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愛新覚羅家に嫁いだ日本人女性

清朝最後の皇帝として知られる愛新覚羅溥儀(あいしんかくら ふぎ)

その数奇な生涯は映画「ラストエンペラー」を通じて世界的に広く知られ、今なお強い印象を残している

幼くして皇帝となり、退位、満洲国での再即位、終戦後の収容生活、そして釈放後は新たな中国で静かに暮らしながら生涯を終えた人物である

その溥儀には、実弟の溥傑(ふけつ)がいた

そして彼には、日本から一人の女性が嫁いでいる

華族の家に生まれ、のちに激動の時代を夫とともに歩むことになる、嵯峨浩(さが ひろ)である

嵯峨浩がどのように愛新覚羅家と結びつき、どのような日々を送ったのかを、当時の背景とともにたどっていきたい


ラストエンペラーの弟・溥傑の出自

愛新覚羅 溥傑(あいしんかくら ふけつ、1907年生)は、清朝の有力皇族である醇親(じゅんしん)王家の一員として生まれた

父は醇親王・載灃(さいほう)、母は正白旗出身の瓜爾佳氏(グワルギャし)・幼蘭(ようらん)
祖父は道光帝の第七子の醇賢親王・奕譞(いけん)、兄はのちに清朝最後の皇帝・宣統帝となる溥儀(ふぎ)である

兄が幼くして帝位に就いたため、溥傑は醇親王家の継嗣とみなされ、幼少期から兄の側近くで学び、伴読(共に書物を読み、学問を補佐する役目)として仕えた

1924年、溥傑は満洲旗人の名門出身である唐石霞(とう せきか)と結婚する

しかし夫婦関係は早くからぎくしゃくし、やがて別居となって婚姻は事実上破綻した

その背景には唐石霞が、その美貌から多くの男性と浮き名を流したことがあった

1927年、北京飯店の舞踏会で出会った軍閥の実力者、張学良と不倫関係に陥り、他にも複数の男性との関係が噂されるようになる

さらに溥傑が日本に留学していた時期には、醇親王府から多数の財宝を持ち出したことが発覚し、これらの出来事が重なって夫婦仲は完全に冷え切り、長い争いの末に別居・離婚へと至ったと伝えられている

一方、中国本土では辛亥革命後の混乱が続き、1924年の北京政変では馮玉祥(ふうぎょくしょう)と孫岳(そんがく)らが軍事クーデターを起こし、清室優待条件を一方的に破棄した

これにより、皇帝を退位していた溥儀一族は紫禁城を追われ、日本公使館へと避難することになる

溥傑もこの流れの中で日本政府の庇護を受けるようになり、日本との距離は一気に近づいていった

1929年、溥傑は婉容(えんよう)皇后の実弟・郭布羅潤麒(かくぶら じゅんき)とともに来日し、日本語などの基礎教育を受けたのち、学習院高等科に進む

その後、陸軍士官学校に入学して軍事教育を受け、日本の軍隊生活を通して日本社会や文化にも深く触れていった

この日本での経験が、のちに彼の人生を決定づける大きな要素となる

嵯峨浩の出自

嵯峨浩(さが ひろ)は1914年、東京で生まれた

父は侯爵・嵯峨実勝(さが さねかつ)

嵯峨家は、正親町三条家の流れをくむ公家華族であり、藤原北家閑院流に属する由緒ある家柄である
さらに昭和天皇とは父方を通じて母系の遠縁にあたり、皇室とも血縁で結ばれた家系であった

浩は女子学習院に学び、宮中行事にも出入りしながら、礼儀作法や和歌、ピアノ、フランス語などを身につけた

いわば「華族社会の教養を体現した若い女性」であり、その家柄と人柄は、当時の日本社会においても特別な存在感を放っていた

満洲国皇帝となっていた溥儀は、当初、弟の溥傑を日本の皇族女子と結婚させたいと考えていた

しかし、日本の皇室典範および皇室典範増補では、皇族女子の結婚相手は皇族や王公族、もしくは特に認められた華族に限られており、満洲国の皇弟であっても外国人男性である溥傑は、その条件から外れていた

このため、皇族との縁組は制度上認められず、代わりに皇室と血縁のある華族女子から候補が探されることになった

そこで候補として白羽の矢が立ったのが、侯爵嵯峨家の長女・浩であった

こうして関東軍の主導のもと、日満関係強化の象徴ともいえる縁談が進められていった。

1937年(昭和12年)2月6日、溥傑と浩の婚約内定が満洲国駐日大使館から発表され、同年4月3日には東京・軍人会館(旧九段会館、現・九段会館テラスの復原部分)で結婚式が挙げられた

媒酌人は陸軍大将の本庄繁、司祭は靖国神社宮司が務め、当日は号外が配られるほど話題になったという

満洲で始まった二人の新生活

1937年、東京で結婚式を挙げた溥傑と嵯峨浩は、その年の秋に満洲国の首都・新京へと向かった

夫婦として歩み始める場所は、異国の地でありながらも、皇帝溥儀の存在を中心とした特殊な宮廷社会が広がる場所だった

満洲国での生活は、一見すると華やかに思われがちだが、実際には日本と満洲の政治的事情に左右される、緊張感を伴う日々であった

浩は嫁いだ直後から新しい環境に馴染もうと努め、宮中行事への出席、外国使節との応対、公式行事での礼節など、多くの場面で華族としての教養と品位を求められた

夫婦は新京で静かに暮らしながら、周囲の人々とも良好な関係を築いていったという

そうした日々の中、1938年には新京で長女の慧生(えいせい)が誕生した
1940年には、浩が一時帰国していた際に、東京で次女の嫮生(こせい)が誕生する

夫婦にとっては幸福な時期であり、浩は育児にも熱心に取り組んだとされる

しかし満洲国を取り巻く情勢は、次第に緊迫の度を増していく

表向きの平穏とは裏腹に、国際情勢の変化は新京にも確実に影を落とし、夫婦の生活はいつ戦火に巻き込まれてもおかしくない状態であった

戦争と離別

1930年代末から世界情勢は急速に不安定化し、満洲国もまたその渦中に巻き込まれていった

日中戦争が拡大するにつれ、日本の軍事方針は満洲国にも強く影響を及ぼし、皇弟であった溥傑にもさまざまな政治的役割が求められるようになった

新京の宮廷は表向きこそ整然と保たれていたが、その内側では日本の意向が絶えず反映され、皇族である溥傑の行動にも制限が加わるようになっていく

そして時代の大きな波は、ついに夫婦生活にも大きな影を落とすこととなる

1944年、満洲国の情勢が悪化する中、溥傑には「満洲国の象徴としての役務」や「皇弟としての外交的存在感」などを理由に、日本本土への出向が命じられた

これは実質的には日本側の要請によるもので、新京を離れ、単身で日本へ向かうことを余儀なくされたのである

浩は次女の嫮生とともに満洲に残り、夫婦は初めて長期の別離となった
一方、長女の慧生は学業のため日本に滞在していた

浩は後年、夫が日本へ旅立った日のことを「生涯でもっとも胸の締めつけられる思いだった」と振り返っている

溥傑との再会と、浩の最期

1945年8月、ソ連軍が突如満洲へ侵攻すると、満洲国は急速に崩壊へ向かった

首都・新京は混乱に包まれ、溥儀をはじめとする皇族や政府高官たちは南方へ退避し、日本への脱出を図ろうとしたが、情勢は一刻ごとに悪化していった

溥傑は1944年に日本へ渡っていたが、戦局の悪化に伴い、翌1945年には再び新京へ戻るよう命じられていた
このため満洲国崩壊の際には、溥儀やその側近たちと行動を共にし、退避の一行に加わっていた

