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メインウェーブ日記

気になるニュースやスポーツ、さらにお小遣いサイトやアフィリエイトなどのネットビジネスと大相撲、競馬、ビートルズなど中心

「怖い、怖い」と言いつつ、日本では怪談や怖いエピソードが好まれます

テレビや映画、ドラマやバラエティなどで放送される「怖い話」は度々話題になり、夏は「お化け屋敷」がデートスポットの一つとして人気です

「お化け屋敷」は、時代とともに変化し、現在では最新のテクノロジーを駆使した没入型や、広大な敷地の中に再現された病院などを歩く体験型など、いろいろと進化しています
その一方で、逆に手作り感のある昭和レトロな、いかにも「日本のお化け屋敷」タイプも人気だそうです

そんなお化け屋敷ですが、一説には日本で初めて登場したのは今からおよそ190年前、江戸時代の文政から天保元年頃(1830〜31年)とされています
しかも、その仕掛け人は一人の町医者だったそうです

ところが、「悪趣味すぎる」と大きな物議を呼び、わずか3か月で閉鎖に追い込まれてしまいました

一体どのようなお化け屋敷だったのでしょうか

自宅の庭に医者が作った『化け物茶屋』

文政13年から天保元年にかけての頃、江戸の大森(現在の大田区大森)に、『化け物茶屋』なるものが登場しました

作ったのは「瓢仙(ひょうせん)」という町医者でした

『甲子夜話(かっしやわ)』という、肥前国平戸藩第9代藩主の松浦清が引退後に書いた随筆集に、医師・瓢仙の化け物茶屋の記述があります

(意訳)

「東海道の品川宿と川崎宿の間にある東大森村に、近ごろ茶屋ができた。その離れ座敷には極彩色で描かれた百鬼夜行の図が掲げられ、多くの見物人を集めている。近くには幕府の鵜見屋敷があるため、このまま放置してよいものか、取締りをどうすべきか役人たちの間で議論になっている」

この記述から、瓢仙の『化け物茶屋』は、当時の江戸で大きな話題となり、多くの人を呼び寄せた一方で、幕府関係者を巻き込む騒動にも発展していたことがうかがえます

「不謹慎」「悪趣味」と炎上して3ヶ月で閉鎖

医師の瓢仙(ひょうせん)は、大森にある自宅の庭に小屋を設け、その内部に百鬼夜行の絵を描き、幽霊や一つ目小僧などの人形細工を飾って人々を招き入れました。

すると「非常に恐ろしい」と評判となり、大森の『化け物茶屋』として多くの見物人が訪れるようになったといいます。

ところが、見物客が増えるにつれて「不謹慎だ」「悪趣味だ」と批判する声も高まり、町中で物議を醸す存在となっていきました。

そんな噂は代官の耳にも届き、放置するわけにもいかず「医者の身でありながら、このようなものを作るとはけしからん!」と、撤去を命じられてしまったのです

それにしても、なぜ瓢仙は『化け物茶屋』などを作ったのでしょうか

『甲子夜話』によると、瓢仙は大森に移り住む際、屋根は雨漏りし、壁も破れて傾きかけた古い家を購入したといいます
修復には多額の費用がかかるため、屋敷の内部に化け物の絵を描き、自らの慰みにしたり客人に見せたりしていたところ、それが「化け物茶屋」として評判になってしまった、ということです

また、当時は庶民の社会的・経済的な不安が大きく、妖怪や幽霊を見て恐怖や興奮を味わい、日常の鬱憤を晴らす娯楽として人気が出たと推測されています

瓢仙自身も妖怪や幽霊といった未知の存在を描き、仕掛けを施すことで、客が怖がる様子を見て楽しんでいたのではないでしょうか

「寺島仕込怪物問屋、変死人形競」

また、日本初のお化け屋敷は、天保7年(1836年)に両国の回向院で開催された『寺島仕込怪物問屋』だとする説もあります

菊岡千吉という細工師が、当時大人気だった尾上菊五郎の妖怪狂言の場面を取り入れ、四谷怪談や東海道五十三次「猫の怪」などを、役者に似せた人形で再現した見世物でした

「歌舞伎よりも安い料金で芝居の雰囲気が味わえる」と評判になり、多くの観客を集めたといいます

さらに、天保10年頃(1839年)になると、両国の回向院では「井の頭弁財天」のご開帳に合わせて、人形師・泉目吉による『変死人形競』という見世物が開催されました

目吉は浅草仲見世に店を構え、芝居や怪談噺で使う小道具を専門に製作していた細工師です

このときの展示では、水死体や獄門のさらし首、女性の生首などを精巧に作り込み、さらに棺桶の割れ目から飛び出した幽霊の首に月明かりが差し込む仕掛けを施すなど、演出にも工夫が凝らされていたといいます

日常生活の憂いを忘れ、一時的に刺激的な恐怖の世界に

昔のお化け屋敷は、すべて人の手で作り込んだ造形物を使い、さらに匂いや音、光といった演出効果までも手作業で仕掛けていました

ある意味、最新のテクノロジーを駆使した現代のお化け屋敷よりも、生々しい恐ろしさがあったかもしれません

お化け屋敷が時代を超えて好まれる理由については、「安全な場所にいながら恐怖を体験できる」「恐怖によって脳が覚醒し、生きている実感を得られる」など、さまざまな分析がありますが、中でも「日常生活の憂いを忘れ、非日常の恐怖の世界に浸れること」が大きな理由の一つとされています

お化け屋敷は形を変えながらも、人々を非日常の世界へ誘う場であり続けているのかもしれません

参考:
『お化け屋敷を楽しむ本 上 理論編』『甲子夜話』他
文 / 桃配伝子 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

「怖い、怖い」と言いつつ、日本では怪談や怖いエピソードが好まれます

テレビや映画、ドラマやバラエティなどで放送される「怖い話」は度々話題になり、夏は「お化け屋敷」がデートスポットの一つとして人気です

「お化け屋敷」は、時代とともに変化し、現在では最新のテクノロジーを駆使した没入型や、広大な敷地の中に再現された病院などを歩く体験型など、いろいろと進化しています
その一方で、逆に手作り感のある昭和レトロな、いかにも「日本のお化け屋敷」タイプも人気だそうです

そんなお化け屋敷ですが、一説には日本で初めて登場したのは今からおよそ190年前、江戸時代の文政から天保元年頃(1830〜31年)とされています
しかも、その仕掛け人は一人の町医者だったそうです

ところが、「悪趣味すぎる」と大きな物議を呼び、わずか3か月で閉鎖に追い込まれてしまいました

一体どのようなお化け屋敷だったのでしょうか

自宅の庭に医者が作った『化け物茶屋』

文政13年から天保元年にかけての頃、江戸の大森(現在の大田区大森)に、『化け物茶屋』なるものが登場しました

作ったのは「瓢仙(ひょうせん)」という町医者でした

『甲子夜話(かっしやわ)』という、肥前国平戸藩第9代藩主の松浦清が引退後に書いた随筆集に、医師・瓢仙の化け物茶屋の記述があります

(意訳)

「東海道の品川宿と川崎宿の間にある東大森村に、近ごろ茶屋ができた。その離れ座敷には極彩色で描かれた百鬼夜行の図が掲げられ、多くの見物人を集めている。近くには幕府の鵜見屋敷があるため、このまま放置してよいものか、取締りをどうすべきか役人たちの間で議論になっている」

この記述から、瓢仙の『化け物茶屋』は、当時の江戸で大きな話題となり、多くの人を呼び寄せた一方で、幕府関係者を巻き込む騒動にも発展していたことがうかがえます


 

ところが、「不謹慎」「悪趣味」と炎上して3ヶ月で閉鎖・・・


日常生活の憂いを忘れ、一時的に刺激的な恐怖の世界に

昔のお化け屋敷は、すべて人の手で作り込んだ造形物を使い、さらに匂いや音、光といった演出効果までも手作業で仕掛けていました

ある意味、最新のテクノロジーを駆使した現代のお化け屋敷よりも、生々しい恐ろしさがあったかもしれません

お化け屋敷が時代を超えて好まれる理由については、「安全な場所にいながら恐怖を体験できる」「恐怖によって脳が覚醒し、生きている実感を得られる」など、さまざまな分析がありますが、中でも「日常生活の憂いを忘れ、非日常の恐怖の世界に浸れること」が大きな理由の一つとされています

お化け屋敷は形を変えながらも、人々を非日常の世界へ誘う場であり続けているのかもしれません


 

 


おそらく他にない「恐怖」を売り物とする、お化け屋敷
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(この記事はラブすぽの記事で作りました)

 


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「ペルシウムの戦い」とは、紀元前525年にアケメネス朝ペルシアと、古代エジプトの間で起きた戦いである

当時、ペルシア帝国の国王だったカンビュセス2世は、中東一帯を制した偉大な初代国王キュロス2世の後を継ぎ、さらなる領土拡大を目指して古代エジプト攻略に乗り出した

遠征の動機については複数の説がある

ヘロドトスによれば、エジプト王アマシス2世が、娘の婚姻をめぐってカンビュセスを欺いたことや、アマシスの顧問官フェニースがペルシア側に寝返ったことが決定的な要因とされる

また、当時のエジプトはペルシアの支配下に入っていない数少ない大国であり、その征服はカンビュセスにとって「シャーハンシャー(諸王の王)」としての威信を確立するための戦略的課題でもあった

