森友学園の真相・分析③【猿芝居を続ける安倍昭恵!籠池夫人・メール問題・寄付金】沖縄高江に来た目的 | 和み雪 降る夜 

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それでも猿芝居を続ける安倍昭恵
安倍昭恵は公人・寄付金はあった・籠池夫人メールの意味・沖縄ヘリパッドに来た目的・安倍昭恵はどんな人?
 
 「些細なこと」を見逃さない姿勢こそ、真実を追求する「鍵」となる。目立つような大きなことはフェイク(目くらまし)であり、相手が油断しているような「些細なこと」に、真実が隠されているからである。どんなに隠しても、嘘はいつかはバレる。嘘がバレる綻び(ほころび)となるのは、大抵は「些細なこと」である。政治分析においても、「些細なこと」を見逃してはならない。その為に有効なのは、「歴史的データ(事前知識)」と「疑いの目を持つこと」だ。
 
 安倍昭恵夫人は政治家ではない。政治家ではないが「公人」である。「公人」だからこそ秘書官(内閣総理大臣夫人付)が5人も付いている。昭恵夫人についている秘書官は公務員だから給料は「税金」である。「税金」で雇われた公務員が5人も付いているのだから、昭恵夫人が「私人」であるわけがない。「私人」の秘書であれば自腹で雇えばいいだけだ。しかも歴代の総理大臣において2人だった秘書官が、安倍政権になってから5人に増員されている。歴代に比べて活発な「公務」(内閣総理大臣の補佐)をこなすことが連想される。これは「些細なこと」のように見えるが、絶対に見逃してはならない。
 
 菅官房長官は、以下のように述べている。内閣総理大臣夫人が「公人」として扱われる場合には、秘書官が付く。内閣総理大臣夫人の公務の内容は「内閣総理大臣の補佐」である。菅官房長官は、自分でそのように国会発言をしているのだから、昭恵夫人が「私人だ」なんて詭弁は通用しない。秘書官が5人もついている人を、「私人だ」なんて聞かされたら、普通は激怒する。5人分の公務員の給料と言えば、結構な高額なのに、内閣官房長官は「安倍昭恵は「私人」だから問題ない」なんて言っているのだから、愛国心すら感じられない。必死に払っている税金(血税)が、デタラメに使われたら腹が立つ。愛国心あればこそ、必死に働いて支払っている税金が、どのように使われているかは気になるし、税金がだらしなく使われたら、必死で支払っている国民の心は深く傷つき、愛国心はズタズタに引き裂かれる。だから、「昭恵夫人は私人である」という官房長官のセリフは、「納税者の自尊心や誇り」を傷つけるような、心無い酷い言葉なのだ。納税は、尊い「国家貢献」であり、「国民の誇り」であるはずなのに、こんな屈辱は無いいわば、「愛国者の喜び」が剥ぎ取られているようなもので、国民一人一人が、納税する喜びや誇りを感じられない国家は、やはり「嘘」なのだ。

 昭恵夫人は明らかに「公人的」な行動をしている。例えば、去年の沖縄のヘリパット反対運動において、ヘリパット反対派(と言われる)三宅洋平が現場に安倍昭恵夫人を連れてきた。しかも、まさしくゲート前で、衝突が予想される日の現場に、敵対する安倍首相の妻を連れてきたのだから、現地も騒然となった。しかも夫人は、テレビ局をぞろぞろ連れてきた。明らかに、機動隊との暴力的な衝突をカメラに収めて、基地反対派を叩き潰す算段だったのは見え透いていた。当然テレビ局は、反対派の暴力だけをクローズアップに利用するだろうし、沖縄基地問題が暴力的に滑稽に演出されればされるほど、国民はウンザリして、徐々に関心は薄れていく。それが狙いだったのだろう。視察や対話が目的なら、埋め立て予定地の自然を視察するとか、他の日にするとか、色々考える方法もあったはずなのだ。
 
 沖縄の基地の問題は、反対運動家(極左)の暴力的イメージが先行する。だが実際には、沖縄の現地人が長い時間をかけて穏やかに対話を交えて長期戦を構えてきた。だから現地人は、警察と対話を保つように細かな心がけをしてきたのに、反対運動家によって全国から多くの人が押しかけて、暴力的な問題が引き起こされ硬直化した。全国反対運動家がデモをやりたいのなら、現地を荒らすのではなく、国会議事堂前でデモをやれば良かろう。これは、ヘリパット反対運動と称しながらも、事実上の妨害行為であった。三宅洋平は山本太郎の友人だが、実際には安倍政権と繋がっていたという噂もある。もとより、安倍首相の妻を連れてくるなんて、スパイと思われても仕方がないものだった。こうした反対運動の招集に加担した山本太郎にも疑惑の目が向けられる事件となった。(山本太郎議員は軽率で無知だったのかもしれないが)。
 
