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楊志発とは?

楊志発(ヤン・ジーファ)という人物をご存じだろうか

その名は中国国内では広く知られており、中国の百科事典サイト「百度百科」にも独立した項目があるほどである

楊志発は、1974年に世界を驚かせた兵馬俑(へいばよう)の発見者のひとりとして、歴史に名を残した農民である

兵馬俑は公開以来、世界各国から多くの人々を惹きつけ続けており、中国を代表する観光・考古遺産となっている

では、兵馬俑の発見劇とはどのようなものだったのだろうか
早速見ていくことにしよう

1974年のある春の日
1974年の春、陝西省臨潼の村は、深刻な水不足に悩まされていた

雨が長く降らず、畑の作物も枯れかけ、人々の暮らしにも危険が迫っていたのである
そこで村人たちは話し合い、新しい井戸を掘って水を得ることを決めた

作業には若い男性たちが総出で参加し、その中に41歳の農民・楊志発(ヤン・ジーファ)の姿もあった

乾いた大地を相手に鍬をふるい、固い土を砕きながら、彼らは必死に穴を掘り進めていった

深さ3mほどに達したとき、木炭や赤土が混じった地層が姿を現した

普段の土とは異なるこの層に、村人たちは不思議に思いながらも掘り進めていった

固い地層を突破してさらに掘り進めていくと、楊志発の鍬が瓦のように硬い物に当たった
慎重に土を取り除くと、人の頭部をかたどった焼き物の破片が現れた

最初は「古い窯跡の陶器ではないか」と思われたが、さらに掘り進めると肩や胴体、武具と思われる部分が次々と見つかった

それは単なる陶片ではなく、二千年以上前に埋められた等身大の陶製の兵士、すなわち兵馬俑であった

こうして地下に眠っていた秦の軍団が、二千年の時を超えて再び人類の前に姿を現したのである

発見した当時の様子とは

楊氏は後年、発見直後の様子をこう振り返っている

「最初に掘り当てたのは頭部だった。壺か何かだと思ったが、そうではなかった。掘り出したばかりの頭部には黒い髪が描かれ、肌は白く、唇は赤かった。まるで生きている人間のように見えた。」

この証言から、兵馬俑が本来は鮮やかな彩色を施されていたことがうかがえる
だがその色彩は、地上に出された途端に急速に失われていったという

私たちが今、目にする土色の兵士たちは、二千年の眠りから呼び覚まされた後に、瞬く間にその輝きを失った姿なのである

また、楊氏は骨董品に多少の知識があり、始皇帝陵の伝説がこの土地に伝わっていたことも知っていた

発見場所が陵墓とされる地点からわずか2キロしか離れていないと気づき、「もしかすると」と胸を高鳴らせたという
しかし確証はなく、自分たちだけで判断できるものではなかったため、発見した破片を専門家に託すことにした

農民たちは掘り出した俑をリヤカー3台に積み込み、最寄りの臨潼県博物館へと運んだ
館長は1台につき10元、計30元を村人たちに渡し、彼らはその小さな報酬に満足して村へと戻っていった

自分たちが運んだ土色の陶片が、やがて世界を驚かせる世紀の大発見となることを、この時点で多くの村人はまだ知る由もなかった

次々と姿を現した秦の軍団

頭部の破片に続き、胴体や武具の一部が掘り出されると、そこからは驚くべき光景が広がっていった

幾体もの兵馬俑や埋葬品が、次々と姿を現したのである

調査は急速に進み、わずか二ヶ月余りのうちに、出土した陶片が丹念に復元され、それが秦王朝時代の兵馬俑であることが確認された

その功績により、のちに臨潼県は楊志発に30万元の報酬を与えた

しかし同時に、発掘のために村人たちが土地を手放さざるを得ない事態も生じ、楊氏を恨む者もいたという

それでも、この発見は楊氏の人生を大きく変えることになる

1998年、アメリカのクリントン大統領が兵馬俑を視察に訪れた際、楊氏はその場で大統領と直接顔を合わせることになったのである

干ばつに苦しみ、ただ井戸を掘っていた一農民が、やがて世界の大国の指導者と言葉を交わす日が来るとは、想像すらできなかっただろう

楊志発のその後

兵馬俑の頭部を発見してから24年後、楊志発は兵馬俑博物館の名誉館長に就任した

当時は字の読み書きができなかったため、何ヶ月も練習を重ね、やがて訪れる観光客に自らサインを書けるようになったという

世界的に名高い始皇帝陵の兵馬俑の発見の背後には、一人の農民の人生と、いくつもの偶然があった
あの年に干ばつがなければ、彼らが井戸を掘らなければ、発見はもっと遅れていたかもしれない

兵馬俑が人々を惹きつけてやまないのは、そこに人知を超えた運命の重なりが映し出されているからだろう

参考 :
『陝西省秦始皇兵馬俑博物館』
『Swissinfo.ch. “The man who dug a well and found an army.”』他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

楊志発とは?

楊志発(ヤン・ジーファ)という人物をご存じだろうか

その名は中国国内では広く知られており、中国の百科事典サイト「百度百科」にも独立した項目があるほどである

楊志発は、1974年に世界を驚かせた兵馬俑(へいばよう)の発見者のひとりとして、歴史に名を残した農民である

兵馬俑は公開以来、世界各国から多くの人々を惹きつけ続けており、中国を代表する観光・考古遺産となっている


楊志発のその後

兵馬俑の頭部を発見してから24年後、楊志発は兵馬俑博物館の名誉館長に就任した

当時は字の読み書きができなかったため、何ヶ月も練習を重ね、やがて訪れる観光客に自らサインを書けるようになったという

世界的に名高い始皇帝陵の兵馬俑の発見の背後には、一人の農民の人生と、いくつもの偶然があった
あの年に干ばつがなければ、彼らが井戸を掘らなければ、発見はもっと遅れていたかもしれない

兵馬俑が人々を惹きつけてやまないのは、そこに人知を超えた運命の重なりが映し出されているからだろう


兵馬俑の発見は「偶然」かもしれないが、運命にも導かれた「偶然」が重なった「必然」かも・・・


 

 


始皇帝は、史上初めて中国を統一した
中国で皇帝を最初に名乗った
あの精巧で緻密な兵馬俑を作り、歴代王朝へ引き継がれた万里の長城を作り始め、不老不死の仙薬を求めた興味深い人物の実像に迫る

痔は「二足歩行をする人間ならではの病」だという

生活が便利になり、座って過ごす時間が増えた現代では、成人の約3人に1人が痔を抱えるともされ、軽症例まで含めれば成人の2〜5割が経験するありふれた病気とされている

もっとも、痔に悩まされてきたのは現代人だけではない
市販薬や効果的な治療法が乏しかった時代、痔は耐えがたい不快感や痛み、出血をもたらし、日常生活を著しく損なう病だった

戦場では勇猛果敢に戦い、歴史に名を残した戦国武将の中にも、痔の症状に苦しめられた人物がいたという

特に地位の高い人物ほど、馬に跨って移動することが多かったために、その苦しみは相当なものだったと考えられる

人間の宿命ともいえる痔を患いながら、痛みに耐えて戦国の世を生き抜いた武将について、詳しく掘り下げていきたい

長時間トイレに籠った加藤清正

加藤清正は、豊臣秀吉の子飼いとして賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられ、のちに肥後国熊本藩初代藩主として治水や土木事業で大きな功績を残し、地元熊本では「清正公(せいしょこ)さん」として神格化された名将である

その一方で、慢性的な痔に悩まされていたという逸話も伝わる
朝鮮の役で虎をも退治したとされる勇将ながら、痔に苦しめられ、ひとたび用を足しに入ると長いときには一時間近くも出てこなかったという

清正は不浄を嫌って一尺ほどもある下駄を履きながらトイレにこもり、個室の中から下駄を鳴らして小姓や家臣を呼び出し、用事を言いつけることも少なくなかったと伝えられている
この高下駄姿でしゃがむ姿勢も、痔を悪化させる一因になったと考えられる

ある時、清正が便所にこもったまま家臣を呼び出し、その家臣が熊本城に到着したときにも、まだ中から出てこなかったという逸話もある

痛みのために長時間便所にとどまれば肛門への負担は増し、結果として症状をさらに悪化させる

清正も知らぬ間に、その悪循環に陥っていたのかもしれない

悪化した痔が死因となった榊原康勝

榊原康勝は、徳川四天王および徳川十六神将の一人として名高い榊原康政の三男で、父の没後に上野館林藩を継いだ武将である

前述の加藤清正の娘を正室に迎えており、清正の娘婿にもあたる

康勝は館林藩二代藩主として、家督を継いだ時点で既にひっ迫していた藩財政の再建に努めた
大坂の陣では徳川方として冬の陣・夏の陣の両方に参戦し、果敢な戦いぶりを見せたが、夏の陣直後の1615年5月27日、持病の悪化により26歳で急逝した

この持病が痔であったと考えられている

詳細な症状の記録は残っていないものの、『難波戦記』などによれば、死の約半年前に参陣した大坂冬の陣の最中、長年患っていた痔による腫れ物が破れてしまい、大量に出血したという

それでも康勝は戦列を離れず、冬の陣では佐竹義宣隊を救う働きを見せ、翌年の夏の陣では若江の戦いで豊臣方の木村重成隊と交戦
翌日の天王寺・岡山の戦いでも、激戦地となった天王寺口で二番手大将として奮戦した

夏の陣の頃には痔がさらに悪化し、鞍にまたがると血が溜まるほどだったとされるが、それでも戦い続けたという

徳川方が勝利した後、康勝は大坂から京都へ引き上げたが、病状は回復せず、無念にも地元には帰れず京都の地で命を落としたのだという

穴山梅雪

榊原康勝のように痔が直接の死因となったわけではないが、甲斐武田氏の御一門衆にして武田二十四将の一人、穴山梅雪(信君)も、痔が遠因となって命を落とした人物とされている

梅雪は武田氏時代、三河徳川氏との最前線に位置する駿河・江尻城代という要職を担っていた

しかし信玄の没後、家督を継いだ武田勝頼と対立し、徳川家康を通じて織田信長に内応
結果的に、甲斐武田氏嫡流を滅亡に追いやる一端を担った人物として知られている

勝頼の死後は家康の与力となり、安土城訪問後に堺を遊覧していたが、その最中に明智光秀の謀反(本能寺の変)で信長が横死したとの報を受け、家康とともに畿内からの脱出を図った

