メインウェーブ日記 -4ページ目

メインウェーブ日記

気になるニュースやスポーツ、さらにお小遣いサイトやアフィリエイトなどのネットビジネスと大相撲、競馬、ビートルズなど中心

ホレーショ・ネルソンは、18世紀から19世紀初頭にかけて活躍したイギリス海軍の提督である

サン・ビセンテ岬の海戦、ナイルの海戦、そしてトラファルガーの海戦と、ヨーロッパの運命を左右する数々の決戦で勝利を収め、名声を不動のものとした

国民からは熱烈に支持され、死後には国家的英雄として称えられる存在となった

ネルソンが「イギリス海軍の英雄」と称されるまでの軌跡を、その人生とともに辿っていきたい

幼少期からの勇敢さ

ホレーショ・ネルソンは1758年、イギリス東部ノーフォークの牧師の家に生まれた

11人の兄弟姉妹の6番目で、家を継ぐ権利は長男に限られていたため、自らの道を切り開かねばならなかった

頼りとしたのは海軍軍人であった叔父であり、これが彼を大海原へと導くきっかけとなる

体は虚弱で病気がちだったが、気性は負けん気に満ちていた

1773年、若きネルソンは北極探検に参加し、氷原でホッキョクグマを追いかけて撃とうとしたという

病弱な少年が、命知らずの行動で仲間を驚かせたこの出来事は、後の「恐れを知らぬ提督ネルソン」の原点ともいえるだろう

フランス革命後の快進撃

フランス革命が1789年に勃発すると、その余波は瞬く間にヨーロッパ全体へ広がっていった

革命政府の拡張政策に各国が警戒を強め、ついに1793年、イギリスもフランスに宣戦布告

ここから長きにわたる英仏戦争が始まった

ネルソンは地中海方面で奮戦し、1794年のカルヴィ包囲戦では砲弾の破片を浴びて右目の視力を失った

さらに1797年、カナリア諸島サンタ・クルス・デ・テネリフェ攻撃で激しい銃撃を受け、右腕を切断する重傷を負う

視力と片腕を失いながらも、彼は失意に沈むどころか、ますます戦意を燃やし続けた

そして1798年、エジプト遠征中のナポレオン艦隊がアブキール湾に停泊しているとの報を受けると、ネルソンは夜を衝いて突入する※ナイルの海戦

イギリス艦隊は敵の両舷を挟撃し、仏旗艦ロリアンは大爆発を起こして沈没
ほとんどのフランス艦が壊滅し、ナポレオンの野望に大きな打撃を与えた

ナイルの海戦の大勝利はヨーロッパ全土を震撼させ、ネルソンの名は一躍「祖国の救い主」として轟き、彼はイギリス貴族に列せられることとなった

英雄の愛

若き日のネルソンは、勝気な性格だけでなく整った容貌の持ち主としても知られていた

戦場での輝かしい活躍とともに、彼は瞬く間に英雄視される存在となったが、名声の陰には常に囁かれる噂があった

その中心にいたのが、エマ・ハミルトンである

エマは貧しい家に生まれ、若くして画家や貴族たちのモデルや愛人を経ながら華やかな社交界に登場し、やがて60歳を迎えた駐ナポリ英国大使ウィリアム・ハミルトン卿の妻となった女性だった

1798年、ナイルの海戦で大怪我を負ったネルソンがナポリで療養した際、彼を看病したのがエマである

やがて二人は深い関係に陥り、ついにはハミルトン卿も含めた三人で社交界に姿を現すという異例の関係を築いた

この「奇妙な同盟」はヨーロッパ中の話題となり、英雄ネルソンを称賛する声と同じくらい、非難と好奇の眼差しを集めることとなった

最後の戦い

ネルソンはしばしの間、エマと娘ホレイシアと共に束の間の安らぎを過ごした

しかし1805年、ナポレオンの覇権を賭けた大決戦が迫る

フランスは同盟国スペインの艦隊を糾合し、ヴィルヌーヴ提督の指揮のもと三十三隻の大艦隊を編成

対するイギリスはネルソン率いる二十七隻

数で劣るイギリスに勝機はあるのか、全ヨーロッパが息をのんだ

10月21日、トラファルガー沖

ネルソンは独自の戦術「ネルソン・タッチ」を駆使し、敵の横隊を縦陣で切り裂いて分断した

各個撃破を狙うこの果敢な戦法は、彼の指揮の真骨頂であった

数的不利を覆したイギリス艦隊は連合軍を次々と打ち破り、海戦史に残る大勝利を手にした

この勝利が、その後一世紀にわたりイギリスが「海の覇者」として君臨する礎となった

しかし栄光のただ中で、ネルソンは倒れた。
敵艦ルドゥターブルのマスト上から放たれた銃弾がネルソンの肩を貫き、背骨に達したのである

船室へ運ばれた彼は静かに最期を迎え、「私は義務を果たした」と言葉を残したという
享年47

通常、戦死者は海に葬られるのが慣例だった
だが、国民的英雄ネルソンは異例の扱いを受け、遺体はブランデーに浸されて母国へと運ばれた

帰国時に液体の量が減っていたことから「水兵たちが勇気を授かろうと密かに口をつけた」との噂が広まり、やがてそれは「ネルソンの血」と呼ばれる伝説となった

のちにイギリス海軍の常用酒であるラム酒と結び付けられ、今でもラム酒を「ネルソンの血」と呼ぶことがあるという

トラファルガーの海戦とナイルの海戦で連敗を喫したナポレオンは、ついにイギリス本土への侵攻を断念した

以後、大海原はイギリスのものとなり、その覇権は一世紀以上にわたり揺るがなかった

12歳で海軍に身を投じて以来、幾多の傷を負いながらも最後まで祖国のために戦い抜いたネルソン

その名は今なお「イギリス海軍の英雄」として語り継がれ、海に生きる者たちの心を鼓舞し続けている

参考 :
【ネルソン提督大事典】コリンホワイト(著), Colin White (原名),山本史郎 (翻訳)他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

ホレーショ・ネルソンは、18世紀から19世紀初頭にかけて活躍したイギリス海軍の提督である

サン・ビセンテ岬の海戦、ナイルの海戦、そしてトラファルガーの海戦と、ヨーロッパの運命を左右する数々の決戦で勝利を収め、名声を不動のものとした

国民からは熱烈に支持され、死後には国家的英雄として称えられる存在となった


1805年、ナポレオンの覇権を賭けた大決戦が迫る

フランスは同盟国スペインの艦隊を糾合し、ヴィルヌーヴ提督の指揮のもと三十三隻の大艦隊を編成

対するイギリスはネルソン率いる二十七隻

数で劣るイギリスに勝機はあるのか、全ヨーロッパが息をのんだ

10月21日、トラファルガー沖

ネルソンは独自の戦術「ネルソン・タッチ」を駆使し、敵の横隊を縦陣で切り裂いて分断した

各個撃破を狙うこの果敢な戦法は、彼の指揮の真骨頂であった

数的不利を覆したイギリス艦隊は連合軍を次々と打ち破り、海戦史に残る大勝利を手にした

この勝利が、その後一世紀にわたりイギリスが「海の覇者」として君臨する礎となった

しかし栄光のただ中で、ネルソンは倒れた
敵艦ルドゥターブルのマスト上から放たれた銃弾がネルソンの肩を貫き、背骨に達したのである

船室へ運ばれた彼は静かに最期を迎え、「私は義務を果たした」と言葉を残したという
享年47

通常、戦死者は海に葬られるのが慣例だった
だが、国民的英雄ネルソンは異例の扱いを受け、遺体はブランデーに浸されて母国へと運ばれた

帰国時に液体の量が減っていたことから「水兵たちが勇気を授かろうと密かに口をつけた」との噂が広まり、やがてそれは「ネルソンの血」と呼ばれる伝説となった

のちにイギリス海軍の常用酒であるラム酒と結び付けられ、今でもラム酒を「ネルソンの血」と呼ぶことがあるという

トラファルガーの海戦とナイルの海戦で連敗を喫したナポレオンは、ついにイギリス本土への侵攻を断念した

以後、大海原はイギリスのものとなり、その覇権は一世紀以上にわたり揺るがなかった

12歳で海軍に身を投じて以来、幾多の傷を負いながらも最後まで祖国のために戦い抜いたネルソン

その名は今なお「イギリス海軍の英雄」として語り継がれ、海に生きる者たちの心を鼓舞し続けている


 

