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メインウェーブ日記

気になるニュースやスポーツ、さらにお小遣いサイトやアフィリエイトなどのネットビジネスと大相撲、競馬、ビートルズなど中心

「働かなくても暮らせる世界があったら」と思ったことはありませんか

現代に生きる私たちも、日々の仕事や責任に追われる中で、そうした空想にふと心を寄せる瞬間があるのではないでしょうか

実はこうした夢を本気で思い描き、ときには信じられていた時代がありました

中世からルネサンス期にかけて、ヨーロッパでは「クッカーニャ(Cuccagna)」と呼ばれる架空の楽園が語り継がれてきました

それは単なる夢物語ではなく、飢えや貧困、不平等に苦しんでいた人々が思い描いた、希望のよりどころでした
同時に、当時の厳しい社会への不満や風刺が込められた、象徴的な理想郷でもあったのです

しかし、この理想郷が現実の祭りとして叶えられた時、人間の欲望と残虐性をあぶり出す舞台へと変わってしまったのです

過酷な現実が生んだ「夢の世界」

「クッカーニャ(Cuccagna)」は、中世ヨーロッパで語られた理想郷「コッカイン(Cockaigne)」のイタリア語形です

詩や民話のなかでは、「空からパンや肉が降ってくる国」や「怠け者が至福を味わう場所」として描かれました

14世紀の詩には「ミルクと蜂蜜の川が流れる世界」といった幻想的な描写も登場し、こうした異世界のイメージは、人々の想像力を大いにかき立てました

この理想郷のイメージは、やがて現実の祭りや風習にも影響を及ぼしていきます

イタリア各地で行われた「クッカーニャ祭」では、食べ物で飾られた塔や城が建てられ、群衆がそれをよじ登って奪い合うという儀式が行われました

これらの催しは、貴族社会における権威の誇示であると同時に、民衆が理想郷を疑似的に体験する場でもあったのです

当時のヨーロッパは、飢饉がたびたび起こり、農民たちは封建領主による重税に苦しめられていました
さらに疫病や戦争、自然災害が絶えず人々の暮らしを脅かし、明日食べるものさえ手に入るかどうかわからない日々が続いていたのです

そうした厳しい日常のなかで語られたクッカーニャは、現実とは真逆の世界でした

クッカーニャ祭は「空想だけでは癒せない欲望や飢えを、せめて祭りの間だけでも味わいたい」という切実な願いのあらわれだったのです

祭りによるカタルシス

物語の中だけでなく、現実の祭りとして具現化されたクッカーニャの中で、とりわけ有名なのが「クッカーニャの木」と呼ばれる競技です

これは、長い棒の先にハムやチーズなどのごちそうを吊るし、表面を滑りやすくしたうえで、人々がそれを奪い合うようにして登るというものでした

こうした競技は、単なる娯楽にとどまるものではありませんでした

滑る棒を登って食べ物にたどり着くという構図は、当時の社会における階級上昇や報酬の獲得を象徴していたとも解釈できます
祭りの中で上下関係や制約が一時的に逆転し、庶民が主役となる空間が生まれたのです

さらに、このような祭りは権力者によって、民衆の不満を和らげる手段としても活用されました
年に一度でも「夢のような世界」を提供することで、人々の心を慰め、社会の不満を発散させる役割を果たしていたのです

こうした構造は、現代のエンターテインメントや祝祭文化とも共通点があるといえるでしょう

宮廷や都市行事における華麗な儀式

イタリア各地では、祝祭や宗教行事に合わせて、食べ物で作られた巨大な構造物が作られました

とくにナポリでは、王族や都市の上流階級が自らの富と権威を見せつけるようにして、壮大な祭りを催していました

たとえば1722年、神聖ローマ帝国エリーザベト・クリスティーネ皇后のための祝祭の際に設営されたクッカーニャでは、パン、果実、チーズ、家禽などが壁に貼り付けられ、神像の立つ巨大な土台に据えられました

1768年のフェルディナンド4世とオーストリアのマリア・カロリーナ王女の結婚祝賀では、王宮前に城塞形式のクッカーニャが設けられました

そこでは、貧民や民衆が食料を奪い合いながら競い合い、その騒ぎを上流階級が野蛮な娯楽として楽しんでいたと伝えられています

貴族が庶民を嘲笑う「地獄絵図」

しかし、このような華やかさの裏には、少なからず暴力や悲劇が伴いました

クッカーニャのためにイノシシ狩りや牛狩りが行われ、生きたままの家畜が差し出されることもあったのです

たとえば、1617年にナポリのメルカート広場で催されたクッカーニャでは、王から庶民へ豪華な食料が下賜されました
その中には生きたままの豚も含まれており、それを奪い合う群衆によって豚が引き裂かれるという凄惨な光景が広がりました

貴族たちは、その様子を愉快な見世物として眺めていたと伝えられています

さらに、豚だけでなく、アヒルや鶏、七面鳥なども生きたまま柱に釘で打ちつけられ、命を奪われながら見世物として消費されていきました

こうした残酷なエンターテイメントの犠牲になったのは、動物だけではありません

食料を奪い合う混乱のなかでは、ナイフを手にする者も現れ、争いが流血沙汰に発展することもありました
押し合う群衆の中では将棋倒しや事故が相次ぎ、死者が出ることも珍しくなかったのです

庶民は乱闘しながら食糧を奪い合い、貴族たちはその様子を見ては喜ぶという、さながら地獄絵図のような光景が繰り広げられたのでした

1764年、ナポリを襲った大飢饉の際には、クッカーニャの開放を待ちきれない群衆たちが、合図の前に突入するという事件も起きています

こうした悲惨な出来事が繰り返されるなかで、クッカーニャには徐々に厳しい制限が設けられるようになり、18世紀後半には公共行事としてのクッカーニャは廃れていきました

厳しい暮らしに追われていた庶民が、束の間の楽園を味わうことができたクッカーニャは、同時に暴力と混乱に満ちた過激なエンターテインメントでもあったと言えるでしょう

現在でもイタリアの一部地域では「クッカーニャの木」といった形で祭りの伝統が受け継がれていますが、幸いにも当時のような残虐性はもはや見られません

しかし「クッカーニャ」という概念はイタリア語の枠を超え、詩や幻想文学、地域の遊戯文化の中に今なお生き続けているのです

参考:
『Piero Camporesi, Il paese della cuccagna』
『思わず絶望する!? 知れば知るほど怖い西洋史の裏側』他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

「働かなくても暮らせる世界があったら」と思ったことはありませんか

現代に生きる私たちも、日々の仕事や責任に追われる中で、そうした空想にふと心を寄せる瞬間があるのではないでしょうか

実はこうした夢を本気で思い描き、ときには信じられていた時代がありました

中世からルネサンス期にかけて、ヨーロッパでは「クッカーニャ(Cuccagna)」と呼ばれる架空の楽園が語り継がれてきました

それは単なる夢物語ではなく、飢えや貧困、不平等に苦しんでいた人々が思い描いた、希望のよりどころでした
同時に、当時の厳しい社会への不満や風刺が込められた、象徴的な理想郷でもあったのです

しかし、この理想郷が現実の祭りとして叶えられた時、人間の欲望と残虐性をあぶり出す舞台へと変わってしまったのです

過酷な現実が生んだ「夢の世界」

「クッカーニャ(Cuccagna)」は、中世ヨーロッパで語られた理想郷「コッカイン(Cockaigne)」のイタリア語形です

詩や民話のなかでは、「空からパンや肉が降ってくる国」や「怠け者が至福を味わう場所」として描かれました

14世紀の詩には「ミルクと蜂蜜の川が流れる世界」といった幻想的な描写も登場し、こうした異世界のイメージは、人々の想像力を大いにかき立てました

この理想郷のイメージは、やがて現実の祭りや風習にも影響を及ぼしていきます

イタリア各地で行われた「クッカーニャ祭」では、食べ物で飾られた塔や城が建てられ、群衆がそれをよじ登って奪い合うという儀式が行われました

これらの催しは、貴族社会における権威の誇示であると同時に、民衆が理想郷を疑似的に体験する場でもあったのです

当時のヨーロッパは、飢饉がたびたび起こり、農民たちは封建領主による重税に苦しめられていました
さらに疫病や戦争、自然災害が絶えず人々の暮らしを脅かし、明日食べるものさえ手に入るかどうかわからない日々が続いていたのです

そうした厳しい日常のなかで語られたクッカーニャは、現実とは真逆の世界でした

クッカーニャ祭は「空想だけでは癒せない欲望や飢えを、せめて祭りの間だけでも味わいたい」という切実な願いのあらわれだったのです



『西洋史で最も醜い祭り?』貴族が庶民を見世物として笑った「クッカーニャ」・・・



貧民や民衆が食料を奪い合いながら競い合い、その騒ぎを上流階級が野蛮な娯楽として楽しんでいたと伝えられています

貴族が庶民を嘲笑う「地獄絵図」

しかし、このような華やかさの裏には、少なからず暴力や悲劇が伴いました

クッカーニャのためにイノシシ狩りや牛狩りが行われ、生きたままの家畜が差し出されることもあったのです

たとえば、1617年にナポリのメルカート広場で催されたクッカーニャでは、王から庶民へ豪華な食料が下賜されました
その中には生きたままの豚も含まれており、それを奪い合う群衆によって豚が引き裂かれるという凄惨な光景が広がりました

貴族たちは、その様子を愉快な見世物として眺めていたと伝えられています

さらに、豚だけでなく、アヒルや鶏、七面鳥なども生きたまま柱に釘で打ちつけられ、命を奪われながら見世物として消費されていきました

こうした残酷なエンターテイメントの犠牲になったのは、動物だけではありません

食料を奪い合う混乱のなかでは、ナイフを手にする者も現れ、争いが流血沙汰に発展することもありました
押し合う群衆の中では将棋倒しや事故が相次ぎ、死者が出ることも珍しくなかったのです

庶民は乱闘しながら食糧を奪い合い、貴族たちはその様子を見ては喜ぶという、さながら地獄絵図のような光景が繰り広げられたのでした

1764年、ナポリを襲った大飢饉の際には、クッカーニャの開放を待ちきれない群衆たちが、合図の前に突入するという事件も起きています

こうした悲惨な出来事が繰り返されるなかで、クッカーニャには徐々に厳しい制限が設けられるようになり、18世紀後半には公共行事としてのクッカーニャは廃れていきました

厳しい暮らしに追われていた庶民が、束の間の楽園を味わうことができたクッカーニャは、同時に暴力と混乱に満ちた過激なエンターテインメントでもあったと言えるでしょう

現在でもイタリアの一部地域では「クッカーニャの木」といった形で祭りの伝統が受け継がれていますが、幸いにも当時のような残虐性はもはや見られません

しかし「クッカーニャ」という概念はイタリア語の枠を超え、詩や幻想文学、地域の遊戯文化の中に今なお生き続けているのです



 

 


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知られざるヨーロッパの真実をユーモアたっぷりにお届けします
あの有名な王族、貴族の教科書には載っていないウラの顔、実在したトンでも職業、庶民たちのおもしろブームなど、世界史が好きな人も、苦手な人も楽しめる1冊です

姓や苗字の起源は飛鳥時代に遡る

自分の姓や苗字について、真剣に考えたことがあるだろうか

今から半世紀ほど前、アメリカで空前のブームを巻き起こしたドラマがあった
そのドラマの名は『ルーツ(ROOTS)』

アフリカ系アメリカ人作家が、奴隷として連行された先祖を起点に、一族の歴史をたどった小説を原作として制作されたものである

このドラマは半年後に日本でも放映され、大きな話題となった
それをきっかけに、「自分の先祖を探す」ことが一種のブームとなったのである

先祖をたどる手がかりとして、やはり自分の姓や苗字が最大のヒントになるのは言うまでもない

よく言われるのは、たとえば「藤田」という姓は、中臣鎌足を祖とする藤原氏の田地を管理していたことに由来する、というような説だ

しかし、実際はそれほど単純な話ではない

姓や苗字には非常に長い歴史があり、その起源は飛鳥時代にまでさかのぼるとされている
そこには、「天皇制および律令制の確立」といった国家的な制度の問題が深く関わっている