もっとも、実際には家康とは別行動を取っており、落ち武者狩りや一揆勢に襲撃されて逃げ場を失い、自害あるいは討たれたと伝えられる

一説には、梅雪は痔の激痛で馬にまたがれず、そのため逃げ遅れたという

この説を裏付ける史料として、武田方の村松藤兵衛に宛てた「痔の薬」を求める書簡が残っている

近日痔病再発、以之外相煩候、去々年再発之砌も、其方薬相当候キ、只今此飛脚に越可給候、并薬付候模様、養生之次第懇ニ注之可給候(略)

意訳 :
最近また痔の病が再発し、それ以外にも体調がすぐれず困っている。おととし再発した際にも、そなたの薬がよく効いたので、今すぐこの飛脚で送ってほしい。また、薬の使い方や養生法についても、詳しく書き添えてほしい。

『五月二十二日付穴山信君書状』『戦国遺文武田氏編〈第6巻〉』3852号

この書状が、本能寺の変直前の1582年5月に書かれたものであれば、梅雪は自らが離反した武田家の旧臣に対して、必死の思いで痔の薬を所望したことになる

もし梅雪が、自らが裏切ったかつての仲間に薬を求めるほどの痛みを抱えていたのであれば、馬にまたがっての山越えなど到底無理だったことは想像に難くない

痔を侮ってはいけない

痔はデリケートな部分の病であるため、心理的な負担で病院への足が遠のき、重症化するまで放置してしまう人も少なくない

現代では痔が直接の死因となることは稀だが、宇喜多直家の死因とされる「尻はす」が、痔瘻に伴う悪性腫瘍であったとする説もある
痔が感染症を引き起こしたり、癌化したりすれば、命に関わる危険性は十分にあるだろう

人間が二足歩行を続ける限り、痔のリスクは常に身近にある
昔の戦国武将から現代の私たちまで、多くの人々がこの病に悩まされ続けている

もし自覚症状があるなら、早期の治療を心がけた方が良いだろう

参考 :
酒井シヅ『戦国武将の死亡診断書』
若林 利光 (著)『戦国武将の病(やまい)が歴史を動かした』
日本博学倶楽部 (著) 『戦国武将の意外なウラ事情』
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

痔は「二足歩行をする人間ならではの病」だという

生活が便利になり、座って過ごす時間が増えた現代では、成人の約3人に1人が痔を抱えるともされ、軽症例まで含めれば成人の2〜5割が経験するありふれた病気とされている

もっとも、痔に悩まされてきたのは現代人だけではない
市販薬や効果的な治療法が乏しかった時代、痔は耐えがたい不快感や痛み、出血をもたらし、日常生活を著しく損なう病だった

戦場では勇猛果敢に戦い、歴史に名を残した戦国武将の中にも、痔の症状に苦しめられた人物がいたという

特に地位の高い人物ほど、馬に跨って移動することが多かったために、その苦しみは相当なものだったと考えられる


痔を侮ってはいけない

痔はデリケートな部分の病であるため、心理的な負担で病院への足が遠のき、重症化するまで放置してしまう人も少なくない

現代では痔が直接の死因となることは稀だが、宇喜多直家の死因とされる「尻はす」が、痔瘻に伴う悪性腫瘍であったとする説もある
痔が感染症を引き起こしたり、癌化したりすれば、命に関わる危険性は十分にあるだろう

人間が二足歩行を続ける限り、痔のリスクは常に身近にある
昔の戦国武将から現代の私たちまで、多くの人々がこの病に悩まされ続けている

もし自覚症状があるなら、早期の治療を心がけた方が良いだろう


 

 


「本能寺の変が起きなくても、高血圧症だった信長の余命は長くなかった!?」
当時の記録を現代医学で読み解くと、戦国武将の意外な持病や死因が見えてきます
大酒飲みで、酒の肴は主に梅干しと味噌。そんな不摂生がたたって、若くして脳出血に倒れた上杉謙信
自分で薬を調合するほどの超健康オタクだったにもかかわらず、最後は医師より自分の診断を信じて病状を悪化させた徳川家康
追放された八丈島でのロハスライフで、驚くほど長生きした宇喜多秀家
徳川家と豊臣家の板挟みのストレスから持病を悪化させた片桐且元
当時、日本に伝わったばかりの梅毒に感染し急死した加藤清正
イボ痔で馬に乗れなかったために落ち武者狩りで命を落とした穴山梅雪――などなど、
戦国武将の意外な一面が今、明らかになります

人生にはしばしば、思いもよらぬ困難が立ちはだかる

それらはしばしば「壁」として語られ、人はどうにかして乗り越えようとする

神話や伝承の世界でもまた、行く手を阻む怪物や神が登場し、人々や神々が知恵や力を尽くしてそれを突破する物語が語られてきた

そうした「道を塞ぐ存在」にまつわる伝承をいくつか取り上げてみたい

中国における伝承

古代中国の地理志怪書『山海経』には、䍺(かん)という名の不思議な生き物が記されている

その姿は山羊に似て青い目を持ち、足は地中にめり込み、人の力では動かせないとされる

後世、4世紀の志怪小説『捜神記』において、この䍺は道をふさぐ怪物として描かれた

前漢の武帝(紀元前156〜紀元前87年)が巡幸の途上、突如として巨大な山羊の怪物が現れ、一行の進路を塞いだ
押しても引いてもびくともしないその姿に、従者たちは困り果てたが、博識な東方朔(紀元前154〜紀元前93年)という人物がこう告げた

「これは獄中の罪人の憂いが凝って生まれた怪物・䍺である。酒をかければその憂いが晴れ、消えるだろう」

助言どおり大量の酒を浴びせると、䍺は跡形もなく消え去ったという

日本における伝承

塗壁(ぬりかべ)
日本を代表する「道を塞ぐ妖怪」といえば、やはり塗壁(ぬりかべ)の名が挙がるだろう

塗壁は九州北部、特に福岡県遠賀郡の海岸地方に伝わる怪異で、その姿形は不明だが、一般的には壁のような形をしていると解釈されている

民俗学者の柳田國男(1875〜1962年)が『妖怪名彙』(1938年)に記したところによれば、夜道を歩く人の前に突如現れ、左右にもどこまでも続くため避けられない
しかし足元を棒で払うと、不思議と消え去り、先へ進めるという

大分県では、この怪異を狸やイタチの仕業とする説があり、狸が大きく広げた陰嚢で人の顔を覆い視界を奪うという伝承もある
この場合、路傍で腰を下ろし、タバコを一服すると怪異は消えるとされる

このように、塗壁はもともと地方のマイナーな妖怪にすぎなかった

その後、漫画家・水木しげる(1922~2015年)が『ゲゲゲの鬼太郎』内にて、ユーモラスな姿の塗壁を描き登場させたところ、一気に知名度が上昇し、こなき爺・砂かけ婆・一反木綿などとともに、国民的妖怪へと上り詰めたのである

野襖(のぶすま)

こういった「目の前に現れる壁のような妖怪」の伝承は、実は日本各地に存在する

たとえば、高知県には野襖(のぶすま)という、ふすまのような姿をした妖怪の伝承が残る

夜道を歩く人間に立ち塞がる点は塗壁と一緒だが、野襖は上下左右全ての方向に、無数に連なった姿で出現するのだという
だがやはり、落ち着いてタバコで一服することで、自然と野襖は消滅すると伝えられている

また、長崎県の壱岐島には「ヌリボー」と呼ばれる怪異があり、夜道に山側から突き出してくるとされる

柳田國男は『民間伝承 第三十七号 妖怪名彙(四)』で「ヌリボウ」と表記し、塗壁と同種の妖怪であると分類している

魔除けの神

道を塞ぐ存在には、人の行く手を阻む怪物だけでなく、災厄を防ぐ「防壁」としての神もいる

『古事記』『日本書紀』には、道反之大神(ちがえしのおおかみ)にまつわる次のような物語が伝わる

(意訳・要約)

イザナミとイザナギは夫婦の神で、日本列島を生み出したとされる。

しかし、イザナミは火の神カグツチを生んで命を落とし、黄泉国へと赴いた。
嘆き悲しんだイザナギは、彼女を取り戻そうと黄泉国へ向かう。

イザナミは再会を喜びつつも、「黄泉戸喫(よもつへぐい)をしてしまったため、掟により現世には戻れない」と告げた。
ただし黄泉の神々と相談するので、それまで決して姿を見ないようにと約束する。

しかし長く待たされたイザナギはしびれを切らし、禁を破って覗いてしまう。
そこには全身が腐り果て、雷を発する恐ろしい姿のイザナミがあった。

怒ったイザナミは黄泉の醜女(よもつしこめ)や兵を追手として放つが、イザナギは何とか振り切り、黄泉比良坂まで逃げ延びる。
そして巨大な千引の石を転がして坂を塞ぎ、現世への侵入を防いだ。

この石に宿る神を「道反之大神」と名付け、魔除けの神として祀ったという。

参考 : 『山海経』『捜神記』『古事記』『日本書紀』他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

人生にはしばしば、思いもよらぬ困難が立ちはだかる

それらはしばしば「壁」として語られ、人はどうにかして乗り越えようとする

神話や伝承の世界でもまた、行く手を阻む怪物や神が登場し、人々や神々が知恵や力を尽くしてそれを突破する物語が語られてきた


道を塞ぐ妖怪といえば塗壁(ぬりかべ)が有名だが、これは「ゲゲゲの鬼太郎」の影響も大きいだろう


 

 


妖怪マンガの第一人者・水木しげる氏によるオールカラーの妖怪百科
 

 


妖怪ビジュアル大図鑑の世界編

昭和20年(1945年)8月15日、日本の敗戦が昭和天皇の玉音放送によって国民に知らされました

これは前日に日本国政府がポツダム宣言(正式名称:Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender/日本への降伏要求の最終宣言)を受諾したことを意味します

ところでこのポツダム宣言について、誰がどのような内容を発したのか、よくわからないという方も少なくないでしょう

「アメリカが日本に対して降伏を迫ったんでしょ?」確かにそれも間違ってはいないものの、もう少し詳しく知るために、実際の内容をわかりやすく噛み砕いて紹介したいと思います