 


「常勝将軍」といわれたナポレオンに勝つなどイギリスの国民的英雄・ネルソン提督の大事典

睡眠は人間に不可欠な生理的欲求のひとつである

十分な眠りを欠けば肉体も精神も休まらず、やがて疲労は重大な過失や疾患の原因となる

成人には通常7~9時間の睡眠が必要とされるが、日本人の平均睡眠時間は世界的に見ても短く、慢性的な寝不足が社会問題とされている

こうした「眠り」は、神話や幻想の世界においてもしばしば主題とされてきた

人間の眠りを妨げる妖怪じみた存在から、逆に安眠をもたらす慈しみ深い精霊まで、その姿は多彩である

各地に伝わる「眠り」にまつわる怪異伝承を紹介していく


中東・コーカサス地方における伝承

古代ペルシャ(現在のイラン)は、ゾロアスター教発祥の地として広く知られている

ゾロアスター教は「善と悪の永遠の闘争」を説く宗教であり、後世の神話体系にも大きな影響を与えた
そこに登場する悪魔たちは「ダエーワ」と総称され、あらゆる災厄をもたらす存在として恐れられた

その中でも人間の眠りを支配する存在が、ブーシュヤンスター(Bushyasta)である

聖典『アヴェスター』によれば、彼女は黄緑色の痩せ細った身体と異様に長い腕を持つ女悪魔で、夜明けの頃に人間の枕元へ現れ「眠り続けよ」と囁く

すると人はさらに深い眠りに落ち、目覚めることができなくなるのだという

一見すれば心地よい安眠をもたらす守護者のようにも映るが、夜明けは人々が活動を始めるべき刻である
そこで再び眠りに沈められれば、遅刻や怠惰を招くのは必然であった

ゾロアスター教において早起きは大きな徳目とされていたため、目覚めを妨げるブーシュヤンスターは、人間を怠惰へと堕落させる悪魔として憎まれたのである

一方、隣国アルメニアにも、眠りにまつわる怪異が伝わる

イラン学者ジェームズ・ロバート・ラッセルの著作『Zoroastrianism in Armenia』によれば、ムラプ(Mrapʻ)と呼ばれる悪魔が人間を眠りへと誘う存在として恐れられた

古代アルメニアでは「眠ること」自体が忌むべき行為と考えられていたとされ、その象徴であるムラプは人々にとって不倶戴天の敵とみなされたのである

さらに同書には、悪夢を見せる「クピリク(Xpil(i)k)」や、眠る人間の首を締め上げる「ガボス(Gabos)」など、睡眠にまつわる悪霊の存在が多数記録されている

日本における伝承

天保十二年(1841)に刊行された怪談集『絵本百物語』には、寝肥(ねぶとり)と呼ばれる奇病の記録が見える

それは女性に特有の病とされ、ただ眠っているだけで身体が異常に肥え、やがては百貫を超える巨体へと変貌してしまうという

寝肥に罹った女は稲妻のごとき轟音のイビキをかき、かつての女性的魅力をすべて失い、やがては男から顧みられなくなると描かれている

この「寝肥」は、単なる怪異譚というよりも、嫁いだ後に家事を怠り、寝てばかりいる怠惰な妻を風刺した寓話であったとも考えられる

江戸後期の社会風俗を映し出した、民間的な教訓譚の一端といえるだろう

ギリシャ神話の眠りの神

ギリシャ神話は、世界で最も広く知られる神話体系のひとつである

その物語群には、睡眠を司る神々や怪異の伝承も数多く残されている

眠りそのものを擬人化した神として名高いのが、ヒュプノス(Hyphnos)である

彼は冥界にある館に住み、兄である死神タナトス(Thanatos)と共に暮らしているとされる

タナトスが「絶対の死」を象徴する恐怖の神であるのに対し、弟ヒュプノスは安らぎをもたらす存在であり、人々に優しい眠りを授ける神として敬われた

その力は極めて強大で、いかなる者であっても瞬時に眠りへと誘うことができたという
主神ゼウスすら彼の眠りの力に抗うことはできず、深い眠気に屈してしまったと伝えられている

また、睡眠と並んで語られるのが「夢」である

夢を司る神はオネイロス(Oneiros)と呼ばれ、数多くの精霊的存在がその名の下に従っていた
中でも著名なのが三柱「モルペウス、イケロス、パンタソス」である

モルペウスは「人の姿を伴う夢」を見せる神で、自在にあらゆる人物へと姿を変えることができた

彼は黒檀の寝台に横たわり、ケシの花に囲まれて眠るとされ、その名は麻薬モルヒネの語源となった

イケロスは「動物が現れる夢」を与えるが、それは可愛らしい幻想ではなく、しばしばおぞましい悪夢であったという

パンタソスは「無機物や抽象的な夢」をもたらし、現実離れした幻影を人の脳裏に映し出したと伝えられている

おわりに

古今東西の伝承に登場する「眠りの怪異」は、眠りが単なる生理現象ではなく、人々にとって神秘的で不可思議なものと感じられてきた証ともいえるだろう
睡眠は肉体を癒すと同時に、魂を異界へと導く門でもあった

だからこそ、その奥には悪魔や精霊、あるいは神々の姿が映し出され、物語として語り継がれてきたのである

私たちが今も夢や眠りに不思議な魅力を感じるのは、そうした古代からの感覚を無意識に受け継いでいるからかもしれない

参考 :『アヴェスター』『Zoroastrianism in Armenia』『絵本百物語』他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

睡眠は人間に不可欠な生理的欲求のひとつである

十分な眠りを欠けば肉体も精神も休まらず、やがて疲労は重大な過失や疾患の原因となる

成人には通常7~9時間の睡眠が必要とされるが、日本人の平均睡眠時間は世界的に見ても短く、慢性的な寝不足が社会問題とされている

こうした「眠り」は、神話や幻想の世界においてもしばしば主題とされてきた

人間の眠りを妨げる妖怪じみた存在から、逆に安眠をもたらす慈しみ深い精霊まで、その姿は多彩である


古今東西の伝承に登場する「眠りの怪異」は、眠りが単なる生理現象ではなく、人々にとって神秘的で不可思議なものと感じられてきた証ともいえるだろう
睡眠は肉体を癒すと同時に、魂を異界へと導く門でもあった

だからこそ、その奥には悪魔や精霊、あるいは神々の姿が映し出され、物語として語り継がれてきたのである

私たちが今も夢や眠りに不思議な魅力を感じるのは、そうした古代からの感覚を無意識に受け継いでいるからかもしれない


 

 


妖怪マンガの第一人者・水木しげる氏によるオールカラーの妖怪百科
 

 


妖怪ビジュアル大図鑑の世界編

清朝末期の動乱と西太后の専権

19世紀末、中国の清朝は列強の圧力にさらされ、かつての強大な国力を失いつつあった

アヘン戦争やアロー戦争を経て、外国勢力は次々と中国の港や利権を切り取っていった

こうした衰退の只中にあったのが、清の第11代皇帝・光緒帝(こうしょてい)の時代である

光緒帝は1875年に3歳で即位したが、実権は伯母にあたる西太后が握っていた

西太后は、前の皇帝である同治帝が若くして亡くなったあと、幼い光緒帝を後継に立て、自らが後見人として実権を握った

宮廷では御簾(みす)の奥に座り、皇帝に代わって政務を決裁する「垂簾聴政(すいれんちょうせい)」という形式がとられた
これは名目上は皇帝が政務を行う姿を保ちつつ、実際には太后が国の方針を決めるやり方であり、西太后はこの仕組みを用いて清朝の政治を思うままに操ったのである

光緒帝が成長した後も、彼女の影響力は揺るがなかった

彼女は自らの権力基盤を守ることを第一とし、皇帝の独自性を強める動きを厳しく警戒した
光緒帝が近代化と政治改革を打ち出すようになると、西太后は危機感を募らせ、その背後にいた側近や妃嬪にまで疑いの目を向けるようになった

後に悲劇の妃となる珍妃(ちんひ)が生きたのは、こうした緊張した時代であった

列強の圧迫と国内の改革のせめぎ合い、その板挟みの中で皇帝の最愛の妃となり、やがて権力闘争に巻き込まれていくのである


光緒帝に最も愛された才色兼備の「珍妃」の素顔

珍妃は、満洲八旗の名門・他他拉氏(タタラし)の出身で、1876年に生まれた

父は戸部右侍郎の長叙、母は侍妾の趙氏であった
姉の瑾妃(きんひ)とともに、1889年の「選秀女」と呼ばれる宮廷の后妃選抜に参加し、姉は瑾嬪、妹の珍妃は珍嬪に任じられた
わずか13歳の時である

