メインウェーブ日記

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16戦全勝無敗と凱旋門賞連覇・リボー

(日本の名馬)~コラム(競馬)

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例:日本競馬史上最強馬・シンボリルドルフ

日本近代競馬の結晶・ディープインパクト

(コラム)~コラム(競馬)

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ノーザンダンサー系の今後

(世界のホースマン)~コラム(競馬)

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(日本のホースマン)~コラム(競馬)

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例:史上最強力士・雷電為右エ門

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「土の絶対王者」ラファエル・ナダル選手

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例:「音速の貴公子」「最も速かった」アイルトン・セナ選手

「史上最強ドライバー」ミヒャエル・シューマッハー選手


■各種スポーツ


■その他気になるニュースやスポーツなど

日本のクリスマスの始まりは戦国時代

1549年、日本にキリスト教が伝わり、3年後の1552年12月、日本初の「クリスマス会」が行われていた

クリスマス会で行ったことは、ほぼ現在と変わらなかったようである

シャンパンをあげて「メリークリスマス」と乾杯し、料理を食べ、さまざまな催し物を行なって盛り上がったようである

1560年代になると京都などでもミサが行われるようになる
当時のクリスマス会で特徴的なのは「クリスマス劇」が行われていたということだ

劇の内容も当時の史料にあり、「アダムとイブ」であったと記さている
台本は宣教師のルイス・フロイスが書き、演者は日本人がやっていたそうである

公演はとても人気があり、毎回2000人もの町人や村人が集まり、中には遠方から訪ねて来る者もいたという

聖歌隊なども組織され、まさに本格的なクリスマス会であったといえよう

この時代に起こった珍しい出来事として「クリスマス休戦」がある

「クリスマス休戦」とは、敵味方に分かれて戦っている者たちがクリスマスの間だけは手を取り合い、祝うという一種の停戦協定である

クリスマス休戦で最も有名なのは、第一次大戦時にドイツとイギリス軍の一部で行われたものである

そして日本の戦国時代でも、織田信長と当時敵対していた松永久秀の間で行われた記録が残っている

これには宣教師たちも、驚いたことだろう

近代クリスマスの幕開け、サンタ登場

戦国時代によく行われていたクリスマス会も、江戸時代にはキリスト教禁止令により、姿を消してしまう

記録に再びクリスマスが登場するのは、明治8年、勝海舟の家族がアメリカ人家族とクリスマスパーティーを行ったというものである

クリスマスが一般に広まったのは、明治37年、東京銀座の「明治屋」が店の前にクリスマスツリーを飾ったのがきっかけとされ、これが「クリスマス商戦」の始まりとなった

そして、日本で初めてサンタクロースが登場するのは1900年、「さんたくろう」という小説であった

この物語は、教材として日曜学校などで教えられたそうである

小説『さんたくろう」のストーリーは以下である

ある吹雪の冬の夜、8歳の峰一という少年が生き倒れた旅人を助けた。

必死な看病の結果、その旅人は奇跡的に回復し、峰一の父親は「これは神様のおかげである。君もクリスチャンになるといいよ」と諭す。

その後、その旅人は自分の村に戻っていった。

翌年の春、今度は峰一の父親が病気で倒れてしまった。やがて病気は治ったが仕事を長期間休んでしまったため、お金が無くなってしまった。

皆がクリスマスプレゼントをもらっている中、峰一は自分だけ貰えない状況にがっかりする。

そこに現れたのが去年行き倒れていた旅人だった。

彼はクリスチャンになっており「三田九郎」と名乗り、去年助けられたお礼にと、米俵や洋服、おもちゃなどを大量に枕元においていった。

このストーリーはもちろんフィクションであるが、サンタクロースというよりは「北国のおじさん」という感じがする

ちなみに当時のクリスマスの人気プレゼントは「サンタクロース人形、電気が灯るクリスマス飾りが施された家、タイプライターのおもちゃ」といったものだったようだ

クリスマスの歴史 〜第二次大戦後から現代へ〜

第二次大戦後には治安維持法により、クリスマスが外国の文化であるとして厳しく取り締まりを受けることになる

しかし1950年ごろには朝鮮戦争の特需で好景気となり、一般家庭にもクリスマスが普及する

1960年代に入ると初めてブーツ型のお菓子の詰め合わせが発売されるなど、クリスマスは形やスタイルを変え、現代に繋がっていくことになる

最後に

日本におけるクリスマスは、戦後以降のものではなく450年もの歴史があり、幾多の困難を乗り越えてきたことがわかった

クリスマス会で、ネタのひとつとして話してみてはいかがだろうか

(この記事は、草の実堂の記事で作りました)

クリスマスが戦国時代から始まったのは驚きですね

さらに、この時代に「クリスマス休戦」もあったとは・・・

本記事内の「さんたくろう」(サンタクロースをもじったか)の小説も興味深いですね・・・


日本でクリスマスなどが普及したのは、多くの日本人の無宗教、あいまい・柔軟・融通性のある宗教観にもあると思います

最近では、ハロウィンも一大イベントになっています



 

 


なぜキリスト教信者ではない日本人にとっても、クリスマスは特別行事になっているのか? それは実は、力で押してくるキリスト教文化の厄介な侵入を――彼らを怒らせることなく――防ぎ、やり過ごしていくための、「日本人ならではの知恵」だった!
「恋人たちが愛し合うクリスマス」という逸脱も、その「知恵」の延長線上にあったのだ――キリスト教伝来500年史から、極上の「日本史ミステリー」を読み解こう!

華岡青洲とは

華岡青洲(はなおかせいしゅう)とは、江戸時代の文化元年(1804年)に世界初の全身麻酔を使用した乳癌手術を成功させた医師である

華岡青洲の手術の成功から約40年後に、欧米で初めて全身麻酔が行われている

手術によって患者の苦しみを和らげ、人の命を救いたいと考えた華岡青洲は、麻酔薬の開発を始めて研究を重ねた結果、6種類の薬草に麻酔効果があることを発見した

世界初の全身麻酔を使った乳癌手術を成功させ「医聖」と呼ばれた華岡青洲について解説する


出自

華岡青洲は、宝暦10年(1760年)紀伊国那賀郡名手荘西野山村(現在の和歌山県紀の川市西野山)の医師・華岡直道の長男として生まれた
諱は「震(ふるう)」、字は「伯行」、通称は「雲平」だが、ここでは一般的に知られる号の「青洲(せいしゅう)」と記させていただく

青洲の祖父・雲仙翁が初めて医師を業とし、父・直道は松本家の娘・於継と結婚し、華岡家の家業である医師を継いだ
青洲は幼い頃より才知が優れ見識もあったが、なにぶん田舎のために師友に乏しく、最新の医学を学ぶことが出来なかった

そこで青洲は天明2年(1782年)京都に遊学に出ることにした

京都では吉益南涯に古医方を3か月学び、大和見水にカスパル流外科を1年間学ぶ
更に、見水の師・伊良子道牛が確立した「伊良子流外科」を学び、その後も長らく京都に留まり医学書や医療器具を買い集めた


青洲は学識を磨くこと数年間、寝食を忘れて没頭するほどであったという

そこで悟ったのは、世の中の医者の論じるところは古い方法に閉じこもり、古い医学書に馴染むばかりで、これを活かすことが出来ないということ
また内科・外科に分けて合一するという理法を知らないことなどであった

これでは、病気を治し長患いを救うことは出来ないということに至ったのである
青洲がその中で特に影響を受けたのが、永富独嘯庵の「漫遊雑記」であったという

そこには乳癌の治療法の記述があり「欧州では乳癌を手術で治療するが、日本ではまだ行われておらず、後続の医師に期待する」と書かれていた

このことが後の青洲の伏線となるのである

麻酔薬の開発

乳癌を根治するほど大きく切るには、患者が受ける耐え難い痛みを解決しなければ不可能であった
青洲は、麻酔法の完成こそが癌治療を進歩させる最重要の課題だと考えるに至った

天明5年(1785年)2月に青洲は帰郷して父・直道の後を継いで開業した
「手術での患者の苦しみを和らげ、人の命を救いたい」と思った青洲は麻酔薬の開発に着手する

青洲は色々な薬草を研究した結果、曼荼羅華の実(チョウセンアサガオ)、草烏頭(そううず・トリカブト)を主成分とした6種類の薬草に、麻酔の効果があることを発見した
そして動物実験を重ねて麻酔薬の完成までこぎつけたが、人体実験を前に青洲は行き詰まる

動物実験では良い効果を得られていても、いざ人体で実験するとなると大きなリスクが生じる恐れがあるからだ
するとなんと青洲の実母・於継と妻の加恵が自ら実験台となることを申し出たのである

青洲は苦悩するが、覚悟を決め実験台となってくれた母と妻に、数回に渡って人体実験を行った

母・於継は残念ながら亡くなってしまい、妻・加恵は失明してしまったが、大きな犠牲な上に全身麻酔薬「通仙散」、別名:麻沸散(まさつふん)を完成した
※母と妻が人体投与試験に参加したことを裏付ける資料は見つかっていない

青洲は中国の医師・華侘の医術を意識しており、通仙散の別名:麻沸散とは華侘が使ったとされる麻酔薬の名である

享和2年(1802年)9月には、青洲は紀州藩主・徳川治宝に謁見して士分に列し帯刀を許されている

世界初の全身麻酔手術

青洲は文化元年(1804年)10月13日、大和国字智郡(現在の奈良県)五條村の60歳の女性に、通仙散による全身麻酔での乳癌手術を行い成功する
※ただ、この女性は手術を受けた時にはすでに末期症状で手術の4か月後に亡くなった

これは、1846年にアメリカのウィリアム・T・G・モートンが、ジエンチルエーテルを用いた麻酔の手術よりも40年以上も前であった

青洲の前にも中国の医師・華侘や、インカ帝国、琉球で麻酔手術が行われたという伝承はあるが、いずれも詳細は不明となっており、実例として証明された全身麻酔の手術はこれが世界初だとされている

この噂はあっという間に広がり、青洲のもとには乳癌の手術を希望する人たちが多数訪れ、青洲に入門を希望する者も続出したという

青洲が乳癌の手術を行った患者は143人で、術後の生存期間が判明する者だけを集計すると最短で8日、最長で41年、平均すると約3年7か月となる

また、青洲は乳癌だけではなく膀胱結石、壊死、痔、腫瘍摘出術など様々な手術を行い、オランダ式の縫合術やアルコール消毒なども行っている

青洲の医術

文化10年(1813年)青洲は紀州藩の「小普請医師格」に任用されるが、青洲の願いによってそのまま自宅で治療を続けても良いという「勝手勤」を許されている
文政2年(1819年)には「小普請御医師」に昇進し、天保4年(1833年)には「奥医師格」となった