その後、姓や苗字は次第に庶民にも広がっていくが、江戸時代には人々が職業によって区別される身分制度の中で、農民・商人・職人などの庶民階級は、姓や苗字を名乗ることは原則として禁じられた

しかし、明治時代の四民平等政策によって、ようやく庶民も名字を名乗ることが許されるようになったのである

天皇家には戸籍も姓も苗字もない

しかし、日本国民にはそれぞれ姓や苗字があるにもかかわらず、「天皇や皇族」にはそれがない

このことを不思議に思ったことはないだろうか

テレビを始めとするメディアに天皇や皇族が登場する時、「天皇陛下」や「徳仁(なるひと)様」といった呼び方がされる
また、宮家としては秋篠宮家や三笠宮家があるが、実はこの「〇〇宮」という呼称も、姓や苗字ではない

つまり、今上天皇である徳仁様には姓や苗字が存在せず、皇后の雅子様も皇室に入られて以降、苗字を持たなくなったのである

我々日本国民は、皇室の方々に対するこのような呼び名に慣れているため、あまり違和感を覚えないかもしれないが、よく考えてみるとこれは非常に特異なことではないだろうか

また、日本には「戸籍」という制度がある
これは、日本国民の出生から死亡までの間の身分関係(出生・婚姻・死亡・親族関係など)を登録し、公的に証明するための重要な公文書である

戸籍がないと、運転免許の取得や銀行口座の開設、住宅の賃貸といった日常生活に支障が出るだけでなく、進学や就職の際にも不便を強いられ、さらには選挙権を行使できないなど、基本的人権に関わる問題も生じるのだ

それにもかかわらず、天皇は日本国憲法の下においてさまざまな解釈があるにせよ、国の象徴であり、日本国および日本国民統合の象徴として、対外的には国家を代表する存在である
また、国家統治においても一定の重要性を持つ「元首」とみなされているのも事実であろう

そのような重要な存在である天皇家には、戸籍も姓も苗字も存在しないのである

実は世界の王室を見渡しても、このような日本の天皇は極めて特異な存在なのだ

氏名・姓は、天皇が人民に賜るもの

ではなぜ、天皇は姓も苗字も持っていないのか
ここからは、その核心に触れていこう

律令制が成立する以前の日本社会には、「氏(うじ)」と呼ばれる多数の集団、すなわち豪族が存在し、その後に貴族となっていった
大伴氏・物部氏・蘇我氏などがその代表であり、天皇家も大王家という豪族だったと考えられている

このような多くの氏が、大王を頂点にして統合し、直(あたい)・連(むらじ)・公(きみ)などの姓を与えられ、それによる秩序ができ始めたというのが、律令制度導入以前の日本の社会の状況であった

この体制は、歴史学では「氏姓制度」と呼ばれているが、6世紀後半にはすでに確認されている

実はこの時期が重要で、ちょうどこの頃、推古大王が即位し、蘇我馬子と厩戸王(聖徳太子)による「トライアングル政治」が展開されていた

この時代を境に、大王家は氏族の中でも次第に突出した存在となっていく

そして、そのような中でゆるやかに「天皇号」が確定されていく時代へと歩みを進めていくのである

645年に起きた乙巳の変を発端とする大化の改新は、大王家が中心となり中央集権国家を目指した政治改革であった

この改革では、公地公民制の導入や班田収授法の実施など、律令国家の基礎を築く重要な政策が打ち出され、これらは天智大王から天武天皇へと引き継がれていった

天武天皇の時代になると、「天皇」という称号が確定されるとともに、天皇は貴族をはじめとするすべての人民に対して、姓と氏名を与える立場となるのである

天武天皇は、真人(マヒト)・朝臣(アソミ)・宿禰(スクネ)・忌寸(イミキ)・道師(ミチノシ)・臣(オミ)・連(ムラジ)・稲置(イナギ)といった「八色の姓(やくさのかばね)」を定め、これを各氏に授けることで序列を明確にした

班田収授法の実施にともない、戸籍も作成されるようになり、そこには国家の支配下にあるすべての人民の氏名および姓が記録された

この氏名・姓は、天皇が人民に賜るという形式がとられていた

その結果、天皇家は「自らの氏名および姓を持たない存在」となったのである

その後、藤原・源・中原・平・橘といったさまざまな氏姓が誕生するが、これらもすべて天皇から与えられたものであった

そして江戸時代になると、大名が官位を天皇から賜る際には、たとえば佐竹氏であれ伊達氏であれ、必ず「源朝臣某(みなもとのあそん・なにがし)」という形式で氏名および姓が記された
これも天皇からの賜姓という原則に基づくものである

このような経緯から、天皇は姓も苗字も持たない存在となったのだ

同時に、興味深い構造が成立した

それは、多くの氏姓が系図をさかのぼると、最終的に天皇、あるいは天皇の祖先神に行き着くという点である
つまり、知らず知らずのうちに、日本人はみな天皇の子孫ということになってしまうのである

もちろん、厳密には王朝交代があった可能性も否定できないが、それでもこのような観念が千年以上にわたり、天皇が日本に君臨してきた大きな理由の一つであるといえるだろう

※参考文献
網野善彦著 『日本の歴史をよみなおす』 ちくま学芸文庫刊 他
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

自分の姓や苗字について、真剣に考えたことがあるだろうか

今から半世紀ほど前、アメリカで空前のブームを巻き起こしたドラマがあった
そのドラマの名は『ルーツ(ROOTS)』

アフリカ系アメリカ人作家が、奴隷として連行された先祖を起点に、一族の歴史をたどった小説を原作として制作されたものである

このドラマは半年後に日本でも放映され、大きな話題となった
それをきっかけに、「自分の先祖を探す」ことが一種のブームとなったのである

先祖をたどる手がかりとして、やはり自分の姓や苗字が最大のヒントになるのは言うまでもない

よく言われるのは、たとえば「藤田」という姓は、中臣鎌足を祖とする藤原氏の田地を管理していたことに由来する、というような説だ

しかし、実際はそれほど単純な話ではない

姓や苗字には非常に長い歴史があり、その起源は飛鳥時代にまでさかのぼるとされている
そこには、「天皇制および律令制の確立」といった国家的な制度の問題が深く関わっている

その後、姓や苗字は次第に庶民にも広がっていくが、江戸時代には人々が職業によって区別される身分制度の中で、農民・商人・職人などの庶民階級は、姓や苗字を名乗ることは原則として禁じられた

しかし、明治時代の四民平等政策によって、ようやく庶民も名字を名乗ることが許されるようになったのである

天皇家には戸籍も姓も苗字もない

しかし、日本国民にはそれぞれ姓や苗字があるにもかかわらず、「天皇や皇族」にはそれがない

このことを不思議に思ったことはないだろうか

テレビを始めとするメディアに天皇や皇族が登場する時、「天皇陛下」や「徳仁(なるひと)様」といった呼び方がされる
また、宮家としては秋篠宮家や三笠宮家があるが、実はこの「〇〇宮」という呼称も、姓や苗字ではない

つまり、今上天皇である徳仁様には姓や苗字が存在せず、皇后の雅子様も皇室に入られて以降、苗字を持たなくなったのである

我々日本国民は、皇室の方々に対するこのような呼び名に慣れているため、あまり違和感を覚えないかもしれないが、よく考えてみるとこれは非常に特異なことではないだろうか

また、日本には「戸籍」という制度がある
これは、日本国民の出生から死亡までの間の身分関係(出生・婚姻・死亡・親族関係など)を登録し、公的に証明するための重要な公文書である

戸籍がないと、運転免許の取得や銀行口座の開設、住宅の賃貸といった日常生活に支障が出るだけでなく、進学や就職の際にも不便を強いられ、さらには選挙権を行使できないなど、基本的人権に関わる問題も生じるのだ

それにもかかわらず、天皇は日本国憲法の下においてさまざまな解釈があるにせよ、国の象徴であり、日本国および日本国民統合の象徴として、対外的には国家を代表する存在である
また、国家統治においても一定の重要性を持つ「元首」とみなされているのも事実であろう

そのような重要な存在である天皇家には、戸籍も姓も苗字も存在しないのである

実は世界の王室を見渡しても、このような日本の天皇は極めて特異な存在なのだ


天皇に姓や苗字がないのはなぜ?

律令制が成立する以前の日本社会には、「氏(うじ)」と呼ばれる多数の集団、すなわち豪族が存在し、その後に貴族となっていった
大伴氏・物部氏・蘇我氏などがその代表であり、天皇家も大王家という豪族だったと考えられている

このような多くの氏が、大王を頂点にして統合し、直(あたい)・連(むらじ)・公(きみ)などの姓を与えられ、それによる秩序ができ始めたというのが、律令制度導入以前の日本の社会の状況であった

この体制は、歴史学では「氏姓制度」と呼ばれているが、6世紀後半にはすでに確認されている

実はこの時期が重要で、ちょうどこの頃、推古大王が即位し、蘇我馬子と厩戸王(聖徳太子)による「トライアングル政治」が展開されていた

この時代を境に、大王家は氏族の中でも次第に突出した存在となっていく

そして、そのような中でゆるやかに「天皇号」が確定されていく時代へと歩みを進めていくのである

645年に起きた乙巳の変を発端とする大化の改新は、大王家が中心となり中央集権国家を目指した政治改革であった

この改革では、公地公民制の導入や班田収授法の実施など、律令国家の基礎を築く重要な政策が打ち出され、これらは天智大王から天武天皇へと引き継がれていった

天武天皇の時代になると、「天皇」という称号が確定されるとともに、天皇は貴族をはじめとするすべての人民に対して、姓と氏名を与える立場となるのである

天武天皇は、真人(マヒト)・朝臣(アソミ)・宿禰(スクネ)・忌寸(イミキ)・道師(ミチノシ)・臣(オミ)・連(ムラジ)・稲置(イナギ)といった「八色の姓(やくさのかばね)」を定め、これを各氏に授けることで序列を明確にした

班田収授法の実施にともない、戸籍も作成されるようになり、そこには国家の支配下にあるすべての人民の氏名および姓が記録された

この氏名・姓は、天皇が人民に賜るという形式がとられていた

その結果、天皇家は「自らの氏名および姓を持たない存在」となったのである

その後、藤原・源・中原・平・橘といったさまざまな氏姓が誕生するが、これらもすべて天皇から与えられたものであった

そして江戸時代になると、大名が官位を天皇から賜る際には、たとえば佐竹氏であれ伊達氏であれ、必ず「源朝臣某(みなもとのあそん・なにがし)」という形式で氏名および姓が記された
これも天皇からの賜姓という原則に基づくものである

このような経緯から、天皇は姓も苗字も持たない存在となったのだ


 

 


