居が奈良県高市明日香村あたり, ずなわち飛鳥川流域で, 天香久山から畝傍山にはさまれた狭い地域を, 第34代野明天皇は飛鳥岡本宮, 第35代皇極天皇は飛鳥板蓋宮, 第37代斉明天皇は後飛鳥岡本宮,第40代天武天皇は飛鳥浄御原宮というよ うに移動している。

しかしこの時代にも二度ばかり都が飛鳥の地を離れたことがある。 その第一回目は第36代孝徳天皇が大化元年 (645年) に都を現大阪市にあたる難波長柄豊碕宮に移した時であり, 第二回目は第38代天智天皇が天智6年(船7年) に近江の大津宮に移した時である。まず第一回目についていえば, この年の6月それまでわが国政を実質的に握っていた大豪族蘇我入鹿を, 中大兄王子 (後の天智天皇)
と中臣鎌足とが暗殺し, いわゆる “大化改新" と呼ぶ大改革にのりだした時期でぁる〝すなわちそれまでは氏姓制度に基づく豪族たちが, 土地と人民とを個別的に支配していたのを否定し, 公地公民制による中央集権・ 官僚支配体制の積藁を目指し, また京師〟 国 ・郡 ・ 里などの地方行政組織, 戸籍調ー度の導入と班田収技法, 租・農・翼といった統一的税制の確立がはかられた。 統一国家としてのわが国の出発を目指す大改革であった。難波遷都の理由は, 氏姓制度に基礎をおく豪族達の勢力がまだ強く残っている飛鳥地方を脱出して, この改革遂行のフリー ・ ハン ドを保っためであった〟 しかし都を他の撮所ではなく , あえて難波の地 (現大阪) を選んだことにっいては, いま一つ当時わが国が直面していた対外問題があった。
 
 

2藤原京時代

大化改新の立て役者中大兄皇子 (天智天 皇) と, 大海人皇子 (天武天皇) とは兄弟で あるが, 兄がどちらかといえば外向型政治家 であるのに対し, 弟は内政型政治家であった。 大海人皇子は第37代斉明天皇 (女帝で第35代 皇櫃天皇軍詐 ・ 中大兄皇子はその皇太子) が 百済救援のため九州に行幸している時も, 中 央にあって内政を担当, その声望は高かった。 百済救援が失敗, 中大兄皇子が都を大津に移 し即位して天智天皇となるとその皇太子とな るが, 天皇との仲は円滑にゆかず, やがて出 家して吉野に退去した。

やがて壬申の乱がお こ り, 近江の大友皇子軍に勝って飛鳥浄御原 で即位した〟 第40代天武天皇である。 天皇は 浄御原律令の制定, 国史の選餐, 旗姓を改め て八色の姓を定め, また欝位60階の制定な ど, もっぱら皇室を中心と した律令体制堅め に力を入れた。 この方針はやがて天武天皇の皇后で, 天皇 死亡のあと皇位をついだ持統天皇 (第4ー代) にひきつがれ, わが国最初の皇都である “藤 原京” の建設へと発展した。 “藤原京” は大 和三山 (耳成山・天香具山・畝傍山) の間に ひろがる平地に中国の王都を模して造られた 皇都で (中国北魏の洛陽を模したとの説もあ り, また唐の長安を模したとの説もあるあ それまでの “飛ノ鳥宮" が, その西北部に発展した形でっく られており, 現在の奈良県橿原 市と明日香村に位置している。 南北約3-ーキ ロメートル, 東西約2.ーキロメー トルで, そ こに南北ー2条, 東西には左京 - 右京に分れる が, その各々に四坊の条坊制がしかれていた と考えられている。

京城の北部に天皇の住居内裏と, 政務をと る官庁とが設けられていた。 これが大内裏で ある〟 ここに出仕ずる官人としての豪族たち は, 京中に集住される仕組で官庁の市港設け られていた。 つま り古代豪族たちはそれまで のよ うに自領に住んでいるのではなく , それ を捨てて新京に住み政庁に出仕して律令官人 になることを強制されたわけである。 いわば 藤原京の造営は, それまでの天皇と豪族の連 合政権であったわが国の政体を, 天皇とその 官人による政体に切りかえる作用を伴うの で, それに乗り, それを積極的に利用した農 原氏は栄え, それに乗り切れなかった大伴氏 は衰退の途をたどっているよ うに, 単なる宮 の位置および規模 ・ 形態の変化ではなく, 政 治体制, 社会体制の変革を秘めたものであっ た。

ここに都があったのは持統8年 (694年) から, 和銅3年 (7ー0年) までのー7年間, 天皇 で数えると第4ー代持統・第42代文武・第盤代 元明の三代であるが, ここで刑部親王 ・薦原 不比等などの手で大宝律令が編纂され, 律令 国家体制が, 法制的にも整えられた)

 
藤原京(ふじわらきょう)は、飛鳥京の西北部、奈良県橿原市と明日香村にかかる地域にあった飛鳥時代の都城。日本史上で最初の条坊制を布いた本格的な唐風都城でもある。平城京に遷都されるまでの日本の首都とされた。

 
壬申の乱
壬申の乱(じんしんのらん)は、天武天皇元年6月24日 - 7月23日、(ユリウス暦672年7月24日 - 8月21日[1])に起こった古代日本最大の内乱である。
天智天皇の太子・大友皇子(弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたものである。反乱者である大海人皇子が勝利するという、例の少ない内乱であった。

3平城京時代

薦原京において, 天皇制官人国家の体調ーは 急速に発展をとげ, やがて狭い藤原京では政 治を賄いきれなくなった。 そのため新たに造 営されたのが平城京である。

藤原京は奈良盆地の一番南端に営まれてい たが, 平城京は北端に営された。 それまでの 政治の中心地であった盆地南端部から北端部 に移ったことは, この地に残っている氏姓制的豪族体制をよ り完全にふり切って, 天皇制 官人体制を確立ずるという狙いもあったろう が, 基本的には狭すぎる藤原京を, よ り適し た盆地北端部に移しかえたと考えてよいだろ う。 その証拠として, さしあたり次の二っの ことがあげられる。 その一つは, 奈良盆地に は, 盆地東端山際にそって走る “上ッ道” と, それとほぼ並行して南北に走る “中ッ 道” と “下ッ道” との三本の道がある〟 藤原 京はその “中ツ道” と “下ッ道” にはさまれ る形で造られているが, 平城京は “下ッ道” を新京の朱雀大路として, その西側に右京を つく っている。 っま り東西は藤原京の約二倍 に設計されているわけである。