当時のエジプトは「二万もの都市を擁する」とされるほど強大であった

父キュロスですら手を出さなかったこの大国に対し、カンビュセスは慎重に準備を進め、侵攻の機をうかがっていた

ペルシウムの戦い

エジプト攻略のためにカンビュセスが狙いを定めたペルシウムの街は、下エジプトのナイルデルタの最東端に位置する大都市だった

当時、エジプトを治めていたアマシス2世は、平民出身ながらも有能な統治者で、ギリシア世界との同盟や交易を進め、農業や経済を発展させたことで知られる

アマシスの治世下では、強大なペルシア帝国ですら容易には手を出せなかった

しかし、いかに偉大な人物であろうと命には限りがあるもので、紀元前526年にアマシスは死去し、その跡を嫡男であるプサムテク3世が継いだ

アマシスの死は、いつかエジプトを攻略しようと考えていたカンビュセスからすれば、またとない朗報だった

カンビュセス率いるペルシア軍はシナイ半島を越え、エジプト東方の「入り口」と呼ばれたペルシウムへ進軍した

しかし、この地は古来より「エジプト防衛の要」とされる難攻不落の拠点であり、ペルシア軍であっても攻略は容易ではなかった

一説によると、なんとペルシア軍の兵たちは、エジプト兵の戦意を削ぐために、エジプト人が神聖な動物として崇拝していた「猫」を盾にして進軍したという

「神聖な猫」を犠牲にできずに大敗

古来よりエジプトでは、「猫」は太陽神ラーの親族とされる女神バステトの化身とみなされ、極めて神聖視されていた
猫のミイラも大量に発見されており、高位の人物と共に埋葬されていた例もある

猫の家畜化は、紀元前4000〜3000年頃のナイル流域で始まったと考えられている

当初は、農耕の弊害となるネズミなどの害獣駆除のために家畜化された猫であったが、いつしかエジプト人は猫を神聖化すると同時に、家族同然に愛すべき存在とみなしていた

2世紀のローマ時代の著述家ポリュアイノスは、この信仰を逆手に取ったカンビュセスの戦術を伝えている

カンビュセスは、自軍の兵士たちに猫を抱かせて進軍させたほか、盾に猫を縛り付けたり、その絵を描かせるなどして、エジプト軍の攻撃をためらわせたという

神聖な猫を盾にされてしまっては、いかに百戦錬磨のエジプト兵であろうと攻撃できず、ほとんど抵抗もできないまま壊滅させられた

ペルシウムの戦いで勝利したカンビュセスは、猫のために国を犠牲にしたエジプト人を侮蔑し、その顔に猫を投げつけたという

ただし、この戦術についてはヘロドトスやクテシアスといった同時代の史料には記録がなく、後世に生まれた伝説とみなす研究者も少なくない

ペルシウムを攻略したカンビュセスは、プサムテク3世が逃れた古代エジプトの首都メンフィス(現在のカイロ近郊)を包囲し、エジプト軍は最終的に降伏した

プサムテクは捕らえられ、ここにおいてエジプト第26王朝は終焉を迎える

王族や貴族の多くは公開処刑され、残った者は奴隷とされた

プサムテク自身はその後、反乱を試みたが鎮圧され、ヘロドトスによれば毒を飲まされて死亡したとされる
ただし、自害したとする説もあり、詳細は定かではない

また、カンビュセスは先代ファラオのアマシス2世の墓を暴き、ミイラを鞭打ち、最後には焼却したという

ペルシア軍の犠牲者は約7000人、エジプト側の犠牲者は5万人に及んだと伝えられている

ペルシア王にして新ファラオとなったカンビュセスの最期

父王キュロスが成し得なかったエジプト征服を果たし、ペルシア王でありながらエジプト第27王朝の初代ファラオの地位も手に入れたカンビュセスであったが、その栄光は長く続かなかった

エジプト平定後、カンビュセスは南方のクシュ王国(ヌビア)征服を目指した

だが、補給線を軽視した無理な進軍は長期化し、兵士たちは深刻な食料不足に陥る
一部の兵は生き延びるため、仲間の遺体に手を伸ばすほど追い詰められ、結局遠征は失敗に終わったという

その後も領土拡大を試みたが成果はなく、帝国の権威は徐々に揺らぎ始めていった

やがて、かつてカンビュセスの命で暗殺されたはずの弟スメルディスが、遠征中のカンビュセス不在を狙って蜂起し、ペルシア王位を奪う事態が起きた

しかし、この「スメルディス」は実際にはペルシアの神官(マギ)ガウマタが成りすました偽者であった
反乱の報せを受けたカンビュセスは鎮圧に向けて進軍したものの、すでに王国の掌握は進んでおり、挽回はほぼ不可能な状況だった

絶望的な状況に追い込まれたカンビュセスは、帰還途中に急死した

死因については諸説あり、自害、事故死、病死など複数の説が伝わるが、ペルシウムの戦いから約3年後の紀元前522年のこととされる

エジプトでは、カンビュセスの突然の死は神々の怒りによるものだと恐れられた

当時メンフィスでは聖牛アピスが神として崇拝されており、カンビュセスがこの神聖な牛を侮辱し、殺害したために「神罰が下った」と語り継がれたのである

さらに、ペルシウムの戦いで神聖な猫を利用した逸話も重なり、後世の人々の間では「カンビュセスは神々の逆鱗に触れた」とする見方が広く語り継がれることとなった

参考 :
富田園子 (著), 山本宗伸 (監修)
『教養としての猫 思わず人に話したくなる猫知識151』
松平千秋 (翻訳)
『ヘロドトス 歴史 上』
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

「ペルシウムの戦い」とは、紀元前525年にアケメネス朝ペルシアと、古代エジプトの間で起きた戦いである

当時、ペルシア帝国の国王だったカンビュセス2世は、中東一帯を制した偉大な初代国王キュロス2世の後を継ぎ、さらなる領土拡大を目指して古代エジプト攻略に乗り出した

遠征の動機については複数の説がある

ヘロドトスによれば、エジプト王アマシス2世が、娘の婚姻をめぐってカンビュセスを欺いたことや、アマシスの顧問官フェニースがペルシア側に寝返ったことが決定的な要因とされる

また、当時のエジプトはペルシアの支配下に入っていない数少ない大国であり、その征服はカンビュセスにとって「シャーハンシャー(諸王の王)」としての威信を確立するための戦略的課題でもあった

当時のエジプトは「二万もの都市を擁する」とされるほど強大であった

父キュロスですら手を出さなかったこの大国に対し、カンビュセスは慎重に準備を進め、侵攻の機をうかがっていた

ペルシウムの戦い

エジプト攻略のためにカンビュセスが狙いを定めたペルシウムの街は、下エジプトのナイルデルタの最東端に位置する大都市だった

当時、エジプトを治めていたアマシス2世は、平民出身ながらも有能な統治者で、ギリシア世界との同盟や交易を進め、農業や経済を発展させたことで知られる

アマシスの治世下では、強大なペルシア帝国ですら容易には手を出せなかった

しかし、いかに偉大な人物であろうと命には限りがあるもので、紀元前526年にアマシスは死去し、その跡を嫡男であるプサムテク3世が継いだ

アマシスの死は、いつかエジプトを攻略しようと考えていたカンビュセスからすれば、またとない朗報だった

カンビュセス率いるペルシア軍はシナイ半島を越え、エジプト東方の「入り口」と呼ばれたペルシウムへ進軍した

しかし、この地は古来より「エジプト防衛の要」とされる難攻不落の拠点であり、ペルシア軍であっても攻略は容易ではなかった

一説によると、なんとペルシア軍の兵たちは、エジプト兵の戦意を削ぐために、エジプト人が神聖な動物として崇拝していた「猫」を盾にして進軍したという



エジプトは「神聖な猫」を犠牲にできずに大敗という・・・


ペルシア王にして新ファラオとなったカンビュセスの最期

父王キュロスが成し得なかったエジプト征服を果たし、ペルシア王でありながらエジプト第27王朝の初代ファラオの地位も手に入れたカンビュセスであったが、その栄光は長く続かなかった

エジプト平定後、カンビュセスは南方のクシュ王国(ヌビア)征服を目指した

だが、補給線を軽視した無理な進軍は長期化し、兵士たちは深刻な食料不足に陥る
一部の兵は生き延びるため、仲間の遺体に手を伸ばすほど追い詰められ、結局遠征は失敗に終わったという

その後も領土拡大を試みたが成果はなく、帝国の権威は徐々に揺らぎ始めていった

やがて、かつてカンビュセスの命で暗殺されたはずの弟スメルディスが、遠征中のカンビュセス不在を狙って蜂起し、ペルシア王位を奪う事態が起きた

しかし、この「スメルディス」は実際にはペルシアの神官(マギ)ガウマタが成りすました偽者であった
反乱の報せを受けたカンビュセスは鎮圧に向けて進軍したものの、すでに王国の掌握は進んでおり、挽回はほぼ不可能な状況だった

絶望的な状況に追い込まれたカンビュセスは、帰還途中に急死した

死因については諸説あり、自害、事故死、病死など複数の説が伝わるが、ペルシウムの戦いから約3年後の紀元前522年のこととされる

エジプトでは、カンビュセスの突然の死は神々の怒りによるものだと恐れられた

当時メンフィスでは聖牛アピスが神として崇拝されており、カンビュセスがこの神聖な牛を侮辱し、殺害したために「神罰が下った」と語り継がれたのである

さらに、ペルシウムの戦いで神聖な猫を利用した逸話も重なり、後世の人々の間では「カンビュセスは神々の逆鱗に触れた」とする見方が広く語り継がれることとなった


 

 


