お酒はほどほどに楽しむ分には問題ないが、大量に飲むと健康を害することは周知のとおりである
室町・戦国時代にも、過度の飲酒によって寿命を縮めたとされる武将が存在する。本稿では、そのうち三人を紹介することにする
◎足利義尚(あしかが・よしひさ)
足利義尚は第八代将軍・足利義政の子として生まれ、若くして征夷大将軍となった
当時、幕府の権威はすでに失墜していたが、義尚は長享元年(1487)に六角氏討伐を実施し、将軍として幕府の威信回復を図ったことでも知られている
一説によると、義尚は酒食に溺れたと伝えられており、それが寿命を縮めた要因といわれている
義尚が亡くなったのは長享三年(1489)のことで、まだ二十五歳だった
後継となる男子を残さなかったため、次の征夷大将軍には、猶子として迎えていた足利義材(義稙/義視の子)が就いた
なお、義尚の遺体は腐敗を防ぐため、口・鼻・目に水銀が詰められたと伝わっている
◎上杉謙信(うえすぎ・けんしん)
上杉謙信が酒好きであったことは、広く知られている。山形県米沢市の上杉神社には、謙信愛用の「春日杯」と呼ばれる盃が現存し、それは直径約10センチ、深さ約6.5センチもある大ぶりの酒杯だった
謙信が梅干しを肴に酒を飲んだという逸話も有名である
永禄二年(1559)に上洛した際には、関白の近衛前嗣(のちの前久)や将軍・足利義輝と夜明けまで大酒を酌み交わし、翌日は二日酔いで出仕できなかったと記録されている
謙信は天正六年(1578)に「突然の虫気」(脳卒中か)で死去したと伝えられているが、酒の飲み過ぎが寿命を縮めた可能性も否定できない
◎小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)
関ヶ原合戦での裏切りで知られる小早川秀秋は、西軍から東軍に寝返り、西軍の大谷吉継の軍勢を攻撃したことで天下分け目の戦いの行方を決定づけた。戦後、秀秋は備前などを与えられたが、若くして急死した
まだ21歳だった
かつては「吉継の亡霊に取り憑かれて狂死した」ともいわれたが、現在では誤りとされている
実際のところ、秀秋は大の酒好きであり、それが寿命を縮めたと考えられている
医師・曲直瀬玄朔の『医学天正記』にも、秀秋が大量の飲酒によって黄疸の症状を呈していたことが記されている
秀秋には後継者がいなかったため、その死によって小早川家は断絶したのである
主要参考文献
日本史史料研究会監修、平野明夫編『室町幕府全将軍・管領列伝』(星海社新書、2018年)、矢田俊文『上杉謙信』(ミネルヴァ書房、2005年)、光成準治『小早川隆景・秀秋』(ミネルヴァ書房、2019年)など
(この記事は渡邊大門の記事で作りました)
上杉謙信は大酒飲みで知られる
本当の酒好きは酒の飲酒時につまみをほとんど食べないといわれるが、謙信もつまみに梅干しを食べる程度だったという
梅干しはかなり塩辛いので酒と梅干しだけでは身体に悪そう・・・
「敵に塩を贈った説」や「領土拡大に熱心でなかったとの説」、「正義感が強かった説」、「宗教心が強い(毘沙門天の生まれ変わりといったとも)」などもあり、「義の人」だったとも・・・
戦に強く戦国武将では武田信玄とともに軍神ともいわれることも・・・
(戦では生涯無敗だったとも・・)
小早川秀秋は関ヶ原合戦での裏切りで知られ、足利義尚は私は知りませんでした
越後を本拠に関東・越中・能登を支配した上杉謙信については、江戸時代の兵学者らによって史実と異なることが多く語り継がれてきた
本書は、謙信が生きた時代の史料のみを使って、本物の謙信像を提示する