宮中に入った珍妃は、ただ美しいだけではなかった
書や絵を得意とし、囲碁にも通じ、さらには洋風の文化にも関心を示した

当時、写真機は中国でまだ新しいものであったが、珍妃はこれをいち早く手に入れ、宮中に導入したと伝わる

宮中でカメラを持ち込むこと自体が極めて異例であり、彼女の新しいものを恐れぬ気性がうかがえる

こうした彼女の個性は、光緒帝の心を強く惹きつけた

帝はもともと西太后の強い支配のもとで自由を奪われがちであったが、珍妃と過ごす時間の中で安らぎを見いだしたとされる

珍妃は帝の身近にあって日常を共にし、ときには政治の在り方についても意見を述べ、改革への意欲を後押しした

一方で、性格が穏やかで控えめだった姉の瑾妃とは対照的に、珍妃は活発で物怖じせず、時に言葉にとげを含むこともあった

だが光緒帝にとっては、他の誰よりも自分を理解してくれる存在であり、最も寵愛した后妃であった

若くして才色を兼ね備え、時代の新しい風を取り入れようとした珍妃

彼女の存在は、閉塞した宮廷においてひときわ異彩を放っていたのである

西太后との確執と幽閉生活

入内当初、珍妃はその書の腕前や機知を西太后にも気に入られ、しばしば代筆を任されるほどであった

しかし、光緒帝からの寵愛が際立つにつれて、次第に西太后から疎まれるようになっていった

珍妃は光緒帝とともに新しい国づくりを夢見ており、帝の改革への意欲を支えていた
しかし、西太后にとってはこれは危険な兆しであった。皇帝の意思が強まり、自身の支配が揺らぐことを恐れたからである

やがて珍妃の行動は「宮廷規範を乱すもの」として糾弾されるようになる

光緒20年(1894年)、珍妃が懐妊3ヶ月だったとき、西太后は彼女に廷杖の刑(裸での棒打ち)を科した
めった打ちにされた珍妃は流産し、以後は婦人科の病に悩まされることとなる

この事件に連座し、珍妃に仕えていた宦官や女官たち、数十名までもが処刑され、彼女の周囲は徹底的に粛清された

さらに、珍妃の兄が官職売買に関わったとされる事件が発覚すると、西太后は珍妃の宮殿を徹底的に調べ、帳簿を押収
これを口実に珍妃は一時、身分を「貴人」に降格される屈辱を受けた

決定的な転機となったのは、1898年の「戊戌(ぼじゅつ)の政変」である

光緒帝は、康有為(こうゆうい)や梁啓超(りょうけいちょう)といった改革派の学者を登用し、教育制度や官僚制、軍備、産業に至るまで大規模な改革を宣言した(戊戌の変法)

その構想は、日本の明治維新にも比せられる「立憲君主制を志向した近代化改革」であり、皇帝の権威を保ちながらも清朝を近代国家へと転換させようとする試みであった

珍妃も帝を励まし、背後から支えたとされる

しかし、この急進的な改革は保守派の強い反発を招き、西太后はクーデターを断行した

こうして光緒帝は北京の離宮、瀛台(えいだい)に幽閉され、改革派の要人たちは次々と粛清されてしまった
この改革はわずか103日間しか続かなかったため、「百日維新」とも呼ばれている

珍妃もまた連座し、冷宮の一つとされた「北三所」と呼ばれる一室に閉じ込められた
※冷宮(らんごん)とは、皇帝の寵愛を失った妃嬪を幽閉するためにあてられた区画の総称で、紫禁城内の空き殿舎や一室が、その都度「冷宮」として使われた

かつて改革を語り、光緒帝と未来を夢見た才女は、暗い冷宮の中で孤独に日々を過ごすことを強いられたのである

「義和団の乱」勃発

1900年夏、北京の都は戦火に包まれていた

当時、中国各地では外国勢力の横暴やキリスト教布教への反発から、民衆が「義和団」と呼ばれる集団を結成し、排外運動を繰り広げていた

やがてこの蜂起は「義和団の乱」と呼ばれ、勢いを増して北京にまで押し寄せたのである

西太后はこれを利用できると考え、一時は義和団に肩入れして列強に宣戦を布告した
だが義和団は統制を欠き、暴徒化

怒った列強は、八カ国連合軍を編成して進軍し、北京城下へと迫ったのである

形勢不利と見た西太后は、やむなく光緒帝を伴って西安への逃亡を決断した

その出立を前に、長年疎ましく思ってきた珍妃の処遇が問題となった

そして西太后は、ついに処刑を命じたのである

名目としては「幽閉中に意見を述べて西太后を怒らせたため」という説や、「もし敵に捕らえられ辱められては皇室の面目に関わる」として殉節を理由に処刑が命じられたとも伝わる

珍妃の最後 井戸に消えた若き命

実行命令を受けたのは、宦官の崔玉貴(さいぎょくき)たちであった

珍妃は幽閉されていた北三所から呼び出され、夜明け前の静まり返った宮中を連れ出された

着いた先は、紫禁城の一角にある古井戸の前だった

井戸の石枠には苔がびっしりと生え、長いあいだ使われていなかったせいで、周囲にはひんやりとした湿気が漂っていたという

珍妃は当時、まだ24歳の若さであった

珍妃は最期に「一度だけ老仏爺(西太后)に会いたい」と願ったが、その望みは聞き入れられなかったという

井戸の縁に追い詰められた珍妃は、崔玉貴の手で突き落とされ、さらに石が投げ込まれて命を絶たれたと伝えられる

宮廷にあって才色兼備と称えられ、光緒帝からも厚く寵愛されていたが、その命は理不尽に断たれたのである

翌日、井戸は石と土で封じられ、表向きには「珍妃は病没した」との風聞が流された
幽閉中の光緒帝は、最愛の妃の死をただちに知ることもできなかった

一年後、清が北京に戻ると、西太后は世論を憚り、珍妃の遺骸を井戸から引き上げさせた

遺骨は北京西郊の田村に仮葬され、のち1913年、光緒帝の陵墓である崇陵の妃園寝(皇帝の妃を葬る区画)へ改葬された

死後には「恪順皇貴妃」の諡号が与えられたが、それはあまりにも遅い名誉回復であった

現在、故宮を訪れると「珍妃井」と呼ばれるその井戸が残されている

ただし井戸は後世に縮小・改修されており、珍妃が落とされた当時の姿そのままではない

それでも、この場所が若き妃の最期の舞台であったことに変わりはない

皇帝に寄り添い、改革を後押ししながらも、権力の渦に翻弄されて命を絶たれた珍妃の悲劇は、今なお語り継がれている

参考 : 『清史稿』王照『方家園雑詠紀事』『清実録 徳宗景皇帝実録』他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

清朝末期の動乱と西太后の専権

19世紀末、中国の清朝は列強の圧力にさらされ、かつての強大な国力を失いつつあった

アヘン戦争やアロー戦争を経て、外国勢力は次々と中国の港や利権を切り取っていった

こうした衰退の只中にあったのが、清の第11代皇帝・光緒帝(こうしょてい)の時代である

光緒帝は1875年に3歳で即位したが、実権は伯母にあたる西太后が握っていた

西太后は、前の皇帝である同治帝が若くして亡くなったあと、幼い光緒帝を後継に立て、自らが後見人として実権を握った

宮廷では御簾(みす)の奥に座り、皇帝に代わって政務を決裁する「垂簾聴政(すいれんちょうせい)」という形式がとられた
これは名目上は皇帝が政務を行う姿を保ちつつ、実際には太后が国の方針を決めるやり方であり、西太后はこの仕組みを用いて清朝の政治を思うままに操ったのである

光緒帝が成長した後も、彼女の影響力は揺るがなかった

彼女は自らの権力基盤を守ることを第一とし、皇帝の独自性を強める動きを厳しく警戒した
光緒帝が近代化と政治改革を打ち出すようになると、西太后は危機感を募らせ、その背後にいた側近や妃嬪にまで疑いの目を向けるようになった

