メインウェーブ日記

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(以下はその一例です)


■競馬

(世界の名馬)~コラム(競馬)

シーバード、リボー、ニジンスキー、セクレタリアト、セントサイモン、キンチェム、オーモンド、ネレイデ、ノーザンダンサーなど

例:伝説の史上最強馬・シーバード

16戦全勝無敗と凱旋門賞連覇・リボー

(日本の名馬)~コラム(競馬)

シンボルルドルフ、ディープインパクト、エルコンドルパサー、サイレンススズカ、オグリキャップなど

例:日本競馬史上最強馬・シンボリルドルフ

日本近代競馬の結晶・ディープインパクト

(コラム)~コラム(競馬)

例:サンデーサイレンスの「遺産」とこれからの社台グループ

ノーザンダンサー系の今後

(世界のホースマン)~コラム(競馬)

例:ドルメロの魔術師~フェデリコ・テシオ

(日本のホースマン)~コラム(競馬)

例:天才、変幻自在の騎乗、オッズを変える男・福永洋一


■大相撲の名力士~コラム(大相撲)

雷電為右エ門、谷風梶之助、双葉山定次、大鵬幸喜など

例:史上最強力士・雷電為右エ門

横綱の中の横綱・谷風梶之助


■ビートルズ~コラム(ビートルズ)、音楽・名盤・ロック(ビートルズ)

例:20世紀最高のロックバンド・ビートルズ

ロックの金字塔・・・サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド


■お小遣いサイト~お小遣いサイト

お財布.com、げん玉など

例:おすすめのお小遣いサイト~お財布.com

おすすめのお小遣いサイト~げん玉


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●野球やラグビー

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(男子)~コラム(スポーツ)

ジミー・コナーズ、ビョルン・ボルグ、ジョン・マッケンロー、イワン・レンドル、ピート・サンプラス、ロジャー・フェデラー、ラファエル・ナダルなど

例:4大大会優勝回数史上1位などのロジャー・フェデラー選手

「土の絶対王者」ラファエル・ナダル選手

(女子)~コラム(スポーツ)

シュテフィ・グラフ、マルチナ・ナブラチロワ、クリス・エバート、セリーナ・ウィリアムズなど

例:「年間ゴールデン・スラム」を達成した女王・・・シュテフィ・グラフ選手


■F1の名ドライバー~コラム(スポーツ)

アイルトン・セナ、ミヒャエル・シューマッハー、アラン・プロストなど

例:「音速の貴公子」「最も速かった」アイルトン・セナ選手

「史上最強ドライバー」ミヒャエル・シューマッハー選手


■各種スポーツ


■その他気になるニュースやスポーツなど

劉邦に愛された戚夫人

紀元前206年頃、秦が滅亡すると項羽と劉邦による楚漢戦争が始まった

この争いに勝利し紀元前202年に前漢を建てたのが、高祖・劉邦(りゅうほう)である

劉邦はもともと沛県の亭長という下級役人だったが、秦末の混乱の中で頭角を現し、やがて項羽を破って皇帝の座に上りつめた

その劉邦の晩年に、深く寵愛された女性がいた。戚夫人(せきふじん)である

戚夫人の出自や劉邦と出会った時期ははっきりせず、彼女がどのような経緯で劉邦のそばに入ったのかは明らかではない

ただ、『史記』呂后本紀には、戚夫人が劉邦の外出にもしばしば付き従ったことが記されており、特別に寵愛されていたことがうかがえる

戚夫人は、劉邦との間に如意(にょい)という男子を産んだ
如意はのちに趙王(ちょうおう)に封じられ、劉邦からもかわいがられた

戚夫人は皇后ではなかったが、皇帝の寵愛を受け、その子まで愛されたことで、後宮の中で無視できない存在となっていったのである

皇太子をめぐる呂后との対立

その寵愛は、やがて皇位継承の問題へとつながっていく

劉邦は晩年、すでに皇太子となっていた劉盈(りゅうえい)を廃し、戚夫人の子である如意を立てようとしていた
劉盈は皇后・呂后(りょこう)の子であり、のちの恵帝である

実際に劉邦は、劉盈については「自分に似ていない」と考えており、如意については「自分に似ている」と周囲に語っていた

そして戚夫人もまた、如意の立太子を強く望んでいた
『史記』によれば彼女は日夜泣きながら、如意を皇太子に立てるよう劉邦に求めたという

一方、呂后にとって、この動きはきわめて深刻だった

呂后は劉邦の正妻であり、皇后の地位にあった
しかし、もし劉盈が皇太子の座を失えば、彼女は次代の皇帝の母という立場を失うことになる

しかも呂后は晩年には宮中に留まることが多く、戚夫人のように劉邦のそばへ付き従う機会も少なく、次第に疎んじられていく有様だった

しかし劉邦の太子交代の考えに対しては、多くの大臣たちが反対した

なかでも後世に名軍師として語られる張良は、劉邦が高く評価していた隠者たちを皇太子の側につけるよう呂后に助言している
酒宴の席で、白髪の老人たちが劉盈に従っているのを見た劉邦は、皇太子の背後にすでに人望があることを知り、太子交代を断念したとされる

こうして劉盈の皇太子としての地位は守られた

だが戚夫人が如意を立てようとし、一時は皇太子の座に迫ったことは呂后の中に強い恨みとして残った

「人彘」と呼ばれた凄惨な報復

紀元前195年、劉邦が崩御すると皇太子だった劉盈(恵帝)が即位した
この時、戚夫人の子・如意はすでに趙王となっており、母と離れて趙の地にいた

新たに皇太后となった呂后は、かつて皇太子の座を脅かした戚夫人と如意に対し、ただちに報復へ動いていく

『漢書』外戚伝によれば、呂后はまず戚夫人を※永巷(えいこう)に閉じ込め、髪を剃らせ、首に鉄の枷をつけ、囚人のような赤い衣を着せて米をつかせたという

※永巷とは、漢代の宮廷内で罪を得た后妃や宮女を収容・使役した場所

かつて劉邦に寵愛された戚夫人は、一転して罪人のように扱われ、米をつきながら如意を思って歌をうたったと伝えられている

子為王,母為虜,終日舂薄暮,常與死為伍。相離三千里,當誰使告女。

意訳「子は王となり、母は虜となった。日が暮れるまで米をつき、死と隣り合わせにいる。三千里も離れたわが子に、誰がこのことを知らせてくれるのか」

『漢書』外戚伝より

この歌を聞いた呂后は、戚夫人がなお如意を頼みにしていると受け取り、さらに怒りを募らせた

呂后は、趙王となっていた如意を長安へ呼び寄せようとした
しかし、趙の相であった周昌(しゅうしょう)は、呂后が戚夫人と如意を殺そうとしていることを察し、如意が病であるとして使者を追い返した

そこで呂后は、まず周昌を長安へ召し出した
周昌が趙を離れると如意を守る者はいなくなり、呂后はあらためて使者を送り、如意を長安へ呼び寄せたのである

恵帝は呂后の怒りを知っていたため、如意を自ら迎えに出て寝食をともにし、母から弟を守ろうとした

だがある朝、恵帝が狩りに出かけたとき幼い如意は早く起きることができず、一人で宮中に残された
呂后はその隙を逃さず人を使って毒を飲ませ、恵帝が戻った時には如意はすでに死んでいた

わが子を失った戚夫人には、さらに凄惨な処置が加えられた

呂后は戚夫人の手足を断ち、目をえぐり、耳を焼き、声を出せなくする薬を飲ませたうえで厠の中に置いたという

そしてその姿を「人彘(じんてい)」と呼ばせた。「彘」とは豚を意味する

かつて劉邦に愛され、わが子を皇太子にしようとした戚夫人は、人としての姿も尊厳も奪われてしまったのである

見世物にされた寵姫と、崩れた若き皇帝

戚夫人に凄惨な処置を加えた後、なんと呂后はその姿を恵帝に見せつけた

恵帝は最初、それが誰なのかわからなかったが、戚夫人だと知ると大声で泣き、そのまま病に伏してしまった

恵帝は呂后に対し「これは人のすることではありません。私は太后の子である以上、もう天下を治めることはできません」と訴えたという

この出来事は若い皇帝の心を深く傷つけ、恵帝はその後、酒色にふけって政務を顧みなくなる
それから約6年後の紀元前188年、恵帝は在位7年で二十代前半の若さで崩御した