南北も藤原京 よ り長く , また左京の東側に外京も造られて いるので, 面積は約三倍, そこに住んでいた 人は昭和初期別万人との説がだされ, 以降そ れが定説になっているが実際はその半分く ら いであろうと推定されている。 また右京と左 京に各々東市と西市とが設けられ, 毎年前半 と後半とに分けて交互に市が闇かれ, 住民の 需要を満たすよ うになっていた。 その第二 は, 藤原京時代弟盤代文武天皇のもとで大宝- 律令を撰集した藤原不比等が平城京に移って さらにそれを撃正して養老律令を編集, ここ に以降の日本政治を規定ずる律令政治の基本 法が完成していることである。 この平城京は和銅3年から延暦 3年まで約74年間続く , わが国最初 の長期にわたる都であり, この間律令国家体 制が整う。

また律令官人としての藤原氏と, 鎮護国家仏教と しての仏教の拾頭で特徴づけ られている〝 まず薦原氏は鎌足の子不比等の 代になっているが, 彼は大宝律令, つづいて 養老律令と, 律令国家の基本法の編さんに抜 群の力を示し, 律令官人の ト ップの地位を占 め, さらにその娘宮子を第42代文武天皇に, さらに光明子を第45代聖武天皇に納れるなど して, 皇室の外戚と して地位を高めた。 また 仏教もわが国に渡来以来, 国家鎮護を旗印に勢力を伸ばして来たが, と くに聖武天皇は仏 教に対する信仰が厚く, 諸国に国分寺, 奈良 に纏国分寺として東大寺を建立するなど, 仏 教を律令国家体御ーの精神的支柱としたため, その繁栄は目を見はるものがあった。

しかし平城京時代も平和 ・ 繁栄の一途をた どったわけではなく , 若干の波乱もみられた。 まず天平元年 (729年) には, 藤原氏が光明子 を皇后に立てよ うとするのを, 皇后は皇族に 限るというそれまでの慣習を盾に, 左大臣の 長屋王が反対するだろうとして, 王に謀反の 疑いがあるとして自殺させた, 長屋王の事件 がおきている。 しかしせっかく築いた藤原氏 の地位も, 当主および一族のつぎつぎの病死 によって力が劣え, かわって橘諸兄が拾頭し てくると, 一族の劣勢を盛りかえそう と, 天 平ー2年 (740年) 藤原広嗣が九州太宰府で約 ー万の兵を集めて乱をおこした〟 これを藤原 広嗣の乱というが, 広嗣は橘諸兄政権のみな らず諸兄を登用した聖武天皇までも批判の対 象にしていたので, 天皇はそれを恐れてせっ かくの平城京を捨てて, 恭仁=紫香楽・難波 と転々と遷都をく りかえし, 五年後にゃっと 平城京に帰っている。 聖武天皇が光明子との間にできた娘孝謙天 皇 (第46代) に譲位すると, その籠愛ずる僧 道鏡が政権を握り, やがて彼は宇佐八幡宮の 神職とはかり, 神託にことよせて皇位をねら う事件がおこった。 これは和気清麻呂らに よって阻止されるが, 平城京においては段々 と僧侶・寺院による政治関与が激しくなり, 正常な政治が困難となったので, やがて山城 の長岡 ・平安京への遷都問題が登場してくる。

4長岡京時代

第50代垣武天皇は天応元年 (78ー年) 4月 に即位するが, この年は辛酉の年にあたり陰 陽道にいう革命の年でもあった” 天皇は平城 京初年の間に強大になり, 政治そのものまで左右するよ うになっていた寺院勢力をふりき り, 人心を~新して新しい政治を行い律令体 制を建て直そうと考えた。

そのためには都を 替えるのが一番良いと考え, これまで宮都の あった大和の地を捨てて, 平城京よ り遠く離 れた山城国乙訓郡長岡の地を選んだ。 これを 長岡京という

長岡京は長い間平安京ができ るまでの臨時の都と考えられていたが, 調査 が進むにしたがって, 条坊制に基づく計画さ れた都市で, 仮の都ではなく て本格的な都市 づく りが行われ, 中心部分の造営はほとんど 終っていたことが明らかになってきた。 まず 立地的な条件から見ると, 平城京が人口10~ 20万という人口を賄うには, 大賽の物資輸送 手段である水遣の便を欠いていたのに反し, 長岡京は桂川 ・ 鴨川 ・ 宇治川に接し, 膨大な 消費を賄う条件を備えていた。

工事は順調に 進んでいたが, 造営長官である藤原種継が反 対派に暗殺され, その容疑者として皇太子早 良親王が捕えられたが, 親王はそれを冤罪だ と して憤死する事件がおきた~ そのため事の 真相は判らずに終ったが, 遷都というのは, それほど利害関係が複雑にからむ問題だとい う ことを, はしなく もこの事件は露呈するこ ととなった〟 たまたまこのころ天皇の身辺に 度々不吉な事がおころが, それは早良親王の 怨霊だという説が流布し, ためにせっかくの 長岡京を捨てて, 桂川を渡った北東の位置を えらんで平安京を造ることになったといわれ る。

5平安京時代

長岡京から平安京に移る延暦ー3年 (794 年), 種武天皇は諸国の神々の弊帛を奉り , 遷都と撮東経路の成功を祈願している。 新し い都の造営と東北地方の経営とは, 種武天皇 の二大政策だったわけで, 後者のためには先 の征討副使と して東北経営にあたらせていた 坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命している〟 また造都を推進する役所造宮城には, 約ー60 人もの大人員を配し, その長官 (造営大夫) には藤原小黒麻呂, りづいて和気清麻呂を配 している。 そしてその労働力 く造官役夫) と して諸国から公民を徴発するが, 役夫を出し た国に対しては租を免じるとともに, 出挙 (春に貸しだし, 秋の収穫後熟ー子をつけて返 さずという雑税の一種, 利率は約5割) の利 率を引きさげ, 役夫をださない国々とのパラ ンスをとった。

