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メインウェーブ日記

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20世紀初頭、中国は激動の時代を迎えていた

辛亥革命によって清朝は滅び、1912年には中華民国が誕生する

しかし、北京の紫禁城だけは別世界だった
優待条件によって皇室の生活は維持され、宮殿の奥では依然として、旧時代の作法と序列が息づいていた

その内部では、日常の一挙手一投足にまで細かな規定があった
食卓の高さ、座る位置、歩く歩幅に至るまで厳しく決められ、そこに仕える宮女や太監(宦官)は、その作法を体に染み込ませるようにして暮らしていた

紫禁城は豪奢であると同時に、息苦しいほど管理された世界だった

その中心にいたのが、ラストエンペラーとして知られる、溥儀(ふぎ)の皇后、婉容(えんよう)である

婉容は、近代的な教育を受けながらも、同時に旧来の伝統や厳格な作法を背負わされた皇后だった

そんな彼女の暮らしを間近で見ていたのが、最後の宦官として知られる孫耀庭(そん ようてい)である

最後の宦官・孫耀庭

孫耀庭(そん ようてい、1902〜1996)は、中国史最後の宦官として知られる

清朝末期、天津市静海県西双塘村の貧しい農家に生まれた彼は、のちに紫禁城で婉容に仕える太監(宦官)となり、壮絶な宮廷生活を体験した人物である

孫耀庭は四人兄弟の次男として育ち、家族はわずかな畑で暮らしを立てていたが、生活は常に困窮していた

父は村の私塾で読み書きを教え、母は近くの学堂で炊事を手伝ったものの、日々の食事にも事欠くような生活だったという
幼い頃から、野草や木の実を摘んで飢えをしのぐことも珍しくなかった

そんな少年の心を強く揺さぶったのが、村の出身である著名な大太監「小徳張(しょうとくちょう)」の存在だった

ある日、彼が豪華な衣装で里帰りすると、村人はもちろん、地元役人までもが深々と頭を下げて迎えた
この光景は貧しい少年にとっては衝撃であり、「宦官になれば家族を救えるかもしれない」という思いが芽生えた

そして、暮らしはさらに過酷な状況となった
辛亥革命前後、家族は田畑を失い、父は冤罪で一時投獄され、母は路上で物乞いをするほど生活は困窮したのである

生き延びるため、家族は苦渋の決断を下す
高額な費用を払って専門の「净身師(去勢師)」を雇う余裕もなく、1911年、父は自ら息子を去勢したのだ

極めて原始的な方法で行われたこの手術は危険を伴い、孫耀庭は一時、意識不明となるが、奇跡的に生還する

手術の直後、清王朝は滅亡し、皇帝・溥儀が退位した

宮廷制度は大きく変わったものの、紫禁城の内部では依然として太監(宦官)が必要とされ、少年の夢は消えなかった

親戚のつてを頼り、1916年、孫耀庭は原醇親王府(清の皇族・醇親王家の本邸)で、太監見習いとして働き始める

最初は糞桶を担ぎ、廊下を磨く下働きだったが、几帳面で気の利く性格が評価され、やがて紫禁城入りを許された

1917年、15歳で紫禁城の門をくぐった孫耀庭は、端康皇太妃(溥儀の祖母世代にあたる高位の后妃)に仕える小太監として、本格的な宮廷生活を始めることになる

のちに「中国最後の宦官」と呼ばれる彼は、晩年に紫禁城での記憶を語り残した

これらの証言は、賈英華『末代太監 孫耀庭伝』などに詳しく記録されている

紫禁城の入浴儀式

婉容皇后の入浴は、紫禁城の中でも特に厳密な作法が定められた儀式だった

場所は、婉容が暮らす儲秀宮(ちょしゅうきゅう)の一室
中央には大きな白磁の浴槽が据えられ、湯温の管理から道具の配置に至るまで細かく決められていた

婉容は浴室に入ると、衣を脱ぎ、大きな浴槽に静かに腰掛ける

しかし、そこから先は一切手を動かさない。身体を洗うことも、湯をかけることも、髪を整えることすらしなかった
両脇に立つ宮女二人が、全身の洗浄から垢すり、爪の手入れまでを分担して行った

婉容はまるで彫像のように微動だにせず、視線すらほとんど動かさなかったという

太監である孫耀庭の役目は、浴用の水やタオル、着替えを用意し、必要に応じて宮女を補助することだった

だが、彼らには厳格な決まりがあった
決して皇后の身体を直視してはならない
常に視線は床に落とし、少しでも逸らしたと見なされれば杖で打たれる危険があった

浴槽も、入浴後は宮女が隅々まで磨き上げ、わずかな水垢さえ許されなかった
もし汚れが残っていれば、その場でやり直しを命じられ、ときには罰を受けることもあったという

この一連の作法は、清朝以来の宮廷文化を象徴していた
皇后自身がほとんど動かず、周囲がすべてを整えることで、彼女の「尊厳」を演出する

だが、その場にいる太監や宮女にとっては、極端な緊張を強いられる時間だった

孫耀庭が語る「屈辱」とは

画像 : 屈辱を感じる孫耀庭(そんようてい)イメージ 草の実堂作成(AI)
孫耀庭は晩年の回想で、婉容皇后の入浴に立ち会う時間を「最も耐え難い屈辱の一つだった」と語っている。

理由は、単に厳しい作法や罰の恐怖だけではなかった。

婉容皇后は入浴時、全身をさらしたまま微動だにせず、太監や宮女の前で一切の恥じらいを見せなかったという。

宮女たちが身体を拭き、髪を整える間、孫耀庭は視線を下げたまま、すぐそばに控えている。
しかし、皇后はそれを当然とするかのように、彼の存在をまるで空気のように扱った。

孫耀庭は、後年こう語っている

「我々は、男であって男ではない。主子(皇后さま)の前では、まるで人間ではないようだった。」

紫禁城内の社会では、去勢された者は生理的に“安全”と見なされ、どれだけ女性のそばに立ち会っても恥じらいを求められることはなかった
婉容にとっても、それは当然のことだったのかもしれない

だが、若い頃の孫耀庭にとっては、この「透明人間のように扱われる」感覚こそが屈辱だったという

彼は浴室で常に膝を折り、視線を床に落としていたが、耳には水音や宮女の動作、そして婉容の静かな息遣いが生々しく響いた

視線を床に落とし、触れられない状況でありながら、ふとした拍子にすべてが見えてしまう距離でもある
この矛盾が、彼をさらに追い詰めた

「主子の肌は白く、まるで玉のようだった。だが、それを直視することは許されない。それでも視界には入ってくる。あれは、罰よりも苦しい時間だった。」

こうした心理的重圧は、宮中で過ごした長い年月の中でも、特に鮮明な記憶として晩年まで彼の心に残り続けたという

紫禁城の異様な日常

このように紫禁城での日々は、豪華さとは裏腹に、息苦しいほどの閉塞感に満ちていた

皇帝や皇后を取り巻く数百人の太監や宮女たちは、厳格な序列と規律に縛られ、互いの小さな動きや表情までも監視し合う世界だった

また、情報や噂は、紫禁城の中で特に大きな価値を持っていた

皇帝と皇后の関係だけでなく、妃たちの対立や宮女との確執、さらには宦官社会の権力争いまで、さまざまな噂が絶えなかった
そうした情報は密かにやりとりされ、時には生き残るための重要な手段にもなった

婉容皇后の身辺に仕える孫耀庭も、常にこうした噂話の渦中にいた
宮女との親しい関係が囁かれることもあれば、宦官同士の微妙な駆け引きや密かな連帯が話題にのぼることもあった

孫耀庭は晩年、紫禁城での日常を「華やかさと悪夢が同居する世界だった」と表現している

彼の言葉は、豪奢な宮殿の奥に潜む緊張と屈辱を、今も鮮やかに映し出している

参考 : 『末代太監孫耀庭伝』賈英華 『我的前半生』愛新覚羅溥儀 他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

20世紀初頭、中国は激動の時代を迎えていた

辛亥革命によって清朝は滅び、1912年には中華民国が誕生する

しかし、北京の紫禁城だけは別世界だった
優待条件によって皇室の生活は維持され、宮殿の奥では依然として、旧時代の作法と序列が息づいていた

その内部では、日常の一挙手一投足にまで細かな規定があった
食卓の高さ、座る位置、歩く歩幅に至るまで厳しく決められ、そこに仕える宮女や太監(宦官)は、その作法を体に染み込ませるようにして暮らしていた

紫禁城は豪奢であると同時に、息苦しいほど管理された世界だった

その中心にいたのが、ラストエンペラーとして知られる、溥儀(ふぎ)の皇后、婉容(えんよう)である

婉容は、近代的な教育を受けながらも、同時に旧来の伝統や厳格な作法を背負わされた皇后だった

そんな彼女の暮らしを間近で見ていたのが、最後の宦官として知られる孫耀庭(そん ようてい)である


【中国最後の宦官が告白】皇后の「手を使わない入浴」を世話した屈辱の日々・・・

彼は浴室で常に膝を折り、視線を床に落としていたが、耳には水音や宮女の動作、そして婉容の静かな息遣いが生々しく響いた

視線を床に落とし、触れられない状況でありながら、ふとした拍子にすべてが見えてしまう距離でもある
この矛盾が、彼をさらに追い詰めた

「主子の肌は白く、まるで玉のようだった。だが、それを直視することは許されない。それでも視界には入ってくる。あれは、罰よりも苦しい時間だった。」

こうした心理的重圧は、宮中で過ごした長い年月の中でも、特に鮮明な記憶として晩年まで彼の心に残り続けたという

紫禁城の異様な日常

このように紫禁城での日々は、豪華さとは裏腹に、息苦しいほどの閉塞感に満ちていた

皇帝や皇后を取り巻く数百人の太監や宮女たちは、厳格な序列と規律に縛られ、互いの小さな動きや表情までも監視し合う世界だった

また、情報や噂は、紫禁城の中で特に大きな価値を持っていた

皇帝と皇后の関係だけでなく、妃たちの対立や宮女との確執、さらには宦官社会の権力争いまで、さまざまな噂が絶えなかった
そうした情報は密かにやりとりされ、時には生き残るための重要な手段にもなった

婉容皇后の身辺に仕える孫耀庭も、常にこうした噂話の渦中にいた
宮女との親しい関係が囁かれることもあれば、宦官同士の微妙な駆け引きや密かな連帯が話題にのぼることもあった

孫耀庭は晩年、紫禁城での日常を「華やかさと悪夢が同居する世界だった」と表現している

彼の言葉は、豪奢な宮殿の奥に潜む緊張と屈辱を、今も鮮やかに映し出している


 

 


宦官制度は日本で採用されなかった
個人的には人道的に問題があるし、採用されなかったのはよかったと思う
しかし制度のあった国も・・・
そして「宦官政治」もあり、権力と腐敗の温床となることも

イギリス王室の歴史には、華やかな戴冠式や壮麗な王宮の陰に、数々の愛憎劇が秘められています

その中でも、19世紀初頭に繰り広げられたジョージ4世と、キャロライン・オブ・ブランズウィックの結婚生活は、単なる夫婦の不和を超え、王室を揺るがす国家的スキャンダルに発展しました

2人の関係は政略結婚に始まり、別居、国民的論争、議会での裁判沙汰、そして王冠を巡る苛烈なやり取りまで、ドラマさながらの濃密な展開があります

キャロライン妃は制度に翻弄されながらも民意を味方につけ、王室と真正面から対峙した稀有な存在でした

ジョージ4世とキャロライン妃の激動の愛憎劇をたどります


冷めた結婚、愛なき出会いと破綻の序章

1795年、ジョージ王太子(のちのジョージ4世)は、自らの放蕩によって抱えた莫大な借金を帳消しにする条件として、結婚を決意しました

政略上の選択肢として選ばれたのが、ドイツ・ブランズウィック公国の公女キャロラインでした

当時の一部の記録によると、初対面の際、風呂嫌いで強い体臭を放つキャロラインに王太子は全く惹かれることなく、ブランデーを求めて気を紛らわせたと言われます
一方キャロラインも「彼は太りすぎで、肖像画ほどは魅力的ではなかった」と語っています