その後、呂后は皇太后として政治の実権を握り、呂氏一族を王に立てるなど、一族とともに権勢を誇った

しかし紀元前180年に呂后が死去すると、陳平や周勃ら功臣たちはただちに動き、呂氏一族を粛清した

そして皇帝に迎えられたのは、劉邦の子である代王・劉恒(りゅうこう)であった
のちの文帝である

劉恒の母・薄姫(はくき)は後宮にいた女性だったが寵愛されていなかったため、劉邦の死後は呂后の怒りを受けずに、息子に従って代の地へ出ることを許されていた

結果として、最も寵愛された戚夫人と如意は殺され、宮廷を支配した呂后一族も滅ぼされ、権力争いから遠い場所にいた薄姫の子が前漢の皇位を継いだのである

参考 : 『史記』呂后本紀、『史記』外戚世家、『漢書』外戚伝 他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は、草の実堂の記事で作りました)

呂后の恐ろしい報復は、人間の嫉妬・逆恨みなどで、ここまでするかと思わせます

劉邦に最も寵愛された戚夫人、劉邦に似て可愛がられた如意・・・
しかし、それがために呂后の嫉妬・逆恨みを買った

劉邦は如意を次期皇帝に・・・と考えた
劉邦の後継者問題は、張良の機転やとりなしで、呂后の子が次期皇帝に

しかし呂后の嫉妬・逆恨みは消えず、劉邦の崩御後に、戚夫人への一連の人とは思えないむごい所業、如意の毒殺へつながった

そして、この所業に心を痛めた恵帝(劉邦と呂后の子、劉邦の次期皇帝)はその後、酒色にふけって政務を顧みなくなる
それから約6年後の紀元前188年、恵帝は在位7年で二十代前半の若さで崩御した

(間接的だが、我が子を死に追いやった原因に)

その後、呂后は皇太后として政治の実権を握り、呂氏一族を王に立てるなど、一族とともに権勢を誇った

しかし紀元前180年に呂后が死去すると、陳平や周勃ら功臣たちはただちに動き、呂氏一族を粛清した

そして皇帝に迎えられたのは、劉邦の子である代王・劉恒(りゅうこう)であった
のちの文帝である

劉恒の母・薄姫(はくき)は後宮にいた女性だったが寵愛されていなかったため、劉邦の死後は呂后の怒りを受けずに、息子に従って代の地へ出ることを許されていた

結果として、最も寵愛された戚夫人と如意は殺され、宮廷を支配した呂后一族も滅ぼされ、権力争いから遠い場所にいた薄姫の子が前漢の皇位を継いだのである

参考記事:中国三大悪女・呂雉 「恋敵の手足を切り目玉をくり抜いた劉邦の妻」



 

 


漢の高祖劉邦は一介の農民から皇帝にまで駆け上がった英雄である
『史記』の精密な読解から、新しい劉邦像を導き出す画期的労作
彼は適在適所に人を使いこなした達人でこれが天下をもたらした

「明王」さんってどんな仏さん?

密教の経典に登場し、独自に発展した仏さんが「明王(みょうおう)」です

明王の「明」は、「如来の明呪(みょうじゅ)を保持する者」すなわち「持明使者」を意味します

ちなみに「明呪」とは何かといいますと、「明」は智慧や光明、「呪」は言葉や呪文を意味し、悟りの知恵を表す言葉のこと
これは「真言」とも呼ばれます

「明王」は如来の説く真言を理解せず、仏教に未だ帰依しない人々を導く役割を担った仏さん
しかし、一方で仏道に障害をなすものを粉砕する存在でもあります

それゆえに、その表情は憤怒の相を表しているのです

そんな「明王」さんの中でも「五大明王」と「愛染明王」について紹介しましょう

大日如来の化身・お不動さんを中心とする「五大明王」

不動明王、降三世(ごうさんぜ)明王、軍荼利(ぐんだり)明王、大威徳(だいいとく)明王、金剛夜叉(こんごうやしゃ)明王
この五尊を合わせて「五大明王」と呼びます

このうち中心となるのが、お不動さんの名で親しまれる不動明王です

お不動さんが特に重視されるのは、密教の本尊である大日如来の化身とされるからです
仏さまの教えに耳を貸さず、反抗する者を、仏力によって説き伏せる役目を担います

右手に剣、左手にロープ状の羂索(けんじゃく)を持ち、総髪にして弁髪を左胸に垂らす
片方の目は半月のように細め、もう一つはクワっと見開き、口は牙をグイッとむき出して強く結びます

その姿は見るからに恐ろしく、悪を退けるに十分な迫力を感じさせます

この不動明王を中心に東に降三世明王、南に軍荼利明王、西に大威徳明王、北に金剛夜叉明王を配する例が多く見られます

降三世明王は阿閦(あしゅく)如来、軍荼利明王は宝生(ほうしょう)如来、大威徳明王は阿弥陀(あみだ)如来、金剛夜叉明王は不空成就(ふくうじょうじゅ)如来の化身とされ、それぞれが悪逆で教化しがたい者を救うため、怒りの姿をとっているのです

ただし、この配置は空海が開いた真言宗(東密)の考え方によるもの
最澄が開いた天台宗(台密)では、金剛夜叉明王の代わりに烏枢沙摩(うすさま)明王が五大明王の一尊とされます

恐ろしい姿の「愛染明王」は縁結びの霊験も持つ

愛染(あいぜん)明王の密号は「離愛金剛」

ここでいう「離」とは、生死の業となる煩悩や渇愛を離れること
そして「愛」は、悟りの妙果を愛することを意味します

仏教でいう渇愛とは、物質的なものや感覚的な快楽、自我の存在に対する強い欲望や執着のこと
それが心の平安を乱す原因になるとされます

愛染明王が燃え立つような赤色で表され、怒りの形相をしているのは人間が抱く愛欲そのものを菩提心、つまり悟りへと変える働きを担っているからです

獅子冠をいただいて髪を逆立て、一面三目と称する三つの目をギョロつかせてクワっと口を開き、6本の腕には弓矢などを持ちます

獅子冠をいただき、髪を逆立て、一面三目の三つの目をギョロッと見開き、口をクワっと大きく開く
そして、六本の腕には弓矢などを持ちます

その姿は、執着や愛欲を焼き尽くすかのようですが、霊験の中には「縁結び」もあり、古くから若い女性の信仰を集めてきました

以上が、主な「明王」さんのお話です。

読者のみなさんが、お寺で「明王」さんに出会う機会があれば、ぜひこの記事を思い出してみてください
怒りに満ちたその表情の奥に、迷う人を救おうとする強い慈悲が隠れていることに気づくはずです

怖い仏さんだと思っていた「明王」さんとの距離がほんの少しだけ、近づくことでしょう

※参考文献
京都歴史文化研究会(高野晃彰)著 『京都札所めぐり 御朱印を求めて歩く』メイツユニバーサルコンテンツ
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は、草の実堂の記事で作りました)

明王とは

密教の経典に登場し、独自に発展した仏さんが「明王(みょうおう)」です

明王の「明」は、「如来の明呪(みょうじゅ)を保持する者」すなわち「持明使者」を意味します

ちなみに「明呪」とは何かといいますと、「明」は智慧や光明、「呪」は言葉や呪文を意味し、悟りの知恵を表す言葉のこと
これは「真言」とも呼ばれます

「明王」は如来の説く真言を理解せず、仏教に未だ帰依しない人々を導く役割を担った仏さん
しかし、一方で仏道に障害をなすものを粉砕する存在でもあります

それゆえに、その表情は憤怒の相を表しているのです


明王でよく知られているのは不動明王です
(お不動さんといわれることも)

不動明王は、密教の最高仏・本尊である大日如来の化身です


明王は恐ろしい表情の仏です
しかし、怒りに満ちたその表情の奥に、迷う人を救おうとする強い慈悲が隠れています


 

 


★ 古寺社・名刹の歴史や由来を霊場ごとに詳しく紹介
★ 御朱印をいただきながら、心を癒す巡拝の道行きへ


◆◇◆ 本書について ◆◇◆

西日本の著名な巡礼として西国三十三箇所巡礼がある
近畿2府4県と岐阜県に渡る33所の観音霊場を巡るのであるが、広いエリアにある札所を巡るのには時間とそして費用がかかった
昔は巡礼に出られるのは一家の内でも家長とか長男に限られていた
そこで京都近郊に限られた狭いエリアで三十三所巡りができる観音霊場が興された
さらに七福神めぐりなど、寺院や神社への巡礼が盛んにおこなわれるようになった

こうした寺社巡り、参詣・参拝すると押印してもらえるのが御朱印である
元来は寺社の写経を納めた際の受付印とされたが、今は少額の金銭(おおくは300円)を納めることで、独特の墨書と印を押した御朱印をいただける
御朱印を受けると、寺社にきちんとお参りを澄ませたと言う充実感が味わえる
この気持ちが大切で、神仏に対する尊敬や畏敬の念なしに、御朱印収集のみに執着するのは、慎むべきである

本書では京都市近郊の洛陽三十三所観音巡礼、
洛西三十三所観音霊場、招福の神様を詣でる都七福神めぐり、開運・厄除けを祈る洛陽十二支妙見めぐり、京都の由緒ある寺社をめぐる京都十六社めぐりを中心に、その札所の歴史やいわれ、さらにそれぞれの御朱印を紹介している
心を癒す札所めぐりと御朱印収集のガイドとして活用していただくことを切に希望しています

 

 


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弘法大師・空海の息吹が伝わる東寺・国宝「両界曼荼羅図」のカラー口絵付き!