このよ うにして新都 (平安京) はできた が, また遷都反対派は根強く残っており, 大 同元年 (806年) 垣武天皇が死ぬと, 新帝 (平 城天皇) に, わが国では前天皇の忌明には, 新宮を建てるのが例になっている, と遷都を すずめる者があった。 これは容れられなかっ た。 しかし平城天皇の妃の生母藤原薬子は, 天皇が病弱のため退位すると, 勢力が失墜す るのを恐れ, 兄仲成らとはかって平城上皇を 平城京に移し, その重誰をはかって挙兵した が債圧されて自殺した。 これを薬子の乱とい う〟

このよ うに大和平城京から山城への遷都 は始めは波乱含みであったが, 以降建久2年 (ーー92年) 源頼朝が鎌倉幕府を開く までの約 400年間日本の政治をと りしきる “都” と なった。

なお, “都” を政治ではなくて天皇 の居所と解釈ずると, 明治2年 (ー869年) の 東京遷都ま で, 平安京 (京都) はー000年の都 であったということになる。 平安京は東西約4.6キロメ ー トル, 南北約 5ー3キロメー トルの, 南北に細長い長方形で, その大きさは平城京とほぼ同 じで, 京城の北 部中央に宮城を設け, その中央から南に走る朱雀大路によって右京と左京とに分けられ平 城京同様条坊制がしかれていたが, 右京は低 温地が多く , 去る者はあっても来る者はない 有様で, 都の重心は次第に左京に傾いてゆ き, さらに鴨川を束に渡って現在のよ うに なっていった。

人口は9世紀段階でー0~ー5万 人であったろうと考えられている。 平安京では仏教の影響を断った律令政治が 広く行われたが, 荘園制が進行するに伴い, 官人と しての藤原氏の勢力が段々と強ま り, やがて摂政 ・ 関白の地位を独占 し政治は藤原 氏に握られるようになる。

これを摂関政治と いう。 しかし=世紀末になると, 白河上皇が 政治の実権を院に移したことから藤原氏の力 は次第に劣え, いわゆる白河・鳥羽・後白河 上皇による院政政治が続くが, この間おこっ た保元の乱 (1156年), 平治の乱 (1159年) を 経て, 政治の実権は武家の棟梁である平清盛 に移ってゆく。 清盛の祖父は北面の武士と して白河上皇に っかえ, 僧兵の強訴を防ぎ, 九州の賊を討つ など軍功があり, 父忠盛は鳥羽法皇につか え, 瀬戸内 ・ 九州に載扈していた海賊討伐に 功があった。 清盛は実父は白河上皇との説も あるが, 保元 ・平治の乱で力を伸ばし, っい には従一位太政大臣の地位にまで登り, その ~門には公卿 (3位以上の責族) 16人, 段上 人 (5位以上の素族) 30人, 知行国は日本全 土の半分に近い加国あま り, 荘園は500ヵ所 に及んだといわれている】 また清盛は娘徳子 を高倉天皇の女御とし, その皇子は治承4年 (1180年) に即位して, 第8ー代安徳天皇と なった。 この頃清盛と法王および家衆との関係は次 第に悪化, 同年5月には平家に対ずる最初の 武力による反抗運動がおきた。 源頼政 ・ 以仁 王との宇治挙兵である。

清盛は突如安徳天皇 を奉じて福原に移った。 福原とは今の神戸で 平氏の別荘があったところである。 旧勢力を 断って新しい政治をしょ う という狙いだったろうが, 土地が狭少で造営が思うにまかせぬ うえ, 京都にいる公家や僧侶寺社の反発をう けて, その年のうちに再び京都にひきかえし た。 なおこの福原の舎殿は平家が都落ちをし て西に走る際火をかけて焼払ってしまった。 このよ うに平氏は武家として出発しなが ら, 無限に貴族化することでその勢力を伸ば していった。 しかしその事は逆に武家と して は弱体することで, やがて源頼朝を棟梁と ずる武家勢力におされて亡んでいった。武家政権でありながら, そのまま旧政権の 所在地である京都に優をすえ, 無限にそれに 近づく ことで結局は去勢されて亡んでいった 平家の姿をまのあたりに見た源頼朝は, 自分 の開いた幕府を都から遠く離れた鎌倉の地に おいた。

ここは関東武士発祥の地にあり, 旧 勢力に毒される恐れの最も少ない土地であっ た。 鎌倉は海にひらかれた港湾都市でもあり, ここから奥州や北九州, さらに中国まで船で 往来ずることが出来た。 そのうえ背後は東・ 北 ・ 西の三方を丘陵で囲まれており, それを こえて中に入り込む道は尾根を切り開いた “切通し” を通らればならぬよ う設計されて いた。 “切通し” は鎌倉七口といって, 西か ら極楽寺坂, 大仏坂, 化粧坂, 亀谷坂, 巨福 呂坂, 朝比奈坂, 名越坂の七つあり, それら をつなぐ尾根は, 人工的に切り落した崖と なっていて, その内部は一個の巨大な城塞と なっていた。 この中幕府の政庁と町屋があっ たのだが, 政庁は海岸から裏まった谷戸に設 けられ, 町屋は海に近い比較的広い地域にっ く られていた。 人口を測る史料は皆無に近い が, 建長4年 (ー252年) に幕府が行った民家 の酒壺の詞査からー 約ー万戸( らいの戸数が あったろう との推定がある。 この時代の一戸 の推定人口を示ず数字もないが, 江戸時代の 平均一戸約5人よ り多いとすると, 5~ー0万 の人口はあったろうと考えられる。 ともあれ 前代の平安京 ・平城京にく らべると著しく狭 い市城になるので, かなりの過密都市であっ たろうことは疑いない。

ここで御成敗式自 (貞永式目) が制定さ れ, 律令による政治とは異った武家の政治が 行われた。 未曽有の困難といわれた元冠は幸 に切りぬけることができた。 その愚鸞をめ ぐって武将たちの不構をまわき, 元弘3年(ー333年) 新田義貞軍に攻められ, 執権高時 以下自殺して鎌倉政権は亡んだ。 北条氏滅亡後政権の主導権をめぐって争い がおき, 一時新田義貞と組んだ後醍醐天皇が 政権を握ったかにみえたが (建武中興), や がて足利尊氏におされ南北朝分裂ののち, 実 権は尊氏の手に握られた。 延元元年 (ー336 年) 尊氏は京都に幕府を開き, 建武式目を定 め, 同3年北朝から征夷大将軍に任ぜられた。 これから坊代将軍足弔ー義昭が織田信長のため に京都から追放された天正ー5年 (ー573年) ま での約2仙年を室町時代と呼ぶ。 室町時代, または室町幕府という呼び名は, 3代将軍足 利義満が, その邸宅を京都北小路, 室町に営 んだことから出た言葉である。

