読解力をつけよう⑦| 脱線~ | プログレス学習教室 橿原市

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12月19日

 

きょう、朝の空を見て洗濯したのですが、

その後すっかり曇ってしまい、

浴室乾燥機を2時間も稼働させてしまいましたガーン

失敗したー!!

 

 

年賀状の受付が始まって、

「もう出したよー」というかたもいらっしゃるかもしれませんね。

教室では生徒さんに出さないことにしているので、

(年末にそれだけの体力が残っていない。。。という言い訳で)

ほぼ、年内に出すことがありません!

って、誉められた話じゃありませんけど・・・てへぺろ

 

とはいえ、こういうところはウチだけではないようで、

年賀状の発行部数は、ここ15年ほど減り続けています。

保険でいろいろあったJP、年賀状にも「自腹買い」などという穏やかでないことばを耳にすることもありました。

ことしは年賀状の販売ノルマが廃止されたそうです。

きっと、発行部数が激減するんでしょうね。。。

 

お年玉付き年賀はがきの発行は戦後始まったものですが、

郵便での年賀はそれ以前からあったものです。

「半七捕物帳」の岡本綺堂が1935年(昭和10年)に、こんな随筆を残しています。

少し長いのですが、青空文庫から、転載します。

 

年賀郵便

岡本綺堂


 新年の東京を見わたして、著るしく寂しいように感じられるのは、回礼者の減少である。もちろん今でも多少の回礼者を見ないことはないが、それは平日よりも幾分か人通りが多いぐらいの程度で、明治時代の十分の一、ないし二十分の一にも過ぎない。
 江戸時代のことは、故老の話に聴くだけであるが、自分の眼で(み)

た明治の東京――その新年の

にぎわいを今から振返ってみると、文字通りに隔世の感がある。三ヶ日は勿論であるが、七草を過ぎ、十日を過ぎる頃までの東京は、回礼者の往来で実に賑やかなものであった。
 明治の中頃までは、年賀郵便を発送するものはなかった。恭賀新年の郵便を送る先は、主に地方の親戚知人で、府下でもよほど辺鄙な不便な所に住んでいない限りは、郵便で回礼の義理を済ませるということはなかった。まして市内に住んでいる人々に対して、郵便で年頭の礼を述べるなどは、あるまじき事になっていたのであるから、総ての回礼者は下町から山の手、あるいは郡部にかけて、知人の戸別訪問をしなければならない。市内電車が初めて開通したのは明治三十六年の十一月であるが、それも半蔵門から数寄屋橋見附までと、神田美土代町

みとしろちょうから数寄屋橋までの二線に過ぎず、市内の全線が今日のように完備したのは大正の初年である。
 それであるから、人力車に乗れば格別、さもなければ徒歩のほかはない。正月は車代が高いのみならず、全市の車台の数も限られているのであるから、大抵の者は車に乗ることは出来ない。男も女も、老いたるも若きも、

ほとんどみな徒歩である。今日ほどに人口が多くなかったにもせよ、東京に住むほどの者は一戸に少くも一人、多くは四人も五人も一度に出動するのであるから、往来の混雑は想像されるであろう。平生は人通りの少い屋敷町のようなところでも、春の初めには回礼者が袖をつらねてぞろぞろと通る。それが一種の奇観でもあり、また春らしい景色でもあった。
 日清戦争は明治二十七、八年であるが、二十八年の正月は戦時という遠慮から、回礼を年賀ハガキに換える者があった。それらが例になって、年賀ハガキがだんだんに行われて来た。明治三十三年十月から私製絵ハガキが許されて、年賀ハガキに種々の意匠を加えることが出来るようになったのも、年賀郵便の流行を助けることになって、年賀を郵便に換えるのを怪まなくなった。それがまた、明治三十七、八年の日露戦争以来いよいよ激増して、松の内の各郵便局は年賀郵便の整理に忙殺され、他の郵便事務は殆ど抛擲