なぜ「神通力」がついてしまうのか――
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◇法然登場! すべてを捨てて”民衆のなか“へ
◇「観音さまのお墨付き」で肉食妻帯に踏み切った親鸞
◇なぜ、日蓮はこれほどまでに”熱い“のか
◇神変大菩薩・役小角が用いた「孔雀明王の秘法」
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◇人はなぜ「秘仏」に惹かれるのか
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◇なぜ菩薩は、如来と違ってオシャレなのか
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◇「受験生が絶対、味方につけたい」菩薩
 

 


仏像を仏の教えと古美術の観点から解説

「如来」「菩薩」「天」などの仏像は何を意味しているのか、姿形にはどんな特徴があるのか、人々はどのように信仰してきたのかを、仏の教えと古美術の観点からわかりやすく解説
また手の形、ポーズ、装飾、素材、製作技法、様式から仏像鑑賞のポイント豊富な写真を使い説明
仏像鑑賞Q&Aでは、「仏像の種類が多いのはなぜ?」「「秘仏の拝観方法」など素朴な疑問に答えます

日本で最も早い時期にトレインド・ナース(正式な訓練を受けた看護婦)となった実在の女性、大関和と鈴木雅をモチーフにしたNHK連続テレビ小説『風、薫る』

その背景にあるのは、文明開化が始まった明治時代です

作中には地方の農村でも東京でも「看護婦は報酬を得て病人の世話をする低い仕事」といった偏見が随所に描かれます
さらに職業への偏見だけでなく「女性が学問をする」「女性が仕事をして稼ぐ」ことへの嫌悪感や差別心を持つ人々も登場します

女性が自由な生き方をするのが難しかった時代
驚くことに、東京府は「女性はみだりに髪を切ってはいけない」という『女子断髪禁止令』まで出していました

まるで口うるさい姑のような禁止令ですが、いったいどのようなものだったのでしょうか

※現在では「看護師」という名称ですが、この記事では当時の表現に合わせて「看護婦」としています

明治元年(1868)以降、明治10年代頃にかけて盛んになった「文明開化」
諸外国から入ってきた最先端の技術や流行などが、人々の暮らしの中へ広まっていきました

そして、明治4年(1871)9月23日、太政官(だじょうかん※)によって「散髪・制服・略服・脱刀ともに勝手たるべきこと」とする『散髪脱刀令』が公布されました

※太政官:公布の政体書に基づく官制改革によって成立した政府機構で、立法・行政・司法の機能を備えていた

これは「髷(まげ)を結わず散髪してもよい、華族・士族も礼服の時以外は帯刀しなくてもよい」という勝手令でした
つまり、髪型や帯刀をめぐる従来の慣習を緩めるものだったのです。

徐々に取り入れる人は増え、明治6年(1873)に明治天皇が散髪したことも大きな後押しとなりました
やがて『散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする』と謳われるようになり、散切り頭は庶民の間にも広まっていきます

こうして男性の断髪や洋装は、文明開化を象徴する姿となっていったのでした

『文明開化』が急速に進む一方で、女性は・・・
男性の散切り頭が文明開化の象徴として広まる一方で、女性の断髪にはまったく別の目が向けられました

「散髪脱刀令は男性の髷を念頭に置いたもので、女性が真似するものではない」という見方が広がったのです

すごい差別ですが、女性の断髪が増えることへ反発する人は多かったようです
「髪は女性の命」「烏の濡れ羽色」などの言葉があるように、平安時代以来「女性の長い黒髪=美しい」という価値観は長く浸透していました

新しい時代の始まりとは言っても、髪を短くした女性に抵抗を覚える人は多かったのでしょう

しかし、そうした価値観の中で生きる女性たちにとっても、日本髪は決して楽なものではありませんでした
実際、日本髪は着物には似合うものの、結い上げるまでに時間と手間がかかります
また髷を整えるためには整髪用の油を使うため、手入れも簡単ではありませんでした

今のようにシャンプーや温水シャワーもない時代、固められた日本髪を洗うのは非常に大変で、女性の洗髪は平均して月1回ほどだったともいわれています

江戸時代後期の庶民の暮らしを記録した『守貞謾稿(もりさだまんこう)』には、女性の洗髪について次のような記述があります

「江戸の婦女は毎月一、二度必ず髪を洗ひて、垢を去り臭気を除く、夏月には特に屢々(しばしば)沐して之を除く。蓋近年匂油を用ひることを好まず。又更に髪に香をたき染ること久しく廃て之を聞かざるなり・・・大凡(おおよそ)髪を洗はざる婦女は唐櫛を以って精く梳り垢を去り、しかる後匂油を用ひて臭気を防ぐ。」

長い髪を櫛でとかし、頭皮の垢を取り、香り油で臭気を防ぎ、さらに洗って乾かす・・・想像するだけでも大変です

男性の断髪姿を見て「日本髪を捨て、バッサリ髪を切りたい」と願う女性が増えるのは無理もありません

否定派が多いなか、女性の断髪を奨励した『開化新聞』

そんな空気のなかで、女性の断髪に肯定的だったのが、金沢で発行されていた『開化新聞』でした

同紙は断髪令が出された翌年、金沢では「断髪する婦女子が多い」と記し、さらに「櫛、笄(こうがい)の虚飾、油元結などの無駄を去る」として、断髪は装飾品や油、髪結いの手間を省けるために経済的であると推奨したのです

『風、薫る』のヒロイン直美のように、バッサリと切り揃えた断髪姿は、当時の女性たちにとって軽やかで新鮮に映ったことでしょう

そうした女性が増えることに危機感を抱いたのか、東京府は明治5年4月5日(1872年5月11日)「女子断髪禁止令」(東京府達32号)を発令したのです

内容は、女性がみだりに断髪することを戒める取締的なもので、まさに時代の矛盾が表れた理不尽な布告でした

「婦人束髪会」が日本髪の代わりに『束髪』を推奨

明治18年(1885)、医師の渡邉鼎(かなえ)と経済記者の石川暎作が、「婦人束髪会(ふじんそくはつかい)」を発足させました

従来の日本髪を「不衛生、不経済、不便」と見なし、婦人束髪会はそれらを解消する髪型として「束髪」を提唱したのです
束髪は三つ編みなどを取り入れたアップスタイルで、着物にも洋服にも合う新しい髪型として広められていきます

東京女子師範学校の教員や女子生徒も束髪を採用し、女学校を中心に広まるなかで、さまざまな種類や流行の髪型も登場するようになったそうです

『風、薫る』では、看護養成所で学ぶ女生徒たちが、スコットランドから来た教師バーンズの一言で、日本髪から当時まだ珍しかった洋髪へと変わります
バーンズのモデルは、ナイチンゲール式看護を学んだアグネス・ヴェッチとされています

その理由は「衛生」でした
ナイチンゲールは病室の換気や清潔、患者の身の回りの衛生管理を重視しました
まめに洗髪できない日本髪のまま看護にあたることは、近代看護の考え方から見ても好ましくなかったのでしょう

ここで髪型は単なるおしゃれではなくなります
看護を学ぶ女性たちにとって、髪をどう整えるかは自分自身の衛生と仕事への姿勢にも関わる問題だったのです

女性が髪型への自由を望んだ「ヘアカットの日」

現在、4月5日は「ヘアカットの日」とされています

明治5年4月5日、東京府が「女子断髪禁止令」を出したことにちなみ、髪型の自由を考える日として記念されるようになりました

髪を伸ばすのも切るのも、本来は本人の自由です

150年以上が過ぎた現在でも、服装や髪型をめぐる社則や校則がたびたび物議を醸すことを思えば、この問題は決して過去だけのものではないのかもしれません

参考:
黒髪の文化史(大原梨恵子著)
黒髪と清潔 :明治中期~大正にかけての婦人衛生雑誌から読み解く黒髪の変遷(大阪公立大学)
文 / 桃配伝子 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は、草の実堂の記事で作りました)

文明開化が始まった明治時代・・・

文明開化の象徴の一つは散切り頭でしたが、それは男性に対してで、女性は明治5年に東京府から「女子断髪禁止令」が出されています

現在では、髪型は個人の自由のはず・・・

しかし「髪は女性の命」などの認識・考えから発布されたのかも

御承知の通り、現在は髪型の自由も認められています


現在、4月5日は「ヘアカットの日」とされています

明治5年4月5日、東京府が「女子断髪禁止令」を出したことにちなみ、髪型の自由を考える日として記念されるようになりました

髪を伸ばすのも切るのも、本来は本人の自由です

しかし、150年以上が過ぎた現在でも、服装や髪型をめぐる社則や校則がたびたび物議を醸すことを思えば、この問題は決して過去だけのものではないのかもしれません



 