武家による政権の所在地が, 鎌倉から京都 に移ったわけで, 武家政権の遷都であるが, では何故北条氏から足甲ー氏に政権が移った場 合, その政庁の所在地を鎌倉から京都へと大 きく移動させたのであろうか。 その答は簡単 で将軍家北条氏は亡びたとはいえ, 関東には まだ北条氏の勢力が強く残っており, 足利氏 による新しい政治のためには, それからのフ リー 〝ハンドを得るためには遠く離れ, 天皇 の居所であり, また日本の最大の 手工業 都市であった京都が適正だったからである。

6安土・桃山 ・江戸時代

守護地頭といった武家領主と寺社公家ら荘 園領主たちの連合政権といった性格をもった 室町政権は, その出発点から安定性に欠けて いたが, 応仁元年 (1467年) 将軍家の相続争 いに, 将軍家を支える有力守護大名家の相続 争いもからんで, 二派に分れた将軍家にこれ も二派に分れた守護大名たちが加わって争い を始めた。

東軍は細川勝元を中心に24ヶ国ー6 万, 西軍は山名持費を中心に20ヶ国9万の軍 兵が京都を舞台に来て しない争いをつづけた。 これを応仁の乱と呼んで約100年も続く がこの間に京都の町は戦火に焼かれてしまい, 将軍家の勢力は地におち, またそれを支えて いた大名達も薫に疲れはてていった〟 このよ うにこれまで日本を支配し続けていた上層社 会の力は衰え, 守護代以下の在地勢力が段々 と力を伸ばし, お互いに相手を征服してよ り 強大になるための武翼をく りかえすよ うにな る〝 これが下麺上の時代と呼ばれる戦国時代 である。

淘汰・統合は段々と進みー6世紀半ば ころには, 伊達・上杉・後北条・武田 ・今川 ・織田 ・毛利・長宗我部・大友・ 島津といっ た人達が一頭地を抜く有様になっていたが, そのなかでも織田信長が頭角をあらわしてき た。 彼は天正4年 (1576年) 近江の安土に, それまでにみられない巨大な近世城下町をつ く った く近世城下町はこの2年前に, 羽柴秀 吉が近江の長浜にっく ったのが最初だといわ れている)。 近世城下町とは, それまでの中 世城郭とちがって, 要害を主と した山城では なく, 領国の中央, 政治経済の中心地に設けられ, 天守をいただく城郭部分と, その周囲 をと りま く町屋部分とが一体の存在で, 大量 輸送を考えて舟遣のき く水につけているのが 一般であり, 長浜も安土も琵琶湖にっけてっ く られていた。

織田信長が安土を選んだ理由は, この土地 は東と西とをつな ぐ交通の要衝であるのみな らず, 日本海側と京都をつな ぐ物資輸送路で ある琵琶湖水上輸送路もおさえる位置にあっ たからである (当時までは日本海側の物資は 若狭湾に面した敦賀か小浜で陸上げされ, 陸 路で琵琶湖まで運ばれ, 湖を舟で都へと運ば れていた〟 西廻りの航路が開発され, 大阪の 地位が上るのは江戸時代に入った1650年ころ である)〟

安土はこのよ うに当時としては他に比類の ない交通の要衝であるうえ, 京都の旧勢力か らは離れ, しかも旧勢力を監視するには好個 を占めていた。 これが信長が天下統一 の拠点として安土をえらんだ理由である〟しかし信長の時代は長く続かず, それに 替った豊臣秀吉 (大阪 ・ 桃山を本拠とずる) の時代も短く て, 世は徳川氏の江戸時代に 移っていった。

` 徳川家康が江戸に入ったのは天正18年 (15 90年) 8月 1 日のことである。 従来の領地 (三河・遠江・信濃 ・ 甲斐・伊豆) に代って, 関東を与えられた からである。 この時これら5ヶ国を失うぐら いなら, いっそこの際秀吉に反して兵を挙げ よ うと騒ぎたてる家臣たちのなか, 家康は一 人満足げに笑っていた, という話がある。 江戸に入ったとき, もちろん太田道灌 の遺樓なるものが残っていて, 本丸・二九・ 三丸なるものがあったが, 石垣はなく土をか きあげた土手があり, 海岸に出入りずるとこ ろに数ヵ所木戸があり, 城内の建物も華ぶき の古屋で, 玄関には階と しては舟板が三枚な らべられている程度, しかも城下には茅葦き の家が100件ほどあった程度のものだった。

これに大改撃を加えて天下の城下町, 将軍の 御膝元と して体裁をととのえるのは, 裏長8 年 (1603年) からはじまる江戸市街地の建設 と, 同9年からはじまる江戸城の大改築であ る。 これらは, “天下普請" といって, ほと んど全国の大名たちを動員して行われ, 寛永10年 (1633年) ころ, ほぼ予定の仕事が終 わった。 しかし翌11年の “諸大名妻子在府 制” , 翌12年の “参勤交替制” 実施によ り江 戸は大膨張をはじめ, 再開発計画にと りか かった矢先, 明暦3年 (1657年) の江戸大火 (名層大火) で, 江戸城天守閣以下ほとんど の市城が焼失してしまった。 その後若干の計 画のもとに再建にと りかかるが計画を上回る 大発展をとげ, 幕府はじまって約100年経過 した元禄時代には, 人口ー00万といわれる世界有数の巨大都市になった。

このよ うに関東の江戸を政権の本拠と した 徳川家康と, その前の実権者豊臣秀吉とでは 政権構想が大きく ちがっていた。 豊臣秀吉に ついては, 尾張中村の小百姓の出でなくて, さる皇族の御落胤であるという , 責種落胤伝 説があるが, これは彼自身が流したものだと いわれている〟 これで判るよ うに彼は天下を 握ると, 天正13年 (1585年) 関白となり姓を 藤原と改め, 翌14年には律令官制では最高位 の太政大臣となり, 豊臣という姓を朝廷から 賜り, 同16年には京都に聚落第をつく って後 陽成天皇の行幸をあおぐなど, 彼は新しく生 まれた社会の新しい支配者でありながら, わ が国古来の伝統的権威である皇室に, 限りな く近づく ことで自己の権力を権威づけるとい う手法をとっている〟 これに対し秀吉のあとをうけた徳川家康は かなり越を異にしている。 彼は裏長8年 (16 03年) 征夷大将軍に任命されたことを政権掌 握の拠り処として, 江戸に幕府を開くが, 彼 はあく まで武家の棟梁として政権を握るとい う, 鎌倉政権, 室町政権の伝統に乗ろうとし ている。