混乱の中で溥傑は、溥儀や満洲国の要人たちとともにソ連軍に拘束された

その後、一行はシベリア方面の収容所へ送られ、長い抑留生活を強いられることになる

そのころ、浩は満洲に残り、次女の嫮生を抱えて混乱の続く大陸を転々とすることを余儀なくされた

食糧も乏しく、移動の安全も保証されない過酷な状況の中で、浩は幼い嫮生を守ることだけを心の支えに、幾度もの危険を乗り越えていった

戦後の混乱が落ち着き始めた1947年、ようやく引き揚げが実現し、浩と嫮生は長い流転の末に日本へ戻り、慧生と再会することになる

しかし、戦後の生活は決して穏やかではなかった

日本社会は敗戦のショックに揺れ、華族制度も廃止されたことで、浩の生活基盤は一気に失われた

その中で、浩が最も心を痛めたのは、長女・慧生(えいせい)の死である

1957年、慧生は学習院大学に通う中で、交際していた青年・大久保武道とともに、伊豆天城山でピストル心中を遂げた

「天城山心中」と呼ばれるこの事件は、浩の人生に深い傷を残した

一方、溥傑はソ連の収容所を経て、1950年に中国へ送還され、撫順戦犯管理所に収容された
中国での「再教育」は約10年におよび、長い年月のあいだ家族と会うことは叶わなかった

しかし1960年、模範囚として釈放され、翌1961年にようやく浩との再会が実現する

10数年ぶりの再会は、言葉では表せないほど感慨深いものであったという

その後、浩は溥傑と北京で再び夫婦としての生活を始めたが、嫮生(こせい)は日本に戻り、のちに日本へ帰化して結婚した

浩は皇族でも華族でもなく、一人の日本人女性として、夫のそばで穏やかな時間を大切にしたと伝えられる

そして1987年、浩は北京の病院で静かに息を引き取った
享年73

溥傑はその後も、日中友好の象徴として活動しながら余生を過ごし、1994年に北京で亡くなった
享年86

夫妻と慧生の遺骨は本人たちの希望により、日中双方に分骨され、今も静かに祀られている

激動の時代に押し流されながらも、夫婦は離れても離れず、最後には再び共に歩む道を取り戻した

嵯峨浩の生涯は、一人の女性の人生を越え、戦争と国家の運命に翻弄された「歴史の証人」として、今も静かな余韻を残している

参考 : 愛新覚羅溥傑『溥傑自伝「満州国」皇弟を生きて』愛新覚羅浩『流転の王妃の昭和史』他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

愛新覚羅家に嫁いだ日本人女性

清朝最後の皇帝として知られる愛新覚羅溥儀(あいしんかくら ふぎ)

その数奇な生涯は映画「ラストエンペラー」を通じて世界的に広く知られ、今なお強い印象を残している

幼くして皇帝となり、退位、満洲国での再即位、終戦後の収容生活、そして釈放後は新たな中国で静かに暮らしながら生涯を終えた人物である

その溥儀には、実弟の溥傑(ふけつ)がいた

そして彼には、日本から一人の女性が嫁いでいる

華族の家に生まれ、のちに激動の時代を夫とともに歩むことになる、嵯峨浩(さが ひろ)である


ラストエンペラーの弟に嫁いだ日本人女性・嵯峨浩の激動の生涯・・・

夫婦は戦争の混乱などで離れることも・・・


溥傑との再会と、浩の最期

1945年8月、ソ連軍が突如満洲へ侵攻すると、満洲国は急速に崩壊へ向かった

首都・新京は混乱に包まれ、溥儀をはじめとする皇族や政府高官たちは南方へ退避し、日本への脱出を図ろうとしたが、情勢は一刻ごとに悪化していった

溥傑は1944年に日本へ渡っていたが、戦局の悪化に伴い、翌1945年には再び新京へ戻るよう命じられていた
このため満洲国崩壊の際には、溥儀やその側近たちと行動を共にし、退避の一行に加わっていた

混乱の中で溥傑は、溥儀や満洲国の要人たちとともにソ連軍に拘束された

その後、一行はシベリア方面の収容所へ送られ、長い抑留生活を強いられることになる

そのころ、浩は満洲に残り、次女の嫮生を抱えて混乱の続く大陸を転々とすることを余儀なくされた

食糧も乏しく、移動の安全も保証されない過酷な状況の中で、浩は幼い嫮生を守ることだけを心の支えに、幾度もの危険を乗り越えていった

戦後の混乱が落ち着き始めた1947年、ようやく引き揚げが実現し、浩と嫮生は長い流転の末に日本へ戻り、慧生と再会することになる

しかし、戦後の生活は決して穏やかではなかった

日本社会は敗戦のショックに揺れ、華族制度も廃止されたことで、浩の生活基盤は一気に失われた

その中で、浩が最も心を痛めたのは、長女・慧生(えいせい)の死である

1957年、慧生は学習院大学に通う中で、交際していた青年・大久保武道とともに、伊豆天城山でピストル心中を遂げた

「天城山心中」と呼ばれるこの事件は、浩の人生に深い傷を残した

一方、溥傑はソ連の収容所を経て、1950年に中国へ送還され、撫順戦犯管理所に収容された
中国での「再教育」は約10年におよび、長い年月のあいだ家族と会うことは叶わなかった

しかし1960年、模範囚として釈放され、翌1961年にようやく浩との再会が実現する

10数年ぶりの再会は、言葉では表せないほど感慨深いものであったという

その後、浩は溥傑と北京で再び夫婦としての生活を始めたが、嫮生(こせい)は日本に戻り、のちに日本へ帰化して結婚した

浩は皇族でも華族でもなく、一人の日本人女性として、夫のそばで穏やかな時間を大切にしたと伝えられる

そして1987年、浩は北京の病院で静かに息を引き取った
享年73

溥傑はその後も、日中友好の象徴として活動しながら余生を過ごし、1994年に北京で亡くなった
享年86

夫妻と慧生の遺骨は本人たちの希望により、日中双方に分骨され、今も静かに祀られている

激動の時代に押し流されながらも、夫婦は離れても離れず、最後には再び共に歩む道を取り戻した

嵯峨浩の生涯は、一人の女性の人生を越え、戦争と国家の運命に翻弄された「歴史の証人」として、今も静かな余韻を残している




 

 


満洲帝国皇帝弟に嫁ぐも、終戦後は夫と離れ次女を連れて大陸を流浪、帰国後の苦しい生活と長女の死・・・激動の人生を綴る自伝的昭和史

怖いのは、塩ではなく塩化ナトリウム
注意したいのは、「塩」の中にもさまざまな種類があるということです
精製塩、海塩、岩塩など、種類によって含まれる成分にも大きな違いがあります
特に注目したいのがナトリウムとカリウムの含有量

「食卓塩」と呼ばれる精製塩は、カリウムを全く含んでいません
私は「高血圧には減塩」と言われるようになった原因が、自然塩ではなく、ほぼ塩化ナトリウムでできた精製塩と深く関係していると考えています

よく、魚や肉を焼く前に塩を振ることで「身が締まる」と言いますが、これはナトリウムがもつ筋肉を収縮させる働きを利用したもの
人間の血管も小さな筋肉ですから、ナトリウムを摂ることで血管が収縮すれば、血圧が上昇します

ですから塩を選ぶときは、食卓塩=精製塩ではなく、カリウム、カルシウムなども含まれるミネラル豊富な自然塩にしてください
特に余分なナトリウムを輩出してくれる、カリウムが多く含まれているものを選びましょう

おなじみの食卓塩は塩化ナトリウムの塊

塩化ナトリウム99%、ミネラル分は含まれない!