 


日本人の髪型の変化・歴史・文化を考える
髪型をめぐる興味深い話がわかる

歴史上の偉人には、「師匠」との出会いにより人生を飛躍させた者も多いという
彼らは師を通じてどのようなことを学んでいったのだろうか。解説してもらった

※本稿は、加来耕三著『歴史の一流は「師匠」から何を学んだのか』(クロスメディア・パブリッシング)より、内容を一部抜粋・編集したものです

3年かけて学ぶよりも3年かけて師を選ぶべき

「三年勤め学ばんよりは、三年師を選ぶべし」という諺があります
これは、3年かけて専門分野を独学で学ぶよりも、まずは3年かけてでも自分に適した良師を選ぶべきだ、という意味です

同様に「千日の勤学より、一時の名匠」ともいわれ、1000日の間、一人こつこつと独学するよりも、短くても優れた学者について学ぶ方が、効果的であるというのもあります

なお、この諺には「師に会わざれば、僅かの事にても惑い解けぬものなり」が、その前についています

いずれの言葉も、学習における師の重要性を説いており、本来「学ぶ」とは「師から学ぶこと」を前提としており、独学では到達できない領域(レベル)があることを示唆しています

読者の皆さんも、これまでのご自身の人生において、学校や塾の先生、予備校の講師、習い事の師や先輩、部活動の監督や顧問、あるいは会社の上司、父母など、「師匠」と呼べる存在の下で、学んだ経験をお持ちだと思います

素晴らしい師に巡り合えた経験のある人は、非常に幸運だといえます。一方で、現代はインターネットや動画、専門書などが充実しており、師匠につかずとも、独学で十分に学べるではないか、と考える人も少なくありません

しかし、歴史を振り返りますと、功成り名を遂げた一流、偉人たちは皆、具体的な師のもとで、生きていくうえで必要な技術に加えて、人生観や生きる目的といったものを学び、その教えを活かして成功をつかんでいます

徳川家康は敵対していた武田信玄を師として、自らの立居振舞はもとより、軍略・兵法や人心収攬の方法まで学びました
大久保利通はドイツの宰相ビスマルクに、日本の進むべき道を示唆されています
いずれも、いわば師匠のおかげでした

令和8年(2026)のNHK大河ドラマの主人公の一人、豊臣秀吉の弟・秀長もまた、師から学ぶことで、百万石を超える大大名として、豊臣政権のナンバー2に大成した人物です
秀長はもともと尾張国(現・愛知県西部)で農業に従事している青年にすぎませんでしたが、兄の秀吉に説得され、半ば強引に引き抜かれて、その家来=足軽となりました

武士としての経験も知識もまったくない状態から、のちに「大和大納言」と称され、秀吉を陰で支える天下の補佐役へと成長できたのは、兄・秀吉、その主君である織田信長、さらには蜂須賀正勝や竹中半兵衛、黒田官兵衛といった稀代の先達、軍師たちから、順々に教えを受け、それを自らのものにしていったからに他なりません

もちろん、当時はインターネットもSNSもない時代であり、知識を得るためには人から直接・間接に学ぶ以外に、方法がなかったという側面はありました

しかし、仮にその時代に現代のような情報網があったとしても、彼らはおそらく師から学ぶ道を選んだはずです
なぜならば、師から直接・間接に学ぶことには、単なる情報の習得だけでは得られない、もっと奥深い〝学び〟の本質的な意味合いがあったからです

(この記事は、THE21onlineの記事で作りました)

学ぶとは、真似る(まねる)が由来といわれている

真似るのは、「師匠」「先生」「先輩」「同輩や後輩であっても「手本」「理想となる人物」などだ

豊臣秀長は、元々は百姓だったが、兄の秀吉、最初の主君の織田信長、黒田官兵衛、竹中半兵衛などを師として武士の経験・知識が全くないながらも必死に学んだ

その結果、豊臣政権のナンバー2となり、実質的に政権を運営するまでになった
(兄・秀吉の補佐役であり、秀吉との二頭体制)

これには、謙虚に貪欲に学ぶ姿勢があったから・・・

さらに秀長は、藤堂高虎の才能・潜在能力も見抜き、高虎の能力も開花させています


 

 


「歴史の一流」が師匠から学んだこと、学ばなかったこと(反面教師も)など・・・
独学では身につかない!
「師」直伝の知的戦闘力の中身を紹介!

平安時代の終わりごろから江戸時代の初期にかけて、武家社会では現代では考えにくい慣習がいくつも行われていました

その中でも戦で殺害した敵の首を切り取り、それを倒した証として報告していた首検分(くびけんぶん)は、今となってはあまりにも異様に感じます

少しでも名のある武将を倒すことが重要だった時代、首検分は「戦果の確認」でもあり、その後の恩賞にも影響することから、武士たちは積極的に敵の首を取り、それを証拠として持ち帰っていました

首ではなく耳や鼻を削ぎ落とした「耳塚(鼻塚)」

しかし朝鮮出兵では、首の代わりに鼻や耳を削ぎ、それを戦功の証として扱った記録があります

鼻や耳を戦功の証として扱ったことを物語るものが、耳塚(鼻塚)です

場所は京都国立博物館と京阪七条駅の間にあります

耳塚(鼻塚)に関する説明書きがあります

朝鮮出兵に関するものであることから、その下にハングル語での説明があります

耳と鼻をそぐように命じた秀吉は塚を建て供養した

全国統一を成し遂げた秀吉は、次の攻撃対象を大陸に定めて2度の朝鮮出兵を行いました

特に2度目の慶長の役では、朝鮮半島に攻め込んだ日本兵が、朝鮮兵や援軍の明兵だけでなく、一般民衆の鼻や耳まで大量に切り取ったとされます
それらを京都に持ち帰って埋めたものが耳塚(鼻塚)であると、明治から昭和にかけての民俗学者・南方熊楠(みなかた くまぐす)は論証しました

複数の豊臣政権下の大名が発給したとされる「鼻請取状」では、三万もの鼻削ぎ(鼻を削って塩漬けにして持ち帰った)ことが確認できるとのこと

ただしこれは一部であり、実際にはもっと多かった可能性があります

耳や鼻をそぎ落とすことを命じたのは秀吉で、その背景には朝鮮半島から首を運ぶことが現実的でなかったことや、敵将の格より数(一般兵や現地の民衆)にシフトしていたことから、そぎ落とす対象の数が飛躍的に伸びたとされます

また、当初は耳も含まれていたとされるものの、やがて鼻が中心になったことや、朝鮮出兵でも名のある敵将クラスであれば従来通り首を塩漬けにして運んだとも言われています

鼻と耳の検分が終わった後に埋められ、その上に塚を築いたのが耳塚(鼻塚)です

慶長2年(1597年)9月28日に大法要・供養の儀がもたれ、その場には400人ほどの僧侶が出席したと伝わっています

豊臣秀吉の三百年の修営供養碑

耳塚(鼻塚)は柵で仕切られ入口は鍵があるので、柵の外からしか確認できませんが、敷地内にひとつの石碑があります

これについては刻んでいる文字も見えなかったのですが、京都市による説明を見つけました

それによれば、これは1898(明治31)年に行われた豊臣秀吉の三百年忌に関する石碑でした

豊公三百年祭が行われるタイミングで、耳塚(鼻塚)とその周囲が整備されています

石塚の柵(玉垣)には当時の著名俳優が寄進したものもあり、その役者名が刻まれているとのこと

耳塚(鼻塚)の下にある記念碑は、改修事業の経緯を示すために建立されました

篆額(てんがく:記念碑の表札のようなもの)は、陸軍大将大勲位功二級彰仁親王、漢文での撰文(せんぶん:記念碑に刻んだ本文)は、前天台座主大僧正妙法院門跡村田寂順の名が刻まれています