二人は顔合わせの時点で、互いに強い嫌悪感を抱き合ったのです

結婚式は1795年4月8日にセント・ジェームズ宮殿で執り行われましたが、その晩ジョージは酒に酔い、暖炉の近くに倒れ込んだまま一夜を明かしました

このように、新婚生活は最初から順調ではありませんでしたが、1796年1月7日には、2人の間に唯一の子となるシャーロット王女が誕生します

しかし、そのわずか3か月後、ジョージはキャロラインに別居を申し入れました
夫婦関係は修復されることなく、キャロラインは宮廷から遠ざけられ、ロンドン郊外で孤立した生活を送るようになったのです

一方のジョージは、以前からの愛人で6歳年上の未亡人マリア・フィッツハーバートとの関係を続けており、妻に対する公的配慮はほとんど見られませんでした

不名誉な調査と人気の高まり

王室から遠ざけられたキャロラインでしたが、社交界では活発に存在感を示し、周囲から注目されました

しかし、彼女が養子に迎えた少年ウィリアム・オースティンをめぐり、「不倫の子ではないか」という噂が流れるようになります

1806年、政府はこの疑惑を解明するため「繊細な調査(Delicate Investigation)」と呼ばれる特別調査委員会を設置しました
調査ではキャロラインが元召使いらと不適切な関係を持ったとする証言が提出されましたが、最終的に決定的な証拠は見つからず、キャロラインは無罪と認定されます

一方、ジョージはマリア・フィッツハーバートをはじめ複数の愛人との関係を続けており、その放蕩ぶりは広く知られていました

このため、国民の同情は自然とキャロラインに集まり、やがて彼女は「民衆の女王」として支持を得るようになったのです

大陸への退避と娘の死

1814年、キャロラインはイギリスを離れ、フランスやイタリアなど大陸各地を旅しました

その旅の途中で出会ったのが、後に侍従長となるバルトロメオ・ペルガミです
2人は親密な関係にあったと噂され、イギリスの新聞や風刺画でも盛んに取り上げられましたが、確かな証拠はなく、当時から意見が分かれていました

1817年11月、キャロラインとジョージの唯一の子であるシャーロット王女が、男子を死産した翌日に産褥合併症で急死します

王位継承の希望とされていたシャーロットの死は国中に深い悲しみをもたらし、全国で服喪が行われました

しかし、母であるキャロラインには王室からの正式な連絡はなく、第三者を通じて娘の死を知るという屈辱を受けます

この出来事は、キャロラインに強い怒りと深い悲しみを刻むことになりました

娘を失った母、夫に蔑ろにされた王妃、そして「排除された存在」としての彼女は、自らの立場を取り戻すため、ついに本格的な闘争を決意していきます

王位継承と立法劇、そして「扉を叩く者」

1820年1月、ジョージ3世の崩御により、ジョージ王太子は正式にジョージ4世として即位しました

法的にはキャロラインもイギリス王妃となりましたが、ジョージは彼女を迎え入れることを望まず、年金を与える代わりに国外に留まるよう提案します

しかしキャロラインはこの条件を拒否し、「正当な女王」としての立場を主張するため、ロンドンへ帰還したのです

同年、王室と政府はキャロラインを王妃の座から排除するため、「苦痛と刑罰法案」という異例の法案を議会に提出します

この法案は、キャロラインがバルトロメオ・ペルガミと不倫関係にあったとする証言を根拠に、王妃の称号を剥奪することを目的としていました

しかし、証人として召喚されたイタリア人たちの証言は偏っており、信憑性に欠けるものが多かったことから、民衆やホイッグ党(改革派の野党)の強い反発を招き、最終的に法案は廃案となります

この結果を受け、キャロラインは翌1821年7月19日に行われるジョージ4世の戴冠式への出席を求めましたが、王室はこれを拒否しました。

当日のウエストミンスター寺院で、キャロラインは「私は女王です。開けなさい!」と叫びながら扉を叩きました。

儀仗兵に拒まれ、ついにはその場を追われたキャロラインでしたが、その姿は多くの市民に「誇り高き女王の姿」として刻まれたのです。

死と民衆の抗議

しかし、そのわずか20日後の1821年8月7日、キャロラインは体調を崩し、急逝しました

死因については病死とされていますが、当時は「毒殺されたのではないか」という噂も広がりました

遺言には「イングランドで傷つけられた女王として葬られたい」と記されており、1821年8月14日の葬列ではその遺志が尊重され、キャロラインの棺には「The Injured Queen of England(イングランドで傷つけられた女王)」と記されたプレートが掲げられました

葬列がロンドン市内を通過する際には多くの市民が集まりましたが、王室の対応に抗議する群衆と軍隊が衝突
石投げが起きたことで兵士が発砲し、2人の市民が死亡する騒動となります

この事件は、キャロラインの死をさらに悲劇的なものにし、民衆の心に深い影を落としました

ジョージ4世とキャロライン妃の物語は、単なる王室スキャンダルにとどまりません

女性が閉ざされた権力構造の中で自らの立場を主張し、民衆の支持を背景に王権と対峙したその姿は、当時の市民意識に大きな衝撃を与えました

世にも不幸なこのロイヤル・マリッジは、200年近く経った現代においてもなお、私たちに問いかけを残していると言えるでしょう

参考:『Encyclopedia Britannica』『思わず絶望する!?知れば知るほど怖い西洋史の裏側』他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)


イギリス王室の歴史には、華やかな戴冠式や壮麗な王宮の陰に、数々の愛憎劇が秘められています

その中でも、19世紀初頭に繰り広げられたジョージ4世と、キャロライン・オブ・ブランズウィックの結婚生活は、単なる夫婦の不和を超え、王室を揺るがす国家的スキャンダルに発展しました

2人の関係は政略結婚に始まり、別居、国民的論争、議会での裁判沙汰、そして王冠を巡る苛烈なやり取りまで、ドラマさながらの濃密な展開があります

キャロライン妃は制度に翻弄されながらも民意を味方につけ、王室と真正面から対峙した稀有な存在でした


王位継承と立法劇、そして「扉を叩く者」

1820年1月、ジョージ3世の崩御により、ジョージ王太子は正式にジョージ4世として即位しました

法的にはキャロラインもイギリス王妃となりましたが、ジョージは彼女を迎え入れることを望まず、年金を与える代わりに国外に留まるよう提案します

しかしキャロラインはこの条件を拒否し、「正当な女王」としての立場を主張するため、ロンドンへ帰還したのです

同年、王室と政府はキャロラインを王妃の座から排除するため、「苦痛と刑罰法案」という異例の法案を議会に提出します

この法案は、キャロラインがバルトロメオ・ペルガミと不倫関係にあったとする証言を根拠に、王妃の称号を剥奪することを目的としていました

しかし、証人として召喚されたイタリア人たちの証言は偏っており、信憑性に欠けるものが多かったことから、民衆やホイッグ党(改革派の野党)の強い反発を招き、最終的に法案は廃案となります

この結果を受け、キャロラインは翌1821年7月19日に行われるジョージ4世の戴冠式への出席を求めましたが、王室はこれを拒否しました。

当日のウエストミンスター寺院で、キャロラインは「私は女王です。開けなさい!」と叫びながら扉を叩きました。

儀仗兵に拒まれ、ついにはその場を追われたキャロラインでしたが、その姿は多くの市民に「誇り高き女王の姿」として刻まれたのです。

死と民衆の抗議

しかし、そのわずか20日後の1821年8月7日、キャロラインは体調を崩し、急逝しました

死因については病死とされていますが、当時は「毒殺されたのではないか」という噂も広がりました

遺言には「イングランドで傷つけられた女王として葬られたい」と記されており、1821年8月14日の葬列ではその遺志が尊重され、キャロラインの棺には「The Injured Queen of England(イングランドで傷つけられた女王)」と記されたプレートが掲げられました

葬列がロンドン市内を通過する際には多くの市民が集まりましたが、王室の対応に抗議する群衆と軍隊が衝突
石投げが起きたことで兵士が発砲し、2人の市民が死亡する騒動となります

この事件は、キャロラインの死をさらに悲劇的なものにし、民衆の心に深い影を落としました

ジョージ4世とキャロライン妃の物語は、単なる王室スキャンダルにとどまりません

女性が閉ざされた権力構造の中で自らの立場を主張し、民衆の支持を背景に王権と対峙したその姿は、当時の市民意識に大きな衝撃を与えました

世にも不幸なこのロイヤル・マリッジは、200年近く経った現代においてもなお、私たちに問いかけを残していると言えるでしょう


 

 


とんでもなかった! あなたが知らない西洋がここにある
丁寧な解説とわかりやすい映像で大人気のYoutubeチャンネルが書籍化! 
知られざるヨーロッパの真実をユーモアたっぷりにお届けします
あの有名な王族、貴族の教科書には載っていないウラの顔、実在したトンでも職業、庶民たちのおもしろブームなど、世界史が好きな人も、苦手な人も楽しめる1冊です

胃を休ませることがすべての不調から解放される近道
毎日のプチ断食で胃腸も体調も絶好調!

現代人は食べ過ぎに鈍感になっています
コンビニやスーパーにさまざまな食品があふれ、好きな物を好きなだけ食べられる環境にあれば、それも仕方のないことかもしれません
しかしその分、胃や腸が常にハードワークを強いられるため、胃腸の不調に悩む人も増え続けています
消化にかかる時間は胃で2~3時間、小腸で5~8時間です
ただし、これは消化がよい食べ物を適正な分量とった場合。消化する物が多いほど、胃や腸は長時間働かなければなりません

胃腸の調子を整え、正常に機能させるためには休息が必要です
胃が休まれば、過食によって優位が続く交感神経から、消化を促す副交感神経に、自律神経のスイッチが切り替わるからです
つまり、副交感神経オンの状能を長く保つことで、消化能力を高めることにもなります

胃のリフレッシュのため、みなさんにおすすめしたいのが「胃を空っぽにして寝る」ことです
そのためには、夕食は「早めの時間に」「就寝3時間前までに済ませる」「消化のよい物を、よく噛んで食べる」ようにしてください
仮に睡眠を6~7時間として、食後から目覚めまでの10~12時間、胃に何もない状態をつくるわけです
こうしたプチ断食を習慣にすると、胃腸をはじめ内臓の若返り、美肌効果などをもたらし、何より快眠できるので体調も安定するはずです

暴飲暴食などで働き過ぎの胃を休ませることが大切

ストレス発散に大量食い、イライラを落ち着かせるための甘い物、時間がなくて早食いなど、現代人は胃も多忙。意識をして休ませることが大切です

胃を空っぽにして寝るのが目標

胃を空にするというのは、食べないことではありません
胃に負担をかけない食べ方、食材を選ぶこともポイントのひとつ
「夕食は皇后の食事」(書籍78ページ)もぜひ参考にしてください

寝る3時間前までに食事を終わらせる/咀嚼回数を増やして、消化をラクにする/寝る前の脂が多い食事は控える<P O I N T>
過度な空腹で眠りが浅くなってしまうのはNGなので、ホットミルクやローリエ白湯を飲むのがおすすめ
胃も落ち着き、リラックスして眠れます

【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 胃と腸の話』著:福原 真一郎

(この記事はラブすぽの記事で作りました)

今は「過食」の傾向にあると思います

古来から体質改善や能力開発が期待できる「断食」がおすすめ

いわゆる「プチ断食」もいいと思います


暴飲暴食などで働き過ぎの胃を休ませることが大切

ストレス発散に大量食い、イライラを落ち着かせるための甘い物、時間がなくて早食いなど、現代人は胃も多忙。意識をして休ませることが大切です

胃を空っぽにして寝るのが目標

胃を空にするというのは、食べないことではありません
胃に負担をかけない食べ方、食材を選ぶこともポイントのひとつ
「夕食は皇后の食事」(書籍78ページ)もぜひ参考にしてください

寝る3時間前までに食事を終わらせる/咀嚼回数を増やして、消化をラクにする/寝る前の脂が多い食事は控える<P O I N T>
過度な空腹で眠りが浅くなってしまうのはNGなので、ホットミルクやローリエ白湯を飲むのがおすすめ
胃も落ち着き、リラックスして眠れます


 

 


胃と腸を整えれば、あらゆる不調はみるみる良くなる!
食事など、体に入るものの入口である胃、消化吸収の要である腸、その本来の力を取り戻すための効果絶大な方法だけを大公開!