ポツダム宣言の基本的知識

まずはポツダム宣言について、誰がどのような内容を発したのか、5W1hでまとめてみましょう

When(いつ):1945年7月26日、

Where(どこで):ポツダム(ドイツ・ベルリン郊外)で、

Who(誰が):アメリカ大統領・イギリス首相・中華民国政府主席が、

Why(なぜ):戦争を終結させるため、

Who(誰に):日本国政府に対し、

How(どのように):13ヶ条で構成される、

What(何を):日本軍への降伏要求を合意した。

※アメリカ大統領はハリー・S・トルーマン、イギリス首相はウィンストン・チャーチル、そして中華民国政府(現台湾)主席は蒋介石(しょう かいせき)です

ちなみに、ポツダム会談にはソビエト連邦(現ロシア)の共産党書記長であったヨシフ・スターリンも同席していましたが、なぜか署名していません
一方で蒋介石はポツダムにおらず、電報での連名となりました

日本側では昭和20年(1945年)8月10日未明の御前会議で、「天皇の国法上の地位を変更しないこと」を条件とする外務大臣案を採択し、条件付きでポツダム宣言を受諾する意向を決定します

8月14日、この方針をスイスおよびスウェーデンの日本公使館を通じて連合国側に正式通告
翌15日、昭和天皇の玉音放送によって国民に広く知られ、この日が後に「終戦の日」として記憶されることになりました

実際に、ポツダム宣言が外交文書として確定したのは9月2日

東京湾に停泊していた戦艦ミズーリ上で、重光葵(しげみつ まもる 日本政府全権)と梅津美治郎(うめづ よしじろう 日本軍全権)らが、同宣言の誠実な履行などを定めた休戦協定(降伏文書)に調印しました

この9月2日をもって、昭和16年(1941年)12月8日に始まった大東亜戦争(太平洋戦争)が幕を下ろしたのです

それではさっそく、ポツダム宣言の内容について見ていきましょう

英語原文は分量が多く、多くの方が通読しないと思われるため省略し、外務省による翻訳も言い回しがややこしいため、わかりやすく噛み砕いていきます

※わかりやすさ優先のため、逐語訳ではありません

第1条「最後のチャンスをやろう」
一 吾等合衆國大統領、中華民國政府主席及「グレート、ブリテン」國總理大臣ハ吾等ノ數億ノ國民ヲ代表シ協議ノ上日本國ニ對シ今次ノ戰爭ヲ終結スルノ機會ヲ與フルコトニ意見一致セリ

【意訳】米国・民国・英国首脳(以下、我々)は、数億国民の代表として協議した結果、日本国に降伏のチャンスを与えることに決めた。

第2条「お前たちに助けは来ない」
二 合衆國、英帝國及中華民國ノ巨大ナル陸、海、空軍ハ西方ヨリ自國ノ陸軍及空軍ニ依ル數倍ノ増強ヲ受ケ日本國ニ對シ最後的打撃ヲ加フルノ態勢ヲ整ヘタリ右軍事力ハ日本國ガ抵抗ヲ終止スルニ至ル迄同國ニ對シ戰爭ヲ遂行スル一切ノ聯合國ノ決意ニ依リ支持セラレ且鼓舞セラレ居ルモノナリ

【意訳】我々の軍隊は強力であり、日本国への攻撃準備は万全である。我々は日本が完全に抵抗をやめるまで攻撃を続ける。
この攻撃はほぼ世界中の支持を得ている。つまり日本国を助ける国はどこにもない。

第3条「ナチス・ドイツの末路」
三 蹶起セル世界ノ自由ナル人民ノ力ニ對スル「ドイツ」國ノ無益且無意義ナル抵抗ノ結果ハ日本國國民ニ對スル先例ヲ極メテ明白ニ示スモノナリ現在日本國ニ對シ集結シツツアル力ハ抵抗スル「ナチス」ニ對シ適用セラレタル場合ニ於テ全「ドイツ」國人民ノ土地産業及生活様式ヲ必然的ニ荒廢ニ歸セシメタル力ニ比シ測リ知レザル程度ニ強大ナルモノナリ吾等ノ決意ニ支持セラルル吾等ノ軍事力ノ最高度ノ使用ハ日本國軍隊ノ不可避且完全ナル壞滅ヲ意味スベク又同様必然的ニ日本國本土ノ完全ナル破滅ヲ意味スベシ

【意訳】我々に抵抗したドイツの姿は、日本国の末路を示している。ドイツは土地・産業・生活すべてがボロボロになった。
当時とは比べ物にならない武力が日本に集中している今、これ以上の抵抗がどういう結果を招くか、よく考えるといい。

第4条「破滅の軍国主義か、理性的な方向転換か」
四 無分別ナル打算ニ依リ日本帝國ヲ滅亡ノ淵ニ陥レタル我儘ナル軍國主義的助言者ニ依リ日本國ガ引續キ統御セラルベキカ又ハ理性ノ經路ヲ日本國ガ履ムベキカヲ日本國ガ決定スベキ時期ハ到來セリ

【意訳】私利私欲の野望で日本国を滅亡の危機に陥れている軍国主義者と運命を共にするのか、それとも理性的な道へ方向転換するのか、それを決断すべき時が迫っている。

第5条「ただちに答えろ。条件変更も回答延期も認めない」
五 吾等ノ條件ハ左ノ如シ 吾等ハ右條件ヨリ離脱スルコトナカルベシ右ニ代ル條件存在セズ吾等ハ遲延ヲ認ムルヲ得ズ

【意訳】我々は以下の条件を提示する。条件変更や代替案は一切認めない。言うまでもなく、回答の引き延ばしも認めない。

第6条「軍国主義者を抹殺せよ」
六 吾等ハ無責任ナル軍國主義ガ世界ヨリ驅逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序ガ生ジ得ザルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本國國民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ擧ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ權力及勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ

【意訳】我々は軍国主義者をこの地球上から一掃しない限り、平和と安全と正義の新秩序は確立されないと考えている。
そのため、日本国民を騙して世界征服の野望を燃やした軍国主義者を社会的に抹殺しなければならない。

第7条「日本国は占領下に置かれる」
七 右ノ如キ新秩序ガ建設セラレ且日本國ノ戰爭遂行能力ガ破砕セラレタルコトノ確證アルニ至ル迄ハ聯合國ノ指定スベキ日本國領域内ノ諸地點ハ吾等ノ玆ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スル爲占領セラルベシ

【意訳】平和と安全と正義の政府が樹立され、日本が二度と戦争を起こせないようになるまで、我々は日本国に占領軍を配置する。

第8条「日本国の主権・領土を限定する」
八 「カイロ」宣言ノ條項ハ履行セラルベク又日本國ノ主權ハ本州、北海道、九州及四國竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ

【意訳】カイロ宣言を履行し、日本の領土は本州・北海道・九州・四国プラスアルファの小島のみとする。

第9条「日本軍は完全に武装解除せよ」
九 日本國軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復歸シ平和的且生産的ノ生活ヲ營ムノ機會ヲ得シメラルベシ

【意訳】日本軍は完全に武装解除・解散させよ。復員した将兵は家庭に帰り、平和で生産的な生活を送る機会を得られるようにしなければならない。

第10条「戦争犯罪人を罰し、国民の基本的人権を保障せよ」
十 吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ國民トシテ滅亡セシメントスルノ意圖ヲ有スルモノニ非ザルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戰爭犯罪人ニ對シテハ嚴重ナル処罰ヲ加ヘラルベシ日本國政府ハ日本國國民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ對スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ言論、宗敎及思想ノ自由竝ニ基本的人權ノ尊重ハ確立セラルベシ

【意訳】我々は日本人を奴隷にしたり、日本国を滅ぼしたりするつもりはない。ただし我々の捕虜を虐待するなど戦争犯罪人については厳重に処罰しなければならない。
また民主主義を求める日本国民に対する一切の障害を除去し、言論・宗教・思想の自由など基本的人権を保障しなければならない。

第11条「産業を復興し、戦争被害を賠償せよ」
十一 日本國ハ其ノ經濟ヲ支持シ且公正ナル實物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムルガ如キ産業ヲ維持スルコトヲ許サルベシ但シ日本國ヲシテ戰爭ノ爲再軍備ヲ爲スコトヲ得シムルガ如キ産業ハ此ノ限ニ在ラズ右目的ノ爲原料ノ入手(其ノ支配トハ之ヲ區別ス)ヲ許可サルベシ日本國ハ將來世界貿易関係ヘノ參加ヲ許サルベシ

【意訳】日本は日本国内外に対する賠償を行えるよう、産業経済の復興が許される。ただし再軍備につながる産業は別である。必要な原材料は植民地支配や領土拡大と異なる形での調達を許可する。
日本は将来的に国際貿易関係への復帰を許されるべきである。

第12条「いつか占領は終わる」
十二 前記諸目的ガ達成セラレ且日本國國民ノ自由ニ表明セル意思ニ從ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ聯合國ノ占領軍ハ直ニ日本國ヨリ撤収セラルベシ

【意訳】ここまでに掲げた目的が達成されて、日本国民の自由な意思によって平和政府が樹立されたら、占領軍はただちに日本国から撤収しなければならない。

第13条「以上を踏まえて」
十三 吾等ハ日本國政府ガ直ニ全日本國軍隊ノ無條件降伏ヲ宣言シ且右行動ニ於ケル同政府ノ誠意ニ付適當且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府ニ對シ要求ス 右以外ノ日本國ノ選擇ハ迅速且完全ナル壞滅アルノミトス

【意訳】我々は日本国がただちに①日本軍の無条件降伏、そして②日本政府による日本軍降伏の保障を要求する。
さもなくば、日本には破滅の道しか残されていない。

ポツダム宣言まとめ

以上となります

【ポツダム宣言の内容ざっくりまとめ】

① 軍国主義者の社会的抹殺

② 日本国に対する占領

③ 日本国の主権=領土を限定

④ 日本軍の武装解除

⑤ 戦争犯罪人に対する厳罰

⑥ 国民の基本的人権を保障

⑦ 産業復興と被害賠償

⑧ 占領軍の撤収条件

ちなみに文中「カイロ宣言を履行せよ」という旨がありました

このカイロ宣言とは1943年12月1日にルーズベルト米大統領・チャーチル英首相・蒋介石民国主席がエジプトの首都カイロで発表したものです

主な内容は、①日本が占領した地域からの撤退、②満洲・台湾・澎湖諸島の中華民国への返還、③朝鮮の独立などが盛り込まれていました

ただし日本の領土が国際法的に確定したのは、昭和26年(1951年)9月8日に締結され、翌年4月28日に発行したサンフランシスコ平和条約(正式名称:Treaty of Peace with Japan/日本国との平和条約)となります