家康は三河国松平郷を本拠とする在地小領 主の出であるが, 天下を取ると自己の家柄を 権威づけるために, 上州世良田郷に住む足利 氏の支流の親氏が, 某年某日落飾して諸国流 浪の旅に出, 松平郷で入婿したのが徳川氏の 祖先であるという話を組みあげている。 これ も一種の賽種流離譚であるが, 責董はあく ま で室町将軍家をつく った足利氏であって, 秀 吉のよ うに皇室ではない。 したがって皇室の 下にあって自分を無限にそれに近づけよ うと した秀吉と, 皇室をあく まで自己の政権の下 に置いて (たとえば 「禁中並武家諸法度」), これをコント ロールしょうとする家康の政治 姿勢に違いがでてく るのである】 それは自己 の政権政庁を天皇の居所と しての京都そのも のではないが' それに出来るだけ近い桃山 ・大阪にごいた秀吉と, 大きく切り離された江 戸におく という政都のえらびかたの違いにも 現われてくるのである。 それ以前の日本が, 上から下へと組みたて た社会とずれば, 江戸時代からは下から上へ と組みあげた社会である。 江戸時代は300諸 侯というが, 実際には約2冊ほどの諸侯 (大 名) がおり, その上に幕府が乗るという組み たてになっていた。 したがって江戸時代に “国” というのは, 今日の日本ではなくて約 270ほどの藩のことであった。 その幕は徳川 幕府に一定の制約をうけていたが, 経済的に は自立した存在で, その暮独自の財政と税制 をもっており, したがって独自の経済政策を 持っていた。

そのよ うな藩の政庁 (都) が城 下町と呼ばれる存在であった。 徳川氏といえ どもその中の一つの藩で, 約700万石という 他に抜きん出た領地を持っているほか, 幕府 という幕連合体を統・ コント ロールをする役 目をもつ存在であった。 したがって江戸は大 名と しての徳川氏と日本全体の統率者として の両機龍を兼ねた城下町であった。 城下町は一定のルールでっく られた人工的 都市であった。

まず城下町は海・河川 ・運河・湖 などの違いはあるが, 水についているのが原 則であった。 これは領内人口の約一割を豪め た巨大消費都市の消費物資と, 領内の物産を移出し, また移入するための運輸の便を考え てのことであった。 つぎに城下町の中心には 城郭部分があり, 領主の居所・政庁および, 場合によっては藩の最上級家臣の居所もここ にぁった。 っぎは武家地で, ここに家臣団が ほぼ階層別, 職種別に居住していた。 その外 側は川や構 ・ 堀などで区切られている事が多 いが, 領内から集められた商職人が集往して いた。 江戸時代では “兵農分離" ということ がよ く云われるが, 農商の分離も同時に行わ れ, 兵と商 (工を含む) が農から分離して城 下町に住むのが一般であった。 またこの町地 (町人地ともいう) には他領から入り, 他領 に抜ける “天下の公道” が通っているのが一 般であった〟 町地の外は寺社地で, ここは城 下町防衛も考慮した配慮で, 一朝事ある時は ここが城下町防衛の外郭陣地となる筈であっ たが, 江戸時代は平和が続いたので, 現実に は市民のレク リエーショ ンの場としての役割 をした。

幕末期の遷都

幕末期、京都には多くの武士が集い政治上の重要拠点となりました。しかし、京都ではなく大坂を首都に定めようとしたのは、新しい政治体制を組織するために従来の場所から離れる必要があったからです。ところが、この大坂遷都論に触発される形で、驚くことに幕臣の前島密らが江戸遷都論を大久保に上申したことが、江戸が首都となるきっかけになりました。彼らが江戸を推薦した理由として、蝦夷地の開拓を視野に入れていることや、その当時の江戸が人口や土木・建築技術において世界の首都と見劣りしないものであったことなどを挙げています。大久保らは今後の徳川家の処分に加えて、明治政府内部から江戸遷都論が少なからず出たこともあって、江戸を首都とする方向に傾いていったようです。遷都自体については、明治2(1869)年に皇城とした江戸城に天皇が入城した後も明確な声明はなく、なしくずし的に江戸(1868年 7 月17日より東京に名称変更)を首都にする形となりました。
 遷都自体は奈良時代、平安時代にも行われていたことで、前例の無い事例ではありません。しかも、明治政府は徳川幕府を倒して勝者となった以上、躇う必要はなかったとも考えられます。それでも遷都という表現を避け続けてきた理由は、一千年以上の伝統を持つ京都に対して憚はばかりを感じていたからだと。このように変革は、その内容が斬新で、旧来の制度や慣習などを大きく変えてしまうものほど実行は困難になります。後の四民平等や徴兵制度に見られる武士階級の撤廃の場合、武士の強い反発を招き、最後は西南の役に見られる戦争に発展しました。
 現代も、政治家によって多くの社会・政治改革案が提唱されていますが、反対勢力の抵抗などで成立を見ずに頓挫したものもあります。また、実施に持ち込めても、それが理想とは違い、地域や国民の利害にそぐわぬ結果に終わった改
革も存在します。したがって、いつの時代でも改革は現状を大きく変えてしまうことが前提であり、立案前に広範な視点からの検討を積み重ねることが求められます。

 

猛獣塾入門講座

猛獣塾

残すところ本日開催で全9回終了となります。

 

昨日の講義の中で、塾頭西田さんのP&G時代、フィリップモリス時代の内容を基に

 

 入社2年目からP&Gでトレーナー担当になり、当時買収を行ったマックスファクター!