太りやすい、病院に行ってもわからない慢性的な不調がある、疲れがすぐに溜まる、など、そんな悩みの原因は“胃と腸”が疲れているからかもしれません
また、胃と腸はメンタルとも密接に関わりがあり、痛みや不快症状が出やすい内臓でもあります。そんな胃と腸の状態が回復することで、その他の内臓や全身の機能がみるみるよみがえり、肥満、健康診断の数値、疲労感などが消えていきます
本書では、そもそも胃と腸の働きとは?といった基礎知識から、みるみる痩せる本来の胃の大きさに戻す方法、胃腸が一気に整う漢方や薬膳、さらにすごいスパイスカレーなども紹介
さらに過敏性腸症候群を改善するための座り方など、効果的な方法を厳選して紹介します
さらに今の自分はどんな状態なのか簡単にわかるチェック法なども掲載し、自分の体と向き合えます
どれも簡単にできる方法ばかりなので、ストレスで胃と腸の調子がよくない、なんとなく不調が続いている、という方にはぜひ手に取って頂きたい一冊です

19世紀半ば、中国は大きな動乱の時代を迎えていた

アヘン戦争(1840年~1842年)で清朝は欧米列強に敗北し、国内では重税や銀の流出、農村の疲弊などで社会不安が高まっていた

こうした中で広東・広西地方を中心に勢力を拡大したのが、洪秀全(こう しゅうぜん)が率いる「太平天国」である

太平天国は、キリスト教思想を独自に取り入れた宗教結社「拝上帝会」を母体とする大規模な反乱政権で、最盛期には中国南部を中心に数千万規模の人口を支配したとされる

その一方で、内部は苛烈な権力闘争に満ち、壮絶な戦争と虐殺を引き起こした

そんな太平天国の歴史の中で、ひときわ異彩を放った女性がいる

「太平天国で最も美しい女性」と呼ばれた、洪宣嬌(こう せんきょう)である

美貌と知性、さらに政治力と軍事的才能までも兼ね備えた彼女は、女性が権力を持つことが稀だった時代に、義妹として洪秀全の側近にまで上り詰めた
さらに女兵部隊を率いて戦場に立ち、太平天国の権力抗争に深く関わったとされる

しかし、彼女の生涯は謎に包まれている

天京事変では黒幕として名を残しながらも、太平天国崩壊後の消息は途絶えた

太平天国で「最も美しい女性」と称された、洪宣嬌の知られざる生涯を追っていく

農家の娘から「天父の娘」へ

洪宣嬌(こう せんきょう、本名・楊雲嬌)は、19世紀初頭の中国・広東省花県(現在の広州市花都区)に生まれた

客家(はっか)と呼ばれる移住民系の漢民族の一派で、裕福ではない農家の家庭だったとされる
しかし、彼女は幼いころからその美貌と聡明さで周囲の注目を集めていたという

幼い頃から学問に関心が強く、わずか7歳で『三字経』や『百家姓』を暗唱し、10歳になると毛筆で流麗な文字を書きこなすなど、農村では稀な才女として知られていた
村の人々は「この娘は必ず大成するだろう」と噂し、彼女の将来を特別視する者も多かったと伝わる

やがて10代半ばになると、その美しさは一層際立ち、村中の若者から縁談が相次いだという
しかし彼女は、安定した結婚生活や富裕な暮らしには関心を示さなかった
当時の清王朝の支配下で苦しむ民衆の現状や、不平等な社会に憤りを感じていたからである

そしてこの頃、洪秀全らが設立した宗教結社「拝上帝会(はいじょうていかい)」と出会うことになる

集会に参加するようになった彼女は、聡明さと表現力を活かし、村人たちにわかりやすく伝える役割を担うようになった

そしてある日、「夢で天父(上帝)が現れ、自分に使命を授けた」と語り、信徒たちに大きな衝撃を与えた
この「神秘体験」によって、彼女は「天父の娘」として特別な権威を与えられ、急速に地位を高めていく

やがて洪秀全は彼女を義妹とし、「洪宣嬌(こう せんきょう)」という名を与えた

この時点で、彼女はすでに単なる信徒ではなく、拝上帝会における重要な存在となっていた
美貌と知性を兼ね備えた若き女性が、やがて太平天国の象徴的存在へと成長していく第一歩であった

女将軍・洪宣嬌の誕生

洪宣嬌は「天父の娘」として宗教的権威を得ただけでなく、やがて軍事面でも存在感を示すようになる

太平天国の勢力が拡大するとともに、洪秀全は組織の象徴として彼女を重用し、女兵部隊の指揮を任せた

洪宣嬌のもとに集まったのは、数百人規模の精鋭女兵たちだった

太平天国では纏足(てんそく)を禁じ、女性にも積極的に武器を取らせたため、彼女の部隊は俊敏な動きで知られた
洪宣嬌自身も、剣術や弓術、馬術に長け、戦場では先頭に立って指揮を執ったとされる

民間伝承ではあるが、広西・牛排嶺での「猪籠陣(ちょろうじん)」として語り継がれる逸話がよく知られている

清軍提督・向栄の騎兵隊が大湟江口に迫ると、洪宣嬌はわずかな女兵を率いて迎え撃つことを決断した
彼女は地形を利用し、竹で編んだ猪籠を大量に道に仕掛け、その周囲に深い落とし穴を掘る
さらに女兵たちには鉄鉤付きの長竹を持たせ、竹林に潜ませた

清軍の騎兵が突撃してくると、馬の脚は猪籠に絡まり、次々と転倒
そこへ潜んでいた女兵たちが一斉に飛び出し、馬上の兵を長竹で引きずり落としていった
突然の奇襲に清軍は大混乱に陥り、壊滅的な敗走を余儀なくされた

この戦功によって洪宣嬌の名声は一気に高まり、太平軍の士気を鼓舞する象徴的な存在となったという

美貌だけでなく、知略と勇気を兼ね備えた「天国の女将軍」として、彼女は太平天国史に鮮烈な印象を残したのである

天京事変と権力闘争

1853年、太平天国軍は南京を攻略し、ここを「天京」と改称して首都と定めた
以後、太平天国は最盛期を迎えたが、同時に内部では深刻な権力闘争が始まっていた

天王・洪秀全は宗教的象徴として君臨していたが、実際の政務は東王・楊秀清(よう しゅうせい)がほぼ独占していた

楊秀清は「天父下凡(てんぷげはん)」と称し、天父の意思を代弁する者として絶大な権威をふるい、軍政の実権を掌握していった

この専横的な態度は、北王・韋昌輝(い しょうき)や、翼王・石達開(せき たっかい)らの反発を招き、太平天国の首脳部は次第に分裂していく

洪宣嬌も、この権力抗争の渦中にいた

西王・蕭朝貴(しょう ちょうき)に嫁いでいた彼女は、王妃として高い地位にあったが、夫の戦死後は後ろ盾を失い、自らの影響力を保持するため積極的に政治の場へ関わっていったとされる

やがて洪秀全は、東王・楊秀清の台頭を危険視し、密かに北王・韋昌輝に接近した

この過程において、洪宣嬌が重要な役割を果たしたともいわれる
彼女が洪秀全と韋昌輝の仲介役を務め、楊秀清を排除するよう促した、という説もある

そして1856年、ついに太平天国の内紛「天京事変」が勃発する

韋昌輝は軍勢を率いて、楊秀清の邸宅を急襲し、楊一族とその支持者を徹底的に粛清した
犠牲者は数万人規模にのぼるとされ、この惨劇によって太平天国の首脳部は決定的に分裂した

洪宣嬌自身がどの程度事件に関与したかは諸説あるが、彼女が韋昌輝と協調し、楊秀清排除の流れに影響を与えたことは確かである

だが、この一連の動きは結果的に太平天国の求心力を大きく損ない、内部崩壊を加速させることになった

「太平天国」とともに消えた美女

こうして「天京事変」によって、太平天国の中枢は決定的に分裂した

東王・楊秀清を失ったことで軍政は混乱し、さらに韋昌輝・石達開ら、有力諸王も相次いで離反
最盛期を誇った太平天国は、内部から崩壊していったのである

洪宣嬌は、この権力闘争の渦中で微妙な立場に置かれていた

西王・蕭朝貴の未亡人であり、洪秀全の義妹として象徴的存在ではあったが、天京事変後は楊派と韋派の双方から警戒され、次第に政治的影響力を失っていった

そして1864年、ついに運命の時が訪れる

清軍の主力であった曽国藩(そう こくはん)率いる湘軍(しょうぐん、湖南省で編成された地方軍)が天京を包囲し、連日の砲撃を加えたことで、市街は炎に包まれた

天王・洪秀全は、城内で深刻な飢餓と病に苦しみ、1864年6月1日に死亡した
洪は「甜露」と呼ばれる雑草を食べ続けた結果、栄養失調で体を壊しながらも薬を拒否したため、病死したとされる

7月19日、清軍は総攻撃を敢行し、天京は陥落
太平天国は実質的に滅亡した

この日以降、洪宣嬌の行方は史料から完全に姿を消す

研究者や伝承の中では、彼女の最期をめぐっていくつかの説が語られている

【説1】城内で戦死した
最も有力とされるのは、洪宣嬌が女兵を率いて最後まで天王府を守り、城門付近で壮絶な戦死を遂げたという説だ
彼女は幼い頃から鍛えた武芸を駆使し、弓と双刀で清軍八旗兵に立ち向かったと伝えられる

ただし、当時の清側史料には彼女の戦死に関する記述はなく、真偽は不明である

【説2】洪秀全による処刑
もう一つの説は、天京事変後の派閥抗争で洪秀全と対立し、処刑されたというもの
楊秀清が粛清された後、洪宣嬌が韋昌輝に接近したことが洪秀全の不信を招き、秘密裏に処刑されたとする伝承がある

ただし、史料による記録は断片的で、裏付けは乏しい

【説3】難民に紛れて逃亡した
天京陥落時、数十万の住民が難民となり四散した
洪宣嬌もその混乱に紛れ、南方へ逃亡したとする説がある

一部の民間の記録には「広州で洪宣嬌を見た」という証言が残っており、香港やマカオ経由で海外へ脱出した可能性も指摘されている

【説4】アメリカで医者になった
最も異色なのが、洪宣嬌が海外へ渡り、アメリカ・旧金山(サンフランシスコ)の唐人街で医師として生き延びたという説だ

実際に、現地の中国移民史料には「宣嬌医師」の名が散見されるが、太平天国の洪宣嬌本人かどうかは確証がない

このように、いずれの説にも決定的な史料は存在せず、洪宣嬌の最期はいまだ謎に包まれている

農家の娘から天父の娘、そして女将軍へと駆け上がった彼女は、太平天国の滅亡とともに歴史の表舞台から忽然と姿を消した

美貌、野心、権力、信仰…さまざまな顔を持った洪宣嬌の最期をめぐる謎は、今も解き明かされていない

参考 : 『天父天兄聖旨』『太平天国起義記』他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

19世紀半ば、中国は大きな動乱の時代を迎えていた

アヘン戦争(1840年~1842年)で清朝は欧米列強に敗北し、国内では重税や銀の流出、農村の疲弊などで社会不安が高まっていた

こうした中で広東・広西地方を中心に勢力を拡大したのが、洪秀全(こう しゅうぜん)が率いる「太平天国」である

太平天国は、キリスト教思想を独自に取り入れた宗教結社「拝上帝会」を母体とする大規模な反乱政権で、最盛期には中国南部を中心に数千万規模の人口を支配したとされる

その一方で、内部は苛烈な権力闘争に満ち、壮絶な戦争と虐殺を引き起こした

そんな太平天国の歴史の中で、ひときわ異彩を放った女性がいる

「太平天国で最も美しい女性」と呼ばれた、洪宣嬌(こう せんきょう)である

美貌と知性、さらに政治力と軍事的才能までも兼ね備えた彼女は、女性が権力を持つことが稀だった時代に、義妹として洪秀全の側近にまで上り詰めた
さらに女兵部隊を率いて戦場に立ち、太平天国の権力抗争に深く関わったとされる

