「怖い、怖い」と言いつつ、日本では怪談や怖いエピソードが好まれます
テレビや映画、ドラマやバラエティなどで放送される「怖い話」は度々話題になり、夏は「お化け屋敷」がデートスポットの一つとして人気です
「お化け屋敷」は、時代とともに変化し、現在では最新のテクノロジーを駆使した没入型や、広大な敷地の中に再現された病院などを歩く体験型など、いろいろと進化しています
その一方で、逆に手作り感のある昭和レトロな、いかにも「日本のお化け屋敷」タイプも人気だそうです
そんなお化け屋敷ですが、一説には日本で初めて登場したのは今からおよそ190年前、江戸時代の文政から天保元年頃(1830〜31年)とされています
しかも、その仕掛け人は一人の町医者だったそうです
ところが、「悪趣味すぎる」と大きな物議を呼び、わずか3か月で閉鎖に追い込まれてしまいました
一体どのようなお化け屋敷だったのでしょうか
自宅の庭に医者が作った『化け物茶屋』
文政13年から天保元年にかけての頃、江戸の大森(現在の大田区大森)に、『化け物茶屋』なるものが登場しました
作ったのは「瓢仙(ひょうせん)」という町医者でした
『甲子夜話(かっしやわ)』という、肥前国平戸藩第9代藩主の松浦清が引退後に書いた随筆集に、医師・瓢仙の化け物茶屋の記述があります
(意訳)
「東海道の品川宿と川崎宿の間にある東大森村に、近ごろ茶屋ができた。その離れ座敷には極彩色で描かれた百鬼夜行の図が掲げられ、多くの見物人を集めている。近くには幕府の鵜見屋敷があるため、このまま放置してよいものか、取締りをどうすべきか役人たちの間で議論になっている」
この記述から、瓢仙の『化け物茶屋』は、当時の江戸で大きな話題となり、多くの人を呼び寄せた一方で、幕府関係者を巻き込む騒動にも発展していたことがうかがえます
「不謹慎」「悪趣味」と炎上して3ヶ月で閉鎖
医師の瓢仙(ひょうせん)は、大森にある自宅の庭に小屋を設け、その内部に百鬼夜行の絵を描き、幽霊や一つ目小僧などの人形細工を飾って人々を招き入れました。
すると「非常に恐ろしい」と評判となり、大森の『化け物茶屋』として多くの見物人が訪れるようになったといいます。
ところが、見物客が増えるにつれて「不謹慎だ」「悪趣味だ」と批判する声も高まり、町中で物議を醸す存在となっていきました。
そんな噂は代官の耳にも届き、放置するわけにもいかず「医者の身でありながら、このようなものを作るとはけしからん!」と、撤去を命じられてしまったのです
それにしても、なぜ瓢仙は『化け物茶屋』などを作ったのでしょうか
『甲子夜話』によると、瓢仙は大森に移り住む際、屋根は雨漏りし、壁も破れて傾きかけた古い家を購入したといいます
修復には多額の費用がかかるため、屋敷の内部に化け物の絵を描き、自らの慰みにしたり客人に見せたりしていたところ、それが「化け物茶屋」として評判になってしまった、ということです
また、当時は庶民の社会的・経済的な不安が大きく、妖怪や幽霊を見て恐怖や興奮を味わい、日常の鬱憤を晴らす娯楽として人気が出たと推測されています
瓢仙自身も妖怪や幽霊といった未知の存在を描き、仕掛けを施すことで、客が怖がる様子を見て楽しんでいたのではないでしょうか
「寺島仕込怪物問屋、変死人形競」
また、日本初のお化け屋敷は、天保7年(1836年)に両国の回向院で開催された『寺島仕込怪物問屋』だとする説もあります
菊岡千吉という細工師が、当時大人気だった尾上菊五郎の妖怪狂言の場面を取り入れ、四谷怪談や東海道五十三次「猫の怪」などを、役者に似せた人形で再現した見世物でした
「歌舞伎よりも安い料金で芝居の雰囲気が味わえる」と評判になり、多くの観客を集めたといいます
さらに、天保10年頃(1839年)になると、両国の回向院では「井の頭弁財天」のご開帳に合わせて、人形師・泉目吉による『変死人形競』という見世物が開催されました
目吉は浅草仲見世に店を構え、芝居や怪談噺で使う小道具を専門に製作していた細工師です