われわれの歩んできた日本の歴史を正しく理解することは今後の国際社会を生き抜くために必要だと考える
己を知ることが相手を知る第一歩だ

最近、メディアも取り上げるようになったネット上の「デマ」や「フェイクニュース」

それをうかつに拡散しないための「ファクトチェック」も話題になっています

現代では、画像や動画など視覚的に訴える情報がスマートフォンなどのデバイスで瞬時に拡散されるため、感情に訴える内容ほど広まりやすい傾向にあります

こうした現象は、実は江戸時代にも通じる部分があります
当時は現代のような情報インフラこそなかったものの、噂や風説が広がることは日常的に起きていました

その中から、少し変わった2つの話題をご紹介します


「生人形(いきにんぎょう)」に関する噂・風説

江戸〜明治頃にかけて、見世物興行に使われて大人気を博した「生人形」

あまりに精巧なつくりで、本当に生きているかのように見えたため、「活人形」とも呼ばれていたようです

恐怖心や好奇心も相まって、「本物の人間なのではないか」「人間を使った人形だ」「夜中に動いたらしい」といった根拠のない噂が、瞬く間に広まったとされています

そして「そんなにすごい作品なら一度見てみたい」と、見世物小屋を訪れる人が増えたようです

今のように画像や動画などがない分、話を聞いた人が想像を膨らませることで内容に尾ひれがつき、より怪奇的な噂へと変化していったと考えられます

当時の瓦版でも生人形は大きく取り上げられ、人々の関心を集めました
各地を行き来する飛脚も通信手段として機能しており、噂は遠方へと広がっていったようです

情報の拡散速度や範囲こそ現代とは比べものになりませんが、好奇心や恐怖心が噂を広める原動力となる点には、今も昔も変わりがないといえるでしょう

生人形に関する噂や風説の記録は、当時の瓦版や随筆、歴史書などに散見される程度ですが、歌川国芳や歌川芳艶による錦絵にも、その様子が描かれています

また、安政四年(1857)頃の瓦版には、新吉原で起こったとされる人形にまつわる怪談話も見られます

内容は次のようなものです

両国の両回向院で催された百面相人形の興行の中でも、花魁の人形の出来栄えがひときわ素晴らしかった。

ところが夜になると、その人形のあたりから酒盛りのような賑やかな声が聞こえてくる。

不思議に思った番人が様子をうかがうと、稲荷神と人形が酒盛りをしていた。

人形の出来栄えがあまりに見事だったため、そのようなまことしやかな噂が立ち、怪談話として広まったり、興行を盛り上げるために瓦版が話題として取り上げたのではないかと推測されています

「天狗の仕業」ということに関する噂・風説

古くから「天狗」は、信仰の対象としてさまざまなご利益をもたらす一方で、妖怪や伝説上の存在として恐れられてきました

そうした天狗にまつわる噂や風説も、日本各地に数多く伝わっています

そもそも「天狗」という言葉は、中国で凶事を知らせる流星を意味していたとされています

大気圏を突き抜けて落下する火球が空中で爆発し、大きな音を立てる様子が「天を駆ける犬の咆哮」にたとえられ、「天の狗(犬)」すなわち天狗と呼ばれるようになったという説があります

日本では天狗は山岳信仰と結びつき、「山の神」として信じられるようになりました

その姿は地域や時代によってさまざまですが、「輝く鳥」のような姿で描かれることが多かったとされています

天狗にまつわる逸話にも多くの種類があり、災害や異常気象、不可解な出来事が起こると、不安のあまり「天狗のしわざだ」とする風説が広まることもあったようです

「天狗による人さらい(天狗攫い)」

「天狗による人さらい(天狗攫い)」という風説も各地に伝えられています

山間部や農村で人が突然姿を消すと、「天狗にさらわれたのではないか」と噂されました
特に子供や若者が山で行方不明になった場合、「天狗に連れて行かれた」と信じられ、村全体で恐れられることもあったようです

ただし、これらの噂は特定の人物や事件に基づいたものではなく、各地で似たような話が語られていたと考えられています

また、さらわれた子供が戻ってきて、「天狗に日本各地の名所を見せてもらった」と語り、その場に行った者しか知らないようなことを話したという不思議な逸話も伝えられています

この種の話の中でも特に有名なのが、“天狗小僧”の異名で知られる江戸時代の少年・寅吉です

文政年間、当時7歳だった寅吉は天狗にさらわれたとされ、数年後の文政3年(1820年)に江戸に戻って人々を驚かせました

彼は異界での体験を当時の国学者・平田篤胤に語り、その内容は著書『仙境異聞』にまとめられました

1780年代の甲斐国(現在の山梨県)や信濃国(現在の長野県)では、山中で迷子になった子供や猟師が「天狗にさらわれた」と噂され、村人たちが山に近づくのを避けるようになったという記録が残されています

松浦静山の随筆『甲子夜話』などにも、こうした天狗伝説が地域の民話として記録されています

このような風説は、山岳地帯における危険や、未知の自然現象への恐怖を反映したものと考えられます
実際、山に入るのを控えたり、夜間の外出を避けたりと、村人の行動に影響を与えていたようです

原因不明の「天狗火(てんぐび)」

原因不明の火事が発生すると、「天狗が火を放った」「天狗火が原因だ」といった噂が広まることがありました

天狗火とは、山間部や農村などで夜間に目撃される怪しい光で、鬼火や狐火に似た現象とされ、火事との因果関係が語られるようになったものです
夜間に説明のつかない光が見られた直後に火災が起きると、「天狗のしわざ」とされたのです

こうした風説は、火災に対する恐怖心を煽り、夜の外出を控えたり、火の用心を徹底したりといった行動につながりました
また、天狗火を鎮めるための祈祷やお札が売られるなど、宗教的あるいは商業的な動きも見られたとされています

なお、天明8年(1788)に京都で「天明の大火」が発生した際には、西陣の浄福寺に火の手が迫ったものの、朱塗りの東門の手前で火が止まったという逸話があります

このとき、鞍馬山から天狗が舞い降り、巨大な団扇で火をあおいで鎮めたとも語られています

天狗の世直しの予言

幕末の動乱期(1850~1860年代)、社会不安が高まる中で、「天狗が現れて世直しを予言した」「天狗が幕府の滅亡を告げた」といった風説が各地で広まりました

たとえば、京都や大坂では「天狗が山に現れ、異国を追い払うと予言した」という話が広まり、一部の人々が尊王運動に共感し、集会や行動に参加するきっかけになったと伝えられています『※幕末維新見聞録』

このような風説は、間接的に幕府への不満を煽る役割を果たし、幕府はこのような噂を危険視し、取り締まりを強化しました

最後に

現代のように、スマホで写真も動画も撮影できず、SNSで話を拡散することもできない時代でも、人から人へと伝わっていく噂・風説

どの時代でも、社会不安や、正体のわからない存在に対する関心は尽きることがなく、恐ろしければ恐ろしいほど人々の好奇心を刺激し、拡散する手段がなくても口伝えで広がっていったのです

このほかにもさまざまな事例がありますので、またの機会にご紹介したいと思います

参考 :
『江戸東京の噂話「こんな晩」から「口裂け女」まで』 野村 純一
『江戸の見世物』田中優子
『日本庶民文化史料集成 第14巻 見世物』編: 国立劇場芸能調査室
『江戸の遊びと祭り』笹間良彦 他
文 / 桃配伝子 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

最近、メディアも取り上げるようになったネット上の「デマ」や「フェイクニュース」

それをうかつに拡散しないための「ファクトチェック」も話題になっています

現代では、画像や動画など視覚的に訴える情報がスマートフォンなどのデバイスで瞬時に拡散されるため、感情に訴える内容ほど広まりやすい傾向にあります

こうした現象は、実は江戸時代にも通じる部分があります
当時は現代のような情報インフラこそなかったものの、噂や風説が広がることは日常的に起きていました


江戸時代の不思議な噂・デマ・風説「生きて動く人形、人をさらう天狗」・・・


生きて動く人形の話は怖さや不思議さも・・・
自然と人間がもっと近かった時代は怪異、不思議な現象や不思議、奇怪、奇才な人物などは天狗と結びつけられたようです
よく知られるところでは牛若丸(後の源義経)、南方熊楠など・・・


現代のように、スマホで写真も動画も撮影できず、SNSで話を拡散することもできない時代でも、人から人へと伝わっていく噂・風説

どの時代でも、社会不安や、正体のわからない存在に対する関心は尽きることがなく、恐ろしければ恐ろしいほど人々の好奇心を刺激し、拡散する手段がなくても口伝えで広がっていったのです


 

 


「口裂け女」の話はあっという間に全国へ・・・
噂の凄さと広がりなどを感じました

江戸時代の「吉原」といえば、格式と華やかさを備えた遊郭として知られている

だが、そのはるか昔、古代中国にもよく似た場があった
文人たちの詩や古い史書に登場する「青楼(せいろう)」である

青楼は、ただの歓楽街ではなかった
教養ある妓女たちが集い、詩や音楽に興じながら、官人や名士たちが語らい合う、文化と社交が交差する洗練された空間だった

もちろん、誰もが気軽に出入りできる場所ではなかった
費用は高く、訪れる者にもそれなりの地位と財力が求められた

青楼という言葉の成り立ちからその制度、そして実際にかかった費用まで、古典や記録をもとにひもといていきたい


「青楼」という言葉の始まり

吉原と同じく、青楼もまた、いつしか「遊女の館」として定着した呼び名である
しかし、その語源をさかのぼると、まるで別の世界が見えてくる

もともと「青楼」とは、帝王の宮殿や貴族の楼閣を指す言葉だった

たとえば6世紀初頭に編纂された、南朝の斉について記した『南斉書』には、こんな記述がある

「世祖興光樓,上施青漆,世謂之青樓」
(世祖が興光楼を建て、上に青い漆を塗ったところ、人々はこれを青楼と呼んだ)

『南齊書・東昏侯本紀』より

つまり「青楼」は、もともとは青く塗られた高楼というだけの意味にすぎなかったのだ

ところが後の時代、南梁の詩人・劉邈(りゅうばく)が「娼女不勝愁,結束下青樓」と詠んだことで、「青楼=遊女のいる場所」という連想が広まり始めた
詩人たちがこの言葉を洒落や比喩として用いるうちに、やがて現実の妓館とも結びつき、現在の意味へと変化していった

その一方で、実態としての「青楼」もまた、時代とともに姿を変えていった

はじまりは、春秋時代(紀元前770年〜紀元前403年ごろ)である
斉国の宰相・管仲(かんちゅう)が、国の財政を支えるために酒や色を制度化し、国家の管理下に置いたことが、青楼の源流とされる

南北朝時代を経て、唐、宋時代のころには、庶民の娯楽とは一線を画した、上流階級のための社交空間へと昇華されていった

青楼で遊ぶには、どれほどの金がかかったのか

格式と文化を備えた空間であるがゆえに、青楼は決して庶民が気軽に立ち寄れる場所ではなかった

とくに南宋以降、その経済的ハードルはさらに高まっていった

たとえば13世紀初頭に著された、南宋の都・臨安(現在の杭州)の暮らしぶりを記した書『武林旧事』には、当時の青楼の様子が詳しく描かれている

この書によれば、客が青楼の門をくぐるには、まず「花茶」と呼ばれる茶を一杯注文する必要があった
これは、いわば入場料のようなもので、その価格は数百文から千文(現在の価値でおよそ2500円〜5000円)にも及んだという

さらに席に着くには、「支酒」と呼ばれる酒を注文しなければならず、それに加えて老鴇(ろうぼう/遊女屋の女主人)への謝礼、給仕や仲介人への心付けも必要だった

こうした一連の出費を合計すると、一般的な遊びでも一〜二十貫文(およそ5万円〜10万円)ほどかかったとされる

だが、これはあくまで「普通」の場合である

もしも名妓を指名すれば、料金は一気に跳ね上がった

たとえば、明代に書かれた長編小説『金瓶梅(きんぺいばい)』では、豪商として描かれる主人公・西門慶(さいもんけい)が、初めて妓楼に足を踏み入れた際、見栄を張って五十貫文(現在の価値で約25万円)を支払ったという場面がある

