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メインウェーブ日記

気になるニュースやスポーツ、さらにお小遣いサイトやアフィリエイトなどのネットビジネスと大相撲、競馬、ビートルズなど中心

お酒はほどほどに楽しむ分には問題ないが、大量に飲むと健康を害することは周知のとおりである
室町・戦国時代にも、過度の飲酒によって寿命を縮めたとされる武将が存在する。本稿では、そのうち三人を紹介することにする


◎足利義尚(あしかが・よしひさ)

足利義尚は第八代将軍・足利義政の子として生まれ、若くして征夷大将軍となった
当時、幕府の権威はすでに失墜していたが、義尚は長享元年(1487)に六角氏討伐を実施し、将軍として幕府の威信回復を図ったことでも知られている


一説によると、義尚は酒食に溺れたと伝えられており、それが寿命を縮めた要因といわれている
義尚が亡くなったのは長享三年(1489)のことで、まだ二十五歳だった

後継となる男子を残さなかったため、次の征夷大将軍には、猶子として迎えていた足利義材(義稙/義視の子)が就いた
なお、義尚の遺体は腐敗を防ぐため、口・鼻・目に水銀が詰められたと伝わっている


◎上杉謙信(うえすぎ・けんしん)

上杉謙信が酒好きであったことは、広く知られている。山形県米沢市の上杉神社には、謙信愛用の「春日杯」と呼ばれる盃が現存し、それは直径約10センチ、深さ約6.5センチもある大ぶりの酒杯だった
謙信が梅干しを肴に酒を飲んだという逸話も有名である


永禄二年(1559)に上洛した際には、関白の近衛前嗣(のちの前久)や将軍・足利義輝と夜明けまで大酒を酌み交わし、翌日は二日酔いで出仕できなかったと記録されている

謙信は天正六年(1578)に「突然の虫気」(脳卒中か)で死去したと伝えられているが、酒の飲み過ぎが寿命を縮めた可能性も否定できない


◎小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)

関ヶ原合戦での裏切りで知られる小早川秀秋は、西軍から東軍に寝返り、西軍の大谷吉継の軍勢を攻撃したことで天下分け目の戦いの行方を決定づけた。戦後、秀秋は備前などを与えられたが、若くして急死した
まだ21歳だった


かつては「吉継の亡霊に取り憑かれて狂死した」ともいわれたが、現在では誤りとされている
実際のところ、秀秋は大の酒好きであり、それが寿命を縮めたと考えられている

医師・曲直瀬玄朔の『医学天正記』にも、秀秋が大量の飲酒によって黄疸の症状を呈していたことが記されている
秀秋には後継者がいなかったため、その死によって小早川家は断絶したのである


主要参考文献

日本史史料研究会監修、平野明夫編『室町幕府全将軍・管領列伝』(星海社新書、2018年)、矢田俊文『上杉謙信』(ミネルヴァ書房、2005年)、光成準治『小早川隆景・秀秋』(ミネルヴァ書房、2019年)など

(この記事は渡邊大門の記事で作りました)

上杉謙信は大酒飲みで知られる
本当の酒好きは酒の飲酒時につまみをほとんど食べないといわれるが、謙信もつまみに梅干しを食べる程度だったという
梅干しはかなり塩辛いので酒と梅干しだけでは身体に悪そう・・・
「敵に塩を贈った説」や「領土拡大に熱心でなかったとの説」、「正義感が強かった説」、「宗教心が強い(毘沙門天の生まれ変わりといったとも)」などもあり、「義の人」だったとも・・・
戦に強く戦国武将では武田信玄とともに軍神ともいわれることも・・・
(戦では生涯無敗だったとも・・)

小早川秀秋は関ヶ原合戦での裏切りで知られ、足利義尚は私は知りませんでした


 

 


越後を本拠に関東・越中・能登を支配した上杉謙信については、江戸時代の兵学者らによって史実と異なることが多く語り継がれてきた
本書は、謙信が生きた時代の史料のみを使って、本物の謙信像を提示する

イヴァン4世(1530年〜1584年)は、ロシア史において極めて特異かつ重要な位置を占める君主です

1547年、彼はロシアで初めて「ツァーリ(皇帝)」として戴冠し、国家権力の集中と制度改革を推し進めました

しかしその一方で、彼の治世は苛烈な暴力、粛清、恐怖によっても知られています

彼がいかにして血にまみれた歴史を刻むに至ったのか、その業深き道程を辿ってみました


孤独な幼少期とツァーリ即位

イヴァン4世は1530年、モスクワ大公ヴァシーリー3世とその妃エレナ・グリンスカヤの間に誕生しました

父ヴァシーリーの死去により、わずか3歳で大公位を継承しますが、実際の政治は母エレナが摂政として掌握していました

しかしエレナは1538年に急死し、その後は複数の貴族たちが実権を奪い合うようになります
権力争いの渦中に投げ出された幼いイヴァンは冷遇されるだけでなく、時に虐待を受け、暗殺の恐怖に覚えながら成長したのです

孤独と不自由、そして暴力の中で育ったことで、イヴァンには極端な猜疑心と強い支配欲が芽生えるようになったと考えられています

それでも1547年、イヴァンは16歳になると正式にツァーリとして戴冠しました

これは単なる即位ではなく、ビザンツ帝国の後継者としてのロシアを明示する儀式でもありました

この時期、イヴァンは教会と協力して法律の整備や軍制改革に取り組み、一定の成果を上げており、若き改革者として希望を抱かれていたのです

愛妃アナスタシアの死

イヴァン4世の初期の統治は比較的安定していましたが、それを支えていたのは最初の妃アナスタシア・ロマノヴナの存在でした

アナスタシアは温和で思慮深い女性であり、衝動的な気質を持つイヴァンの心を落ち着かせ、政治の面でも彼を支えていたといわれています

しかし、1560年に彼女が急死すると、イヴァンの精神状態は大きく揺らぎ始めます

彼はアナスタシアの死を貴族たちの陰謀による毒殺だと疑い、周囲へ激しい不信感を抱くようになったのです
それ以降、彼は敵と見なした者たちに対して容赦のない粛清を行うようになり、次第に暴力的な手段が常套化していきます

異常なほどの猜疑心を抱えた彼は、忠実な家臣や聖職者でさえも信用せず、処刑や拷問を命じることが常態化していきました

この時期から、イヴァン4世は理性的な改革者から、恐怖と暴力によって国を支配する「雷帝」へと変貌していったのです

恐怖支配とオプリーチニナ

1564年、イヴァン4世は突然、皇帝の座を自ら降りると宣言し、政務を放棄してモスクワを離れました

この予想外の行動に、国中は騒然となります

政情の混乱に直面した国民や聖職者たちは、ツァーリの復帰を懇願し、イヴァンはそれに応じて復位しました
しかしその見返りとして、彼は「オプリーチニナ」という制度の導入を要求したのです

オプリーチニナとは、国家をふたつに分割し、その一方を皇帝の直轄地として完全な支配下に置く制度でした

そしてこの直轄領には、皇帝の親衛隊である「オプリーチニキ」が配置されました

彼らは黒衣をまとい、馬には犬の首とほうきを吊るして街を巡回していました
これは「敵を嗅ぎ出し、掃き清める」ことを象徴していたとされます

オプリーチニキは皇帝の命令を受け、反逆の疑いをかけられた人々を拷問し、財産を没収し、時には家族全員を処刑することさえありました

また、イヴァン自身も粛清に積極的で、政敵を容赦なく処分していきます

たとえば、東方遠征で功績をあげた貴族シュイスキー父子は、皇帝暗殺を企てたという疑いをかけられ、共に斬首されました
父は息子の目の前で首をはねられ、息子もその後、同じように処刑台へと送られました

その他にも、大貴族シチェヴィレフが残虐な拷問を受けて処刑されたほか、主計官テューティンは家族もろとも惨殺されるなど、凄惨な事件が相次いだのです

そして1570年には、恐怖政治を象徴する「ノヴゴロドの虐殺」が起こります

ノヴゴロドは、リトアニアやスウェーデンとの交易で栄えていたロシア北西部の都市でしたが、オプリーチニキの度重なる干渉により、市民の不満と混乱が高まっていました

イヴァンはこれを反逆の兆候と捉え、モスクワからノヴゴロドへ懲罰遠征を行います

進軍の途中では各地の村々が焼き払われ、住民は殺害されていきました
そしてノヴゴロドに到着すると、市全体を柵で封鎖し、市民の逃亡を防いだ上で、1か月以上にもわたる組織的な虐殺を断行したのです

この大虐殺による犠牲者数は今も議論がありますが、数千人から数万人にのぼるともいわれています
しかもイヴァンはモスクワへ戻った後も、「ノヴゴロドの陰謀に関わった」として、さらに多くの人々に処罰を加えました

その猜疑心はとどまるところを知らず、ついには信頼していた側近ヴャーゼムスキーにまで及びます

イヴァンは彼に毒味役を任せるほど信用していましたが、ある日突然オプリーチニキに命じて屋敷を襲わせ、公の場で処刑させてしまいました

こうしてイヴァン4世は、国家全体を不安と恐怖、そして暴力の空気で覆い尽くしていったのです

凶暴さが招いた悲劇

しかし、イヴァン4世のとめどない凶暴さは、彼自身にも暗い影を落としていきます

イヴァン4世には後継ぎとなる皇太子イヴァン・イヴァノヴィチがいました
この息子は同じく残忍な性格で、父と共に拷問や処刑に好んで立ち合い、その様子を見ては興奮するような性質の人物でした