ミネラルは100%外部補給!
代謝に深くかかわるミネラル
不足すると代謝が滞り、体の機能を十分に発揮できなくなります
たとえば、亜鉛が不足すると味覚障害になる可能性も
体内でつくり出せないため、食事で積極的に摂取しましょう

【不足すると・・・】
⇒味覚障害/貧血/免疫力低下代謝低下/発達障害など

【POINT】
99%塩化ナトリウムの精製塩が血管を収縮させ、高血圧を引き起こす

【出典】『薬なし減塩なし!1日1分で血圧は下がる』著:加藤雅俊

(この記事はラブすぽの記事で作りました)

精製塩ではなく、にがりなどミネラルの入った自然界を摂取すべきだ

【POINT】
99%塩化ナトリウムの精製塩が血管を収縮させ、高血圧を引き起こす


 

 


「血圧の薬って一生飲み続けなけるべき?」「薬をやめたいけど、やめるのが怖い!」
そんな人のために、高血圧治療の誤解を解き、薬に頼らずとも血圧を下げられる方法をご紹介
1日1分でもできる降圧ストレッチの実践法です

『だいたいヒトがやらかしました 絶滅生物事典』(監:木村 由莉/絵と漫画:ウラケン・ボルボックス/文:山﨑 実香/二見書房)が発売された

「私たちヒトは、地球上に登場して以来、 多くの生きものたちを滅ぼしてしまいました・・・」と本書
紙面では かつてこの地球上に生息していたにもかかわらず絶滅してしまった生きものたちを、 オールカラーの美しいイラストとマンガ、 豊富な説明文とともに紹介し、楽しく解説
 監修は、国立科学博物館 生命史研究部 進化古生物研究グループ 研究主幹の木村由莉が務めている

『だいたいヒトがやらかしました 絶滅生物事典』と合わせて『ビッグファイブ 大絶滅図鑑』(二見書房)も同日に発売
東京・上野にある国立科学博物館では「大絶滅展-生命史のビッグファイブ」が特別展として2025年11月1日(土)から2026年2月23日(月)まで開催
本書はその大絶滅展の関連書籍として発売されている

地球には過去に5度「ビッグファイブ」と呼ばれる大規模な生物の大絶滅が起こっており、それぞれの時期にすんでいた生きものの大半が死滅したと考えられている
しかし、本書ではあえてビッグファイブで絶滅した生きものではなく、ビッグファイブ以降にヒトの手で絶滅した生きものが紹介される

(この記事はリアルサウンドの記事で作りました)

地球には過去に5度「ビッグファイブ」と呼ばれる大規模な生物の大絶滅が起こっているといわれる

しかし、本書(『だいたいヒトがやらかしました 絶滅生物事典』)ではあえてビッグファイブで絶滅した生きものではなく、ビッグファイブ以降にヒトの手で絶滅した生きものが紹介される

その点でいえばヒトは生物絶滅の脅威といえる

自然界に起きた自然の淘汰ではなく、ヒトが「人工的に淘汰」してしまったことになる・・・

自然界にとってヒトは脅威のひとつなのかも・・・



 

 


自然界の淘汰ではなく、ヒトの都合などにより絶滅させられた生物も多くいるという・・・
「ヒトのやらかし」によって絶滅されらせた生物たちを紹介

知られざる名将

『三国志』といえば今も多くの人に親しまれているが、その中であまり語られることのないのが「蜀滅亡後の晋と呉の時代」である。

その理由の一つは、この時代に「破竹の勢い」の語源となった杜預(とよ)による呉征伐を除けば、両国間で目立った大規模戦闘がほとんどなかった点にある

すでに群雄が割拠し、君主自ら戦場に立つような時代ではなくなっており、劉備や曹操のような戦場の主役がいなかったことも物語化を難しくしている

ゲーム『三國志』シリーズでも、260年以降を舞台にしたシナリオはわずかで、蜀滅亡後の「人材難の時代」は創作の上でも描きづらい時代といえるだろう

そうした人材難の時代にあって、杜預の前に長く呉との国境を守り、敵国の人々からも深く敬愛された名将がいた

羊祜(ようこ)である


羊祜の複雑な縁戚関係

羊祜の一族は、泰山郡に根を張る名門であり、姉の羊徽瑜(ようきゆ)が司馬師に嫁いだことから、後に皇帝となる司馬炎との縁を得た

この姻戚関係によって羊祜は重用されることになるが、当時の血縁を重んじる風潮の中にあっても、彼自身の学識と才覚はその地位に十分ふさわしいものであった

一方で、羊祜の妻は魏の名門・夏侯氏の出身で、父は名将・夏侯覇である

夏侯氏は曹氏と同族関係にあり、司馬氏と並ぶ勢力を誇っていた

つまり羊祜は、司馬氏と曹氏という魏の二大勢力と深く関わる血縁を持っていたことになる

若き日の羊祜は、曹魏の史官であった王沈とともに、魏の大将軍・曹爽(そうそう)から仕官の誘いを受けたが、「人に仕えることは容易ではなく、まして命を懸けて仕えるのはさらに難しい」と述べ、これを断った

姻戚関係から、どちらの陣営にも味方しづらい事情があったとも推測されるが、史書には明確な理由は残されていない

ただ、後に曹爽が司馬懿との政争に敗れ、誅殺されたことを思えば、羊祜の見識の高さが結果的に証明されたといえる

このころ、義父の夏侯覇は、司馬懿による粛清を恐れて蜀へ亡命した

そのため妻の夏侯氏が非難を受けたが、羊祜はこれをかばい家族を守り通したという逸話があり、彼の清廉で温厚な人柄がうかがえる

曹爽の没落後、王沈は免官となり、自身の軽率さを悔やみつつ羊祜の先見の明を称賛した

その後、司馬懿・司馬師の後を継いだ司馬昭が羊祜に仕官を求めたが、羊祜はこれも辞退した

もはや曹氏・夏侯氏の勢力は衰退しており、血縁のしがらみはなかったが、彼は安易に権力に近づくことを避けたのである

最終的に司馬昭が皇帝の馬車を遣わして迎えに来たため、羊祜は辞退しきれずに宮廷へ出仕することとなった

とはいえ、彼は権臣とも派閥とも距離を置き、常に公平で中立な姿勢を保ち続けたという

荊州に現れた名政治家

司馬炎が天下統一を志し、呉への進攻を計画した際、羊祜はその総司令官として荊州に派遣された

彼は当地で仁政を施し、呉からの亡命者や投降兵を分け隔てなく厚遇したため、その名声は南方にまで広まり、やがて呉からの流入者が後を絶たなくなった

当時、呉では孫権の孫にあたる第4代皇帝・孫皓(そんこう)の暴政に人々が苦しんでおり、羊祜の治める荊州は「逃れ来る者の安住の地」となっていたのである

このように、誰もが認める名政治家でもあった羊祜だが、統治者としてはやや無防備な面もあった

公務の合間に外出する際には軽装で、護衛も最小限に留めており、その姿を見た部下の徐胤(じょいん)は「将軍の身にもしものことがあれば、それは国家の損失にほかなりません」と諫言した