青洲の医塾「春林軒(しゅんりんけん)」では、1000人を超える門下生を育て上げた

青洲は常に「内外合一活動窮理」を唱え、日本伝統の漢方医学と外国から伝わったオランダ医学を区別せず、机上の空論ではなく実験や実証を重んじることを弟子たちに説いた

青洲が完成させた麻酔薬「通仙散」の配合は、弟子の本間玄調の記録によると、曼荼羅華が八分、草烏頭が二分、白芷(びゃくし)が二分、当帰(とうき)が二分、川芎(せんきゅう)が二分であった

これを細かく砕き、煎じて滓(おり:沈殿したもの)を除いたものを温かいうちに飲むと、2~4時間で効果が現れた
だが、やや毒性が高かったらしく、その扱いは相当難しかったという

しかも曼陀羅家華のどの部分を利用したのかなど、それぞれの正確な調合分量は記録されておらず、通仙散の現物も残されていない

青洲の弟子からは、本間玄調・鎌田玄台・館玄竜・熱田玄庵・三村玄澄といった優れた外科医が輩出されている

その中でも特に優れていたのが本間玄調で、膝静脈瘤の摘出などの手術を行い医術についての著作も残したが、著作の中で青洲から教わった秘術を無断で公開したために破門となっている
しかし青洲は医術の詳細を書物に書き残さなかったため、本間玄調の著作は今日青洲の医術の実態を知る上で貴重な資料になっている

青洲は秘密主義的な面を持っており、門下生たちに対して「通仙散」の製造方法を友人や家族にすら教えてはならないという血判まで提出させていたという

天保6年(1835年)10月2日に青洲は家人や多くの弟子たちに見守られながら76歳で死去した

青洲の後は次男・修平が継いだ

おわりに

華岡青洲は、世界初の全身麻酔薬「通仙散」の開発に成功し乳癌手術を成功させたが、その開発には人体実験に協力してくれた「実の母の死と妻の失明」という大きな代償があった

青洲の死後から84年たった大正8年、その功により正五位を追贈された

昭和27年には外科を通じて世界人類に貢献した医師の1人として、アメリカ合衆国のシカゴにある国際外科学会付属栄誉館に祀られた

その後、昭和41年に出版された有吉佐和子の小説「華岡青洲の妻」がベストセラーになったことで、それまで医学関係者の中だけで知られていた華岡青洲の名前は、一般に知れ渡ることになったのである

(この記事は、草の実堂の記事で作りました)

華岡青洲 ・・・世界初の全身麻酔手術を成功させた「医聖」とも呼ばれた医師である

なんと欧米より40年以上前だという


青洲の医術・・・

彼は、膀胱結石、壊死、痔、腫瘍摘出術など様々な手術を行い、オランダ式の縫合術やアルコール消毒なども行っている

弟子からは、本間玄調・鎌田玄台・館玄竜・熱田玄庵・三村玄澄といった優れた外科医が輩出されている
(あの「解体新書」を訳した杉田玄白も弟子なんですね)

その中でも特に優れていたのが本間玄調で、膝静脈瘤の摘出などの手術を行い医術についての著作も残したが、著作の中で青洲から教わった秘術を無断で公開したために破門となっている
しかし青洲は医術の詳細を書物に書き残さなかったため、本間玄調の著作は今日青洲の医術の実態を知る上で貴重な資料になっている
(破門となりましたが、彼の公開の功績(表現が正しいかは分からないが・・・)も大きいですね)


華岡青洲は、世界初の全身麻酔薬「通仙散」の開発に成功し乳癌手術を成功させたが、その開発には人体実験に協力してくれた「実の母の死と妻の失明」という大きな代償があった

青洲の死後から84年たった大正8年、その功により正五位を追贈された

昭和27年には外科を通じて世界人類に貢献した医師の1人として、アメリカ合衆国のシカゴにある国際外科学会付属栄誉館に祀られた

その後、昭和41年に出版された有吉佐和子の小説「華岡青洲の妻」がベストセラーになったことで、それまで医学関係者の中だけで知られていた華岡青洲の名前は、一般に知れ渡ることになったのである

彼は、日本が誇る外科医の一人ですね




 

 


江戸後期、世界で初めて全身麻酔による手術に挑んだ紀州の名医青洲
一人の天才外科医を巡る嫁姑の凄まじい愛の争奪
テレビドラマ化、舞台化の定番、人気不動の一冊

世界最初の全身麻酔による乳癌手術に成功し、漢方から蘭医学への過渡期に新時代を開いた紀州の外科医華岡青洲
その不朽の業績の陰には、麻酔剤「通仙散」を完成させるために進んで自らを人体実験に捧げた妻と母とがあった――
美談の裏にくりひろげられる、青洲の愛を争う嫁と姑、二人の女の激越な葛藤を、封建社会における「家」と女とのつながりの中で浮彫りにした女流文学賞受賞の力作
詳細な注解を付す
 

 


著者の「華岡青洲」研究の集大成となる一冊
本書は,著者が2015年以降に発表した論考をまとめたもので,華岡青洲の医の哲学,医の思想を示すと信じられてきた「内外合一活物窮理」や「麻沸散」についてなど,従来の定説、通説を覆す多くの論考を主題別にまとめる
どの章から読み始めてもよいという利点があり、各省の冒頭には「要約」を記し,各節の「要旨」を一括して示す章も独立して設けることで、全体を容易に短時間で把握理解することができる

水野勝成とは

水野勝成(みずのかつなり)という武将のことを知っていますか?

水野勝成は徳川家康の従弟でありながら「戦国最強の武将」「戦国一の傾奇者」「戦国一の自由人」「戦国一の猛将」「戦国一の親不孝者」「鬼日向」などと評された人物だがなぜかあまり知られてはいない

戦国最強の武将と言えば有名なのは、武田信玄・上杉謙信・立花宗茂・真田信繁(幸村)
戦国時代一の傾奇者と言えば、前田慶次
戦国一の猛将と言えば柴田勝家・前田利家・後藤又兵衛などである

水野勝成は上記の武将に比べても引けを取らないほど、その暴れん坊振りが全国的に知れ渡り、流浪した国々でも高い禄高で名だたる大名に懇願された

数々の有名大名に召し抱えられるも問題を起こしては放浪を繰り返し、傾奇者として名を馳せ、大坂の陣では大将なのに先陣を切って一番槍をあげ家康に怒られる

その後、大名となりすばらしい治世で領民に愛され、余りの強さゆえ75歳を過ぎても戦に呼ばれたという、戦国一破天荒で面白すぎる人生を歩んだ水野勝成について解説する


水野勝成の生い立ち

水野勝成は永禄7年(1564年)8月15日鷲塚城主・水野忠重の長男として三河国刈谷に生まれる
生まれた場所は岡崎で生まれたという説と、鷲塚で生まれたという説もある

勝成の父・忠重は徳川家康の母・於大の方の弟なので家康と勝成は従弟同志である

父・忠重は最初は織田信長に仕えていたが、後に一緒に仕えていた兄と仲互いして岡崎城主の家康に仕え、鷲塚城を賜る
その後、忠重は三河一向一揆の鎮圧で戦功を挙げ、徳川二十将の一人に数えられた

勝成は幼少の頃から剣術に励み、16歳の時の天正7年(1579年)武田勝頼との高天神城の戦いで初陣を果たす

天正8年(1580年)父・忠重は、織田信長の家臣・佐久間信盛の追放後に刈谷城を与えられ、刈谷3万石の大名となる

勝成は奥田城や細目城を任され、同年からの第2次高天神城攻めで兜首15を挙げ、織田信長から感状と刀を与えられた

水野勝成の暴れん坊振り

天正10年(1582年)本能寺の変の時には、勝成は父と共に京の二条城におり、東福寺に3日隠れるなどして難を逃れ刈谷城に戻る

父・忠重は織田信雄に仕えたが、勝成は父に許しを得て家康の家臣となった

この後、勝成は家康の下で天正壬午の乱で甲斐に出陣し、黒駒の戦いで北条氏忠の陣を攻める

戦力的には圧倒的な不利の中で、勝成率いる水野勢は約300の首を挙げている

天正12年(1584年)家康vs秀吉の小牧・長久手の戦いでは父・忠重の陣に加わり、目が痛いという理由で兜をかぶらず鉢巻きで一番首を取り、家康に届けた

以後は家康と共に戦い、この戦いで勝成は井伊直政と武勇を競い武功を挙げる
勝成はこの後の蟹江城の戦いでも伊賀忍者と共に九鬼船二艘を乗っ取り、大将格の首を挙げる

父の部下を斬り殺し勘当される

しかし、伊勢の桑名城での陣中で、父・忠重の部下から素行の悪さを報告された為にその部下を切り殺してしまった
そしてこれに激怒した父から奉公構(他家への仕官禁止)とされて勘当されてしまう
この時、勝成は21歳であった

勝成は虚無僧や姫谷焼の器職人となって清州城近くの寺にこもるが、父の探索が入り親戚を頼って美濃・尾張と流れた後に京に入る

京でも虚無僧や器職人をしながら南禅寺の山門に寝泊まりして生活するも、荒っぽい気性は変わらず多くの喧嘩をして何人も殺してしまうのだ

秀吉陣営に仕えるも知行を捨て逃亡

その後、織田信雄のつてで羽柴秀吉から摂津豊島郡の神田728石を与えられ、勝成は秀吉の家臣になる

秀吉の下では紀州の雑賀攻め・四国征伐において武功を挙げ、秀吉の家臣・仙石秀久の家中に加わり知行も授かったが、その後、知行を捨てて中国地方に逃亡し「六左衛門」という偽名を名乗るようになる

はっきりした理由は不明だがこの時、勝成には秀吉から刺客が放たれたとされる
何かをやらかしたことは間違いない
ちなみにこの時期には父・忠重も秀吉の家臣となっていた(仕えていた織田信雄が秀吉と講和し臣下となったため)