ところがある時、息子イヴァンの妻エレーナが身重であるにも関わらず、相応しくない軽装をしているのを見咎めたイヴァン4世が、エレーナを殴打したのです

妊娠中の妻に暴力を振るう父を前に、さすがの息子も止めに入らざるを得ませんでした
しかし身内に反抗され逆上したイヴァン4世は、ついに息子にも襲い掛かったのです

イヴァン4世は、鉄鉤のついたこん棒で息子を滅多打ちにしました
やがて我に返った時には、こめかみを割られた息子が血まみれで横たわっており、すでに意識はありませんでした

4日後、息子は息を引き取り、妊婦であったエレーナも流産の末、命を落としました

この事件以降、イヴァン4世は深刻な不眠症に悩まされ、身体も急速に衰弱していきます
皮膚は剥がれ落ち、悪臭を放つほどに健康は崩れ、かつての威容はすっかり失われていました

そして1584年3月8日、イヴァン4世はチェスの最中に突如として倒れ、そのまま息を引き取りました
享年53

幾万の命を奪った暴君は、あまりにも静かにこの世を去ったのです

その後、イヴァン4世が築いたツァーリ権力と中央集権体制、そして領土拡張の基盤は、ロマノフ朝へと受け継がれ、帝政ロシアの骨格となっていきます

彼の政治は確かに血にまみれたものでしたが、国家形成という視点では重要な転換点でもありました

イヴァン4世の名は今なお「恐怖」と結びつけて語られますが、その支配の形が、現代ロシアの原型のひとつを形作ったことも、また否定できない歴史の事実なのです

参考文献:世界禁断愛大全 / 桐生操 他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

イヴァン4世の凶暴すぎる治世は皇帝になりたての時代の虐待と愛妃アナスタシアの死の影響が大きいかも・・・

ロシアを恐怖にしました


イヴァン4世(1530年〜1584年)は、ロシア史において極めて特異かつ重要な位置を占める君主です

1547年、彼はロシアで初めて「ツァーリ(皇帝)」として戴冠し、国家権力の集中と制度改革を推し進めました

しかしその一方で、彼の治世は苛烈な暴力、粛清、恐怖によっても知られています


凶暴さが招いた悲劇

しかし、イヴァン4世のとめどない凶暴さは、彼自身にも暗い影を落としていきます

イヴァン4世には後継ぎとなる皇太子イヴァン・イヴァノヴィチがいました
この息子は同じく残忍な性格で、父と共に拷問や処刑に好んで立ち合い、その様子を見ては興奮するような性質の人物でした

ところがある時、息子イヴァンの妻エレーナが身重であるにも関わらず、相応しくない軽装をしているのを見咎めたイヴァン4世が、エレーナを殴打したのです

妊娠中の妻に暴力を振るう父を前に、さすがの息子も止めに入らざるを得ませんでした
しかし身内に反抗され逆上したイヴァン4世は、ついに息子にも襲い掛かったのです

イヴァン4世は、鉄鉤のついたこん棒で息子を滅多打ちにしました
やがて我に返った時には、こめかみを割られた息子が血まみれで横たわっており、すでに意識はありませんでした

4日後、息子は息を引き取り、妊婦であったエレーナも流産の末、命を落としました

この事件以降、イヴァン4世は深刻な不眠症に悩まされ、身体も急速に衰弱していきます
皮膚は剥がれ落ち、悪臭を放つほどに健康は崩れ、かつての威容はすっかり失われていました

そして1584年3月8日、イヴァン4世はチェスの最中に突如として倒れ、そのまま息を引き取りました
享年53

幾万の命を奪った暴君は、あまりにも静かにこの世を去ったのです

その後、イヴァン4世が築いたツァーリ権力と中央集権体制、そして領土拡張の基盤は、ロマノフ朝へと受け継がれ、帝政ロシアの骨格となっていきます

彼の政治は確かに血にまみれたものでしたが、国家形成という視点では重要な転換点でもありました

イヴァン4世の名は今なお「恐怖」と結びつけて語られますが、その支配の形が、現代ロシアの原型のひとつを形作ったことも、また否定できない歴史の事実なのです

イヴァン4世の凶暴な治世が帝政ロシアの骨格となったようです(是非はともかく)・・・

 

イヴァン4世の最期は壮絶でしたね

 

 


金髪美少年を愛したせいで破滅した作家オスカー・ワイルド、意外なロリコン遍歴をもつ独裁者ヒトラー、拷問フルコースで街ごと死の沈黙に包んだ暴君イヴァン雷帝、「特に上腕二頭筋が美味」と尋問官にうそぶいた主食=人肉のジェフリー・ダーマー・・・
タブーを犯す悦楽とはどんなものか?
人類の歴史とともに古くからある、近親相姦、ロリコン、カニバリズムなど<禁断の愛>に身を捧げた彼らの凄まじい生き方
シリーズ史上、最もグロいエピソード満載の傑作人物伝!

9世紀後半から13世紀半ばにかけて、現在のウクライナ・キーウ周辺を中心に、東ヨーロッパと北方世界に広がっていた国家、キエフ・ルーシ

10世紀、この森と川に抱かれたキエフ・ルーシに、後世まで語り継がれる女性統治者が現れました

その女性の名は「キエフのオリガ」

彼女は夫を殺されたのち、4つの段階に分けて苛烈な報復を行ったという伝承で広く知られています

伝承として語り継がれる4つの復讐劇と、史実の中で見えてくる統治者オリガの姿をたどっていきます


北方からの来訪者

オリガの出自については、諸説あります

12世紀初頭にキエフの修道士ネストルがまとめた、キエフ・ルーシの歴史を記した『原初年代記』には、オリガがプスコフの出身であったと記されています

ただ、この年代記には民族的な背景までは書かれておらず、彼女がどの集団に属していたのかは明らかではありません

一方で、オリガの名前が北欧系に近いことから、当時キエフ・ルーシに深く関わっていた北方の商人兼戦士集団「ヴァリャーグ」と関係していたのではないかという説もあります

生年に関しても、890年〜920年代と推定されており、正確な年代は不明です

若い頃のオリガは、やがてキエフの大公イーゴリ1世と結婚し、大公妃としてその地位を確立していきました

イーゴリ1世はルリック王朝の一員で、広大な領域と多様な部族を束ねる立場にありました

オリガは夫のもとで、各部族の力関係や交易路の管理、税の徴収など、ルーシを支える実務を行いました

しだいに彼女はその鋭い判断力で周囲から認められ、存在感を高めていきます

イーゴリ1世の死と「4段階の復讐」

945年、オリガにとって運命を大きく揺るがす出来事が起きました

夫イーゴリ1世が、東スラブ人の部族ドレヴリャーネ族により殺害されてしまったのです

『原初年代記』には、イーゴリ1世が重い貢納を巡る争いの末、木に縛られて引き裂かれたと記されています

その知らせを受けたオリガの胸には、深い悲嘆とともに、抑えきれない怒りがこみ上げました

そして伝承では、彼女の復讐は4つの段階を踏んで進められたと語られています

第1の復讐:使者を船ごと生き埋め

その最初の出来事は、ドレヴリャーネ族の「求婚の使者」に対する策略でした

ドレヴリャーネ族は、夫イーゴリ1世を殺害したにもかかわらず、自分たちの王子マルの妻になれと、オリガに求婚の使者を送ってきたのです

オリガは彼らを穏やかに迎えるふりをし、「自分たちの慣習に従い、船に乗って来なさい」と命じます

使者たちはその指示を疑うことなく船に乗り、キエフへと現れました

しかし彼らが到着すると、オリガはその船を大きな穴へと運ばせ、そのまま土をかぶせて生き埋めにしまったのです

第2の復讐:賓客として招き入れ、浴場ごと焼き払う

次にオリガは、ドレヴリャーネ族の重臣たちを標的にしました

彼女は使者を失ったことを詫びるように見せかけ、「本当に自分を嫁にしたいのなら、今度は部族の最も重要な人々を送りなさい」と伝えたのです

ドレヴリャーネ族はこれを信じ、代表者たちを丁重に選び、キエフへと派遣しました

オリガは彼らを温かく出迎えるふりをし、「旅の疲れを癒やすために浴場で休むとよい」と勧めます

しかし、重臣たちが浴場に入った瞬間、外から扉が固く閉ざされ、建物は一斉に火を放たれました

逃げ場を失った彼らは、焼け落ちる浴場の中で全員が命を落としたのです

第3の復讐:追悼会で泥酔させ、数千人を討つ

重臣たちを葬ったオリガは、次にドレヴリャーネ族全体をまとめて制圧するための策を講じました

彼女は、夫イーゴリ1世の埋葬地近くで追悼会(トリズナと呼ばれる葬送の宴)を催すと伝え、ドレヴリャーネ族に広く参列を呼びかけました

ドレヴリャーネ族は、これを和解の兆しと勘違いし、大勢で訪れました
オリガは来訪者をもてなすように振る舞い、蜜酒を惜しみなく振る舞います

やがて参加者たちはすっかり泥酔し、身動きもままならない状態になりました

その瞬間、オリガの兵たちが一斉に動きました

トリズナには本来、儀式として模擬戦が行われる慣習がありましたが、彼女はその慣習を逆手に取り、武器を持った兵に酔ったドレヴリャーネ族を襲わせたのです

『原初年代記』では、このときおよそ5000人が討たれたと記されています

第4の復讐:鳩と雀を使った火攻めで城を落とす

オリガの復讐の最終段階は、ドレヴリャーネ族の本拠地イスコルステニに向けられました

彼女はこの町を一年以上包囲し続けましたが、城壁は堅く、決着がつかない状態が続きました

そこでオリガは「包囲を解く代わりに、各家が飼っている鳩と雀を三羽ずつ差し出しなさい」と要求します
取るに足らない要求に見えたため、住民たちはこれに素直に応じました