しかし、彼女の生涯は謎に包まれている

天京事変では黒幕として名を残しながらも、太平天国崩壊後の消息は途絶えた


「太平天国」とともに消えた美女

「天京事変」によって、太平天国の中枢は決定的に分裂した

東王・楊秀清を失ったことで軍政は混乱し、さらに韋昌輝・石達開ら、有力諸王も相次いで離反
最盛期を誇った太平天国は、内部から崩壊していったのである

洪宣嬌は、この権力闘争の渦中で微妙な立場に置かれていた

西王・蕭朝貴の未亡人であり、洪秀全の義妹として象徴的存在ではあったが、天京事変後は楊派と韋派の双方から警戒され、次第に政治的影響力を失っていった

そして1864年、ついに運命の時が訪れる

清軍の主力であった曽国藩(そう こくはん)率いる湘軍(しょうぐん、湖南省で編成された地方軍)が天京を包囲し、連日の砲撃を加えたことで、市街は炎に包まれた

天王・洪秀全は、城内で深刻な飢餓と病に苦しみ、1864年6月1日に死亡した
洪は「甜露」と呼ばれる雑草を食べ続けた結果、栄養失調で体を壊しながらも薬を拒否したため、病死したとされる

7月19日、清軍は総攻撃を敢行し、天京は陥落
太平天国は実質的に滅亡した

この日以降、洪宣嬌の行方は史料から完全に姿を消す

研究者や伝承の中では、彼女の最期をめぐっていくつかの説が語られている

【説1】城内で戦死した
最も有力とされるのは、洪宣嬌が女兵を率いて最後まで天王府を守り、城門付近で壮絶な戦死を遂げたという説だ
彼女は幼い頃から鍛えた武芸を駆使し、弓と双刀で清軍八旗兵に立ち向かったと伝えられる

ただし、当時の清側史料には彼女の戦死に関する記述はなく、真偽は不明である

【説2】洪秀全による処刑
もう一つの説は、天京事変後の派閥抗争で洪秀全と対立し、処刑されたというもの
楊秀清が粛清された後、洪宣嬌が韋昌輝に接近したことが洪秀全の不信を招き、秘密裏に処刑されたとする伝承がある

ただし、史料による記録は断片的で、裏付けは乏しい

【説3】難民に紛れて逃亡した
天京陥落時、数十万の住民が難民となり四散した
洪宣嬌もその混乱に紛れ、南方へ逃亡したとする説がある

一部の民間の記録には「広州で洪宣嬌を見た」という証言が残っており、香港やマカオ経由で海外へ脱出した可能性も指摘されている

【説4】アメリカで医者になった
最も異色なのが、洪宣嬌が海外へ渡り、アメリカ・旧金山(サンフランシスコ)の唐人街で医師として生き延びたという説だ

実際に、現地の中国移民史料には「宣嬌医師」の名が散見されるが、太平天国の洪宣嬌本人かどうかは確証がない

このように、いずれの説にも決定的な史料は存在せず、洪宣嬌の最期はいまだ謎に包まれている

農家の娘から天父の娘、そして女将軍へと駆け上がった彼女は、太平天国の滅亡とともに歴史の表舞台から忽然と姿を消した

美貌、野心、権力、信仰…さまざまな顔を持った洪宣嬌の最期をめぐる謎は、今も解き明かされていない



 

 


清朝は中国最後の王朝
北方の異民族(漢人以外)がどのように中国を統治したのか
ヌルハチからラストエンペラーまで栄光と苦悩の270年

洪秀全と太平天国

19世紀半ばの中国では、清王朝の支配に対する不満が各地で高まっていた

アヘン戦争後の経済混乱に加え、重い増税や銀の海外流出、農村の困窮などが重なり、社会全体が不安定になっていた

こうした状況下で登場したのが、広東出身の宗教家・洪秀全(こうしゅうぜん)である

洪秀全は、独自に解釈したキリスト教思想を基盤に「拝上帝会(はいじょうていかい)」を結成し、やがて宗教結社から大規模な反乱組織へと発展させた

1851年、広西省で蜂起して「太平天国」を建国し、清王朝との全面戦争が始まることとなる

太平天国が掲げた最大の敵は、当時の支配者である満洲人であった

洪秀全は檄文の中で清王朝に対して「妖胡を滅せよ」「満洲妖を斬るべし」と繰り返し呼びかけ、満洲人虐殺政策(屠満政策)を推し進めた
※以降、屠満(とまん)政策と記す

この思想は単なる政治的対立ではなく、宗教的・民族的な要素を強く含んでおり、満洲人そのものを排除する方向へと進んでいったのである

洪秀全とはどんな人物だったのか

洪秀全(1814年-1864年)は、広東省花県(現・広州市花都区)の客家(はっか)系農民の家に生まれた

客家とは中国南部に住む漢民族の一派で、移住を繰り返して形成された集団である

幼少期から科挙による立身出世を志したが、四度受験してすべて失敗した
この挫折は洪の思想形成に大きな影響を与えたとされる

1843年、洪は病中に「神の啓示」を受けたと主張し、自らを「天父上帝の次子」「天兄イエスの弟」と位置づける独自の宗教観を築いた

この頃、広州のキリスト教伝道士・梁発が著した『勧世良言』に出会ったことで、洪はキリスト教的要素を取り入れ、偶像崇拝を否定し、儒仏道を「妖術」として排斥する思想を形成していったのである

こうした理念に基づき、洪は宗教結社「拝上帝会」を設立した

この会では、飲酒・賭博・売春・纏足を禁じ、厳格な規律を敷いたため、社会的に抑圧されていた農民や客家人を中心に支持を集めた

やがて信徒は武装化し、1851年、広西省金田村で挙兵して「太平天国」を建国、洪は「天王」として政教一致体制を築くに至る

こうして彼のもとで太平天国は、清朝打倒を掲げた大規模な戦争へと突き進んでいったのである

南京での大量虐殺と「論功行賞」制度

1853年3月、太平軍は清朝の重鎮であった江寧城(現在の南京)を攻略し、ここを「天京」と改称して太平天国の首都とした

この南京攻略は、太平天国の勢力拡大における大きな転機となったが、同時に苛烈な大量虐殺の引き金ともなった

太平軍は満洲人の支配階級である「旗人」の屋敷を一軒ずつ調べ上げ、年齢や性別を問わず捕らえた者を処刑した
これは、洪秀全が掲げた「斬妖滅胡」というスローガンに基づくもので、満洲人虐殺政策(屠満政策)へとつながっていった

さらにこれは単なる報復ではなく、制度として奨励されていた点が特徴的である

太平天国は「論功行賞」の仕組みを導入し、満洲人を殺害した人数に応じて功績を認定し、報奨金や昇進を与えたとされる
南京攻略後の記録では、「旗人を一人捕らえし者には銀五両を与う」とする通達が確認されており、事実上の報奨金制度が虐殺を助長したとみられる

この南京での大量虐殺は、当時の外国人宣教師や清朝側の記録にも一致して記されており、規模の大きさは歴史的にほぼ確定的とされている

一方で、洪秀全が直接指示したのか、現場指揮官の判断によるものかについては議論が続いている

満洲人はどれほど粛清されたのか

このように太平天国は、満洲人を「外来の異族」と位置づけ、清朝から中華を奪還することを宗教的使命として、徹底的な排除政策を行った

南京以外の地域でも、太平軍の進軍に合わせて旗人を中心とした満洲人社会がしばしば標的となった

たとえば、江蘇省揚州では1853年から1856年にかけて、複数回にわたり大量虐殺が行われた

犠牲者数については諸説があり、研究者によって大きく推定が分かれている

1853年の南京攻略時には、城内に住んでいた旗人(八旗兵とその家族)約3000〜7000人が虐殺されたと複数の史料に記されているまた同年の揚州でも約2000〜4000人規模の旗人虐殺が報告されている

さらに太平軍の北伐時には、河北・山東方面で清軍八旗兵が大規模に壊滅し、数万人単位の損失があったとされる
これに加え、江蘇・安徽・江西など各地の旗人集住地でも、虐殺が断続的に発生したことが一次史料で確認できる

これらの記録を総合すると、太平天国期の戦乱で旗人を中心に約30万〜50万人規模の満洲人が戦乱期に命を落としたとされる
ただし、当時の人口統計は不完全であり、正確な数字を確定することは困難であるものの、数十万単位の人口損失があったことは確かとみられている

一方で、屠満政策が全国で一律に実施されたわけではなかったことも指摘されている
湖南や広西などでは清軍八旗兵の多くが漢族出身であったため、見た目や言語で満洲人と漢人を厳密に識別するのが難しく、政策の徹底度には地域差があった

また、一部の地方では満洲人女性や子供を、奴隷や下働きとして生かした例も報告されている

屠満政策がもたらした影響と歴史的評価

このように太平天国の屠満政策は、清朝の軍事体制と満洲人社会に大きな打撃を与えた

しかし同時に、この過激な方針は漢族を含む住民の反発も招き、太平天国の統治を不安定にする要因となった

その影響は国外にも及んでいる
南京攻略後、イギリスやフランスは太平天国と接触を試みたが、過激な宗教政策や大規模虐殺を知ると態度を変え、最終的には清朝を支援する立場を取った

後世の評価は大きく分かれる

国民党の孫文や蔣介石は太平天国を「反清民族革命」の先駆として高く評価し、中国共産党も「農民革命」として肯定的に位置づけた
一方で、現代の研究者はこうしたイデオロギー的評価とは距離を置き、犠牲者数についても慎重な立場を取っている

かつては太平天国の乱による死者数を「5000万〜7000万人規模」とする説も流布していたが、現在では、屠満政策による満洲人の犠牲者は約30万〜50万人程度にとどまり、戦乱全体の犠牲者もおおよそ2000万人前後と考えられている

このように、屠満政策は太平天国の象徴的な特徴であり、清朝崩壊を加速させた要因の一つであることは間違いない
しかし、その過激さが太平天国を国内外で孤立させたのも事実である

この相反する影響こそが、太平天国史をめぐる評価が分かれる理由といえるだろう

参考 : 『清史稿・咸豊朝実録』『太平天国起义记』『賊情匯纂』他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

洪秀全と太平天国

19世紀半ばの中国では、清王朝の支配に対する不満が各地で高まっていた

アヘン戦争後の経済混乱に加え、重い増税や銀の海外流出、農村の困窮などが重なり、社会全体が不安定になっていた

こうした状況下で登場したのが、広東出身の宗教家・洪秀全(こうしゅうぜん)である

洪秀全は、独自に解釈したキリスト教思想を基盤に「拝上帝会(はいじょうていかい)」を結成し、やがて宗教結社から大規模な反乱組織へと発展させた

1851年、広西省で蜂起して「太平天国」を建国し、清王朝との全面戦争が始まることとなる

太平天国が掲げた最大の敵は、当時の支配者である満洲人であった

洪秀全は檄文の中で清王朝に対して「妖胡を滅せよ」「満洲妖を斬るべし」と繰り返し呼びかけ、満洲人虐殺政策(屠満政策)を推し進めた
※以降、屠満(とまん)政策と記す

この思想は単なる政治的対立ではなく、宗教的・民族的な要素を強く含んでおり、満洲人そのものを排除する方向へと進んでいったのである


満洲人はどれほど粛清されたのか

このように太平天国は、満洲人を「外来の異族」と位置づけ、清朝から中華を奪還することを宗教的使命として、徹底的な排除政策を行った

南京以外の地域でも、太平軍の進軍に合わせて旗人を中心とした満洲人社会がしばしば標的となった

たとえば、江蘇省揚州では1853年から1856年にかけて、複数回にわたり大量虐殺が行われた

犠牲者数については諸説があり、研究者によって大きく推定が分かれている

1853年の南京攻略時には、城内に住んでいた旗人(八旗兵とその家族)約3000〜7000人が虐殺されたと複数の史料に記されているまた同年の揚州でも約2000〜4000人規模の旗人虐殺が報告されている

さらに太平軍の北伐時には、河北・山東方面で清軍八旗兵が大規模に壊滅し、数万人単位の損失があったとされる
これに加え、江蘇・安徽・江西など各地の旗人集住地でも、虐殺が断続的に発生したことが一次史料で確認できる

これらの記録を総合すると、太平天国期の戦乱で旗人を中心に約30万〜50万人規模の満洲人が戦乱期に命を落としたとされる
ただし、当時の人口統計は不完全であり、正確な数字を確定することは困難であるものの、数十万単位の人口損失があったことは確かとみられている

一方で、屠満政策が全国で一律に実施されたわけではなかったことも指摘されている
湖南や広西などでは清軍八旗兵の多くが漢族出身であったため、見た目や言語で満洲人と漢人を厳密に識別するのが難しく、政策の徹底度には地域差があった