羊祜はその言葉を素直に受け入れ、それ以降は軽装で外出することを控えたという

終生のライバル 陸抗との友情

統治者としての力量を存分に発揮した羊祜であったが、彼の最終的な使命はあくまで呉の制圧と天下統一の実現にあった

荊州に駐屯した羊祜は、幾度か呉軍と交戦するが、272年の西陵の戦いでは敗北を喫する

その後は正面からの戦を避け、拠点の整備や懐柔策に方針を転換し、討ち取った敵将の遺体を丁重に送り返すなど、戦後処理にも礼を尽くした

この頃、呉の防衛を担っていたのは名将・陸遜の子である陸抗(りくこう)だった

羊祜と陸抗は、互いの才能と人徳を深く認め合い、敵対関係にありながらも敬意を持って接していた

戦況上、時に小規模な戦闘を交えることはあったものの、無益な衝突は避け、国境を挟んで書簡を交わし、贈答を通じて信義を重んじる関係を築いていた

晋と呉が直接雌雄を決する戦は、両者の生前には実現しなかったが、比較的安定したこの時期だからこその逸話がいくつか残されている

その一つが「羊陸之交(羊陸の交わり)」である

陸抗が病に倒れたと聞いた羊祜は、敵将ながら薬を送った

周囲は「敵の贈り物など毒に違いない」と止めたが、陸抗は「羊祜はそのような人物ではない」と意に介さず、薬を飲んで毒ではない事を証明したという

やがて陸抗も、その誠意に応えて酒を送り返した

今度は羊祜の側近たちが警戒したが、羊祜もまた「陸抗はそのような男ではない」と言って杯を傾け、やはり何の害もなかった

陸抗は、疑念を口にする者たちに対し、次のように語ったと伝えられる

「小さな村にも信義を重んじる者がいるというのに、大国に信義を守る者がいないということがあってはならぬ。もし私が信を示さねば、晋(羊祜)の徳のみが伝わってしまうだろう」

後世、人々はこの美しい友情を「羊陸之交(羊陸の交わり)」と呼び、今に至るまで語り継がれている

果たせなかった三国統一と死後も愛された「羊公」

敵国同士でありながら深い友情を育んだ羊祜と陸抗であったが、その裏では、晋による呉征伐の準備が着々と進められていた

陸抗が没したのは273年末とも274年とも伝えられるが、その報を受けた羊祜は、これこそ好機と見て司馬炎に出撃を願い出た

しかし、慎重派の反対によってその上奏は退けられてしまう

羊祜は「今こそ天の与えた好機であるのに、人生は思うようには運ばぬものだ」と嘆いたという

その後も出兵の機会は訪れぬまま、278年、羊祜は病に倒れてこの世を去った
享年58

その2年後、彼の遺志を継いだ杜預が呉を滅ぼし、三国時代はついに幕を閉じた

羊祜の死を知った晋の官民は深く悲しみ、遠く呉の国境にいた敵国の将兵や民衆までもが、彼の死を悼んで涙を流したという

三国統一の目前で志を果たせずに没した無念は計り知れないが、人々はその徳を偲び、彼がこよなく愛した襄陽の峴山に「羊公碑」を建てた

碑の前で涙を流す者が絶えなかったといい、後任の杜預はこれを見て「堕涙碑」と名付けた

後に、呉を滅ぼした杜預とともに羊祜は「武廟六十四将」に列せられたが、戦功そのものよりも、清廉で寛容な人格と、敵味方を問わず人々に敬愛された徳が、彼の名を後世に残した

原碑は長い歳月のうちに散逸したものの、1982年、襄陽の峴山にその旧址へと再建され、今もなお訪れる人々に静かに語りかけている

数多の栄誉よりも、人々の心に刻まれた敬慕の情こそ、羊祜の真の遺産だったのかもしれない

参考 : 『晋書』羊祜伝/『襄陽耆旧記』羊祜条/『資治通鑑』巻八十ほか
文 / mattyoukilis 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

三国志といえば「魏・呉・蜀」の時代の話題が中心である


知られざる名将

『三国志』といえば今も多くの人に親しまれているが、その中であまり語られることのないのが「蜀滅亡後の晋と呉の時代」である。

その理由の一つは、この時代に「破竹の勢い」の語源となった杜預(とよ)による呉征伐を除けば、両国間で目立った大規模戦闘がほとんどなかった点にある

すでに群雄が割拠し、君主自ら戦場に立つような時代ではなくなっており、劉備や曹操のような戦場の主役がいなかったことも物語化を難しくしている

ゲーム『三國志』シリーズでも、260年以降を舞台にしたシナリオはわずかで、蜀滅亡後の「人材難の時代」は創作の上でも描きづらい時代といえるだろう

そうした人材難の時代にあって、杜預の前に長く呉との国境を守り、敵国の人々からも深く敬愛された名将がいた

羊祜(ようこ)である


終生のライバル 陸抗との友情

統治者としての力量を存分に発揮した羊祜であったが、彼の最終的な使命はあくまで呉の制圧と天下統一の実現にあった

荊州に駐屯した羊祜は、幾度か呉軍と交戦するが、272年の西陵の戦いでは敗北を喫する

その後は正面からの戦を避け、拠点の整備や懐柔策に方針を転換し、討ち取った敵将の遺体を丁重に送り返すなど、戦後処理にも礼を尽くした

この頃、呉の防衛を担っていたのは名将・陸遜の子である陸抗(りくこう)だった

羊祜と陸抗は、互いの才能と人徳を深く認め合い、敵対関係にありながらも敬意を持って接していた

戦況上、時に小規模な戦闘を交えることはあったものの、無益な衝突は避け、国境を挟んで書簡を交わし、贈答を通じて信義を重んじる関係を築いていた

晋と呉が直接雌雄を決する戦は、両者の生前には実現しなかったが、比較的安定したこの時期だからこその逸話がいくつか残されている

その一つが「羊陸之交(羊陸の交わり)」である

陸抗が病に倒れたと聞いた羊祜は、敵将ながら薬を送った

周囲は「敵の贈り物など毒に違いない」と止めたが、陸抗は「羊祜はそのような人物ではない」と意に介さず、薬を飲んで毒ではない事を証明したという

やがて陸抗も、その誠意に応えて酒を送り返した

今度は羊祜の側近たちが警戒したが、羊祜もまた「陸抗はそのような男ではない」と言って杯を傾け、やはり何の害もなかった

陸抗は、疑念を口にする者たちに対し、次のように語ったと伝えられる

「小さな村にも信義を重んじる者がいるというのに、大国に信義を守る者がいないということがあってはならぬ。もし私が信を示さねば、晋(羊祜)の徳のみが伝わってしまうだろう」

後世、人々はこの美しい友情を「羊陸之交(羊陸の交わり)」と呼び、今に至るまで語り継がれている

果たせなかった三国統一と死後も愛された「羊公」

敵国同士でありながら深い友情を育んだ羊祜と陸抗であったが、その裏では、晋による呉征伐の準備が着々と進められていた

陸抗が没したのは273年末とも274年とも伝えられるが、その報を受けた羊祜は、これこそ好機と見て司馬炎に出撃を願い出た

しかし、慎重派の反対によってその上奏は退けられてしまう

羊祜は「今こそ天の与えた好機であるのに、人生は思うようには運ばぬものだ」と嘆いたという

その後も出兵の機会は訪れぬまま、278年、羊祜は病に倒れてこの世を去った
享年58

その2年後、彼の遺志を継いだ杜預が呉を滅ぼし、三国時代はついに幕を閉じた

羊祜の死を知った晋の官民は深く悲しみ、遠く呉の国境にいた敵国の将兵や民衆までもが、彼の死を悼んで涙を流したという

三国統一の目前で志を果たせずに没した無念は計り知れないが、人々はその徳を偲び、彼がこよなく愛した襄陽の峴山に「羊公碑」を建てた

碑の前で涙を流す者が絶えなかったといい、後任の杜預はこれを見て「堕涙碑」と名付けた

後に、呉を滅ぼした杜預とともに羊祜は「武廟六十四将」に列せられたが、戦功そのものよりも、清廉で寛容な人格と、敵味方を問わず人々に敬愛された徳が、彼の名を後世に残した

原碑は長い歳月のうちに散逸したものの、1982年、襄陽の峴山にその旧址へと再建され、今もなお訪れる人々に静かに語りかけている

数多の栄誉よりも、人々の心に刻まれた敬慕の情こそ、羊祜の真の遺産だったのかもしれない


 

 