その後、オリガの軍の兵士たちは、受け取った鳩や雀に硫黄など火のつく素材を結びつけ、いっせいに空へ放ちました

鳩や雀は帰巣本能に従って家々へ戻り、屋根裏や巣穴に潜り込んで火が広がり、イスコルステニ全体が瞬く間に炎に包まれました

町が混乱に陥る中、オリガの軍は一気になだれ込み、抵抗する住民を制圧しました

こうして、ドレヴリャーネ族の拠点は壊滅したのです

この奇策は、伝承の中でもとくに有名な場面であり、オリガの底知れない計略と憎しみを象徴する出来事として語り継がれています

幼き王子を抱えて 悲劇から始まる摂政の誕生

945年にイーゴリ1世が落命したとき、オリガは幼いスヴャトスラフを抱えたまま摂政として政務を引き継ぎました

悲しみの中でも彼女は立ち止まらず、国家を安定させるために動き始めます

まず、混乱していた貢納制度を整理し、「ポゴスト」と呼ばれる徴税と行政の拠点を各地に設置しました
これは税制の整備だけでなく、地方に大公権力を示す効果もあり、統治の安定に大きく寄与したと考えられています

前述したように、ドレヴリャーネ族をめぐる彼女の復讐譚はよく知られていますが、実際には彼らの支配地の再編や反抗の抑制といった政治的措置が中心だったとみられます

伝承の背後には、秩序維持を優先する冷静な判断があったのです

オリガの治世下では、ドニエプル川の交易路が機能し続け、商人や職人が集い、ルーシの経済基盤は着実に整えられていきました

政治と信仰の決断、そして列聖へ

957年、オリガはビザンツ帝国の都コンスタンティノープルを訪れ、皇帝コンスタンティヌス7世の前で洗礼を受けました

これは単なる宗教的な決断にとどまらず、当時のルーシとビザンツの外交関係にも大きな意味を持つ出来事でした

異教が中心だった当時のルーシにおいて、オリガの洗礼は、ビザンツとの友好関係を深めるきっかけとなったと考えられています

オリガ自身の洗礼は、孫のウラジーミル大公が988年にルーシ全土をキリスト教化する道筋を作る先駆けとなりました

彼女が直接布教にあたった記録は多くありませんが、信仰を受け入れる環境を整えた功績は確かです

また、教会の建設や信仰の受け入れに関わったとされ、後の宗教文化にも影響を残しました

冷徹な4段階の復讐伝承に彩られる一方、摂政としての統治力と外交的手腕、そして信仰への関心が一体となったオリガの生涯は、キエフ・ルーシの秩序と宗教文化の基礎を築いたといえるでしょう

その功績は後世に称えられるとともに、東方正教会により列聖され、今日に至るまで「聖オリガ」として敬われているのです

参考文献:『世界史の中のヤバい女たち』/黒澤 はゆま(著)
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

『ロシア初の聖女』夫を殺された大公妃オリガの残酷すぎる4つの復讐伝説・・・

彼女は夫が殺された後、子の摂政として君臨し、4つの復讐をし、一方で「聖女」としてロシアの信仰にも影響をあたえました


9世紀後半から13世紀半ばにかけて、現在のウクライナ・キーウ周辺を中心に、東ヨーロッパと北方世界に広がっていた国家、キエフ・ルーシ

10世紀、この森と川に抱かれたキエフ・ルーシに、後世まで語り継がれる女性統治者が現れました

その女性の名は「キエフのオリガ」

彼女は夫を殺されたのち、4つの段階に分けて苛烈な報復を行ったという伝承で広く知られています


957年、オリガはビザンツ帝国の都コンスタンティノープルを訪れ、皇帝コンスタンティヌス7世の前で洗礼を受けました

これは単なる宗教的な決断にとどまらず、当時のルーシとビザンツの外交関係にも大きな意味を持つ出来事でした

異教が中心だった当時のルーシにおいて、オリガの洗礼は、ビザンツとの友好関係を深めるきっかけとなったと考えられています

オリガ自身の洗礼は、孫のウラジーミル大公が988年にルーシ全土をキリスト教化する道筋を作る先駆けとなりました

彼女が直接布教にあたった記録は多くありませんが、信仰を受け入れる環境を整えた功績は確かです

また、教会の建設や信仰の受け入れに関わったとされ、後の宗教文化にも影響を残しました

冷徹な4段階の復讐伝承に彩られる一方、摂政としての統治力と外交的手腕、そして信仰への関心が一体となったオリガの生涯は、キエフ・ルーシの秩序と宗教文化の基礎を築いたといえるでしょう

その功績は後世に称えられるとともに、東方正教会により列聖され、今日に至るまで「聖オリガ」として敬われているのです


 

 


世の中には強烈な強い女性、ある意味「ヤバイ女たち」も・・・
長い人類の歴史の中で、強い男はヒーローと呼ばれ、強い女は魔女と呼ばれてきた
アステカ王国を滅ぼした17歳から、復讐の鬼と化したウクライナ聖人、民を戦乱の世から救った中華最強の悪女まで、世界を変えた女たちはどのような人生を歩んだのか? 
男性社会の序列をはねのけ、その強さゆえに迫害された‶魔女〟たちの活躍と、男性を中心に作られた歴史の裏に隠されてきた素顔に迫る!

郝昭とは

三国時代は、中国史の中でも戦乱が絶えず、各地で英雄が現れては消えていった時代である

曹操・劉備・孫権といった名だたる君主だけでなく、その配下には無数の武将や官僚が存在し、彼らの働きが情勢を大きく左右した

魏の明帝(曹叡)の治世は、蜀の丞相・諸葛亮が北伐を繰り返した緊迫の時代であり、魏にとっては国境防衛の力量がひときわ重視されていた

郝昭(かくしょう)は、そのような激動の時代に生きた魏の武将である


字は伯道(はくどう)

出身は并州太原郡で、特別な家柄ではなく、若い頃に軍へ入り、実戦で功績を重ねて出世していった典型的な叩き上げの人物であった

南北朝時代の歴史家・裴松之が注で引用した『魏略』には、郝昭について「為人雄壮」とあり、体格が良く勇気に富んだ人物だったと伝わる

やがて彼は「雑号将軍」という地位に任じられた

雑号将軍は、一見すると名が軽く感じられるが、実際は特定の任務に応じて臨時に授けられる将軍号で、固定の編制を持つ重号将軍とは異なるものの、能力に応じて任命される実戦型の職であった

郝昭はまさにその典型であり、特別な後ろ盾がなくとも、純粋な戦功によって将軍まで昇りつめたのである

西方を10年以上安定させた実力と評価

郝昭(かくしょう)が本拠として活躍したのは、魏の西方に位置する河西地方である

ここは蜀漢の圧力がかかるうえ、羌族などさまざまな部族が入り交じる土地で、軍事だけでなく、地域の人びととの折り合いや、異民族とのやり取りまで必要とされる難しい任地だった

『魏略』では、郝昭がこの河西を10年以上にわたり安定させ、住民と異民族の双方から畏れ敬われたと記されている

河西が抱える問題の一つは、反乱の発生頻度であった

平穏に見えても、一度火種が広がると一気に広域へ飛び火し、鎮圧が遅れれば魏の中枢地域(長安周辺)が危険になる

建安20年(215年)に起きた大反乱は、その典型だった

武威や張掖に根を張っていた河西の地方豪族・張進、麹演、黄華らが呼応して蜂起し、さらに周辺の胡族(三種胡と呼ばれる騎馬民族)が盗賊化して交通路をふさぎ、情勢は一気に緊迫化した

さらに当時は、地元豪族の多くが反乱側に流れてしまい、情勢は魏にとって明らかに不利だった
郝昭には「西へ進んではならない」という詔も出され、誰もが鎮圧は難しいと見ていた

ここで郝昭は、詔の制約で動けずにいたものの、河西情勢に詳しい魏の官僚・蘇則(そそく)の働きかけと後押しを受け、ついに出陣に踏み切る

蘇則が羌族の首領たちをまとめ、協力を取り付けたことで郝昭の軍は動きやすくなり、各方面の軍と連携して反乱勢力を制圧し、河西の治安を立て直すことに成功した

太和元年(227年)には、西平の地方豪族であった麹英(きくえい)が、官吏を殺して反乱を起こした
これに対し、魏は郝昭と鹿磐(ろくばん)を派遣し、すぐに麹英を討ち取って騒動を収めている

この一件は正史『三国志』明帝紀に記されており、郝昭が現地での異変に素早く対応できる将であったことを示す、確かな記録である

郝昭は、武勇に優れるだけではなく、情勢判断と指揮統率に長けた優秀な将軍だったのだ

「陳倉の戦い」郝昭の驚異的な防衛戦術

蜀漢の諸葛亮が、第二次北伐を進めていた太和2年(228年)冬、次の標的として選んだのが陳倉だった

蜀の記録では、この時の兵力は数万(後世の推計でおよそ5万人規模)とされ、郝昭が守る陳倉城は、およそ1000名ほどしかいなかった

数字だけ見れば圧倒的な差であり、しかも相手は天才軍師・諸葛亮である

普通に考えれば、陳倉城はとても持ちこたえられない状況だった

しかし、ここで郝昭は真価を見せることになる

諸葛亮はまず、郝昭と同郷の役人・靳詳(きんしょう)を呼び寄せ、城外から降伏を勧めさせた

「親しい間柄なら、郝昭の心が揺らぐかもしれない」という狙いである

しかし郝昭は、城の楼上から即座にこれを拒み

「国から受けた恩を裏切ることはできない。ここで死ぬ覚悟で守るだけだ!」

と答えたという

説得は完全に失敗し、諸葛亮は正攻法で攻め落とすしかなくなった

蜀軍は、攻城兵器の雲梯(うんてい)を立てかけ、衝車(しょうしゃ)を前に押し出して、城門をこじ開けようとした

しかし郝昭は、すぐに火矢で雲梯を焼き落とし、衝車には石臼を縄でつり下げて叩き潰すという力技で応じる

さらに蜀軍は、高さのある井闌(せいらん)を組んで城内へ矢を撃ち込もうとしたが、郝昭はその隙に、城の内側へもう一段の壁を築き、射し込まれる角度そのものを失わせてしまった

