江戸時代の「吉原」といえば、格式と華やかさを備えた遊郭として知られている
だが、そのはるか昔、古代中国にもよく似た場があった
文人たちの詩や古い史書に登場する「青楼(せいろう)」である
青楼は、ただの歓楽街ではなかった
教養ある妓女たちが集い、詩や音楽に興じながら、官人や名士たちが語らい合う、文化と社交が交差する洗練された空間だった
もちろん、誰もが気軽に出入りできる場所ではなかった
費用は高く、訪れる者にもそれなりの地位と財力が求められた
青楼という言葉の成り立ちからその制度、そして実際にかかった費用まで、古典や記録をもとにひもといていきたい
「青楼」という言葉の始まり
吉原と同じく、青楼もまた、いつしか「遊女の館」として定着した呼び名である
しかし、その語源をさかのぼると、まるで別の世界が見えてくる
もともと「青楼」とは、帝王の宮殿や貴族の楼閣を指す言葉だった
たとえば6世紀初頭に編纂された、南朝の斉について記した『南斉書』には、こんな記述がある
「世祖興光樓,上施青漆,世謂之青樓」
(世祖が興光楼を建て、上に青い漆を塗ったところ、人々はこれを青楼と呼んだ)
『南齊書・東昏侯本紀』より
つまり「青楼」は、もともとは青く塗られた高楼というだけの意味にすぎなかったのだ
ところが後の時代、南梁の詩人・劉邈(りゅうばく)が「娼女不勝愁,結束下青樓」と詠んだことで、「青楼=遊女のいる場所」という連想が広まり始めた
詩人たちがこの言葉を洒落や比喩として用いるうちに、やがて現実の妓館とも結びつき、現在の意味へと変化していった
その一方で、実態としての「青楼」もまた、時代とともに姿を変えていった
はじまりは、春秋時代(紀元前770年〜紀元前403年ごろ)である
斉国の宰相・管仲(かんちゅう)が、国の財政を支えるために酒や色を制度化し、国家の管理下に置いたことが、青楼の源流とされる
南北朝時代を経て、唐、宋時代のころには、庶民の娯楽とは一線を画した、上流階級のための社交空間へと昇華されていった
青楼で遊ぶには、どれほどの金がかかったのか
格式と文化を備えた空間であるがゆえに、青楼は決して庶民が気軽に立ち寄れる場所ではなかった
とくに南宋以降、その経済的ハードルはさらに高まっていった
たとえば13世紀初頭に著された、南宋の都・臨安(現在の杭州)の暮らしぶりを記した書『武林旧事』には、当時の青楼の様子が詳しく描かれている
この書によれば、客が青楼の門をくぐるには、まず「花茶」と呼ばれる茶を一杯注文する必要があった
これは、いわば入場料のようなもので、その価格は数百文から千文(現在の価値でおよそ2500円〜5000円)にも及んだという
さらに席に着くには、「支酒」と呼ばれる酒を注文しなければならず、それに加えて老鴇(ろうぼう/遊女屋の女主人)への謝礼、給仕や仲介人への心付けも必要だった
こうした一連の出費を合計すると、一般的な遊びでも一〜二十貫文(およそ5万円〜10万円)ほどかかったとされる
だが、これはあくまで「普通」の場合である
もしも名妓を指名すれば、料金は一気に跳ね上がった
たとえば、明代に書かれた長編小説『金瓶梅(きんぺいばい)』では、豪商として描かれる主人公・西門慶(さいもんけい)が、初めて妓楼に足を踏み入れた際、見栄を張って五十貫文(現在の価値で約25万円)を支払ったという場面がある
さらに後には、人気妓女・李桂姐(りけいし)をめぐって二十両の銀子(約二百貫、現代価格でおよそ100万円)を投じたと記されている
もちろん『金瓶梅』の話は物語であり、史実というわけではない
だが、当時の青楼がいかに高額な遊びであったかを知る手がかりにはなるだろう
青楼に通うことは、財力だけでなく、その人の地位や教養までもが試される一種の嗜みでもあった
それは単なる歓楽ではなく、文化と身分を競う舞台でもあったのだ
青楼に咲いた才色と、その儚い行く末
青楼に身を置いた女性たちの出自は、決して一様ではなかった
多くは貧しい家に生まれ、幼くして親に売られた少女たちである
だが一方で、もともと裕福な家庭に育ちながら、家運が傾いて青楼に身を投じる者もいた
南朝斉の名妓・蘇小小(そしょうしょう)はその代表格とされる
教養と美貌を兼ね備えた彼女は、琴・棋・書・画を嗜む才媛であり、家の没落後も誇りを失わず、青楼で気高く生きたと伝えられる
また、明末にその名を馳せた陳円円(ちんえんえん)のように、貧しい出自から抜きん出た美貌と才気によって、青楼の頂点に上り詰めた者もいる