さらに後には、人気妓女・李桂姐(りけいし)をめぐって二十両の銀子(約二百貫、現代価格でおよそ100万円)を投じたと記されている

もちろん『金瓶梅』の話は物語であり、史実というわけではない
だが、当時の青楼がいかに高額な遊びであったかを知る手がかりにはなるだろう

青楼に通うことは、財力だけでなく、その人の地位や教養までもが試される一種の嗜みでもあった
それは単なる歓楽ではなく、文化と身分を競う舞台でもあったのだ

青楼に咲いた才色と、その儚い行く末

青楼に身を置いた女性たちの出自は、決して一様ではなかった
多くは貧しい家に生まれ、幼くして親に売られた少女たちである

だが一方で、もともと裕福な家庭に育ちながら、家運が傾いて青楼に身を投じる者もいた

南朝斉の名妓・蘇小小(そしょうしょう)はその代表格とされる

教養と美貌を兼ね備えた彼女は、琴・棋・書・画を嗜む才媛であり、家の没落後も誇りを失わず、青楼で気高く生きたと伝えられる

また、明末にその名を馳せた陳円円(ちんえんえん)のように、貧しい出自から抜きん出た美貌と才気によって、青楼の頂点に上り詰めた者もいる
彼女は軍閥の実力者・呉三桂(ごさんけい)との縁によって、やがて歴史の大きなうねりの中にその名を刻むこととなった

こうした女性たちは、単なる「遊女」ではない
才色兼備の女性たちは、文人や政治家たちの社交場の中心で文化を担ったのだ

だが、いかに美しく才に恵まれていようと、青楼に咲く花に永遠はなかった
中には文人や官人、有力な商人に見初められ、妾として迎えられた者もいたが、多くはそのまま余生を過ごし、静かに幕を下ろしていった

華やかな光に包まれた青楼の裏側には、そんな儚さと切なさが、常に横たわっていたのである

参考 : 『南斉書』東昏侯本紀『武林旧事』『金瓶梅』『韓非子』他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

江戸時代の「吉原」といえば、格式と華やかさを備えた遊郭として知られている

だが、そのはるか昔、古代中国にもよく似た場があった
文人たちの詩や古い史書に登場する「青楼(せいろう)」である

青楼は、ただの歓楽街ではなかった
教養ある妓女たちが集い、詩や音楽に興じながら、官人や名士たちが語らい合う、文化と社交が交差する洗練された空間だった

もちろん、誰もが気軽に出入りできる場所ではなかった


青楼で遊ぶには、どれほどの金がかかったのか

格式と文化を備えた空間であるがゆえに、青楼は決して庶民が気軽に立ち寄れる場所ではなかった

とくに南宋以降、その経済的ハードルはさらに高まっていった

たとえば13世紀初頭に著された、南宋の都・臨安(現在の杭州)の暮らしぶりを記した書『武林旧事』には、当時の青楼の様子が詳しく描かれている

この書によれば、客が青楼の門をくぐるには、まず「花茶」と呼ばれる茶を一杯注文する必要があった
これは、いわば入場料のようなもので、その価格は数百文から千文(現在の価値でおよそ2500円〜5000円)にも及んだという

さらに席に着くには、「支酒」と呼ばれる酒を注文しなければならず、それに加えて老鴇(ろうぼう/遊女屋の女主人)への謝礼、給仕や仲介人への心付けも必要だった

こうした一連の出費を合計すると、一般的な遊びでも一〜二十貫文(およそ5万円〜10万円)ほどかかったとされる

だが、これはあくまで「普通」の場合である

もしも名妓を指名すれば、料金は一気に跳ね上がった

たとえば、明代に書かれた長編小説『金瓶梅(きんぺいばい)』では、豪商として描かれる主人公・西門慶(さいもんけい)が、初めて妓楼に足を踏み入れた際、見栄を張って五十貫文(現在の価値で約25万円)を支払ったという場面がある

さらに後には、人気妓女・李桂姐(りけいし)をめぐって二十両の銀子(約二百貫、現代価格でおよそ100万円)を投じたと記されている

もちろん『金瓶梅』の話は物語であり、史実というわけではない
だが、当時の青楼がいかに高額な遊びであったかを知る手がかりにはなるだろう

青楼に通うことは、財力だけでなく、その人の地位や教養までもが試される一種の嗜みでもあった
それは単なる歓楽ではなく、文化と身分を競う舞台でもあったのだ

青楼に咲いた才色と、その儚い行く末

青楼に身を置いた女性たちの出自は、決して一様ではなかった
多くは貧しい家に生まれ、幼くして親に売られた少女たちである

だが一方で、もともと裕福な家庭に育ちながら、家運が傾いて青楼に身を投じる者もいた

南朝斉の名妓・蘇小小(そしょうしょう)はその代表格とされる

教養と美貌を兼ね備えた彼女は、琴・棋・書・画を嗜む才媛であり、家の没落後も誇りを失わず、青楼で気高く生きたと伝えられる

また、明末にその名を馳せた陳円円(ちんえんえん)のように、貧しい出自から抜きん出た美貌と才気によって、青楼の頂点に上り詰めた者もいる
彼女は軍閥の実力者・呉三桂(ごさんけい)との縁によって、やがて歴史の大きなうねりの中にその名を刻むこととなった

こうした女性たちは、単なる「遊女」ではない
才色兼備の女性たちは、文人や政治家たちの社交場の中心で文化を担ったのだ

だが、いかに美しく才に恵まれていようと、青楼に咲く花に永遠はなかった
中には文人や官人、有力な商人に見初められ、妾として迎えられた者もいたが、多くはそのまま余生を過ごし、静かに幕を下ろしていった

華やかな光に包まれた青楼の裏側には、そんな儚さと切なさが、常に横たわっていたのである


 

 

 


『三国志演義』『水滸伝』『西遊記』と並び称される四大奇書『金瓶梅』
出版四百年を記念して気鋭の研究者が送る新訳決定版
中国古典文学を代表する長編の官能小説
本書は全3巻(上・中・下)の第1巻(上)

戦国時代は男性だけでなく、女性も戦いに身を投じることが少なくありませんでした

自分や家族を守るため、武士の名誉を守るため……彼女たちは様々な理由で弓や刀を手にとったようです

そんな女性の一人・鶴姫(つるひめ)のエピソードをご紹介

果たしてどんな最期を遂げたのでしょうか

毛利への宣戦布告

鶴姫は天文10年(1541年)、備中国(岡山県西部)を治める戦国大名・三村家親(いえちか)の娘として誕生しました

兄弟姉妹には庄元祐(しょう もとすけ)・三村元親(もとちか)・三村元範(もとのり)・上田実親(さねちか)・三村真経(まさつね)・楢崎元兼室・水野勝成室・石川久式室らがいます

やがて成長した鶴姫は、同国の常山城(つねやまじょう。岡山県玉野市)を治める豪族・上野隆徳(たかのり)に嫁ぎました

二人の間に子供がいたかは定かでないものの、隆徳には嫡男の上野隆秀(たかひで)と、もう一人の男児がいます

当時、父の三村家親は、毛利氏の後ろ盾を得て備中国をほぼ制覇、備前国(岡山県南東部)へ進出し、また美作国(岡山県北東部)まで勢力を伸ばそうと目論んでいました

しかし永禄9年(1566年)、家親は宿敵・宇喜多直家が派遣した遠藤秀清(ひできよ)・俊通(としみち)兄弟によって暗殺されてしまいます

その悲報を聞いて、鶴姫も大いに悲しんだことでしょう

なお、長兄の庄元祐は、それ以前の元亀2年(1571年)に討死したと言われています(諸説あり)

三村の家督は、次兄の元親が継承
なおも宇喜多と抗争を繰り広げたものの、天正2年(1574年)になると毛利氏が宇喜多と手を組んでしまいました

このまま父の仇と手を結ぶわけには行きません
そこで元親は重臣らの反対を押し切って、毛利との同盟を破棄してしまうのです

重臣「毛利と宇喜多に東西から挟撃されますぞ!」

元親「畿内から勢力を伸ばしている織田と手を組めばよい。合わせて浦上(宗景)や三浦(貞広)とも連携しよう」

かくして元親は、毛利・宇喜多に宣戦布告

時は天正2年(1574年)11月、備中兵乱(びっちゅうへいらん)の火蓋が切って落とされたのでした
※備中兵乱とは、備中の戦国大名・三村元親と毛利氏・宇喜多氏による戦い

兄・三村元親が自刃

毛利勢は、元親が堅固に改修した備中松山城(岡山県高梁市)をいきなり攻めることはせず、周辺の支城から一つずつ潰していく作戦をとります

まずは、三村元範が守備する杠城(ゆずりはじょう。楪城とも。岡山県新見市)を攻略し、11月6日以前に元範を自害に追い込みました

続いて猿掛城(さるかけじょう。岡山県倉敷市)を攻め立て、守将の三村兵部は、12月23日に城を捨てて松山城へ逃げ込みます

年が明けた天正3年(1575年)には、三村方の城が次々と陥落していきました

毛利勢は、1月20日に美袋城(みなぎじょう。岡山県総社市)、1月29日に鬼身城(きのみじょう。岡山県総社市)ほか、一通り支城を攻略した後、ついに松山城を包囲し、3月16日に総攻撃をかけます

しかしさすがに天下の堅城、松山城は容易には落ちず、毛利勢にも少なからず被害が出ました

そこで毛利勢は作戦を変更し、力攻めはせず持久戦に持ち込みます
4月に入ると広範囲で麦刈りを行い、孤立無援で食糧が欠乏してきた松山城内からは投降者が相次ぎます

5月22日には、ついに元親が降伏し、6月2日に自刃して果てました

人といふ 名をかる程や 末の露 きえてぞかへる もとの雫に

※『続英雄百首』より、元親の辞世

【意訳】人間など、しょせん露(つゆ)のように儚い存在である。それが元の雫(しずく)に戻るだけなのだから、名誉がどうのと言うほどの価値もない。

かくして戦国大名としての三村家は滅亡し、残された者たちは毛利に臣従することでその命脈を保つのでした

夫と子供も自刃

しかし夫の上野隆徳は、主君亡き後も抵抗を続けます

もはや勝算がないのは百も承知
しかし宿敵に屈するぐらいならば、名誉をまっとうするのが武士というものです

かくして天正3年(1575年)6月6日、常山城を毛利勢が包囲
上野勢は孤軍奮闘するも衆寡敵せず、刀折れ矢尽きた隆徳は覚悟を決めました

「今はこれまで・・・女子供は落ち延びよ。我らはこの城と共に果てる」

「私たちも御供させてくださいませ」

「ならぬ。そなたは皆をまとめて、敵に下れ。女まで殺しはすまい」

「・・・承知いたしました」

隆徳は、鶴姫に女性や子供たちを託し、自身はどうしても残ると聞かなかった妹と、幼い次男を手にかけます
そして6月7日払暁、嫡男の隆秀と共に自害して果てたのでした

一度は落ち延びると約束した鶴姫ですが、このまま引き下がっては武士の妻として面目が立ちません

鶴姫は侍女たちを集めて、こう言いました

「皆の者、よく聞け。このまま生き永らえたとて、敵の辱めを受けるばかり。ならば私は、敵わずとも敵中へ斬り込み、武士の名誉をまっとうせんと思う」

その決意を聞いた侍女たちは、少なからず動揺したことでしょう

「そなたらもそれぞれ考えがあろうから、無理強いはせぬ。生き延びたい者は遠慮なく申し出よ」

結局、34名の侍女が鶴姫に賛同してくれました
また生き残っていた城兵83名も加わります

「死出の供をしてくれる者たちには、心から礼を言う。またここで別れる者たちについても、どうか達者で暮らしてほしい」

手短に別れを惜しんだ鶴姫たちは、急いで武装に身を固めました
日ごろ男性たちに着せつけてはいても、自分で鎧を着るのは初めてだった者も少なくなかったでしょう

てんやわんやの支度が調ったところで、鶴姫たちは晴れて「初陣」したのでした

敵将に一騎討を挑む

「かかれーっ!」

城門を開き、鶴姫たちは毛利勢へ襲いかかります

もはや抵抗もあるまいとタカをくくっていた敵将・乃美宗勝(のみ むねかつ)の部隊は、俄かに混乱しました

「敵襲、敵襲ーっ!」

鶴姫たちはここが死に場所と暴れ回り、いくらかの戦果を上げたでしょうか
しかしその勢いも、そう長くは続きません

毛利勢は慌てて応戦の態勢を立て直しながら、やがて違和感に気づきます

「・・・何だ、女子(おなご)が混じっておるではないか」

男たちはほとんど死に絶え、生き残った女性たちが無駄な抵抗を試みている
その健気さを毛利勢は憐れみ、かつ嘲笑ったことでしょう

「女子だからと侮るな!そこにおわすは乃美兵部(宗勝)か、いざ尋常に勝負せよ!」

一騎討ちを挑まれた宗勝は歴戦の勇士
いたずらに女子を殺すのは忍びないと鶴姫を説得しました

「そなたらは存分に武士の矜持を示された。これ以上の流血は無益であるゆえ、疾(と)く落ちられよ」

宗勝の説得を受けて闘志を殺がれたのか、鶴姫は一騎討ちを断念します

「かくなる上は仕方あるまい。ならばこの太刀を受け取られたい。当家重代の家宝・国平じゃ」

「確(しか)と受け取った」

・・・是は我家重代の国平が打たる名作なり。当家より父家親に参らせし秘蔵、他に異なりしが、重代のよしききたまひ、返し置れし太刀なれば、父上に添ひ奉ると思ひ身を離さず持きたりしが、死後には宗勝に参らする。後世弔ひてたまはれ・・・