魏・蜀・呉、三国の興亡を描いた『三国志』には、「桃園の誓い」「三顧の礼」「出師の表」「泣いて馬謖を斬る」など心打つ名場面、また「水魚の交わり」「苦肉の策」「背水の陣」「髀肉の嘆」など名言や現代にも通じる格言も数多く登場する
また、曹操、劉備、孫権、孔明、関羽、張飛、趙雲、周瑜、司馬懿など個性豊かで魅力的な登場人物に加え、官渡の戦い、赤壁の戦い、五丈原の戦い等、歴史上重要な合戦も多い
英雄たちの激闘の系譜、名場面・名言が図解でコンパクトにすっきりわかる『三国志』の決定版!
長い中国史で「三国志」の時代はわずかだ
しかしこの時代は個性的、魅力的人物が多く登場した

塩分で血圧が上がるのは一時的なこと

そもそも塩は、私たちの体になくてはならないものです
熱中症対策では、水分補給だけでなく、スポーツドリンクなどによる塩分の摂取も不可欠ですよね
塩がなければ人間は生きていけないということは、みなさんもよくご存知だと思います

一方で私たちの体には、摂りすぎた塩分を排出する仕組みが備わっています
塩味の強いスナック菓子などを食べると喉が渇いて、水を飲んでも「まだ喉が渇いている」と感じることがあります
塩分を摂りすぎた体内では、血中のナトリウム濃度の急上昇を脳が察知
「水分を摂って、ナトリウム濃度をもとに戻そう」と体内に指令。その結果、血液内に水分がたくさん取り込まれて血液量が増え、一時的に血圧が上昇します

しかし、過剰摂取した塩はその後、尿として排出され、血中ナトリウム濃度が薄まることで血圧も自動的に低下
つまり塩分の摂りすぎによる血圧の上昇は、一時的なものなのです

体に調節機能あり!実は難しい「塩分の摂りすぎ」
人が「おいしい」と感じるのは、体内の塩分濃度に近い食べ物です
薄すぎると「まずい」と感じ、濃すぎると「食べられない」と判断します
塩分濃度3.5%の海水などは到底飲めませんよね
人間の体は味覚によって、適切な塩分摂取量を自然にコントロールしているのです

【私たちが好む塩分濃度】
■汁物:0.7〜1.0%程度
■煮物:0.8〜2.0%程度

【体内の塩分濃度⇒0.9%程度】
【海水の塩分濃度⇒3.5%程度】


【POINT】
わざわざ減塩しなくても、人体には余分な塩を排出する機能が備わっている

【出典】『薬なし減塩なし!1日1分で血圧は下がる』著:加藤雅俊

(この記事はラブすぽの記事で作りました)

人体は絶妙なもので、人体には「塩分調節機能」が備わっているといいます


体に調節機能あり!実は難しい「塩分の摂りすぎ」
人が「おいしい」と感じるのは、体内の塩分濃度に近い食べ物です
薄すぎると「まずい」と感じ、濃すぎると「食べられない」と判断します
塩分濃度3.5%の海水などは到底飲めませんよね
人間の体は味覚によって、適切な塩分摂取量を自然にコントロールしているのです

【私たちが好む塩分濃度】
■汁物:0.7〜1.0%程度
■煮物:0.8〜2.0%程度

【体内の塩分濃度⇒0.9%程度】
【海水の塩分濃度⇒3.5%程度】


【POINT】
わざわざ減塩しなくても、人体には余分な塩を排出する機能が備わっている


個人的には高血圧に悪いのは「精製塩」だと思います

にがりなどが入った「自然塩」(精製していない塩)を摂取すればいいと思います

しかし人が「おいしい」と感じるのは、体内の塩分濃度に近い食べ物で、人体に備わる「塩分調節機能」だけでは塩分の摂取過多になる可能性も・・・

「自然塩」を塩分過多にも注意しつつ摂取すればいいのでは・・・


人体は絶妙なもの、驚異の可能性があり、将来的には不治の病といわれる病も克服する可能性もあるのでは・・・と思うのですが・・・



 

 


「血圧の薬って一生飲み続けなけるべき?」「薬をやめたいけど、やめるのが怖い!」
そんな人のために、高血圧治療の誤解を解き、薬に頼らずとも血圧を下げられる方法をご紹介
1日1分でもできる降圧ストレッチの実践法です

減塩が高血圧に「効く」という誤解

高血圧になってから、減塩を意識している人は多いでしょう
にもかかわらず、高血圧患者は減るどころか増え続けています

実は世界的な研究結果から「高血圧には減塩」という通説を疑問視する声が上がっています
1988年に発表された「インターソルト・スタディー」は32カ国、約1万人を対象に、被験者の血圧と尿中のナトリウム排出量を測定するという大規模な調査でした
結果は食塩摂取量の高い日本や中国では、高血圧の有病率が10%程度だったのに対し、塩分摂取量の低い欧米では有病率が20~30%
塩の摂取量が増えると血圧は低下するという驚くべきものでした

中国・天津では、食塩排泄量がなんと1日14gにもかかわらず、1日6gのアメリカの都市グッドマンよりも有病率が低かったのです
1日の塩分摂取量が6~ 14g以内なら高血圧との相関関係が見られないのに、食塩摂取量が平均10gの日本人が減塩をする必要は一体どこにあるのでしょうか


実は根拠がアヤシイ? 塩と高血圧の関係性
「高血圧には減塩!」の通説の由来

高血圧治療に減塩が必要とされたのは、1961年に発表された研究結果からといわれています
世界の地域別に、食塩摂取量と高血圧有病者の関係を調べたところ、塩分摂取量が多かった地域が、高血圧になった割合(有病率)も高かったためです
しかし、調査方法の不公平さや問題が指摘され、結論には疑わしさが残りました

時を経て1988年の調査では・・・
食塩摂取量『多』中国・日本⇒高血圧有病率10%
食塩摂取量『少』欧米⇒高血圧有病率20~30%


POINT
世界的な研究から塩分摂取量が多い国ほど高血圧リスクが低いと判明
しかし、現在でも古い情報を採用している

【出典】『薬なし減塩なし!1日1分で血圧は下がる』著:加藤雅俊

(この記事はラブすぽの記事で作りました)

高血圧の治療には「減塩」というのは「常識」だと思っていました

医者の多くも「減塩」が治療に有効としています

高血圧治療に減塩が必要とされたのは、1961年に発表された研究結果からといわれています
世界の地域別に、食塩摂取量と高血圧有病者の関係を調べたところ、塩分摂取量が多かった地域が、高血圧になった割合(有病率)も高かったためです
しかし、調査方法の不公平さや問題が指摘され、結論には疑わしさが残りました

時を経て1988年の調査では・・・
食塩摂取量『多』中国・日本⇒高血圧有病率10%
食塩摂取量『少』欧米⇒高血圧有病率20~30%

食塩摂取量の高い日本や中国では、高血圧の有病率が10%程度だったのに対し、塩分摂取量の低い欧米では有病率が20~30%
塩の摂取量が増えると血圧は低下するという驚くべきものでした


POINT
世界的な研究から塩分摂取量が多い国ほど高血圧リスクが低いと判明
しかし、現在でも古い情報を採用している

個人的には、高血圧になるのはいわゆる「精製塩」が原因だと思います

たしかに塩の摂取過多はよくない気もしますが、そうでなければある程度摂取してもいいのでは・・・

それも「精製塩」ではなく、にがりなどが入った「自然塩」(精製していない塩)なら・・・


 

 


「血圧の薬って一生飲み続けなけるべき?」「薬をやめたいけど、やめるのが怖い!」
そんな人のために、高血圧治療の誤解を解き、薬に頼らずとも血圧を下げられる方法をご紹介
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あなたは大丈夫? 測り方NGあるある
● 厚手の服を着た上から測っている
 → カフが腕を締めつけられず、正しく測定できない