耳塚(鼻塚)の隣で明治天皇がご休憩

耳塚(鼻塚)のすぐ横にある耳塚公園では、ふたつの石碑を見つけました

ひとつ(右側)は文字が大きく、明治天皇御小休所下京第二十七区小学校跡と書いてあり、京都府が建立しました

もうひとつ(左側)はそのことに関しての詳細が刻まれた碑で、地元の人たち(貞教小学校区民)が建立しました

いずれも1941(昭和16)年に建てられたとのこと

1869(明治2)年に開校した旧京都市立貞教小学校(2002年閉校)に関するもの

もともとこの地にあった小学校は、豊国神社を1877(明治10)年に建てるために移転します

移転前の1872(明治5)年、明治天皇が六大巡幸(ろくだいじゅんこう)として回った際に、小学校に立ち寄り休憩をしたことを示す石碑です

つまり当時この場所に小学校があって、明治天皇が立ち寄ったという証を石碑として残したわけです

当時から耳塚の存在は知られていましたが、明治天皇が耳塚を目指して立ち寄ったというより、小学校の見学「教育現場の視察」という側面が強いとのこと

また明治天皇が立ち寄ったことから、当時の槙村正直京都府知事が小学校に「貞教」の名をつけたとのこと

明治天皇が意識していたかどうかはともかく、記録上そこに耳塚(鼻塚)があったから立ち寄ったというわけではなかったようです

住所:京都府京都市東山区茶屋町533-1
アクセス:京阪七条駅から徒歩5分

参考文献:
藤木久志著「雑兵たちの戦場」朝日新聞社 1995年10月24日
笹間良彦著「図説日本戦陣作法事典」角川ソフィア文庫 2022年4月21日
佐伯真一「『耳塚』と『耳堂』の史実と伝承」青山学院大学
伊勢貞丈著「軍礼抄」1775年
京都市 /現地の説明板・石碑
文 / 奥河内から情報発信 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は、草の実堂の記事で作りました)

耳塚(鼻塚)は、朝鮮出兵時に、豊臣秀吉が行わせた愚行ともいえる所業の痕跡です

秀吉は、戦国時代などの乱取りで日本人奴隷の救出(人道的ともいえる)とそれに関連したキリスト教禁止(キリスト教自体が日本人奴隷とは直接関係ないが)も行っていますが、一方で朝鮮出兵時に耳削ぎ・鼻削ぎの残虐な愚行も行っています

晩年の秀吉は、失策・失点が多く、朝鮮出兵やそれに伴う耳削ぎ・鼻削ぎもそれらの一つです

それらが豊臣家滅亡へつながった



 

 


吉軍は侵略の証しとして朝鮮人の耳・鼻を10万以上持ち帰ったという
それを埋めたのが「耳塚」
歴史の闇に葬られてきた真実を引き出した衝撃の書
1978年刊の増補改訂版

相撲とは?

相撲とは一体何なのだろうか? そもそも相撲と大相撲の違いは何か

実は「大相撲」というのは競技名ではない

競技名は「相撲」が正解で、「大相撲」は日本相撲協会が主催するプロ興行の名前なのである
相撲は日本で最も歴史が長い競技であり、更に大相撲は最も歴史があるプロ興行なのだ

歴史は長いが、昔の相撲と今の相撲とではかなりの違いがある

古い記録では紀元前23年の旧暦7月7日に戦ったという記述が「日本書紀」にあるが、蹴り技などもあり、今の形の相撲になったのは江戸時代からというのが定説となっている

江戸時代の相撲

江戸時代といえば国内の争いごとも収まり、庶民の間で様々な娯楽や文化で盛り上がった時代だ

江戸の爛熟期には相撲もかなりの盛況を誇っていた

そして11代将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)による上覧相撲をきっかけに、娯楽としての人気が更に熱をおびてくることになる
徳川家斉の上覧相撲は実に5回行われた
大衆娯楽好きだった家斉は特段相撲に関心を持っていたようである

江戸時代の最盛期には「雷電」と「谷風」と「小野川」の3大強豪力士がスターとなり人気に拍車をかけ、相撲は歌舞伎と並んで一般庶民の娯楽として確かな地位を築いていった

この頃には相撲界で「横綱」という最高の地位も確立された

横綱には名匠による美しく豪華な太刀が与えられ、最高位に相応しい相撲界の象徴としての役割も果たしていた

最強力士 雷電

当時は3大強豪力士のうちの谷風と小野川は横綱であったが、雷電のみ横綱にはならなかった

なぜ横綱にならなかったのかは諸説あるが、理由は不明である

江戸時代から始まった人気格闘技としての相撲で、歴代最強と言われているのが実はこの雷電なのだ

身長197cmの恵まれた体から繰り出される確かな技の数々と「馬をひょいと持ち上げた」という逸話も残っている圧倒的な力で勝ち星を積み上げていった

その生涯戦績は未だ誰にも破られていない「254勝10負2分」
勝率は驚異の「9割6分2厘」である

強すぎた故に、雷電は「張り手」と「かんぬき」と「突っ張り」の使用を禁じられていたという逸話もある
ただしこれは相撲講談などで語られた逸話で信憑性は低く、突き押し主体の相撲であったと考えられている

相撲と伝統

相撲形式の競技は遥か昔から世界中にあり、相撲の正確な発祥地ははっきりしていない
だが日本ほど大規模な興行を行い、力士の質や社会的地位が高い国は稀である

江戸時代よりもっと前の中世時代前後には宮中行事として相撲が行われていた
また神社で祭事として相撲が行われ、豊作祈願の農耕儀礼としても行われている

こういった過去の経緯があり、相撲と神事の親和性は高く、そういった形跡は今でも相撲のあらゆる場面で見られる
例えば力士の土俵入り時の拍手もそうであるし、横綱の注連縄も同様である

東京で行われる本場所の前々日には、野見宿禰神社(のみのすくねじんじゃ)で、相撲協会や審判部の幹部などが出席して神事が行われる
前日には土俵に神様をお迎えして本場所の安泰を祈願する土俵祭り、千秋楽にはお迎えした神様をまた天上にお送りする神送り儀式が行われる

そして国技館の土俵の上に大きく造られる吊り屋根は、伊勢神宮と同じ神明造りとなっている
清めの塩も地の邪気を祓うためにまかれるし、四股も足下の地面の邪悪なものを封じ込めるという意味がある

相撲の土俵が女人禁制と言うのも「血は穢れ」という神道の考え方からきている
このため、過去には女性大臣が賜杯授与の役目を相撲協会から断られて、問題になったこともあった

また、大相撲での派手なパフォーマンスは賛否両論で時折問題になるが、これは神事の方ではなくあくまでも相撲が武道だからである

最後に

相撲の文化はどれも伝統的である

中でも四股を踏んだ後に、前の取組に勝った力士からの力水をつける作法は、約1200年も前の平安時代の相撲節会の頃からずっと行われてきている

遥か昔からの伝統を残す相撲であるが、江戸時代の頃から今の形式で庶民に親しまれ続けている事には驚かされるばかりである

参考文献 :
日本相撲協会
力士雷電

(この記事は、草の実堂の記事で作りました)

相撲は国技といわれることも・・・

相撲の歴史は古く紀元前にはあったとされる

神事と繋がりがあり、品格が問題にされたり、女性が土俵に上がれなかったりするのは、相撲が神事であり、武道であるなどのためか・・・


江戸時代には、超強豪の谷風梶之助、小野川喜三郎、雷電為右エ門が登場し最初といえる黄金時代を迎えた

谷風は63連勝をしたがその後インフルエンザで現役死、小野川は谷風の63連勝を止めた後谷風のライバルに
2人は横綱になった

雷電は史上最強力士といわれ、勝率が驚異の9割6分2厘!!
当時は番付としては大関が最高位で横綱は名誉職だったが、雷電は横綱になっていない
雷電が横綱になっていないのは謎である


 

 


花の御江戸のスーパースター名大関・雷電為右衛門は、現役中から旅日記ともいうべき「諸国相撲控帳」と公文書メモ「万御用覚帳」を三十年余りにわたり書き残していた
これらの資料を元に雷電を江戸文化とともに蘇らせる
 

 


江戸の名大関・雷電為右衛門の実像を、余すことなく捉えたノンフィクション
下巻では、主に晩年以降を描き、最後の土俵、相撲頭取となってからその死までを見つめ、史料として雷電史跡案内を付ける
 

 


史上最強の相撲人・雷電を描いた傑作歴史巨編!

異常気象、凶作、飢餓、疫病の蔓延と、厄災ばかりがうち続いた江戸天明期、後世まで語り継がれる一人の力士が彗星のごとく現れた
巨人のような体躯と野獣のような闘志で豪快に相手を投げ倒していくこの男に、抑圧され続けてきた民衆は未来への希望の光を見た
実在の伝説的相撲取り「雷電」の一生を、緻密な時代考証を踏まえドラマチックに描いて、飯嶋和一の名を世に知らしめた大傑作歴史巨編の文庫版を電子化!