※『児島常山軍記』より

国平の太刀を宗勝に渡すと、鶴姫は城内に戻って自害したということです

鶴姫・基本データ
生没:天文10年(1541年)生~天正3年(1575年)6月7日没か(享年33)
両親:父 三村家親/母 三好氏(正室)か
兄弟:庄元祐・三村元親・三村元範・上田実親・三村真経・楢崎元兼室・水野勝成室・石川久式室
伴侶:上野隆徳
子女:上野隆秀、男児
死因:自刃
法名:常鶴院超山本明信尼
墓所:常山城址

終わりに

武士の妻として名誉をまっとうした鶴姫
・・・室三村氏勇名あり。甲(よろい・かぶと)を擐し(身にまとい)白綾の鉢巻をしめ二尺七寸の国平の太刀を帯し白柄の長刀を提げ春の局(はるのつぼね)秋の局(あきのつぼね)以下青女房(侍女)三十四人を随へ(従え)城兵八十三騎と共に浦兵部丞宗勝(乃美宗勝)の陣中に突撃して奮戦し死する者多し。乃ち(すなわち)太刀を宗勝に貽(贈)りて後事を属し城中に入り従容として自刃す。年三十三。女房等皆之(これ)に殉ず。世に之を常山女軍(めのいくさ)と呼びて盛に其(その)勇烈を称す。洵(まこと)に非常時に於(お)ける婦人の亀鑑(きかん)と謂(言)ふべし・・・

※常山城「常山女軍之碑」より

今回は、毛利の大軍を前に奮戦し、壮絶な最期を遂げた鶴姫の生涯をたどってきました

もし乃美宗勝との一騎討ちが実現し、鶴姫が勝っていたら、戦局がどのように変わったのか、想像が尽きません
常山城址には鶴姫たちの供養塔が建立され、その遺勲を顕彰するため、令和の現代でも毎年供養祭が行われているそうです

戦国時代に武勇を示した女性たちのエピソードは他にもあるので、改めて紹介したいと思います

参考:
・岡山県高等学校教育研究会社会科部会歴史分科会 編『新版 岡山県の歴史散歩 新全国歴史散歩シリーズ33』山川出版社、1991年10月
・西ヶ谷恭弘 編『定本 日本城郭事典』秋田書店、2000年8月
文 / 角田晶生(つのだ あきお) 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

戦国時代は男性だけでなく、女性も戦いに身を投じることが少なくありませんでした

自分や家族を守るため、武士の名誉を守るため……彼女たちは様々な理由で弓や刀を手にとったようです

そんな女性の一人・鶴姫(つるひめ)のエピソードをご紹介

果たしてどんな最期を遂げたのでしょうか


『敵将に一騎討ちを挑んだ戦国女性』鶴姫と34人の侍女たちの壮絶な最期・・・



武士の妻として名誉をまっとうした鶴姫
・・・室三村氏勇名あり。甲(よろい・かぶと)を擐し(身にまとい)白綾の鉢巻をしめ二尺七寸の国平の太刀を帯し白柄の長刀を提げ春の局(はるのつぼね)秋の局(あきのつぼね)以下青女房(侍女)三十四人を随へ(従え)城兵八十三騎と共に浦兵部丞宗勝(乃美宗勝)の陣中に突撃して奮戦し死する者多し。乃ち(すなわち)太刀を宗勝に貽(贈)りて後事を属し城中に入り従容として自刃す。年三十三。女房等皆之(これ)に殉ず。世に之を常山女軍(めのいくさ)と呼びて盛に其(その)勇烈を称す。洵(まこと)に非常時に於(お)ける婦人の亀鑑(きかん)と謂(言)ふべし・・・

※常山城「常山女軍之碑」より

今回は、毛利の大軍を前に奮戦し、壮絶な最期を遂げた鶴姫の生涯をたどってきました

もし乃美宗勝との一騎討ちが実現し、鶴姫が勝っていたら、戦局がどのように変わったのか、想像が尽きません
常山城址には鶴姫たちの供養塔が建立され、その遺勲を顕彰するため、令和の現代でも毎年供養祭が行われているそうです



 

 


日本の城郭を知る事典

西洋の歴史は、ある一人の哲学者が奴隷市場から救出されたか否かで、全く異なる姿になっていたかもしれません

その哲学者とは、古代ギリシアのプラトンです

恩師ソクラテスの教えを受け継ぎ、弟子アリストテレスを育て上げた彼は、西洋哲学史におけるまさに巨人です

私たちが目にする不完全な世界の奥に、完全で永遠の真理である「イデア」が存在すると説き、西洋の哲学、科学、さらには宗教にまで、計り知れないほど大きな影響を与えました

プラトンが著した『国家』や『ソクラテスの弁明』といった対話篇は、哲学を志す者ならば必ず学ぶべき重要なテキストであり続けています

さらにアテナイ郊外に創設した学園「アカデメイア」は世界で初めての高等教育機関として、アリストテレスなど多くの知性を輩出し、学問の発展に大きく貢献しました

後世に伝えられた逸話のひとつとして「プラトンが奴隷として売られた」という劇的なエピソードをご紹介します
その真偽については諸説ありますが、彼の人生を語るうえで象徴的な場面として今なお語り継がれています


理想国家への挑戦

紀元前388年頃、プラトンは壮大な思索を胸に抱き、アテナイの港から船を出しました

彼が目指したシチリア島には都市国家シラクサが君臨し、地中海世界の中心地として栄華を極めていました

現実の政治を実際に確かめるため、プラトンはこの地を訪れたのです

当時のシラクサでは、僭主ディオニュシオス一世が強大な権力で君臨していました

プラトンはディオニュシオス一世本人に謁見する機会を得ると同時に、その義理の弟にあたるディオンという青年と運命的な出会いを果たします

プラトンの高潔な人柄と哲学に深く感銘を受けたディオンは、生涯にわたる弟子(親友)となりました

宮廷での理想と現実の衝突

ディオニュシオス一世に客人として招かれたプラトンは、壮麗な王宮で自らの思想を説き始めました

「国家の舵取りは、富や家柄ではなく、知恵と徳を備えた哲学者にこそ委ねられるべきだ」

しかし、自らの力を絶対と信じる僭主ディオニュシオス一世の逆鱗に触れてしまいます

王をはじめとする貴族たちの目には、プラトンが自分たちの地位を根底から覆そうとする危険な思想家として映ったのです
シチリア島の複雑な現実を無視したかのような改革案は、たちまち激しい反発を呼んでしまいました

宮廷内では陰謀が渦巻き始め、純粋な理想国家を巡る対話は、剥き出しの権力闘争へと変質していきます

次第に孤立を深めるプラトンの立場は、日を追うごとに危うくなっていきました

哲学者から奴隷への転落

ディオニュシオス一世の怒りは、ついに頂点に達しました

プラトンをただ追放するだけでは許されないと判断した王は、彼をスパルタの提督に引き渡すという異例の措置をとります

こうしてプラトンは、スパルタの支配下にあるアイギナ島で奴隷として競売にかけられたと伝えられています

崇高な思想を語っていた哲学者は、エーゲ海に浮かぶ島の奴隷市場で「商品」として、人々の前にさらされることになったのです

厳しい状況に置かれたプラトンを支えていたのは「肉体は束縛できても、魂の自由までは奪えない」という自身の信念だったのかもしれません

絶望からの再生とアカデメイアの誕生

プラトンが奴隷として売られたという衝撃的な知らせは、すぐさまアテナイの仲間たちに伝わりました

プラトンを深く敬愛していた哲学者のアニケリスが、すぐさま身代金を工面します

プラトンの身代金を用意した人物については、いくつかの説があります

3世紀前半の伝記作家ディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』によると、アニケリスが身代金を支払ったと記されているため、今回はこちらの説を採用したいと思います

こうして奇跡的に自由の身を取り戻したプラトンは、アテナイへの帰還を無事に果たしました
身代金は20〜30ミナと伝えられており、現在の相場でおよそ数百万円になるそうです

屈辱と絶望に満ちた経験を糧にして、このあとプラトンはアテナイ郊外の聖なる森に、学問を探求するための拠点「アカデメイア」を創設します

「アカデメイア」からは、アリストテレスをはじめとする多くの才能が巣立ちました

歴史を変えた「もしも」の重み

アニケリスによる救出劇がなければ、プラトンという偉大な知性は、名もなき奴隷として歴史の闇に消えていたかもしれません

アリストテレスが彼の弟子になることもなく、西洋文明が依拠した論理や哲学の骨格はまったく異なっていたはずです

しかし九死に一生を得る経験をしてもなお、プラトンの情熱が尽きることはありませんでした

彼はシラクサで出会った親友ディオンに協力するため、このあと二度にわたってシチリア島を訪れ、現実の政治と格闘し続けたのです

ヨーロッパのみならず、人類の学問全体を左右したかもしれないプラトンの数奇なエピソードは、歴史がいかに不確かな偶然性の上に成り立っている事実を教えてくれます

参考文献:
ディオゲネス・ラエルティオス(1984)『ギリシア哲学者列伝(上)』(加来彰俊 訳)岩波書店
納富信留(2019)『プラトン哲学への旅:エロースとは何者か』NHK出版
文 / 村上俊樹 校正 / 草の実堂編集部

 

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

西洋の歴史は、ある一人の哲学者が奴隷市場から救出されたか否かで、全く異なる姿になっていたかもしれません

その哲学者とは、古代ギリシアのプラトンです

恩師ソクラテスの教えを受け継ぎ、弟子アリストテレスを育て上げた彼は、西洋哲学史におけるまさに巨人です

私たちが目にする不完全な世界の奥に、完全で永遠の真理である「イデア」が存在すると説き、西洋の哲学、科学、さらには宗教にまで、計り知れないほど大きな影響を与えました

プラトンが著した『国家』や『ソクラテスの弁明』といった対話篇は、哲学を志す者ならば必ず学ぶべき重要なテキストであり続けています

さらにアテナイ郊外に創設した学園「アカデメイア」は世界で初めての高等教育機関として、アリストテレスなど多くの知性を輩出し、学問の発展に大きく貢献しました


歴史を変えた「もしも」の重み

アニケリスによる救出劇がなければ、プラトンという偉大な知性は、名もなき奴隷として歴史の闇に消えていたかもしれません

アリストテレスが彼の弟子になることもなく、西洋文明が依拠した論理や哲学の骨格はまったく異なっていたはずです

しかし九死に一生を得る経験をしてもなお、プラトンの情熱が尽きることはありませんでした

彼はシラクサで出会った親友ディオンに協力するため、このあと二度にわたってシチリア島を訪れ、現実の政治と格闘し続けたのです

ヨーロッパのみならず、人類の学問全体を左右したかもしれないプラトンの数奇なエピソードは、歴史がいかに不確かな偶然性の上に成り立っている事実を教えてくれます


 