● カフを心臓と同じ高さで巻いていない
 → 心臓より高いとその分、血液を押し上げる圧が上がりやすく、反対に低いと下がりやすい

● 足を組んでいる、姿勢が悪い
 → 足の裏が床についていない状態だと腹圧がかかり、血圧が上がりやすい

● 血圧計を利き手に巻いている
 → 血圧計を操作するため、血圧が上がりやすい

● 飲酒後や入浴直後に測る
 → 血管が拡張し、血圧が下がりやすい

● トイレを我慢しているときや外出の直前に測る
 → 慌てているときは血圧が上がりやすい

必ず正しい姿勢で、リラックスした状態で測ろう

【出典】『薬なし減塩なし!1日1分で血圧は下がる』著:加藤雅俊

(この記事はラブすぽの記事で作りました)

血圧測定にはNGあるあるがあるという

● 厚手の服を着た上から測っている
● カフを心臓と同じ高さで巻いていない
● 足を組んでいる、姿勢が悪い
● 血圧計を利き手に巻いている
● 飲酒後や入浴直後に測る
● トイレを我慢しているときや外出の直前に測る

これらに注意して、必ず正しい姿勢で、リラックスした状態で測ろう


 

 


「血圧の薬って一生飲み続けなけるべき?」「薬をやめたいけど、やめるのが怖い!」
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はじめに-葛飾北斎とはどのような人物だったのか

『富嶽三十六景』を生んだ絵師・葛飾北斎の生涯|90歳まで描き続けた天才絵師の軌跡【日本史人物伝】

「あと10年生きれば、ひとかどの絵師になれたのに」——
これは、90歳でこの世を去る直前の葛飾北斎の言葉です
浮世絵師として70年にわたり筆を握り、奇行の数々とともに膨大な作品を遺した北斎

『富嶽三十六景』をはじめとする風景画や、『北斎漫画』に代表される絵手本は、日本国内はもとより、印象派の画家たちをはじめとする西洋の芸術家たちにも大きな影響を与えました

そんな葛飾北斎の人生を、彼が生きた時代背景とともに振り返ります

2025年NHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』では、師匠の勝川春章(かつかわ・しゅんしょう)に誘われ、蔦重の耕書堂にやってくる勝川春朗(かつかわ・しゅんろう、演:くっきー!)として描かれます

葛飾北斎が生きた時代

江戸後期は、町人文化が成熟し、出版や芸能、美術が花開いた時代。日本各地で名所図会や読本、錦絵などが人気を博し、人々の間で情報や娯楽が手軽に楽しめるようになりました

そんな中、北斎は風景や人物、動植物、そして妖怪までをも題材に、ジャンルに縛られない表現を追求
あらゆる絵画様式を吸収しながら、己の表現を貫き、「森羅万象を描く絵師」として不動の地位を築いていきました

葛飾北斎の生涯と主な出来事

葛飾北斎は宝暦10年(1760)に生まれ、嘉永2年(1849)に没しました
その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう

◆絵を愛した幼少期
宝暦10年(1760)、葛飾北斎は江戸・本所割下水(ほんじょわりげすい)にて誕生
本名は川村氏、幼名は時太郎
幼少期に幕府御用鏡師・中島伊勢の養子となり、一時「鉄蔵」と名乗ります

6歳の頃から絵を描くことを好み、14〜15歳で木版の彫りを学び、やがて浮世絵の道へと進んでいきます

◆勝川派での修行と画壇デビュー
安永7年(1778)、19歳のとき、役者絵の名手・勝川春章の門に入り、「勝川春朗」と号して画壇にデビュー
以後、約15年ほど錦絵や黄表紙の挿絵を多数手がけ、着実に実力を蓄えていきます

◆多様な画風を学び、独自の道へ
寛政6年(1794)、狩野派を学んだために勝川派を追放されてからは、住吉派・琳派・中国画・洋風画などを貪欲に学び、俵屋宗理(たわらや・そうり、二代目)を襲名
この時期には「時太郎可候」(ときたろうかこう)の筆名で戯作も執筆しています

寛政10年(1798)には宗理号を返上し、「北斎」と名乗って独立
ここから北斎の本格的な創作人生が始まります

◆馬琴との名コンビと読本挿絵
文化元年(1804)頃からは読本挿絵の世界に活躍の場を広げます

中でも、作家・曲亭馬琴(きょくてい・ばきん)との共作『新編水滸画伝』『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』は、荒唐無稽な読本の世界を繊細かつ迫力ある描写で表現し、北斎の名を一躍高めました

◆『北斎漫画』と絵手本の世界
文化11年(1814)には絵手本『北斎漫画』の刊行を開始
以後、死後まで含め全15編が発行され、計3000点以上の図が収録されました

人物、動植物、風景、器物など、あらゆるものが描かれたこの絵本は、まさに「江戸時代の絵の百科事典」

その秀逸なデッサンは、西洋に輸出された陶器の包装紙を通じて海外に伝わり、ゴッホやドガ、マネら印象派の画家たちにも大きな衝撃を与えました。

◆『富嶽三十六景』|風景画の金字塔
北斎芸術の頂点とされるのが、1830年代に発表された『富嶽三十六景』
中でも〈神奈川沖浪裏〉は、巨大な波と富士の対比が世界的に有名で、ゴッホが「鷲の爪」と呼んだとも伝わります

このシリーズは当初36図の予定でしたが、大ヒットを受けて追加10図が描かれ、全46図となりました

◆90歳まで描き続けた不屈の絵師
晩年には肉筆画や花鳥画、そして獅子を描いた『日新除魔(にっしんじょま)』など、年齢を感じさせない瑞々しい作品を発表

その間、画号を30回以上、住まいを93回も変えたとされ、号は「画狂老人」(がきょうろうじん)、「戴斗」(たいと)、「卍」(まんじ)など多岐にわたります

生活は質素を極め、衣食住にも無頓着な一方で、画業への情熱は衰えることを知りませんでした

嘉永2年(1849)、90歳で逝去
死の間際、「あと10年生きれば、ひとかどの絵師になれたのに」と語ったといいます
墓所は東京・浅草の誓教寺にあります


まとめ

葛飾北斎は、その生涯を通して筆を手放さず、浮世絵の可能性を徹底的に追求し続けた孤高の絵師でした
常に変化を恐れず、伝統と革新を融合し、写実と空想の世界を自由自在に往来したその画風は、現代に生きる私たちにも深いインスピレーションを与えてくれます

彼が描いた波や富士、町人や動植物たちは、単なる「絵」にとどまらず、時代を超えて人々の心を打つ物語を宿しているのかもしれません

※表記の年代と出来事には、諸説あります

文/菅原喜子(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)

引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『日本人名大辞典』(講談社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『新版 日本架空伝承人名事典』(平凡社)

(この記事はサライの記事で作りました)

葛飾北斎は生来の絵かき(浮世絵師)だったかも・・・

90歳で亡くなる死の間際、「あと10年生きれば、ひとかどの絵師になれたのに」と語ったといいます

死ぬまで前進続けたといえます


葛飾北斎は、その生涯を通して筆を手放さず、浮世絵の可能性を徹底的に追求し続けた孤高の絵師でした
常に変化を恐れず、伝統と革新を融合し、写実と空想の世界を自由自在に往来したその画風は、現代に生きる私たちにも深いインスピレーションを与えてくれます

彼が描いた波や富士、町人や動植物たちは、単なる「絵」にとどまらず、時代を超えて人々の心を打つ物語を宿しているのかもしれません


日本はもちろん世界的に影響を与えました


 

 