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「科学×歴史×文化」で学ぶ猫のすべて――
愛するわがコのことがとことんわかる1冊
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デキる下僕の必読書!
最先端の猫研究から猫にまつわる歴史と文化まで猫のすべてをとことん深掘りした1冊です

中世から近世にかけてのヨーロッパ

豪華な王宮の奥では、現代では信じがたい奇妙な妄想に囚われた人々がいました

「自分の身体がガラスでできている」と信じ、わずかな衝撃や接触で砕け散ってしまうのではないかと、怯えて暮らしていたのです

この症状は後に「ガラス妄想(glass deusion)」と呼ばれるようになり、15世紀から17世紀にかけて、一部の王族や知識人の間で報告されました

壊れやすさや透明さといったガラスのイメージは、精神的重圧や社会不安と結びつき、当時の王侯貴族たちの心を大きく揺さぶっていたのです

「ガラス妄想」の具体例と、その背景にある文化や心理、文学・哲学への影響、そして現代精神医学との関わりを紹介します


ガラスに閉じ込められた王、シャルル6世の苦悩

最も有名な「ガラスの王」は、フランス・ヴァロワ朝第4代国王、シャルル6世(1368–1422年)です

彼は即位当初こそ「親愛王」と称えられましたが、1392年、ブルターニュ遠征の途上で突如錯乱をきたします

行軍中に槍が地面に落ちて大きな音を立てたことを「裏切りの合図」と誤解し、自軍の騎士たちを敵とみなして襲撃
複数人が死亡する惨事となりました

この事件をきっかけに、シャルル6世は生涯にわたり精神発作を繰り返すことになります

とりわけ注目されるのが、彼が「自分の身体はガラスでできている」と信じるようになったことです

人に触れられることを極端に恐れ、転倒や接触で“砕ける”ことを避けるため、鉄の骨組みを縫い込んだ衣服を着用していたと記録されています

この様子については、後に教皇となるピウス2世が「王は鉄骨入りの服を着て、触れられることを避けていた」と回想しています

この妄想は単なる奇行ではなく、王権の重圧や孤独、そして精神医学がまだ未発達だった時代における深刻な病の表れといえるでしょう

シャルル6世の治世下、フランスは内戦と百年戦争の混乱に巻き込まれ、王の「脆さ」はそのまま王国の不安定さと重なっていました

なぜ人はガラスになったのか

それではなぜ「自分の身体がガラスでできている」という妄想が広がったのでしょうか

これは、当時の人々がガラスという素材に抱いていた特別な感覚と深く関係しています

16〜17世紀のヨーロッパでは、ガラスは高級で神秘的な素材と見なされていました
透明性や脆さ、美しさ、そして高度な加工技術によって生み出されるその特性から、ガラスは特別な物質として貴族階級に珍重されていたのです

特に、イタリア・ムラーノ島で生産されたヴェネツィア・グラスは、その象徴的存在でした

このような背景から、「自分の身体がガラスである」という妄想は、ガラスという素材への畏敬と不安が精神に投影された結果と考えられます

1621年、イングランドの学者ロバート・バートンは著書『憂鬱の解剖学』で、ガラス妄想を「メランコリー(憂鬱症)」の一症状として紹介し、極度の不安や恐怖がこの妄想を引き起こすと分析しました

つまり「ガラス妄想」は単なる奇異な症状ではなく、ガラスの壊れやすさや透明さ、美しさと脆さという二面性が、精神疾患と当時の文化観が交わる中で生まれた現象だといえるのです

文学と哲学に映るガラスの影

この妄想は、医学の領域にとどまらず、文学や哲学にも深い痕跡を残しています

最も有名な文学的作品は、『ドン・キホーテ』の作者としても知られるスペインの文豪ミゲル・デ・セルバンテスによる短編『ガラスの学士』(1613年)です

物語の主人公トマス・ロダーハは、媚薬と信じて飲んだ毒によって重い病にかかり、6か月の寝たきり生活を経て精神を病みます

やがて「自分の身体がガラスでできている」と信じ込み、人に触れられることを極端に恐れ、座ることさえできなくなります

それでも彼は町を歩きながら鋭い風刺を口にし、知性と狂気の境界に立つ人物として描かれました
その後2年を経て、奇跡を起こすと噂される僧によって回復する結末となっています

また、オランダの詩人コンスタンティン・ホイヘンスは、1622年の詩『高価な愚行』で、自分の身体がガラスでできていると信じる男が、椅子に座ることも眠ることも恐れる様子を描きました

彼はこの狂気を風刺する一方で、人間の存在不安や死への恐怖をも浮き彫りにしています

哲学の領域でも、ルネ・デカルトが『第一哲学についての省察』(1641年)の中で「自らをガラスと信じる狂人」に触れ、知覚と現実の関係を問い直す材料として、この妄想を引用しています

17世紀後半には、ジョン・ロックも『人間悟性論』(1690年)で、ガラス妄想を「狂気のモデル」の一例として挙げ、心と認識の関係を考察する手がかりとしました

妄想の終焉と現代への残響

18世紀以降、啓蒙主義の広まりとともに精神医療が体系化されると、ガラス妄想の記録は次第に減少していきました

フランス革命や産業革命を経て、人間観が「魂と身体」から「心理と脳」へと移行し、同時にガラスという素材の象徴性も変化したのです

かつて神秘性と脆さを兼ね備えた特別な物質だったガラスは、やがて日常生活で一般的に使われる工業素材となり、妄想の投影先としての意味を失っていきました

しかし「ガラス妄想」が完全に消えたわけではありません

現代でも稀に症例が報告されており、2015年にはオランダ・ライデンで「自分の体がガラスでできている」と信じる男性患者が確認されています

また、現代社会ではガラスの代わりに、テクノロジーや監視への恐怖が新たな妄想の対象となりました
たとえば「脳にチップを埋め込まれている」という陰謀的な妄想は、かつてのガラス妄想に通じる心理的構造を持っていると考えられます

ガラス妄想は、一見すると突飛で病的な幻覚のように見えます

しかし歴史の中で、この妄想は王たちの孤独や時代の不安を映し出し、美と脆さの象徴となり、さらには哲学的懐疑の題材にまでなりました

セルバンテスやホイヘンス、デカルトが描いたガラスの人間は、時代を超えて、繊細で壊れやすい心を抱えながら社会に生きる、私たち自身の姿をも映しているのかもしれません

参考文献:
『A Body of Glass:The Case of El licenciado Vidriera,Elena Fabietti』
『思わず絶望する!? 知れば知るほど怖い西洋史の裏側』他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

中世から近世にかけてのヨーロッパ

豪華な王宮の奥では、現代では信じがたい奇妙な妄想に囚われた人々がいました

「自分の身体がガラスでできている」と信じ、わずかな衝撃や接触で砕け散ってしまうのではないかと、怯えて暮らしていたのです

この症状は後に「ガラス妄想(glass deusion)」と呼ばれるようになり、15世紀から17世紀にかけて、一部の王族や知識人の間で報告されました

壊れやすさや透明さといったガラスのイメージは、精神的重圧や社会不安と結びつき、当時の王侯貴族たちの心を大きく揺さぶっていたのです

妄想の終焉と現代への残響

18世紀以降、啓蒙主義の広まりとともに精神医療が体系化されると、ガラス妄想の記録は次第に減少していきました

フランス革命や産業革命を経て、人間観が「魂と身体」から「心理と脳」へと移行し、同時にガラスという素材の象徴性も変化したのです

かつて神秘性と脆さを兼ね備えた特別な物質だったガラスは、やがて日常生活で一般的に使われる工業素材となり、妄想の投影先としての意味を失っていきました

しかし「ガラス妄想」が完全に消えたわけではありません

現代でも稀に症例が報告されており、2015年にはオランダ・ライデンで「自分の体がガラスでできている」と信じる男性患者が確認されています

また、現代社会ではガラスの代わりに、テクノロジーや監視への恐怖が新たな妄想の対象となりました
たとえば「脳にチップを埋め込まれている」という陰謀的な妄想は、かつてのガラス妄想に通じる心理的構造を持っていると考えられます

ガラス妄想は、一見すると突飛で病的な幻覚のように見えます

しかし歴史の中で、この妄想は王たちの孤独や時代の不安を映し出し、美と脆さの象徴となり、さらには哲学的懐疑の題材にまでなりました

セルバンテスやホイヘンス、デカルトが描いたガラスの人間は、時代を超えて、繊細で壊れやすい心を抱えながら社会に生きる、私たち自身の姿をも映しているのかもしれません



 

 


とんでもなかった! あなたが知らない西洋がここにある
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知られざるヨーロッパの真実をユーモアたっぷりにお届けします
あの有名な王族、貴族の教科書には載っていないウラの顔、実在したトンでも職業、庶民たちのおもしろブームなど、世界史が好きな人も、苦手な人も楽しめる1冊です