敗戦から80年の節目となる令和7年(2025年)
今回ポツダム宣言を読み返したことで、平和と独立の大切さを考えるよすがとなれば幸いです

※参考文献:
山田侑平 訳『「ポツダム宣言」を読んだことがありますか?』共同通信社出版センター編、2015年7月
文 / 角田晶生(つのだ あきお) 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

昭和20年(1945年)8月15日、日本の敗戦が昭和天皇の玉音放送によって国民に知らされました

これは前日に日本国政府がポツダム宣言(正式名称:Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender/日本への降伏要求の最終宣言)を受諾したことを意味します

ところでこのポツダム宣言について、誰がどのような内容を発したのか、よくわからないという方も少なくないでしょう


【ポツダム宣言の内容ざっくりまとめ】

① 軍国主義者の社会的抹殺

② 日本国に対する占領

③ 日本国の主権=領土を限定

④ 日本軍の武装解除

⑤ 戦争犯罪人に対する厳罰

⑥ 国民の基本的人権を保障

⑦ 産業復興と被害賠償

⑧ 占領軍の撤収条件

ちなみに文中「カイロ宣言を履行せよ」という旨がありました

このカイロ宣言とは1943年12月1日にルーズベルト米大統領・チャーチル英首相・蒋介石民国主席がエジプトの首都カイロで発表したものです

主な内容は、①日本が占領した地域からの撤退、②満洲・台湾・澎湖諸島の中華民国への返還、③朝鮮の独立などが盛り込まれていました

ただし日本の領土が国際法的に確定したのは、昭和26年(1951年)9月8日に締結され、翌年4月28日に発行したサンフランシスコ平和条約(正式名称:Treaty of Peace with Japan/日本国との平和条約)となります

敗戦から80年の節目となる令和7年(2025年)
今回ポツダム宣言を読み返したことで、平和と独立の大切さを考えるよすがとなれば幸いです


 

 


-戦後70年。日本のいまを考える。-
 

首相の発言で注目を浴びた「ポツダム宣言」
戦後70年のいま、安保法案問題、憲法改正、選挙権の年齢引き下げなど、日本はなにかが変わろうとしています

すべてのものを失った1945年の日本
あのとき、「ポツダム宣言」を受け入れることで戦争が終り、民主化、非軍事化、婦人参政権、憲法改正などなど「ポツダム宣言」の内容と理念にのっとって新生日本が動き出しました。戦後はまさに、「ポツダム宣言」から始まったといえます

「ポツダム宣言」にどんなことが書いてあるのか?
小学生でも、中学生でも、たいていの社会科の教科書に「ポツダム宣言」の記述は出てきますが、ど んな文章で何が書いてあるのか?までは書かれていません
原文は英語、外務省の発表している公式訳は文語体
とても現代人には読みにくいので、対訳を掲載し、英語からも、文語体からも、読めるようにしました

原文の英語と、公式訳の文語体に対訳をつけ、当時の資料写真なども掲載しました
まずは事実を知り、戦後70年のいまと、これからを考えてみる基本書です
学生の夏休みの学習にも最適です

こんな1冊が欲しかった!?

プロフェッショナルの知識をイラストでやさしく学べる『歴史、食材、調理法、郷土料理まで フランス料理図鑑』が好評発売中です
レストランの料理はもちろん、ポトフとフランスパンといった家庭料理まで
食の世界をリードしつづけるフランス料理の魅力を親しみやすいイラストでたのしく紹介します



入門書にしてフランス料理のすべてがわかるイラスト図鑑

監修の山口杉朗シェフは、フランスはパリに自身のレストランを展開するなど第一線で活躍中
そんな彼がフランス料理を志したころ、こんな本があったらよかったのに・・・とのお墨付きなのがこの1冊

フランス料理のルーツ、食材、調理法、郷土料理の、プロの知識をイラストでわかりやすく解説します
知っておきたい基本から、知っていたらフレンチがもっとおいしくなる知識までを厳選&網羅しています
入門書として最適、かつ食材事典としても活用できます

変わりゆくトレンドの「今」の楽しみかたがわかるのも本書ならではです

たとえば、つい常識と思いがちな、料理にあわせてワインを白や赤に変更するのも、今は昔
最近はコースを通して1本だけゆっくり飲むスタイルが主流なんだとか。また、ドレスコードもかなり自由になっているそう
親しみやすいイラストで楽しくフランス料理のすべてが学べるこのスタイルは、本書だけ!

ルーツがわかるとフランス料理がわかる?

中世に始まるフランス料理の歴史。今、私たちが本格フレンチとして楽しんでいる料理のアレコレにはすべてルーツがあるのです
ルーツを知れば、現代の高級料理として知られるフランス料理を理解できると言っても過言ではありません
もしかしたら、あなたのお気に入りの一品を太陽王ルイ14世も愛していたかも

一見退屈な内容も、ユーモアのきいたイラストとコンパクトな説明で読みやすく、ポイントがつかみやすくなっています
たとえば日本料理では見かけない料理名のつけかたにもルーツが
フレンチのファンならレストランに行くのが楽しみに、料理の仕事に携わっている人なら自分のアイデアに生かしたくなることでしょう
現代の著名なシェフたちの特長も整理して紹介します

食材事典としても大活躍!

聞き慣れない食材が多数登場するフランス料理
チーズやワインはたくさんの入門書や専門書がありますが、本書では料理の食材も丁寧に紹介しています

地方ごとに野菜や果物、肉、魚を網羅、さらに特産品やアルコール、パン、スイーツもすべておさえています
フランス語での名称には必ず日本での呼び名も記載
地方によって変わる呼び名も解説。最適な調理方法やソースもあわせて記載し、食材事典としても活用できるようにしました
また、チーズやワインというと、ついカタログみたいに丸暗記してしまいがち
この本なら地方の名産や料理と一緒に調べられるので、最適な組み合わせを発見しやすくなるでしょう

郷土料理にも詳しい!

フレンチというと、洗練されたモードを取り入れた、アートのような存在と思いがちです
しかし、実際には素朴な郷土料理の精神が深く、今なお見える形で息づいていることを知っている人も多いのでは
その名を馳せるトップシェフたちは皆、土地に根差した食材と歴史を大切にしながら、アートへと料理を育てあげたのです
それゆえ郷土料理のバリエーションや味わいを知ることは、すなわちフランス料理を知ることと言えるかもしれませんね

愛らしい伝統衣装や各地方の歴史を楽しみながら、それぞれの土地の風土や暮らし、名産、食材がどんな料理に結びついているのか調べてみましょう
個性豊かな料理はどれもビストロで目にするものばかり

この本を読み終えるころには「フランス料理に詳しくなるってこういうことなんだ」と体感しているはず

レストランでのオーダー時に、つかわれている野菜や肉といった食材、あわせるワインにまでこだわれるようになれますね
仕事として携わっている人ならアイデアに生かしたくなるのでは

どうしてシェフがその食材を選んだのか、どうしてその調理法にしたのか、こだわりがわかれば、よりフレンチがおいしく、もっと知りたくなることうけあいです


書誌情報
書名:歴史、食材、調理法、郷土料理まで フランス料理図鑑
監修者:山口杉朗
定価:2420円(税込)
判型:A4変型判/128ページ
ページ数:128p
ISBN:978-4-537-22213-5

監修者プロフィール
山口杉朗(やまぐち・すぎお)
武蔵野調理師専門学校を卒業後、ディズニーシー・ホテルミラコスタにてフランス料理の基礎を学び、22歳で渡仏
トゥールーズ、リヨン、パリのレストランにて経験を積みながら、フランス各地の料理と文化を学ぶ
生産者との関わりも強く、食材から料理まで造詣が深い
セロリレムラードをはじめ、数々の料理コンクールにて入賞するなど、フランス料理の真髄を反映した料理は高い評価を得ている
監修書に『ジビエレシピ プロのためのジビエ料理と狩猟鳥獣』(グラフィック社)がある

(この記事はラブすぽの記事で作りました)

 


こんな本がほしかった!?
パリに自身のレストランを構える監修者いわく「フランス料理を学びはじめたころに読みたかった」一冊

フランス料理のルーツ、食材、調理法、郷土料理までプロの知識をイラストでわかりやすく解説します
入門書として最適&食材事典としても活用させて

チーズやワインにはたくさんの入門書がありますが本書では地方ごとに野菜や果物、肉、魚、さらに特産品やアルコール、パン、スイーツも紹介
おもな調理方法やソースも
チーズやアルコールも地方の名産や料理と一緒に調べられるので最適な組み合わせを見つけやすくなっています
現代のトップシェフたちも整理して紹介します

この本を読み終えるころには「フランス料理に詳しくなるってこういうことなんだ」と体感しているはず
ファンならレストランに行くのが楽しみに、仕事として携わっている人ならアイデアに生かしたくなるのでは
たとえばディナーの場でもどうしてシェフがその食材を選んだのかどうしてその調理法にしたのか、こだわりがわかれよりフレンチがおいしく、もっと知りたくなることうけあいです

古代から近代まで続いた「妾」囲いの慣習

正妻のいる男性と契約を結び、経済的な援助を受ける代わりに男女関係を担う女性を「妾(めかけ)」と呼びます

正妻以外に女性を持つ慣習は古代(奈良・平安時代)から存在し、日本古代の婚姻形態は「一夫多妻婚」あるいは「一夫一妻多妾婚」ともいわれます

もっとも、その多くは経済的に余裕のある貴族や武家層に限られていました

江戸時代に入ると、大名家では男子が絶えると幕府から「家名断絶・領地召し上げ」という過酷な処分が下されたため、殿様は複数の妾(側室)を置き、子をもうけることが一般化します

このような事情から、江戸時代初期には上級武家や豪商の間で妾を置く習慣が広まりました

さらに、時代が下って江戸後期になると、下級武士や一般商人の間でも妾を囲うことが行われるようになります

現代の常識では理解しがたいことですが、当時は妾を持ち、複数の女性と関係を持つことが広く容認されていました

この点については、やはり男尊女卑の価値観が背景にあったといえます
加えて、日本で信じられてきた儒教や仏教が一夫多妻制を否定していなかったことも、こうした風潮に影響したと考えられます

この「妾」を否定しない風潮は、江戸時代の終焉後も明治・大正期まで続きました
新聞『万朝報(まんちょうほう)』を主宰した黒岩涙香は、妾を持つ人物およそ500名を名指しで糾弾しています