この頃、勝成は暴れん坊の無頼漢だけではなく書画・能・謡などにも堪能さを見せ「傾奇者」としても名を馳せる


佐々成政に召し抱えられる

天正15年(1587年)勝成は肥後隈本(熊本)城主・佐々成政に1000石で召し抱えられると、肥後国人一揆で一番槍を挙げ、その後も数々の武功を挙げる

戦国最強の武将とも言われた立花宗茂の軍を助けたこともある

黒田家に使えるも出奔

佐々成政の代わりに入った小西行長が肥後を領すると、勝成は豊前領主・黒田官兵衛に仕え、武勇で知られる後藤又兵衛と殿(しんがり)を担うなどの働きをする

戦国一の猛将二人が、後の大阪の陣で雌雄を決することになるとはつゆ知らずに

官兵衛が隠居すると息子の黒田長政に仕えて大坂城に一緒に行くが、途中の船旅で勝成は鞆の浦で突然下船し、姿をくらました

この時、勝成は大坂城で秀吉に会うと殺されると思って出奔したという説と、長政から水夫の手伝いをせよと言われて腹が立ったからだという説がある

小西行長、加藤清正、立花宗茂に仕えるも出奔

天正18年(1588年)には小西行長に1000石で仕え、天草五人衆の反乱では副将を務めて数々の武功を挙げる

その後は、加藤清正・立花宗茂へと仕官先を変えるも、いずれも出奔してしまうのだ

勝成は出奔前の織田信長・徳川家康の後から、豊臣秀吉・千石秀久・佐々成政・黒田官兵衛・黒田長政・小西行長・加藤清正・立花宗重と、天下に知られた大名8名に召し抱えられたことになる

放浪→食客→出奔→食客

その後、約6年近く浪人として暮らし備中の鶴首城主・三村親成の食客となるが、茶坊主の態度が無礼だと切り殺して出奔する
しかし、翌年には三村親成の食客として復帰する

この時に勝成の世話をしてくれた於登久(おとく)との間に嫡男となる水野勝俊が生まれる

父と和解

慶長3年(1598年)秀吉が亡くなると勝成は妻子を残して京に出て、家康と謁見して家臣となり、家康のとりなしで父・忠重と14年振りに会い和解する

家康の家臣としては勝成の妹・かな姫が家康の養女となって加藤清正と結婚し、加藤家とも親戚となるほど家康の信頼を得る

父、忠重の死

慶長5年(1600年)の会津征伐に家康と共に向かうと石田三成が挙兵し、父・忠重が加賀井重望から西軍に誘われるが拒否をすると口論となり、忠重は殺害されてしまう
加賀井重望もその場ですぐに討たれた

その知らせを聞いた勝成は刈谷城に戻り、三河国刈谷3万石の家督を継ぐ

鬼日向

関ヶ原の戦いでは、勝成は家康の命で大垣城の備えとされたために本戦には参加していないが、大垣城を降伏させて開城させるという武功を挙げる

慶長6年(1601年)勝成は従五位下・日向守に叙任されるが「日向守」は謀反人・明智光秀が付けていた官名だったので誰もが嫌がった

しかし、勝成は「そんなのは馬鹿な縁起かつぎだ」と笑い飛ばして受けたためにその後、勝成のことを人は「鬼日向」と称した

慶長13年(1608年)勝成は備中から妻子を呼び寄せ、嫡男・勝俊は徳川秀忠に仕える

慶長19年(1614年)の大阪冬の陣では、勝成は勝俊と共に参陣するも目立った戦いの機会が無かった

大将のくせに一番槍

翌年の慶長20年(1615年)大阪夏の陣では大和口の先鋒大将に任じられる

勝成の性格を良く知る家康から「大将たる者自ら先頭を切って戦ってはならない」と釘を刺されていた

2万の軍勢を率いた勝成の前に大坂方の軍勢が立ちはだかるが、その軍を指揮するのはかつて黒田家で一緒に殿を務めた後藤又兵衛だった

血がたぎった勝成は家康の忠告を無視して、自ら一番槍をつけて後藤軍と戦う

水野軍は激闘の末に後藤軍をせん滅させ、後から援軍に来た大坂方の軍も打ち破る

翌日の天王寺口の戦いでは、真田幸村軍が家康の本陣に突撃すると勝成は真田軍の退路を断つ

松平忠直軍が明石掃部軍の猛攻で総崩れになると、勝成は松平軍を?咤激励しながら明石軍を撃退し、大坂城桜門に一番旗を掲げた

暴れん坊から名君に

大坂夏の陣の活躍で戦功第二位とされた勝成は、3万石を加増されて大和郡山6万石に移封となる

しかし、勝成は敵の首97をあげたのに評価が低いと腹を立てる
周りも同様に過小評価と考えていたようだ
これは勝成自身が一番槍をあげるなどで家康の機嫌を損ねたのが原因とも言われる

勝成はもっと多くの知行を期待していたが、2代将軍・秀忠から「父、家康が隠居した後に10万石にする」と諭されている

元和5年(1619年)福島正則が改易した後に、勝成は4万石を加増され10万石となって備後福山に移封となる 

福山城の工事を始めて天守5層・3重櫓7基もある巨大な城を建築した

これは当時の武家諸法度で新城建築が禁じられていた中で、異例の措置であったようだ
それだけ幕府にとっても重要な人物として特別に扱われていたことが伺える

三村親成に恩返し

その後、勝成は浪人中にお世話になった三村親成を高禄で家老に迎え恩を返す
三村親成はこの当時は没落していたが、勝成が放浪中に2度も面倒を見てくれ嫁も娶らせてくれた恩人である
自分が出世した後にきっちり恩を返したのだ

勝成は浪人時代の人脈を生かして、他にもお世話になった在地領主や郷士らを積極的に登用した

優れた治世

荒れていた神社・仏閣の修理や再建を行いながら、新田開発、産業振興、城下町の建設、上水道綱の整備、瀬戸内海の海上交通の発達などを行った

また、家臣たちからは誓詞も取らずに法度もなく、目付を配置して監視をするなどもしなかったが、なぜか家中には不思議と問題が起きなかった

長い放浪の生活によって庶民の気持ちや家臣の気持ちが理解できたために、農民一揆なども一度も起こらずに名君と呼ばれた

岡山藩主の池田光政も勝成を「良将の中の良将」と称えたほどである

島原の乱

寛永15年(1638年)勝成75歳の時に島原の乱が起こる

勝成は鎮圧に幕府からの要請を受け、九州以外の大名では唯一の出陣命令が下る
これは勝成の戦歴と経験が請われたからである

すぐに6000の兵を率いて到着した勝成は、大将の松平信綱に軍議で原城への総攻撃を勧める。壮絶な戦いの末3日後に水野勢は原城本丸を攻略した

しかし島原の乱での活躍を幕府に余り評価されなかったことに不満を持った勝成は、翌年家督を嫡男・勝俊に譲って隠居した

隠居料として与えられた1万石を勝成は自分のために使わず、領内のために使ったとされる

隠居して禅の修行

寛永20年(1643年)に勝成は京の大徳寺で1年間禅の修行をする

その後、勝成は87歳になった時でも鉄砲を的に的中させるなど周囲を驚かすが、慶安4年(1651年)3月15日、88歳で死去した

ドラマで扱われないのが不思議な人物

水野勝成は若い時から気性が荒く、喧嘩早くてすぐに刀を抜き、高禄で召し抱えられてもすぐに出奔

そんな勝成は「倫魁不羈(りんかいふき)余りに凄すぎて誰にも縛りつけることはできない」とまで称された

一方では文化人として美人画・文学・俳諧・和歌・連歌・能楽・笛などを好み、本当の傾奇者と言われる

初代福山藩主になると産業を発展させ、10万石の土地を実質30万石クラスの豊かさにした名君として領民や家臣から愛される

天下に武勇が知られた猛将であり、生き様もバラエティーに富み破天荒で、最後はハッピーエンドという、まさにエンタメの主人公にピッタリな人生を送っているのに、なぜかドラマや時代劇などでは取り扱ってはもらえない人物が水野勝成なのだ

(この記事は、草の実堂の記事で作りました)

水野勝成という武将はあまり知らずですね

しかし、徳川家康の従弟でありながら「戦国最強の武将」「戦国一の傾奇者」「戦国一の自由人」「戦国一の猛将」「戦国一の親不孝者」「鬼日向」などと評されたユニークな魅力ある人物です

その暴れん坊振りが全国的に知れ渡り、流浪した国々でも高い禄高で名だたる大名に懇願された

数々の有名大名に召し抱えられるも問題を起こしては放浪を繰り返し、傾奇者として名を馳せ、大坂の陣では大将なのに先陣を切って一番槍をあげ家康に怒られる

その後、大名となりすばらしい治世で領民に愛され、余りの強さゆえ75歳を過ぎても戦に呼ばれたという、戦国一破天荒で面白すぎる人生を生きた人物です


若い時から気性が荒く、喧嘩早くてすぐに刀を抜き、高禄で召し抱えられてもすぐに出奔

そんな勝成は「倫魁不羈(りんかいふき)余りに凄すぎて誰にも縛りつけることはできない」とまで称された

一方では文化人として美人画・文学・俳諧・和歌・連歌・能楽・笛などを好み、本当の傾奇者と言われる

初代福山藩主になると産業を発展させ、10万石の土地を実質30万石クラスの豊かさにした名君として領民や家臣から愛される

天下に武勇が知られた猛将であり、生き様もバラエティーに富み破天荒で、最後はハッピーエンドという、まさにエンタメの主人公にピッタリな人生を送っているのに、なぜかドラマや時代劇などでは取り扱ってはもらえない人物が水野勝成なのです


私は、ユニークで魅力的人物と感じましたが、あまりにも自由すぎる・破天荒すぎる傾奇者ぶり、主君を次々と変える出奔の繰り返しなどが「一貫性のなさ」「忠義のなさ」ともとらえられたのかも・・・


彼には、人柱に関する話もあります

「元和5年(1619年)、水野勝成が備後国福山(現在の広島県福山市)に福山城を築いていた頃の伝承では、「明朝、最初に城の前を通った者」を人柱にすると決めたという
翌朝、最初に通りかかったのは、魚売りの久松という男だった
久松は承知して埋められ、残された妻子には城主から手当が出たと伝えられる
福山城は1622年ごろに完成し、正式には久松城と呼ばれた・・・」
とある


 

 


戦塵にまみれること六十年、七十五にしてなお現役!