地道を掘って城内へ抜けようとする策にもすぐ気づき、横から回り込む形で穴をふさぎ込んだという

諸葛亮が新しい手を出せば、郝昭はその一段上の対策で受け止める

この攻防は、20日以上続いた

やがて、魏の救援として費曜(ひよう)らの軍が到着し、諸葛亮は撤退を余儀なくされる

わずか1000名ほどで大軍を防ぎ切り、城壁を一度も抜かせなかった郝昭の名声は、この陳倉の戦いで決定的なものとなった

戦い後の郝昭の評価

陳倉の攻略に失敗した蜀軍が撤退した後、魏の朝廷では郝昭の働きが高く評価された

圧倒的不利な状況で陳倉を守り抜いたことは、北方防衛の観点から見ても非常に大きな成果だったからである

帰還した郝昭は、洛陽で皇帝・曹叡(そうえい)に拝謁し、ねぎらいの言葉を受けた

曹叡は、そばにいた中書令の孫資に向かってこう語ったという

帝引見慰勞之,顧謂中書令孫資曰:「卿鄉里乃有爾曹快人,為將灼如此,朕復何憂乎?」

「お前の郷里(まわり)には、こんなに見事な武将がいるのか。これほどの将がいるなら、朕が何を憂えることがあろうか」

『三国志』魏書・明帝紀(裴松之注)『魏略』より引用

しかし、郝昭が中央で大きな役職に就くことはなかった

功績を認められながらも、その後ほどなくして病で亡くなってしまったためである

郝昭は最期にあたり、息子の郝凱(かくがい)へ、静かに言い残した

戦場で攻城具を作るために古い墓を掘り返した経験から「厚く葬る必要などない。人は死ねば、静かに眠る場所があれば十分だ」と語り、葬りは質素にするよう諭したのである

実戦を生き抜いた将らしい、飾り気のない現実的な価値観がよく表れている

郝昭の名は、三国志の華々しい名将たちの陰に隠れがちである

だが、河西を10年以上安定させた継続的な働きと、諸葛亮の大軍から陳倉を守り抜いた実績は、個人の武勇伝にとどまらない重みを持っている

郝昭は、戦乱の時代において国家の屋台骨を支えた存在であり、その価値はもっと高く評価されるべき人物だろう

参考 : 陳寿『三国志』明帝紀、裴松之注 引『魏略』他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

諸葛孔明はフィクションも交えた「三国志演義」の影響もあり、神業的な天才軍師といわれることが多い

「三国志演義」は蜀びいきの面もあり、ことさら誇張した面もある

しかし、孔明が優秀な政治家・軍師であったことは間違いないだろう

そんな孔明5万の大軍をたった1000人ほどで退けた郝昭は凄い・・・


郝昭とは

三国時代は、中国史の中でも戦乱が絶えず、各地で英雄が現れては消えていった時代である

曹操・劉備・孫権といった名だたる君主だけでなく、その配下には無数の武将や官僚が存在し、彼らの働きが情勢を大きく左右した

魏の明帝(曹叡)の治世は、蜀の丞相・諸葛亮が北伐を繰り返した緊迫の時代であり、魏にとっては国境防衛の力量がひときわ重視されていた

郝昭(かくしょう)は、そのような激動の時代に生きた魏の武将である


戦い後の郝昭の評価

陳倉の攻略に失敗した蜀軍が撤退した後、魏の朝廷では郝昭の働きが高く評価された

圧倒的不利な状況で陳倉を守り抜いたことは、北方防衛の観点から見ても非常に大きな成果だったからである

帰還した郝昭は、洛陽で皇帝・曹叡(そうえい)に拝謁し、ねぎらいの言葉を受けた

曹叡は、そばにいた中書令の孫資に向かってこう語ったという

帝引見慰勞之,顧謂中書令孫資曰:「卿鄉里乃有爾曹快人,為將灼如此,朕復何憂乎?」

「お前の郷里(まわり)には、こんなに見事な武将がいるのか。これほどの将がいるなら、朕が何を憂えることがあろうか」

『三国志』魏書・明帝紀(裴松之注)『魏略』より引用

しかし、郝昭が中央で大きな役職に就くことはなかった

功績を認められながらも、その後ほどなくして病で亡くなってしまったためである

郝昭は最期にあたり、息子の郝凱(かくがい)へ、静かに言い残した

戦場で攻城具を作るために古い墓を掘り返した経験から「厚く葬る必要などない。人は死ねば、静かに眠る場所があれば十分だ」と語り、葬りは質素にするよう諭したのである

実戦を生き抜いた将らしい、飾り気のない現実的な価値観がよく表れている

郝昭の名は、三国志の華々しい名将たちの陰に隠れがちである

だが、河西を10年以上安定させた継続的な働きと、諸葛亮の大軍から陳倉を守り抜いた実績は、個人の武勇伝にとどまらない重みを持っている

郝昭は、戦乱の時代において国家の屋台骨を支えた存在であり、その価値はもっと高く評価されるべき人物だろう



 

 


魏・蜀・呉、三国の興亡を描いた『三国志』には、「桃園の誓い」「三顧の礼」「出師の表」「泣いて馬謖を斬る」など心打つ名場面、また「水魚の交わり」「苦肉の策」「背水の陣」「髀肉の嘆」など名言や現代にも通じる格言も数多く登場する
また、曹操、劉備、孫権、孔明、関羽、張飛、趙雲、周瑜、司馬懿など個性豊かで魅力的な登場人物に加え、官渡の戦い、赤壁の戦い、五丈原の戦い等、歴史上重要な合戦も多い
英雄たちの激闘の系譜、名場面・名言が図解でコンパクトにすっきりわかる『三国志』の決定版!
長い中国史で「三国志」の時代はわずかだ
しかしこの時代は個性的、魅力的人物が多く登場した

文化が花開き、多くの都市国家や小君主国が乱立していたルネサンス期のイタリアにおいて、その美貌と冷酷さから女傑として知られた女領主がいました

その名は、カテリーナ・スフォルツァ

彼女の残酷さに人々は恐怖し、その美しさは敵将を夢中させたと言います

そんなカテリーナとは、一体どんな人物だったのでしょうか


残忍すぎた父と、美人すぎた母

1463年、ルネサンスが盛期を迎えるイタリアで、カテリーナはこの世に生を受けました

父親は残忍さで知られるミラノ公ガレアッツオ、母親は優雅な美貌で評判のルクレツィアでした
カテリーナの誕生のいきさつは、その後の彼女の人生を暗示するかのように波乱を含んだものでした

母ルクレツィアはミラノ出身で、カテリーナを産む前にガレアッツオの友人ランドリアーニ伯爵と結婚し、二人の子供をもうけていました
しかし、ガレアッツオはルクレツィアに一目惚れし、邪な下心を抱いたのです

1460年のある日、彼は自らの居城にルクレツィアをおびき寄せ、そこで彼女に性的暴行を加えました

さらに、ガレアッツオはランドリアーニ伯爵に「ルクレツィアを自分の妾にしたい」と要求します
ランドリアーニはミラノの勇将だったガレアッツオの脅しに逆らえず、妻を差し出すしかありませんでした

その後、ルクレツィアはガレアッツオとの間に四人の子供を産み、そのうちの二番目がカテリーナでした

幸せな結婚生活から一転

父親から勇猛さと冷酷さを、母親からは当代随一の美貌を受け継いだカテリーナは、11歳で結婚します
相手はローマ教皇シクストゥス4世の甥で、小都市イーモラとフォルリの領主であるジローラモ伯爵でした

ジローラモは教会軍の司令官としてローマの軍事と政治を統括しており、カテリーナも夫と共にローマで暮らし、数年後には長女ビアンカと長男オッタヴィアーノをもうけました

順調に思えた結婚生活でしたが、1484年に後ろ盾であったシクストゥス4世が急逝すると状況が一変します
ジローラモがローマで反乱を企てるも失敗し、カテリーナは子供たちを連れて領地フォルリへ戻らざるを得なくなったのです

さらに、バックボーンを失ったジローラモはフォルリ領内の不平分子によって反乱を起こされ、殺害されてしまいます
そして、カテリーナも子供と一緒に捕えられてしまったのです

初戦でいきなり戦上手だったカテリーナ

絶体絶命の状況にもかかわらず、カテリーナは驚くほど巧みで大胆な駆け引きを展開しました

彼女は敵に捕まることを察知すると、すぐに実家のミラノに援軍を求める急使を送っていたのです
同時に、領地フォルリの城を預かっていた城代には「城を死守しなさい」と命令していました
そして自らを捕らえた反乱分子には素知らぬ顔で、「城を明け渡すよう、私が城代を説得してみましょう」と申し出たのです

この申し出にまんまと騙された反乱側はカテリーナを解放してしまいます。カテリーナは堂々と城に入り、涙さながらの城代に迎えられます
そして当のカテリーナはというと、さっさと部屋に入って寝てしまったのです