後に悲劇の妃となる珍妃(ちんひ)が生きたのは、こうした緊張した時代であった

列強の圧迫と国内の改革のせめぎ合い、その板挟みの中で皇帝の最愛の妃となり、やがて権力闘争に巻き込まれていくのである


西太后との確執と幽閉生活

入内当初、珍妃はその書の腕前や機知を西太后にも気に入られ、しばしば代筆を任されるほどであった

しかし、光緒帝からの寵愛が際立つにつれて、次第に西太后から疎まれるようになっていった

珍妃は光緒帝とともに新しい国づくりを夢見ており、帝の改革への意欲を支えていた
しかし、西太后にとってはこれは危険な兆しであった。皇帝の意思が強まり、自身の支配が揺らぐことを恐れたからである

やがて珍妃の行動は「宮廷規範を乱すもの」として糾弾されるようになる

光緒20年(1894年)、珍妃が懐妊3ヶ月だったとき、西太后は彼女に廷杖の刑(裸での棒打ち)を科した
めった打ちにされた珍妃は流産し、以後は婦人科の病に悩まされることとなる

この事件に連座し、珍妃に仕えていた宦官や女官たち、数十名までもが処刑され、彼女の周囲は徹底的に粛清された

さらに、珍妃の兄が官職売買に関わったとされる事件が発覚すると、西太后は珍妃の宮殿を徹底的に調べ、帳簿を押収
これを口実に珍妃は一時、身分を「貴人」に降格される屈辱を受けた

決定的な転機となったのは、1898年の「戊戌(ぼじゅつ)の政変」である

光緒帝は、康有為(こうゆうい)や梁啓超(りょうけいちょう)といった改革派の学者を登用し、教育制度や官僚制、軍備、産業に至るまで大規模な改革を宣言した(戊戌の変法)

その構想は、日本の明治維新にも比せられる「立憲君主制を志向した近代化改革」であり、皇帝の権威を保ちながらも清朝を近代国家へと転換させようとする試みであった

珍妃も帝を励まし、背後から支えたとされる

しかし、この急進的な改革は保守派の強い反発を招き、西太后はクーデターを断行した

こうして光緒帝は北京の離宮、瀛台(えいだい)に幽閉され、改革派の要人たちは次々と粛清されてしまった
この改革はわずか103日間しか続かなかったため、「百日維新」とも呼ばれている

珍妃もまた連座し、冷宮の一つとされた「北三所」と呼ばれる一室に閉じ込められた
※冷宮(らんごん)とは、皇帝の寵愛を失った妃嬪を幽閉するためにあてられた区画の総称で、紫禁城内の空き殿舎や一室が、その都度「冷宮」として使われた

かつて改革を語り、光緒帝と未来を夢見た才女は、暗い冷宮の中で孤独に日々を過ごすことを強いられたのである

「義和団の乱」勃発

1900年夏、北京の都は戦火に包まれていた

当時、中国各地では外国勢力の横暴やキリスト教布教への反発から、民衆が「義和団」と呼ばれる集団を結成し、排外運動を繰り広げていた

やがてこの蜂起は「義和団の乱」と呼ばれ、勢いを増して北京にまで押し寄せたのである

西太后はこれを利用できると考え、一時は義和団に肩入れして列強に宣戦を布告した
だが義和団は統制を欠き、暴徒化

怒った列強は、八カ国連合軍を編成して進軍し、北京城下へと迫ったのである

形勢不利と見た西太后は、やむなく光緒帝を伴って西安への逃亡を決断した

その出立を前に、長年疎ましく思ってきた珍妃の処遇が問題となった

そして西太后は、ついに処刑を命じたのである

名目としては「幽閉中に意見を述べて西太后を怒らせたため」という説や、「もし敵に捕らえられ辱められては皇室の面目に関わる」として殉節を理由に処刑が命じられたとも伝わる

珍妃の最後 井戸に消えた若き命

実行命令を受けたのは、宦官の崔玉貴(さいぎょくき)たちであった

珍妃は幽閉されていた北三所から呼び出され、夜明け前の静まり返った宮中を連れ出された

着いた先は、紫禁城の一角にある古井戸の前だった

井戸の石枠には苔がびっしりと生え、長いあいだ使われていなかったせいで、周囲にはひんやりとした湿気が漂っていたという

珍妃は当時、まだ24歳の若さであった

珍妃は最期に「一度だけ老仏爺(西太后)に会いたい」と願ったが、その望みは聞き入れられなかったという

井戸の縁に追い詰められた珍妃は、崔玉貴の手で突き落とされ、さらに石が投げ込まれて命を絶たれたと伝えられる

宮廷にあって才色兼備と称えられ、光緒帝からも厚く寵愛されていたが、その命は理不尽に断たれたのである

翌日、井戸は石と土で封じられ、表向きには「珍妃は病没した」との風聞が流された
幽閉中の光緒帝は、最愛の妃の死をただちに知ることもできなかった

一年後、清が北京に戻ると、西太后は世論を憚り、珍妃の遺骸を井戸から引き上げさせた

遺骨は北京西郊の田村に仮葬され、のち1913年、光緒帝の陵墓である崇陵の妃園寝(皇帝の妃を葬る区画)へ改葬された

死後には「恪順皇貴妃」の諡号が与えられたが、それはあまりにも遅い名誉回復であった

現在、故宮を訪れると「珍妃井」と呼ばれるその井戸が残されている

ただし井戸は後世に縮小・改修されており、珍妃が落とされた当時の姿そのままではない

それでも、この場所が若き妃の最期の舞台であったことに変わりはない

皇帝に寄り添い、改革を後押ししながらも、権力の渦に翻弄されて命を絶たれた珍妃の悲劇は、今なお語り継がれている


 

 


清朝は中国最後の王朝
北方の異民族(漢人以外)がどのように中国を統治したのか
ヌルハチからラストエンペラーまで栄光と苦悩の270年

酸味のある食材のメリットとデメリット
体温の低い人は胃酸の分泌が少ない

酢や梅干し、レモンに代表される柑橘系の果物など、酸味のある食材にはヘルシーなイメージがあると思います
また、何となく体調や胃腸の具合が思わしくない、そんなときに酸っぱい物が欲しくなる人もいるのではないでしょうか

クエン酸をはじめとする酸味成分には、体内の老廃物を排出する効用があり、疲労回復効果も認められています
また、胃酸の分泌を高めて胃の働きを活発にするため、みなさんが感覚的に酸味を欲するのは正しいことといえます

ただし、胃にとっては必ずしも万能というわけではありません
とくに胃の粘膜が薄くなっている状態で、酸味によって胃酸の分泌が促進されれば、「胃が荒れる」原因をつくってしまうからです
肝心なのは胃粘膜と胃酸の量のバランスがとれていること。
この2つがもともと不足気味の人は、必要以上に酸味をとることはおすすめしません

目安としては「体が冷えている、汗をかきにくい、体温が低い」、こんな傾向がある人は注意してください
これらは水分代謝の悪い人に見られる症状で、体内の水分がスムーズに巡らないことが胃粘膜や胃酸、汗などの分泌物を少なくしています
逆に水分代謝が良好な人は、胃粘膜や胃酸の分泌も盛んなため、酸っぱい物も問題ありません
胃のムカムカを酸味食材ですっきりさせるのもいいでしょう


ヘルシーな「酸味食材」は万能ではない!?
酸味のある食材とは
レモン・オレンジ・グレープフルーツ・梅干し・酢・パイナップル・キウイフルーツ・ヨーグルトなど

(メリット)
● 消化促進
● 体内の老廃物を排出
● 疲労回復
● 胃酸の分泌を高めて活発にする
● 食欲増進
● 消化酵素を含む唾液の分泌を促し、消化を助ける

(デメリット)

● 胃の粘膜が薄いと胃が荒れてしまう可能性も
● とりすぎると胃酸の分泌が過剰になり、胸やけ、胃痛の原因に

酸っぱい物が向くタイプ
・体温が高い
・食欲旺盛で健康体
・発汗もスムーズ

▽理由
水分代謝が盛んなため、胃の粘膜や胃酸、汗の分泌も活発に行なわれる

酸っぱい物が向かないタイプ
・いつも体が冷えている
・体温が低い
・汗をかきにくい

▽理由
水分代謝がうまく行われないため、胃の粘膜や胃酸の分泌も少なく不足しがち

胃酸が少なすぎる人にもおすすめ
殺菌作用のある胃酸が少ないと、「細菌」が胃で殺菌されず、腸へ届きやすくなって腸内環境が悪化する原因に
適度に酸っぱい物を食べるのがおすすめ

胃酸が出すぎている人は控えよう
ストレス、暴飲暴食、刺激物のとりすぎは、胃酸の分泌を促します
さらに酸味を取り入れることで胃酸過多になり、胸やけ、胃痛の原因につながります


【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 胃と腸の話』著:福原 真一郎

(この記事はラブすぽの記事で作りました)

 


胃と腸を整えれば、あらゆる不調はみるみる良くなる!
食事など、体に入るものの入口である胃、消化吸収の要である腸、その本来の力を取り戻すための効果絶大な方法だけを大公開!