絵を描くことに情熱を傾けたある意味「変人」の天才画家・葛飾北斎・・・
森羅万象あらゆるものを描いた彼の作品と数奇で興味深い生涯を紹介・解説

明代の貞節文化

中国の明王朝の時代

女性の「貞節」は、最も重要な徳とされていた

少女の頃から母親や家庭教師により「女は慎みをもって家を守るもの」と教えられ、婚姻後は夫に従い、夫が亡くなれば再婚しないことが理想とされた

貞節を守り通した未亡人は「烈女」として称えられ、地域によっては石碑や門楼を建てて功績を記す「貞節牌坊(ていせつはいぼう)」という記念の石造門まで設けられた

こうした考え方は、当時の社会制度に深く根づいていた

明の初代皇帝・洪武帝は、法令の中に女性の行動規範を明記し、節操を失った者を「家の恥」と断じた

つまり女性の貞操は、個人の問題を超えて、家や国家の秩序を守る象徴とみなされていたのである

その結果、女性はたとえ性的な被害にあっても、家族や親族までもが世間の非難を受けることを恐れ、沈黙を選ぶことが少なくなかった

このような「貞節」の厳しい時代において、暗躍した一人の男がいた

名は桑冲(そうちゅう)

采花大盗(さいかだいとう/女性を欺き貞操を奪う凶悪犯)として悪名を轟かせ、10年のあいだに182人もの女性を欺いたという

謎の男・桑冲の出自

桑冲(そうちゅう)は、明の中期、成化年間に山西太原府石州の李家湾という村落に生まれた

本名は李冲(りちゅう)といい、もとは軍戸の出身であった

軍戸とは世襲で兵役に就く身分のことで、代々軍務に従う義務を負わされており、家は貧しく社会的地位も低かった

李冲は幼少期に両親を失い、叔父の李大剛(り・たいごう)に引き取られて育った

叔父も同じ軍戸だったが生活は苦しかった
やがて養う余裕がなくなり、叔父は李冲を同じ地元の富豪・桑茂(そうも)に売り渡した

こうして李冲は「桑家の養子」となり、姓を改めて桑冲(そうちゅう)と名乗るようになる

しかし、この養子縁組は名ばかりであった

桑茂は慈悲から少年を引き取ったのではなく、家事や雑用をさせる労働力として扱ったのである

桑家は地方の名士で広い屋敷を構えていたが、その中で桑冲は召使い同然の扱いを受けた
蔑まれ、叱責され、食事も粗末で、家人からは常に「外から来た子」として疎外された

幼い心に刻まれた屈辱は、やがて深い劣等感と怨念へと変わっていく

桑冲は成長するにつれ家から逃げ出すようになり、街の不良たちと交わって賭博や喧嘩に明け暮れるようになった

養父の桑茂はその振る舞いに激怒し、ついに桑冲を家から追放する

行くあてもなく放浪する中で、桑冲は次第に「人を欺く」ことに興味を示すようになる

貧困と孤独の中で、人を騙すことでしか自分の存在を感じられなかったのかもしれない

そんな折、山西大同府に「谷才(こくさい)」という奇人がいるという噂を耳にする

その奇人は、男でありながら女装の術に長け、誰もその正体を見破れないという

桑冲はその話に強く惹かれ、谷才の元へと向かったのである

「禁断の術」と10年の犯罪行脚

山西大同府に到着した桑冲は、うわさの奇人・谷才(こくさい)に弟子入りを願い出た

谷才は、男でありながら女装の術に長け、18年間も女工教師(裁縫や刺繍などを教える女性教師)を装って、婦人を誘惑し続けたという人物であった

谷才は最初、桑冲の申し出を断ったが、彼が3日3晩門前で跪き続けたことに心を動かされ、ついに弟子として迎え入れた。

谷才の教えは、単なる化粧や衣装の技術ではなかった

女の姿勢、言葉遣い、歩き方、声の高さに至るまで細かく訓練させたのだ
さらに針仕事や刺繍、料理まで教え込み「完全な女性」を演じるための20を超える技を伝授したといわれる

谷才の技で最も恐ろしいのは「人を欺く心得」であった

相手の警戒を解き、羞恥と恐怖を利用するその心理操作術は、まさに悪知恵の極みだったのである

そして、2年の修行を終えた桑冲は師のもとを離れ、各地を巡り始める

成化3年(1467年)から13年までの10年間、彼は大同・平陽・太原・真定・保定・順天・順徳・河間・済南・東昌など45の州県、さらに78の村や宿場を転々とした

桑冲は「女工を教える名目」で人家に入り込み、容姿や話術で相手を魅了し、警戒を解いて関係を結んだ

拒む者には薬物を使い、意識を奪って行為に及んだと伝えられる

その手口は常に慎重で、一か所に長く留まることがなかったという

例えば、ある土地で3日から5日ほど滞在すると、すぐに姿を消し、次の町へ向かう

土地の人々が怪しむころにはすでに遠く離れている
被害者が声を上げないことを知っていた彼にとって、社会の沈黙そのものが最大の隠れ蓑だったのだ

実際に、被害者の多くは、名誉を守るため訴え出ることをためらった
もし官府に届け出れば、自ら「貞操を失った女」として一生の烙印を押されることになる

それゆえ桑冲の犯行は、なんと10年間も露見せず、記録によれば被害者は182人にのぼったという

さらに桑冲は、同じ手口を広めるため7人の弟子まで取っていたのである

皇帝の怒りと桑冲の最後

成化13年(1477年)の夏、桑冲の長い逃亡劇は、思わぬ形で幕を閉じることとなる

晋州の村に住む士人・高宣(こうせん)の家を訪れた彼は、「夫に虐げられた逃亡中の若妻」を装い、宿を求めた

高宣は不憫に思い、南房を貸して一夜の宿を許した

しかしその夜、家の娘婿が色欲に駆られ、桑冲の寝所に忍び込んでしまったのだ

抵抗した桑冲は押さえつけられ、ついに男であることを暴かれてしまった

翌朝、村人たちが駆けつけ、驚愕と怒りの中で彼を捕らえ、官府へ突き出した

こうして10年に及ぶ桑冲の悪行が、ついに明るみに出たのである

晋州の役所で取り調べが行われ、桑冲は初めは否認を続けたが厳しい拷問に耐えかね、すべてを自白した

事件の異常さに驚いた地方官は、ただちに上層の役所へ報告を上げ、さらに中央の監察当局へと送った

案件は最終的に北京の朝廷に届き、第9代皇帝・成化帝の耳にも入った

皇帝は「この者、その行い醜悪にして風俗を汚す」と激怒したという

そして成化13年11月22日、以下のような勅命が下った

奉聖旨:「是。這廝情犯醜惡,有傷風化,便凌遲了,不必覆奏。任茂等七名,務要上緊挨究,得獲解來。欽此。」

意訳 :

皇帝の勅命はこうである。
「よい。この不届き者は、その行いが醜悪で風俗を損ねている。すぐに凌遅に処せ。改めての報告は不要である。任茂ら七名については厳重に追及し、捕らえて送致せよ。これを命ず。」