父親に勘当され、秀吉と諍いを起こし、諸国を彷徨った、神君家康の従兄弟・水野勝成
だれにも縛り付けることができない「倫魁不羇」と称され、敵からは「鬼日向」と恐れられた戦国最強の武将の波乱の生涯を描く、書下ろし歴史小説

十六歳での初陣から七十五歳で参陣した島原の乱まで六十年、戦国の乱世を鑓一本で駆け抜けた水野勝成
刈谷城城主の父から勘当された勝成は、豊臣秀吉から知行を授かるが、諍いを起こし逃亡するはめに
西国を放浪する勝成は、小西行長、佐々成政、黒田孝高ら名だたる武将に仕えるが・・・
敵から「鬼日向」と恐れられ、武辺一辺倒だった勝成が、福山藩十万石開祖の名君として称えられるまでを描く歴史小説

福井県の丸岡城に、お静という女性の伝説が残っている

天正四年(1576年)、柴田勝家の養子、柴田勝豊が城を築こうとしたが、石垣を何度積み直しても崩れたため、人柱(ひとばしら)を立てるほかないという話になった

人柱とは生きた人間を土の中に埋め、神に捧げることで工事の成功を祈る風習だ
そこで名乗り出たのが、城下に暮らす貧しい片目の女、お静だった

お静が出した条件は1つだけだった
「自分を埋めるかわりに息子を武士に取り立ててほしい」というのである

話はまとまり、お静は石垣の下に埋められ、城はようやく完成した

ところが勝豊はまもなく他の領地へ転封となり、息子を武士にするという約束は果たされなかった
以来、お静の怨霊は毎年春の堀の水を溢れさせ、城下に雨を降らせたという

「お静の涙雨」という伝説である


人柱に選ばれたのは、弱い人間だった

人柱伝説は全国にある
城や橋、堤防などの大きな建造物では、工事が難航すると「人を埋めれば治まる」という話が語られてきた

興味深いのは人柱の選び方だ

元和5年(1619年)、水野勝成が備後国福山(現在の広島県福山市)に福山城を築いていた頃の伝承では、「明朝、最初に城の前を通った者」を人柱にすると決めたという

翌朝、最初に通りかかったのは、魚売りの久松という男だった
久松は承知して埋められ、残された妻子には城主から手当が出たと伝えられる

福山城は1622年ごろに完成し、正式には久松城と呼ばれた

江戸時代の伝承では、米子城下を流れる加茂川の堤防が何度も決壊したため、翌朝最初に通りかかった者を人柱にすることになった
翌朝、最初に現れたのは猿回しの男で、男は連れていた猿とともに土手に埋められ、その場所は「猿土手」と呼ばれるようになったと伝えられている

「最初に通りかかった者」というルールは、一見すると無作為に見える

だが実際に伝説の中で選ばれるのは、行商人や使い走り、旅芸人など、共同体の周縁にいる者たちであることが多い
お静もまた、貧しく、しかも片目の女として語られている

志願したにせよ偶然にせよ、人柱として埋められるのは、いつも社会的に弱い側だった

江戸城から骨が出た日

ここまで見てきたのは各地に残る伝説である
では人柱は実際にあったのだろうか

大正12年(1923年)の関東大震災は、江戸城にも被害を与えた
その翌々年、二重櫓の修復工事が始まると、地中から16体の人骨と古銭が発見され、新聞は「人柱発見か」と書きたてた

民俗学者の南方熊楠は、世界各地の人身御供の例を引きながら、こうしたことがあっても不思議ではないと述べた
さらに歴史学者の喜田貞吉も、1925年の論考『人身御供と人柱』で、伏見櫓の下から出た人骨を人柱として論じている

だが、この発見をそのまま人柱とみることはできない
伏見櫓の下には、築城以前に寺院の墓地があったとする見方があり、出土した人骨もその埋葬者だった可能性が高いからである

人柱伝説は全国に残るが、発掘によってそれを裏づける物証が出る例はきわめて少ない
考古学的に「これは人柱だ」と確定できる事例は、国内ではほとんど確認されていないのが実情である

なぜ伝説だけが残ったのか

証拠がないのに伝説は全国にある
この食い違いをどう考えるべきなのか

ひとつ言えるのは、巨大な建造物にはそれにふさわしい物語が必要だったということだ

城や橋、堤防の建設現場では、事故や疫病、過酷な労働によって命を落とした者が実際にいた
そうした無名の死者の記憶が、「人柱」という物語のかたちで土地に残された可能性はあるだろう

そして、その物語を語り継いできた人々がいたことだけは確かである

参考文献 :
礫川全次編著『生贄と人柱の民俗学』批評社、1998年
小松和彦責任編集『怪異の民俗学 7 異人・生贄』河出書房新社、2022年
文 / 村上俊樹 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は、草の実堂の記事で作りました)

人柱・・・
これは、生きた人間を土の中に埋め、神に捧げることで工事の成功を祈る風習だ

人柱伝説は全国にある
城や橋、堤防などの大きな建造物では、工事が難航すると「人を埋めれば治まる」という話が語られてきた


人柱伝説は全国に残るが、発掘によってそれを裏づける物証が出る例はきわめて少ない
考古学的に「これは人柱だ」と確定できる事例は、国内ではほとんど確認されていないのが実情である

なぜ伝説だけが残ったのか

証拠がないのに伝説は全国にある
この食い違いをどう考えるべきなのか

ひとつ言えるのは、巨大な建造物にはそれにふさわしい物語が必要だったということだ

城や橋、堤防の建設現場では、事故や疫病、過酷な労働によって命を落とした者が実際にいた
そうした無名の死者の記憶が、「人柱」という物語のかたちで土地に残された可能性はあるだろう

そして、その物語を語り継いできた人々がいたことだけは確かである


人柱に選ばれたのは、弱い人間だったようだ

本記事のように、悲しく、せつない「お静の涙雨」という伝説もある



 

 


大正14年(1925)皇居(江戸城)二重櫓の下から多数の白骨死体が発掘され、にわかに「人柱」論争が巻き起こった
南方熊楠・柳田国男・中山太郎の人柱論といった強烈な個性で知られる民俗学者の「人柱論」をとおして日本文化の基層を探る
 

 


民俗学の古典のみならず幅広い分野から重要論考を集成、日本の怪異・妖怪文化の多様さ・奥深さを明らかにした画期的シリーズを新装復刊共同体の外部と暗部を浮き彫りにする第7巻

「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」は、歴史上の悪名高い言葉としてよく知られている

この発言をしたとされるのがフランス王妃マリー・アントワネット(1755‐1793)であり、彼女は高慢で民衆の痛みを知らない上流階級の象徴のように語られがちである

当時のフランスはフランス革命前夜で、財政危機や不作、重い税負担によって民衆は飢えに苦しんでいた
そんな時にこのような発言をしたら、民衆たちの怒りが爆発するのも当然である

だが、ここで歴史的事実を指摘しておかなければならない

マリー・アントワネットがこのような発言をした記録はないのだ

そもそも発言の出所はどこなのか?

「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」、正確には「それならばブリオッシュを食べればいいじゃない(Qu’ils mangent de la brioche)」という言葉は、フランスの哲学者ジャン=ジャック・ルソーの自伝『告白』に由来するとされる

同書には、ルソー自身がパンを手に入れられなかった際、「それならばブリオッシュ(菓子パンの一種)を食べればいいじゃない」と言った、ある高貴な姫君の話を思い出す、というエピソードが描かれている

ただし、その発言者は「ある高貴な姫君」と記されるのみで、具体的に誰であるかは明らかにされていない
ルソーも実名を挙げておらず、この逸話が実在の誰を指すのかは特定できない

さらに重要なのは『告白』が第1部6巻と第2部6巻からなる全12巻構成で、このエピソードが登場するのは6巻である点である
この部分は1765年ごろに書かれたと考えられており、刊行はそれより後になる

その1765年ごろ、マリー・アントワネットはまだ9歳前後で、フランス王家に嫁ぐ前である
当時はテレジア家のオーストリア皇女として教育を受けていた幼少期であり、婚約者も決まっていなかった

フランス人哲学者の著書に出てくる「ある高貴な姫君」候補にするには無理があるだろう

なぜマリーは汚名を着せられたのか?

以上のことから、この発言についてはマリー・アントワネットは冤罪である可能性が極めて高いと考えられる

しかも彼女は、多少の散財こそあったものの、慈善的な側面もあったとされる
宮廷儀礼の簡素化を進め、厳冬の際には貧民救済のために自らの楽しみを控えたとも伝えられている
そうした面を踏まえると、単純に「民衆の苦しみを知らない王妃」とは言い切れない

では、なぜ彼女は言ってもいない言葉の汚名を着せられたのだろうか

諸説あるが、その大きな理由の1つとして考えられるのが、彼女がオーストリアから嫁いだ王妃だったことである

フランスとオーストリアは、17世紀前半からマリーがフランス王家に嫁ぐ1770年までの100年あまりの間に、6度にわたって戦争を繰り返してきた

三十年戦争の一部(1635年 – 1648年)
仏蘭戦争(1672年 – 1678年)
大同盟戦争(1688年 – 1697年)
スペイン継承戦争(1701年 – 1714年)
ポーランド継承戦争(1733年 – 1735年)
オーストリア継承戦争(1741年 – 1748年)

当時の戦争は、休戦を挟みながら長期に及ぶことが珍しくなかった
極端な例としては、1339年から1453年までイギリスとフランスの間で続いた百年戦争がある

そうした長い対立の歴史を思えば、オーストリアのハプスブルク家から嫁いできた彼女に対するフランス国民の心証が良かったとは考えにくい
フランス革命のなかで民衆のスケープゴートとされ、汚名を着せられた可能性は十分にある

マリー・アントワネットの一般的なイメージといえば「高慢で民衆の痛みを知らない上流階級の悪女」と「革命に散った悲劇のヒロイン」の2つだろう

実際には後者の方が実情に近く、「スケープゴートにされた悲劇のヒロイン」だったのかもしれない

参考文献:
出口 汪『名言の真実』Antonia Fraser『Marie Antoinette: The Journey』他
文 / ニコ・トスカーニ 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は、草の実堂の記事で作りました)

マリー・アントワネットは悪女とされることが多い
(一方で悲劇のヒロインとされることも)

マリーアントワネットの悪女説は「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」との彼女が言ったという発言にあるという

この発言は、ルソーの自伝「告白」にあるとされる

しかし、ルソー自身は「高貴な姫君の発言」とし、マリー・アントワネットの発言とはいっていない

この自伝は、彼女の結婚前の幼い頃に出ており、彼女の発言とされるのは無理がある

民衆の苦労を顧みない発言と怒りを買ったというが、なぜ彼女の発言とされたのか?