小一郎の名は最初は秀長ではなく長秀だった

2月22日(日)に放送された『豊臣兄弟!』第7回「決死の築城作戦」の冒頭で、こんなナレーションが入っていたのをご記憶でしょうか

「ところで、小一郎の名前が第5回(2月1日)から変わっていることにお気づきでしたか? 実はこの時、小一郎も“木下小一郎長秀”となっていたのです。豊臣秀長となるのは、まだ先のこと」

これに対し、SNS上では早速熱心な大河ファンから、「気づかなかった!」「ここを強調するということは、秀長への改名には重要な意味がありそうだ」といった声が上がり、ちょっとした話題になっていました

少し補足しておきましょう

「この時」とは、藤吉郎が信長から「秀吉」の名を与えられた場面のこと
同じく小一郎もまた、信長から一字を与えられ、「長秀」と名乗るようになったのです

そもそも、昔の人は実によく名前を変えました

秀吉は、日吉丸→藤吉郎→秀吉
秀長は、小一郎→長秀→秀長

さらにいえば、秀吉の甥である関白・秀次などは、万丸→治兵衛→吉次→信吉→秀次と改名を重ねています
もはや「一体、あなたは誰でしたっけ?」と言いたくなるほどです

姓や苗字も同様です
豊臣兄弟は、木下から羽柴へと苗字を改め、姓は豊臣の前に平・藤原を名乗っています

つまり、戦国の世において、名は固定されたものではなく、立場や力関係を映す“名刺”のようなものだったのです

信長が小一郎に「長」の一字を与えた理由

さて、ここで改めて考えてみましょう

秀長が小一郎から「長秀」となったとき、この「長」の字は明らかに信長の「長」です
主君から一字を与えられる、それは紛れもなく栄誉であり、信頼の証でもありました

では、秀吉の「秀」はどこから来たのでしょうか
「信長」の字は、一字も入っていません

この点については、少し興味深い説があります
秀吉の父は木下弥右衛門、秀長の父は竹阿弥であったというものです

竹阿弥は、織田家の同朋衆であったとも伝わります

同朋衆とは、茶の湯や芸能に通じた文化人たちで、いわば 知識人枠
一方、弥右衛門は足軽身分とされます

史料的に確定しているわけではありませんが、もしそうであれば、信長が父の身分が上位の小一郎に目をかけ、自身の「長」を与えたという見方も成り立ちます

一方で、「秀吉」の「秀」は、文字通り“秀でた藤吉郎”という意味とも考えられますし、あるいは信長の重臣である丹羽長秀から一字を取った可能性を指摘する声もあります

実際、「羽柴」の「羽」は丹羽の「羽」からもらったとされます
そう考えると、「秀」もまた、織田家中の人間関係を反映した一字だったのかもしれません

しかし、ここで一つ気になることがあります

「長秀」という名前は、信長の「長」が先に来る
この名は、いわば「お前は織田家の家臣なんだ」ということを前面に出した名前とも言えるのではないでしょうか

では、後になってその「長」を、わざわざ後に回したのか・・・

次にその理由を、歴史的な観点から考えてみましょう

織田信長との決別が秀長の改名に繋がった?

筆者は、その転機となったのは、1584年(天正12年)の「小牧・長久手の戦い」だと考えます

この戦いで、形式上は織田家当主であった織田信雄を相手に、実質的に主導権を握ったのは秀吉でした
もはや「織田家の家臣」という枠に収まる存在ではなくなったのです

そう考えると、「長秀」から「秀長」への転換は、単なる語順の変更ではありません
信長から賜った「長」を戴く名から、自らの「秀」を先に掲げる名へ

そこには、主従関係の明らかな反転が読み取れます

また、秀次も小牧・長久手の戦いの1年後に、信吉から秀次に名を変えているのも偶然ではないでしょう

もちろん、史料に「そのために改名した」と明記されているわけではありません
けれども、戦国の武将にとって名とは立場そのもの


もし秀長が、兄・秀吉とともに新たな時代の主役へと踏み出した証として「秀長」を選んだのだとすれば・・・
その改名は、なかなかに意味深ではありませんか

「俺からすれば、信長さまも、織田家もどうでもよい存在になった」という考えに至った秀吉
つまり、そこには秀吉が心身ともに長年支配されていた、織田家からの解放と決別があったのではないでしょうか

秀長の改名の理由は、そのようなものなのではないかと考えるのです

※参考文献
京あゆみ研究会(高野晃彰)著 『京都ぶらり歴史探訪 今昔ウォーキング』メイツユニバーサルコンテンツ
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は、草の実堂の記事で作りました)

名前の改名は、出世やその地位・立場にふさわしくするためにも行われました

名前の順番も重要視されました

後の豊臣秀長が、長秀を名乗っていた時代は、もちろん織田信長が存命中で、彼は「信長の家臣」であり、信長から「長」の字を受け、「秀」も秀吉の弟、織田重臣・丹羽長秀からなどの説もあります

長の字が先に来たのは、「信長の家臣」を強調するためでは・・・

本能寺の変で明智光秀に信長が討たれ、その後、秀吉が光秀を討ち、秀吉主導の体制が固まると、後の豊臣秀長は、「秀吉の家臣」として秀長となりました

名前改名にも深い意味があったのです


ちなみに、後の徳川家康は、桶狭間の戦い以後、今川家との関係を断ち、今川義元の元の字を返し以前から憧れの源義家から一文字もらい、松平元康から松平家康に改名

この改名で源氏の子孫として、後に江戸幕府を開いています
(源氏の子孫と自称したことで幕府を開き、征夷大将軍に)




 

 


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戦国武将のなかでもトップクラスの人気を誇る羽柴(豊臣)秀吉
著名な人物であるにもかかわらず、父母やきょうだい、親類の実態についてはいまだ謎に包まれたままである
秀吉の父親はどのような職に就いていたのか
弟・秀長の妻子はどのような人物なのか
「秀吉政権」の構造と性格を把握するうえで不可欠な一族・親族の情報を徹底検証
史料の発掘により通説が大きく書き改められるいま、秀吉の親族研究の到達点を示す

時は元亀4年(1573年)7月20日、木下藤吉郎秀吉は、苗字を木下から羽柴に改めました

これまで日吉丸(幼名)→藤吉郎(小者)→中村藤吉郎(足軽)→木下藤吉郎(足軽組頭)→木下藤吉郎秀吉(足軽大将)・・・と出世に応じて改名を繰り返してきた秀吉は、また一段と天下獲りへの歩みを進めていくのでした

※名前や身分には諸説あります

中村という苗字は足軽(武士)となった記念に故郷の中村をそのまま名乗ったもの、木下については木下雅楽助(うたのすけ)から与えられた、または寧々との結婚で木下家の入婿になったためと言われますが、羽柴の苗字にはどんな由来があるのでしょうか

丹羽+柴田=羽柴?

寛永8年(1631年)に竹中重門(半兵衛の子)が記した『豊鑑(とよかがみ。秀吉伝記)』によると、丹羽長秀から「羽」、柴田勝家から「柴」の文字をもらって組み合わせたと言われています

・・・其頃(そのころ)信長の心に叶ひののじる柴田修理亮勝家、丹羽越前守長秀とかやいひしかば、其人(そのひと)の名字を、一字づゝ賜らんとて、丹羽の羽に、柴田の柴をそへ、羽柴筑前守と改給しとなり・・・

※『豊鑑』より

【意訳】そのころ、織田信長の心に適う名臣として、柴田勝家と丹羽長秀が挙げられた。そこで彼らの苗字から一文字ずついただこうと思い、丹「羽」と「柴」田を合わせて羽柴筑前守(ちくぜんのかみ)と改名した。

・・・純粋に読めば「なるほどそうなのか」とは思いつつ、疑問も否めません

柴田勝家に失礼ではないか?

人間の頭や足と同じく、苗字や名前(諱)も先に置かれる文字が重んじられることがあります

例えば、秀吉の弟である小一郎のフルネームは木下小一郎「長秀」
この長秀は主君の信「長」の足と、兄の「秀」吉の頭の組み合わせ
つまり「信長の足を、秀吉の頭上に置いている」という明らかな上下関係が示されていました

これに照らし合わせれば、羽柴という苗字は「丹羽長秀の足を、柴田勝家の頭上に置いている」ように思えてしまいます

もし両者の苗字から一文字ずつもらうなら、必ずどちらかを後にしなければなりません
であればどちらの顔も立つように、丹田もしくは柴羽(いずれも頭と足の組み合わせ)とするのが無難ではないでしょうか

あるいは信長のご機嫌をとるために、信長が最も気に入っていた丹羽長秀を、あえて(失礼は百も承知で)柴田勝家の上に置いた可能性もなくはありません

当の秀吉はまだ「木下藤吉郎」と署名していた

『豊鑑』では、早い時期から秀吉が羽柴の苗字を使い始めたように記されていますが、当の秀吉は永禄12年(1569年)4月16日付の文書で、まだ「木下藤吉郎」と署名していました