一方、じりじりとした面持ちで開城を待ち構えていた反乱者らは、ここでようやくカテリーナにはめられたと気づきます
まんまと騙された彼らは当然のごとく怒り狂いました

反乱者たちは、カテリーナの子供たちを人質として城の前に連れ出し、泣き叫ぶ子供たちの喉元に剣を突きつけて降伏を迫りました

語り継がれる逸話によると、なんとカテリーナはこの時、城塞の上からスカートを捲り上げ、自らの身体を見せて「子供なんて、ここからいくらでも産めるわ!」と啖呵を切ったといいます

そして、あっけに取られた敵を尻目に、時間稼ぎに成功したカテリーナの元へミラノからの援軍が到着し、あっという間に形勢を逆転させてしまったのです

こうしてカテリーナは反乱の鎮圧に成功し、援軍の総大将を引き連れてミラノに凱旋、二人の子供たちも無事に救出されました

恋する女の恐るべき復讐劇

その後、カテリーナは二人の子供をそれぞれイーモラとフォルリの城主に任命し、自らは後見人として実権を握りました

そして、夫亡きあとの彼女は新しい男性に夢中になります

相手は8歳年下の小姓、ジャコモ・フェロでした

二人は1490年に秘密裡に結婚しますが、ジャコモはこの結婚を機に、カテリーナの子供たちに対して付け上がった態度を取るようになります
ある時には、息子オッタヴィアーノの頬を家臣全員の前で張り飛ばすこともありました


こうしたジャコモの態度は周囲からも嫌われ、その憎悪からついに殺害計画が企てられます
1495年、計画の首謀者となったゲッティという男が中心となり、狩りから帰ってきたジャコモを襲撃し、その場にいたカテリーナの目の前でジャコモを蜂の巣のように刺し、遺体を井戸に投げ捨ててしまったのです

あまりの惨劇にカテリーナは嗚咽を隠せませんでしたが、その涙はすぐに凄まじい憤怒と復讐の炎に変わりました

まず、首謀者のゲッティは捕らえられ、大聖堂のバルコニーから裸で吊るし首にされました
ゲッティの仲間7人は拷問の後、馬に縛られ市中引き回しとなります
5人はそのまま息を引き取り、残り2人は大聖堂でゲッティの亡骸の横に吊るされました

しかし、カテリーナの復讐はそれに留まらず、謀反人の家族にまで及びました
ゲッティの家族は生きたまま空井戸に投げ込まれ、親類縁者たちは10日間で40名が死刑、50名が投獄されたのです

彼女の冷酷さに、領民たちはみな戦慄するばかりでした

「敵将すら夢中になった」カテリーナの魅力と晩節

一方で、カテリーナは冷酷さだけでなく、女領主として防衛と外交に優れた才能を発揮し、「女傑」としてその名を広く知られることとなります

しかし、そんなカテリーナもイタリア統一の野望を抱く、チェーザレ・ボルジアの進撃には抗えませんでした

チェーザレとの一か月に及ぶ戦いの末に、敗北を認めざるを得ない状況となります

カテリーナが城を開けた1499年、彼女は30代も半ばを過ぎようとしていました

12歳年下のチェーザレはカテリーナの魅力に夢中になり、三日三晩彼女を手放さず、「これほどの女は生涯二度と現れぬ」と言わせたほどでした

こうしてカテリーナは「イタリアの女傑」から「イタリアの男殺し」として、各国の宮廷にまで知られるようになったのです

その後、カテリーナは一年の幽閉を経てローマの修道院に移されます
以後はうって変わって敬虔な生活を過ごし、46歳で肺炎のためこの世を去りました

権力、恋、闘争と激しくも華やかなカテリーナの生涯は、ルネサンス期の貴婦人の中でも特に異彩を放っていたと言えるでしょう

参考文献:
『世界悪女大全』 文藝春秋 桐生操 (著)
『世界史を彩った美女悪女51人の真実』マイウェイ出版 副田 護 (著)
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

文化が花開き、多くの都市国家や小君主国が乱立していたルネサンス期のイタリアにおいて、その美貌と冷酷さから女傑として知られた女領主がいました

その名は、カテリーナ・スフォルツァ

彼女の残酷さに人々は恐怖し、その美しさは敵将を夢中させたと言います


「敵将すら夢中になった」カテリーナの魅力と晩節

カテリーナは冷酷さだけでなく、女領主として防衛と外交に優れた才能を発揮し、「女傑」としてその名を広く知られることとなります

しかし、そんなカテリーナもイタリア統一の野望を抱く、チェーザレ・ボルジアの進撃には抗えませんでした

チェーザレとの一か月に及ぶ戦いの末に、敗北を認めざるを得ない状況となります

カテリーナが城を開けた1499年、彼女は30代も半ばを過ぎようとしていました

12歳年下のチェーザレはカテリーナの魅力に夢中になり、三日三晩彼女を手放さず、「これほどの女は生涯二度と現れぬ」と言わせたほどでした

こうしてカテリーナは「イタリアの女傑」から「イタリアの男殺し」として、各国の宮廷にまで知られるようになったのです

その後、カテリーナは一年の幽閉を経てローマの修道院に移されます
以後はうって変わって敬虔な生活を過ごし、46歳で肺炎のためこの世を去りました

権力、恋、闘争と激しくも華やかなカテリーナの生涯は、ルネサンス期の貴婦人の中でも特に異彩を放っていたと言えるでしょう



 

 


処女鮮血パック王女から巨根狂皇后まで

イブが素直な好奇心から禁断の果実をむさぼったことに始まる「人類原罪の歴史」は、
近親相姦、SM、幼児虐殺黒魔術、玉座の娼婦など乱倫の世界へ美女悪女たちの導く!

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15世紀のイタリアではルネサンス文化が花開き、暗黒時代と呼ばれたヨーロッパ文化は新しい動きを見せていた

そのような背景の中、芸術の分野では数々の天才が誕生した

・レオナルド・ダ・ヴィンチ
・ミケランジェロ・ヴォナローティ
・ラファエロ・サンティ
・サンドロ・ボッティチェッリ

などが有名である

その中でも、最も大きな作品であるシスティーナ礼拝堂の天井画を残し、それをなんとほぼ1人で創り上げた人物がいる
それがミケランジェロである

彼は画家、彫刻、建築、詩と多くの分野に非凡な才能をみせている


ミケランジェロの出自

ミケランジェロは、1475年にイタリアのフィレンツェで生まれる
父親は役人であり、母親は彼が6歳の時に死去している

父親は大理石採掘場を経営しており、ミケランジェロは小さな頃から石を彫るための道具が身近にあった
後々彫刻家として才能を開花させる要因である

13歳の時に父親の推薦もあり画家の元へ弟子入りし、絵画や彫刻の製作を学んでいった
この修行期間に彼は、階段の聖母、ケンタウロスの戦いという彫刻のレリーフを製作している


ケンタウロスの戦い

ローマでの活躍
その後、政治上の理由によりフィレンツェを離れることになったが、作品の素晴らしさはローマでも噂になっておりバチカンへと招待される事となる

ローマに到着した時、ミケランジェロは21歳であった

彼はローマでの最初の大仕事であったピエタを製作

この作品は磔の刑に処されたイエスの亡骸を抱える聖母マリアの像であるが、大理石で彫られたとは思えないほどに聖母マリアの悲しい表情や衣服のシワまで見事に表現されている
同時期の画家であるヴァザーリは「奇跡と言える彫刻で、大理石で出来ているとは思えない」と評している

彼の初期の代表作 ピエタ

1504年、ミケランジェロの代表作であるダビデ像を製作


ミケランジェロが彫刻家としての名声を手に入れた傑作 ダビデ像

5メートルを超える大理石から掘られたこの力強い像は、彼の彫刻家としての才能と名声を決定的なものとする作品であった
筋肉の表現、筋張った健、そして今にも動きそうなポージングは彫刻の最高傑作と言える

このダビデ像は上半身と下半身の比率がわざと悪くなるように彫られている
この像が5メートルの大きさであった事と設置場所が高い所になる事が事前にわかっていたため、上半身を大きくする事で見る人が目線を上に見上げた時にバランスが良く見えるように計算されているのである

この作品を製作するにあたって、ミケランジェロは自ら大理石を見に行き素材を確認しており、作業しているところを他人に見られないように作業場に仕切りを立て、作品造りに集中していたようである

1508年の段階で、ミケランジェロは優れた画家としてローマ教皇に認知されており、教皇のユリウス2世の霊廟の設計や他の仕事も多く依頼されており、1つの作品の制作を終わらせる事が難しい状態になっていた
霊廟に関しては完成に40年かかっている

ミケランジェロ最大の作品

しかし彼は多忙の中で最も大きな作品を完成させる
それがシスティーナ礼拝堂天井画である

システィーナ礼拝堂天井画

旧約聖書の内容を天井画として描いており、縦40メートル横13メートルの巨大な作品である

作品の構成は過去に類を見ない物であり、彼は自身の画家としての才能と建築の知識を活かして立体的な構成になるような絵画を描いた
この作品をミケランジェロはほぼ1人で、4年の歳月を費やして完成させている

天井に絵を描くのは長時間上向きな状態で絵を描く事になるので、ミケランジェロは首と腰を痛めたり、製作途中にフレスコ画の染料が目に入り視力を落としてしまったりと大変な思いをしながら完成させた

この礼拝堂にはもう一つ彼の傑作がある
最後の審判である

最後の審判

最後の審判の制作には、1541年から1547年の6年間をかけている
天井画を描いてから40年近く経っての事である

キリストの再臨と現世の終末を、天使に囲まれたキリストが生前の行いによって人々の魂を裁いている情景で描いている
作品には生々しい男女の裸体が描かれていたが、人物の下半身を隠すように後に加筆されて完全なオリジナルは今は見る事が出来ない