 


原題は「哲学において著名な人々の生涯およびその学説」といい、全部で八十二人の哲学者をとり上げる
ソクラテス、プラトン、アリストテレス、ピュタゴラス、エピクロスなどが登場
この種の文献のうち現存最古の貴重な史料であるとともに、ふんだんにちりばめられたエピソードが無類の読み物となっている
ギリシア哲学者列伝(上) である

第二次世界大戦中、ナチス占領下のフランスで、ドイツの秘密警察ゲシュタポを手玉に取った驚くべき女性スパイがいました

彼女の名はヴァージニア・ホール

片脚に義足を付けながらもOSS(アメリカ戦略情報局)の工作員として敵地に潜入し、ナチスから500万フランもの懸賞金をかけられた実在の人物です

「義足の女スパイ」と呼ばれた伝説の女性諜報員、ヴァージニア・ホールに迫ります


義足の女性スパイの誕生

1906年、ヴァージニア・ホールはアメリカ合衆国メリーランド州ボルチモアで生まれました

幼い頃から冒険心に富み、将来は外交官として国際舞台で活躍することを夢見ていたといいます

学生時代には語学に秀で、フランス語やドイツ語、イタリア語を自在に操るほどの語学力を身につけ、ヨーロッパでの活動を目指していました

しかし、若い頃に起きた狩猟中の事故で左脚を失う不運に見舞われ、木製の義足を装着する生活を余儀なくされます
彼女はこの義足に「カスバート」と名付けました


若くして障がいを負った彼女でしたが、持ち前の負けん気で夢を諦めることはしませんでした
しかし当時の社会に根強かった偏見の壁は厚く、障害を理由にアメリカ外交官への道は閉ざされてしまったのです

このような試練に直面してもホールはくじけず、第二次世界大戦が始まると自らヨーロッパへ渡ります

まず彼女は、フランスで救急車の運転手として従軍し、戦火の中で貴重な実務経験を積みました
そして1940年、フランスがナチス・ドイツに降伏すると、ホールは祖国アメリカや同盟国イギリスに貢献すべく、諜報活動への参加を強く志願します

当時、女性や障がいを持つ人物が前線のスパイ任務に就くことは極めて珍しいことでした

しかし彼女の情熱と能力が評価され、イギリスの特殊作戦執行部(SOE)に加わり、このあとアメリカOSS(戦略情報局)の一員として本格的にスパイの道を歩み始めたのです

ナチス占領下フランスへの潜入

1941年、ホールは連合国の女性諜報員として、ナチス占領下のフランスへと極秘裏に送り込まれました

フランス語に堪能だった彼女は、ニューヨーク・ポスト紙の記者という偽の肩書きを使い、リヨンの街で諜報活動を開始します
やがて現地に独自のスパイ・ネットワークを築き、抵抗組織との連携を深めていきました

日中は取材と称して街を歩き回り情報を集め、夜になるとレジスタンスの仲間たちと密かに合流して作戦を練る――そんな緊張感に満ちた日々が続きます

目立たぬよう派手な服装を避け、必要に応じて素早く変装を切り替えるなど、状況に応じた機転も発揮しました。フランス人協力者たちと力を合わせながら密かに連絡網を広げ、集めた情報は無線などを通じて本国へ送信していきます

その電報には、ドイツ軍の配置や動向などに関する極秘情報も含まれており、連合国軍上層部の戦略立案に大いに役立てられたようです

さらにホールは、捕らわれた仲間の救出作戦や、ドイツ軍の施設に対する破壊活動の支援など、数々の危険な任務にも果敢に挑みました
彼女の働きにより、ナチスに拘束されていたレジスタンス仲間が脱走に成功したケースも存在しています

その大胆かつ巧妙な働きぶりと持ち前のカリスマ性は、フランス各地の抵抗組織からも厚い信頼を得ることになり、連合国側にとって貴重な情報源となっていきました

ナチス占領当局からしても、女性がこれほど精力的な諜報活動を行っているとは想像しておらず、その油断もホールに上手く働いたと指摘されています

ゲシュタポの追跡と500万フランの懸賞金

ホールの活躍は、やがてナチスにも無視できない存在となっていきました

義足の女性スパイの情報を掴んだゲシュタポ(ドイツ秘密国家警察)は、ついに彼女を最重要指名手配者として追跡し始めました

逮捕につながる情報には多額の報奨金が約束され、その額は当時として異例の500万フランに達したとされています

ナチス当局はホールを「フランスにいる連合軍スパイの中で最も危険な存在」と見なし、顔写真付きの手配書には「足を引きずる女(片足のスパイ)」と記載されました

とりわけ執念深くホールを追跡したのが、リヨンに赴任していたゲシュタポ幹部クラウス・バルビーでした

「リヨンの虐殺者」として知られるこの親衛隊将校は、ホールの行方を執拗に追い続けました

当時のフランスは、密告一つでゲシュタポやドイツ情報部に逮捕され、即座に処刑されることも珍しくない恐怖政治のもとにありました
ホールもまた、一歩誤れば命を落としかねない綱渡りのような日々を送っていたのです

仲間の諜報員やレジスタンスの同志が次々と捕らえられ、命を奪われていく中で、彼女は機転を利かせ、巧みに追跡を逃れました

しかし1942年末、ドイツ軍がヴィシー政権下の地域を含むフランス全土を占領したことで、ホールの行動範囲は急速に狭まっていきます
これを受けて、彼女はついに国外脱出を決断します

ロンドンの本部に無線で脱出の意思を伝える際、彼女は義足に付けていたコードネーム「カスバート」を用い、「カスバートの調子が良くない」と暗号で連絡しました
しかし、本部は暗号の意味が理解できず「カスバートが邪魔なら始末せよ」と返信したという笑い話も残っています

その後、ホールはフランス人ガイドの助けを借りながら、極寒のピレネー山脈を徒歩で越え、スペインを経由してイギリスへの帰還を果たしました

義足を付けた状態で雪深い山道を数日間かけて踏破するという、まさに命懸けの逃避行でした

女性スパイ、再び敵地へ

こうしてなんとか逃れたホールでしたが、フランスに残してきた仲間たちのことが頭から離れませんでした

1944年、連合軍によるノルマンディー上陸作戦が目前に迫る中、ホールは再びナチス占領下のフランスに戻ることを決意します

今度はアメリカの対外諜報機関である戦略諜報局(OSS)の工作員としての任務でした

すでにゲシュタポに顔を知られていた彼女は、髪を黒く染めて老年の農婦に扮するなど、徹底した変装で正体を隠しました
老女になりきるため歯を人工的に黒ずませ、腰を曲げて歩くほどの徹底ぶりだったと伝えられています

ホールはフランス中央部に潜入し、無線で本部と連絡を取り合いながら、各地のレジスタンス戦士たちをまとめ上げていきました

彼女のもとに集まった千人規模の戦闘員は「マキ」と呼ばれる農民主体のゲリラ組織として再編され、橋や通信施設の爆破、補給列車の脱線工作など、大胆な破壊活動を展開します

その一連の行動は、連合軍の進軍を大きく後押しする結果となりました

戦後

第二次世界大戦の終結後も、ホールは諜報の世界に身を置き続けました

1945年9月にはOSS長官だったウィリアム・ドノバン少将から極秘裏に殊勲十字章を授与され、第二次大戦期にこの勲章を受けた唯一の民間人女性となります
式典も非公開で行われました

しかし、公には彼女の功績は長らく伏せられたままでした

その後、新たに発足したCIA(アメリカ中央情報局)に勤務したホールは、20年以上にわたり情報機関に貢献し、1982年に静かにその生涯を閉じました
76歳でした

長らく秘密にされてきたその功績が広く知られるようになったのは、近年になってからのことです

機密文書の公開とともに伝記も刊行され、ようやくヴァージニア・ホールの名は、歴史に刻まれるべき存在として光を浴びるようになったのです

参考:
『ナチスが恐れた義足の女スパイ-伝説の諜報部員ヴァージニア・ホール』(並木均 訳)中央公論新社
文 / 村上俊樹 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

第二次世界大戦中、ナチス占領下のフランスで、ドイツの秘密警察ゲシュタポを手玉に取った驚くべき女性スパイがいました

彼女の名はヴァージニア・ホール

片脚に義足を付けながらもOSS(アメリカ戦略情報局)の工作員として敵地に潜入し、ナチスから500万フランもの懸賞金をかけられた実在の人物です


『ナチスが恐れた女スパイ』片脚の諜報員ヴァージニア・ホール・・・


第二次世界大戦の終結後も、ホールは諜報の世界に身を置き続けました

1945年9月にはOSS長官だったウィリアム・ドノバン少将から極秘裏に殊勲十字章を授与され、第二次大戦期にこの勲章を受けた唯一の民間人女性となります
式典も非公開で行われました

しかし、公には彼女の功績は長らく伏せられたままでした

その後、新たに発足したCIA(アメリカ中央情報局)に勤務したホールは、20年以上にわたり情報機関に貢献し、1982年に静かにその生涯を閉じました
76歳でした

長らく秘密にされてきたその功績が広く知られるようになったのは、近年になってからのことです

機密文書の公開とともに伝記も刊行され、ようやくヴァージニア・ホールの名は、歴史に刻まれるべき存在として光を浴びるようになったのです



 

 


イギリス特殊作戦執行部 (SOE)やアメリカCIA の前身OSSの特殊工作員として単身でナチス統治下のフランスに単身で潜入、仲間の脱獄や破壊工作に従事、レジスタンスからも信頼され、第二次世界大戦を勝利に導いた知られざる女性スパイの活躍を描く実話

20世紀初頭、激動する東アジアの舞台に現れ、その美貌と謀略で人々を魅了し恐れさせた一人の女性がいました

彼女の名は川島芳子(かわしま よしこ)

中国と日本の間で複雑な役割を果たし、最終的にその人生を処刑台の上で終えました
彼女の生涯は歴史の闇に埋もれながらも、未だに多くの人々の興味を引き続けています

「東洋のマタ・ハリ」「満洲のジャンヌ・ダルク」「男装の麗人」と呼ばれた謎の女スパイ・川島芳子について解説いたします


川島芳子の出生

川島芳子の父親は「粛親王(しゅくしんのう)」と呼ばれ、中国が清王朝だった時代の筆頭王族です

粛親王は正妻のほかに4人の側妃を娶り、21人の王子と17人の王女がいました
芳子は第四側妃の娘で、本名は愛新覚羅顕玗(あいしんかくらけんゆ)、14番目の王女として生まれました
生まれた年は定かではありませんが、1906年〜1907年あたりと言われています

芳子が生まれた時期の清王朝は、中国国内の内乱やヨーロッパ列強の侵略によって弱体化していました
1911年に起きた辛亥革命によって、清王朝は危機的な状況に陥り、粛親王の一族も北京から旅順へと逃れることを余儀なくされました

この逃亡の旅を手助けしたのが、粛親王の顧問だった日本人の川島浪速(かわしま なにわ)でした

当時の中国大陸では、様々な野心を抱く「大陸浪人」と呼ばれる日本人たちが活動していました※大陸浪人とは明治から昭和初期頃まで中国大陸各地に居住・放浪して、種々の画策を行った日本人の称。「支那浪人」とも呼ばれる。

川島浪速もその一人で、満蒙独立運動に夢を馳せていました
日本の力を借りて清王朝を復興させようとする粛親王と、大陸で名を上げたい川島浪速の利害関係は一致していたのです

粛親王は川島浪速を日本とのパイプ役とし、その関係を日本政府に強調するために、自分の娘を養女にすることを考えます
そして第十四王女である「顕」(後の芳子)が選ばれたのです
彼女は8歳の時に東京へと渡り、川島浪速の養女となって「芳子」と名付けられました