 安倍昭恵夫人は、政治家ではないが「政治家の妻」であり、その政治家は内閣総理大臣、すなわち日本の最高権力者である。妻が沖縄基地反対運動に出掛けることを、総理大臣が知らないわけがない。安倍夫人は「夫には内緒で来た」と言っていたが、よく考えてみれば分かるように、日本の最高権力者の妻が、まさに政府と対立した反対運動の真っ只中の現場に、テレビ局をぞろぞろ連れていくことなど、総理大臣に内緒で行えるわけがないのだ。本当に知らなければ、逆に大問題である。昭恵夫人は、対話を装っているが、そこは、やはりしたたかに計算されており、明らかに、沖縄の反対運動を叩き潰す意図のために、昭恵夫人は働いたのである。まさに「夫(安倍首相)をサポート」しようとした。その頃の安倍首相は、沖縄の基地問題について相当に頭を悩ませていたのは事実であった。
 
 女というのは、男に対して健気である反面、したたかな面を持つ。男が権力に固執するのは、母親などに褒められたい一心からだと言われるが、女が権力に固執するのは、他の女に対抗する虚栄心だとも言われる。「夫を支えたい」という思いは、多くの妻が持っている本音だろうが、同時に「私が夫を支えているのよ」という虚栄心がある。安倍昭恵夫人は好き勝手をしているように見えて、それなりの意図が明確にある。彼女は女であり、内閣総理大臣の夫だからだ。
 森友学園にも同じことが言えて、「名誉校長」に就任したのも「夫を支えたい」という気持ちと「私が総理大臣を支えている」という虚栄心があったことは否めないだろう。総理大臣が表沙汰に動けない部分を、総理大臣補佐である夫人が裏で動くという構図は、沖縄ヘリパットでの行動とも森友学園での行動とも一致している。
 
 安倍昭恵夫人は以前、このように語っていた。「夫(安倍首相)は忙しいから、私が夫の代わりに耳となり、夫にいい情報を届けたい」この言葉どうり、まさしく「安倍首相、頑張れ!」と園児が唱え、「憲法改正に賛同」を園児の保護者に求める学校は、旨味のある情報として、昭恵夫人から夫(安倍首相)に伝えられて、それが「いい学校だ」という安倍首相の評価に繋がり、この意向が官僚たちに忖度(そんたく)されたのである。
 
 籠池夫人と安倍夫人メールのやりとりを分析できない人たちは、こういう安倍昭恵夫人の特殊な立場を見逃してしまっている。同じように、籠池諄子夫人の特殊な立場も見逃している。これらは「些細なこと」かもしれないが、婦人たちは、ただの主婦やただのOLではない点を見落としたら、正しい政治分析はできない。正しく分析できないから、「意味分からないメールだよね」「どこが圧力を加えるようなメールなの?」となってしまう。
 
 籠池氏は最後には立派に証言した人物であるから、あまり籠池氏の悪口は言いたくないのだが、真実を述べるとしたら、安倍首相の勢いに便乗して金儲けを企んだ。学校経営は恐ろしく儲かる。それが悪い事だとは言わないが、安倍首相を応援する学校を作れば国に援助してもらえると考えたことが、逆に政治の闇に利用されて捨てられた結果とも言えるから、自業自得だろう。本人もこの点は十分に自覚していることは、籠池氏の勇気ある行動や、数々の発言から垣間見るとおりである。
 
 卑しいのは籠池氏だけではない。安倍首相もまた同じように、卑しかった。森友学園が安倍政権の支持者拡大に利用できると企んだのだから同じである。「安倍首相、頑張れ!」と唱え、「憲法改正に賛同」のビラを保護者に配布する、これは安倍首相にしたら、十分に旨味ある学校であり、国有地を安く払い下げるのに相当な大きな利益だ。
 