それは、フランスと彼女の母国オーストリアとの長き対立関係にもある

フランス人は、オーストリアに好意的な印象があまりなく、それが「民衆の苦労を顧みないマリー・アントワネット発言説」につながったようだ


マリー・アントワネットの一般的なイメージといえば「高慢で民衆の痛みを知らない上流階級の悪女」と「革命に散った悲劇のヒロイン」の2つだろう

実際には後者の方が実情に近く、「スケープゴートにされた悲劇のヒロイン」だったのかもしれない


この例のように、名言(!?)などの発言や逸話は、間違って伝わったり、拡大解釈されたり、曲解されることなどもある


 

 


名言は“ざんねん”だった

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」(福沢諭吉)――平等な世の中を目指す言葉のようですが、『学問のすゝめ』では「実際には格差があって、それを生むのは学問をしたかどうか」だといっています
つまり、「負け組になりたくなければ勉強しろ!」という意味で、平和や平等とはなんのつながりもない“名言”だったのです
「天才は1%のひらめきと99%の努力(汗)」(エジソン)――これを「努力はこんなにも大事なのだ」と解釈するのは間違い
のちにエジソン自身が「汗を流せばなんでも成功するわけではない。1%のひらめきを無視してはならない」と強調しています
このように、名言や格言、ことわざなどの前後をひもといて、真意を明らかにしていきます
あなたがあいさつなどで引用していたあの名言、じつはまったく違う意味だったかもしれません

それはとても信じがたい光景だった
骨と皮ばかりに痩せこけた女性が、排泄物で汚れたベッドに鎖でつながれ、まわりには腐った食べ物が散乱し、ネズミが走り回っていたという

この人物が、かつてフランスで絶世の美女のひとりだった女性とはとても思えなかった

匿名の通報がなければ、ブランシェ・モニエは窓もない真っ暗な屋根裏部屋で死んでいたことだろう
モニエは、彼女の交際相手が気に入らないという理由から、実母に25年間、外に出ることも許されず閉じ込められていたのだ

ブランシェのこの事件は、史上もっとも恐ろしい強制監禁事件のひとつで、事件発生から1世紀以上たった現在でさえ、その悲劇が語り継がれている

交際相手が気に入らなかった母親

1876年、ブランシェ・モニエが25歳のとき、ひとりの男性と出会い結婚を望んだ
しかし、ブランシェの母親はその男が気に入らなかった
貧乏だからだ

未亡人である母親は、自分の美しい娘が金持ちの男と結婚することに異様に執着していた
モニエ家は貴族の家系である

結婚相手は、これまでと同じようなハイレベルな生活が維持できるくらいの資産家で、絶対に裕福な年配男性でなくてはならなかった

しかし、ブランシェは、母親が選んだ男とは結婚しない、お金よりも愛を選ぶと断言していた

母親の手により屋根裏部屋に監禁される

ところがその後、ブランシェは忽然と姿を消してしまった

実は、母親と息子のマルセルが、ブランシェを屋根裏部屋に監禁して、窓をふさぎ、ベッドに鎖で縛りつけていたのだ

ブランシェが抵抗して泣き叫ぶ声を聞いた近所の人たちに疑われないよう、娘は気がふれたと説明していた

ブランシェは死んだということにして、表向きは悲しんでいるふりをして、母と息子はまるで彼女が存在しなかったかのように生活を続けた

しかし、実際には彼女は同じ家の中の南京錠のかかった部屋に閉じこめられて、じわじわと朽ち果てつつあったのだ

25年後。変わり果てた姿でようやく保護される

ブランシェが鎖でつながれた悲惨な状態で発見されたのは、彼女が50歳のときだった
排泄物の中で寝て、食事は使用人が投げ入れた残飯のみ
まったくかえりみられることなく、発見時、彼女の体重は、わずか25キロほどしかなかったという

ずっと暗闇の中にたったひとり捨て置かれ、栄養失調状態で、まわりには、腐った残飯が散らかり、ブランシェ自身を食い物にするネズミやゴキブリがうごめくだけ

ブランシェは徐々に精神を病み、きちんとしゃべる能力も失われていった

1901年5月23日、パリの弁護士事務所は妙な手紙を受け取った

司法長官殿、謹んで重大な出来事についてお知らせ申し上げます。ある独身女性がモニエ夫人の家に25年間も監禁されています。飢えた状態で、腐って悪臭を放つゴミの中で、彼女自身の汚物にまみれて生きているのです

モニエ家は貴族の家系として敬われていたため、警察は半信半疑だったが、とりあえず捜査が行われた
これが、事件発覚につながった

南京錠のかかったドアが発見され、踏み込んでみると、すぐに締め切った密室の異臭が鼻をついた


目撃者のひとりは語る

私たちはすぐに窓を開けるよう命じました。これがまた大変な作業でした。暗い色の古びたカーテンからは、大量の埃がシャワーのように落ちてきて、雨戸を開けるのに、右側の蝶番から取り外さなくてはならなかったのです。

部屋に光が差し込むと、すべてが明らかになりました。吐き気がするほど汚らしい毛布を頭からかぶって、ベッドに仰向けに横たわった女性がいたのです。この女性こそ、かつて社交界でもてはやされたブランシェ・モニエその人でした。

この悲惨な女性は、腐った藁のマットレスの上に全裸で横たわっていました。まわりには排泄物や肉、野菜、魚、腐ったパンなどの残骸がカチカチに固まったものが堆積していました。

マドモアゼル・モニエのベッドのまわりにはカキの貝殻が散乱し、ゴキブリが走り回っていました。空気は淀んで息が詰まるほどで、悪臭は耐えがたく、そこに長く留まって調査を続けることすらできないくらいでした

精神病院で亡くなるまで、会話能力は戻らなかった

母親と息子は逮捕された
瀕死の状態だったブランシェは、25年間、暗闇の中にいたせいで太陽光に怯えたが、すぐさま病院に運ばれた

驚いたことに、ブランシェはそれから10年以上生きたが、1913年、ブロアの精神病院で亡くなった
最後まで完全にしゃべることができるようにはならなかったという

母親は逮捕されてから15日後に刑務所の中で亡くなり、弁護士だったマルセルは、15ヶ月の実刑判決を不服として、精神障害という法的な抜け道を利用して、まんまと罪を逃れたそうだ

(この記事は、カラパイアの記事で作りました)

おぞましい監禁事件ですね

実母も自分の生活レベルを維持したいからといって、結婚に反対し、娘を25年間も監禁するとは・・・

 

25年間の監禁は、美貌のルックスを恐ろしい形相に変えていました

なお、匿名の告発の手紙は、母と共犯の兄ではといわれています

良心の呵責があったのか・・・母が死んでから1人で面倒を見るのがいやだったのか・・・


驚いたことに、ブランシェはそれから10年以上生きたが、1913年、ブロアの精神病院で亡くなった
最後まで完全にしゃべることができるようにはならなかったという

母親は逮捕されてから15日後に刑務所の中で亡くなり、弁護士だった(兄の)マルセルは、15ヶ月の実刑判決を不服として、精神障害という法的な抜け道を利用して、まんまと罪を逃れたそうだ

病気や身体障碍を原因として、人とは異なる身体的特徴を持つ人々を見世物にするフリークショー

今では炎上間違いなしのエンターテイメントだが、遅くとも中世頃から始まったフリークショーは、19世紀後半から20世紀の初頭にかけて欧米で大流行した

しのぎを削る興行主たちはショーの花形となる人物を求めて、様々な方法で外見的に特異な特徴を持つ人々を集めた
より衝撃的な外見を持つ人材を見つけるために、コンテスト形式でオーディションを行うこともあったほどだ

メアリー・アン・ビーヴァンは、フリークショー全盛期の時代に彼女自身の身体的特徴を利用して「世界で最も醜い女性」の地位を勝ち取った女性である

コンテストでの優勝により大衆の好奇心の的となったメアリーは、多数のフリークショーに出演して多大なる収益を稼ぎ出した

しかし女性にとって、外見の醜さは大きなコンプレックスになり得る
それなのになぜ、メアリーは率先して「世界で最も醜い女性」を決めるコンテストに立候補したのだろうか

彼女が自ら醜い怪物として見世物となる人生を選んだのは、母としての偉大な愛が彼女を突き動かしたからだった


美しかった容姿が病気により醜く変化

メアリー・アン・ビーヴァンは1874年12月20日、イギリスロンドン東部のプレイストウで、労働者階級だったウェブスター家の8人兄弟の1人として生まれた
明るく天真爛漫な少女だったメアリーは、やがて聡明で美しい女性へと成長する

大人になり看護師として働くようになったメアリーは、トーマス・ビーヴァンという男性と出会い、29歳の時に結婚した
2男2女に恵まれて幸せに暮らしていたが、2つの不幸がメアリーに襲い掛かった

1つ目の不幸は結婚してから間もない32歳頃に、メアリーが先端巨大症(アクロメガリー)という難病を患ってしまったことだ
先端巨大症は顔面が変形するとともに、手足などの体の先端が肥大化していくという、成長ホルモンの過剰生産を要因として発症する病気だ

先端巨大症は外見を変化させるだけではなく、病気が進むにつれて頭痛や視力障害、関節痛や手のしびれなど様々な症状を患者にもたらす

メアリーも外見の著しい変化とひどい頭痛、視力の低下に悩まされ、周りからの偏見の視線や心ない言葉にも苦しめられた

夫が急逝して経済的に困窮

当時の医療技術では先端巨大症を治療することはできず、メアリーは夫のトーマスや子どもたちと支え合いながら暮らしていたが、2つ目の不幸がビーヴァン家を襲った

1914年、トーマスが脳卒中で急死してしまったのだ

愛する夫を突然失い、幼い4人の子どもを抱えるシングルマザーとなったメアリーは、病気が原因で割の良い仕事に就くこともできず、窮地に立たされてしまった

子どもたちを育てるためにはまとまった収入が必要だ
金策と職探しに奔走するメアリーは、とある新聞広告に目を止めた

それはアメリカのサーカスエージェントが掲載した「世界で最も醜い女性コンテスト」の候補者を募集する広告だった

コンテストの優勝者には賞金が支給され、さらにはサーカスとの契約も約束されているという

自分を苦しめている容姿の醜さが、収入に繋がるかもしれない
メアリーは「子どもたちのためなら手段など選んでいられない」と覚悟を決めて、広告の掲載元に自らの写真を送ったのだ

最も醜い女性としてフリークショーのスターに

こうしてメアリーは「世界で最も醜い女性コンテスト」で見事に優勝を勝ち取り、賞金を手にした

はじめこそ自らの外見を見世物とすることに抵抗があったが、週給10ポンドの給金、旅費の全額支給、子どもたちの教育資金の提供を条件にサーカスと契約し、フリークショーへの出演を決めた

1920年になると、アメリカの大物興行師、サミュエル・W・グンペルツから声がかかり、メアリーはニューヨーク市ブルックリンのコニーアイランドにあった遊園地、ドリームランドのフリークショーに出演するために渡米し、数多くの出演者たちを押しのけて花形スターとして活躍することとなる

そしてそれからの2年間で、メアリーは2万ポンドを稼ぎ出した
1920年当時の2万ポンドは現在の50万ポンドに相当し、日本円に換算すれば現在のレートで約9830万円に相当するというのだから驚きだ
当時のフリークショーはそれほど人気のある一大エンターテイメントだった