その中には、伊藤博文、犬養毅、原敬といった首相経験者の他、文学者の森鴎外、医学者の北里柴三郎といった文化人まで含まれいるから驚きです

誰もが偉人と考えている人々も、しっかりと「お妾さん」を囲っていたのです

上級から「安囲い」まで幅広かった妾のランク

話を江戸時代に戻しましょう

あくまで物語上のことですが、井原西鶴は『好色一代女』の中で、とある殿様が契約金とは別に、「妾」の周旋屋へ支度金として100両を渡したと記しています

江戸期は時代により貨幣価値が異なりますので、これを仮に1両=5万~10万円で換算すると、500万円~1000万円に相当します

そして江戸後期になると、経済的に余裕のない下級武士や一般商人でも「妾」を持つ者が現れ、男数人でお金を出し合って一人の女性を囲う「安囲い」が流行しました

この「安囲い」ではたいてい5人ほどで囲い、それぞれが日を決めて女性のもとに通ったといいます

ちなみに、幕末の頃の「妾」の相場は、上級の女性で月に3両~5両ほど、安い方では1両程度とされます
時代が下るにつれて貨幣価値は下がるため、これを現在の価値に換算すると、上級で約15万~25万円、下級でおよそ5万円ほどになるでしょう

1両程度では大した実入りにならないため、下級の女性は特に「安囲い」で複数の男性と契約を結びました。

例えば5人と契約すれば月収は約25万円となり、男性側も1人あたり約5万円で済むため、まさに買う側・買われる側の双方にとって“ウィンウィン”の関係が成立したのです

しかし、いくら「妾」奉公が差しさわりのない時代であっても、何人もの男と金銭で関係を結ぶことは遊女同様に売春を生業としていると見なされ、1859(安政6)年には、これを禁止する法令が出されたのです

下女奉公の収入額をはるかに超えた「妾奉公」

では、なぜ「妾」奉公や「安囲い」が流行したのでしょうか

それは、江戸時代の男性は武家・町民を問わず、地方から江戸へ出てくる者が多かったためです

彼らは地元に妻子がいても、江戸では独り身同然
そうした仮の独身者たちが、『安囲い』によって男女の関係を求めていたのです

もちろん、遊郭や岡場所に通うという選択肢もありました

しかし、遊郭では最も安い新造でも1回あたり約1万2千円、岡場所や宿場の飯盛女もほぼ同額でした

また、需要という面では、女性側にもメリットがありました
下女奉公の給金は1年で1両2分が相場とされ、懸命に働いても年間わずか6万円から12万円程度にしかなりません

それに比べれば、たとえ「安囲い」であっても、1か月25万円という「妾」の暮らしは、はるかに豊かでした

そのため、小商いを営む商家の娘などが、すすんで「安囲い」をはじめることもあったのです

生活への不安が娘たちを「妾奉公」に駆り立てた

「妾奉公」や「安囲い」は、現代でいうパパ活や援助交際に近い関係とみなすこともできるでしょう

その背景には、町場に暮らすごく普通の女性たちが、貧しさゆえに抱える生活苦が大きく関わっていました

江戸中期から幕末にかけては、数々の災害が発生し、それに伴って飢饉も頻発した時代です
江戸幕府はもとより、各藩も財政の悪化に苦しみ、幕政改革や藩政改革がたびたび行われました

よく知られる幕政改革としては、徳川吉宗の享保の改革、田沼意次の田沼政治、松平定信の寛政の改革、水野忠邦の天保の改革があります
しかし、改革路線に一貫性がなかったため、改革のたびに貨幣価値が大きく変動しました

1両小判の値打ちが急に倍になったり、半分になったりと経済は安定せず、人々は常に生活への不安を抱えながら暮らしていたのです

このような状況の中で、下級武士や庶民の暮らしはますます逼迫していきました
庶民の娘が「妾奉公」に身を委ねるのも、まさにこうした時代背景ゆえのことであったのです

※参考 :
菊地ひと美著 『花の大江戸風俗案内』ちくま文庫刊
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

古代から近代まで続いた「妾」囲いの慣習

正妻のいる男性と契約を結び、経済的な援助を受ける代わりに男女関係を担う女性を「妾(めかけ)」と呼びます

正妻以外に女性を持つ慣習は古代(奈良・平安時代)から存在し、日本古代の婚姻形態は「一夫多妻婚」あるいは「一夫一妻多妾婚」ともいわれます

もっとも、その多くは経済的に余裕のある貴族や武家層に限られていました

江戸時代に入ると、大名家では男子が絶えると幕府から「家名断絶・領地召し上げ」という過酷な処分が下されたため、殿様は複数の妾(側室)を置き、子をもうけることが一般化します

このような事情から、江戸時代初期には上級武家や豪商の間で妾を置く習慣が広まりました

さらに、時代が下って江戸後期になると、下級武士や一般商人の間でも妾を囲うことが行われるようになります

現代の常識では理解しがたいことですが、当時は妾を持ち、複数の女性と関係を持つことが広く容認されていました

この点については、やはり男尊女卑の価値観が背景にあったといえます
加えて、日本で信じられてきた儒教や仏教が一夫多妻制を否定していなかったことも、こうした風潮に影響したと考えられます

この「妾」を否定しない風潮は、江戸時代の終焉後も明治・大正期まで続きました
新聞『万朝報(まんちょうほう)』を主宰した黒岩涙香は、妾を持つ人物およそ500名を名指しで糾弾しています

その中には、伊藤博文、犬養毅、原敬といった首相経験者の他、文学者の森鴎外、医学者の北里柴三郎といった文化人まで含まれいるから驚きです

誰もが偉人と考えている人々も、しっかりと「お妾さん」を囲っていたのです


性欲は人間の性(さが)、もっといえば生物の性といえます
それに「経済的不安」もありました


生活への不安が娘たちを「妾奉公」に駆り立てた

「妾奉公」や「安囲い」は、現代でいうパパ活や援助交際に近い関係とみなすこともできるでしょう

その背景には、町場に暮らすごく普通の女性たちが、貧しさゆえに抱える生活苦が大きく関わっていました

江戸中期から幕末にかけては、数々の災害が発生し、それに伴って飢饉も頻発した時代です
江戸幕府はもとより、各藩も財政の悪化に苦しみ、幕政改革や藩政改革がたびたび行われました

よく知られる幕政改革としては、徳川吉宗の享保の改革、田沼意次の田沼政治、松平定信の寛政の改革、水野忠邦の天保の改革があります
しかし、改革路線に一貫性がなかったため、改革のたびに貨幣価値が大きく変動しました

1両小判の値打ちが急に倍になったり、半分になったりと経済は安定せず、人々は常に生活への不安を抱えながら暮らしていたのです

このような状況の中で、下級武士や庶民の暮らしはますます逼迫していきました
庶民の娘が「妾奉公」に身を委ねるのも、まさにこうした時代背景ゆえのことであったのです





 

 


「そこ」で働く女性は三〇万人以上
そんな一大産業でありながら、ほとんど表で語られることがないのが性風俗業界だ
どんな業態があるのか? 濡れ手で粟で儲かるのか? なぜ女子大生と介護職員が急増しているのか?
どのレベルの女性まで就業可能なのか?
成功する女性の条件は?

 業界を熟知した著者が、あらゆる疑問に答えながら、「自らの意思でポジティブに働く」現代日本の風俗嬢たちのリアルを活写する

名前だけ知られた三国志の勝者

司馬炎は、西晋の初代皇帝として三国時代を終結させた人物である

およそ百年にわたる群雄割拠を統一へと導き、その名は歴史の教科書にも刻まれているが、生涯の詳細はあまり語られることがない

皇帝でありながら、三国志を題材とする創作作品での登場場面は決して多くなく、知名度の割に描写は控えめだ

この最後の勝者となった司馬炎の歩みを、史実に基づいてたどっていきたい


魏最大のエリート

司馬炎は236年、司馬懿の次男である司馬昭と、その正室・王元姫の長男として生まれた

その系譜をたどれば、祖父の司馬懿は言うまでもなく、曽祖父の司馬防、さらに伝承では戦国期から秦にかけての武将・司馬卬(しばごう)まで遡る名家の血筋である
魏でも最大の名門といっても過言ではない家系であり、超名門の司馬家に生まれた司馬炎は、エリート中のエリートだった

若年期の具体的な逸話は多く残されていないが、本籍地である河内郡では「九品官人法」の登用基準として「比較できる者がいないほど優秀」と評されたという※九品官人法とは、人物を九段階に評価して官職に登用する制度

ただし、これは後世の美称とも考えられ、史実としての信憑性は高くない

九品官人法は本来、家柄ではなく才能で登用する制度だったが、実際には有力者の意向が強く働き、司馬炎も祖父や父の後を継いで順調に昇進した

やがて司馬師と司馬懿が相次いで没し、魏の軍政を握る司馬家の実権は、司馬昭の手に移った

そして、長男である司馬炎がその後継者になると目されていたが、ここで思わぬ問題が生じる

司馬攸との後継者争い

司馬師には実子がなかったため、弟の司馬昭は兄の家を継がせるべく、三男の司馬攸(しばゆう)を養子に送っていた

司馬炎と司馬攸は、同じ父母を持つ実の兄弟であり、本来であれば長兄である司馬炎が家督を継ぐのが順当であった

しかし人柄や才覚においては、弟の司馬攸が兄を上回ると評されることが多かったのである

幼少期から聡明温厚で、文才にも優れ、軍事・政務の両面で民望を集めた司馬攸は、祖父の司馬懿のみならず、父の司馬昭からも深く愛されていた

蜀漢滅亡の翌年、咸熙元年(264年)に晋王となった司馬昭は、後継者の指名にあたり「養子とはいえ、兄・司馬師の跡を継いだ司馬攸こそ相応しい」と考えていたという
これは、宗家の正統を重んじた判断でもあった

しかし、この案は重臣たちから異議を唱えられた

古来より、長子を立てる慣例を破ったことで国が乱れた例は少なくない
こうした背景に加え、曹操と曹丕・曹植、袁紹の後継者争いといった過去の例が引き合いに出され、最終的に司馬昭は、司馬炎を世子に立てる決断を下した

しかし、この決定に司馬昭が最後まで納得していたかは定かでない

死の間際まで司馬攸を気に掛け、その将来を案じていたとされる
後世には、司馬昭の遺詔が司馬炎派によって改竄されたとの説もあるが、確証はない
また、兄弟の母である王元姫も、臨終に際して司馬炎に「弟と仲違いするな」と繰り返し諭していたという