 ちなみに籠池氏が日本会議のメンバーだから助成したという分析をあちこちで聞くが、それは見当違いではないだろうか?今となっては、日本会議にそんな力はない。第一次安倍政権は、日本会議が支えてきたと言われるが、その日本会議も今は単なる売国団体(アメリカ属国主義)に劣化してしまったように感じる。現在の安倍政権を支えている勢力は、経団連や、新自由主義者(ニューリベラリズム・ネオリベラリズム)たちなのだが、籠池氏はそこまで見抜けなかったから、愛国教育を政府が守ってくれるものと最後まで信じていた…のだろう。その思いが裏切られて、最後にはじけ飛んだ姿に見受けられる。
 
 安倍夫人と籠池夫人のメールやりとりの分析において、もっとも重要なのは、金儲けしたい籠池夫妻と、支持者を拡大したい安倍夫妻とが、利益一致したとはいえ、絶対的な「上下関係」がある点である。安倍昭恵夫人は内閣総理大臣の補佐だから日本最高権力を持った完全なる上位者である。比べて籠池諄子夫人は、助成して助けてもらっている立場の一介の私人であり、誰が見ても下位者である。従って、この夫人間における「上下関係」が分析の鍵となる。
 
 官僚社会やエリート組織において、上位者から下位者に対して「○○ですよね?」と確認されれば、「これは同意を求めているのだな」と下位者は察するから、それが真実でなくても嘘であっても「おっしゃるとおりです」と同意するのが通例形式である。まして上位者の主張を、下位者が完全否定するなど、エリート組織や官僚社会では絶対にありえない。下位者の自己保身のためには、真実か嘘かに関わらず、逆らえない「圧力」がある。こういう立場を利用して、相手が正直に回答できない(逆らえない)ような内容を投げかける行為は、組織において「圧力」とみなされる
 これはエリート組織では常識であるため、籠池氏と安倍昭恵夫人のメールのやり取りを分析したければ、この常識をまず頭に叩き込む必要がある。当然にして、夫のエリート組織の「上下関係」は、エリート妻たちの中にも、当然にして浸透していく。ここが「分析ポイント」となる。
 
 こうした絶対的な「上下関係」を考えれば、上位者である昭恵夫人から「私は講演の謝礼を頂いた記憶が無くて(2月28日)」とか「100万円の記憶が無いのですが(3月16日)」という、わざとらしい内容メールが届く行為は「昭恵夫人のアリバイ作り」が目的だと見えてくる。下位者(籠池夫人)に対して「講演費はもらっていない、寄付もしていない」という連絡がくる意味は、「この主張に同意しろ」「アリバイ作りに協力しろ」という「圧力」(あるいは指示)なのは、組織を知る者が見れば、すぐわかる。
 
 その意図は、当然にして下位者(籠池夫人)に見抜かれている。もしこの意向に、下位者(籠池夫人)が真実を書くなどして上位者の意向に背き、上位者(昭恵夫人)の機嫌を損ねてしまい、何をされるか分からない。暗殺されるかもしれないと言う恐怖もあったかもしれない。政治家が関与するような大きな事件では人が死ぬから、決して大げさな恐怖ではない。事実、ごみの処理に関わった下請け会社社長が死んでいる。だからこそ籠池夫人は「えーひどいひどい」と最初は上手にはぐらかしたのである。いかにも仲良さそうな雰囲気を醸し出して、すっとぼけ返したのである。だが、二度目の「100万円の記憶が無いのですが」に関しては、両者がすでに対立関係だったこともあり、もう上位者(昭恵夫人)のご機嫌をとる必要は無くなったため、上位者(昭恵夫人)を相手にすることをせず、籠池夫人の方から連絡を絶ったのだろう。
 
 籠池氏の証人喚問によれば、「寄付金の事は内緒にしてほしい」と昭恵夫人に後から頼まれたのだから、その事実を踏まえて考えれば、寄付金の事を内緒(なかったこと)にするためには、何としても籠池諄子夫人に、メールによるアリバイ工作に協力させたかった。それをもって「寄付金を内緒にする」という約束を最終的に履行させようとした。これは恐るべき「念押し」、いわば「踏み絵」的なメールであり、籠池氏が証人喚問で証言した通り、安倍昭恵夫人から「圧力的を加えるようなメールが届いた」のである。権力者の妻同士で繰り広げられた駆け引きであり、背筋が凍るようなメールやりとりだと言える。
 
 安倍昭恵夫人は嘘をついているからこそ「もらってません」と断言せずに「記憶がない」という曖昧な書き方をしている。万が一、寄付した証拠が出てきたときには「記憶になかっただけ」で逃げ切る算段だ。これは政治家の常套手段であり、さすが内閣総理大臣補佐として抜け目ない。これが天然だなんて甘く見ていたら、大間違いである。
 