また、一部の地方では満洲人女性や子供を、奴隷や下働きとして生かした例も報告されている

屠満政策がもたらした影響と歴史的評価

このように太平天国の屠満政策は、清朝の軍事体制と満洲人社会に大きな打撃を与えた

しかし同時に、この過激な方針は漢族を含む住民の反発も招き、太平天国の統治を不安定にする要因となった

その影響は国外にも及んでいる
南京攻略後、イギリスやフランスは太平天国と接触を試みたが、過激な宗教政策や大規模虐殺を知ると態度を変え、最終的には清朝を支援する立場を取った

後世の評価は大きく分かれる

国民党の孫文や蔣介石は太平天国を「反清民族革命」の先駆として高く評価し、中国共産党も「農民革命」として肯定的に位置づけた
一方で、現代の研究者はこうしたイデオロギー的評価とは距離を置き、犠牲者数についても慎重な立場を取っている

かつては太平天国の乱による死者数を「5000万〜7000万人規模」とする説も流布していたが、現在では、屠満政策による満洲人の犠牲者は約30万〜50万人程度にとどまり、戦乱全体の犠牲者もおおよそ2000万人前後と考えられている

このように、屠満政策は太平天国の象徴的な特徴であり、清朝崩壊を加速させた要因の一つであることは間違いない
しかし、その過激さが太平天国を国内外で孤立させたのも事実である

この相反する影響こそが、太平天国史をめぐる評価が分かれる理由といえるだろう



 

 


清朝は中国最後の王朝
北方の異民族(漢人以外)がどのように中国を統治したのか
ヌルハチからラストエンペラーまで栄光と苦悩の270年

中世ヨーロッパの歴史には、戦争、疫病、宗教改革といった大きな出来事に加えて、一見すると不可解で荒唐無稽とも思える現象がいくつか記録されています

その一つが「ダンシング・マニア(Dancing Mania)」または「舞踏病」と呼ばれる現象です

これは主に14世紀から17世紀にかけて、ヨーロッパ大陸の各地で見られた集団的行動で、人々が突如として踊り始め、制御不能な状態のまま踊り続け、ときには衰弱死することすらあったと伝えられています

現代に生きる私たちには奇怪に映るかもしれませんが、同時代の文献や記録には確かな痕跡が残されています

この不可解な現象「ダンシング・マニア」について解説します


踊る人々の出現「舞踏病」の記録

舞踏病の記録は、主に14世紀後半から17世紀初頭にかけて、ヨーロッパ各地で確認されています

最初の大規模な発生として知られているのは、1374年にドイツ西部のアーヘンで起きた事例です

このとき、群衆は通りを練り歩きながら踊り続け、地面に倒れるまで止まらなかったと伝えられています
この現象はアーヘンにとどまらず、ライン川流域やアルザス地方、フランドルに加え、ケルン、ルクセンブルク、北イタリアなど広範囲にまで波及しました

また、1518年に神聖ローマ帝国領ストラスブール(現在のフランス・アルザス地方)で発生した事例も有名です
フラウ・トロッフェア(Frau Troffea)という女性が突如通りで踊り始め、数日間休むことなく踊り続けたのです

周囲の人々が止めようとしても彼女は踊りをやめず、やがて同調する人々が次々と現れ、1か月のうちに50人から400人にまで膨れ上がったとされています

市当局は当初、この異常事態を収束させるため医師に相談しましたが、医師たちは「体内の熱が原因であり、踊ることで発散させるべきだ」と診断しました

その助言に従い、市は広場を整備し音楽家を雇いましたが、この対応は逆効果となり、さらに多くの人々が踊りに加わる結果となりました

疲労や心不全、脱水症状によって命を落とした人もいたとされますが、正確な死者数は不明です

「笛吹き男」と舞踏病

舞踏病に関連してしばしば言及されるのが、1284年にドイツ北部の町ハーメルンで起きたとされる「笛吹き男(Pied Piper)」の伝説です

物語では、ある男が笛の音で130人の子どもたちを町から連れ去ったとされ、中世以来さまざまな形で語り継がれてきました

この出来事の史実性については不明な点も多いものの、一部の中世記録には「子どもたちが踊りながら町を去った」と記されているものもあります

そのため、この事件を舞踏病の一種と関連づける見方もありますが、研究者の間ではさまざまな説が存在します
後世、グリム兄弟によって童話として整理されたこともあり、伝説と史実の境界は曖昧です

「踊りながら町を去った子どもたち」というイメージは、後世の舞踏病を象徴する文化的モチーフとして強い影響を与え続けています

なぜ踊ったのか?中世の解釈と近代の仮説

中世の人々はこの現象をどのように理解していたのでしょうか

当時のヨーロッパでは、舞踏病は「神の罰」あるいは「聖人の呪い」として解釈されていました

特に「聖ヴィトスの呪い(St. Vitus’ Curse)」という言い伝えが有名であり、踊りに取り憑かれた人々は聖ヴィトスに許しを請うため、教会への巡礼や祈祷を行いました
こうした信仰が、踊りを止めるための主要な治療法とされていたのです

一方で、近代以降の研究では、舞踏病の原因についてさまざまな仮説が立てられています

1.麦角中毒説
ライ麦などに寄生する麦角菌には幻覚作用を引き起こすアルカロイドが含まれており、これを摂取したことで錯乱や幻覚が発生したとする説です。
LSDの原料としても知られる麦角には強い精神作用がありますが、実際の麦角中毒は痙攣や壊疽を伴うことが多く、数日から数週間にわたって踊り続ける舞踏病の特徴とは一致しないため、現在では有力視されていません

2.集団ヒステリー(心因性集団障害)説
現代研究で最も有力とされるのがこの説です

ペストの大流行、飢饉、戦争、宗教的対立など、極度の社会的ストレスが引き金となり、人々が無意識のうちに身体的症状を発現させたと考えられています
現代でも学校や職場で同様の現象が報告されており、舞踏病はその前近代的な表れであったとみなされています

3.宗教的エクスタシー・自己催眠説
強い宗教的情熱や神罰への恐怖から自己催眠状態に陥り、トランスのように踊り続けたという説です
中世の巡礼や宗教集会では陶酔的な体験が多く記録されており、舞踏病もこうした宗教的背景と深く結びついていた可能性があります

これらの仮説はいずれも決定的なものではありませんが、舞踏病が単なる医学的な病ではなく、宗教・社会・心理が複雑に交錯した現象であったことを示しています

舞踏病の終焉と現代への影響

舞踏病に関する大規模な記録は、17世紀初頭を最後に急速に姿を消していきます

その背景には、医学の発展や啓蒙思想の広まり、宗教観の変化に加え、都市の衛生環境や治安の改善、さらに国家が宗教儀礼を抑制したことなど、さまざまな要因が影響していたとみられます

人々がもはや病を「神の罰」ではなく、「自然現象」あるいは「心理的反応」として理解するようになったことが大きな転機となりました

こうして現象自体は姿を消しましたが、類似する集団現象は現代でも報告されています

たとえば、1962年のタンザニア(旧タンガニーカ)で発生した「タンガニーカ笑い病」、1990年代のマレーシア工場での集団ヒステリー、さらには韓国の学校や工場などで繰り返し報告された集団失神事件などが知られています

これらは、強いストレスや社会的緊張が引き金となる点で、舞踏病と共通する側面があります

ダンシング・マニアは、単なる神経疾患や幻覚の問題ではなく、その背景にある時代、社会、信仰など、人々の心の在り方を映す鏡であるともいえるでしょう

参考:
Justus Friedrich Karl Hecker/The Dancing Mania: An Epidemic of the Middle Ages(原題:Die Tanzwuth, eine Volkskrankheit im Mittelalter)
『思わず絶望する!? 知れば知るほど怖い西洋史の裏側』
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

中世ヨーロッパの歴史には、戦争、疫病、宗教改革といった大きな出来事に加えて、一見すると不可解で荒唐無稽とも思える現象がいくつか記録されています

その一つが「ダンシング・マニア(Dancing Mania)」または「舞踏病」と呼ばれる現象です

これは主に14世紀から17世紀にかけて、ヨーロッパ大陸の各地で見られた集団的行動で、人々が突如として踊り始め、制御不能な状態のまま踊り続け、ときには衰弱死することすらあったと伝えられています

現代に生きる私たちには奇怪に映るかもしれませんが、同時代の文献や記録には確かな痕跡が残されています


なぜ踊ったのか?中世の解釈と近代の仮説

中世の人々はこの現象をどのように理解していたのでしょうか

当時のヨーロッパでは、舞踏病は「神の罰」あるいは「聖人の呪い」として解釈されていました

特に「聖ヴィトスの呪い(St. Vitus’ Curse)」という言い伝えが有名であり、踊りに取り憑かれた人々は聖ヴィトスに許しを請うため、教会への巡礼や祈祷を行いました
こうした信仰が、踊りを止めるための主要な治療法とされていたのです

一方で、近代以降の研究では、舞踏病の原因についてさまざまな仮説が立てられています

1.麦角中毒説
ライ麦などに寄生する麦角菌には幻覚作用を引き起こすアルカロイドが含まれており、これを摂取したことで錯乱や幻覚が発生したとする説です。
LSDの原料としても知られる麦角には強い精神作用がありますが、実際の麦角中毒は痙攣や壊疽を伴うことが多く、数日から数週間にわたって踊り続ける舞踏病の特徴とは一致しないため、現在では有力視されていません

2.集団ヒステリー(心因性集団障害)説
現代研究で最も有力とされるのがこの説です

ペストの大流行、飢饉、戦争、宗教的対立など、極度の社会的ストレスが引き金となり、人々が無意識のうちに身体的症状を発現させたと考えられています
現代でも学校や職場で同様の現象が報告されており、舞踏病はその前近代的な表れであったとみなされています

3.宗教的エクスタシー・自己催眠説
強い宗教的情熱や神罰への恐怖から自己催眠状態に陥り、トランスのように踊り続けたという説です
中世の巡礼や宗教集会では陶酔的な体験が多く記録されており、舞踏病もこうした宗教的背景と深く結びついていた可能性があります

これらの仮説はいずれも決定的なものではありませんが、舞踏病が単なる医学的な病ではなく、宗教・社会・心理が複雑に交錯した現象であったことを示しています

舞踏病の終焉と現代への影響

舞踏病に関する大規模な記録は、17世紀初頭を最後に急速に姿を消していきます

その背景には、医学の発展や啓蒙思想の広まり、宗教観の変化に加え、都市の衛生環境や治安の改善、さらに国家が宗教儀礼を抑制したことなど、さまざまな要因が影響していたとみられます

人々がもはや病を「神の罰」ではなく、「自然現象」あるいは「心理的反応」として理解するようになったことが大きな転機となりました

こうして現象自体は姿を消しましたが、類似する集団現象は現代でも報告されています

たとえば、1962年のタンザニア(旧タンガニーカ)で発生した「タンガニーカ笑い病」、1990年代のマレーシア工場での集団ヒステリー、さらには韓国の学校や工場などで繰り返し報告された集団失神事件などが知られています

これらは、強いストレスや社会的緊張が引き金となる点で、舞踏病と共通する側面があります

ダンシング・マニアは、単なる神経疾患や幻覚の問題ではなく、その背景にある時代、社会、信仰など、人々の心の在り方を映す鏡であるともいえるでしょう


 

 


とんでもなかった! あなたが知らない西洋がここにある
丁寧な解説とわかりやすい映像で大人気のYoutubeチャンネルが書籍化! 
知られざるヨーロッパの真実をユーモアたっぷりにお届けします
あの有名な王族、貴族の教科書には載っていないウラの顔、実在したトンでも職業、庶民たちのおもしろブームなど、世界史が好きな人も、苦手な人も楽しめる1冊です

日本ではどんな災害が起こる?