やがて皇帝となった司馬炎にとって、自分より人望を集める弟の存在は看過しがたいものであったが、呉の二宮事件のように国を二分するような内紛は避け、表立った衝突はなかった

なお、両親の死後も司馬攸は晋の要職を歴任し、少なくとも呉の滅亡までは冷遇らしい冷遇を受けた形跡は見られない

むしろその実務能力ゆえに、統一前の晋において重要な役割を担い続けていた

三国統一後の司馬炎

太康元年(280年)、晋は呉を滅ぼし、約百年に及んだ群雄割拠の時代は終焉を迎えた
これにより、中国全土を支配する晋は、後漢末以来およそ90年ぶりの統一政権となった

しかし、最大のライバルだった呉が滅び、国内から有力な対抗勢力が消えると、司馬炎は国家運営への緊張感を失い、次第に政治への関心を薄れさせていった

それまでの司馬炎が無難な政務運営を心がけていたのは、あくまで呉に付け入る隙を与えないためであった
統一後も治世は安定していたが、積極的な改革や遠大な施策はほとんど見られない

もっとも、魏末に宗室を権力中枢から遠ざけた結果、司馬氏の簒奪を許したという前例を踏まえ、晋では要職を司馬氏一族で固める体制が敷かれた
これは短期的な政権安定には寄与したものの、後に一族間の内紛を招く火種ともなった

政策面では、三国統一後の軍縮や、成人男子に土地を分与する占田・課田制(せんでん・かでんせい)の実施などが挙げられるが、それらも制度的な整備の域を出ず、治世全体を特徴づけるほどの革新性はなかった

やがて、司馬炎は皇帝として後継者を決める局面に直面する

長男の司馬衷(しばちゅう)はすでに成人していたが、資質に乏しく、後に飢饉の際「米がなければ肉を食べればよいではないか」と語ったと伝わるほど、世情に疎く暗愚な人物であった

この逸話は後世の脚色の可能性も高いが、同時代においても暗愚の評判は広く知られており、重臣や民衆の多くは依然として司馬攸の継承を望んでいた

司馬攸の死

晋が三国を統一した当時、世子の司馬衷はすでに成人していたが、その暗愚ぶりは朝廷内外に知れ渡っていた

一方、皇弟の司馬攸は温厚で才覚に優れ、重臣の多くが彼を次期皇帝に推していた

能力・人望のいずれを取っても、どちらが後継者として望ましいかは明らかだった

しかし司馬炎は諫言を退け、長男の司馬衷を指名した

司馬攸は形式上は重職に留まりながらも、実質的には都から遠ざけられ、斉王として青州方面への赴任を命じられた
これが「厚遇」に見せかけた左遷であることを、司馬攸自身も理解していたという

失意の中で病となった司馬攸は、「母・王元姫の墓を守りたい」として官職辞退を願い出る
しかし侍医が「病気ではない」と虚偽の報告を行ったため、司馬炎は許可せず、予定通り斉への出立を命じた

そのわずか二日後、司馬攸は血を吐いて急死した
弟の死に際し、司馬炎は虚偽報告を行った医師を処刑し、深く嘆いたとされる

しかし、同時代の逸話によれば、侍中・馮紞(ふうたん)が「皇帝よりも支持を集めていた司馬攸の死は、むしろ幸いである」と述べるや、司馬炎はその言葉に内心同意したのか、悲しみが急速に冷め、涙も止まったという

兄弟の父である司馬昭も、母の王元姫も、生前から二人の不和を憂えていた
その危惧は現実となってしまったのである

皇帝になってしまった凡人?

司馬攸の死から七年後の290年、司馬炎は56歳で崩御した

その後は、長男・司馬衷が予定通り後を継ぎ、西晋の第2代皇帝(恵帝)となった

しかし司馬衷は、後世の史家から「歴代皇帝の中でも匹敵するものがない愚か者で、馬鹿すぎて国を潰した」と評されるほど暗愚であった

彼の治世で晋は急速に弱体化し、皮肉にも司馬炎が一族の権力を強化するため各地に配置した王侯たちが争い、「八王の乱」と呼ばれる大規模な内乱が勃発

これが、もとより脆弱だった晋を滅亡へと追い込む決定打となった

司馬炎自身は、在位中に目立った実績を残すことはほとんどなかった

晩年の司馬炎は、祖父・司馬懿、伯父・司馬師、そして父・司馬昭が築いた地位を受け継いだに過ぎないと評されることもあった

ある時、司隷校尉の劉毅(りゅうき)に「歴代の皇帝で言えば、自分はどのあたりに当たるか」と尋ねたところ、返ってきたのは意外にも辛辣な一言だった

「陛下は桓帝、霊帝のごときお方です」

桓帝はまだしも、霊帝は当時から暗君の代名詞である
それを引き合いに出された司馬炎は不快感を示し、「その評価はあまりに厳しすぎる」と抗議する
しかし劉毅はさらに踏み込んだ

「桓帝も霊帝も、官職を売って得た金は国庫に納めました。陛下はそれを私財とされる。そこだけを見れば、お二人よりも下でしょう」

思わぬ反論にも、司馬炎は笑いながらこう返した

「桓帝や霊帝に、そんなことを面と向かって言える者はいなかった。私にははっきり言ってくれる者がいる。それだけでも同じではないだろう」

売官の事実を否定しなかった点は看過できないが、司馬炎には臣下の辛辣な意見を笑って受け止める度量は確かにあった
また、悪政を敷いたわけではないため、暴君とも言えない

しかし、為政者として突出した資質を備えていたとは言い難いだろう

盛り塩の起源は司馬炎?

司馬炎には、他にも有名な逸話が残っている

彼は生来の女好きで、273年には全国で女子の結婚を禁じ、後宮に入れる5000人を自ら選抜したという

後宮全体では1万人以上の女性がいたとされるが、この中には侍女なども含まれており、実際の対象はそれより少なかった。

それでもなお、全員と関係を持つのは到底不可能な人数だっただろう

そこで司馬炎は、羊に引かせた車に乗り「羊が止まった部屋の女性と一夜を共にする」という奇妙な方法を考案した

女性たちは羊を自室の前で足止めするため、竹の葉を差し出し、さらに塩を盛って誘ったという

羊は竹を食べ、塩を舐めるためにその場にとどまり、結果的にその部屋の女性が司馬炎と一夜を共にできたのだ

この「盛り塩」が、やがて日本にも伝わったとする説がある(他説あり)

もっとも、この話にはちょっとしたオチがある

盛り塩で羊を引き寄せようとする者があまりに多かったためか、司馬炎はそうした小細工に頼らない女性を好むようになっていったのだ

その代表が貴嬪(側室)の胡芳(こほう)であり、彼女は司馬炎の寵愛を受け、その部屋は皇后をもしのぐほどの豪華さで飾られたという

権力を握り、天下統一を果たしたにもかかわらず、政治よりも後宮での享楽に傾倒していった司馬炎の姿は、西晋の盛衰そのものを象徴していたのかもしれない

参考 : 『晋書』帝紀・武帝紀、恵帝紀『資治通鑑』『世説新語』ほか
文 / mattyoukilis 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

名前だけ知られた三国志の勝者

司馬炎は、西晋の初代皇帝として三国時代を終結させた人物である

およそ百年にわたる群雄割拠を統一へと導き、その名は歴史の教科書にも刻まれているが、生涯の詳細はあまり語られることがない

皇帝でありながら、三国志を題材とする創作作品での登場場面は決して多くなく、知名度の割に描写は控えめだ


皇帝になってしまった凡人?

司馬攸の死から七年後の290年、司馬炎は56歳で崩御した

その後は、長男・司馬衷が予定通り後を継ぎ、西晋の第2代皇帝(恵帝)となった

しかし司馬衷は、後世の史家から「歴代皇帝の中でも匹敵するものがない愚か者で、馬鹿すぎて国を潰した」と評されるほど暗愚であった

彼の治世で晋は急速に弱体化し、皮肉にも司馬炎が一族の権力を強化するため各地に配置した王侯たちが争い、「八王の乱」と呼ばれる大規模な内乱が勃発

これが、もとより脆弱だった晋を滅亡へと追い込む決定打となった

司馬炎自身は、在位中に目立った実績を残すことはほとんどなかった

晩年の司馬炎は、祖父・司馬懿、伯父・司馬師、そして父・司馬昭が築いた地位を受け継いだに過ぎないと評されることもあった

ある時、司隷校尉の劉毅(りゅうき)に「歴代の皇帝で言えば、自分はどのあたりに当たるか」と尋ねたところ、返ってきたのは意外にも辛辣な一言だった

「陛下は桓帝、霊帝のごときお方です」

桓帝はまだしも、霊帝は当時から暗君の代名詞である
それを引き合いに出された司馬炎は不快感を示し、「その評価はあまりに厳しすぎる」と抗議する
しかし劉毅はさらに踏み込んだ

「桓帝も霊帝も、官職を売って得た金は国庫に納めました。陛下はそれを私財とされる。そこだけを見れば、お二人よりも下でしょう」

思わぬ反論にも、司馬炎は笑いながらこう返した

「桓帝や霊帝に、そんなことを面と向かって言える者はいなかった。私にははっきり言ってくれる者がいる。それだけでも同じではないだろう」

売官の事実を否定しなかった点は看過できないが、司馬炎には臣下の辛辣な意見を笑って受け止める度量は確かにあった
また、悪政を敷いたわけではないため、暴君とも言えない

しかし、為政者として突出した資質を備えていたとは言い難いだろう

盛り塩の起源は司馬炎?