このときの展示では、水死体や獄門のさらし首、女性の生首などを精巧に作り込み、さらに棺桶の割れ目から飛び出した幽霊の首に月明かりが差し込む仕掛けを施すなど、演出にも工夫が凝らされていたといいます
日常生活の憂いを忘れ、一時的に刺激的な恐怖の世界に
昔のお化け屋敷は、すべて人の手で作り込んだ造形物を使い、さらに匂いや音、光といった演出効果までも手作業で仕掛けていました
ある意味、最新のテクノロジーを駆使した現代のお化け屋敷よりも、生々しい恐ろしさがあったかもしれません
お化け屋敷が時代を超えて好まれる理由については、「安全な場所にいながら恐怖を体験できる」「恐怖によって脳が覚醒し、生きている実感を得られる」など、さまざまな分析がありますが、中でも「日常生活の憂いを忘れ、非日常の恐怖の世界に浸れること」が大きな理由の一つとされています
お化け屋敷は形を変えながらも、人々を非日常の世界へ誘う場であり続けているのかもしれません
参考:
『お化け屋敷を楽しむ本 上 理論編』『甲子夜話』他
文 / 桃配伝子 校正 / 草の実堂編集部
(この記事は草の実堂の記事で作りました)
「怖い、怖い」と言いつつ、日本では怪談や怖いエピソードが好まれます
テレビや映画、ドラマやバラエティなどで放送される「怖い話」は度々話題になり、夏は「お化け屋敷」がデートスポットの一つとして人気です
「お化け屋敷」は、時代とともに変化し、現在では最新のテクノロジーを駆使した没入型や、広大な敷地の中に再現された病院などを歩く体験型など、いろいろと進化しています
その一方で、逆に手作り感のある昭和レトロな、いかにも「日本のお化け屋敷」タイプも人気だそうです
そんなお化け屋敷ですが、一説には日本で初めて登場したのは今からおよそ190年前、江戸時代の文政から天保元年頃(1830〜31年)とされています
しかも、その仕掛け人は一人の町医者だったそうです
ところが、「悪趣味すぎる」と大きな物議を呼び、わずか3か月で閉鎖に追い込まれてしまいました
一体どのようなお化け屋敷だったのでしょうか
自宅の庭に医者が作った『化け物茶屋』
文政13年から天保元年にかけての頃、江戸の大森(現在の大田区大森)に、『化け物茶屋』なるものが登場しました
作ったのは「瓢仙(ひょうせん)」という町医者でした
『甲子夜話(かっしやわ)』という、肥前国平戸藩第9代藩主の松浦清が引退後に書いた随筆集に、医師・瓢仙の化け物茶屋の記述があります
(意訳)
「東海道の品川宿と川崎宿の間にある東大森村に、近ごろ茶屋ができた。その離れ座敷には極彩色で描かれた百鬼夜行の図が掲げられ、多くの見物人を集めている。近くには幕府の鵜見屋敷があるため、このまま放置してよいものか、取締りをどうすべきか役人たちの間で議論になっている」
この記述から、瓢仙の『化け物茶屋』は、当時の江戸で大きな話題となり、多くの人を呼び寄せた一方で、幕府関係者を巻き込む騒動にも発展していたことがうかがえます
ところが、「不謹慎」「悪趣味」と炎上して3ヶ月で閉鎖・・・
日常生活の憂いを忘れ、一時的に刺激的な恐怖の世界に
昔のお化け屋敷は、すべて人の手で作り込んだ造形物を使い、さらに匂いや音、光といった演出効果までも手作業で仕掛けていました
ある意味、最新のテクノロジーを駆使した現代のお化け屋敷よりも、生々しい恐ろしさがあったかもしれません
お化け屋敷が時代を超えて好まれる理由については、「安全な場所にいながら恐怖を体験できる」「恐怖によって脳が覚醒し、生きている実感を得られる」など、さまざまな分析がありますが、中でも「日常生活の憂いを忘れ、非日常の恐怖の世界に浸れること」が大きな理由の一つとされています
お化け屋敷は形を変えながらも、人々を非日常の世界へ誘う場であり続けているのかもしれません
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