日本は世界有数の災害大国

日本は地理的・気象的な条件から、大雨、台風、大雪、地震や津波、火山噴火など、多種多様な災害が全国各地で起こっています
日本の面積は世界の0.2%ですが、国連防災機関(UNDRR)によると、日本の災害の被害額は世界の約13%を占めています

これには梅雨があること、台風の通り道であること、冬には大陸から強い寒気が流れ込むなどの気象的な条件に加えて、河川が急勾配であること、山地が多いなどの地理的条件も関係しています。また、日本では4つのプレートがぶつかり合っているため地震が多く、マグニチュード6.0以上の地震回数は、世界の約16%にもなるのです
さらに日本は世界の火山が密集する環太平洋火山帯に位置し、全世界の8.6%にあたる111の活火山も有しています

さらに、一つの災害だけでなく、複数の災害が同時または次々に発生する「複合災害」が起こることもあるのです
大地震のあとに台風や豪雨が続くようなケースは過去にも起こっており、被害が甚大化する要因となります


こうした災害は、自分ごととして捉える必要があります
命を守るために、ぜひ一度、お住まいの地域にどんな災害リスクがあるのか確認してみましょう

日本で起こる災害の例

浸水害
大雨などにより排水が追いつかず、用水路や下水溝などが溢れて氾濫し、住宅や田畑が水につかる

洪水害
大雨や融雪などにより、堤防が決壊したり河川の水が堤防を越えたりする

土砂災害
土石流や地すべり、がけ崩れの総称。すさまじい破壊力をもつ土砂が、一瞬で多くの人命や財産を奪う


雷鳴および電光がある状態。雷をもたらす積乱雲の位置次第で、海、平野、山など場所を選ばず落ちる


積乱雲から降ってくる直径5mm以上の氷の粒
人体や建物、農作物などに被害を与えることがある

突風・竜巻
発達した積乱雲は竜巻などの激しい突風ももたらす
短時間で大きな被害を生む

高波・高潮
いずれも沿岸に被害をもたらす
高潮は台風や低気圧の影響で海面が異常に上昇する現象

暴風
暴風警報基準以上の風で、東京地方では風速25m/s以上
猛烈な風は風速30m/s以上。

大雪
比較的短期間の多量の降雪により住宅などの被害や交通障害をもたらす
大雪の基準は地域により異なる

暴風雪
雪を伴う暴風
視界が白一色になるホワイトアウトも発生
車両の大規模な立ち往生の原因になることも

雪崩
山腹に積もった雪が斜面を崩れ落ちる現象
厳冬期に多い表層雪崩と春先に多い全層雪崩がある

着雪・着氷
雪が付着して電線が切れる、氷が付着して送電線が切れたり船が沈没したりするなどの被害が発生する

猛暑
最高気温が35°C以上の日を猛暑日という
地球温暖化に伴い、猛暑日の日数は増加している

濃霧
見通せる距離が陸上で約100m以下の霧
交通障害などが起こるおそれがある

地震
プレートや活断層のずれで発生
日本付近は4つのプレートがぶつかり、活断層も多く地震が起こりやすい

津波
地震による海底の上下動で発生し、沿岸や湾内で大きな災害をもたらす
火山噴火などでも起こることがある

火山噴火
火口から溶岩が流出する
もしくは火口の外へ火山灰などの固形物を放出する現象

森林火災

約7割が1~5月に発生
風が強い、空気が乾燥(特に太平洋側)、落ち葉が積もるという条件が重なるため

【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 天気の話』著:荒木健太郎/太田絢子/佐々木恭子

(この記事はラブすぽの記事で作りました)

 


いつもの空が、ちょっと特別に見えてくる――
身近なようで神秘的な、天気の世界へようこそ!

晴れた空に浮かぶ雲、雨上がりに架かる虹、夕暮れどきの真っ赤な空
どれも見慣れた景色ですが、その仕組み、どれくらい知っていますか?

本書では、身近なのに意外と知らない「天気」の世界を、図解とイラストでわかりやすく解説します
「風はなぜ吹くの?」「なぜ山頂は寒いの?」「1時間に30mmの雨ってどれくらい?」など、誰もが一度は抱いたことのある素朴な疑問を、科学的に紐解いていきます

さらに、虹色の雲「彩雲」や、美しいグラデーションに染まる「マジックアワー」の空、曇り空から差し込む「天使の梯子」など、思わず写真を撮りたくなる幻想的な現象も紹介
知っていれば空を見るのが楽しくなる、“外に出たくなる”知識が満載です

加えて、「線状降水帯」や「台風」などニュースでよく聞くテーマの話題や、進化する天気予報のテクノロジー、警報やハザードマップの見方といった防災の知識まで、幅広くカバー

天気を知ると、いつもの景色が少し変わって見えてきます
「なぜそうなるのか」がわかることで、天気予報の見え方も、日々の空の楽しみ方も、ぐっと豊かに

空が好きな人も、これまであまり関心がなかった人も
子どもから大人まで、誰もが楽しめて暮らしに役立つ、そんな一冊です

子供の泣き声というものは、本能的に庇護欲を刺激する

まともな大人であれば、どこからともなく赤ん坊の泣き声が聞こえてくれば、不安を覚え、声のする方へ確かめに行こうとするだろう

この人間の心理を逆手に取り、戦争やゲリラ戦では、録音した赤子の泣き声を流して敵をおびき寄せる戦術もあるという

神話や伝承の世界に目を向けても、赤子の泣き声で人を誘い寄せる怪異は数多く語り継がれてきた

そんな恐るべき怪異たちの伝承をひも解いていく


フィリピンの伝承

東南アジアの島国フィリピンには、チャナックと呼ばれる恐ろしい怪異の伝承がある

その姿は赤ん坊のようで、森の中などでオギャーオギャーと泣き叫ぶ
だがその声に誘われて近づいた人間は、鋭い爪で切り裂かれ、肉を喰い尽くされてしまうという

チャナックはフィリピンでは古くから知られた妖怪で、さまざまな文献にその名が登場する

スペイン人宣教師ホアキン・マルティネス・デ・スニガ(1760〜1818)が著した『フィリピン諸島誌』(原題:An historical view of the Philippine Islands)には、チャナックは「パティアナック(patianac)」という名で記されている

パティアナックは悪意に満ちた邪霊とされ、妊婦に取り憑いて無事な出産を妨げるという
この邪霊を追い払うため、夫は扉を閉ざして火を灯し、全裸で剣を振りかざしながら儀式を行ったとされる
こうすることで、邪霊の魔の手から妻と子供を守れると信じられていたそうだ

また、ミンダナオ島の少数民族マンダヤ族の伝承によれば、出産直前に亡くなった母親の胎内にいた子がチャナックに変じるとされる
その赤子は埋葬された母の体から這い出し、「地中から生まれた」人ならざる化け物になるのだという

現代では、チャナックは「洗礼を受ける前に亡くなった赤子の怨霊」、あるいは「堕胎された子供が復讐のために生まれ変わった姿」とも考えられている

これは16世紀以降、フィリピンがスペインの植民地となり、土着信仰が破壊される過程でキリスト教的な解釈に書き換えられた結果とみられる

日本の伝承

日本における「赤子のような声」の妖怪といえば、やはり子泣き爺(こなきじじい)の名を挙げずにはいられない

漫画家の水木しげる(1922~2015年)の作品『ゲゲゲの鬼太郎』に登場し、今や誰もが知る妖怪の一つとなった子泣き爺だが、元々は徳島県の山間部で語られるのみの、非常にマイナーな妖怪だったとされる

民俗学者の柳田國男(1875~1962年)が著した『妖怪談義』にて、子泣き爺は言及されている

山奥で泣いている赤ん坊がいたので、哀れに思い抱きかかえたところ、不思議なことに段々と重くなってくる
しかも赤子の顔をよく見るとおじいさんであり、驚いて手を離そうとしても、恐るべき力でしがみついて決して離れない

これこそが妖怪・子泣き爺である
介抱してくれた人をそのまま押し潰し、圧殺してしまうとされる

近年の研究では、徳島における子泣き爺を「単独の固有伝承」とするのは難しく、今日まで語られてきた怪異譚は、複数の逸話が重なり合って形成されたものとみられている

ちなみに近隣の高知県には「ごぎゃ泣き」という、子泣き爺に類似する妖怪の伝承が残る
その姿は白い赤ん坊のようであり、道行く人の足のまとわりついて離れないという
だが草履を脱ぐことで、この妖怪は足から離れ、何処かへ去っていくとされる

中国の山々において

中国には『山海経』という、謎めいた地理書が伝わっている

この書には実在するはずのない、奇々怪々な動物たちが数多く記されており、その様相はさながら妖怪図鑑のようである

そんな山海経にも、「赤子の声を発する」奇妙な生物たちの生態が描かれているので、いくつか紹介しよう

【鮨魚】

北嶽山(恒山)という山の諸懷水という水辺には、鮨魚(けいぎょ)という魚が多く生息しているという

魚ではあるが頭が犬のようであり、人間の赤ちゃんのような鳴き声をあげるとされる
その肉には、精神を和らげる効能があるとのことだ

【馬腹】

蔓渠山という山には、虎の体に人の顔を持った馬腹(ばふく)という猛獣が潜んでいるという

この怪物は赤子の声で人間をおびき寄せ、捕らえて食ってしまうとされた

【狍鴞】

鈎吾山には狍鴞(ほうきょう)なる、醜悪極まりない怪物が棲むという

その姿はこの上なく異形であり、羊の体・虎の牙・人間の顔を持つとされる
しかも顔には目が存在せず、代わりに脇の下辺りに、眼球をギョロリと備え持つのだという

この妖怪も例に漏れず赤子の声で鳴き、近づいてきた人間を貪り喰らうとされている

そのおぞましき姿から、正体は邪神として有名な饕餮(とうてつ)ではないかという説が存在する

このように、赤子の声で人を誘う怪異は、古今東西さまざまな土地で語り継がれてきた
人の本能に訴えかける「泣き声」は、時に救いを求める声であり、時に死へ誘う罠でもあったのである

参考 :『An historical view of the Philippine Islands』『妖怪談義』『山海経』他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

子供の泣き声というものは、本能的に庇護欲を刺激する

まともな大人であれば、どこからともなく赤ん坊の泣き声が聞こえてくれば、不安を覚え、声のする方へ確かめに行こうとするだろう

この人間の心理を逆手に取り、戦争やゲリラ戦では、録音した赤子の泣き声を流して敵をおびき寄せる戦術もあるという

神話や伝承の世界に目を向けても、赤子の泣き声で人を誘い寄せる怪異は数多く語り継がれてきた



暗闇から聞こえる赤子の泣き声・・・人を誘う恐怖の怪異伝承といえば、私は「ゲゲゲの鬼太郎」の子泣き爺(こなきじじい)だ・・・


赤子の声で人を誘う怪異は、古今東西さまざまな土地で語り継がれてきた
人の本能に訴えかける「泣き声」は、時に救いを求める声であり、時に死へ誘う罠でもあったのである


 

 


妖怪マンガの第一人者・水木しげる氏によるオールカラーの妖怪百科
 

 


妖怪ビジュアル大図鑑の世界編

呂后が死んだ日から始まった「権力争いのカウントダウン」

紀元前206年、秦が滅亡し、中国大陸は再び群雄割拠の時代へと突入した。

項羽と劉邦による楚漢戦争が勃発し、数年にわたる激しい戦いの末、最終的に勝利を収めたのは劉邦だった

紀元前202年、劉邦は初代皇帝として「漢」を建国し、中国史上400年近く続く大帝国の礎を築いた

その劉邦の正妻が呂雉(りょち)である

後に呂后(りょこう)と呼ばれる彼女は、劉邦と共に戦乱の時代を生き抜き、漢帝国の基盤を支えた存在だった

劉邦亡き後、皇太后となった呂雉は第2代皇帝の恵帝(劉盈 りゅうえい)を補佐し、さらにその死後は自ら皇帝に代わって政務を取り仕切り、実質的に漢王朝を15年間支配した

しかし、彼女の手腕は常に賛否両論を呼んできた
施政面では「与民休息」を掲げ、税を軽減し、安定した社会を実現した一方で、権力掌握のためには過酷な手段も辞さなかった

劉邦に寵愛された戚夫人を人彘にした逸話や、劉邦の庶子を相次いで排除したことなど、その冷酷さを示す事例は多い
こうした行動から、後世には「中国三大悪女」の一人として数えられている