太りやすい、病院に行ってもわからない慢性的な不調がある、疲れがすぐに溜まる、など、そんな悩みの原因は“胃と腸”が疲れているからかもしれません
また、胃と腸はメンタルとも密接に関わりがあり、痛みや不快症状が出やすい内臓でもあります。そんな胃と腸の状態が回復することで、その他の内臓や全身の機能がみるみるよみがえり、肥満、健康診断の数値、疲労感などが消えていきます
本書では、そもそも胃と腸の働きとは?といった基礎知識から、みるみる痩せる本来の胃の大きさに戻す方法、胃腸が一気に整う漢方や薬膳、さらにすごいスパイスカレーなども紹介
さらに過敏性腸症候群を改善するための座り方など、効果的な方法を厳選して紹介します
さらに今の自分はどんな状態なのか簡単にわかるチェック法なども掲載し、自分の体と向き合えます
どれも簡単にできる方法ばかりなので、ストレスで胃と腸の調子がよくない、なんとなく不調が続いている、という方にはぜひ手に取って頂きたい一冊です

空腹なのに食欲がわかない吐きたいのに吐けないときの食材
水分不足の胃の炎症にはネバネバ食品を

「お腹はすいているのに食欲がわかない」「吐き気はするけど嘔吐できない」
こんな症状がたびたび見られる人は、体内の水分不足が不調の原因かもしれません。潤い不足から胃の粘膜の働きや胃液の分泌が低下し、胃が炎症を起こしている可能性があります

好んで辛いものを食べる人に多いほか、加齢で体内の水分量が減少することで発症する人もいます
このタイプは唾液の分泌が減って口が渇くため水分を欲しがりますが、冷たい水分は炎症を悪化させる場合があるので注意してください

症状の改善をめざすなら、何より胃に潤いを与える食材を積極的にとりましょう
その代表は「ネバネ食材」です
納豆やめかぶ、オクラやれんこん、長いもなどを料理にアレンジしましょう

もうひとつのおすすめは、たんぱく質と緑黄色野菜の組み合わせ
たんぱく質は胃粘膜の修復に欠かせない材料であり、緑黄色野菜は胃酸の分泌抑制と胃粘膜の保護に働くため、この2つがタッグを組めば健康な胃をくる理想的な献立が生まれます
ただし、たんぱく質のとり過ぎは胃酸の分泌を増やし、逆流性食道炎のリスクを高める可能性も。バランスのとれた食事が肝心です

たんぱく質なら消化のよい白身魚、豆腐、鶏のささみ、緑黄色野菜ではほうれん草、ブロッコリー、かぼちゃ、にんじんなどがおすすめです


胃の粘膜をつくってくれるネバネバ食材がおすすめ
ネバネバした食材に含まれる成分には、胃の粘膜を保護して胃酸から守る働きがあります。消化にいい食材も多いので積極的に食べましょう


※大量に食べることはイメージしていません
また、胃がかなり弱っている場合は「食物繊維」が豊富な食材は控えましょう

たんぱく質×緑黄色野菜で胃粘膜を守る


【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 胃と腸の話』著:福原 真一郎

(この記事はラブすぽの記事で作りました)

ネバネバは身体にいいとはよく聞きます

 


胃と腸を整えれば、あらゆる不調はみるみる良くなる!
食事など、体に入るものの入口である胃、消化吸収の要である腸、その本来の力を取り戻すための効果絶大な方法だけを大公開!

太りやすい、病院に行ってもわからない慢性的な不調がある、疲れがすぐに溜まる、など、そんな悩みの原因は“胃と腸”が疲れているからかもしれません
また、胃と腸はメンタルとも密接に関わりがあり、痛みや不快症状が出やすい内臓でもあります。そんな胃と腸の状態が回復することで、その他の内臓や全身の機能がみるみるよみがえり、肥満、健康診断の数値、疲労感などが消えていきます
本書では、そもそも胃と腸の働きとは?といった基礎知識から、みるみる痩せる本来の胃の大きさに戻す方法、胃腸が一気に整う漢方や薬膳、さらにすごいスパイスカレーなども紹介
さらに過敏性腸症候群を改善するための座り方など、効果的な方法を厳選して紹介します
さらに今の自分はどんな状態なのか簡単にわかるチェック法なども掲載し、自分の体と向き合えます
どれも簡単にできる方法ばかりなので、ストレスで胃と腸の調子がよくない、なんとなく不調が続いている、という方にはぜひ手に取って頂きたい一冊です

胸やけ、吐き気、ゲップにうんざり 胃の熱をとりたいときの食材
お酒好きの胃熱は酸味で解決できる

胃に熱がこもりやすい胃熱タイプの人は、熱を冷ます食材を食事にうまく取り入れてください
東洋医学では、胃の熱を冷ますのは体の水分を排出して熱をとる「苦味」です
苦味成分を含む食材にはレタスやアスパラガス、ゴーヤなどのほか、緑茶やコーヒーなどがあります

水分に加えて潤いも補給するならトマトがおすすめ
トマトには体内の水分循環を促し、代謝で生まれる余分な熱を冷ます作用がります
とくに夏は水分不足になりがちですが、トマトなら水や飲料よりも健康的に体を潤すことが可能です

りんごの熱を下げる効果も注目に値します
東洋医学では「清熱生津(熱を下げて体で水分をつくる)」、「清肺止瀉(肺の熱を取って下痢などを治す)」と呼ばれる2つの作用をりんごがもつとしています
さらに、保水効果もあるため、体に潤いを供給しつつ、脱水症状の予防にも働くわけです
食欲旺盛で胸やけがしたり、ゲップが多かったりする人は、紹介している食材も含めて、いつもの食卓にトマトやりんごを取り入れてみてはいかがでしょうか

また、お酒を飲むと食が進み胃熱になる人がいますが、最善策としては酸味のあるおつまみを多くとること
酸味は胃の収縮と過剰な発熱を抑制するため、食欲が抑えられて食べ過ぎを防ぎます

酢の物や柑橘類がおすすめです

余分な熱をとって潤いをもたらす食材

豆腐
大豆には体を冷やす性質があり、豆腐は体が発熱しているときや体温が高いときに体の余分な熱を冷ましてくれます
消化もいいので胃腸に負担がかかりません

トマト
トマトの90%以上は水分で、のどを潤し、体温を下げるのに役立ちます
また含まれるカリウムが、体の余分な熱が尿とともに排出されるのを助けます

りんご
りんご特有のリンゴ酸には、体内の炎症を抑える効果があり解熱作用が期待できます
体内の水分バランスを整える作用もあり、すりおろすと胃と腸にやさしい

緑豆もやし
熱を体外に逃がす働きが期待できます
カリウムを豊富に含み、体内の余分な水分を排出する作用もあるため、むくみの改善にも効能を発揮します

オレンジ
東洋医学の観点から、オレンジの酸味は体の熱を冷まして潤いを与える食材として重宝されています
余分な熱を排出してくれるカリウムも含まれています

お酒の飲み過ぎで熱がたまりやすい人は「酸味」をとるのがおすすめ

胃を縮ませて過剰に熱をつくるのを抑え、食べ過ぎを防いでくれます

【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 胃と腸の話』著:福原 真一郎

(この記事はラブすぽの記事で作りました)

 


胃と腸を整えれば、あらゆる不調はみるみる良くなる!
食事など、体に入るものの入口である胃、消化吸収の要である腸、その本来の力を取り戻すための効果絶大な方法だけを大公開!