その後も数々の作品や建築を世に残していったミケランジェロは、1564年に88歳でこの世を去った

最後に

バチカンサンピエトロ大聖堂の特徴的なドーム これもミケランジェロの設計である

ミケランジェロは弟子を一人も作らず最後まで孤高の芸術家であった
彼の頑固で偏屈な性格で他人が近寄りがたい人物であった
彼は1人でいることを好み、見た目に気を遣わず、食事も必要だから食べるといった具合で、芸術以外に興味がなかった

同時代のレオナルド・ダ・ヴィンチはアーティスト気質であったが、ミケランジェロは職人気質であり、大量の作品を1人で仕上げきる意思の強さも持ち合わせていた

彼のその多大な労力によって今も素晴らしい芸術作品が世に残っているのである

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

15世紀のイタリアではルネサンス文化が花開き、暗黒時代と呼ばれたヨーロッパ文化は新しい動きを見せていた

そのような背景の中、芸術の分野では数々の天才が誕生した

・レオナルド・ダ・ヴィンチ
・ミケランジェロ・ヴォナローティ
・ラファエロ・サンティ
・サンドロ・ボッティチェッリ

などが有名である

その中でも、最も大きな作品であるシスティーナ礼拝堂の天井画を残し、それをなんとほぼ1人で創り上げた人物がいる
それがミケランジェロである

彼は画家、彫刻、建築、詩と多くの分野に非凡な才能をみせている

ほぼ同時代のレオナルド・ダ・ヴィンチ(ダ・ヴィンチのほうが年長)が「万能の天才」といわれたが、ミケランジェロもダ・ヴィンチに双肩される「万能の天才」だと私は思う

 

私は芸術面では全てに凄いですが、ダ・ヴィンチは絵画、ミケランジェロは彫刻が特に凄い印象です


多くの傑作を残したミケランジェロ・・・

バチカンサンピエトロ大聖堂の特徴的なドーム これもミケランジェロの設計である

ミケランジェロは弟子を一人も作らず最後まで孤高の芸術家であった
彼の頑固で偏屈な性格で他人が近寄りがたい人物であった
彼は1人でいることを好み、見た目に気を遣わず、食事も必要だから食べるといった具合で、芸術以外に興味がなかった

同時代のレオナルド・ダ・ヴィンチはアーティスト気質であったが、ミケランジェロは職人気質であり、大量の作品を1人で仕上げきる意思の強さも持ち合わせていた

彼のその多大な労力によって今も素晴らしい芸術作品が世に残っているのである

 

 


未経験ながら「軍事専門家」として、自身を売り込んだ、ダ・ヴィンチ
「神のごとき」と賞賛されたミケランジェロは、「逃亡癖」を持つ男
ルネサンスの完成者にして「美のカノン(規範)」ラファエッロは、野心家の美男子

なぜ彼らは、ルネサンスの三大巨匠と呼ばれるようになったのでしょうか?
本書は、イタリアで研究生活を過ごした著者・池上英洋氏が、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエッロの生涯や、彼らが生きた当時のイタリア各都市の様子を、活き活きと描写するもの
ルネサンスの巨匠たちの意外にも生命力あふれる生き方を糸口に、みんなが知っているようで知らない、この時代の作り手をとりまく社会状況、ルネサンスの美術の動向を、やさしく分かりやすく通読できるテキストとして紹介する本です

カリウム豊富な「海塩」を選ぼう
国内で流通している塩は、海水を原料とした「海塩」、岩塩を原料とした「岩塩」、中国奥地や死海などで生産される「湖塩」に分けられますこの中で、ぜひ摂取したいのが、ミネラル豊富で日本人が昔から食べてきた「海塩」
特に精製していない自然な塩です

2010年より「食用塩の表示に関する公正競争規約」が定められ、食塩表示が統一されました
これにより原材料表示が明確化され、定義があいまいな「自然塩」「天然塩」といった表示は禁止されるようになりました
ですから購入するときは、原材料が「海水」「海塩」と表示されているものを選んでください

適正な表示をしている塩には「しお公正マーク」がつけられていますから、こちらも合わせてチェックしましょう

ちなみに岩塩には、ナトリウムが多く、カリウムがほとんど含まれていません
たまに、味つけのアクセントとして楽しむ程度ならよいですが、日常使いには海塩を選びましょう

塩選びはミネラル豊富なものがいい!
世界一ミネラル豊富な沖縄の塩
私が愛用しているのはカリウムを豊富に含む沖縄の塩「ぬちまーす」です
さまざまなミネラルがバランスよく含まれており、その数なんと21種類
世界一ミネラルが豊富な塩としてギネスにも認定されています


「ぬちまーす」(250g)1080円

【 オススメ塩の主な成分と含有量 】ぬちまーす

塩化ナトリウム:29.25g
塩化カリウム:1.14g
マグネシウム:3.62g
カルシウム:0.44g
(100gあたり/ぬちまーすHPより)

【POINT】
精製塩同様、カリウムの乏しい岩塩は△
日本人には日本の塩=海塩が◎

【出典】『薬なし減塩なし!1日1分で血圧は下がる』著:加藤雅俊

(この記事はラブすぽの記事で作りました)

 日本人の体に合う塩は「海塩」です
それも精製していない自然な塩です

2010年より「食用塩の表示に関する公正競争規約」が定められ、食塩表示が統一されました
これにより原材料表示が明確化され、定義があいまいな「自然塩」「天然塩」といった表示は禁止されるようになりました
ですから購入するときは、原材料が「海水」「海塩」と表示されているものを選んでください

適正な表示をしている塩には「しお公正マーク」がつけられていますから、こちらも合わせてチェックしましょう

ちなみに岩塩には、ナトリウムが多く、カリウムがほとんど含まれていません
たまに、味つけのアクセントとして楽しむ程度ならよいですが、日常使いには海塩を選びましょう


【POINT】
精製塩同様、カリウムの乏しい岩塩は△
日本人には日本の塩=海塩が◎


 

 


「血圧の薬って一生飲み続けなけるべき?」「薬をやめたいけど、やめるのが怖い!」
そんな人のために、高血圧治療の誤解を解き、薬に頼らずとも血圧を下げられる方法をご紹介
1日1分でもできる降圧ストレッチの実践法です

ルネサンス期のフィレンツェでは、芸術と科学が互いに影響し合いながら、新しい知識が次々と花開いていました

その中心にいたレオナルド・ダ・ヴィンチは、単なる画家ではなく、自然そのものを深く理解しようとした観察者でした

彼にとって人体は、神が造り上げた「小宇宙(ミクロコスモス)」であり、その構造を知ることは、宇宙の理に触れることと同じ意味を持っていたのです

『モナ・リザ』や『最後の晩餐』に見られる豊かな生命感の背後には、血管の一本、筋繊維の一本にまで及ぶ徹底した観察の成果が息づいています

その観察は、生きた人物だけでなく、実は静かに横たわる亡骸にも向けられていました

しかしこうした研究は、生前どころか死後も長いあいだ公にされなかったのです

ここでは、ダ・ヴィンチがどのように人体の仕組みを追いかけていたのか、その探求の姿をたどっていきます


禁忌を越えた探究心

ダ・ヴィンチが人体解剖に初めて関わったのは、1480年代末から1490代初めのフィレンツェ、サンタ・マリア・ヌオーヴァ病院であったと考えられています

ここは修道院に併設された医療施設で、貧しい人々や病人が多く集まる場所でもありました

彼は医師や修道士の協力を受けながら、亡骸を観察する機会を得ます

当時、教会法上は解剖が完全に禁じられていたわけではありませんが、人々の感情としては忌避される行為であり、研究は人目を避けて行われました

静まり返った室内で、ダ・ヴィンチは皮膚を切開し、筋肉や骨の構造を丁寧に観察しました
その結果をスケッチに残し、形態だけでなく、動きや仕組みまでも理解しようとしたのです

後年、ダ・ヴィンチは「自然のしくみを知ることは、神を知ることである」と記しています

精密な観察と記録

1507年から1513年にかけて、ダ・ヴィンチの解剖研究は、ミラノとフィレンツェを行き来しながら本格化していきました

この時期、彼は医師マルカントニオ・デッラ・トッレと協力し、少なくとも20数体から30体ほどの遺体を解剖したと考えられています

後の研究者によって『アナトミア・デル・コルポ・ウマーノ(人体解剖学)』と呼ばれる手稿には、筋肉、骨格、血管、神経、臓器、さらには加齢による変化まで、驚くほど精密な観察が記されています

『肩の筋肉と腱の解剖図』では、肩甲骨と上腕骨がどのように連動して動くのかが正確に描写され、『脊柱の詳細図』では脊椎の湾曲や椎間板の形状が緻密に描かれています。

さらに、ダ・ヴィンチは心臓の構造と弁の働きに強い関心を寄せ、動物実験も取り入れながら、血液が心臓内部で渦を巻くように流れる様子を観察しました

その成果は『心臓の弁と血流の観察図』としてまとめられ、紙の上に立体的なイメージで再現されています

これは、17世紀に「血液循環説」を打ち立てたイングランドの医師ウィリアム・ハーヴェイが登場するより、約一世紀も前のことであり、ダ・ヴィンチの洞察は近代医学の到達点を先取りしていたのです