 
 メールのやりとりが行われていた頃、すでに森友問題はテレビで問題となっていた。安倍首相は「私や妻が関わっていたら辞任する」と国会で断言していたから、その妻が渦中の籠池側とメールのやりとりを継続するなど常識では考えられない。こうした安倍昭恵夫人の非常識ぶりは、天然などではなくて、「すっとぼければ何とかなる」という怠慢さの表れである。今までもそうやって、嘘とすっとぼけで、安倍政権は支持されてきた。だから今回も「何で私が目立っちゃってるのか全然わからない」なんて、平気ですっとぼけていられたのである。
 
 しかし状況が変わったのは、やはり籠池氏の証人喚問からであろう。籠池氏は私人でありながらも、証人喚問で与えられた時間を無駄にすることなく、手際よく核心に触れる証言を堂々やり遂げた。その姿からは、味方から裏切られた恨み、失うものが何もない底知れぬ強さ、「すべてを語ってやる!」という気迫と決死の覚悟が感じられるほどだった。各議員の厳しい追及に対して臆することなく答弁する。その姿に迷いは全くない。「真実を述べることを誓います」と冒頭に宣誓したとおり、絶対的な自信をもって回答したのである。その確固たる姿に、さすがに自民党も慌てたのである。まさか、ここまでやるとは思っていなかったのだろう。一介の私人である籠池氏を、自民党は甘く見過ぎていたのである。
 
 菅官房長官は隠し持っていた秘書官の書類を、「配るつもりだった」などと言い訳をしながら、慌てた様子で配り始め、
安倍昭恵夫人も、証人喚問の夜のうちに、「寄付をした記憶はない」とする趣旨を慌ててFacebookに記載したのである。だが、この行動こそが、安倍昭恵夫人が嘘つきだという事を裏付けている。本当に寄付をしていないのであれば、冷静でいられるから、慌ててFacebookで対抗などしない。黙っていればいい。ドーンと構えていれば、政府や法廷が潔白を証明してくれることを知っているからだ。しかも、ここでも「記憶が無い」と曖昧に記述するあたり、やはり万が一バレた時のために逃げ道を作っている様子が感じられる。
 
 嘘をついている自覚がある人は、相手の証言が立派であればあるほど、黙っていられず心が落ち着かず、何とか誤魔化そうとついつい動いてしまう。相手の真実を語る証言が立派であればあるほど、嘘ついた者の焦りも大きく、より迅速に直ちに動く。加えて言えば、慌てて対応して動揺している割には、不自然に文章が冷静である。言葉使いには官僚独特の表現もあり、誰が書いたかすらわからない。
 
 数日後の講演においても、安倍昭恵夫人の動揺している片鱗が見られた。公演に出掛けるだけでも唖然なのだが、懲りずにまた「本当に私は普通の主婦で、普通の女性だ」なんて、再びマヌケな発言して、今度は涙まで流していたのだ。ノコノコ出てこられる神経も羞恥心のカケラもない姿は、国民の怒りに火を注ぐような、すっとぼけであった。こういうのを「猿芝居」という。善人面した涙が本物であれば、証人喚問に堂々と出ればいいだけのこと。ニコニコお人好しにふるまう「猿芝居」で国民を騙そうという、世にもおぞましき魂胆なのである。
 
 安倍昭恵夫人のすっとぼけ作戦は、更に加速していく。3月25日、午前11時34分、元経済産業省職員(飯塚盛康氏)が、自分のFacebook上にて、今回の件について安倍政権を批判するコメントをした。すると、24時間も経過しない深夜のうちに、見ず知らずの飯塚氏に対して、なんと安倍昭恵夫人(本人と思われるアカウント)から、直接コメントが来たのである。今回の件について言い訳をするような内容であったのだが、「なぜ何の面識もない一個人に送ってくるのか驚いたし、気持ち悪い」そう感じたため、飯塚氏は特に返信はしなかったという。飯塚氏は驚きを隠せない様子であった。
 