そのマックスファクターの経験が現在の猛獣塾を展開する原体験という事で 4000品目からSK2に焦点を当てて 化粧品というのは末端に3000人の美容部員さんがいて美容部員の方が動いてくれるか否かに関っている。 

 

結果的に成功したが、その時は何で上手くいったのかが分からなかった。 

 

フィリップモリス時代も同じ様に 1000人位のセールスマンを抱えていて そこで就業規則や人事評価制度を作りながら 退職の2年ほど前に分かったとの事で、マックスファクター時代、フィリップモリス時代の経験及び成功体験の内容を基に チーム、組織がいかに目標達成だけではなく 方向性の浸透、そして腹落ち!

という言葉をよく用いますが 腹に落ちる様に納得し、組織、チームが進むべき方向性が分かる。

 

 それを分厚い資料やテクニカルなツールなどではなく 1枚ものの紙に落とし込んでそれを基に浸透させるという それを聞く事が出来るので 業種業界、規模関係なく参考になると思います。 

+ 2回目3回目と聞きに来てくれるリピーターの方が多いというのも 毎回参加者の背景、肩書き、などなどその日の参加者によって話す内容を 構築してくれます。

 

動画はこちら

 

猛獣塾入門講座

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第12期では池川先生から3講座と
1講座 女性の妊娠や胎内記憶の意味
2講座 胎内記憶そのものについて
3講座 魂、輪廻転生についてどこにきてどこに帰っていくか

3名の女神達とのコラボセミナーになります。

第1講座では女性の妊娠や胎内記憶の意味について

池川先生から「いいお産とはどの様なお産なのか?」

それは、教育も含めてお産を考えてみることがいいお産につながるのではないかとヒントを頂きました。

いい教育というのは

30歳になったときに、自立して幸せに生きていること。自分で決めた目標に自分で向かっていける子になっているのであればそれはすべていい教育

というのを池川先生は伊藤善重先生からの言葉を基にいい教育といいお産を結びつけることが出来たとのことです。 多くの方は出産時の形にこだわりその後の教育、教育した後の子供の姿まで考えていないケースが多く 長い目で見て子供の出産は形にこだわらなくてもその後自立している子になるのであれば 自然出産や母乳育児など必ずしも形にこだわらなくてもいい。 むしろ自分で決めずにこれじゃないとダメという周りの意見に惑わされすぎるのはよくない。

 

妊娠において気をつけるべき「ストレス」について

ストレスには4つあり
1、科学的なウイルス、ばい菌、感染症
2、機械的な電磁波、放射能
3、ケミカルな薬剤
4つ目が精神的なもの

4つ目の精神的なストレスが活性酸素を作ってしまい、活性酸素は遺伝子に影響する。

例えて言うなら
レントゲンを取るのを例に放射能の影響で悪影響を及ぼすかもしれないがそれは一瞬の出来事。

ストレスの場合は24時間常に悪影響が続いている。
影響度は放射能と比べて弱いかもしれないけれども活性酸素を作り続けていることは遺伝子に影響してくる。

具体的に
ネズミの実験でネズミを縛った状態で24時間光を当て続けるとストレスが相当溜まってしまうとのことで
昔、妊婦さんに同じ様な実験を行ったケースがある様でその際出産した子はおかまっぽくなる男の子だった。

さらにしょっちゅう動いて、攻撃的な子でもあった。

そのストレスを感じて産まれた子は虐待を受けた子と類似していて前頭前野が機能しなくなり、機能しないと、我慢できない、相手の気持ちがわからない、常に自分が非難されている気持ちを持った子になる可能性が高い。

解決するには親の問題よりも御祖母さんが妊娠中の時にお母さんがストレスを感じていたケースが多く
親がどうするではなく、その子で悪循環になっていた状況をストップすること。

最後に、
1期の卒業生であり、11期から講師の宮崎智美さん(トミーさん)から宮崎さんがまだ池川先生と出会う前に体験した子供が来るのを感じた時の子供の意思の大きさをお話し頂きました。

自分にとってのいいお産も赤ちゃんが選ぶいいお産両方とも感じながら、赤ちゃんが選んだことを受け入れようという覚悟を持って出産した時のお話を頂きました。
もしも病気や障害を持っていたとしても、それを選んで産まれてきてくれるんだと
それは自分にとって必要な体験を赤ちゃんがさせてくれている。

そこまで信頼して不安が無いお産、リラックスした状態でのお産をすることが出来た。

●日時:2018年3月23日(金曜日)18:30~20:30ごろ(開場18:15)
●会場:梅田生涯学習センター 第6研修室
住所 〒530-0001 大阪市北区梅田1-2-2-500 大阪駅前第2ビル
●会費:お1人1,000円(資料代)
●持参:筆記用具をご持参ください。
※勉強会後、懇親会があります。是非お越し下さい。
会場近くの居酒屋にて開催。会費はお1人¥2,000~2,500円の予定です。

 

 

1月末からスタートしている猛獣塾入門講座

猛獣塾

残り日程が2月13,14,15となりますが、WEB担当、事務局担当として毎回かかわっている中で聞いた人がファンになって帰っていくというのを毎回感じます。

全て塾頭の実践してきた、経験してきた事を基に話をされる形なので、生々しくなるほど!と思う内容ばかりで

猛獣塾入門講座

今回、ダイジェスト版抜粋で講義内での様子から

いつも、腹落ち1枚シートというのを用いて、講義中にはメモを取らなくてOK.メモ取る位なら話し方、動作などなどを見てくれと。また、分厚い資料を見返すなどをしなくてもいい様に話したことを1枚にまとめたシートを毎回用意頂いてなるほど!納得する感じです。それをP&G,フィリップモリスで実践され続けていたとのこと。

猛獣塾入門講座

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教育の大切さ

まずは、投資する金額の違いが外資と日本企業で異なる。
P&Gの卒業生がヘッドハンティングで常に声が掛かっている大きな要因はここにあり

 

いつの間にかこちらも決定

猛獣塾入門講座

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WEBでお世話になってからかかわらせて頂いておりますロボット、AI、IOT

現在メディアに多数出てきて興味を持たれている方も多いと思いますが、実際にロボットやAIを提供している(活用している)会社やサービスの事例など、今回セミナー開催にてご紹介。

まず、人工知能の研究の歴史は、「ブーム」と「冬の時代」の繰り返しと言われる。人工知能という言葉は1956年に生まれ、第1次〜第3次(現在)

第1次ブーム(1950年代後半~1960年代)では迷路やパズルを解いたり、難しい定理を証明する人工知能が登場し、世界で注目された。ところが現実の課題解決には使えない弱い側面があり、ブームは冬の時代に。