江戸と甲州(山梨県)を結ぶ甲州街道

道中にはいくつもの宿場町が栄え、そこには多くの飯盛女たちが営業していました

そんな一つである府中宿(ふちゅうじゅく。東京都府中市)を紹介
その歴史をたどってみましょう

飯盛旅籠の登場

府中宿は、甲州街道の要所として江戸開府より間もないころから栄えていました

宿場町と言えば性風俗がつきものですが、風紀と治安を維持するため、幕府は遊女を置かせてくれません

それどころか、よからぬ事態を懸念して旅籠(はたご。宿屋)に飯盛女(めしもりおんな。女性従業員)さえ置かせないという警戒ぶりです

しかし安永6年(1777年)、府中新宿で旅籠を営んでいた東屋甚蔵(あづまや じんぞう)が代官所に願い出て、飯盛女を置く許可をとりました

「本当に飯盛(一般な宿泊サービス)だけしか(性的サービスは)させませんから(嘘)」

とまで言ったかどうか、ともあれ府中宿の旅籠に飯盛女が置かれるようになります

そうなると蟻の一穴で、新宿の倉田屋太左衛門(くらたや たざゑもん)、番場の鉄五郎(てつごろう)が、相次いで飯盛旅籠を開業しました

ただし、鉄五郎については間もなく廃業してしまったので、寛政年間(1789〜年)ごろまでは、東屋と倉田屋の2軒で営業していたそうです

代官所からの「勧告」

かくして歳月は流れていくものの、やはり当局は飯盛旅籠の存在を快く思っていませんでした。

天明2年(1782年)、代官所は東屋と倉田屋に対して、風紀上の理由から飯盛女を置かない平旅籠に戻すよう「勧告」します

「命令」まで強気に出られなかったのは、表立った問題がなかったからでしょうか
あるいは上手くもみ消していたのかも知れませんね

しかし「勧告」とは言え、代官所の意向を真正面から突っぱねると、わだかまりを残してしまうでしょう

そこで彼らは誓約書を提出し、営業継続を申し出ました

① あくまで旅行者のみをサービス対象とし、近隣の者を出入りさせない
→旅行者はすぐ通過するはずなので、長く留まらずトラブルになるリスクは低い

② 他国や他村の者を長期滞在させない
→長く留まらせると、比例してトラブルのリスクが高まるため、滞在は必要最低限とする

③ 酔っ払いが暴れたら必ず止める
→今までは放置するケースもあったのだろうか

④ 酔っ払いの不始末は私刑(リンチ)せず、組合に通報して指図を受ける
→よほど私刑が惨たらしく、当局の目に余ったのかも知れない

⑤ 博打は厳禁とする
→当然である

これら自浄努力の意思表明が評価されたのか、府中宿の飯盛旅籠は営業継続を認められます

「くらやみ祭り」で大賑わい

府中宿の名所と言えば、大國魂神社(おおくにたまじんじゃ)
現代でも多くの参拝者で賑わっています

その境内に鎮座する六所大明神の祭礼シーズンは、飯盛旅籠にとって書き入れ時となりました

現代の「くらやみ祭り」ですね

各店が障子や襖を外して軒下に丸提灯を吊るし、さながら遊郭の見世を思わせる風情を演出しました

この丸提灯はお客からの奉納で、その数が多いほど伊達とされます

飯盛女がお客に丸提灯を買うようにねだり、お客は飯盛女の印をつけた丸提灯を軒下に吊るしました

丸提灯の数が飯盛女の人気を見える形で表し、現代の推し活や人気投票を彷彿とさせます

加えて飯盛女と遊ぶ揚代も、特別価格に値上げされました

一昼夜で1貫200文の通常価格に対して、この時期は一昼夜を6分割して金3分/各時
お客にとっては大変な散財ですが、同時に浮名を流す絶好の機会?となったのかも知れません

また、吉原遊郭にならって花魁道中ならぬ飯盛行列(とでも言うのでしょうか)が行われました

童に手を引かれながら、飯盛女たちが六所大明神の門前を練り歩いたそうです

幕末そして明治以降

その後、覚右衛門(かくゑもん)が番場に飯盛旅籠を開業し、府中宿の飯盛旅籠は3軒となりました

時は流れて文化元年(1804年)
東屋が内藤新宿へ移転したため、府中宿の飯盛旅籠は2軒・・・と思ったら、何故か4軒が営業しています

実はちゃっかり無許可で2軒が営業しており、各旅籠の飯盛女も、規定の2名を大きく超えた10〜15名が在籍していました

この頃になると、いちいち取り締まらなかったのでしょうか

検分の時さえやり過ごし、また規定の上納金さえ入れていれば、当局も細かく言わなくなったようです

幕末になると、後に新撰組を率いる近藤勇・土方歳三・沖田総司らが府中の飯盛旅籠を貸し切って朝まで騒ぐ・・・なんてこともありました

そして明治時代に入り、飯盛旅籠は貸座敷と呼び名が変わります

府中宿の飯盛旅籠は、八王子や内藤新宿と異なって遊郭を形成することなく、街道に沿って各店舗が点在する形を保ち続けた点に特色がありました

明治初期には、たつむろ・いろは・田中屋・松本・杉嶋の5軒が記録されており、明治14年(1881年)には9軒まで増えます

そして敗戦後まで命脈を保ち続けたのでした

終わりに

今回は甲州街道・府中宿で賑わった飯盛旅籠や飯盛女について、その歴史を紹介してきました

江戸の郊外でも、独自の性風俗文化が花開いていたようです

当時の人々(特に男性)にとって、宿場の飯盛女は楽しみの一つだったことでしょう

他の宿場町についても面白そうなので、また紹介したいと思います

参考:
・安藤雄一郎 監修『江戸を賑わした 色街文化と遊女の歴史』カンゼン、2018年12月
文 / 角田晶生(つのだ あきお) 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

江戸と甲州(山梨県)を結ぶ甲州街道

道中にはいくつもの宿場町が栄え、そこには多くの飯盛女たちが営業していました

そんな一つである府中宿(ふちゅうじゅく。東京都府中市)・・・


世の中には本音と建前、表と裏があります・・・

甲州街道・府中宿で賑わった飯盛旅籠や飯盛女について、その歴史を紹介してきました

江戸の郊外でも、独自の性風俗文化が花開いていたようです

当時の人々(特に男性)にとって、宿場の飯盛女は楽しみの一つだったことでしょう



 

 


江戸各地にあった色街の歴史をひも解き、当時の繁栄ぶりに思いをはせる──

江戸時代には公認・非公認にかかわらず、多くの遊里があった
吉原の遊郭をはじめ、品川や新宿などの宿場町、深川や上野などの岡場所、八王子や府中などの旅籠、船橋や潮来などの地方の宿場・・・
街は遊女が集い、女色を求めて男が通い、賑わった

なぜそこが遊里となったのか、どれほど賑わっていたのか、どんな遊女がいてどんな男が遊んだのか、往時の賑わいぶりを振り返るとともに、現在の様子にも触れながら、江戸時代の“色街"を紹介していく

黒い犬(Black Dog)は、イギリス各地に伝わる妖怪的存在であり、その伝承は地域によって大きく異なる

一般的には、黒い犬は異常に大きな体と、赤あるいは黄色の目を持ち、十字路や廃墟、墓地などの陰鬱な場所に現れるとされる
また、一部の伝承では、黒い犬の出現時には硫黄のような臭いが漂うとされている

黒い犬を目撃した者は不幸に見舞われ、時には死の前兆とされることもある

さらに、伝承によっては目撃者に襲いかかり命を奪う場合もあるが、一方で旅人を導いたり危険から守る「守護的な黒犬」も存在する

その起源については諸説あるが、一説によれば、各地に残る犬に関する神話や伝承が融合し「黒い犬」が形成されたと考えられている

ギリシャ神話に登場する三つ首の犬ケルベロス(Cerberus)、北欧神話に登場するガルム(Garm)、ケルト神話のドアマース(Dormarch)、ウェールズのクーン・アンヌーン(Cwn Annwn)など、ヨーロッパに伝わる犬妖怪の伝説は枚挙にいとまがない

これらに共通する特徴として、冥界や地獄などの、いわゆる「死者の世界の番犬」であるという点がある

死者の世界は、一般的に陰鬱で荒涼とした場所であると考えられており、そこに棲むこれらの犬もまた、血に飢えた獰猛な怪物として解釈されてきた

こうした伝説上の猛犬のイメージが長い歴史の中で変容し、「黒い犬」という伝承として定着したと考える研究者も少なくない

主な伝承

14世紀頃、デヴォン州のダートムーアと呼ばれる湿地帯で「黒い犬」の目撃談が記録されており、これが現存する最古の伝承とされている

ダートムーアには古来より多種多様な黒い犬の言い伝えが残されており、まさに黒い犬伝承の中心地ともいえる地域である

この地で語られる黒い犬は「Wisht Hound」や「Yeth Hound」と呼ばれ、特にYeth Houndは首のない悍ましい姿をしているとされる
その正体は、洗礼を受けずに亡くなった子供の霊であるという

また、ダートムーアにはかつてリチャード・キャベル(1677年没)という人物が住んでいたと伝えられている

彼は「悪魔に魂を売り渡した」と噂されるほど残虐な性格だったとされ、死後は亡霊となって黒い犬の群れを率い、荒野を駆け巡ると恐れられた

この伝承は、後にアーサー・コナン・ドイル(1859~1930年)が1901年に発表した名作推理小説『バスカヴィル家の犬』の着想源のひとつとなったとされている

1577年、サフォーク州のバンゲイの町に現れた黒い犬は「Black Shuck」と呼ばれる

この犬は落雷とともにセント・メアリー教会に現れ、信者たちを死傷させたと伝えられている

さらに同日、約19km離れたブライスバラ村のホーリー・トリニティ教会にも姿を現し、再び人々を襲ったとされる

この伝説は、実際に当時の教会で発生した落雷事故を誇張したものと考えられているが、現在もホーリー・トリニティ教会には「Black Shuckの爪痕」とされる焼痕が残っている

黒い犬の亜種たち

先述したように、「黒い犬」の伝承には地域ごとの違いが大きく、各地にはさまざまな「ご当地ブラックドッグ」の言い伝えが残されている

ここではその中から、代表的なものをいくつか紹介する

まずリンカンシャー州で語られるのが、ヘアリージャック(Hairy Jack)と呼ばれる黒い犬の伝承である
その名は「毛むくじゃらの犬」を意味し、体の大きさは子牛ほどもあるという