 そのほかにも、安倍政権と関係が深いジャーナリストの書き込みに「いいね!」をつけてみたり、じっとしていられない様子が随所で見て取れる。嘘をついているから、何とか誤魔化さなければと不安で仕方が無いのだろう。いい人でいたい、という卑しい根性まで見え隠れするから質が悪い。だが、証人喚問で証言しない限り、国民の胸には響かない。「嘘つきは悪いこと」だという倫理観が国民にある限り、マトモな国民は安倍昭恵夫人を信じない。まず大前提として、証人喚問での証言それ自体が、裁判になった場合に証拠能力を持っている。国会が証人に対して「真実を述べると」と宣誓させるこの意味を、やはり日本人なら重視しなければならないのである。Facebookのそれとは比べ物にもならない、情報の信頼度に、雲泥の差がある。
 
 昭恵夫人は証人喚問には出ることは怖くてできないのだろう。もし籠池氏が録音テープなど決定的な証拠を隠し持っていれば、昭恵夫人は偽証罪で完全アウトになってしまう。現状においても、すでに振り込み受領書の控えや、寄付リストなどの証言証拠があり、しかも寄付リストの他の寄付者は事実であることがテレビ局の取材で分かっているから、何者かの寄付の信ぴょう性は高いとされる。寄付者が誰だか分からなくても、安倍昭恵夫人が森友学園で講演した当日に、誰かが森友学園に100万円の寄付したことは間違いない。
 
 安倍昭恵夫人を守りたいという政府の意向は、テレビでも頻繁に見られた。婦人たちのメールのやりとりをテレビで吹き替えで紹介する際には、安倍夫人の台詞は天使のような声で吹き替えし、籠池夫人の台詞は悪魔のような声で吹き替えをし、あたかも籠池夫人を犯罪者扱いする演出をしていた。これはあまりに酷い。こんな恥知らずな方法を使ってまで、国民を間違った方向へ誘導させるテレビは有害である。
 
 印象で人を判断するなら法律も裁判も要らない。法治国家の先進国にあるまじき行為である。歪曲した情報をテレビで垂れ流すなら、健全な民主主義など成り立たないのは明らかであろう。政府もテレビも総動員で「籠池さんは不正受給するような人だから証人喚問の証言も嘘だ」という理論を押し付けたいのだろうが、そうはいかない。なぜなら理論は破たんしている。「嘘つき」だって本当のことを言うし、「正直者」だって時には嘘をつくこともある、それが常識であり現実だからだ。
 
 昔は「嘘はコソコソつくもの」という羞恥心があった。嘘がバレれば、それだけで大問題となり、社会的な重いペナルティが課されたり、失脚したりするのは、リーダーの責任の取り方として当然だった。それは、指導者・権力者たちが、国民の手本・規範・希望・夢であるからである。ところが今の指導者・権力者は、嘘をついてコトが済むなら、あるいは嘘をついた方が得であれば、迷わず嘘をついたほうがいいという思想まで劣化してしまっている。恥も外聞もなく、いったん嘘をついたら、どんなボロが出ても、どんな証拠を突きつけられても、最後まで徹底して嘘をつき通すのである。
 
  嘘をつき通すために「信頼できる、嘘つき仲間」も利用する。嘘が綻(ほころ)びそうな時は、周りにいる仲間にも一緒に嘘をついてもらうことで、ひとつの嘘が破綻しても、その先にまた嘘をいくつも重ねていく。そうすることで、どこまでが嘘なのかもわからなくさせるのである。逃げられない箇所では、「忘れた」とか「記憶にない」という嘘をつき、「老人の物忘れ」だと開き直ったりもする。本当に忘れているかどうかなんて、本人以外には絶対に証明できないから、誰も非難することができなくて煙に巻こうとする。 
 
 そして誰かが「嘘」だと糾弾しようものなら、「嘘だというなら、具体的で確実な証拠を示せ。それができないなら、名棄損で訴えてやる!」と自信たっぷりにすごみ、物事をどんどん複雑化させて目くらましをし、「嘘」だと証明するのを困難にさせるのである。今は「特定機密保護法」もあるから、バレたら困る嘘に関する情報は、それなりの理屈をつけて「特定機密」にすれば、真相を究明しようとする者たちを逮捕させることもできる。
 
 何より嘘というのは、それが蔓延すればするほど、人の気持ちを萎えさせるものだ。誰もが「どうせ、みんな嘘をついているんだろう…」と思うようになれば、嘘つきの勝利である。生きていくだけでも大変で、日々を忙しい人たちは、もはやひとつひとつの嘘にいちいち怒っている気力すら失ってしまう。森友学園問題で「安倍首相から100万円を寄付された」と主張する森友学園の籠池氏と、「籠池は嘘をついている」と主張する安倍首相や昭恵夫人が、延々とお互いが相手を嘘つき呼ばわりしている景色を見続けていると、ウンザリして「何も考えたくなくなる」のである。そして国民は思考停止するのである。
 