司馬炎には、他にも有名な逸話が残っている

彼は生来の女好きで、273年には全国で女子の結婚を禁じ、後宮に入れる5000人を自ら選抜したという

後宮全体では1万人以上の女性がいたとされるが、この中には侍女なども含まれており、実際の対象はそれより少なかった。

それでもなお、全員と関係を持つのは到底不可能な人数だっただろう

そこで司馬炎は、羊に引かせた車に乗り「羊が止まった部屋の女性と一夜を共にする」という奇妙な方法を考案した

女性たちは羊を自室の前で足止めするため、竹の葉を差し出し、さらに塩を盛って誘ったという

羊は竹を食べ、塩を舐めるためにその場にとどまり、結果的にその部屋の女性が司馬炎と一夜を共にできたのだ

この「盛り塩」が、やがて日本にも伝わったとする説がある(他説あり)

もっとも、この話にはちょっとしたオチがある

盛り塩で羊を引き寄せようとする者があまりに多かったためか、司馬炎はそうした小細工に頼らない女性を好むようになっていったのだ

その代表が貴嬪(側室)の胡芳(こほう)であり、彼女は司馬炎の寵愛を受け、その部屋は皇后をもしのぐほどの豪華さで飾られたという

権力を握り、天下統一を果たしたにもかかわらず、政治よりも後宮での享楽に傾倒していった司馬炎の姿は、西晋の盛衰そのものを象徴していたのかもしれない



 

 


魏・蜀・呉、三国の興亡を描いた『三国志』には、「桃園の誓い」「三顧の礼」「出師の表」「泣いて馬謖を斬る」など心打つ名場面、また「水魚の交わり」「苦肉の策」「背水の陣」「髀肉の嘆」など名言や現代にも通じる格言も数多く登場する
また、曹操、劉備、孫権、孔明、関羽、張飛、趙雲、周瑜、司馬懿など個性豊かで魅力的な登場人物に加え、官渡の戦い、赤壁の戦い、五丈原の戦い等、歴史上重要な合戦も多い
英雄たちの激闘の系譜、名場面・名言が図解でコンパクトにすっきりわかる『三国志』の決定版!
長い中国史で「三国志」の時代はわずかだ
しかしこの時代は個性的、魅力的人物が多く登場した

明治維新で社号や祭神が変更された

「八坂神社」「金刀比羅宮」「談山神社」
いずれも全国的に知られ、多くの参拝者から崇敬を集める有名な神社である

しかし、これらの社号は明治維新の際に新たに付けられ、さらには祭神までも変更されていたという事実は、あまり知られていないだろう

実際には、これら三社に限らず、全国各地で古くから伝わる社号や祭神が、明治政府の宗教政策の方針によって改められた事例は多い

では、なぜ明治政府はこのような強硬な政策を実施したのだろうか


日本固有の神道より上の立場とみなされた仏教

明治維新を迎えた新政府は、明治天皇の治世を初代・神武天皇の創業になぞらえ、その理念を国家統治の基盤に据えた

そして、祭祀と政治が一体化した神権政治が行われていたとされる神武天皇の時代を再現するために「王政復興の大号令」を布告した

つまり、神道を天皇崇拝に則った国教とする必要があったのだ
しかし、そこには日本独特の宗教観である「神仏習合」という大きな問題が立ちはだかった

「神仏習合」とは、簡単に言えば日本固有の宗教であった「神道」に、大陸から伝来した「仏教」が融合し、一つの信仰体系として再構成された宗教現象をいう

「神仏習合」では、日本の神々は仏や菩薩が姿を変えて現れたものであるとされ、神と仏は本来一体であるとみなされた

しかし、なぜこれが問題なのかというと、いつのまにか日本固有の神々が、仏の格下として扱われるようになっていたからである

そのため「神身離脱(しんしんりだつ)」と呼ばれる観念が生まれ、神々は自らの立場を嘆き、仏法に帰依して三宝に従いたいと願う存在、すなわち仏法を守護する善神として説明された

これが神宮寺の成立につながった

つまり、江戸時代末期まで、寺院と神社が結びつき、同じ境内や隣接する敷地に寺社が一体となって存在しているのが、ごく当たり前の光景だったのだ

それどころか、神道の「家元」ともいえる天皇家までもが仏教を重んじており、京都御所には、歴代天皇の位牌を納める「御黒戸(おくろど)」と呼ばれる仏堂があり、歴代天皇はそこで仏教式に供養されていたのである

神権政治を行うため、奈良時代以降の神仏習合を否定

明治維新政府は、明治天皇による神権政治を実現するため、「神仏習合」を完全に否定する必要があった

そのため、従来の社号や祭神を改めるという強硬な方針が打ち出された

1868(明治元)年3月、神社から仏教的要素を排除する「神仏分離」政策が開始され、同月28日には「神仏判然令(神仏分離令)」が発せられた

これにより、神名に仏教的用語を含む神社の祭神を変更すること、また仏像を神体としていた神社から仏像を取り除くこと、などが命じられた

この政府主導の宗教改革は、寺院の破壊や仏像の廃棄といった、前代未聞の「廃仏毀釈」の嵐を巻き起こした

さらに、国家によって保護される立場にあった神社側にも大きな混乱をもたらすこととなった

奈良時代以降、「神仏習合」が当然のあり方とされてきたにもかかわらず、わずかでも仏教的要素を含む神社は、明治政府の方針により社号や祭神の変更を余儀なくされ、その数は多岐にわたったのである

では、明治政府によって社号や祭神を改めさせられた代表的な神社として、「八坂神社」(京都)、「江島神社」(神奈川)、「都久夫須麻神社」(滋賀)の三社を紹介しよう

牛頭天王から素戔嗚尊に祭神が変わった「八坂神社」

祇園祭で有名な京都の「八坂神社」は、幕末までは「祇園感神院」や「祇園社(祇園神社)」と称していた

しかし、「祇園」という名称が仏教に由来する「祇園精舎」に因むものであったため、八坂郷に鎮座する神社であることにちなみ、明治維新の際に「八坂神社」と改称された

また、同社の本来の祭神であった「牛頭天王」は仏教系の尊格であったことから、同じく疫病除けの神として信仰されていた「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」が表に出され、現在では素戔嗚尊が祭神とされている

同社のホームページには、

「平安京遷都以前より鎮座する古社で、『祇園さん』と呼ばれ親しまれております。主祭神の素戔嗚尊(すさのをのみこと)は、あらゆる災いを祓う神様として信仰されており、境内には数多くの神様をお祀りしております」

と記されている

弁財天から宗像三女神へ「江島神社」「都久夫須麻神社」

湘南の人気スポット・江の島に鎮座する「江島神社」は、江戸時代には「与願寺」と称する神仏習合の真言宗寺院であった

当時の本尊かつ御神体は、日本三大弁財天の一つに数えられる「江の島弁財天」であり、江の島詣の参詣者で大いに賑わっていたという

しかし「神仏分離令」により、明治政府から祭神を宗像三女神の「田心姫神(タゴリヒメ)・湍津姫神(タギツヒメ)・市杵島姫神(イチキシマヒメ)」に改められた

現在、江島神社では、奥津宮に多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)、中津宮に市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)、辺津宮に田寸津比賣命(たぎつひめのみこと)をそれぞれ祀っている

弁財天が水の神格を持つことから、同じく海を司る宗像三女神が祭神として擬せられたと考えられる

また、同じく日本三大弁財天の一つ「近江の竹生島弁天」も「都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ)」と改称させられ、祭神も宗像三女神を祭神と定められた

このとき、弁財天像は観音堂へと移され、寺院としては「竹生島宝厳寺」として独立することとなった

このため、宝厳寺のホームページには「神亀元年、聖武天皇の夢枕に天照皇大神が立ち、『江州の湖中に小島あり。その島は弁才天の聖地であるゆえ、寺を建立せよ。そうすれば国家は泰平、五穀は豊穣となり、万民は楽しく暮らせるであろう』とのお告げがあった」と、同寺の縁起が記されている

なお、もう一つの三大弁財天「厳島神社」では、かつて『記紀』に登場しない「伊都岐島大明神(いつきしま だいみょうじん)」という神が祀られていたとされる

しかし、戦国時代ごろに祭神が宗像三女神へと改められたとも言われており、「江島神社」や「都久夫須麻神社」もこの例にならった可能性は否定できない。

このほかにも、明治に入って社号や祭神が変更された代表的な神社には、以下のような例がある

●白山比咩神社(石川県)
旧社名:白山本宮
旧祭神:白山妙理権現
変更後の祭神:菊理媛尊(くくりひめのみこと)、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)

●鵜戸神宮(宮崎県)
旧社名:鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺
旧祭神:鵜戸山権現
変更後の祭神:日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)

●談山神社(奈良県)
旧社名:妙楽寺
旧祭神:談山大明神
変更後の祭神:藤原鎌足

●金刀比羅宮(香川県)
旧社名:金毘羅大権現
旧祭神:金毘羅大権現
変更後の祭神:大物主命(おおものぬしのみこと)、崇徳天皇(すとくてんのう)

以上、著名な四社を挙げたが、他にも枚挙にいとまがないため、このあたりでとどめておこう

社号&祭神変更は、国家的イデオロギーか

「神仏判然令(神仏分離令)」から160年余、そして戦後80年を経た現在
神社によっては、明治期に変更された社号や祭神をそのまま維持しているところもあれば、祭神を元に戻したり、元の祭神と変更後の祭神を併せて祀るところもある

歴史的に確かなのは、明治新政府が社号や祭神の変更を通じて、『古事記』『日本書紀』『延喜式神名帳』に記された神々を、新たな信仰対象として全国の神社に受け入れさせたことである

その結果、地域ごとに独自の由緒や歴史を背負って祀られてきた神々は、日本神話に基づく祭神へと次第に置き換えられていった

1889(明治23)年、日本はアジアで初めて立憲君主制を採用し、大日本帝国憲法を発布した

欧米列強に追いつくため、「殖産興業」「富国強兵」をスローガンに掲げた日本は、その後、日清戦争・日露戦争・満州事変・日中戦争、そして太平洋戦争へと進み、わずか60年足らずの間に、日本とアジア諸国を合わせて約2300万人もの命が失われた

その背景には、国民統合と忠誠心を培うための制度や文化が、明治期から一貫して構築され続けてきたという事実がある
戦後に政治体制は大きく変わったものの、その価値観や象徴の一部は形を変えて今も受け継がれている

こうした視点で見ると、明治政府が全国の神社に対して行った社号や祭神の変更も、単なる宗教改革ではなく、国民意識を方向づけるイデオロギー施策の一環としても位置付けられるだろう

※参考文献
鵜飼秀徳著 『仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか』文春新書刊
安丸良夫著 『神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈』 岩波新書刊
文・写真 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

明治維新で社号や祭神が変更された

「八坂神社」「金刀比羅宮」「談山神社」
いずれも全国的に知られ、多くの参拝者から崇敬を集める有名な神社である

しかし、これらの社号は明治維新の際に新たに付けられ、さらには祭神までも変更されていたという事実は、あまり知られていないだろう

実際には、これら三社に限らず、全国各地で古くから伝わる社号や祭神が、明治政府の宗教政策の方針によって改められた事例は多い

では、なぜ明治政府はこのような強硬な政策を実施したのだろうか


社号&祭神変更は、国家的イデオロギーか

「神仏判然令(神仏分離令)」から160年余、そして戦後80年を経た現在
神社によっては、明治期に変更された社号や祭神をそのまま維持しているところもあれば、祭神を元に戻したり、元の祭神と変更後の祭神を併せて祀るところもある