明らかに矛盾しており、この辺りは竹中重門の記憶違いだったのかも知れません

そうなると『豊鑑』の丹羽+柴田=羽柴説はちょっとあやしく思えてしまうものの、今のところこれ以外の説は提唱されていないようです

ともあれ元亀4年(1573年)以降、秀吉は羽柴の苗字を用いるようになり、やがて筑前守も称するようになったのでした

小一郎はまだ「木下」だった

かくして木下藤吉郎から羽柴秀吉となった秀吉ですが、弟の小一郎はまだしばらく木下の苗字で署名していたようです

小一郎が羽柴小一郎長秀と名乗り始めるのは天正3年(1575年)に入ってからで、そのあたりから一族全体で羽柴の苗字を名乗るようになりました

はじめは秀吉一人が羽柴で、遅れて小一郎や一族が羽柴を名乗るようになったのは、どういう事情があったのでしょうね

あまり使われなくなる羽柴の苗字

かくして誕生した羽柴の苗字

しかし本能寺の変(天正10・1582年)で信長が横死を遂げ、その混乱に乗じて織田政権を乗っ取ると、秀吉は羽柴の苗字をあまり使わなくなります

厳密には「秀吉が羽柴であることは変わらないが、署名しなくなった」と言えるでしょう

秀吉は自身の地位が高まり、磐石になっていくにつれて尊大になっていきました

例えば書状を発給する時は奉書(ほうしょ)を用い、自分で署名する時もただ「秀吉」だったり、花押(サイン)や印判(ハンコ)のみだったりしたのです

※奉書:秀吉が相手Aに書状を出す時、直接自己名義で書状を作成するのではなく、家臣Bに内容を口述して家臣B名義で相手Aへ書状を出させる形式、およびその書状

これらは明らかに下位者へ対する態度であり、名前のみ・花押のみ・印判のみというのは無礼ですらありました

「わし(秀吉)じゃ!わかるじゃろ。文句あるか?」と言わんばかりの傲岸不遜ぶりは、さすが天下人と言ったところでしょうか

ちなみに秀吉が羽柴の苗字を最後に使ったのは天正13年(1585年)10月13日、遠藤基信(えんどう もとのぶ。伊達政宗家臣)への書状でした

羽柴の本姓は?

元は名もなき百姓出身の秀吉に本姓(ほんせい。本来の出自)もへったくれもありませんが、秀吉ははじめ平氏の子孫(※)と自称したようです

(※)秀吉が入婿となった杉原氏(寧々の実家)の庶流である木下家は、平氏の流れをくむとされるため

やがて関白就任に臨んで近衛前久(このゑ さきひさ)の猶子となったことから、本姓を藤原氏に改めました

そして天正14年(1586年)、正親町天皇から豊臣の姓を賜ったことで、秀吉は羽柴という名字を持ちながら、本姓として豊臣を名乗る立場となったのでした

バラまかれた羽柴の苗字

自分では使わなくなった羽柴の苗字ですが、せっかく作ったからとばかり、秀吉は羽柴の苗字を大名や家臣たちに大盤振る舞いしたそうです

ここでは羽柴の苗字を与えられた主な者たち(一族を除く)を見ておきましょう

結城秀康・蒲生氏郷・細川忠興・前田利家・前田利長・宇喜多秀家・佐々成政・上杉景勝・小早川隆景・毛利輝元・島津義弘・長宗我部元親・島津義久・佐竹義宣・伊達政宗・織田秀信・最上義光・徳川家康・小早川秀秋・徳川秀忠・毛利秀元・福島正則・・・等々

※順不同。諸説あり

やがて豊臣政権が崩壊するとほとんど使われなくなったようですが、日本全国を羽柴一族で統一し、我が世を磐石のものとしたかったのかも知れません

終わりに

今回は秀吉が名乗った羽柴の苗字について紹介してきました

果たしてNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、どのような経緯で秀吉が羽柴を名乗り、また小一郎も使うようになるのか、興味深いところです

今後ますます増長もとい立身出世していく豊臣兄弟の姿を、見守っていきましょう!

※参考文献:
黒田基樹『羽柴秀吉とその一族』角川選書、2025年5月
黒田基樹 編『織豊大名の研究13 羽柴秀吉一門』戎光祥出版、2024年11月
柴裕之 編『シリーズ・織豊大名の研究 14豊臣秀長』戎光祥出版、2024年11月
文 / 角田晶生(つのだ あきお) 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は、草の実堂の記事で作りました)

名前の改名は、出世やその地位・立場にふさわしくするためにも行われました

名前の順番も重要視されました

後の豊臣秀吉が、木下藤吉郎から羽柴秀吉に改名したのは、羽柴の姓が丹「羽」長秀と「柴」田勝家も由来すると通説ではなってます

出世・立場などで名前が変わる(改名する)なんて、大相撲の力士や親方、行司など、歌舞伎や落語家などの伝統芸能などの名跡、出世魚(ブリなど)などみたいですね


 

 


戦国武将のなかでもトップクラスの人気を誇る羽柴(豊臣)秀吉
著名な人物であるにもかかわらず、父母やきょうだい、親類の実態についてはいまだ謎に包まれたままである
秀吉の父親はどのような職に就いていたのか
弟・秀長の妻子はどのような人物なのか
「秀吉政権」の構造と性格を把握するうえで不可欠な一族・親族の情報を徹底検証
史料の発掘により通説が大きく書き改められるいま、秀吉の親族研究の到達点を示す

インドの歴史は古い

成熟期のインダス文明は紀元前2600〜1900年頃に栄え、焼きレンガによる都市建築や発達した排水設備を備えていた

やがてインドに関する情報は、古代ギリシャやローマの世界にも断片的にもたらされる
しかしその多くは商人や遠征者、ペルシア経由の伝聞に頼るものであり、実際の姿とは大きく隔たっていた

見慣れない動物や現地の人々の風俗は誇張され、ときに生物学的にあり得ない奇っ怪な怪物として語られた
こうしてインドは古代から中世のヨーロッパにかけて、「異形の蔓延る魔境」として想像されていったのである

かつてインドに実在すると信じられた、恐るべき幻想の怪物たちの伝承について見ていきたい

巨大アリの正体はマーモットだった!?

古代ギリシャの歴史家ヘロドトス(紀元前484~紀元前425年頃)の著書『Histories』は、インドについて記された古書物の一つである

同書にはインドにまつわる荒唐無稽な怪情報が散見されており、中でも特筆すべきものに「金を採掘する巨大なアリ」の伝承が挙げられる
このアリは一匹一匹が狐~犬ほどの大きさがあり、地中を掘り進め砂金を集める習性を持つとされる

現地のインド人は、アリが地中に隠れる最も暑い時間帯を狙って、金を含んだ砂をかき集めるのだそうだ

しかし日が暮れてくるとアリは地中から這い出してくるので、インド人は急いで逃げなければならなかった
アリの足は恐ろしく速く、ぼやぼやしていると追いつかれ惨殺されるからである

このアリの正体は一説によると、ヒマラヤ山脈やチベット高原に生息するヒマラヤマーモットではないかといわれている

ヒマラヤマーモットは深い巣穴を掘る習性を持ち、その際に金を含んだ土が掘り出されることがあるという

インド北部などに住む「ミナロ族」は実際に、マーモットが掘った穴の周辺から砂金を集める文化を有していたとされている

謎の怪物オドントティラヌス

マケドニア王国(現在のギリシャ北部辺り)の王、アレクサンドロス3世(紀元前356~紀元前323年)は、世界征服を目論んでいた

当時最強と謳われたペルシア帝国を破竹の勢いで滅ぼし、次なる進軍先として彼が目を付けたのがインドであった

アレクサンドロスの軍勢はインドへと遠征し、2年後にはインダス川の支流ヒュダスペス河畔において、パウラヴァ族の王ポロス(?~紀元前317年)を激闘の末に打ち破った

さて、その戦いの直後、アレクサンドロス軍がとある湖のほとりで野営していた際のことである

夜中に突如として、ヘビ・カニ・ライオン・ブタ・コウモリといったさまざまな動物たちが、兵士たちに向かって波状攻撃を仕掛けてきた
その群れの中には、三本角で馬の頭を持つ、ゾウよりもはるかに巨大な怪物が存在したという

オドントティラヌス(Odontotyrannos)と呼ばれるこの異形の怪物は、火を全く恐れず、あっという間に兵士26人を抹殺したそうだ
恐るべきオドントティラヌスであったが、アレクサンドロス軍の必死の抵抗により、最終的に絶命したとされる

このエピソードは、アレクサンドロスがアリストテレス(紀元前384~紀元前322年)に宛てた書簡という体裁をとる『Epistola Alexandri ad Aristotelem』に収録されているものだが歴史的事実ではなく、この手記自体も後世の創作であると考えられている

ただし、オドントティラヌスのモデルとなった生物は、実際にインドに生息していたという主張もある
イギリスの考古学者ウォーリス・バッジ(1857~1934年)は、この怪物の正体はワニではないかと論じた