この養女縁組には、芳子の出生に関する正式な書類が存在せず、口約束のような形で結ばれたと言われています

複雑な家庭環境

養父・川島浪速との関係は、芳子の波乱万丈の人生の始まりとなりました

芳子が女学生だった頃、養父・川島浪速の満蒙独立運動は挫折し、実父・粛親王も亡くなりました
北京に戻ることが叶わなかった芳子は日本に残り、男勝りで活発な少女として育ちました
乗馬や剣道、射撃をこなし、養父・川島浪速からも男らしい姿を好まれ、褒められたといいます

しかし川島浪速は「清王朝の血を引く芳子に、自分の子を生ませたい」という歪んだ欲望を抱いていました
芳子が養父による欲望の犠牲になったのかは不明ですが、この時期の芳子に何かが起きたのは確かです

芳子は日本髪で美しく結い、コスモスの中で写真を撮ったあと、すぐに髪を切り落とし「今日から私は男になる」と宣言したのです

男装の麗人

若い頃の芳子には印象深いエピソードが数多く残っています

友人のためにヌード写真を売ったり、失恋の末にピストルで自殺未遂を図るなど、芳子の胸中には早い段階から深い絶望感があったことがうかがえます

芳子の断髪・男装の姿は日本の新聞に掲載され、瞬く間にマスコミの注目を集めました
取材記者が彼女のもとを訪れるようになり、彼女は「男装の麗人」と呼ばれるようになります
芳子の端正な顔立ちや清朝皇室出身という血筋は高い関心を呼び、多くの女性が彼女を真似て断髪するなど、社会現象を引き起こしました

しかしいくら男になると言っても、芳子は女でした

1927年、21歳になった芳子は政略結婚をさせられます
お相手は、蒙古の勇将バボージャブの遺児・カンジュルジャブでした

川島浪速は満蒙独立と清王朝復活の夢をまだ諦めておらず、その計画の一環として芳子の結婚を利用したのです

伝説の女スパイ

しかし芳子はモンゴルでの暮らしに馴染めず、3年足らずで離婚することになります

日本に帰国した芳子には居場所がなく、孤独感を深め、新たな居場所を求めるようになりました

そして芳子は「上海」という街に惹きつけられます
当時の上海は、ヨーロッパの列強やアメリカ、ロシア、日本などの国々が中国の利権を狙って租界を設置し、夢と欲望が渦巻く街となっていました
様々な人々が上海へと流れ込み、独特な雰囲気を醸し出していたのです

芳子は上海へと渡り、諜報活動に身を投じました

男装をして夜の街を駆け抜け「伝説の女スパイ」としての道を歩み始めたのです

上海でのスパイ活動

1930年、芳子は活気溢れる上海の街へと渡り、運命的な出会いを果たします

諜報活動のプロである、日本陸軍の田中隆吉(たなか りゅうきち)少将です

芳子は愛人関係となった田中隆吉の指示に従い、毎夜ダンスホールに足を運び、日本軍の敵である中国国民党の幹部たちに色仕掛けで接近し、スパイとして活動しました

芳子は「日本が中国を救い、清王朝を復活させる」という夢を信じていました
「清王朝王女の役目」を全うしようと強い決意を抱いていたのです


日本の中国侵略は、1932年の満州国建国という形でより明らかなものとなりました
満州国の皇帝には清王朝のラストエンペラー・溥儀が担ぎ上げられ、芳子は溥儀の妻・婉容を満州に連れ戻す重要な役割を担いました

さらに日本軍は上海での事件を画策
中国人暴徒から日本人を守るという大義名分によって「上海事変」を引き起こします

上海事変は、日本軍と中華民国軍との武力衝突事件です
日本が中国への侵略を本格化させるきっかけとなり、日中戦争の勃発につながりました

この作戦を主導したのが田中隆吉で、芳子もスパイとして重要な役割を果たしたと考えられています

日本軍に利用された芳子

また、芳子をモデルにした村松梢風による小説『男装の麗人』が大ヒットしたことで、華麗な女スパイとしてのイメージが確立されていきます

軍服姿で上海のキャバレーに出入りする芳子の姿は「東洋のマタ・ハリ」「満洲のジャンヌ・ダルク」などと言われ、多くの人々を魅了しました

しかし、実際には芳子が兵を率いて戦ったわけではなく、日本軍の宣伝に利用されていたのです

そして日本の中国侵略が激しさを増す一方で、芳子も次第に利用されていることに気付いていきました

芳子と懇意にしていた女優で歌手の山口淑子(李香蘭)は、以下のような手紙が芳子から送られてきたと、自著で述懐しています

「僕のようになってはいけない。今の僕を見てみろ。利用されるだけされて、ゴミのように捨てられる人間がここにいる」

1935年あたりを境にして、芳子の人生は大きく変化していきます
天津で中華料理店を開きましたが、体の弱さが顕著になり、日本に帰国するたびに奇行が目立つようになります

ホテルや病院などで金銭トラブルやセクハラを訴えて騒動を起こし、次第に周囲との距離が生まれていきました

中国国民政府に逮捕される芳子

日中戦争から太平洋戦争へと拡大した戦争は、1945年の日本敗戦で終結を迎えました

芳子は各地に潜伏していましたが、10月頃に北平でスパイ容疑として中国国民党政府に逮捕されました
そして国賊、売国奴として訴追され、2年後の1947年10月に死刑判決が下されます

芳子は、養父・川島浪速に日本人であることの証明を求めました

自分が日本軍のために働いたことをアピールすることで、中国人ではなく日本人であることを証明しようとしたのです

しかし再審請求は却下され、芳子は絶望の淵に立たされました

獄中では、病弱な体を押して明るい文体の手紙を秘書に送り続けました
寂しがり屋で相手を気遣う性格が、手紙の文面から伝わってきたそうです

また法廷では毅然とした態度を崩しませんでした
自分以外の人を守ろうとし、孤独の中でピエロを演じることでプライドを守っていたのではないかと推測されています

1948年3月25日、芳子は銃殺刑に処されました

しかし2カ月後、日本の新聞で「芳子の生存説」が報じられ、それ以降「川島芳子は生きている」という噂が根強く囁かれ続けています

養父との歪んだ関係、スパイとして活動した上海時代、日本軍に利用された挙句の逮捕、そして謎めいた生存説など、芳子の人生はドラマチックなエピソードに満ちています

「男装の麗人」として注目を集めながらも、彼女の人生は強い虚無感と孤独感に彩られていたのです

参考文献:山崎洋子(1955)『歴史を騒がせた[悪女]たち』講談社

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

20世紀初頭、激動する東アジアの舞台に現れ、その美貌と謀略で人々を魅了し恐れさせた一人の女性がいました

彼女の名は川島芳子(かわしま よしこ)

中国と日本の間で複雑な役割を果たし、最終的にその人生を処刑台の上で終えました
彼女の生涯は歴史の闇に埋もれながらも、未だに多くの人々の興味を引き続けています

「東洋のマタ・ハリ」「満洲のジャンヌ・ダルク」「男装の麗人」と呼ばれた謎の女スパイ・川島芳子について・・・


日中戦争から太平洋戦争へと拡大した戦争は、1945年の日本敗戦で終結を迎えました

芳子は各地に潜伏していましたが、10月頃に北平でスパイ容疑として中国国民党政府に逮捕されました
そして国賊、売国奴として訴追され、2年後の1947年10月に死刑判決が下されます

芳子は、養父・川島浪速に日本人であることの証明を求めました

自分が日本軍のために働いたことをアピールすることで、中国人ではなく日本人であることを証明しようとしたのです

しかし再審請求は却下され、芳子は絶望の淵に立たされました

獄中では、病弱な体を押して明るい文体の手紙を秘書に送り続けました
寂しがり屋で相手を気遣う性格が、手紙の文面から伝わってきたそうです

また法廷では毅然とした態度を崩しませんでした
自分以外の人を守ろうとし、孤独の中でピエロを演じることでプライドを守っていたのではないかと推測されています

1948年3月25日、芳子は銃殺刑に処されました

しかし2カ月後、日本の新聞で「芳子の生存説」が報じられ、それ以降「川島芳子は生きている」という噂が根強く囁かれ続けています

養父との歪んだ関係、スパイとして活動した上海時代、日本軍に利用された挙句の逮捕、そして謎めいた生存説など、芳子の人生はドラマチックなエピソードに満ちています

「男装の麗人」として注目を集めながらも、彼女の人生は強い虚無感と孤独感に彩られていたのです



 

 


男を惑わせる魅力的な女、謎めいている、頭のよい、決然としている女、むろん、残忍、冷酷、意地悪でもあるけれど、それでも人は、胸をときめかせてしまう――そういう女が悪女である
古今東西の、スケールの大きい悪女たちの魅力と、驚くべき生涯を、濃密にいきいきと描く、衝撃の女性人物評伝の第2弾!

十字軍とは

十字軍遠征はなぜ9回も行われたのか?

十字軍とは、主に中世ヨーロッパにおいて、キリスト教諸国が聖地エルサレムをイスラム教徒から奪回するために派遣された遠征軍のことを言う

当時イスラム教徒に支配されていたエルサレムを奪回しようというこの遠征は1096年に第一回遠征が行われ、その後約200年にも渡って繰り返されることになる

途中で何度も目的が変わりながらも繰り返された十字軍遠征は、どのような成果と影響をヨーロッパとイスラム世界に及ぼしたのだろうか

そんな十字軍遠征を簡単に追っていこうと思う

十字軍本来の目的

すでに述べたように、十字軍結成の本来の目的は聖地エルサレムの奪還だった

始まりは11世紀、東ローマ帝国のアレクシオス1世がローマ教皇ウルバヌス2世に援軍を乞うたことに起因する

当時、イスラム王朝のセルジューク朝が勢力を増し、東ローマ帝国を脅かす存在にまでなっていた
勢力を増すイスラム教徒の存在に困ったアレクシオス1世は、ローマ教皇に助けを求めたのだ

そしてローマ教皇は「聖地エルサレムを奪還する」と宣言し、十字軍を結成するに至った

十字軍遠征はなぜ9回も行われたのか?

第一回十字軍遠征は、1096年から1099年の間3年間に渡って行われた
第一回十字軍はフランス諸侯と神聖ローマ帝国の諸侯たちが中心となって結成された

この第一回十字軍は多大な犠牲を払いながらも、見事エルサレムの奪還に成功する

計9回も行われた十字軍遠征の中で、唯一「聖地奪還」という本来の意義を果たした遠征となったのである

なぜ9回も行われたのか
十字軍遠征はなぜ9回も行われたのか?