メアリーと4人の子どもたちは離れて暮らす生活となったが、子どもたちを皆寄宿学校に通わせて、衣食住に困らない生活と十分な教育を与えることができた
子どもたちから送られてくる手紙を読む時が、メアリーにとって最も幸福なひと時だったという

メアリーの人気は衰えることなく、アメリカの有名サーカス「リングリングブラザーズ ワールドグレイテストショー」にも出演し、そこでも注目の的となった

愛する子どもたちを自らが稼ぎ出した収入で養っているという事実は、メアリーに母としての誇りと自信を与えた
子どもたちの幸せを思えば、たとえ観客から心無い言葉や嘲笑を浴びせられても、取るに足らないことだったという

永遠の眠りに就き祖国に帰ったメアリー

祖国を離れてアメリカに渡ったメアリーがヨーロッパに帰ったのは、1925年に開催されたパリ万博に参加するための一時期だけで、生涯ドリームランドで過ごしフリークショーに出演し続けた

1933年12月26日、メアリーは59歳で亡くなった

生前子どもたちに「祖国であるイギリスに埋葬してほしい」という遺言を残しており、その希望通りロンドン南部のブロックリー&レディウェル墓地で年明けの1月2日に葬儀が行われ、安らかな眠りに就いた

メアリー・アン・ビーヴァンは、世界一と認められた醜い容姿と、世界一美しい親心を持っていた女性だった

ハンデを逆手に取り、愛する我が子らを守り育て抜いたメアリーの逸話は、100年の時が経った今も語り継がれている

参考文献
レスリー・フィードラー (著), 伊藤俊治 (翻訳), 旦敬介 (翻訳), 大場正明 (翻訳)
『フリークス ―秘められた自己の神話とイメージ― 新装版』

(この記事は、草の実堂の記事で作りました)

見世物は、私が幼少の頃も日本で祭りなどの時にありましたね

今では「大問題」なども必至でしょうが、当時は世界的に見世物が流行っていました

病気や身体障碍を原因として、人とは異なる身体的特徴を持つ人々を見世物にするフリークショーなども・・・

本記事から私は、以前観た映画「エレファントマン」を想起しました

なんともいえない複雑な感情・思いを抱きました


メアリー・アン・ビーヴァンは、(病気のため)世界一と認められた醜い容姿と、(子供を思いやる)世界一美しい親心を持っていた女性だった

ハンデを逆手に取り、愛する我が子らを守り育て抜いたメアリーの逸話は、100年の時が経った今も語り継がれている



 

 


不滅の20世紀表象文化論

おぞましいと排除され、珍奇として見世物に供され、翻ってはまた、聖なる存在と崇められたフリークス
文学・美術はもとより、心理学や人文諸科学のさまざまな領域に影の主役の如く君臨するフリークス
そして、己の内なる幻想と欲望の投影としてのフリークス――

草食動物は草を主に食べているのに、なぜあれほど大きな体や筋肉を維持できるのか、不思議に思ったことがある人も多いだろう

その仕組みを支えているのが、発達した消化器官と体内の微生物である
草に含まれる繊維は、そのままでは利用しにくいが体内で分解されることで栄養へと変わっていく
草食動物は、そうして得た栄養をもとに体を作っているのである

また、草食動物は絶対に草しか口にしないわけではない
ごく稀にではあるが、死肉や小動物を口にしたり、鳥の巣を襲ったりする例も報告されている

神話や伝承の世界においては、そうした異様さがさらに誇張され、人間を喰らう怪物として語られることもあった

そんなおぞましい「人食い草食動物」たちの伝承を見ていきたい


牛のケース

神話の世界において、牛はもっともポピュラーな人食い草食動物といえよう

代表的なものに、ギリシャ神話に登場するミノタウロス(Minotaur)が挙げられる

この怪物は、クレタ島の王ミノスの妻パシパエが、ポセイドンの呪いで牡牛と交わったことで誕生したとされる
その姿は牛の頭に人間の体という、この上ない異形であった

非常に獰猛な性格であり人肉を好んだため、王ミノスは工匠に命じ迷宮を作らせ、そこにミノタウロスを閉じ込めた

その後ミノスは、9年ごとにアテナイから7人の少年と7人の少女を貢納として差し出させた
(アテナイは災厄に見舞われ、クレタとの和解条件として若者たちを送ったとも伝えられる)

だがある時、テセウスという青年が迷宮に乗り込み、ミノタウロスを退治したことで生贄が捧げられることはなくなったという

鹿のケース

播磨国(現在の兵庫県南西部)の地誌『峯相記』には、凶悪な人食い鹿にまつわる伝説が記されている

昔々、安志(あんじ)という地の山奥に、伊佐々王(いざさおう)なる大鹿が棲んでいたそうだ。

その全長は6mほど、両角は7つに枝分かれし、禍々しい姿をしていた。
さらに背には笹が生え、足には水かきがあり、その目は太陽のようにぎらぎらと輝いていたという。

伊佐々王は人間を餌とみなし、数千頭の鹿を従えて人里を襲い続けていた。
あまりにも被害が多く出たため、帝の命により播磨の国中から兵士が集められ、伊佐々王の討伐隊が結成された。

討伐軍との戦いで、伊佐々王は地面がえぐれるほど暴れ狂ったが、やがて力尽き「このあと消ゆることなかれ!」と叫んで息絶えたとされる。

この穴だらけになった土地は後に「鹿ヶ壺」と呼ばれるようになり、なかでも最も大きな穴は、伊佐々王が死んで横たわったときにできたものだと伝えられる。

最後の言葉の通り、痕跡は消えることなく残り続けたのである。

馬のケース

人は馬肉に舌鼓を打つが、逆に馬もまた、人を美味いとばかりに食らうことがある

有名なものに「ディオメデスの人食い馬」が挙げられるが、他にも世界各地には人を食った馬の伝承が残されている

19世紀の英語文献には、インドのアワド王国の首都ラクナウに、恐るべき怪馬がいたという逸話が見える
その馬はアドミー・カナワラ(Admee-Kanawallah)と呼ばれる栗毛の牡馬で、人間を手当たり次第に襲って食い殺す、凄まじく凶暴な馬として語られている

この馬の話を聞いたアワドの王は非常に興味を持ち、ペットの虎と戦わせることを決めた
そしていざ戦いが始まると、アドミー・カナワラは虎の顎を粉砕し、敗走させた
王はこの馬をいたく気に入り、部下に命じて巨大な檻に入れて飼わせたという

こうしてアドミー・カナワラはラクナウの名物となり、一生を檻の中で過ごしたとされる

日本における人食い馬といえば、小栗判官の愛馬、鬼鹿毛(おにかげ)が名高い

小栗判官といえば、歌舞伎や浄瑠璃などの伝統芸能で語られる、伝説上の人物である

ある時、小栗は照手姫という女性と結婚することになった
これを快く思わなかったのが、照手姫の叔父である横山大膳であった

大膳は小栗を抹殺すべく、鬼鹿毛が飼われている馬小屋へ彼を案内した
鬼鹿毛は恐るべき人食い馬であり、馬小屋は犠牲者の骨や髪が散乱する、地獄のような様相であったという

鬼鹿毛は小栗を見るや、今にも食らいつかんばかりであった
だが小栗は動じることなく、「己の馬となれば、死後は仏として祀る」と説き聞かせた

すると鬼鹿毛は涙を流し、小栗をその背に乗せることを許したという
その後も小栗と照手姫はなお多くの難に見舞われるが、数々の試練を経て、ついに結ばれた

この場面は伝統芸能で「碁盤乗り」として知られ、今なお名場面として演じ継がれている

人食い草食動物の伝承は、ただの奇談ではなく、身近でおとなしいはずの生き物が牙をむくことへの不気味さを語り継いだものだったのかもしれない

参考 : 『ヘシオドスの断片』『峯相記』『The Private Life of an Eastern King』
文 / 草の実堂編集部

(この記事は、草の実堂の記事で作りました)

おとなしいはずの草食動物が怪物に・・・

本記事では、世界に伝わる人食い「草食」動物の怪異伝承に触れた

草食動物といっても、彼らは稀に死肉、小動物などを食らうこともあるという

このことが誇張され、人食い草食動物の怪異伝承が生まれたと思われる

人食い草食動物では、ミノタウロスなどが有名です

草食動物が肉を食らうこともあるという「衝撃」が人食い草食動物の怪異伝承につながったのかもしれないですね
(私の認識では、人食い草食動物はいないはず)

ちなみに草食動物は、胃が肉食動物より長いという
(消化の関係)



 

 


ホメロスと並ぶ最古の叙事詩人ヘシオドスが唱いあげるギリシア諸神の系譜
宇宙の始源、太古の神々の生誕から唱い起こし、やがてオリュンポスの主神ゼウスが、凄惨な戦いののち、ついに世界の統治者として勝利と栄光を獲得するに至るまでを力強く物語る
ギリシア神話、宇宙論のもっとも基本的な原典
 

 


竜といった想像上の生き物や、古今東西の文学作品に登場する不思議な存在をめぐる120のエッセイを紹介
古今東西の幻獣を掲載

はじめに

1996年(平成8年)山梨県において一つの病気が終息したこと告げる宣言がなされました

その病気の名は「地方病」、またの名を「日本住血吸虫」と呼ばれるものです

この日本住血吸虫、長きに渡り原因不明の奇病として甲斐(現在の山梨県)の国を恐怖のどん底に陥れ、感染すれば最後
決して治ることは無いと言われていたほどの病気でした

また、戦国最強と言われた武田信玄もこの奇病に感染していたのでは?と思われる部分があり、実際に武田家の家臣がこの病により死去しています

つい少し前までの日本でも見られたこの「日本住血吸虫」
その恐るべき生態と甲府に住む多くの人を死に至らしめた悲劇の歴史に迫ります


日本住血吸虫とは

ヒトを含む哺乳類全般の肝門脈(肝臓部付近の血管)内に寄生する寄生生物の一種です

この生物は最初、宿主動物の糞便とともに排出された卵が水中で孵化し、「ミラシジウム」と呼ばれる幼体となるのですが、この時点ではまだ哺乳類に寄生する能力はありません

このミラシジウム、最初に巻貝の一種である「ミヤイリガイ」という貝に寄生し、「スポロシスト」と呼ばれる生物へと進化します

さらにスポロシストはミヤイリガイ内部にて進化を遂げ、長く先端が二又に分岐した尾を持つ「セルカリア」という生物に変身
セルカリアはミヤイリガイ内部を破り出ると、水中を泳ぎ最終宿主なる哺乳類を探します