他にも足のない巨大な蠕虫(ミミズやイモムシ)ではないかという珍説も存在する

インド人もビックリなインドの怪生物

古代ギリシャの医師クテシアスが著した『インド誌』の断片には、現地のインド人が聞いたら鼻で笑うような、荒唐無稽な怪生物が次々と登場する

代表的なものとしては、人食い怪物マルティコラス(Martichoras)が挙げられる

その顔は人間に酷似しており、尻尾にはサソリの毒針が生えている恐るべき怪物だとされる

クテシアスは「実在の生物」であると説いているが、実際はベンガルトラを誇張気味に記しただけだと考えられている

他には、かの有名な幻獣ユニコーン(Unicorn)の源流にあたる一本角の動物も、クテシアスの『インド誌』に登場している

ユニコーンといえば優雅な一本角を有する馬であり、その角には優れた薬効があることで名高い

ただしクテシアスの記した一本角の動物は、現在イメージされる優雅な白馬ではなく「インドの野生ロバ」として語られている
そこから後世のヨーロッパで、一本角を持つ幻獣ユニコーンのイメージが広がっていったのである

『インド誌』をはじめ、古代の文献に残されたインド像は、現代人から見れば意味不明な奇書の世界としか映らないものも多いだろう
しかし、そこには古代の人々が遠方のインドをどのように想像し、どのように恐れ、どのように語り継いだのかが刻まれている

荒唐無稽な怪物譚であっても、当時の世界観を知る手がかりとして価値あるものには違いないのである

参考 : 『Histories』『Epistola Alexandri ad Aristotelem』『インド誌』
文 / 草の実堂編集部

(この記事は、草の実堂の記事で作りました)

インドは歴史も古く、古代文明も栄えた

西洋人にとってインドは、魅力的で不思議な国と思われたようだ

アメリカ大陸を発見したコロンブスは、最初、アメリカ大陸をインドと思ったそうだ
(アメリカの原住民をアメリカンインディアンと呼ぶのはそのため)

インドは未知の地であり、謎の土地・魅力のある土地でもあった

荒唐無稽な怪物譚(それが誤解や誇張など)であっても、当時の世界観を知る手がかりとして価値あるものには違いない



 

 


インドとはどういう国か。その歴史を図やイラストを使いながらわかりやすく、ていねいに描く
コラム「そのころ、日本では」「?知れば知るほどおもしろいインドの偉人」も役に立つ
 

 


神話と幻想世界の動物たち

アニメ、ゲーム、ファンタジーから小説まで、神話のなかの幻獣たちは、今もつきることのない想像力の源泉となっている


本書はアッシリア時代からの古い図版を集め、人びとが神話のモンスターたちをどのように幻視したかを明らかにする

昭和39年(1964年)、東京~大阪間に世界初の高速鉄道、東海道新幹線が開通した

昭和39年といえば、終戦からわずか19年である
戦争で焼け野原となった日本が、20年足らずで最新鋭の新幹線を開通させた事実は、世界中を驚かせた

なぜ、日本はこれほど早く新幹線を開通させることができたのか

実は、新幹線誕生の裏には、戦前の驚くべき計画が隠されていたのである


幻の「弾丸列車計画」

実は新幹線は、戦後になって企画立案されたものではない
計画自体は戦前に作られ、着工のゴーサインまで出ていた大プロジェクトだったのである

戦前の新幹線構想は「弾丸列車計画」と呼ばれており、「東海道線、山陽線にこれまでにない高速鉄道を走らせる」というものだった

このプロジェクトの背景には、日本の産業の急成長という要因があった

東海道、山陽本線は、東京~関西~九州を結ぶ日本の大動脈であり、ただでさえ輸送量は多かった
それに加え、日本は朝鮮を合併し、満州国まで成立したとなると、大陸向けの輸送量はさらに増大する
日本満州間の旅客量も、昭和年には30万人だったが、昭和12年には52万人、昭和14年には90万人を超えていた

東海道線と山陽本線はパンク寸前だったのだ

そこで昭和13年に東海道、山陽本線とは別に広軌道の鉄道を走らせる「弾丸列車計画」が打ち出された

この計画は、鉄道省や軍部との何度かの審議の後、昭和15年に実行が決定した

建設計画では、時速200キロ、軌間1435ミリ、車両の長さ25メートル、ホームの長さ500メートル、1日に片道42本の旅客列車を走らせる予定だった

移動時間は東京~大阪間を4時間30分、東京~下関間を9時間を目標としていた
東京~大阪間の数値は、後に開業する東海道新幹線の当初の移動時間と非常に近い

鉄道省は、この新鉄道を当時の最先端技術である「電車」で運行しようと考えていた

しかし、軍部はこれに猛反対
電車だと変電所が爆撃されれば一発で動けなくなるからだ

このため、鉄道省は軍部の意向を受け入れ、最終的に蒸気機関車での運行に同意した

蒸気機関車で時速150キロ以上を出すのならば、かなり大型の動輪が必要になる
(動輪とは、原動機のエネルギーを受け、回転して動力に変える装置のことである。バイクで言うところの後輪のようなものだ。)

弾丸列車計画では、動輪の直径を2メートル30センチにする予定だった

日本の代表的な蒸気機関車D51の動輪が1メートル40センチなので、それを1メートル近く上回ることになる

もし、これが完成していれば、怪物のような蒸気機関車になっていたことだろう

日本と朝鮮半島をつなぐ仰天の計画

実は、このプロジェクトには、さらにスケールの大きな目標もあった

弾丸列車計画は、東京と西日本を繋ぐ国内の高速鉄道構想であったが、同時に日本の大東亜共栄圏構想の中で、東京から朝鮮半島、さらには北京へと鉄道を延伸する計画も検討されていたのである
下関から朝鮮半島まで海底トンネルを掘り、鉄道を直通させる案もあり、実地調査も行われていた

夢のような話であるが、当時はかなり乗り気だったようだ

当時、日本の鉄道技術はすでに世界的なレベルに達していた

昭和6年には上越線で世界最長の清水トンネルの開通に成功しており、昭和17年には関門海峡において、世界初の海底鉄道トンネルが完成している

朝鮮半島まで伸びる海底トンネルの構想も、決して夢物語ではなかったのだ

また、この時期には、さらに広範な鉄道建設計画が議論されていた

昭和13年には、鉄道省の監察官だった湯本昇が「中央アジア横断鉄道構想」を提唱した

これは、朝鮮半島を経て北京までを繋ぎ、さらにアフガニスタンのカブール、イランのテヘラン、イラクのバグダッドまで、延べ7474キロを直通する鉄道を建設しようとする構想である

つまり、古代のシルクロードに、そのまま鉄道を通してしまうというものである
そして、ヨーロッパ側の鉄道網と接続し、ベルリンまで繋ぐという壮大なプロジェクトでもあった

さらに、満鉄(南満州鉄道)の第10代総裁であった山本条太郎も、上海、ロシア経由で、ヨーロッパまでを繋ぐ鉄道の構想について言及していた

当時、日本からヨーロッパへ行く場合はシベリア鉄道を使っていたが、ソ連の国情不安定が理由で使えなくなることもしばしばあった

そのため「いっそのこと中央アジアを経由する鉄道を作るべき」と考えられたのだ

もちろん、これらの壮大な計画は、戦局の悪化とともに潰えてしまった

しかし、弾丸列車計画は戦後20数年を経て、その理念を引き継いだ形で東海道新幹線として実現することとなった

戦前に弾丸列車計画で買収された東海道区間の用地や、着工していたトンネルの一部は、後に東海道新幹線の建設において大いに活用されたのである

中央アジア横断鉄道のような広大な構想も、今後の技術の進展や国際情勢の変化によって、いつか実現する日が訪れるかもしれない

参考 :
『弾丸列車』著/前間孝則
『教科書には載っていない!戦前の日本』著/武田知弘
文 / 小森涼子

(この記事は、草の実堂の記事で作りました)

日本の鉄道技術は凄い!!

昭和39年(1964年)には、新幹線を開通させたのだから・・・

しかし、戦前には「弾丸列車」という計画・構想もあったようだ

それは、昭和39年の新幹線より壮大で、東京から朝鮮半島を経て、北京、バグダッドを繋ぐという驚くべきものだ

戦況悪化などもあり、この計画・構想は頓挫したが、戦後の新幹線に繋がった


鉄道・移動の夢の計画・構想の一つに「重力列車」もある

地球上の2点を結ぶトンネル内を惑星の重力を利用して移動する構想上の交通機関だ
実現すれば地球上の任意の2地点間を42分で移動することができるという



 

 


大東亜戦争の直前、大陸を広軌の高速鉄道で結ぶ壮大な構想があった
そしてそれは東京オリンピックの年に開業した東海道新幹線の原型となった
新幹線への夢をつないだ男たちを描くノンフィクション