『庚巳編』巻九「人妖公案」より

かくして桑冲は都の市中に引き出され、無数の刀で少しずつ削がれる「凌遅(りょうち)」の刑に処された

記録によれば、一千余刀を加えられた後、絶命したという

皇帝の勅命による凌遅刑は、中国史上ただ一例である

彼は、皇帝自らの命令で処刑された唯一の「采花大盗(女性を欺き貞操を奪う重罪犯)」として名を残した

後世の研究者たちは、この事件を「貞節社会の闇を映す鏡」と評した

名誉と恥、道徳と恐怖が複雑に絡み合った明代社会の歪みの中で、人々が守ろうとした「体面」が、結果として一人の悪を長く生かしたのである

参考 : 『庚巳編』巻九「人妖公案」『明憲宗実録』他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

明代の貞節文化

中国の明王朝の時代

女性の「貞節」は、最も重要な徳とされていた

少女の頃から母親や家庭教師により「女は慎みをもって家を守るもの」と教えられ、婚姻後は夫に従い、夫が亡くなれば再婚しないことが理想とされた

貞節を守り通した未亡人は「烈女」として称えられ、地域によっては石碑や門楼を建てて功績を記す「貞節牌坊(ていせつはいぼう)」という記念の石造門まで設けられた

こうした考え方は、当時の社会制度に深く根づいていた

明の初代皇帝・洪武帝は、法令の中に女性の行動規範を明記し、節操を失った者を「家の恥」と断じた

つまり女性の貞操は、個人の問題を超えて、家や国家の秩序を守る象徴とみなされていたのである

その結果、女性はたとえ性的な被害にあっても、家族や親族までもが世間の非難を受けることを恐れ、沈黙を選ぶことが少なくなかった

このような「貞節」の厳しい時代において、暗躍した一人の男がいた

名は桑冲(そうちゅう)

采花大盗(さいかだいとう/女性を欺き貞操を奪う凶悪犯)として悪名を轟かせ、10年のあいだに182人もの女性を欺いたという


明代は日本でいえば戦国時代にあたり豊臣秀吉の朝鮮出兵もあった

明の初代皇帝が乞食のような立場から皇帝までに上り詰めた興味深い人物・朱元璋・・・

その点でも中国史でも注目の年代だ


皇帝の怒りと桑冲の最後

成化13年(1477年)の夏、桑冲の長い逃亡劇は、思わぬ形で幕を閉じることとなる

晋州の村に住む士人・高宣(こうせん)の家を訪れた彼は、「夫に虐げられた逃亡中の若妻」を装い、宿を求めた

高宣は不憫に思い、南房を貸して一夜の宿を許した

しかしその夜、家の娘婿が色欲に駆られ、桑冲の寝所に忍び込んでしまったのだ

抵抗した桑冲は押さえつけられ、ついに男であることを暴かれてしまった

翌朝、村人たちが駆けつけ、驚愕と怒りの中で彼を捕らえ、官府へ突き出した

こうして10年に及ぶ桑冲の悪行が、ついに明るみに出たのである

晋州の役所で取り調べが行われ、桑冲は初めは否認を続けたが厳しい拷問に耐えかね、すべてを自白した

事件の異常さに驚いた地方官は、ただちに上層の役所へ報告を上げ、さらに中央の監察当局へと送った

案件は最終的に北京の朝廷に届き、第9代皇帝・成化帝の耳にも入った

皇帝は「この者、その行い醜悪にして風俗を汚す」と激怒したという

そして成化13年11月22日、以下のような勅命が下った

奉聖旨:「是。這廝情犯醜惡,有傷風化,便凌遲了,不必覆奏。任茂等七名,務要上緊挨究,得獲解來。欽此。」

意訳 :

皇帝の勅命はこうである。
「よい。この不届き者は、その行いが醜悪で風俗を損ねている。すぐに凌遅に処せ。改めての報告は不要である。任茂ら七名については厳重に追及し、捕らえて送致せよ。これを命ず。」

『庚巳編』巻九「人妖公案」より

かくして桑冲は都の市中に引き出され、無数の刀で少しずつ削がれる「凌遅(りょうち)」の刑に処された

記録によれば、一千余刀を加えられた後、絶命したという

皇帝の勅命による凌遅刑は、中国史上ただ一例である

彼は、皇帝自らの命令で処刑された唯一の「采花大盗(女性を欺き貞操を奪う重罪犯)」として名を残した

後世の研究者たちは、この事件を「貞節社会の闇を映す鏡」と評した

名誉と恥、道徳と恐怖が複雑に絡み合った明代社会の歪みの中で、人々が守ろうとした「体面」が、結果として一人の悪を長く生かしたのである

歴史には表と裏があり、光と影がある・・・


 

 


貧農から皇帝に上り詰め、巨大な専制国家の樹立に成功した朱元璋
日本でいえば豊臣秀吉並みの出世か
そして、彼の二面性、複雑さも本書から感じる

■百済の賢人・王仁が『論語』を日本に伝える

『論語』は日本史のなかで、どのような役割をはたしてきたのか
この問題をわかりやすく解説するのは、きわめて難しい

その原因の多くは、『論語』という書物の複雑さからくるものである
『論語』を「道徳の書物」として扱う場合、そこに盛り込まれた個々の教えは、筋が通っていてわかりやすい

しかし『論語』の中には、日本と全く国情の異なる古代中国の「礼」つまり政治制度を扱った部分も多い
そのため日本の知識人の大部分は、『論語』のなかの都合の良い教えだけを取り出して、在右の銘とした

だから自分流の解釈にたつ多様な、「『論語』の道徳」が日本に広まったのだ
『論語』の文章は、大そう曖昧である
だから個々の『論語』の読み手が、『論語』の断片をつないで、それに自分流の解釈を施して、「これが孔子の教えだ」と唱えてきたのだ

『古事記』に、『論語』の伝来を伝える次の記事が見える

「応神天皇が百済(朝鮮半島の小国)に、賢人を、わが国に送るように求めた
そのため百済王が、和邇吉師という学者を来朝させた
この時かれは、『論語』一〇巻と『千字文』一巻を大王に献上した」

応神天皇は、4世紀末に実在した大王である
かれの時代に百済との国交がひらかれたことは、『七支刀銘文』という確実な金石文からわかる

和邇吉師の名前は、『日本書紀』には「王仁」と書かれている
王仁は応神天皇のもとで朝廷の書記を務めると共に、多くの豪族の子弟に漢字、漢文を教えた
そのため王仁は、「日本の文道の祖」とも言われる

■わかりやすく説かれた道徳に魅了された古代の教養人

王仁がもたらした『論語』は、最初は漢文を学ぶ時の教科書として使われたらしい
『論語』を学んだ者の多くが、そこに記された古代中国の道徳に魅かれるようになった

「やまと言葉」と呼ばれる古代日本語が、道徳(哲学、倫理)を教える行為に適さなかったためだ
日本語は「受信責任型言語」である
それは語り手と受け手の両者が協力して、一つの概念を作り上げていく言葉である
それは語り手の発する言葉があいまいで、聞き手が相手の気持ちを忖度して理解していかねばならないものだ

男性が「月がきれいですね」と言えば、それを受けた女性は、相手は「私と同じように、きれいな月だと思って下さる貴方(あなた)が好きです」と言われたと想像しなければならない

ところが中国語や英語は、すべてを論理的に説明して語る「発信型言語」になる
だから「巧言令色には、鮮(すくな)いかな仁(上手な言い回しをもって近づいて来る者の多くは、悪人である)」といった言葉を論理的に並べた『論語』が、最高の人生の指南書とみられた

やまと言葉で、「巧言令色・・・」の概念を説明するのは、大そう難しく、長い文が必要だ
そのため『論語』が日本でひろく読まれることになっていった

監修・文/武光 誠

歴史人2025年12月号『日本人と『論語』の歴史』より

(この記事は歴史人の記事で作りました)

論語は道徳のほか中国の「礼」などを説く一面がある

個人的には敬老や男尊女卑的一面も感じる

日本語が「受信責任型言語」であるあるのに対し、中国語(英語も)が「発信型言語」の違いもあるかもしれない

ある意味、複雑で多様であるから論語は日本人に愛され読まれ続けたのかも・・・

礼節などが(当時の)封建制度や道徳などと合致した面も・・・


 

 


『論語』がわかれば日本史がますますおもしろくなる!
論語は日本人の道徳観に大きな影響を与えた
礼節の一面のありこれらは年長者を敬うことや厳格な家長制度、男尊女卑につながった一面も・・・
(これらは本国・中国でももちろん大きな影響があった)