彼女は軍閥の実力者・呉三桂(ごさんけい)との縁によって、やがて歴史の大きなうねりの中にその名を刻むこととなった
こうした女性たちは、単なる「遊女」ではない
才色兼備の女性たちは、文人や政治家たちの社交場の中心で文化を担ったのだ
だが、いかに美しく才に恵まれていようと、青楼に咲く花に永遠はなかった
中には文人や官人、有力な商人に見初められ、妾として迎えられた者もいたが、多くはそのまま余生を過ごし、静かに幕を下ろしていった
華やかな光に包まれた青楼の裏側には、そんな儚さと切なさが、常に横たわっていたのである
参考 : 『南斉書』東昏侯本紀『武林旧事』『金瓶梅』『韓非子』他
文 / 草の実堂編集部
(この記事は草の実堂の記事で作りました)
江戸時代の「吉原」といえば、格式と華やかさを備えた遊郭として知られている
だが、そのはるか昔、古代中国にもよく似た場があった
文人たちの詩や古い史書に登場する「青楼(せいろう)」である
青楼は、ただの歓楽街ではなかった
教養ある妓女たちが集い、詩や音楽に興じながら、官人や名士たちが語らい合う、文化と社交が交差する洗練された空間だった
もちろん、誰もが気軽に出入りできる場所ではなかった
青楼で遊ぶには、どれほどの金がかかったのか
格式と文化を備えた空間であるがゆえに、青楼は決して庶民が気軽に立ち寄れる場所ではなかった
とくに南宋以降、その経済的ハードルはさらに高まっていった
たとえば13世紀初頭に著された、南宋の都・臨安(現在の杭州)の暮らしぶりを記した書『武林旧事』には、当時の青楼の様子が詳しく描かれている
この書によれば、客が青楼の門をくぐるには、まず「花茶」と呼ばれる茶を一杯注文する必要があった
これは、いわば入場料のようなもので、その価格は数百文から千文(現在の価値でおよそ2500円〜5000円)にも及んだという
さらに席に着くには、「支酒」と呼ばれる酒を注文しなければならず、それに加えて老鴇(ろうぼう/遊女屋の女主人)への謝礼、給仕や仲介人への心付けも必要だった
こうした一連の出費を合計すると、一般的な遊びでも一〜二十貫文(およそ5万円〜10万円)ほどかかったとされる
だが、これはあくまで「普通」の場合である
もしも名妓を指名すれば、料金は一気に跳ね上がった
たとえば、明代に書かれた長編小説『金瓶梅(きんぺいばい)』では、豪商として描かれる主人公・西門慶(さいもんけい)が、初めて妓楼に足を踏み入れた際、見栄を張って五十貫文(現在の価値で約25万円)を支払ったという場面がある
さらに後には、人気妓女・李桂姐(りけいし)をめぐって二十両の銀子(約二百貫、現代価格でおよそ100万円)を投じたと記されている
もちろん『金瓶梅』の話は物語であり、史実というわけではない
だが、当時の青楼がいかに高額な遊びであったかを知る手がかりにはなるだろう
青楼に通うことは、財力だけでなく、その人の地位や教養までもが試される一種の嗜みでもあった
それは単なる歓楽ではなく、文化と身分を競う舞台でもあったのだ
青楼に咲いた才色と、その儚い行く末
青楼に身を置いた女性たちの出自は、決して一様ではなかった
多くは貧しい家に生まれ、幼くして親に売られた少女たちである
だが一方で、もともと裕福な家庭に育ちながら、家運が傾いて青楼に身を投じる者もいた
南朝斉の名妓・蘇小小(そしょうしょう)はその代表格とされる
教養と美貌を兼ね備えた彼女は、琴・棋・書・画を嗜む才媛であり、家の没落後も誇りを失わず、青楼で気高く生きたと伝えられる
また、明末にその名を馳せた陳円円(ちんえんえん)のように、貧しい出自から抜きん出た美貌と才気によって、青楼の頂点に上り詰めた者もいる
彼女は軍閥の実力者・呉三桂(ごさんけい)との縁によって、やがて歴史の大きなうねりの中にその名を刻むこととなった
こうした女性たちは、単なる「遊女」ではない
才色兼備の女性たちは、文人や政治家たちの社交場の中心で文化を担ったのだ
だが、いかに美しく才に恵まれていようと、青楼に咲く花に永遠はなかった
中には文人や官人、有力な商人に見初められ、妾として迎えられた者もいたが、多くはそのまま余生を過ごし、静かに幕を下ろしていった
華やかな光に包まれた青楼の裏側には、そんな儚さと切なさが、常に横たわっていたのである
『三国志演義』『水滸伝』『西遊記』と並び称される四大奇書『金瓶梅』
出版四百年を記念して気鋭の研究者が送る新訳決定版
中国古典文学を代表する長編の官能小説
本書は全3巻(上・中・下)の第1巻(上)