第2次ブーム(1980年代)はコンピュータに知識を入れ、様々なことに対応出来るシステムは出来るが、知識を記述、管理すること、膨大なデジタルデータを取り扱うことが難しいため、1995年ごろから再び冬の時代に。

第3次AIブーム現在は第3ブームが起きており、背景にあるのは、

  1. 深層学習による機械学習の情報科学
  2. ビッグデータの普及
  3. 高度な処理をリアルタイムに実現することができるようになったこと
  4. ディープラーニング用いた、ワトソンや将棋のプロジェクトのような印象的なプロジェクトの発足
  5. 人工知能の影響力や脅威の伝達
    (スティーブン・ホーキング博士や実業家のイーロン・マスク氏ら著名人が「人工知能は人類を滅ぼすのではないか」と懸念を表明された)

など、いくつかの要因が重なって今の第3次ブームがあると言われている。

『MiLAI』を提供しているリトルクラウド神原社長から

実際にAIってどうなの?何ができるの?とビジネスシーンにおける活用についてを中心に解説頂き

現在のAIにおいて実際にお金を生み出している(活用出来ている)のは画像認識技術
AIには
画像認識(ディープランニング)
自然言語
分析

などざっくり4つに分類され、まだまだ実用化に至っているケースは少なく、やろう!と思っても何から手をつけていいか、どう活用するかの重要な要素において、現場を見ながらAIを提供する技術の会社と導入する会社さんを結びつける仕事をされています。

重要なのは「継続的な経営」とのことで、技術のみに目が行っているケースや新しいからという理由では環境、状況の変化を理由にダメになる(結局やらない、長続きしない)という事で、

今この技術を取り入れることにより3年後、5年後にどう業務が効率化、削減などが見えているかが大切とのことでした。

 

 

次にロボットに関して

ロボットスタート 株式会社望月さんから

 

ロボットについては、おそらく興味ある個所として「人間の仕事が奪われる」というところと思いますが

現状、そのロボットを構築し使いこなす人間の人材不足!が課題で
データサイエンティスト、人工知能の領域に精通した人材の不足、AIも同じく技術はおそらく数年で浸透すると思いますが、実際に日常生活や仕事、業務上にどう活用するかの提案の部分まで見れる方の人間が少ないということ。

個人的に、ロボット&AIの普及によって人間らしく人間の良さを活かされるのが

  • クリエイティブ
    課題の特定にいたる枠組みや新しいコンセプトをデザインすること、またアイデア、新しい組み合わせを着想(ひらめき)、通常では発想に至らない仮説を導き出す力
  • リーダーシップ/マネジメント(人を動かす力)
    人と人が行うデリケートかつ複雑なコミュニケーションを行い、人々を奮い立たせて勇気付け、人々をある目的に導き、目標を達成させるための意識付けるなど、意識に働きかけて人を動かす
  • ホスピタリティ・課題解決
    人が感じる潜在的・顕在的な課題と向き合い、自分ごととして不便、不満など「不=問題」を解決・解消するための働き

反対に「正確性を要求される」「単純作業・マニュアル化しやすい」「システム化することで計算、算出できる」職業はなくなる可能性が高いと。

となると、機械を「どうマネジメントするか」が今後重要性が高まるところと思われ

「正しい問いを投げかけること」

「AIやデータ領域を理解し、自動化をさせるために枠組み化をして回すこと」

などの活用の部分に人間が重要になってくる事で、


ロボットコンサルタントやマインドアドバイザー?物流コンサルなど
実務を行う前段階や実務を行った後どう変化した姿をイメージし提案出来る人間が求められると。

マインドも注目しているところでもあり、
ロボットとAIの進化で価値観や自身の幸福にどう影響するか?

PC,インターネットの発展によって幸福を得られた人もいますが、逆に仕事が減少、仕事におけるマイナス面(社内では重労働環境、外では何をしているか見えない、わからない活用できていない)コミュニケーションが希薄になった
などなど
プラスマイナス両面あると思います。

きっとロボットも進化すれば、心の相談ロボット君の様なロボットも出てくると思いますが
「幸福度」「自分のあり方」などをAIでどこまで食い込むことが出来るのか、興味あるところです。

いい会社研究会から

3月22日 in 高山見学会開催

場所:岐阜県高山市 2企業

スケジュール
3月22日 木曜
10:20 高山駅 東口 集合
11:00~12:30 ミチナル株式会社 様
13:00~14:30 株式会社和井田製作所 様
見学終了 解散

いつものように現地集合現地解散です。
駅からの移動は、人数に合わせて用意します。

見学会社:
株式会社和井田製作所 様 
(岐阜県高山市に本社を置く金型関連研削盤などを製造する企業。同市初の上場企業。)
HP http://www.waida.co.jp/index.html

ミチナル株式会社 様
(「捨てない農業」を実践する企業。)
HP http://www.michinaru.com/

 

以前の名古屋方面における見学会では

 

第4回日本で一番大切にしたい会社大賞」の「実行委員長賞」を受賞されたLFC様への訪問

LFC

感動創庫LFCという名前の通り、訪問した時に感動とおもてなしを経験する事の出来る会社

まず始めに、ミーティングルームに通るまでの間に社員食堂を通過する際も社員さんがミーティングされている中、皆さんが立って「いらっしゃいませ」と挨拶頂き、その後会議室に入りテーブルを見れば一人ひとりの名前を書いた出会いを感謝するシートがあり、ポケットティッシュにさえも自分の名前が書かれたカードが入っていました。そして、朝の清掃作業と朝礼を見てまた会議室に戻ってみればなにやら封筒が置いてありました。後からその中身を確認してみれば私への手書きのメッセージと最初に撮影した写真が入っていたのです。清掃と朝礼の見学をしているわずかな間に私たちはまた新たな感動を届けられてしまったのです。

 

最後に玄関を出る時にはまだ最後の感動が待っていました。会社のみなさんに送ってもらうなか手渡された「号外LFCニュース」。そこには私たちの見学風景の記事が載っていたのです。

◆大家族主義

「社員は家族である!」家族が心配している事やもし家族の中で障害を持っている方がいたとしたら何とかしようとしますよね!という井上常務の言葉。言うだけではなく経営幹部の方々が徹底して継続し続ける仕組みを整えている。

 