太りやすい、病院に行ってもわからない慢性的な不調がある、疲れがすぐに溜まる、など、そんな悩みの原因は“胃と腸”が疲れているからかもしれません
また、胃と腸はメンタルとも密接に関わりがあり、痛みや不快症状が出やすい内臓でもあります。そんな胃と腸の状態が回復することで、その他の内臓や全身の機能がみるみるよみがえり、肥満、健康診断の数値、疲労感などが消えていきます
本書では、そもそも胃と腸の働きとは?といった基礎知識から、みるみる痩せる本来の胃の大きさに戻す方法、胃腸が一気に整う漢方や薬膳、さらにすごいスパイスカレーなども紹介
さらに過敏性腸症候群を改善するための座り方など、効果的な方法を厳選して紹介します
さらに今の自分はどんな状態なのか簡単にわかるチェック法なども掲載し、自分の体と向き合えます
どれも簡単にできる方法ばかりなので、ストレスで胃と腸の調子がよくない、なんとなく不調が続いている、という方にはぜひ手に取って頂きたい一冊です

胃がスーッとラクになる消化を助けたいときの鉄板食材
胃と腸が弱い人はキャベツと大根を常備

消化不良による胃のもたれやムカつき、吐き気などに襲われがちな方は、食材選びだけで症状が軽減されることがあります

まずおすすめなのがキャベツです
豊富に含まれるキャベジン(ビタミンU)には、消化を助ける酵素が多く含まれており、胃もたれや胸やけの軽減が期待できます。消化の悪い揚げ物にキャベツの千切りが付くのは、こんな理由があるからです
さらに、胃酸の分泌を抑えて胃腸の粘膜を保護してくれるため、胃潰瘍や十二指腸潰瘍の予防・改善にも役立つとされています

消化を助けるもうひとつの食材は大根です
さまざまな消化酵素を含み「自然の消化剤」といわれるほどの強力な働きを見せます
生で食べると胃を冷やし、加熱すると胃を温めるという逆の作用になるため、状況や症状に応じて使い分けが必要です

そのほか、玉ねぎやパイナップル、きのこ類や緑黄色野菜の効用も見逃せません
玉ねぎの辛み成分である硫化アリルは、胃液の分泌を促して食欲の増進をはかります
パイナップルにはブロメラインというたんぱく質分解酵素が含まれているので、肉や魚と一緒に食べることで消化効率が高まるのです
胃や腸の働きを整える代表的な食材を紹介しました。身近なものばかりですから、いつものレシピにぜひ加えてみてください


胃の働きを促進して消化を助けてくれる食材

キャベツ
キャベジン(ビタミンU)が豊富で、胃の粘膜を保護し、胃酸の分泌を抑えてくれます
また、でんぷんを分解するジアスターゼも含まれ、消化を助けてくれる働きが


大根
でんぷんの消化を助ける酵素ジアスターゼが含まれています
ジアスターゼは熱に弱いため、生食が最適
とくに大根おろしで食べると効果を最大限に摂取できます


山いも
でんぷんを分解する消化酵素のジアスターゼの含有量は大根の2 ~3倍ともいわれています
そのまま食べてもいいですがすりおろすことでより効果を発揮


にんじん
豊富に含まれるβ-カロテンは体内でビタミンAに変換され、荒れた胃粘膜の修復や保護に役立ちます
また水溶性食物繊維のペクチンは腸内環境を整え、便通を改善


なめこ
ヌルヌルしたぬめり成分(ペクチン)が、消化を助け、胃の粘膜を保護します
消化液による刺激から粘膜を守り、胃もたれや胃痛を予防する効果が期待できます


パイナップル
消化を促すブロメラインはたんぱく質分解酵素(プロテアーゼ)の一種で、胃もたれや消化不良を防止
 また、クエン酸も含まれ、胃酸の分泌を促し、消化を助けます


玉ねぎ
たんぱく質分解酵素のプロテアーゼが含まれ、消化を促進します
また、生の玉ねぎに含まれる硫化アリルは、胃液の分泌を促しますが、食べ過ぎると逆効果に


ブロッコリー
キャベツから発見され、胃薬などにも使われるビタミンU(キャベジン)が豊富に含まれていま期待できます


きのこ類、緑黄色野菜
ビタミンAは胃の粘膜を強化し、胃の消化を助け、働きをよくしてくれる!

※大量に食べることはイメージしていません
また、胃がかなり弱っている場合は「食物繊維」が豊富な食材は控えましょう

胃酸の分泌を抑え、胃粘膜の修復を助ける効果が

【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 胃と腸の話』著:福原 真一郎

(この記事はラブすぽの記事で作りました)

 


胃と腸を整えれば、あらゆる不調はみるみる良くなる!
食事など、体に入るものの入口である胃、消化吸収の要である腸、その本来の力を取り戻すための効果絶大な方法だけを大公開!

太りやすい、病院に行ってもわからない慢性的な不調がある、疲れがすぐに溜まる、など、そんな悩みの原因は“胃と腸”が疲れているからかもしれません
また、胃と腸はメンタルとも密接に関わりがあり、痛みや不快症状が出やすい内臓でもあります。そんな胃と腸の状態が回復することで、その他の内臓や全身の機能がみるみるよみがえり、肥満、健康診断の数値、疲労感などが消えていきます
本書では、そもそも胃と腸の働きとは?といった基礎知識から、みるみる痩せる本来の胃の大きさに戻す方法、胃腸が一気に整う漢方や薬膳、さらにすごいスパイスカレーなども紹介
さらに過敏性腸症候群を改善するための座り方など、効果的な方法を厳選して紹介します
さらに今の自分はどんな状態なのか簡単にわかるチェック法なども掲載し、自分の体と向き合えます
どれも簡単にできる方法ばかりなので、ストレスで胃と腸の調子がよくない、なんとなく不調が続いている、という方にはぜひ手に取って頂きたい一冊です

現代ではウサギ肉は、地中海沿岸諸国やフランス、ベルギーなどで高級食材として珍重され、さまざまな料理法で楽しまれています

しかし、ウサギが食卓にのぼるまでの歴史は、味や栄養だけでは語れません

中世ヨーロッパでは、宗教上の戒律や身分制度、農業の発展、さらには動物の分類をめぐる混乱までが絡み合い、ウサギの食文化は驚くほど複雑な歩みをたどることになったのです

古代ローマから中世、そしてルネサンス期に至るまでのヨーロッパにおけるウサギ食文化の流れ、そしてなぜウサギがある時代には食用とされ、また別の時代には禁忌とされたのか、その理由に触れていきます

古代ローマにおけるウサギと食の関係

ヨーロッパでウサギが食材として登場する最初の記録は、古代ローマまでさかのぼります

博物学者プリニウスは大著『博物誌』の中で、若いウサギ、特に胎児や離乳直後のものを「ラウリケス(Iauriices)」と呼び、珍味として扱われていたと記しています

これは主に上流階級の間で楽しまれていた食文化の一環であり、一般の庶民にはなかなか手の届かない嗜好品でした

ローマ人はウサギを囲い地に集めて、半ば自然のまま飼う方法をすでに試していました
まだ本格的な家畜化とはいえませんが、人の手で管理する初期の試みだったとされています
とくにイベリア半島では、その旺盛な繁殖力が注目され、経済的な価値も見出されていました

ただし、当時のウサギは現在の家畜ウサギとは異なり、野生種に近いものでした

家畜化は中世や近世を通じて、徐々に進んでいったと考えられています

キリスト教の世界観と断食規定

中世に入ると、ヨーロッパの食文化はキリスト教の戒律に大きく規定されるようになりました

特に四旬節や金曜日などの断食日には、肉食が禁じられ、魚や一部の水棲生物のみが許される慣行が広まりました

この中でウサギは哺乳類であるため、断食期間中の摂取は原則として禁じられていたのです

しかし、例外的な記録も残っています

6世紀の歴史家グレゴリウス(トゥール司教)は『フランク人の歴史』の中で、ある人物が四旬節のさなかにウサギの胎児を食べたと記しています
ただしこの話は批判的な文脈で紹介されており、当時の教会が正式に認めていたわけではありません

しかし、こうした逸話はやがて誇張され、「教会がウサギを魚と認めた」という俗説が広まっていきました

その中でも有名なのが「教皇グレゴリウス1世がウサギの胎児を魚とみなした」という説ですが、これは前述したグレゴリウスとの混同から生まれたもので、現存する教令や史料にはそのような認定は一切見られません

つまり、断食中のウサギ食については、教会として統一された決まりがあったわけではなく、地域ごとの慣習や修道院の解釈、あるいは個人の判断に委ねられていた可能性が高いのです