前180年7月18日、呂后は、長安の宮殿・未央宮(びおうきゅう)で崩御する

呂后は最期、甥の呂禄(りょろく)と呂産(りょさん)に兵権を託し、「兵権だけは絶対に手放すな」と言い残した

この遺言は、やがて呂一族の命運を大きく分けることになる

劉邦との約束を破った呂氏

呂雉が生前もっとも恐れていたこと。それは、劉氏宗室や建国の功臣たちからの反発だった

その火種は、劉邦がまだ健在だった頃にさかのぼる

劉邦は漢帝国を建国した際、功臣や劉氏一族を集め、「白馬之盟(はくばのめい)」と呼ばれる誓いを立てたとされる

「非劉氏而王、天下共撃之」
意訳 : 劉氏一族以外を王に立てれば、天下を挙げてこれを討つ

引用 : 『史記』高祖本紀

この盟約は、劉氏一族の権威を守るだけでなく、建国の功臣たちを安心させる意味もあった

彼らにとって「漢の天下は劉氏のものである」という原則は絶対的なものであり、この不文律が王朝を支える精神的な支柱だった

しかし、呂后はその原則を自ら破る

劉邦の死後、彼女は呂氏の甥たちを次々と王に封じたのである
呂台を呂王に、呂産を梁王に、呂禄を趙王に
さらに妹の子や外甥までも列侯に取り立て、朝廷内は呂一族で固められていった

この呂氏の優遇策は、功臣や劉姓諸侯にとって裏切りに等しかった
とくに深い傷を負ったのは、劉邦の子や孫にあたる諸侯たちである

趙王劉如意を毒殺した一件や、梁王劉恢(りゅうかい)を自殺に追い込んだ事件は、劉姓一族の怒りをさらに増幅させた
中でも、斉王劉襄の父である劉肥は、呂后に毒酒を強要された過去があり、強い恨みを抱いていた

一方で、功臣たちも呂氏政権を快く思ってはいなかった
周勃、陳平、灌嬰、樊噲らは、劉邦と共に天下を取った仲間でありながら、呂一族が次々と高官に登用されるのを目の当たりにし、やがて自らの立場が脅かされる危機感を抱き始める

さらに呂一族は、権力を握るために必要な「軍事」と「政治」を着実に押さえていった

甥の呂禄と呂産に南北軍の兵権を与え、妹の呂媭(りょすう : 樊噲の妻)や外甥の呂平を宮廷内の要職に配置
さらに呂氏の女子を劉姓の諸侯に嫁がせ、婚姻による影響力拡大も進めていた

一見すると盤石な体制に見えたが、実際は宗室と功臣たちの怨嗟を一身に集めていたのである

信じた「ひと言」が命取り ~呂一族に迫る罠

呂后は臨終の際、甥の呂禄と呂産に南北軍の兵権を託し、「兵権だけは絶対に手放すな」と厳しく言い残していた

兵権こそが一族を守る最後の命綱であることを、彼女はよく知っていたのである

しかし、若い呂氏の一族には、姑の警告を理解するだけの老練さがなかった
そんな彼らに近づいたのが、周勃・陳平ら功臣たちの策謀である

決定的な転機をもたらしたのは、劉邦の重臣・酈商(りきしょう)の息子・酈寄(りき)の言葉だった
酈寄は呂禄と親しく、旧来の「友人」として信頼を得ていた

ある日、酈寄は深刻な顔で呂禄を訪ね、こう切り出したという

「高祖と呂后が天下を共に定めたことは、誰もが知っています。
しかし、呂后が亡くなった今、あなたが京城にとどまり軍権を握っていれば、劉氏宗室からの疑念は避けられません。
いまのうちに将印を返し、梁王にも相国印を返上させ、領地へお戻りなさい。
そうすれば、劉氏一族も呂氏を疑う理由がなくなり、王位も安泰です。」

酈寄は「旧友の忠告」の体で言葉をかけたが、これは周勃・陳平ら、功臣集団の仕組んだ罠だった

彼らは酈寄の父である酈商を人質に取り、その命と引き換えに息子を「偽りの使者」として送り込んでいたのである

しかし呂禄は、この言葉をまんまと信じてしまう

それを聞きつけた姑の呂媭(りょすう)は激怒し、庭にあった宝玉を床に叩きつけたという

「兵を捨てれば、呂氏はもう終わりだ!これらの財宝も、いずれすべて他人の手に渡るだろう!」

しかし呂禄は、姑の警告を聞き入れなかった

こうして彼は太尉・周勃に将軍印を返上し、南北両軍のうち北軍は周勃の支配下に移り、残されたのは呂産の南軍のみとなった

3ヶ月で一族滅亡へ

呂后が崩御してからわずか3ヶ月後、呂一族は長安の舞台から完全に姿を消すことになる

北軍を周勃に奪われたうえ、頼みの南軍も将軍・灌嬰が劉氏側と内通して寝返ったため、思うように動かせず、呂氏は事実上孤立無援となった
そこへ功臣たちと劉氏宗室が動いた

この一連の政変は「呂氏の乱(諸呂の乱とも)」として後世に伝わっている

周勃、陳平、劉章(劉邦の孫)は極秘裏に連携し、呂氏討伐のための計画を練り上げた
彼らはまず宮城北門の兵を掌握し、続いて劉章率いる兵が未央宮へ突入した

混乱の中、呂産は殿門近くで討たれ、呂禄も逃亡を試みたが捕らえられ、斬首された
呂媭も宮廷で竹杖で打たれ、命を落とす

呂一族は老若男女を問わず次々と処刑され、かつて漢王朝の中枢を占めた一族は、たった一夜にして消滅したのである

さらに、呂后が恵帝の子として立てていた少帝劉弘と、その兄弟である三人の皇子も「劉氏の血を引かない」として廃され、全員が殺害された

こうして、わずか3ヶ月の間に、呂氏政権の痕跡は徹底的に消し去られた

その後、漢王朝の再編が始まる
功臣たちは、次期皇帝を劉邦の血統から選ぶことを決めた

ここで白羽の矢が立ったのが、代国(現在の山西省)にいた代王・劉恒(りゅうこう)であった

母の薄姫は後宮でも地位が低く、母方の勢力も小さかったため、功臣たちにとって政治的に扱いやすい存在だった

劉恒は、第5代漢文帝として即位し、ここから「文景の治」と呼ばれる安定期へと時代は移っていく

皮肉にも、呂氏の血で染まったこの権力闘争が、結果的に漢王朝の体制を引き締め、約400年にわたる王朝の礎を固めたといえる

そして、呂后が最期に遺した「兵権を手放すな」という言葉は、時代を越えてなお重みを増すことになる

後世、三国時代の魏の司馬懿が政敵・曹爽(そうそう)を滅ぼした際も、こう語ったとされる

「握兵權而棄之,自取滅族也」
意訳 : 兵権を握りながらそれを手放せば、一族滅亡を自ら招くことになる

引用 : 『三国志』魏志・司馬懿伝

呂一族の栄華と滅亡は、権力の残酷さと儚さを象徴する物語として、二千年の時を超えて語り継がれている

参考 :
司馬遷『史記』呂太后本紀・高祖本紀・樊酈滕灌列伝
班固『漢書』他
文 /草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

呂后が死んだ日から始まった「権力争いのカウントダウン」

紀元前206年、秦が滅亡し、中国大陸は再び群雄割拠の時代へと突入した。

項羽と劉邦による楚漢戦争が勃発し、数年にわたる激しい戦いの末、最終的に勝利を収めたのは劉邦だった

紀元前202年、劉邦は初代皇帝として「漢」を建国し、中国史上400年近く続く大帝国の礎を築いた

その劉邦の正妻が呂雉(りょち)である

後に呂后(りょこう)と呼ばれる彼女は、劉邦と共に戦乱の時代を生き抜き、漢帝国の基盤を支えた存在だった

劉邦亡き後、皇太后となった呂雉は第2代皇帝の恵帝(劉盈 りゅうえい)を補佐し、さらにその死後は自ら皇帝に代わって政務を取り仕切り、実質的に漢王朝を15年間支配した

しかし、彼女の手腕は常に賛否両論を呼んできた
施政面では「与民休息」を掲げ、税を軽減し、安定した社会を実現した一方で、権力掌握のためには過酷な手段も辞さなかった

劉邦に寵愛された戚夫人を人彘にした逸話や、劉邦の庶子を相次いで排除したことなど、その冷酷さを示す事例は多い
こうした行動から、後世には「中国三大悪女」の一人として数えられている

前180年7月18日、呂后は、長安の宮殿・未央宮(びおうきゅう)で崩御する

呂后は最期、甥の呂禄(りょろく)と呂産(りょさん)に兵権を託し、「兵権だけは絶対に手放すな」と言い残した

この遺言は、やがて呂一族の命運を大きく分けることになる


「銃口から政権が生まれる」といわれる
軍の重要さを示す
呂后の遺言は守られなかった・・・


3ヶ月で一族滅亡へ

呂后が崩御してからわずか3ヶ月後、呂一族は長安の舞台から完全に姿を消すことになる

北軍を周勃に奪われたうえ、頼みの南軍も将軍・灌嬰が劉氏側と内通して寝返ったため、思うように動かせず、呂氏は事実上孤立無援となった
そこへ功臣たちと劉氏宗室が動いた

この一連の政変は「呂氏の乱(諸呂の乱とも)」として後世に伝わっている

周勃、陳平、劉章(劉邦の孫)は極秘裏に連携し、呂氏討伐のための計画を練り上げた
彼らはまず宮城北門の兵を掌握し、続いて劉章率いる兵が未央宮へ突入した

混乱の中、呂産は殿門近くで討たれ、呂禄も逃亡を試みたが捕らえられ、斬首された
呂媭も宮廷で竹杖で打たれ、命を落とす

呂一族は老若男女を問わず次々と処刑され、かつて漢王朝の中枢を占めた一族は、たった一夜にして消滅したのである

さらに、呂后が恵帝の子として立てていた少帝劉弘と、その兄弟である三人の皇子も「劉氏の血を引かない」として廃され、全員が殺害された

こうして、わずか3ヶ月の間に、呂氏政権の痕跡は徹底的に消し去られた

その後、漢王朝の再編が始まる
功臣たちは、次期皇帝を劉邦の血統から選ぶことを決めた

ここで白羽の矢が立ったのが、代国(現在の山西省)にいた代王・劉恒(りゅうこう)であった

母の薄姫は後宮でも地位が低く、母方の勢力も小さかったため、功臣たちにとって政治的に扱いやすい存在だった

劉恒は、第5代漢文帝として即位し、ここから「文景の治」と呼ばれる安定期へと時代は移っていく

皮肉にも、呂氏の血で染まったこの権力闘争が、結果的に漢王朝の体制を引き締め、約400年にわたる王朝の礎を固めたといえる

そして、呂后が最期に遺した「兵権を手放すな」という言葉は、時代を越えてなお重みを増すことになる

後世、三国時代の魏の司馬懿が政敵・曹爽(そうそう)を滅ぼした際も、こう語ったとされる

「握兵權而棄之,自取滅族也」
意訳 : 兵権を握りながらそれを手放せば、一族滅亡を自ら招くことになる

引用 : 『三国志』魏志・司馬懿伝

呂一族の栄華と滅亡は、権力の残酷さと儚さを象徴する物語として、二千年の時を超えて語り継がれている



 

 


漢の高祖劉邦は一介の農民から皇帝にまで駆け上がった英雄である
『史記』の精密な読解から、新しい劉邦像を導き出す画期的労作
彼は適在適所に人を使いこなした達人でこれが天下をもたらした

天下人候補を渡り歩いた魏の名将

三国志最大の勢力である魏には、人材コレクターとして名高い曹操のもとに、数多くの名将が集まった

魏の名将といえば、まず張遼(ちょうりょう)を思い浮かべる人も多いだろう

しかし、その張遼と並び、曹魏を支えたもう一人の重要な将が、張郃(ちょうこう)である

韓馥・袁紹・曹操と主君を変え、天下人に近い人物たちのもとを渡り歩いた張郃の生涯は、まさに「天下人請負人」と呼ぶにふさわしい

魏の名将として今も語り継がれる、張郃の生涯を紹介する

韓馥から袁紹へ

張郃(ちょうこう)は、字を雋乂(しゅんがい)といい、河間郡鄚県の人である

袁紹や曹操といった強大な勢力を渡り歩いたことで知られるが、最初の主君は韓馥(かんふく)という人物だった

黄巾の乱の募兵に応じ、韓馥の配下として軍司馬を務めたとされるが、この時期の張郃については正史に記録が少ない

韓馥は反董卓連合にも参加していたため、張郃も連合軍に従軍した可能性は高いが、呂布や張遼、高順といった名将たちとの交戦記録は残されていない

当時、韓馥は冀州牧であったものの、同盟関係にあった袁紹の影響力は大きく、事実上、張郃も袁紹の統制下にあったと考えられる

やがて袁紹との権力争いに敗れた韓馥は自害し、その配下は袁紹軍に吸収された
張郃もこのとき、正式に袁紹軍へ編入されることになる

この時期、袁紹軍に加わったのは張郃だけではなく、軍師の沮授(そじゅ)や麴義(きくぎ)といった、後に袁紹軍の主力として活躍する大物も含まれていた

袁紹配下時代

当時、天下人最有力候補と目された袁紹のもとで、武将として活動することになった張郃だが、袁紹軍時代の活躍を示す記述は多くない

公孫瓚との長期戦では功績を挙げ、寧国中郎将に昇進したことが『正史 三國志』に記されているものの、名のある武将を破ったり、主要な城を攻略したといった記録は見られない