◆徹底したホウレンソウ

1日に何度もチェックをする事。経営理念も手帳形式のサイズにする事でいつでも読み返せる様にしている事など。浸透させる取り組みを本気でおこなっているのがやはり評価というか全社員が取り組むという事につながっている。

東京思風塾の年間テーマは『覚醒の時代~目覚めた命を生きる~』
平成30年の第一回のテーマは『世界文明の中心は日本の真上にある』

「覚醒は時代と共に変化し現在は第3の覚醒の時代」

歴史的な背景を考慮すると、宗教の時代において「人間は神ではない、不完全な存在」 不完全性の自覚に目覚め、不完全性に覚醒し人間の格というのを意識して生きる時代に入った。 これは第1の覚醒の時と言える。

第2の覚醒は近代 「人間の本質は理性」 理性を限りなく発展、成長させた時代 その生き方として近代の科学技術文明が創り出されて発展してきた。理性能力を成長発展させる事に目覚め、理性に覚醒した時代

今その積み重ねの結果 人類は宇宙に目覚め、命に目覚める第3の覚醒の時代に入った。

第3の過渡期とは 過渡期こそ最も文化が栄える時期で完成度の高い文化が成り立っている
ギリシャ人は古代文化を担っていた。 古代文化が量的に拡大したのはメソポタミア文明、 古代の石の文化をギリシャ人は発展させ、完成度を高めた上 中世を拓いたという歴史がある。

そして、ルネッサンスは宗教文化
ルネッサンスを通じて中世~近代へと変化しており

近代を終わらせて未来を拓く それが日本人としての役割ではないか

過去へのしがらみを断ち切って新しい時代へ突入する過渡期
これまで我々は民主主義を信じていたが 民主主義が制度破綻に近づいてきている。

民主主義を終わらせること、それが近代を終わらせる事

民主主義を何故終わらせる必要があるかというと、民主主義は権利の主張から始まっている歴史があり 義務を言うより権利を主張する そういう時代を創り出したのが民主主義の出発点 義務を果たす努力を極端に避けて権利を主張している

義務を逆手にとって、義務を持って人を攻めてしまっているのが民主主義の実態
責め合う社会であってはいけない。
不完全な人間が安心して安らかに生きる社会は攻めあい権利を主張するのではなく
許しあって生きる愛に基づく新しい社会のあり方を考えていくべき

 

 

 

中世の段階で目覚めた自覚は「人間は不完全である」という事

人間短所が無ければ人間ではない。長所だけなら神様である。
長所短所共に存在しているもので、無くすことは出来ない。

人間も宇宙の一部分、宇宙とはマイナスとプラスのエネルギーが半々ある事。
それが宇宙の秩序を形成しており、対存在という言い方が出来る。

プラスにマイナス
陰には陽
光に影
表に裏
真に偽
善には悪
男には女
動物に植物

あらゆるものが相互補完的な関係でバランスが成り立っている。
だから人間には長所短所も自分で創ったものではなく誰でも半分ずつあるもの

 

 

 

2016年2月1日に亡くなられてから早2年

初女先生の出版記念講演会のお手伝いから、透明な在り方フォーラムの活動、おむすび講習会等々

初女先生は産まれ育ちは同じ青森市で、ご出身が明の星高校(姉の母校でもあります)その事を東京にお越しになられた際に話をさせて頂き、耳を傾けて聞いて頂き、喜んで頂いた初女先生のお顔がずっと印象的で心に残っています。

 

佐藤初女先生

初女先生は「言葉を超えた行動が魂に響く」をモットーにされていらっしゃいます。

 

今を生きるで生きていて、そこで何があってもまた切り替えていくから、後悔はない

 

との事で、まずは目の前のことを精一杯やって生きていきましょう。希望や夢などいいことを考えてまっぐに進まないよりも、もっと心を向けて生きたい。今、このときを感謝しながら真実に生きていると、必ず目的に通じます。

 

芯の通った言葉であり、且つその中でも優しさ溢れるお方でもあります。

佐藤初女先生

 

佐藤初女先生

佐藤初女先生について


訪れた人とはまず手料理で食膳を共にします。春でしたら、ふきのとうやたらの芽、わらび、うどなどの山の幸、そして北国ならではの海の幸が食卓に賑わいをもたらします。岩木山の麓の澄んだ空気と豊かな緑に囲まれて、自然の恵みを与えてくださった神様に感謝しながら一緒に食事をいただくと、緊張もほぐれて、ゆったりした気持ちになっていきます。そんなところから、苦しみの中で閉ざされていた心の扉が少しずつ開きはじめることもあります。

訪れた方は、「心のふるさとにたどりついた気がする」「生きることの原点を教えてもらった」「人生の岐路を乗り越える勇気が湧いた」など様々な思いを抱くようです。共通するのは、皆、休息と安らぎを得て、元気を回復していくということです。

悩みに押しつぶされそうになる人、心を病む人というのは、もともと心が純粋で、繊細なのだと思います。心に傷を負ったとき、すぐに家族や友人たちの中に支えてくれる人を見つけることができればいいのですが、それができないと、どうしたらよいのか自分ではわからなくなって、精神状態が大変不安定になってしまいます。

このように、人生に悩み、精神的に屈しかかった人たちを、自宅に受け入れ、食事と生き方との間には神秘的なつながりを感じます。食べることと、その人のそのときの心境とは一致しています。ですから心の中が詰まっている人はなかなか食べることができません。

なにも受けつけなかった人が、少しずつ食べられるようになるのを見ていると、やっと心が動きはじめたのだなあということがわかります。

「食べる/食べない」ということは、「生きる/生きない」ということと、相関にも似た、深い繋がりがあるようである。

 

透明な在り方フォーラム

2010年11月 森のイスキアの佐藤初女先生の在り方にヒントを得て名付 けられ、新しい時代を生きる人間の在り方として「透明な 在り方」を模索する勉強会として発足した。これまで映画 「生まれる」上映を始め池川明先生講演会や佐藤初女先生 のお料理講習会などを開催してきた。今春、佐藤初女先生 の新刊「限りなく透明に凜として生きる」出版記念講演会 を共催するなど、ささやかだけれど、ぬくもりのある活動 を続けています。

 

27日で37歳となりました。

当日は胎内記憶教育の講座開催に関わらず兼ちゃん先生、優子さん、池川先生からのサプライズなお祝いありがとうございました。