その後、宿主となる哺乳類を見つけたセルカリアは寄生行為を開始するのですが、恐ろしいことにこのセルカリア、通常の寄生生物による経口感染と違って、なんと相手の皮膚から侵入して寄生することが出来るのです

皮膚から血管内に侵入したセルカリアは宿主の肝臓付近の血管に寄生し、成虫へと進化

成虫は宿主の血管内に1日約3000個の卵を産卵し、宿主の血管機能を破壊していきます

寄生された宿主は様々な症状と障害を引き起こし、最終的には宿主の腹部は「太鼓腹」と呼ばれるほど膨張し、死に至ります

主な有病地

「日本住血吸虫」という名前ですが日本固有の疾患という訳ではなく、現在もアジアを中心とした国々で見られている病気です(※病名および原虫に日本の国名が冠されているのは、成体を発見したのが「日本が世界初」だったからである)

その歴史は古く、紀元前2世紀の中国前漢時代の長沙国の太守であった利蒼の妻が疾患していたことが判明しています

さて、一方の日本でもこの病気は古くから伝わっており、現在の山梨県、福岡県、佐賀県、広島県でも症状が見られていました
特に山梨県の甲府盆地周辺の被害は凄まじく、地元民はこれを「地方病」と呼び忌み嫌い、「流行地には娘を嫁に出すな。」という俗諺が生じていたほどでした

感染すると腹部が膨張することから「水腫脹満(すいしゅちょうまん)」、「はらっぱり」、などとも呼ばれていた「地方病」は、少なくとも近世の段階ですでに甲府盆地で広く流行していたものと考えられています

またこの病気の有病地から分かることは、全て住血吸虫が生息しやすい水源地帯であることが分かります

武田家と住血吸虫

甲斐国の戦国大名として名高い武田家の武将も、この病気で苦しめられていたことが軍学書である「甲陽軍鑑」の記述から分かります

甲陽軍鑑によれば武田二十四将の一人と称される小幡豊後守昌盛が重病のため土屋昌恒を通して当主である武田勝頼のもとへ暇乞いに来る場面があり、この中に積聚の脹満(しゃくじゅのちょうまん)と書かれた記述があります。

この時、武田家は滅亡寸前の時期であり、武田勝頼一行が本拠地である新府城を捨てて岩殿城へ向かう途中立ち寄った甲斐善光寺門前で、歩くことすらままならない小幡昌盛が勝頼に暇乞いを申し出た場面と言われています

また、ここからは悪魔でも筆者個人の推測なのですが、戦国最強とも言われた有名な武田信玄はこの住血吸虫に感染していたのではないかと考えています

武田信玄の死因に関しては様々な説があるのですが、気になったのが信玄の侍医である御宿友綱(みしゅくともつな)が小山田信茂に当てた書状で

肺肝に苦しむにより、病患たちまち腹心にきざして安んぜざること切なり。華佗の術を尽くして、君臣佐史の薬を用いるといえども業病さらに癒えず

と信玄の健康状態が記されており、この「肺肝」という部分が「肺」なのか「肝臓」を指すのかが気になります
もし「肝臓」であるなら住血吸虫の成虫が寄生する部分です

次に「病患たちまち腹心にきざして」の部分なのですが、住血吸虫の産卵により血管障害がおこり信玄の腹部の内臓に異変が起きていた可能性も考えられます
しかし、住血吸虫の特徴である「水腫脹満」の症状が記されていないので違う可能性もありえます

また、信玄が死去する1573年(元亀4年)5月の一ヶ月前の衰弱症状に「口中に“はくさ”が出来、歯が5つ6つ抜けて、それより次第に弱ってきた。すぐに死脈が打ち始めた」と報告されていますが、これも血管障害による口中内部の壊死ではないかと筆者は考えています

甲府盆地を覆う住血吸虫の被害

戦国の世も終結し、日本は天下泰平の江戸時代を迎えるわけですが、甲斐の国の住民は死の恐怖に怯えながら暮らすこととなります

江戸時代の年貢米制度により米の需要は増々増えたため、甲府盆地に住む多くの農民も稲作に励むことになるのですが、逆にこれが住血吸虫の潜む水田に接触する機会を一気に増やしてしまい、結果として感染者も激増させてしまいます

地元民たちは土地に異変があるのでは?と考えるわけですが、封建社会である江戸時代においては簡単に移転、職業を変えることもままならず、農民として田畑を切り開かなければなりませんでした

また、この奇病で亡くなる者はほとんどが稲作に携わった貧しい農民たちであったので、幕府や役人たちもほとんど関心を示しませんでした
そのため甲府盆地に生まれた貧しい農民たちはこの奇病を「運命」であるとして受け入れるしかなかったのです

地元民たちが奇病を「運命」として受け入れてから約2世紀が過ぎ、世が幕末と呼ばれるころには甲府盆地周辺は正に地獄と化していました

このころには甲府盆地の悲惨さが以下のように歌われています

嫁にはいやよ野牛島(やごしま)は、能蔵池葭水(のうぞういけあしみず)飲むつらさよ

竜地(りゅうじ)、団子(だんご)へ嫁に行くなら、棺桶を背負って行け

中の割(なかのわり)に嫁へ行くなら、買ってやるぞや経帷子に棺桶

江戸の世も終わり、時代が明治へと進むと、次第に一部の甲府の住民たちは村を捨てることを本気で考え始めるようなります

1874年(明治7年)11月30日、甲府盆地の南西端に程近い宮沢村と大師村の2村を束ねる村長は、もはや村の存続は不可能であると考え、離村を決意
村の嘆願書を明治政府に提出します

しかし、まだ政権が樹立したばかりの明治政府にとって、一村移転などという住民運動は当然認められませんでした
しかし、住民たちはその後も粘り強く離村陳情書を提出し続けたため、明治も終わりに近づく約30年後に、その願いは聞き届けられました

こうして宮沢村と大師村は廃村となるのですが、甲府の地にて住血吸虫の脅威が去った訳ではなく、その後も死傷者は出続けることとなります

奇病の解明へ
1881年(明治14年)8月、甲府盆地に住む住民たちより原因調査を依頼する請願書が山梨県令へと提出されます

請願書には

原因は皆目判らず。水だろうか、土だろうか、それとも身体に原因があるのだろうか。嗚呼悲しきかな、困苦見るを忍びず。

と書かれており、その悲痛さが分かります

一方、明治政府も徴兵検査を行ったところ、甲府盆地に住む青年のほとんどが栄養失調状態であり何かしらの障害を抱えていることに気付きます

また、当時の明治政府は国策として富国強兵に励んでいたので、この病気が蔓延することに危機感を抱きます
この事態を重く見た政府は本格的に奇病の調査を開始しますが、手掛かりは掴めません

行政による原因解明が滞る中、山梨在住の医者である吉岡順作は奇病が水そのものと関係していることに注目し、死亡患者の解剖を試みますが、日本独自の穢れ思想と恐怖心もあってか多くの住民から解剖を反対されます

しかし、甲府住民である「杉山なか」という女性が「もう自分の命は長くは持たないから自分の体を使って欲しい」と志願します
この勇気ある行動に吉岡と県医師会は涙を流して感謝しました

なか氏の遺体を解剖した結果、彼女の肝臓は肥大し、表面に白い斑点が多数点在するのを発見

これを見た医師の一人である三神三朗 は「新種の寄生生物による病」であることを確信し研究を進めますが、正体不明の寄生虫による肝臓肥大の疾患の因果関係を導き出すことに難航します

そんな中、三神の討論会に参加していた桂田富士郎は三神の意見に興味を抱き、研究に参加します
二人は患者に下剤を施したところ糞便に多くの虫卵が見られるも、成虫が全く見つからないことに血管内部に寄生するタイプの生物であると疑います

その後、三神が飼っていた飼いネコが寄生されてしまったため、止む無くネコを解剖し調べたところ、アルコール液に保存しておいたネコの肝門脈内から約1センチほどの新種の寄生虫の死骸を発見します

三神と桂田は他の感染していると思われるネコを解剖し、肝門脈をしらべたところ32匹もの生きた寄生生物を発見
これにより桂田と三神はこの寄生虫が全ての原因であることを証明し、これら新種の寄生生物を「日本住血吸虫」と命名します

しかし、この日本住血吸虫については、まだこの段階では多くの謎を残したままでした

感染経路とミヤイリガイの発見

日本住血吸血虫の発見に成功したものの、まだ解明できていない2つの謎がありました

それは、「感染経路」と「中間宿主」の正体でした

甲府盆地では昔から「能蔵池葭(葦)水飲むつらさよ」と民謡に歌われたように、飲料水が感染経路であると考えられていました
そのため、飲み水は全て煮沸してから飲むようにと住民たちに厳命を下しますが、住血虫の被害は一向に収まりません

そこで1909年(明治42年)6月、牛を使った一つの実験が行われました
まずグループを二つに分け、1つのグループは牛に与えるエサは全て煮沸したものを与え、通常通り水田や小川周辺を移動させるグループ。そして、もう一つのグループは牛の体全身を防水用具で覆い、飲食物は通常通り与えるグループです

大方は飲食物による経口感染を支持していたのですが、実験の結果、防水用具で覆われた牛は全く感染しておらず、水田や小川に入った牛たちは全て感染していたのです

また、感染していた農民が呼んでいた「泥かぶれ」という皮膚のかぶれがあったのですが、これが牛たちにもあったことで、日本住血吸血虫は皮膚感染が原因であることが確定します

一方、中間宿主の発見は難航します
被害者の糞便中に含まれる虫卵から孵化した幼虫(ミラシジウム)がどうやっても成虫へと進化せず、僅か2日で死滅してしまったからです

中間宿主の発見は困難を極め、一時は用水路に多く生息する巻貝のカワニナが中間宿主ではないかと思い、実験を行いますがミラシジウムは寄生しません
そんな中1913年(大正2年)の夏の日、同じ日本住血吸血虫の被害地である佐賀県にて体長僅か8ミリほどの小さな巻貝が発見されます

これを発見した宮入慶之助と助手である鈴木稔が実験を行ったところ、幼虫であるミラシジウムはこの巻貝に寄生し、最終的に成虫であるセルカリアとなって巻貝の中から飛び出してくることを確認したのです

この報告を聞いた山梨県の調査団一同は宮入慶之助を迎え入れて、さっそくこの巻貝を探し始めます
すると、凄まじい数の巻貝が甲府盆地にて発見されたのです
また研究の結果、この巻貝は全くの新種の貝であることが判明し、世界的な大きな衝撃を呼び起こします