後の活躍ぶりを考えれば、優秀な将だった可能性は高いが、当時の袁紹軍における張郃の序列は明らかではない

張郃についての詳しい記録が現れるのは、三国志前半における最大の戦い、袁紹vs曹操の「官渡の戦い」である

官渡の戦いでは、袁紹軍はおよそ11万の大軍を擁し、約4万の兵力しかなかった曹操軍を圧倒し、開戦当初は戦況を有利に進めていた

しかし、袁紹陣営から離反した許攸(きょゆう)の密告により、袁紹軍の兵糧庫が烏巣(うそう)にあり、警備が手薄であることが曹操に伝わる

曹操は、自ら精鋭を率いて烏巣を急襲した

烏巣攻撃の報を受けた袁紹陣営では、対応を巡って意見が分かれた

袁紹軍の謀士である郭図(かくと)は「曹操不在の本陣を攻撃すべき」と主張し、張郃は「本陣は守りが堅固で落とせない。すぐに烏巣へ援軍を送り、守将の淳于瓊(じゅんうけい)を救うべきだ」と進言した

郃説紹曰:「曹公兵精,往必破瓊等;瓊等破,則將軍事去矣,宜急引兵救之。」
郭圖曰:「郃計非也。不如攻其本營,勢必還,此為不救而自解也。」
郃曰:「曹公營固,攻之必不拔,若瓊等見禽,吾屬盡為虜矣。」

【意訳】
張郃は袁紹に「曹操軍は精鋭で、烏巣は必ず破られます。もし淳于瓊らが敗れれば、将軍の軍は危機に陥ります。すぐに兵を引き、救援すべきです」と進言した。
これに対して郭図は「張郃の計は誤りです。本営を攻めれば曹操は必ず引き返すでしょう。烏巣を救わずとも問題は解決します」と主張した。
張郃はさらに「曹操の本営は固く、攻めても落ちません。もし淳于瓊らが捕らえられれば、我々は皆虜になるでしょう」と反論した。

引用『三國志』魏書・張楽于張徐伝

結果的に郭図の策は失敗に終わったが、曹操不在の本陣を狙うという発想自体は、必ずしも悪いというわけではなかった

問題は、袁紹の采配にあった
袁紹は両者の意見を折衷し、軽騎兵を烏巣救援に向かわせる一方で、張郃には重装歩兵での曹操本陣の急襲を命じたのである

しかし、兵力を分散したこの采配は裏目に出た

張郃に与えられた兵力では曹操の本陣を攻め落とすには不十分で、烏巣は守り切れず陥落

烏巣の兵糧庫を焼き払われた袁紹軍は大混乱となり、総崩れとなった

このとき、郭図は自らの策の失敗を恥じ、張郃が敗北を喜んでいると袁紹に讒言した
立場を危うくした張郃は、高覧とともに曹洪のもとへ投降し、曹操軍に加わった

結果論ではあるが、袁紹が張郃の進言を全面的に採用し、兵を分散させずに烏巣救援を命じていれば、兵糧を守りきり曹操軍を撤退させられた可能性は大いにある

袁紹軍における張郃の詳細な記録は少ないが、この官渡の戦いこそが、張郃が後世に名を残すきっかけとなった戦いであった

魏の名将へ

官渡の戦い後、曹操に降伏した張郃は、その軍事的才能を高く評価され、偏将軍に任命されて厚遇を受けた
以後、鮮卑討伐や馬超との戦いなど、重要な局面で常に起用されるようになる

張郃は、名将を討ち取るなどの華々しい逸話こそ少ないが、鮮卑征討・雍奴攻撃・馬超撃破など着実に戦功を挙げ、平狄将軍へと昇進する
大軍を率いる総司令官ではなかったものの、要所で必ず動員される存在で、曹操陣営にとって欠かせない武将の一人となった

215年、馬超を破った後、曹操は漢中攻略を進め、張郃は夏侯淵(かこうえん)の副将として従軍する

曹操は猪突猛進型の夏侯淵に対し、「将たる者、臆病をも知るべし」と諭し、冷静な張郃を補佐役として付けていた
夏侯淵の大胆な攻勢と、張郃の冷静な判断は互いに補完し合い、二人は見事なコンビネーションを見せた

しかし同年、劉備軍の張飛が漢中へ進軍し、両軍は激突する

50日にも及ぶ長期戦の末、兵力を分散させた隙を突かれ、張郃は張飛に敗れて南鄭へ撤退を余儀なくされた
(『三國志演義』では、張飛が酒宴を開いていると誤解した張郃が夜襲を仕掛け、返り討ちにあったと脚色されている)

4年後の219年、漢中をめぐる戦況はさらに激化する

定軍山の戦いで劉備軍の攻勢に苦戦していた張郃を救うため、夏侯淵は自軍を割いて救援に向かうが、これが隙となり黄忠に討たれてしまったのである

総大将を失った曹操軍は動揺するも、張郃は夏侯淵の司馬(参謀・副官)だった郭淮(かくわい)らとともに軍をまとめ、被害を最小限に抑えて撤退に成功する

この戦いで劉備は、張郃の首を取れなかったことを強く悔やんだと『魏略』に記されている

この逸話からも、張郃が劉備にとって大きな脅威と見なされていたことがうかがえる

死の瞬間まで立ちはだかった蜀への壁

夏侯淵の戦死から関羽、曹操、張飛、劉備と、三国志序盤を彩った英雄たちが次々にこの世を去り、中国は本格的な三国時代へと突入した

魏の初代皇帝・曹丕(そうひ)が早世したこともあり、張郃は第二代皇帝・曹叡(そうえい)の時代まで、魏の武将として活躍した

晩年の活躍で特筆すべきは、蜀軍の諸葛亮による北伐戦線での働きである

第一次北伐(228年)、司馬懿の指揮下にあった張郃は、街亭の戦いで馬謖(ばしょく)を撃破し、蜀軍の侵攻を阻止した

続く第二次北伐(228〜229年)では、主戦場となった陳倉を救援するよう曹叡に命じられるが、張郃は郝昭(かくしょう)が守る城の堅固さと蜀軍の兵糧不足を指摘。予想通り、蜀軍は兵糧切れにより撤退した

約45年に及ぶ軍歴を誇る張郃は、戦況を見極める鋭い洞察力を備えており、劉備が警戒した以上の脅威となっていた

しかし231年、第四次北伐で蜀軍が再び祁山に進出すると、張郃は司馬懿の命で略陽に出陣

蜀軍が兵糧不足で退却を開始すると、張郃は「退く軍を追うべからず」と進言したが、司馬懿はこれを退け追撃を強行させた

そして張郃の懸念通り、蜀軍は伏兵を配置しており、張郃は飛来した矢を受けて戦死した(右膝、右腿など諸説あり)

この張郃の死につながった司馬懿の追撃命令については、「撤退には追い込んだものの事実上の負け戦で、司馬懿が蜀軍に勝ち逃げされることを嫌った」とも、「魏で司馬懿以上の軍歴を誇る張郃の存在を疎ましく思っていた」とも言われ、真相は定かではない

ただ、曹叡は張郃の戦死を深く悲しんだという

長い軍歴ゆえ敗戦も経験しているが、劉備存命時から蜀軍と戦い続け、最期まで蜀の前に立ちはだかった張郃は、蜀にとってはまさに「高き壁」であった

張郃の実績は高く評価され、張遼・楽進・于禁・徐晃と並び「魏の五将軍」として後世に名を残した

蜀の「五虎大将軍」と対比されることも多いが、魏の「五将軍」こそが先に成立した、由緒ある称号といえよう

参考 : 『正史 三国志』魏書・張楽于張徐伝(陳寿著)、裴松之注『魏略』他
文 / mattyoukilis 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

三国志最大の勢力である魏には、人材コレクターとして名高い曹操のもとに、数多くの名将が集まった

魏の名将といえば、まず張遼(ちょうりょう)を思い浮かべる人も多いだろう

しかし、その張遼と並び、曹魏を支えたもう一人の重要な将が、張郃(ちょうこう)である

韓馥・袁紹・曹操と主君を変え、天下人に近い人物たちのもとを渡り歩いた張郃の生涯は、まさに「天下人請負人」と呼ぶにふさわしい


彼は、天下人候補を渡り歩き、劉備も恐れた魏の名将・・・


夏侯淵の戦死から関羽、曹操、張飛、劉備と、三国志序盤を彩った英雄たちが次々にこの世を去り、中国は本格的な三国時代へと突入した

魏の初代皇帝・曹丕(そうひ)が早世したこともあり、張郃は第二代皇帝・曹叡(そうえい)の時代まで、魏の武将として活躍した

晩年の活躍で特筆すべきは、蜀軍の諸葛亮による北伐戦線での働きである

第一次北伐(228年)、司馬懿の指揮下にあった張郃は、街亭の戦いで馬謖(ばしょく)を撃破し、蜀軍の侵攻を阻止した

続く第二次北伐(228〜229年)では、主戦場となった陳倉を救援するよう曹叡に命じられるが、張郃は郝昭(かくしょう)が守る城の堅固さと蜀軍の兵糧不足を指摘。予想通り、蜀軍は兵糧切れにより撤退した

約45年に及ぶ軍歴を誇る張郃は、戦況を見極める鋭い洞察力を備えており、劉備が警戒した以上の脅威となっていた

しかし231年、第四次北伐で蜀軍が再び祁山に進出すると、張郃は司馬懿の命で略陽に出陣

蜀軍が兵糧不足で退却を開始すると、張郃は「退く軍を追うべからず」と進言したが、司馬懿はこれを退け追撃を強行させた

そして張郃の懸念通り、蜀軍は伏兵を配置しており、張郃は飛来した矢を受けて戦死した(右膝、右腿など諸説あり)

この張郃の死につながった司馬懿の追撃命令については、「撤退には追い込んだものの事実上の負け戦で、司馬懿が蜀軍に勝ち逃げされることを嫌った」とも、「魏で司馬懿以上の軍歴を誇る張郃の存在を疎ましく思っていた」とも言われ、真相は定かではない

ただ、曹叡は張郃の戦死を深く悲しんだという

長い軍歴ゆえ敗戦も経験しているが、劉備存命時から蜀軍と戦い続け、最期まで蜀の前に立ちはだかった張郃は、蜀にとってはまさに「高き壁」であった

張郃の実績は高く評価され、張遼・楽進・于禁・徐晃と並び「魏の五将軍」として後世に名を残した

蜀の「五虎大将軍」と対比されることも多いが、魏の「五将軍」こそが先に成立した、由緒ある称号といえよう


 

 


魏・蜀・呉、三国の興亡を描いた『三国志』には、「桃園の誓い」「三顧の礼」「出師の表」「泣いて馬謖を斬る」など心打つ名場面、また「水魚の交わり」「苦肉の策」「背水の陣」「髀肉の嘆」など名言や現代にも通じる格言も数多く登場する
また、曹操、劉備、孫権、孔明、関羽、張飛、趙雲、周瑜、司馬懿など個性豊かで魅力的な登場人物に加え、官渡の戦い、赤壁の戦い、五丈原の戦い等、歴史上重要な合戦も多い
英雄たちの激闘の系譜、名場面・名言が図解でコンパクトにすっきりわかる『三国志』の決定版!
長い中国史で「三国志」の時代はわずかだ
しかしこの時代は個性的、魅力的人物が多く登場した