ほうてきされてしまうような始末を招来したので、その混雑を防ぐために、明治三十九年の年末から年賀郵便特別扱いということを始めたのである。
 その以来、年賀郵便は年々に増加する。それに比例して回礼者は年々に減少した。それでも明治の末年までは昔の名残りをとどめて、新年の

ちまたに回礼者のすがたを相当に見受けたのであるが、大正以後はめっきり

すたれて、年末の郵便局には年賀郵便の山を築くことになった。
 電車が初めて開通した当時は、新年の各電車ことごとく満員で、女や子供は容易に乗れない位であったが、近年は元日二日の電車でも満員は少い。回礼の著るしく減少したことは、各劇場が元日から開場しているのを見ても知られる。前にいったようなわけで、男は回礼に出る、女はその回礼客に応接するので、内外多忙、とても元日早々から芝居見物にゆくような余裕はないので、大劇場はみな七草以後から開場するのが明治時代の習いであった。それが近年は元日開場の各劇場満員、新年の市中寂寥たるも無理はないのである。
 忙がしい世の人に多大の便利をあたえるのは、年賀郵便である。それと同時に、人生に一種の寂寥を感ぜしむるのも、年賀郵便であろう。

 

 

岡本綺堂、じつは、大好きな作家さんなんですが、

それを無料でどんどん読める、青空文庫にも感謝ですキラキラ

 

それにしても、100年ほど前には、“便利な”年賀郵便が回礼者を駆逐していたんですね。

だから、あけおめメールが年賀はがきを駆逐する時代が来ても、納得ですよね。

・・・と言い訳をして、年賀状を書かない私てへぺろ

 

 

 

さて、今日の読解です。

文章を読み取ることは、もちろん大切なのですが、味わうことも大事

ということで、文学作品を楽しく鑑賞してみましょう。

つぎの文章はだれが書いたものでしょう??

どれも、小中高の教科書に作品が採用されている作家の文章で、

青空文庫にあります。

 

① 東京八景。私は、その短篇を、いつかゆっくり、骨折って書いてみたいと思っていた。十年間の私の東京生活を、その時々の風景に託して書いてみたいと思っていた。私は、ことし三十二歳である。日本の倫理に於ても、この年齢は、既に中年の域にはいりかけたことを意味している。また私が、自分の肉体、情熱に尋ねてみても、悲しいかなそれを否定できない。覚えて置くがよい。おまえは、もう青春を失ったのだ。もっともらしい顔の三十男である。

 

② 全体世の中の人の、道とか宗教とかいうものに対する態度に三通りある。自分の職業に気を取られて、ただ営々役々えきえきと年月を送っている人は、道というものを顧みない。これは読書人でも同じことである。もちろん書を読んで深く考えたら、道に到達せずにはいられまい。しかしそうまで考えないでも、日々の務めだけは弁じて行かれよう。これは全く無頓着むとんじゃくな人である。

 

③ 自分は静かに鳥籠を箱の上にえた。文鳥はぱっととまを離れた。そうしてまた留り木に乗った。留り木は二本ある。黒味がかった青軸あおじくをほどよき距離に橋と渡して横に並べた。その一本を軽く踏まえた足を見るといかにも華奢きゃしゃにできている。細長い薄紅うすくれないの端に真珠をけずったような爪が着いて、手頃な留り木をうまかかんでいる。

 

 

それでは、正解

①は、「走れメロス」が今でも中2の教科書に登場する太宰治の「東京八景」から抜粋したものです

②は、「高瀬舟」が中学の教科書に、「舞姫」が高校の教科書にかならず登場する森鴎外の「寒山拾得」から抜粋したものです

③は、「こころ」が感想文の課題になる夏目漱石の「文鳥」から抜粋したものです

 

こうやってみると、どの文章もたいへん読みやすく、読み手を気遣った文章ですよね。

太宰の文章では最後の3文に、

鴎外の「もちろん」「しかし」のお手本のような展開に、

漱石の「留り木」「甘く」のような漢字使い(当て字)、

それぞれ「らしさ」が現れているんじゃないかな~と思います。

 

教科書に載ってるのを読むだけでは、もったいない。

青空文庫は、偉大だー!!