中世社会におけるウサギの家畜化と管理体制

中世になるとウサギの飼い方も少しずつ変わり、とくに12世紀以降は、封建領主の荘園で本格的に管理されるようになります

そこで登場したのが「ワレン(warren)」と呼ばれる専用区画で、ウサギを飼い、狩り、増やすことまで計画的に行われるようになりました

こうした仕組みが整えられた背景には、ウサギの肉や毛皮に対する需要の高まりがありました

都市の成長とともに市場も広がり、食材としての肉や衣料用の皮が広く流通するようになったのです
また、飼育下での繁殖によって野生性が徐々に薄れ、現代に近い家畜種への変化が進んだとされています

同時に、ウサギは領主の支配力を示す象徴でもありました。中世の後期には、庶民が無断で捕えることが禁じられ、処罰の対象となった例もあります

ウサギはすでに「ただの動物」ではなく、領地の収益を生む資源として扱われていたのです

ウサギにまつわる神話と、ルネサンス以降の再評価

中世の終わりからルネサンスにかけて、自然科学や分類学が発展し、動物の生態や体のしくみに対する理解も深まっていきました

それにあわせて、ウサギに関する迷信や誤解も少しずつ解かれていきます
とくに「ウサギの胎児を魚に分類する」といった説は、近世の博物学の中で否定されました

とはいえ、一度広まった話は簡単には消えません

19世紀以降の文献にも「教会がウサギを魚と認めた」と書かれることがあり、学術的には否定されているにもかかわらず、一般の通念として長く残り続けました

一方で、ルネサンス以降の食文化においてウサギは再評価され、とくにフランス料理の発展とともに、繊細な味わいをもつ高級食材としての地位を固めました

この時代には家畜化もほぼ完成し、ウサギはもはや特権階級だけのものではなく、市場で広く取引される身近な食品になっていきました

このように、ウサギの食文化は宗教の戒律や身分制度、動物観、そして自然との関わり方など、さまざまな要素が絡み合って形づくられてきました

現代においてウサギ肉は再び高い評価を受けていますが、その背景には長い歴史の積み重ねがあったのです

参考資料:
「中世の食生活」/ブリジット・アン ヘニッシュ
「プリニウスの博物誌〈縮刷版〉2」/中野定雄, 中野里美, 中野美代訳
The distribution of rabbit warrens in medieval England:an east–west divide?/David Gould
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

現代ではウサギ肉は、地中海沿岸諸国やフランス、ベルギーなどで高級食材として珍重され、さまざまな料理法で楽しまれています

しかし、ウサギが食卓にのぼるまでの歴史は、味や栄養だけでは語れません

中世ヨーロッパでは、宗教上の戒律や身分制度、農業の発展、さらには動物の分類をめぐる混乱までが絡み合い、ウサギの食文化は驚くほど複雑な歩みをたどることになったのです


【ウサギ肉の禁忌と美食】古代ローマからルネサンスまでの知られざる食文化史・・・


ウサギにまつわる神話と、ルネサンス以降の再評価

中世の終わりからルネサンスにかけて、自然科学や分類学が発展し、動物の生態や体のしくみに対する理解も深まっていきました

それにあわせて、ウサギに関する迷信や誤解も少しずつ解かれていきます
とくに「ウサギの胎児を魚に分類する」といった説は、近世の博物学の中で否定されました

とはいえ、一度広まった話は簡単には消えません

19世紀以降の文献にも「教会がウサギを魚と認めた」と書かれることがあり、学術的には否定されているにもかかわらず、一般の通念として長く残り続けました

一方で、ルネサンス以降の食文化においてウサギは再評価され、とくにフランス料理の発展とともに、繊細な味わいをもつ高級食材としての地位を固めました

この時代には家畜化もほぼ完成し、ウサギはもはや特権階級だけのものではなく、市場で広く取引される身近な食品になっていきました

このように、ウサギの食文化は宗教の戒律や身分制度、動物観、そして自然との関わり方など、さまざまな要素が絡み合って形づくられてきました

現代においてウサギ肉は再び高い評価を受けていますが、その背景には長い歴史の積み重ねがあったのです


 

 


食事の時間と回数、調理師と台所、調理法と献立、食卓の用意、食事の作法、断食の難行、宴席と余興など、聖書と教会の絶大な影響の下での13-15世紀西洋社会の食生活の実態を、祈祷書から勘定書にいたる綿密な文献渉猟を通して描き出す

妻を他人に貸す古代の婚姻慣習

古来より中国の婚姻は、時代ごとの社会状況や人々の暮らしぶりに応じて姿を変えてきた

豊かな時代には夫婦の結びつきが重んじられたが、戦乱や飢饉、貧困が広がると、家族のかたちすら大きく揺らいだ

その中で現れた風習のひとつが「典妻(てんさい)」である

典妻とは、夫が自分の妻を一定期間、他人に「貸し出す」形で成立した特殊な婚姻慣習のことである

「典」とは抵当や質入れの意味を持ち、妻を物品のように他者に譲り渡す契約を指していた
契約が成立すると、妻は承典人(しょうてんにん : 妻を借り受けた者)に移り、事実上の妻として過ごすことになる

期間が満了すれば、妻は元の夫のもとに戻ることもあったが、そのまま戻れずに他人の妻として売られてしまうことも少なくなかった

重要なのは、この慣習が単なる性的な貸与にとどまらず、「子を産ませる」ことを大きな目的にしていた点である

承典人の家で生まれた子はその家の子として扱われ、姓を継ぎ、財産の相続権を認められる場合もあった
つまり、女性は単なる労働力や慰みではなく、家を継がせるための出産をも担わされていたのである

契約内容によっては、家事や奉公などの労働を伴う「典貼(てんてい)」の形もあり、実質的に奴婢と変わらない扱いを受けることも多かった

また「典妻」は妻に限定されず、妾や婢女も対象となった

社会的に地位の低い女性ほど対象にされやすく、彼女たちは夫の経済的困窮や負債の犠牲となったのだ

「典妻」が広がった時代背景

「典妻」という慣習が生まれ、広がっていった背景には、いつの世にも戦乱や飢饉といった社会不安があった

古代から中世にかけて、中国の庶民生活は戦争や天災に左右されやすく、米や衣服といった最低限の生活資源さえ欠乏することが珍しくなかった

家族を養えないほど困窮した夫が、最後の手段として妻を「典妻」に出し、その見返りで生活をつないだのである

史料に残る記録をたどると、その発端は戦国期(紀元前5世紀から紀元前3世紀頃)からすでに見られる

戦国時代の法家・韓非が著した『韓非子』六反には、次のようにある

「天饑歲荒,嫁妻賣子者,必是家也」

意訳 : 天候不順や飢饉で食糧が不足すると、妻を嫁に出したり子を売ったりする家が必ず出てくる。

『韓非子』六反より

こうした光景はその後の時代にも見られ、前漢から南北朝時代にかけては「質妻」「質子」といった記述が残されており、重い税や戦乱に追い詰められた人々が、妻や子を抵当にして金を得る習慣が広まっていたことがうかがえる

やがて宋代に入ると、この慣習はより広く民間に定着し、役人や富裕層があえて貧しい農民に金を貸し付け、返済条件として妻女を差し出させるといった不正も横行した

元代以降もこの流れは止まらず、元の法律書『元典章』にも「典妻雇子成俗久矣(妻を典に出したり、子を雇わせたりすることは、すでに長く当たり前のことになっている)」と記されている

特に江南や浙江といった、人口が集中し商業も活発な地域では、典妻は「一時的に家計を支える方策」として常態化していた

明末から清代にかけて社会不安が増すと、典妻はさらに広がり、貧困家庭にとっては「生きるための選択肢」の一つとなっていった

つまり典妻は、時代ごとの社会不安と庶民の貧困が作り出した産物だったのだ

法令による禁止
このように、典妻は中国史において長らく庶民社会に根を下ろしたものの、各時代の為政者たちはそれを容認していたわけではなかった

唐律では典妻した場合は婚姻を解消とみなし、夫に刑罰を科すと定められていた
明代には夫に杖一百、妻に杖八十という厳しい罰まで設けられた

清代もそれを引き継ぎ、法律の上では典妻は禁止されていたのである

ところが、現実はまったく違っていた

清の時代、とくに「太平天国の乱」のあとは社会が大きく乱れ、農民の生活は困窮を極めた

食べるものもなく借金に追われた家庭では、典妻して当座の金を得るしかないという状況が広がったのである

典妻された女性は承典人の家で子を産み、その子はその家の姓を継ぐ
妻を貸す側も借りる側も「仕方ない選択」として受け入れていたが、犠牲になるのは女性だった

清政府はたびたび禁令を出したが、地方では黙認されることが多く、典妻は庶民の暮らしの中で続いていった

この慣習がようやく減っていったのは、20世紀に入ってからである。

中華民国の時代にも農村では典妻が続き、文芸作品の題材として女性の悲劇が描かれた
都市では、妻を社交や利益のための道具として扱うような、新しい形の「典妻」を描いた小説も生まれている※柔石『为奴隶的母亲』など