民俗学者エセル・ラドキン(1893~1985年)が、1938年に発表した論文にその存在が言及されており、同州全域で目撃談が残されている

ラドキン自身も「実際に見た」と証言しているが、人を襲うことはなかったと述べている
一方で別の伝承では、人気のない道で通行人を驚かすなど、やや不気味な存在とされる場合もある

温厚な黒い犬として知られるのが、サマセット州に伝わるガート・ドッグ(Gurt Dog)である

この犬は人間を襲うことも不幸をもたらすこともなく、むしろ悪しき存在から旅人や子供を守ると信じられてきた

そのため地域の大人たちは「ガート・ドッグが守ってくれる」と考え、子供を安心して丘や野外で遊ばせていたという

ウェールズには、グウィルギ(Gwyllgi)と呼ばれる黒い犬の伝承がある

その姿はオオカミやマスティフに似た大型犬とされ、赤い目を持つと伝えられている

19世紀頃、ある男が家路につく途中で後ろからグウィルギがついてくることに気づき、恐怖のあまり身動きが取れなくなった

しかし勇気を振り絞って振り返ると、グウィルギの姿は跡形もなく消えていたという

このように時代が変わっても、黒い犬の物語は地域ごとの伝承として語り継がれ、人々の想像力を刺激し続けている

参考 :『バスカヴィル家の犬』『A Straunge and Terrible Wunder』『Folklore』他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

黒い犬(Black Dog)は、イギリス各地に伝わる妖怪的存在であり、その伝承は地域によって大きく異なる

一般的には、黒い犬は異常に大きな体と、赤あるいは黄色の目を持ち、十字路や廃墟、墓地などの陰鬱な場所に現れるとされる
また、一部の伝承では、黒い犬の出現時には硫黄のような臭いが漂うとされている

黒い犬を目撃した者は不幸に見舞われ、時には死の前兆とされることもある

さらに、伝承によっては目撃者に襲いかかり命を奪う場合もあるが、一方で旅人を導いたり危険から守る「守護的な黒犬」も存在する

その起源については諸説あるが、一説によれば、各地に残る犬に関する神話や伝承が融合し「黒い犬」が形成されたと考えられている

ギリシャ神話に登場する三つ首の犬ケルベロス(Cerberus)、北欧神話に登場するガルム(Garm)、ケルト神話のドアマース(Dormarch)、ウェールズのクーン・アンヌーン(Cwn Annwn)など、ヨーロッパに伝わる犬妖怪の伝説は枚挙にいとまがない

これらに共通する特徴として、冥界や地獄などの、いわゆる「死者の世界の番犬」であるという点がある

死者の世界は、一般的に陰鬱で荒涼とした場所であると考えられており、そこに棲むこれらの犬もまた、血に飢えた獰猛な怪物として解釈されてきた

こうした伝説上の猛犬のイメージが長い歴史の中で変容し、「黒い犬」という伝承として定着したと考える研究者も少なくない


個人的には黒い犬や黒猫はミステリアスなイメージです




 

 


ホームズ、魔の犬に挑む!爛々と光る目、火を吐く口、青い炎で包まれた身体
恐怖に彩られた伝説を追う、シリーズ最高の長編

ドラマで描かれた衝撃の初夜シーン

中国の宮廷ドラマの金字塔となった『宮廷の諍い女』(原題『甄嬛伝』)には、視聴者の記憶に強烈な印象を残す場面がある

皇帝との初夜を迎える側室が、衣を脱がされ全裸のまま布団にくるまれ、まるで「すまき」のように宦官たちの手で抱えられて、寝所に運ばれていくのである

艶やかさや華やかさとは程遠く、どこか痛々しさすら漂うシーンである

この映像は単なる演出なのか、それとも史実に基づくものなのか
後宮を舞台にしたフィクション作品は、往々にして史実と創作が巧みに織り交ぜられている

清朝の後宮には確かに厳格な侍寝制度が存在したが、果たして本当に妃嬪たちは「すまき」のように運ばれていたのだろうか

清朝で実際に行われていた制度や手続きをみていきたい


清朝後宮の夜伽制度と実際の流れ

清朝の後宮では、皇帝と妃嬪の夜伽を管理するために、厳しい仕組みが整えられていた

その中心となったのが「敬事房(けいじぼう)」と呼ばれる部署である

ここでは皇帝がどの妃嬪を召したのか、いつ夜伽したのかをきちんと記録し、将来皇子が生まれた時に血統を証明する根拠とした

つまり、後宮の営みは単なる私事ではなく、国家的に重要な出来事だったのである

毎晩、皇帝が夕食を終えると、宦官が「膳牌」と呼ばれる緑色の木札を盆に載せて差し出した
札には、その夜に呼び出せるすべての側室の名が記されており、皇帝は気に入った札を裏返して相手を決めた

この仕組みは「翻牌子(ふぁんぱいず)」と呼ばれ、名前を選ばれた妃嬪にはすぐに知らせが届き、侍女の助けを借りて身支度を整えた

これは、清朝が正式に編纂した行政法規集『欽定大清会典事例』の記録にも残っている

凡選妃嬪侍寢、内務府預備緑頭牌、書名其上、呈遞御前。皇帝閲畢、留某牌、則太監持牌往告。其妃嬪即具裝候召。

意訳 :
妃嬪を選んで夜伽させる際には、内務府が緑頭牌を準備し、その上に名前を記して皇帝の前に提出する。皇帝が閲覧した後、ある牌を選ぶと、太監がその牌を持って選ばれた妃嬪に知らせに行く。妃嬪はすぐに身支度を整え、召しを待つ。

『欽定大清会典事例』内務府・敬事房 より引用

召された妃嬪は、侍女の手を借りて身を清め、夜伽に備えたとされる

興味深いのは、清朝では皇帝が自ら妃のもとに出向くのではなく、妃嬪の方が呼び出されて寝所に行くのが通例だったという点である
ただし皇后だけは正妻として格別の扱いを受け、皇帝が自ら寝宮を訪れることもあったと伝えられている

そして夜伽が終われば、妃嬪はそのまま泊まることを許されず、夜明け前に必ず自分の寝宮へ戻された
これは皇帝が情に流されて生活を乱すのを防ぎ、政務に専念させるための制度だった

実際に、清朝宮廷の公的記録集である『清宮档案』には「夜伽後は即刻退出」「留宿してはならない」といった記載が残されている

このように、清朝の夜伽は「翻牌子」「敬事房の記録」「過夜の禁止」といった制度のもとに進められ、きわめて形式的で、統制の行き届いたものであった

妃嬪たちにとっては愛情を深める時間というより、身分や将来を左右する「公務」に近い性格を帯びていたのである

本当に「すまき」にされて運ばれていたのか

前述したように、中国宮廷ドラマを見たことのある方は「妃嬪が布団にくるまれ、宦官に抱えられて皇帝の寝所へ運ばれる」場面を思い浮かべるかもしれない

ドラマや小説では頻繁に描かれ、いかにも現実にありそうな臨場感を漂わせている

しかし実際には、清朝の制度を記した一次資料『大清会典』や『清宮档案』などには、このような具体的描写は見当たらない

では、なぜこのようなイメージが広まったのだろうか

ひとつの背景として挙げられるのが「皇帝の安全確保」である

まず、清朝の制度を語るうえでしばしば引き合いに出される前例として、明代の第12代皇帝・嘉靖帝(かせいてい)の事件がある

1542年、嘉靖帝はなんと侍女たちに寝込みを襲われ、命を落としかけたのである

この事件は「壬寅宮変(じんいんきゅうへん)」と呼ばれ、皇帝の寝所に女性を入れることが、時に危険であることを世に知らしめた

以後、皇帝の身辺を守るための制度や警戒は、よりいっそう厳しくなっていった

清代の第5代皇帝・雍正帝(ようせいてい)も、後宮の女性による暗殺未遂を常に警戒していたと伝えられる

こうした歴史的背景が、「武器を隠せぬよう裸にさせる」「棉被で包んで運ぶ」といった説話を生みやすくしたのだろう

さらに、清末から民国期にかけて刊行された通俗的な読み物、『後宮秘史』や『宮闈逸事』などが、この逸話を面白おかしく脚色したと考えられる

特に清朝の権威が失われた時代には、皇帝と後宮の生活を滑稽に、あるいは怪奇的に描くことが大衆の好奇心を引きつけた
その影響が近代以降の小説や映像作品に受け継がれ、現代のドラマにまで強いイメージとして定着したとみられる

このように「すまきにされる夜伽」は、公式の制度としては確認できるものではない

とはいえ、後宮という閉ざされた場の性質上、すべてが記録に残るわけではなく、伝承や逸話の中に現実を反映した部分が含まれていた可能性も否定はできないだろう

後宮制度の実態

清朝の後宮における夜伽の仕組みは、表向きには秩序と公正さを保つための制度であり、皇帝の精力を管理し、政務に支障をきたさないようにする狙いがあった

しかし、その実態は女性たちの尊厳を大きく犠牲にするものだった

妃嬪たちは自らの意思で皇帝のもとへ向かうのではなく、呼び出されるままに身を差し出さねばならなかった
愛情や感情を交わす余地は乏しく、夜伽はほとんど「国家の公務」と化していたのである