肉体の秘められた領域

ダ・ヴィンチの尽きることのない探究心は、人体の中でも特に謎が多かった頭部、すなわち脳へと向かいました

『頭蓋骨の透視図』では、骨を透かすように描き込み、脳の位置や神経の走行を幾何学的に整理しています

その精密さは、現代の医学図譜と比較しても驚くほど高度なものでした

彼は内臓の構造にも深い関心を寄せ、『胃と腸の層構造図』と呼ばれるスケッチでは、胃壁の厚みや腸のねじれ、肝臓や胆嚢との位置関係を細密に描き出しています

また、女性の体を観察する機会を得た際には、死産胎児を基に「胎児の位置と形態スケッチ」を制作しました

これは当時としては非常に珍しい、母体内の胎児を詳細に描いた記録でした

天才の眼が追った生命の脈動

しかし、ダ・ヴィンチが残した解剖学の研究は、生前にはほとんど公にされませんでした

死後、手稿は弟子フランチェスコ・メルツィに託されましたが、やがて散逸し、長いあいだ体系的に読まれることはなかったのです

そのため、彼の成果が同時代の医学に直接影響を与えることはありませんでした

長らく埋もれていた手稿は、19世紀になってようやく再発見されます

そこに描かれた緻密な観察の記録と精巧な図面は大きな反響を呼び、現在はウィンザー城の王室コレクションに収められています

静かに引かれた線の一つ一つは、500年を経た今も、当時の観察と思索の深さを伝えているように思われます

自然に向けた確かなまなざしと、仕組みを探ろうとする姿勢は、レオナルド・ダ・ヴィンチが後世に残した大きな遺産といえるでしょう

参考 :
『モナ・リザはなぜルーヴルにあるのか』/佐藤幸三
『レオナルドと解剖』/岩井寛・森本岩太郎
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

レオナルド・ダ・ヴィンチは「万能の天才」といわれます

多方面で突出した才能、天才ぶりを発揮しています

ちなみに彼は男色家とされ、左利き、体力面も秀でていたといわれます


ルネサンス期のフィレンツェでは、芸術と科学が互いに影響し合いながら、新しい知識が次々と花開いていました

その中心にいたレオナルド・ダ・ヴィンチは、単なる画家ではなく、自然そのものを深く理解しようとした観察者でした

彼にとって人体は、神が造り上げた「小宇宙(ミクロコスモス)」であり、その構造を知ることは、宇宙の理に触れることと同じ意味を持っていたのです

『モナ・リザ』や『最後の晩餐』に見られる豊かな生命感の背後には、血管の一本、筋繊維の一本にまで及ぶ徹底した観察の成果が息づいています

その観察は、生きた人物だけでなく、実は静かに横たわる亡骸にも向けられていました

しかしこうした研究は、生前どころか死後も長いあいだ公にされなかったのです


天才の眼が追った生命の脈動

しかし、ダ・ヴィンチが残した解剖学の研究は、生前にはほとんど公にされませんでした

死後、手稿は弟子フランチェスコ・メルツィに託されましたが、やがて散逸し、長いあいだ体系的に読まれることはなかったのです

そのため、彼の成果が同時代の医学に直接影響を与えることはありませんでした

長らく埋もれていた手稿は、19世紀になってようやく再発見されます

そこに描かれた緻密な観察の記録と精巧な図面は大きな反響を呼び、現在はウィンザー城の王室コレクションに収められています

静かに引かれた線の一つ一つは、500年を経た今も、当時の観察と思索の深さを伝えているように思われます

自然に向けた確かなまなざしと、仕組みを探ろうとする姿勢は、レオナルド・ダ・ヴィンチが後世に残した大きな遺産といえるでしょう



 

 


「万能の天才」ともいわれたレオナルド・ダ・ヴィンチの人体解剖図を読み解く
彼の精密なデッサンは医学の面ではもちろん、芸術面でも大きな影響、貢献などをした

愛新覚羅家に嫁いだ日本人女性

清朝最後の皇帝として知られる愛新覚羅溥儀(あいしんかくら ふぎ)

その数奇な生涯は映画「ラストエンペラー」を通じて世界的に広く知られ、今なお強い印象を残している

幼くして皇帝となり、退位、満洲国での再即位、終戦後の収容生活、そして釈放後は新たな中国で静かに暮らしながら生涯を終えた人物である

その溥儀には、実弟の溥傑(ふけつ)がいた

そして彼には、日本から一人の女性が嫁いでいる

華族の家に生まれ、のちに激動の時代を夫とともに歩むことになる、嵯峨浩(さが ひろ)である

嵯峨浩がどのように愛新覚羅家と結びつき、どのような日々を送ったのかを、当時の背景とともにたどっていきたい


ラストエンペラーの弟・溥傑の出自

愛新覚羅 溥傑(あいしんかくら ふけつ、1907年生)は、清朝の有力皇族である醇親(じゅんしん)王家の一員として生まれた

父は醇親王・載灃(さいほう)、母は正白旗出身の瓜爾佳氏(グワルギャし)・幼蘭(ようらん)
祖父は道光帝の第七子の醇賢親王・奕譞(いけん)、兄はのちに清朝最後の皇帝・宣統帝となる溥儀(ふぎ)である

兄が幼くして帝位に就いたため、溥傑は醇親王家の継嗣とみなされ、幼少期から兄の側近くで学び、伴読(共に書物を読み、学問を補佐する役目)として仕えた

1924年、溥傑は満洲旗人の名門出身である唐石霞(とう せきか)と結婚する

しかし夫婦関係は早くからぎくしゃくし、やがて別居となって婚姻は事実上破綻した

その背景には唐石霞が、その美貌から多くの男性と浮き名を流したことがあった

1927年、北京飯店の舞踏会で出会った軍閥の実力者、張学良と不倫関係に陥り、他にも複数の男性との関係が噂されるようになる

さらに溥傑が日本に留学していた時期には、醇親王府から多数の財宝を持ち出したことが発覚し、これらの出来事が重なって夫婦仲は完全に冷え切り、長い争いの末に別居・離婚へと至ったと伝えられている

一方、中国本土では辛亥革命後の混乱が続き、1924年の北京政変では馮玉祥(ふうぎょくしょう)と孫岳(そんがく)らが軍事クーデターを起こし、清室優待条件を一方的に破棄した

これにより、皇帝を退位していた溥儀一族は紫禁城を追われ、日本公使館へと避難することになる

溥傑もこの流れの中で日本政府の庇護を受けるようになり、日本との距離は一気に近づいていった

1929年、溥傑は婉容(えんよう)皇后の実弟・郭布羅潤麒(かくぶら じゅんき)とともに来日し、日本語などの基礎教育を受けたのち、学習院高等科に進む

その後、陸軍士官学校に入学して軍事教育を受け、日本の軍隊生活を通して日本社会や文化にも深く触れていった

この日本での経験が、のちに彼の人生を決定づける大きな要素となる

嵯峨浩の出自

嵯峨浩(さが ひろ)は1914年、東京で生まれた

父は侯爵・嵯峨実勝(さが さねかつ)

嵯峨家は、正親町三条家の流れをくむ公家華族であり、藤原北家閑院流に属する由緒ある家柄である
さらに昭和天皇とは父方を通じて母系の遠縁にあたり、皇室とも血縁で結ばれた家系であった

浩は女子学習院に学び、宮中行事にも出入りしながら、礼儀作法や和歌、ピアノ、フランス語などを身につけた

いわば「華族社会の教養を体現した若い女性」であり、その家柄と人柄は、当時の日本社会においても特別な存在感を放っていた

満洲国皇帝となっていた溥儀は、当初、弟の溥傑を日本の皇族女子と結婚させたいと考えていた

しかし、日本の皇室典範および皇室典範増補では、皇族女子の結婚相手は皇族や王公族、もしくは特に認められた華族に限られており、満洲国の皇弟であっても外国人男性である溥傑は、その条件から外れていた

このため、皇族との縁組は制度上認められず、代わりに皇室と血縁のある華族女子から候補が探されることになった

そこで候補として白羽の矢が立ったのが、侯爵嵯峨家の長女・浩であった

こうして関東軍の主導のもと、日満関係強化の象徴ともいえる縁談が進められていった。

1937年(昭和12年)2月6日、溥傑と浩の婚約内定が満洲国駐日大使館から発表され、同年4月3日には東京・軍人会館(旧九段会館、現・九段会館テラスの復原部分)で結婚式が挙げられた

媒酌人は陸軍大将の本庄繁、司祭は靖国神社宮司が務め、当日は号外が配られるほど話題になったという

満洲で始まった二人の新生活

1937年、東京で結婚式を挙げた溥傑と嵯峨浩は、その年の秋に満洲国の首都・新京へと向かった

夫婦として歩み始める場所は、異国の地でありながらも、皇帝溥儀の存在を中心とした特殊な宮廷社会が広がる場所だった

満洲国での生活は、一見すると華やかに思われがちだが、実際には日本と満洲の政治的事情に左右される、緊張感を伴う日々であった

浩は嫁いだ直後から新しい環境に馴染もうと努め、宮中行事への出席、外国使節との応対、公式行事での礼節など、多くの場面で華族としての教養と品位を求められた

夫婦は新京で静かに暮らしながら、周囲の人々とも良好な関係を築いていったという

そうした日々の中、1938年には新京で長女の慧生(えいせい)が誕生した
1940年には、浩が一時帰国していた際に、東京で次女の嫮生(こせい)が誕生する

夫婦にとっては幸福な時期であり、浩は育児にも熱心に取り組んだとされる

しかし満洲国を取り巻く情勢は、次第に緊迫の度を増していく

表向きの平穏とは裏腹に、国際情勢の変化は新京にも確実に影を落とし、夫婦の生活はいつ戦火に巻き込まれてもおかしくない状態であった

戦争と離別

1930年代末から世界情勢は急速に不安定化し、満洲国もまたその渦中に巻き込まれていった

日中戦争が拡大するにつれ、日本の軍事方針は満洲国にも強く影響を及ぼし、皇弟であった溥傑にもさまざまな政治的役割が求められるようになった

新京の宮廷は表向きこそ整然と保たれていたが、その内側では日本の意向が絶えず反映され、皇族である溥傑の行動にも制限が加わるようになっていく

そして時代の大きな波は、ついに夫婦生活にも大きな影を落とすこととなる

1944年、満洲国の情勢が悪化する中、溥傑には「満洲国の象徴としての役務」や「皇弟としての外交的存在感」などを理由に、日本本土への出向が命じられた

これは実質的には日本側の要請によるもので、新京を離れ、単身で日本へ向かうことを余儀なくされたのである

浩は次女の嫮生とともに満洲に残り、夫婦は初めて長期の別離となった
一方、長女の慧生は学業のため日本に滞在していた

浩は後年、夫が日本へ旅立った日のことを「生涯でもっとも胸の締めつけられる思いだった」と振り返っている

溥傑との再会と、浩の最期

1945年8月、ソ連軍が突如満洲へ侵攻すると、満洲国は急速に崩壊へ向かった

首都・新京は混乱に包まれ、溥儀をはじめとする皇族や政府高官たちは南方へ退避し、日本への脱出を図ろうとしたが、情勢は一刻ごとに悪化していった

溥傑は1944年に日本へ渡っていたが、戦局の悪化に伴い、翌1945年には再び新京へ戻るよう命じられていた
このため満洲国崩壊の際には、溥儀やその側近たちと行動を共にし、退避の一行に加わっていた