中華人民共和国成立後は、旧来の封建的な婚姻慣習を一掃する運動のなかで、典妻は完全に廃止された
しかし、それまで続いた長い歴史と女性の犠牲は、文学や民間の記憶として今も語り継がれている

典妻は、単なる過去の慣習ではなく、戦乱や貧困が人々の倫理や家庭をいかに揺るがしたかを示す、生々しい歴史の痕跡といえるだろう

参考 :『韓非子』六反『元典章』『南齊書』他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)


妻を他人に貸す古代の婚姻慣習

古来より中国の婚姻は、時代ごとの社会状況や人々の暮らしぶりに応じて姿を変えてきた

豊かな時代には夫婦の結びつきが重んじられたが、戦乱や飢饉、貧困が広がると、家族のかたちすら大きく揺らいだ

その中で現れた風習のひとつが「典妻(てんさい)」である

典妻とは、夫が自分の妻を一定期間、他人に「貸し出す」形で成立した特殊な婚姻慣習のことである

「典」とは抵当や質入れの意味を持ち、妻を物品のように他者に譲り渡す契約を指していた
契約が成立すると、妻は承典人(しょうてんにん : 妻を借り受けた者)に移り、事実上の妻として過ごすことになる

期間が満了すれば、妻は元の夫のもとに戻ることもあったが、そのまま戻れずに他人の妻として売られてしまうことも少なくなかった

重要なのは、この慣習が単なる性的な貸与にとどまらず、「子を産ませる」ことを大きな目的にしていた点である

承典人の家で生まれた子はその家の子として扱われ、姓を継ぎ、財産の相続権を認められる場合もあった
つまり、女性は単なる労働力や慰みではなく、家を継がせるための出産をも担わされていたのである

契約内容によっては、家事や奉公などの労働を伴う「典貼(てんてい)」の形もあり、実質的に奴婢と変わらない扱いを受けることも多かった

また「典妻」は妻に限定されず、妾や婢女も対象となった

社会的に地位の低い女性ほど対象にされやすく、彼女たちは夫の経済的困窮や負債の犠牲となったのだ



典妻は中国史において長らく庶民社会に根を下ろしたものの、各時代の為政者たちはそれを容認していたわけではなかった

唐律では典妻した場合は婚姻を解消とみなし、夫に刑罰を科すと定められていた
明代には夫に杖一百、妻に杖八十という厳しい罰まで設けられた

清代もそれを引き継ぎ、法律の上では典妻は禁止されていたのである

ところが、現実はまったく違っていた

清の時代、とくに「太平天国の乱」のあとは社会が大きく乱れ、農民の生活は困窮を極めた

食べるものもなく借金に追われた家庭では、典妻して当座の金を得るしかないという状況が広がったのである

典妻された女性は承典人の家で子を産み、その子はその家の姓を継ぐ
妻を貸す側も借りる側も「仕方ない選択」として受け入れていたが、犠牲になるのは女性だった

清政府はたびたび禁令を出したが、地方では黙認されることが多く、典妻は庶民の暮らしの中で続いていった

この慣習がようやく減っていったのは、20世紀に入ってからである。

中華民国の時代にも農村では典妻が続き、文芸作品の題材として女性の悲劇が描かれた
都市では、妻を社交や利益のための道具として扱うような、新しい形の「典妻」を描いた小説も生まれている※柔石『为奴隶的母亲』など

中華人民共和国成立後は、旧来の封建的な婚姻慣習を一掃する運動のなかで、典妻は完全に廃止された
しかし、それまで続いた長い歴史と女性の犠牲は、文学や民間の記憶として今も語り継がれている

典妻は、単なる過去の慣習ではなく、戦乱や貧困が人々の倫理や家庭をいかに揺るがしたかを示す、生々しい歴史の痕跡といえるだろう


 

 


清朝は中国最後の王朝
北方の異民族(漢人以外)がどのように中国を統治したのか
ヌルハチからラストエンペラーまで栄光と苦悩の270年

絶好調の胃腸をつくる最強の食事
胃腸が快適に働ける環境を整える

東洋医学では「朝食は皇帝・昼食は皇子・夕食は皇后」のように食べることをすすめています
もう少し詳しく説明しましょう
朝は排泄の時間です
消化は排泄を阻害するので、量は食べずにその分、栄養価の高い食物をとるようにします
量より栄養なので卵料理や果物などがおすすめです
まさにゆとりある皇帝の朝の食事ですね

昼は胃や腸の動きが活発です
つまり消化力が最も高まっているので、若い皇子のように量をしっかりとることをすすめています
さらに、活動的な時間帯ゆえ、すぐに使えるエネルギーを補給したいもの
そこで最適なのが炭水化物です
消化に時間はかかりますが、昼なら問題ありません

夜は睡眠の質を高めるためにも、消化のよい物を控えめに食べましょう
さながら皇后の質素な夕食が理想となります
日本では夜の食事に重きが置かれがちですが、健康意識の高いヨーロッパではタ食を軽めにするのが当たり前です
その代わりに昼食をしっかりと食べます

ドイツでのビールが公認されていたり、2時間以上も昼休みをとる国があったりするのはそのためです

この食事法を実践すると、食事と食事の間に消化がスムーズに完了し、胃が空っぽになる時間ができます
これによって機能が温存され、稼働のリズムも整って、胃や腸にとってベストコンディションで働きやすい環境となるわけです



胃を空っぽにする食事バランス
朝は排泄のためにも栄養価の高い物を第一に、消化力の高い昼は炭水化物多めでボリュームがあってもOK

夜は脂質少なめの消化にいいものを選びましょう

元気な胃と腸がもたらすメリット
消化器官が休まり、活発に1日をスタートできる
胃と腸を休ませると、自律神経の切り替えがスムーズに行われ、すっきり起きられます

グーッとなるのは大掃除中のサイン
お腹がグーッとなるのは、食べた物を消化し、胃の内部に残った物の掃除がはじまった証拠

ぐっすり眠れる
消化活動による体の負担が減るので、より深い睡眠がとりやすくなり、睡眠の質が向上します

脂肪が燃えやすくなる
空腹で体がエネルギー不足になると、体脂肪を分解(脂肪燃焼)してエネルギー源にします

脳がリラックスする
胃と脳は自律神経を通じて互いに影響し合っているため、胃が休むと脳も休息モードに


【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 胃と腸の話』著:福原 真一郎

(この記事はラブすぽの記事で作りました)

 


胃と腸を整えれば、あらゆる不調はみるみる良くなる!
食事など、体に入るものの入口である胃、消化吸収の要である腸、その本来の力を取り戻すための効果絶大な方法だけを大公開!

太りやすい、病院に行ってもわからない慢性的な不調がある、疲れがすぐに溜まる、など、そんな悩みの原因は“胃と腸”が疲れているからかもしれません
また、胃と腸はメンタルとも密接に関わりがあり、痛みや不快症状が出やすい内臓でもあります。そんな胃と腸の状態が回復することで、その他の内臓や全身の機能がみるみるよみがえり、肥満、健康診断の数値、疲労感などが消えていきます
本書では、そもそも胃と腸の働きとは?といった基礎知識から、みるみる痩せる本来の胃の大きさに戻す方法、胃腸が一気に整う漢方や薬膳、さらにすごいスパイスカレーなども紹介
さらに過敏性腸症候群を改善するための座り方など、効果的な方法を厳選して紹介します
さらに今の自分はどんな状態なのか簡単にわかるチェック法なども掲載し、自分の体と向き合えます
どれも簡単にできる方法ばかりなので、ストレスで胃と腸の調子がよくない、なんとなく不調が続いている、という方にはぜひ手に取って頂きたい一冊です