この巻貝は宮入慶之助の名前から「ミヤイリガイ」と呼ばれ、ついにこの奇病の正体であることが判明しました
本格的な調査から既に30年以上が経過して、ようやく謎が改名されたのです

日本住血吸血虫の撲滅へ

元凶のであるミヤイリガイの発見後、1918年(大正7年)頃に駆虫薬である「スチブナール」が開発されるのですが、これは副反応が激しく誰にでも使用できる治療薬という訳ではありませんでした

またミヤイリガイは繁殖力が強く、小さな水溜まりにも生息するため、病気の根絶のためにはミヤイリガイを完全に絶滅するしか方法はないと認識されます

こうして山梨県と甲府盆地に住む地域住民は一致団結し、ミヤイリガイの撲滅運動を開始。ミヤイリガイの苦手とする生石灰を水源に散布し続けるのですが、これは並大抵の労力ではなく散布は第二次世界大戦終結後も引き続き行われました

1949年(昭和24年)コンクリート製の用水路がミヤイリガイの生息に適していないことが判明すると、1956年(昭和31年)山梨県の予算を超えた国庫補助による一大計画が実行され、甲府盆地を網の目状に流れる水路は大小問わず全てコンクリートで塗り固められました

このコンクリート計画は1985年(昭和60年)には累計総額100億円を突破する莫大な費用を注ぎ込んだ事業でしたが、この年には新規感染者と元凶であるミヤイリガイは一切見られなくなりました

そして1996年(平成8年)山梨県知事より地方病、日本住血吸血虫による被害は終わったことを告げる終結宣言が出され、長きに渡った悪夢は遂に終止符が打たれます
その年間、明治政府が取り組み始めて115年
武田家の甲陽軍鑑による記述から4世紀に渡る長いものでした

終結宣言後も地方病監視対策促進委員会と称する日本住血吸血虫に対しての組織が置かれ、2001年(平成13年)をもって、ようやく組織は解散されました

甲斐の地を襲った恐るべき寄生生物の歴史をご紹介しました

(この記事は、草の実堂の記事で作りました)

戦国最強ともいわれる武田信玄は寄生虫に殺されたかも・・・

これは、「日本住血吸虫」・・・ 

(信玄の領地でもあった現在の)山梨県でも多発した地方病・風土病です

これは、この地などに古くからあり、1996年(平成8)に終結宣言が出されました

それまで、これらの病気の地域の人々はこの病と長きにわたり闘ってきたのです


 

 

 


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斎藤伝鬼房とは

斎藤伝鬼房(さいとうでんきぼう)は、ド派手な格好で薙刀を用い、その出で立ちから天狗と呼ばれた剣豪である

彼が開祖した天流は、薙刀術・槍術・鎖鎌術・棒術・手裏剣術・取手・小具足(柔術)を含んだ総合武術であった

天流を継承した下河原恭長が天道流と改名した薙刀術は、現在の「薙刀(なぎなた)」へとつながっている

天狗と呼ばれた剣豪・斎藤伝鬼房について追っていく


塚原卜伝との出会い

斎藤伝鬼房は天文19年(1550年)常陸国真壁郡新井手村(現在の茨城県筑西市)の北条氏康に仕える小番衆の子として生まれる

幼少の頃より剣術や槍術を好んだ伝鬼房は、剣聖として名高い新當流の開祖・塚原卜伝(つかはらぼくでん)の門下生になる

伝鬼房は持ち前の剣術の才を見せ、200人を有に超す門下生の中でも一番強くなった

達人ゆえに自身の技の限界を感じた伝鬼房は、鎌倉の鶴岡八幡宮に百日参詣して更なる上達を祈願していた

天流の開祖

天正9年(1581年)伝鬼房31歳の時、参詣中に武芸の腕が立つ修験者と出会い、刀槍術について語り合い時には仕合をして研鑽を積む

互いに刀槍術の技の可否を吟味していくうちに、自然と新たな剣術の妙技を悟っていった

百日参詣の満願の日、夜が明けて修験者が去ろうとすると、伝鬼房は修験者に「そなたの刀槍術の流派名は何か」と尋ねた

すると修験者は何も言わずに太陽を指さして立ち去っていった

そのことから伝鬼房は自らの剣術を「天流」と名付けた

天狗の伝鬼房

伝鬼房が更なる高みを目指し諸国を修業して廻っていると、次第に伝鬼房の剣の腕前が評判となり朝廷から声がかかる

朝廷に参内して天流の秘剣「一刀三礼」を披露すると称賛されて「判官左衛門尉」の叙任を賜り、伝鬼房は入道して自分を「井手判官伝鬼房」と称した

「判官左衛門尉」とは源義経や楠木正成らが叙任した位である
朝廷からお墨付きをいただいた伝鬼房の名は全国に知れ渡っていく

五畿内を廻国した後に武芸者としての名声を上げた伝鬼房は、故郷の真壁に戻る

この時の伝鬼房のいでたちは、羽毛で織ったド派手な衣服を着ていたので、まるで天狗のような格好だったと評判になった
伝鬼房は普段から、ド派手な衣服を好んで着ていたようだ

「伝鬼房」というド派手な名前も当時は天狗の名前に「房」を付けていたことから取ったとされている

自分の名前を売るためのアピールとして、派手な衣服と名前にしたのかは定かではないが「天狗の伝鬼房」として知れ渡る

霞党との決闘

真壁に戻った伝鬼房のもとには下妻城主・多賀谷修理太夫を始め、多くの武家が教えを請いに殺到した

伝鬼房は地元の英雄のような存在となっていくが、この地方は元々神道流が盛んで、すでに幾つかの道場があった
彼らの中には、後からやって来た伝鬼房を心よく思わない者たちも多かった

そんな中、伝鬼房は霞神道流の真壁氏幹(まかべうじもと)の門人で、自らの剣を霞流と称した桜井霞之助から挑戦されて仕合を行うことになる

霞神道流は、常陸国の国人領主だった真壁久幹(まかべひさもと)が開祖した流派である

息子の真壁氏幹は長さ2mの鋲を打った樫木棒を振り回して戦場を駆け抜けた武勇から「鬼真壁」と称された剣豪であった(※これは父の久幹だったとされる説もある)

真壁氏幹と伝鬼房は、かつては塚原卜伝の元で剣術を学んだ同門であり、氏幹は兄弟子でもあった

そんな兄弟子の門人との仕合は死闘となり、伝鬼房は桜井霞之助を斬り殺してしまう

これによって伝鬼房は霞神道流の門人たち「霞党」の恨みを買ってしまうこととなる

天正15年(1585年)伝鬼房は弟子の小松一卜斎(こまついちぼくさい)と一緒にいる所を、霞党数十人の待ち伏せにあった

囲まれたと知った伝鬼房は弟子の一卜斎に「逃げろ!」と命じるが、一卜斎は師匠を置いて一人で逃げることを拒む

伝鬼房は一卜斎を不動堂に匿い、手にした鎌槍で飛んで来る無数の矢を切り落とし獅子奮迅の戦いをするが、最期は全身に矢が刺さり力尽きてしまう、享年38歳だった

その後、伝鬼房が亡くなった場所に奇怪事件が起き、土地の人々は伝鬼房の霊を祀る小社を建て「判官の杜」と呼ばれた

天道流へ

一卜斎は生き残り、飛んで来る無数の矢を切り落とした伝鬼房の技とその最期を、伝鬼房の実子・斎藤法玄に伝えた

この話は「一文字の乱」として、天流そして天道流の基本として伝承されている

伝鬼房の死後、天流は息子の斎藤法玄が継承して、以後は斎藤牛之助・日夏重能・日夏能忠と継承されていく

日夏能忠の門人・下河原恭長は天流を「天道流」と改称して現在も継承されている

天道流薙刀術 眞月会

公式サイト https://shingetsukai.com/

天道流薙刀術の特徴は、真剣勝負そのものといった形試合にあるとされている

相手の動きに従った無理のない合理的な薙刀の使い方で、刀筋を正しく押し切り、引き切り、抉り突く、腰の開きや組み足の力に特徴がある

天道流の形には一文字の乱・骨髄剣など鋭い薙刀さばきが主で、薙刀だけでなく二刀・鎖鎌・杖・剣などの技がある

薙刀には数多い流派がある中で、天道流の形の数は120本あり、その必殺の剣技は古武道の代表とも言われている

薙刀術は江戸時代に幕府が武士個人での薙刀の所持を禁止したことによって、一時、薙刀術の存続が危うくなったこともある

その影響なのか、女性専門の「おんな薙刀」として専門流派も出現し、現在も女性の競技が盛んである

かつては女子校や女性のみしか習えないという、男子禁制の武道という時期もあった

おわりに

斎藤伝鬼房は朝廷から官位を叙されるほどの剣の達人で、ド派手な衣服とド派手な名前に負けない実力の持ち主だった

剣聖・塚原卜伝の優秀な門下生たちは、それぞれが自分の流派を開いて剣の腕一本でのし上がっていった

運命のいたずらか、兄弟子の門人たちに恨まれて非業の最期を遂げたが、斎藤伝鬼房の最後の薙刀術は「一文字の乱」と称され天道流の基本となり、薙刀のルーツの一つとして現在も伝わっている

(この記事は、草の実堂の記事で作りました)

斎藤伝鬼房(さいとうでんきぼう)は、ド派手な格好で薙刀を用い、その出で立ちから天狗と呼ばれた剣豪である

彼が開祖した天流は、薙刀術・槍術・鎖鎌術・棒術・手裏剣術・取手・小具足(柔術)を含んだ総合武術であった

天流を継承した下河原恭長が天道流と改名した薙刀術は、現在の「薙刀(なぎなた)」へとつながっている


斎藤伝鬼房は朝廷から官位を叙されるほどの剣の達人で、ド派手な衣服とド派手な名前に負けない実力の持ち主だった

剣聖・塚原卜伝の優秀な門下生たちは、それぞれが自分の流派を開いて剣の腕一本でのし上がっていった
(彼もそんな優秀な門下生の一人だった)

運命のいたずらか、兄弟子の門人たちに恨まれて非業の最期を遂げたが、斎藤伝鬼房の最後の薙刀術は「一文字の乱」と称され天道流の基本となり、薙刀のルーツの一つとして現在も伝わっている


 

 


上泉信綱や塚原卜伝、宮本武蔵、千葉周作など、剣のみにしか生きられなかった不器用な豪傑から、剣一筋に生き極めることで人生の悟りをも開く達人まで、際立つ個性を持つ60人の剣豪たちを紹介
戦国、江戸、幕末と、時代を追って受け継がれる剣豪たちの技や精神の流れが感じられる一冊