「すまきのように布団で包まれて運ばれる」という伝承は、史料的な裏付けはないにせよ、後宮の女性たちが置かれていた不自由さや悲哀を象徴しているといえるだろう

結局のところ、清朝の夜伽制度は「皇帝の権力と安全」を守るために設計されており、女性はその犠牲となった

後宮の華やかな表舞台の背後には、自由を奪われ、尊厳を抑え込まれた多くの妃嬪たちの姿があったのである

参考 : 『欽定大清会典事例』『清宮档案』『後宮秘史』他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

中国の宮廷ドラマの金字塔となった『宮廷の諍い女』(原題『甄嬛伝』)には、視聴者の記憶に強烈な印象を残す場面がある

皇帝との初夜を迎える側室が、衣を脱がされ全裸のまま布団にくるまれ、まるで「すまき」のように宦官たちの手で抱えられて、寝所に運ばれていくのである

艶やかさや華やかさとは程遠く、どこか痛々しさすら漂うシーンである

この映像は単なる演出なのか、それとも史実に基づくものなのか
後宮を舞台にしたフィクション作品は、往々にして史実と創作が巧みに織り交ぜられている

清朝の後宮には確かに厳格な侍寝制度が存在したが、果たして本当に妃嬪たちは「すまき」のように運ばれていたのだろうか


「すまきにされる夜伽」は、公式の制度としては確認できるものではない

とはいえ、後宮という閉ざされた場の性質上、すべてが記録に残るわけではなく、伝承や逸話の中に現実を反映した部分が含まれていた可能性も否定はできないだろう

後宮制度の実態

清朝の後宮における夜伽の仕組みは、表向きには秩序と公正さを保つための制度であり、皇帝の精力を管理し、政務に支障をきたさないようにする狙いがあった

しかし、その実態は女性たちの尊厳を大きく犠牲にするものだった

妃嬪たちは自らの意思で皇帝のもとへ向かうのではなく、呼び出されるままに身を差し出さねばならなかった
愛情や感情を交わす余地は乏しく、夜伽はほとんど「国家の公務」と化していたのである

「すまきのように布団で包まれて運ばれる」という伝承は、史料的な裏付けはないにせよ、後宮の女性たちが置かれていた不自由さや悲哀を象徴しているといえるだろう

結局のところ、清朝の夜伽制度は「皇帝の権力と安全」を守るために設計されており、女性はその犠牲となった

後宮の華やかな表舞台の背後には、自由を奪われ、尊厳を抑え込まれた多くの妃嬪たちの姿があったのである


 

 


清朝は中国最後の王朝
北方の異民族(漢人以外)がどのように中国を統治したのか
ヌルハチからラストエンペラーまで栄光と苦悩の270年

「ハニートラップ」という言葉は、誰でも一度は聞いたことがあるだろう

女性が色仕掛けで男性を誘惑し、機密情報などを引き出す、諜報活動の一種である

社会的地位や権力の有無にかかわらず、人の欲望を巧みに利用するこの手口は、古今東西で数多く使われてきた
国家間の諜報戦でも頻繁に用いられ、現代社会においてもたびたび話題となる手法である

こうした「甘い罠」は、神話や伝承の世界にも数多く登場する

古くから語り継がれてきた「恐るべきハニートラップ」をいくつかひも解いていこう


水辺の怪

古来より、水辺には不思議な怪異が集まりやすいといわれている

古代スラブ人(中欧から東欧にかけて暮らしていた人々)の伝承には、ルサールカ(Rusalka)と呼ばれる美しい精霊が登場する

水辺で命を落とした女性がルサールカへと変わると信じられており、川や沼地に現れては男を誘惑し、水中へ引きずり込んで殺すと語り継がれてきた

基本的に恐ろしい精霊ではあるが、古代スラブ人はこの存在を、豊穣の神として崇拝していたとも伝わる

ロシアの作家ミハイル・イワノビッチ・ポポフ(1742~1790年頃)の『古代スラヴの異教の神話の記述』によると、ルサールカは緑色の長い髪を持ち、湖畔で体を洗ったり、木々の上で揺れる姿が目撃されていたという

スラブ人たちは、このルサールカを水と森の女神だと信じ、供物を捧げ、祈り奉っていた

しかし、スラブ地域にキリスト教が伝来すると、古来の信仰は次第に失われ、土着の神々は「邪悪な霊」として描き換えられていった

かつて豊穣をもたらす女神と崇められたルサールカも、やがて男を惑わす妖しい存在として恐れられるようになったのである

日本においても、水辺に現れて男を惑わす女妖怪の伝承が残されている

高知・大分・福岡などの川には、かつて「川姫(かわひめ)」と呼ばれる妖怪が現れたと伝えられている

絶世の美女であり、男なら誰しも、その美貌の虜になること間違いなしだという
だが油断していると、たちまち精気を吸い取られてしまい、最悪の場合死んでしまうというから恐ろしい

福岡のとある水車小屋では、この川姫がしばしば出没し、若い男たちが被害に遭っていたという
そこで、精気を抜かれる心配のない老人が見張り役として小屋の近くに待機し、川姫が現れた際には合図を送った

若者たちはその合図に従い、目を伏せて息を殺すことで、難を逃れることができたと伝えられている

按摩の甘い罠

江戸時代の学者・佐藤成裕(1762~1848年)の著作『中陵漫録』には、「石妖(せきよう)」という妖怪の記述がある

(意訳・要約)

伊豆国(現在の静岡辺り)の、とある採石場でのことだ。

休憩中の職人たちの前に、ある日突然、見知らぬ美女が現れ、「按摩(マッサージ)をいたしましょう」と声をかけてきた。

女が一人の男の肩を揉むと、あまりの心地よさに男はすぐに眠りに落ちた。
やがて女は、他の職人たちの肩も次々と揉みほぐし、皆を深い眠りに誘っていった。

しかし、ただ一人だけ女の様子を怪しんだ男が、そっとその場を抜け出す。
道中で出会った猟師に事情を話すと、猟師は「そりゃあ狐か狸の仕業に違いない」と断言した。

二人は女を退治するため採石場へ戻ると、女は異変に気付いたのか一目散に逃げ出した。
猟師が銃を放つと、女の体はまるで石が砕けるように飛び散ったという。

残された職人たちを起こそうとした二人だったが、驚くべきことに彼らの背中は石で擦り付けられたように無数の裂傷を負っていた。

放置すれば命も危ういほどの深手であった。

「こんな美女にマッサージしてもらえるなんて得だなぁ」などと鼻の下を伸ばしていると、たちまち背中をズタズタにされて、最悪死んでしまうのだ

世の中、そう旨い話はないということである

聖書におけるハニートラップ

ユダヤ・キリスト教の聖典『旧約聖書』にも、ハニートラップを思わせる物語が記されている

古代イスラエルには、サムソン(Samson)という並外れた怪力を持つ男がいたと伝わる
彼は数多くのペリシテ人(古代パレスチナ沿岸部に住んでいた民族)を打ち破り、士師(支配者)として20年間イスラエルを治めた人物である

しかし、そんなサムソンの前に、デリラ(Delilah)というペリシテ人の女性が現れる

二人は愛し合うようになるが、サムソンを憎むペリシテ人たちはデリラを買収し、銀貨1100枚を報酬に彼の力の秘密を探るよう命じた

デリラは何度もサムソンに問いかけ、ついにその怪力の源が「髪の毛」にあることを突き止める
そしてある夜、サムソンが眠りについている間にデリラはそっと彼の髪を切り落とした

力を失ったサムソンは捕らえられ、ペリシテ人たちの手に引き渡されることとなったのである

このように、古代の神話から江戸の伝承、そして聖書の物語に至るまで、「甘い罠」によって人が破滅へ導かれる話は、戒めとして数多く語り継がれてきた

しかし、時代や文化が変わっても、人の欲望を巧みに突く「ハニートラップ」は決して消えることなく、形を変えて今もなお存在し続けている

参考 :
『古代スラヴの異教の神話』『中陵漫録』『旧約聖書 士師記』他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

「ハニートラップ」という言葉は、誰でも一度は聞いたことがあるだろう

女性が色仕掛けで男性を誘惑し、機密情報などを引き出す、諜報活動の一種である

社会的地位や権力の有無にかかわらず、人の欲望を巧みに利用するこの手口は、古今東西で数多く使われてきた
国家間の諜報戦でも頻繁に用いられ、現代社会においてもたびたび話題となる手法である

こうした「甘い罠」は、神話や伝承の世界にも数多く登場する


古代の神話から江戸の伝承、そして聖書の物語に至るまで、「甘い罠」によって人が破滅へ導かれる話は、戒めとして数多く語り継がれてきた

しかし、時代や文化が変わっても、人の欲望を巧みに突く「ハニートラップ」は決して消えることなく、形を変えて今もなお存在し続けている


 

 

 

妖怪マンガの第一人者・水木しげる氏によるオールカラーの妖怪百科
 

 


妖怪ビジュアル大図鑑の世界編

中世ヨーロッパの王たちは、剣や冠だけでなく「奇跡の手を持つ」と信じられていたことをご存じでしょうか

王が病人に触れることで病を癒すと考えられていた、この神秘的な儀式は「ロイヤルタッチ」と呼ばれ、数百年にわたりイングランドとフランスの王朝で行われてきました

宗教、王権、医学、そして民衆の希望が入り混じったこの儀式は、単なる迷信と片づけられるものではなく、王の正統性と神聖性を人々に印象づける舞台でもあったのです

このロイヤルタッチの起源から最盛期、そして消滅に至るまでを、歴史上の名だたる王たちの足跡をたどりながらご紹介していきます。

ロイヤルタッチの起源

「ロイヤルタッチ」が文献に登場するのは11世紀からですが、その起源はさらに古いと考えられており、諸説あります

フランスでは、カペー朝のロベール2世(敬虔王、在位996〜1031)が、最初に癒しの力を行使したと伝えられています

ただし、これは後世の修道士や年代記作者による記録にすぎず、確実な史料とは言えません
その伝承は12世紀に広まり、ルイ6世やルイ7世といった後代の王も同じ力を持つと信じられるようになり、やがて儀式として定着していきました