 しかし、それこそ政府の狙いである。だからこそ民主主義において、政治家の嘘にウンザリしない強さを持つことが、とても大切なのだ。国民を騙すような、卑しき政治家の嘘を許すことなく、強く、毅然として立ち向かわなければ、いつまでもいつまでも国民は政府の奴隷のままである。国民が奴隷となる歴史の悲惨さを想像できない人たちは、つくづく平和ボケだろうが、こんな平和ボケと一緒になって、あくどい「嘘つき」を見逃してはならない。一度でも、一瞬でも「嘘つき」を見逃してしまったら、それでもう、人間の世界は完全に終わってしまうのである。
 
 「嘘つき」は悪い。その理由は人間の信頼関係を壊すからだ。人間の力は一人ずつだと弱い。しかし、志を共にして複数の人間が結束力すれば、絶大なる力を発揮する。その力こそが、まさに人間の真なる力である。その結束力を最大に引き出すのが「真心・愛・思いやり・正義」であり、人間は温かくて熱い何かのためにだけ、結束し共闘する生き物なのである。この人間の結束力を破壊するのが「嘘つき」の存在だ。人を騙してお金を奪ったり、弱者をいじめてとぼけたり、保身のために他人に罪をなすり付けたり、そういう人間が組織に混じると結束力が弱体化する。下品な欲望で生まれた結束力は偽物なので、裏切りで人が死んだり、逮捕者が出たり、仲間割れや悲劇が沢山起こる。そういう人たちが増えれば、国家は徐々に衰退するだろう。人間社会における邪悪な有害因子、それは「嘘つき」の存在である。安倍昭恵夫人の「嘘と猿芝居」は「悪い嘘」である。国民と政府の信頼と結束力を、破壊しているからだ。
 
 「良い嘘」もある。それは他者に利益をもたらす嘘である。だがそれは、自分を正当化するためとか、自分の利益のためではなく、”実は嘘だった”と後から相手に告げても、相手が激怒したり、嘆き悲しんだり、嘘がバレても相手が傷付かないことが大前提である。決めるのは相手である。嘘をついた本人が「相手のためだった」と言い訳しても、独りよがりであれば「良い嘘」とは言えない。相手の気持ちや立場に寄り添えるほど、お互いに気心が知れた良好な関係でのみで「良い嘘」は成り立つのである。
 
 安倍昭恵夫人の数々の奇行について、本人は「夫を支えている」つもりになっている。これは、先ほども述べた通り、「嘘をつき続ければ何とかなる」という、これまで安倍首相の「嘘と猿芝居」が、支持者に許されてきた背景が原因にあるこういう支持者に支えられているからこそ、一生懸命、夫婦そろって、いつまでもいつまでも「嘘と猿芝居」を続けて、国民を見くびり続けているのである。
 
 これは、「嘘と猿芝居」を許してきた安倍政権の支持者たちの責任でもあり、嘘を許すような倫理観のない日本人は、恥ずかしい国民の代表格である。どれだけ恥ずかしいかと聞かれれば、例えば彼らは「安倍さんは妻を守っていて素晴らしい夫婦だ!」などと、寝ぼけたことを言っているようなトンチンカンだ。 政府による国家財産の私物化の問題について、真相究明を求める国民を目の前にして、内閣総理大臣の職務において、証人喚問に呼ばず「嘘つき妻」を隠すことの、どこが素晴らしいのか?あまり笑わせないで欲しい。
 
 本来の日本国民は、誇り高く、このような「猿芝居」を許すような人間のクズではない。「疑いの目を持つこと」ができる日本国民は、真実を見て見ぬ振りする卑怯なことはしないし、倫理観の欠如した行いを恥ずかしい事だと認識する知恵も道徳も、ちゃんと心得ている。権力者に「疑いの目を持つこと」は勇気がいるし、本当に難しい。難しいからこそ、挑戦しがいのある勇姿でもある。私たちが、変わる勇気や倫理観を捨ててしまったら、人間の世界は作れない。そしたら本当に猿の惑星に落ちぶれてしまう。
 
(それでも猿芝居を続ける安倍昭恵 by 雪華天)
 
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(画像:籠池氏、安倍夫人、籠池夫人)