見事聖地奪還を果たし後も、十字軍遠征はたびたび行われた

聖地エルサレムを奪還した後、シリアを中心とした地域にエルサレム王国が建国され、その周辺地域には十字軍国家が建国されることになる

そうしてしばらくはキリスト教徒とイスラム教徒が中東地域に共存する状態が続くのだが、英雄サラディンの台頭などにより再びイスラム勢力が勢いを増してくるようになるのだ


そして勢力を強めるイスラム教徒に十字軍国家のいくつかは占領され、「聖地エルサレムにて虐げられているキリスト教徒をイスラム教徒から守る」という大義名分のもと再び十字軍が結成されることになる
そうして再び行われた第二回十字軍遠征は、あえなくイスラム勢力に敗北して終わった

このように、イスラム教徒とキリスト教徒の争いが繰り返され、十字軍遠征は三回、四回と続いていくことになるのである

四回目ともなるとすっかり当初の目的は失われていた
「イスラム教徒から聖地エルサレムを奪還する」という宗教的目的はとうに失われ、十字軍の目的はイスラム教徒との領地争いという国際的闘争に発展していたのである

本当の意味で十字軍遠征が目的を果たし得たのは、最初の一回だけだったのである

十字軍が与えた影響

十字軍遠征はその過程において多大な犠牲者と莫大な財政支出をもたらした

そしてキリスト教徒とイスラム教徒の残虐ともいえる争いは、現代に至るまで両者の間に根深い禍根を残すことになる

しかし、十字軍遠征が与えた影響はそれだけではなかった
度重なる支出に各地の諸侯・騎士が没落することになったのである
そして中世ヨーロッパの封建制度は次第に崩壊していき、王権が強化、中央集権化が進むのである
そして力を強める国王に対し、教皇は力を失った

しかし、ヨーロッパ圏とイスラム圏において苛烈な戦いを繰り返したとはいえ、その影響は決してマイナスなものだけではなかった
互いの文化が交流し、そのことがお互いの商業活動に影響を与えることになる

十字軍の影響で盛んになった東西交流は、その後のルネサンスを作り上げる下地ともなったのである

本来の目的から大きく逸脱してしまった度重なる十字軍遠征は、中世ヨーロッパの一つの終わりと、新たな時代を迎えるきっかけの一つともなったのである

最後に

ヨーロッパ世界とイスラム世界、双方に影響を残した十字軍は一方の目線からだけ見るのではなく、双方の目線から見ることでまた違った光景が浮かび上がってくる

十字軍遠征はキリスト教徒にとっては聖地奪還のための聖戦だったが、イスラム教徒にとってはキリスト教徒による一方的な侵略行為であった

また視点を変えて眺めてみるのも面白いかもしれない

参考文献 : 十字軍:ヨーロッパとイスラム・対立の原点

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

十字軍の本来の目的は聖地・エルサレム奪還

奪還の成功は第1回のみ・・・

十字軍遠征はなぜ9回も行われたのか?


本来の目的から大きく逸脱してしまった度重なる十字軍遠征は、中世ヨーロッパの一つの終わりと、新たな時代を迎えるきっかけの一つともなったのである

ヨーロッパ世界とイスラム世界、双方に影響を残した十字軍は一方の目線からだけ見るのではなく、双方の目線から見ることでまた違った光景が浮かび上がってくる

十字軍遠征はキリスト教徒にとっては聖地奪還のための聖戦だったが、イスラム教徒にとってはキリスト教徒による一方的な侵略行為であった

また視点を変えて眺めてみるのも面白いかもしれない


 

 


真のキリスト教王国を打ち立てるという大義を掲げて暴走、中世史を血で染めた十字軍の遠征
イスラム諸国の事情にも目を配り、バランスのとれた視点で歴史現象を解き明かす

彼女は22歳になってすぐに戦争犯罪者として死刑判決を受け、判決が下された数週間後には刑が執行された刑死者・・・

彼女の名はイルマ・グレーゼ

第二次世界大戦時に悪名高きアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で看守を勤めた人物だ
イルマはその美しい容貌に似つかわしくない残虐な嗜好と行いで、多くの収容者を恐怖と絶望に陥れ、死に追いやったといわれている

「アウシュヴィッツのハイエナ」「美しき野獣」「美貌の悪魔」など数々の異名で知られるナチスの女看守、イルマ・グレーゼについて解説していこう


イルマ・グレーゼの生い立ち

イルマは1923年10月7日に、ドイツのプロイセン州にあるパーゼヴァルクという町で生まれた
子どもの頃のイルマはケンカが起こるといつも逃げ出してしまい、周囲の子どもたちからいじめられてもやり返すことができない弱気な少女だったという

13歳の時にイルマは母を亡くしている
父の不倫が原因の自殺であった

その後、15歳で学校を中退してからは農場で働いていたが、ナチスの組織である「ドイツ女子同盟」に共鳴してナチスの思想に傾倒していき、やがて親衛隊のサナトリウム看護師として働き始めた

18歳になると、ラーフェンスブリュック強制収容所で自ら志願して看守になる訓練を受け、1942年に19歳でアウシュヴィッツ強制収容所に配属される


父親はイルマが収容所の看守となることに猛反対していたが、父の意見を無視して看守となったイルマは、1943年の帰省を最後に実家に戻ることはなかったという

アウシュヴィッツ強制収容所の女看守として

イルマはアウシュヴィッツ強制収容所の女性看守の中でも、もっとも美しくかつ残忍だったと言われている

アウシュヴィッツ強制収容所の元収容者のオルガ・レンゲルは、オルガ自身が著した収容所で過ごした日々の回想録『5本の煙突』の中で、イルマについてこう語っている

「イルマ・グレーゼは、きちんと整髪しエレガントな服を身に着けた中背の女性で、彼女の歯は非常に整っており真珠のようで、まさに青い目をした髪の毛の整った『天使』であった。」

「彼女の美しさは際立っていたので、彼女が訪れることは点呼とガス室送りの選別を意味していたにもかかわらず、囚人たちはまったく彼女に見惚れてうっとりとしてしまい、彼女を見て『なんと美しいのだろう』と囁いてしまうほどだった。」

「彼女は自分が存在しているだけで囚人に対して死の恐怖を呼び起こすことができることに喜んでいた。この22歳の女性にはまったく哀れみというものがなかった。」

-『5本の煙突』オルガ・レンゲル著より-

同じく収容所の生存者で囚人医だったジゼラ・ペルル氏は、イルマについて「女性看守の中でもっとも美しく、もっとも残酷で、女性収容者の胸に鞭を振るって負傷させることにより快感を得るようなサディストだった」と語っている

さらにペルル氏の証言では、イルマは飢餓状態の囚人の前に野犬と食料を並べて置いて精神的に虐待したり、ガス室送りが決まった囚人に犬をけしかけたり、射殺したりと、目に余る虐待行為を行っていたという

またイルマは、バイセクシャルかつ多情な女性でもあったともいわれ、「死の天使」の異名で知られる医官ヨーゼフ・メンゲレや、複数の親衛隊員と愛人関係にあった

他にも気に入った収容者なら男女問わずに奴隷として扱い、性的関係を強要していたと元収容者が語っている

マスメディアがイルマに向けた関心と「ベルゼン裁判」

元収容者たちからの証言でも、イルマが美しい女性だったということがわかる
そしてその美貌こそが、彼女の悪評を高める要因ともなった

ナチス崩壊間近の1945年3月、アウシュヴィッツ強制収容所からベルゲン・ベルゼン収容所に異動したイルマは、翌4月にイギリス軍によって逮捕された

収容所で行われた戦争犯罪について調べ始めたイギリス軍調査官は、元収容者たちの非難や告発の声が、特に1人の「美しい女性看守」に向けられていることに気付いた

戦勝国であったイギリスのマスメディアは「美しく残酷なナチスの女看守」としてのイルマに関心を注ぎ、ナチスの残虐性をセンセーショナルに伝え、大衆の憎しみと高揚を煽る材料として扱った

イルマは起訴前に行われた尋問の中でナチス親衛隊が行った残虐行為を一方的に並べ立てられ、なぜこのような行いをしたのかという怒号にも近い問いに対して、毅然とした態度でこう言い返したという

「ドイツの未来を保証するために、反社会分子を絶滅することが私たちの義務でした」

イルマを含むベルゲン・ベルゼン強制収容所の運営関与者の処遇を決める「ベルゼン裁判」が1945年9月に第1回が開かれ、後に11名が死刑判決を受ける

同年11月に死刑判決を受けたイルマの絞首刑は、翌月の12月3日に執行された

死亡時22歳だったイルマは、ナチスの刑死者の中では最年少の人物だった

ハメルンの刑務所内で死の淵に立ったイルマの最期の言葉は、「Schell(早くして)」だったという

イルマ・グレーゼに対する評価の真偽

ベルゼン裁判に関わらず、第二次世界大戦に関わる戦争裁判全般にいえることだが、第三者の意見を取り入れて公平に罪を裁くことが第一の目的ではなく、敗戦国の戦争犯罪者を断罪するための一種の儀式のようなものだっといわれている

イルマについての「美しく残酷で性に奔放な女看守」というイメージも、元収容者やマスメディア側から発せられた情報であり、その信憑性が高いかどうかと問われたら、疑問を感じざるを得ない

いくら上官の愛人説があったとしても、厳格な統率体制で知られたナチス親衛隊において、連絡主任まで出世したはものの、たった20歳そこそこの女看守に好き勝手振る舞える権限が与えられていたのだろうか
そもそもイルマが上官の愛人だっという話にも証拠がない

イルマは弱った収容者に犬をけしかけ噛みつかせていたと言われ、裁判でもその行為について問われたが、イルマ自身は「犬は飼ったことがない」と証言しており、ナチス側の証人もそれを認めている

しかし、裁判でのイルマ側の証言や弁護はほぼ聞き入れられず、イルマは「罪なき収容者を虐待して死に追いやったナチスの美しき野獣」として世間に認知され、戦勝国の手によって死刑に処された

ナチスが行ったホロコーストが許されざるものであることは間違いない
収容者たちが地獄の苦しみを課せられたことも、揺るぎようのない事実だ
イルマ自身も看守として収容者に対して何らかの体罰を課したことは認めている

しかし、アウシュヴィッツの中でもっとも残忍な女看守という評価に関しては、誇張があった可能性は否定できない

人々がナチスと親衛隊に抱いた憎しみに加え、「イルマの美貌に対しての嫉妬」、さらには「世間が美女の裏の顔に向ける好奇心」が、少なからず彼女に下された判決に影響を与えたのではないかと感じずにはいられない

参考 :
加藤一郎 著『イルマ・グレーゼ -「美しき野獣」か「偽証の犠牲者」か 』
レイモンド・フィリップス 編集『ヨーゼフ・クラマーとその他44人の裁判』
オルガ・レンゲル 著『5本の煙突』

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

彼女は22歳になってすぐに戦争犯罪者として死刑判決を受け、判決が下された数週間後には刑が執行された刑死者・・・

彼女の名はイルマ・グレーゼ

第二次世界大戦時に悪名高きアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で看守を勤めた人物だ
イルマはその美しい容貌に似つかわしくない残虐な嗜好と行いで、多くの収容者を恐怖と絶望に陥れ、死に追いやったといわれている

「アウシュヴィッツのハイエナ」「美しき野獣」「美貌の悪魔」など数々の異名で知られるナチスの女看守、イルマ・グレーゼについて


【ナチスの美しき悪魔】イルマ・グレーゼ ~アウシュヴィッツの残酷な女看守・・・


第二次世界大戦に関わる戦争裁判全般にいえることだが、第三者の意見を取り入れて公平に罪を裁くことが第一の目的ではなく、敗戦国の戦争犯罪者を断罪するための一種の儀式のようなものだっといわれている

イルマについての「美しく残酷で性に奔放な女看守」というイメージも、元収容者やマスメディア側から発せられた情報であり、その信憑性が高いかどうかと問われたら、疑問を感じざるを得ない

いくら上官の愛人説があったとしても、厳格な統率体制で知られたナチス親衛隊において、連絡主任まで出世したはものの、たった20歳そこそこの女看守に好き勝手振る舞える権限が与えられていたのだろうか
そもそもイルマが上官の愛人だっという話にも証拠がない

イルマは弱った収容者に犬をけしかけ噛みつかせていたと言われ、裁判でもその行為について問われたが、イルマ自身は「犬は飼ったことがない」と証言しており、ナチス側の証人もそれを認めている

しかし、裁判でのイルマ側の証言や弁護はほぼ聞き入れられず、イルマは「罪なき収容者を虐待して死に追いやったナチスの美しき野獣」として世間に認知され、戦勝国の手によって死刑に処された

ナチスが行ったホロコーストが許されざるものであることは間違いない
収容者たちが地獄の苦しみを課せられたことも、揺るぎようのない事実だ
イルマ自身も看守として収容者に対して何らかの体罰を課したことは認めている

しかし、アウシュヴィッツの中でもっとも残忍な女看守という評価に関しては、誇張があった可能性は否定できない

人々がナチスと親衛隊に抱いた憎しみに加え、「イルマの美貌に対しての嫉妬」、さらには「世間が美女の裏の顔に向ける好奇心」が、少なからず彼女に下された判決に影響を与えたのではないかと感じずにはいられない




 

 


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