とりわけ有名なのが「聖王」ルイ9世(在位1226〜1270)です

ルイ9世は、第7回・第8回十字軍の遠征で知られ、篤い信仰心を持ち、民に深く愛された王でした

彼は当時、ヨーロッパの人々を広く悩ませた「王の悪」と呼ばれた首や皮膚に腫れをつくる病(結核性頸部リンパ節炎)などで苦しむ患者らに触れ、「主があなたを癒されんことを」と祈りをささげました

その光景は奇跡として語り継がれ、彼の死後、教会はルイを聖人に列しました

一方、イングランドでは、エドワード懺悔王(在位1042〜1066)が癒しの力を示したと信じられました

彼もまた死後に聖人とされ、後の王たちがロイヤルタッチを行う際の重要な前例となります

こうしてフランスとイングランドの両国で、王が「癒しの手」を通じて、神に選ばれた存在であることを示す伝統が築かれていったのです

癒しの儀式と民衆の期待

ロイヤルタッチの儀式は、単なる象徴ではありませんでした

それは、王と民衆が直接向き合う場であり、ときに何百人もの病人が王を求めて集まる壮観な催しとなったのです

儀式は厳粛に行われ、病人は教会や宮殿に集められました

司祭が祈祷を唱え、王は一人ひとりに手を触れ、首に「タッチピース」と呼ばれる金貨を掛けました

イングランドでは大天使ミカエルが竜を退治する図柄の「エンジェル金貨」が用いられ、やがて専用の小型メダルが鋳造されました

これらの金貨は「癒しの印」として、生涯大切にされたと伝えられています

イングランドのヘンリー7世(在位1485〜1509)は、王位の正統性を示すためにロイヤルタッチを制度化しましたが、実施規模は小さく、行わない年もありました

本格的に大規模化するのは後の時代で、チャールズ2世は年間四千人を超える病人に触れたことで知られています

一方、フランスでは、ルイ14世(在位1643〜1715)の時代に、儀式が壮麗に行われるようになりました

彼は「太陽王」として絶対王政を確立した人物であり、宗教と王権を結びつける巧みな演出家でもありました

1680年の復活祭には約1600人の病人に触れたと伝えられ、長時間にわたり「王が人々を癒す」姿を示しました

こうした演出は、王の神聖性を強めると同時に、民衆統治の技術としても機能していたのです

揺らぐ信仰と変化の時代

しかし、17世紀から18世紀にかけて、ロイヤルタッチは次第に陰りが見え始めます

その背景には、宗教改革と科学の勃興がありました

イングランドでは16世紀にヘンリー8世がローマ教会と断絶し、イングランド国教会を成立させたことで、「王の神聖性」という考え方が再定義されました。

さらに、ピューリタンの台頭と、1642年に始まった清教徒革命は、王権神授説を根本から問い直すことになります

そして、ロイヤルタッチを行っていたイングランド王の一人、チャールズ1世が清教徒革命で敗れ、1649年に処刑されると、儀式も一時的に途絶えました

しかし1660年にチャールズ2世(在位1660〜165)が王政復古を果たすと、ロイヤルタッチも復活します

亡命中にフランスでルイ14世の儀式を見ていた彼は、即位後に積極的に取り入れ、在位中に延べ9万2千人以上、年間4千人を超える病人に触れたと記録されています

これは慈善行為であると同時に、王政の正統性を再び人々に印象づける手段でもありました

一方で17世紀後半には、近代医学が力をつけ始めていました

感染症や結核といった病気の原因が、神の意志ではなく自然現象にあると理解されるようになり、王の手による癒しは次第に迷信と見なされるようになっていったのです

終焉とその後に残されたもの

18世紀に入ると、ロイヤルタッチは次第に王家の儀礼から姿を消していきました

イングランドのジョージ1世(在位1714〜1727)はドイツ出身のハノーヴァー朝の王で、この慣習を全く信じていませんでした

彼は儀式の廃止を決断し、それ以降、イングランドでは正式な形でロイヤルタッチが行われることはなくなります

フランスでは、ルイ16世が1775年の戴冠式で一度だけロイヤルタッチを行い、約2400人に触れました
しかし、その後は儀式を再開せず、以降フランスでも途絶えていくこととなります

最後にこの儀式を行ったのは、1825年に即位したシャルル10世でした

彼は戴冠式後、伝統に倣って121人の患者に触れましたが、その頃にはすでに「懐古的な行為」と見なされ、多くの人々は信仰よりも懐疑の目で儀式を見ていました

しかしロイヤルタッチは、単なる迷信と片づけられるものではありませんでした
そこには宗教儀礼としての重みと、王権の正統性を示す政治的な意図が込められていたからです

人々にとっても、王が自分たちの苦しみに直接手を差し伸べてくれるという、希望の象徴だったのです

病を癒す手は、剣や王笏に並ぶもうひとつの「支配の道具」であったと言えるでしょう

参考 :
『思わず絶望する!? 知れば知るほど怖い西洋史の裏側』
『The Royal Touch: Sacred Monarchy and Scrofula in England and France, Routledge & Kegan Paul, 1973』他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

中世ヨーロッパの王たちは、剣や冠だけでなく「奇跡の手を持つ」と信じられていたことをご存じでしょうか

王が病人に触れることで病を癒すと考えられていた、この神秘的な儀式は「ロイヤルタッチ」と呼ばれ、数百年にわたりイングランドとフランスの王朝で行われてきました

宗教、王権、医学、そして民衆の希望が入り混じったこの儀式は、単なる迷信と片づけられるものではなく、王の正統性と神聖性を人々に印象づける舞台でもあったのです


癒しの儀式と民衆の期待

ロイヤルタッチの儀式は、単なる象徴ではありませんでした

それは、王と民衆が直接向き合う場であり、ときに何百人もの病人が王を求めて集まる壮観な催しとなったのです

儀式は厳粛に行われ、病人は教会や宮殿に集められました

司祭が祈祷を唱え、王は一人ひとりに手を触れ、首に「タッチピース」と呼ばれる金貨を掛けました

イングランドでは大天使ミカエルが竜を退治する図柄の「エンジェル金貨」が用いられ、やがて専用の小型メダルが鋳造されました

これらの金貨は「癒しの印」として、生涯大切にされたと伝えられています

イングランドのヘンリー7世(在位1485〜1509)は、王位の正統性を示すためにロイヤルタッチを制度化しましたが、実施規模は小さく、行わない年もありました

本格的に大規模化するのは後の時代で、チャールズ2世は年間四千人を超える病人に触れたことで知られています

一方、フランスでは、ルイ14世(在位1643〜1715)の時代に、儀式が壮麗に行われるようになりました

彼は「太陽王」として絶対王政を確立した人物であり、宗教と王権を結びつける巧みな演出家でもありました

1680年の復活祭には約1600人の病人に触れたと伝えられ、長時間にわたり「王が人々を癒す」姿を示しました

こうした演出は、王の神聖性を強めると同時に、民衆統治の技術としても機能していたのです

揺らぐ信仰と変化の時代

しかし、17世紀から18世紀にかけて、ロイヤルタッチは次第に陰りが見え始めます

その背景には、宗教改革と科学の勃興がありました

イングランドでは16世紀にヘンリー8世がローマ教会と断絶し、イングランド国教会を成立させたことで、「王の神聖性」という考え方が再定義されました。

さらに、ピューリタンの台頭と、1642年に始まった清教徒革命は、王権神授説を根本から問い直すことになります

そして、ロイヤルタッチを行っていたイングランド王の一人、チャールズ1世が清教徒革命で敗れ、1649年に処刑されると、儀式も一時的に途絶えました

しかし1660年にチャールズ2世(在位1660〜165)が王政復古を果たすと、ロイヤルタッチも復活します

亡命中にフランスでルイ14世の儀式を見ていた彼は、即位後に積極的に取り入れ、在位中に延べ9万2千人以上、年間4千人を超える病人に触れたと記録されています

これは慈善行為であると同時に、王政の正統性を再び人々に印象づける手段でもありました

一方で17世紀後半には、近代医学が力をつけ始めていました

感染症や結核といった病気の原因が、神の意志ではなく自然現象にあると理解されるようになり、王の手による癒しは次第に迷信と見なされるようになっていったのです

終焉とその後に残されたもの

18世紀に入ると、ロイヤルタッチは次第に王家の儀礼から姿を消していきました

イングランドのジョージ1世(在位1714〜1727)はドイツ出身のハノーヴァー朝の王で、この慣習を全く信じていませんでした

彼は儀式の廃止を決断し、それ以降、イングランドでは正式な形でロイヤルタッチが行われることはなくなります

フランスでは、ルイ16世が1775年の戴冠式で一度だけロイヤルタッチを行い、約2400人に触れました
しかし、その後は儀式を再開せず、以降フランスでも途絶えていくこととなります

最後にこの儀式を行ったのは、1825年に即位したシャルル10世でした

彼は戴冠式後、伝統に倣って121人の患者に触れましたが、その頃にはすでに「懐古的な行為」と見なされ、多くの人々は信仰よりも懐疑の目で儀式を見ていました

しかしロイヤルタッチは、単なる迷信と片づけられるものではありませんでした
そこには宗教儀礼としての重みと、王権の正統性を示す政治的な意図が込められていたからです

人々にとっても、王が自分たちの苦しみに直接手を差し伸べてくれるという、希望の象徴だったのです

病を癒す手は、剣や王笏に並ぶもうひとつの「支配の道具」であったと言えるでしょう


 