混乱の中で溥傑は、溥儀や満洲国の要人たちとともにソ連軍に拘束された

その後、一行はシベリア方面の収容所へ送られ、長い抑留生活を強いられることになる

そのころ、浩は満洲に残り、次女の嫮生を抱えて混乱の続く大陸を転々とすることを余儀なくされた

食糧も乏しく、移動の安全も保証されない過酷な状況の中で、浩は幼い嫮生を守ることだけを心の支えに、幾度もの危険を乗り越えていった

戦後の混乱が落ち着き始めた1947年、ようやく引き揚げが実現し、浩と嫮生は長い流転の末に日本へ戻り、慧生と再会することになる

しかし、戦後の生活は決して穏やかではなかった

日本社会は敗戦のショックに揺れ、華族制度も廃止されたことで、浩の生活基盤は一気に失われた

その中で、浩が最も心を痛めたのは、長女・慧生(えいせい)の死である

1957年、慧生は学習院大学に通う中で、交際していた青年・大久保武道とともに、伊豆天城山でピストル心中を遂げた

「天城山心中」と呼ばれるこの事件は、浩の人生に深い傷を残した

一方、溥傑はソ連の収容所を経て、1950年に中国へ送還され、撫順戦犯管理所に収容された
中国での「再教育」は約10年におよび、長い年月のあいだ家族と会うことは叶わなかった

しかし1960年、模範囚として釈放され、翌1961年にようやく浩との再会が実現する

10数年ぶりの再会は、言葉では表せないほど感慨深いものであったという

その後、浩は溥傑と北京で再び夫婦としての生活を始めたが、嫮生(こせい)は日本に戻り、のちに日本へ帰化して結婚した

浩は皇族でも華族でもなく、一人の日本人女性として、夫のそばで穏やかな時間を大切にしたと伝えられる

そして1987年、浩は北京の病院で静かに息を引き取った
享年73

溥傑はその後も、日中友好の象徴として活動しながら余生を過ごし、1994年に北京で亡くなった
享年86

夫妻と慧生の遺骨は本人たちの希望により、日中双方に分骨され、今も静かに祀られている

激動の時代に押し流されながらも、夫婦は離れても離れず、最後には再び共に歩む道を取り戻した

嵯峨浩の生涯は、一人の女性の人生を越え、戦争と国家の運命に翻弄された「歴史の証人」として、今も静かな余韻を残している

参考 : 愛新覚羅溥傑『溥傑自伝「満州国」皇弟を生きて』愛新覚羅浩『流転の王妃の昭和史』他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

愛新覚羅家に嫁いだ日本人女性

清朝最後の皇帝として知られる愛新覚羅溥儀(あいしんかくら ふぎ)

その数奇な生涯は映画「ラストエンペラー」を通じて世界的に広く知られ、今なお強い印象を残している

幼くして皇帝となり、退位、満洲国での再即位、終戦後の収容生活、そして釈放後は新たな中国で静かに暮らしながら生涯を終えた人物である

その溥儀には、実弟の溥傑(ふけつ)がいた

そして彼には、日本から一人の女性が嫁いでいる

華族の家に生まれ、のちに激動の時代を夫とともに歩むことになる、嵯峨浩(さが ひろ)である


ラストエンペラーの弟に嫁いだ日本人女性・嵯峨浩の激動の生涯・・・

夫婦は戦争の混乱などで離れることも・・・


溥傑との再会と、浩の最期

1945年8月、ソ連軍が突如満洲へ侵攻すると、満洲国は急速に崩壊へ向かった

首都・新京は混乱に包まれ、溥儀をはじめとする皇族や政府高官たちは南方へ退避し、日本への脱出を図ろうとしたが、情勢は一刻ごとに悪化していった

溥傑は1944年に日本へ渡っていたが、戦局の悪化に伴い、翌1945年には再び新京へ戻るよう命じられていた
このため満洲国崩壊の際には、溥儀やその側近たちと行動を共にし、退避の一行に加わっていた

混乱の中で溥傑は、溥儀や満洲国の要人たちとともにソ連軍に拘束された

その後、一行はシベリア方面の収容所へ送られ、長い抑留生活を強いられることになる

そのころ、浩は満洲に残り、次女の嫮生を抱えて混乱の続く大陸を転々とすることを余儀なくされた

食糧も乏しく、移動の安全も保証されない過酷な状況の中で、浩は幼い嫮生を守ることだけを心の支えに、幾度もの危険を乗り越えていった

戦後の混乱が落ち着き始めた1947年、ようやく引き揚げが実現し、浩と嫮生は長い流転の末に日本へ戻り、慧生と再会することになる

しかし、戦後の生活は決して穏やかではなかった

日本社会は敗戦のショックに揺れ、華族制度も廃止されたことで、浩の生活基盤は一気に失われた

その中で、浩が最も心を痛めたのは、長女・慧生(えいせい)の死である

1957年、慧生は学習院大学に通う中で、交際していた青年・大久保武道とともに、伊豆天城山でピストル心中を遂げた

「天城山心中」と呼ばれるこの事件は、浩の人生に深い傷を残した

一方、溥傑はソ連の収容所を経て、1950年に中国へ送還され、撫順戦犯管理所に収容された
中国での「再教育」は約10年におよび、長い年月のあいだ家族と会うことは叶わなかった

しかし1960年、模範囚として釈放され、翌1961年にようやく浩との再会が実現する

10数年ぶりの再会は、言葉では表せないほど感慨深いものであったという

その後、浩は溥傑と北京で再び夫婦としての生活を始めたが、嫮生(こせい)は日本に戻り、のちに日本へ帰化して結婚した

浩は皇族でも華族でもなく、一人の日本人女性として、夫のそばで穏やかな時間を大切にしたと伝えられる

そして1987年、浩は北京の病院で静かに息を引き取った
享年73

溥傑はその後も、日中友好の象徴として活動しながら余生を過ごし、1994年に北京で亡くなった
享年86

夫妻と慧生の遺骨は本人たちの希望により、日中双方に分骨され、今も静かに祀られている

激動の時代に押し流されながらも、夫婦は離れても離れず、最後には再び共に歩む道を取り戻した

嵯峨浩の生涯は、一人の女性の人生を越え、戦争と国家の運命に翻弄された「歴史の証人」として、今も静かな余韻を残している




 

 


満洲帝国皇帝弟に嫁ぐも、終戦後は夫と離れ次女を連れて大陸を流浪、帰国後の苦しい生活と長女の死・・・激動の人生を綴る自伝的昭和史

怖いのは、塩ではなく塩化ナトリウム
注意したいのは、「塩」の中にもさまざまな種類があるということです
精製塩、海塩、岩塩など、種類によって含まれる成分にも大きな違いがあります
特に注目したいのがナトリウムとカリウムの含有量

「食卓塩」と呼ばれる精製塩は、カリウムを全く含んでいません
私は「高血圧には減塩」と言われるようになった原因が、自然塩ではなく、ほぼ塩化ナトリウムでできた精製塩と深く関係していると考えています

よく、魚や肉を焼く前に塩を振ることで「身が締まる」と言いますが、これはナトリウムがもつ筋肉を収縮させる働きを利用したもの
人間の血管も小さな筋肉ですから、ナトリウムを摂ることで血管が収縮すれば、血圧が上昇します

ですから塩を選ぶときは、食卓塩=精製塩ではなく、カリウム、カルシウムなども含まれるミネラル豊富な自然塩にしてください
特に余分なナトリウムを輩出してくれる、カリウムが多く含まれているものを選びましょう

おなじみの食卓塩は塩化ナトリウムの塊

塩化ナトリウム99%、ミネラル分は含まれない!

ミネラルは100%外部補給!
代謝に深くかかわるミネラル
不足すると代謝が滞り、体の機能を十分に発揮できなくなります
たとえば、亜鉛が不足すると味覚障害になる可能性も
体内でつくり出せないため、食事で積極的に摂取しましょう

【不足すると・・・】
⇒味覚障害/貧血/免疫力低下代謝低下/発達障害など

【POINT】
99%塩化ナトリウムの精製塩が血管を収縮させ、高血圧を引き起こす

【出典】『薬なし減塩なし!1日1分で血圧は下がる』著:加藤雅俊

(この記事はラブすぽの記事で作りました)

精製塩ではなく、にがりなどミネラルの入った自然界を摂取すべきだ

【POINT】
99%塩化ナトリウムの精製塩が血管を収縮させ、高血圧を引き起こす


 

 


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