 

 


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知られざるヨーロッパの真実をユーモアたっぷりにお届けします
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「比丘尼」の本来の意味は、出家した女性

読者の皆さんは「比丘尼(びくに)」という言葉をご存じでしょうか

比丘尼とは出家した女性、つまり尼さんのことです

現代では宗派によって差はあるものの、「僧侶」と聞くと男性を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか

2017年(平成29年)度の『宗教年鑑』によると、男女比が最も偏っているのは曹洞宗で97対3、最も差が小さい真宗大谷派でも85対15であり、やはり男性僧侶が圧倒的多数を占めています

ところが歴史を遡ると、記録に残る最初の出家者は女性でした

それは584年(敏達天皇13年)のことで、善信尼(ぜんしんに)ら、3人の女性が出家したのです

善信尼は渡来人・司馬達等(しばだっと)の娘であり、有名な仏師・鞍作止利(くらつくりのとり)の叔母にあたります

当時は、百済から仏教が伝来してからまだ30年ほどしか経っておらず、蘇我氏をはじめとする崇仏派と、これに反対する物部氏・中臣氏ら廃仏派が、激しく対立していた時代でした

『日本書紀』には仏を「蕃神」と称する記述も見られ、朝廷内では依然として倭国古来の神々の力も強かったと考えられます

そのため、出家した善信尼らは、当時の人々から仏という神に仕える巫女的な存在とみなされていた可能性もあるのです

聖職者から売春婦へ堕落する

時代が下って鎌倉・室町時代以降になると、比丘尼は尼の姿で諸国を巡り、神仏の功徳を説きながら熊野神社の厄除け護符「牛王(ごおう)」を配り、お布施を得て生活する、いわば布教師のような存在となります

こうした女性たちは、熊野比丘尼(くまのびくに)や、勧進比丘尼(かんじんびくに)と呼ばれていました

当初、彼女たちは熊野の霊験や地獄・極楽の絵巻を解説しつつ念仏を唱えていましたが、やがて「ぴんざさら」という楽器を鳴らしながら歌を歌う形式で勧進を行うようになります

このため、次第に絵解きよりも歌が中心となり、歌比丘尼とも呼ばれるようになりました

そして彼女たちの歌は、しだいに卑俗で挑発的な内容へと変化していったのです

この変化について、江戸後期の戯作者・山東京伝(さんとうきょうでん、1761~1816年)は、随筆『近世奇蹟考』の中で次のように述べています

「昔は脇に挟みし文匣(ぶんこう/ 紙で下張りをし、その上に漆をかけて作った手箱)に巻物を入れて、地獄の絵解きし、血の汚れを忌ませ、不産女(うまずめ)のあはれを泣かするを業とし、年籠りの戻りに烏牛王くばりて、熊野権現のこと触れめきしが、何時の程よりか白粉(おしろい)薄紅をつけて鬢帽子に帯幅広くなし・・・」

【意訳】
「昔の比丘尼たちは、手箱に巻物を入れて持ち歩き、地獄絵を見せては罪の恐ろしさを説き、不産女(子どもを産めず亡くなった女性)の悲しみを語って人々を泣かせることを仕事としていた。そして年の暮れの帰り道には、熊野三山の護符である牛王を配りながら熊野権現のご利益を説いていた。しかし、いつの頃からか白粉や紅をさし、髪を結い上げ、帯も華やかに装うようになってしまった・・・」

ここでいう「烏牛王」とは、熊野三山が発行した「牛王宝印」のことで、半紙大の紙に熊野神の神使・八咫烏(やたがらす)が多数刷り込まれた護符です

熊野の神は虚言を正すと信じられていたため、この護符は起請文にも用いられました

つまり、山東京伝は「かつては神聖な護符を配布していた勧進比丘尼が、やがて歌をうたい歩く歌比丘尼へと変化し、さらに化粧をして俗化し、遊女のようになっていった」と批判的に記しているのです

「売比丘尼」を専門に扱う中宿

こうして、もとは仏法を説く尼僧であった比丘尼も、江戸時代になると、その姿こそ尼僧でありながら、実際には売春を生業とする「売比丘尼」へと変化していきました

その出自ゆえか、当初は僧侶相手の遊興を目的とした、僧侶専門の売春宿に身を置いていたともいわれます

「坊様の 買っていいのは 比丘尼なり」

こんな川柳が残されているように、僧侶たちの女遊びを皮肉る風潮がありました
どうやら江戸時代も下るにつれ、仏教は俗化が進み、享楽に耽る僧侶が少なくなかったようです

やや余談ですが、僧侶の中には男娼を抱える陰間茶屋を利用する者も多かったと伝えられています

さて、売比丘尼は湯屋や岡場所が幕府による度重なる取り締まりを受けたこともあり、かえって需要が高まっていきます
というのも、売比丘尼は特定の場所に定住せず、遊行するかたちで寺院や武家屋敷を訪ね歩いたからです

しかし、こうした流動的な形態も、やがて流行の広まりとともに組織化され、売比丘尼を専門に扱う「中宿(なかやど)」が登場しました

これらの「中宿」は、江戸の繁華街である日本橋・京橋・赤坂などに設けられていたのです

遊女とは一線を画した「売比丘尼」

売比丘尼は遊女の一種ではありましたが、一般の遊女とは決定的に異なる点がありました

それは「前借制」に縛られていなかったということです

そのため、売春行為はあくまで自由意志に基づくものであり、稼いだ収入の中から歩合を「中宿」に納めればよい、という仕組みでした

こうした売比丘尼の最盛期は、元禄年間(1688年~1704年)の頃とされています
ところが、江戸市中の私娼の中にも比丘尼に転じる者が現れ、やがて幕府の取り締まりは彼女たちにも及ぶようになります

それでも需要の大きかった売比丘尼は、表立って活動することを避けながらも営業を続けました

しかし、1741年(寛保元年)に「中宿」で武士と比丘尼の心中事件が起こり、これを契機に幕府による徹底的な弾圧を受け、次第に姿を消していきます

もともと比丘尼は、飛鳥時代初期に倭国で初めて出家した女性に始まり、鎌倉・室町時代までは純粋に仏法を説く聖職者でした

ところが江戸時代に入ると、その姿は大きく変わり、一般の遊女とは異なる独自の売春形態を持つ存在へと転じていったのです

※参考文献
永井義夫著 『江戸の売春』河出書房新社刊 他
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

「比丘尼」の本来の意味は、出家した女性

読者の皆さんは「比丘尼(びくに)」という言葉をご存じでしょうか

比丘尼とは出家した女性、つまり尼さんのことです

現代では宗派によって差はあるものの、「僧侶」と聞くと男性を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか

2017年(平成29年)度の『宗教年鑑』によると、男女比が最も偏っているのは曹洞宗で97対3、最も差が小さい真宗大谷派でも85対15であり、やはり男性僧侶が圧倒的多数を占めています

ところが歴史を遡ると、記録に残る最初の出家者は女性でした

それは584年(敏達天皇13年)のことで、善信尼(ぜんしんに)ら、3人の女性が出家したのです

善信尼は渡来人・司馬達等(しばだっと)の娘であり、有名な仏師・鞍作止利(くらつくりのとり)の叔母にあたります

当時は、百済から仏教が伝来してからまだ30年ほどしか経っておらず、蘇我氏をはじめとする崇仏派と、これに反対する物部氏・中臣氏ら廃仏派が、激しく対立していた時代でした

『日本書紀』には仏を「蕃神」と称する記述も見られ、朝廷内では依然として倭国古来の神々の力も強かったと考えられます

そのため、出家した善信尼らは、当時の人々から仏という神に仕える巫女的な存在とみなされていた可能性もあるのです


遊女とは一線を画した「売比丘尼」

売比丘尼は遊女の一種ではありましたが、一般の遊女とは決定的に異なる点がありました

それは「前借制」に縛られていなかったということです

そのため、売春行為はあくまで自由意志に基づくものであり、稼いだ収入の中から歩合を「中宿」に納めればよい、という仕組みでした

こうした売比丘尼の最盛期は、元禄年間(1688年~1704年)の頃とされています
ところが、江戸市中の私娼の中にも比丘尼に転じる者が現れ、やがて幕府の取り締まりは彼女たちにも及ぶようになります

それでも需要の大きかった売比丘尼は、表立って活動することを避けながらも営業を続けました

しかし、1741年(寛保元年)に「中宿」で武士と比丘尼の心中事件が起こり、これを契機に幕府による徹底的な弾圧を受け、次第に姿を消していきます

もともと比丘尼は、飛鳥時代初期に倭国で初めて出家した女性に始まり、鎌倉・室町時代までは純粋に仏法を説く聖職者でした

ところが江戸時代に入ると、その姿は大きく変わり、一般の遊女とは異なる独自の売春形態を持つ存在へと転じていったのです


 

 


性に奔放だった江戸時代
人々は“性"を謳歌していた
武家の妻は実は貞淑ではなく平気で密通を重ね、男たちは夜ごと夜這いを行い、快楽を貪った
夫婦ともなれば、悦楽を極めんと様々な性技を追求した

江戸の性文化に精通した筆者が、“大江戸八百八町の性事情"を紹介する
当時ならではの性への興味・欲求が生み出した生き生きとした「下半身の喜怒哀楽の物語」