歴史的に確かなのは、明治新政府が社号や祭神の変更を通じて、『古事記』『日本書紀』『延喜式神名帳』に記された神々を、新たな信仰対象として全国の神社に受け入れさせたことである

その結果、地域ごとに独自の由緒や歴史を背負って祀られてきた神々は、日本神話に基づく祭神へと次第に置き換えられていった

1889(明治23)年、日本はアジアで初めて立憲君主制を採用し、大日本帝国憲法を発布した

欧米列強に追いつくため、「殖産興業」「富国強兵」をスローガンに掲げた日本は、その後、日清戦争・日露戦争・満州事変・日中戦争、そして太平洋戦争へと進み、わずか60年足らずの間に、日本とアジア諸国を合わせて約2300万人もの命が失われた

その背景には、国民統合と忠誠心を培うための制度や文化が、明治期から一貫して構築され続けてきたという事実がある
戦後に政治体制は大きく変わったものの、その価値観や象徴の一部は形を変えて今も受け継がれている

こうした視点で見ると、明治政府が全国の神社に対して行った社号や祭神の変更も、単なる宗教改革ではなく、国民意識を方向づけるイデオロギー施策の一環としても位置付けられるだろう

 

 


維新政権が打ちだした神仏分離の政策と、仏教や民俗信仰などに対して全国に猛威をふるった熱狂的な排斥運動は、変革期にありがちな一時的な逸脱にすぎないように見える
が、その過程を経て日本人の精神史的伝統は一大転換をとげた
日本人の精神構造を深く規定している明治初年の国家と宗教をめぐる問題状況を克明に描き出す

マンドレイク(Mandrake)という植物をご存じだろうか

別名マンドラゴラ(Mandragora)とも呼ばれ、ナス科に属する多年草である

実の形はトマトに似ているが、その可愛らしさとは裏腹に、全体に強い毒を含む
とりわけ根には強力な神経毒が含まれ、実や種子も有毒とされる
誤って口にすれば、激しい中毒症状の末に死に至ることすらあるので、安易な摂取は避けるべきだろう

マンドレイクのもう一つの特徴は、その奇怪な根の形状にある
複雑に枝分かれし、ときに人間の姿を思わせるような形を成すのだ

この異様な外見と強い毒性ゆえに、古代よりマンドレイクは神秘的な植物として語り継がれてきた
霊草として崇められる一方で、時には呪いや災厄をもたらす存在として恐れられたのである

その不気味にして魅惑的なマンドレイクの伝承と歴史について、ひも解いていきたい


旧約聖書におけるマンドレイク

ユダヤ教やキリスト教の聖典『旧約聖書』には、「ドダイーム」と呼ばれる植物が登場する

現在では、これがマンドレイクを指していると考えられている

ドダイームは日本語で「恋なすび」などと訳され、古くから精力増強や不妊治療に効くと信じられてきた

旧約の記述によれば、ヘブライ人の首長ヤコブにはラケルという妻がいたが、彼女は長らく子を授かれなかった
ラケルはこの植物を強く欲しがり、やがて手に入れたものの、効果は見られなかった

それから時が流れ、ようやく神の憐れみによって、ラケルは待望の子・ヨセフを授かったとされる

古代ギリシャ、ローマにおけるマンドレイク

古代ギリシャやローマの時代、マンドレイクは麻酔薬や媚薬、睡眠薬として用いられ、その薬効は広く知られていた

ギリシャの博物学者テオプラストス(紀元前4世紀)の著作『植物誌』には、マンドレイクの収穫に関する記述がある

まず、根のまわりに剣で三重の円を描き、西を向いて切り取るというのが基本の手順とされる
さらに二本目を採取する場合には、性愛について語りながら踊るという奇妙な儀式が加わる
その意図は明確ではないが、当時の人々にとっては、神聖な力を扱うための重要な作法だったのだろう

一方、ローマではマンドレイクが軍事戦術に利用されたという伝承もある

ローマの軍事作家セクストゥス・ユリウス・フロンティヌスの著書『戦略集(Strategemata)』には、カルタゴの将軍マハルバルによる逸話が紹介されている

マハルバルは反乱分子を一掃するため、マンドレイクの毒を混ぜたワインを野営地に残し、そこを離れた。
やって来た反乱軍は毒入りとは知らずに宴を開き、次々と中毒を起こして倒れていった。
戻ってきたマハルバルの軍勢は、動けなくなった敵を容赦なく討ち取ったという。

また、ローマ時代のユダヤ人歴史家フラウィウス・ヨセフスは、その著作『ユダヤ戦記』の中で、マンドレイクの採取方法について詳述している

彼の記述によれば、マンドレイク(作中では「バアラス」と呼ばれる)は、意思を持つかのように採取者の手をすり抜けるという

これを止めるには女性の尿や経血をかける必要があるが、直接触れれば命を落とすとされていた
そのため、動きを封じたバアラスに縄をかけ、犬に引かせて根を抜かせるという方法が用いられた

犬は直後に命を落とすが、その後であれば安全に触れることができ、引き抜かれたバアラスは除霊などの儀式にも用いられたという

こうした記録を見れば、マンドレイクは古代において実用的な薬草として、また神秘的な力を持つ存在として重視されていたことが分かる

しかし、時代が下るにつれて、そのイメージは次第に変容していくこととなる

中世・中近世におけるマンドレイク

マンドレイクにまつわる最も有名な伝承のひとつに、「引き抜くと金切り声を上げ、その声を聞いた者は命を落とす」というものがある

この言い伝えは、古代にあった「マンドレイクに触れると死ぬ」という禁忌の観念が、中世を通じてより劇的な形へと変化したものと考えられている

さらに中世ヨーロッパでは、「処刑された罪人の体液からマンドレイクが生える」という伝承も広まった
死と呪術のあいだに生まれた不気味な存在として語られるようになり、そのイメージはますます陰鬱さを帯びていった

また、「童貞の体液でなければマンドレイクは生じない」とする説も存在する

子をなせなかった人間が、死に際に化け物を生み出すことになるとは、なんという因果であろうか

主な亜種

こうしてマンドレイクの伝承はヨーロッパ各地に広がり、地域ごとにさまざまな解釈や変容を見せていった

なかでも最も有名な「ご当地マンドレイク」が、ドイツに伝わるアルラウネ(Alraune)である

アルラウネは、やはり絞首刑にされた罪人の体液から発生するとされ、刑場の地中に群生しているという

引き抜くと悲鳴を上げる点はマンドレイクと同様だが、その後は一転して、持ち主に富や幸運をもたらす「お守り」のような存在になるという

グリム兄弟が著した『ドイツ伝説集』にも、アルラウネに関する記録が残されている

そこでは、童貞の盗賊が絞首刑に処された際に漏らした体液、あるいは無実のまま処刑された者の怨念が混じった体液から、アルラウネが生じると記されている

いつの時代も人々は、目に見えぬ力に畏怖や希望を託してきた
マンドレイクもまた、そのひとつだったのかもしれない

参考 :『旧約聖書』『植物誌』『Strategemata』『ユダヤ戦記』『ドイツ伝説集』
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

マンドレイク(Mandrake)という植物をご存じだろうか

別名マンドラゴラ(Mandragora)とも呼ばれ、ナス科に属する多年草である

実の形はトマトに似ているが、その可愛らしさとは裏腹に、全体に強い毒を含む
とりわけ根には強力な神経毒が含まれ、実や種子も有毒とされる
誤って口にすれば、激しい中毒症状の末に死に至ることすらあるので、安易な摂取は避けるべきだろう

マンドレイクのもう一つの特徴は、その奇怪な根の形状にある
複雑に枝分かれし、ときに人間の姿を思わせるような形を成すのだ

この異様な外見と強い毒性ゆえに、古代よりマンドレイクは神秘的な植物として語り継がれてきた
霊草として崇められる一方で、時には呪いや災厄をもたらす存在として恐れられたのである


引き抜くと人が死ぬ?古代から恐れられた怪植物・マンドレイクの伝承・・・

いつの時代も人々は、目に見えぬ力に畏怖や希望を託してきた
マンドレイクもまた、そのひとつだったのかもしれない


 

 


妖怪マンガの第一人者・水木しげる氏によるオールカラーの妖怪百科
 

 


妖怪ビジュアル大図鑑の世界編

地球上に棲む動物のうち、およそ7〜8割は、昆虫、クモ、エビ・カニなどを含む「節足動物」に分類される

なかでも昆虫の種数は数百万にのぼり、個体数に至っては百京から千京という天文学的な数が推定されている
想像を絶するその膨大な数こそが、彼らの生命力を物語っているといえるだろう

神話や伝承の世界でも、虫は得体の知れぬ異形としてしばしば登場してきた
多種多様な虫たちは、時に奇怪な怪物へと姿を変え、人々の想像力を刺激し続けてきたのである

今回も引き続き、虫にまつわる奇妙な伝承の数々を紹介していきたい
(前回の記事はこちら:https://kusanomido.com/study/fushigi/story/101068/)


1. 恙虫

恙虫(ツツガムシ)は、ダニの一種である

幼虫の体長はわずか0.2〜0.3ミリメートルほどしかなく、哺乳類の皮膚に取り付いて、刺してリンパ液を吸いながら成長する
人間も例外ではなく、噛まれると「ツツガムシ病」と呼ばれる病気を発症することがある

この病は、幼虫の体内に棲むリケッチアという細菌が人へ感染することで引き起こされる
適切に治療しなければ、重症化して命を落とす危険もある恐ろしい感染症だ

微小な幼虫は、肉眼ではかろうじて見えるかどうかというほど小さい
古の人々にとっては、原因不明の病が突如流行すれば、それは妖怪の仕業と考えざるを得なかった
こうして「恙虫(つつがむし)」という妖怪が生まれたとされる

夜な夜な人の生き血を吸い、病をもたらして命を奪う怪物として、人々に恐れられてきたのである

言うなれば、
「奇病が広がる → 妖怪の仕業とされ『恙虫』と名付けられる → 後にダニによる感染症と判明 → 妖怪の名がそのままダニの和名『ツツガムシ』となる」

といった経緯で、妖怪の名が医学用語へと引き継がれた格好だ

江戸時代の怪談集『絵本百物語(桃山人夜話)第五巻』には、恙虫の姿が挿絵と共に描かれている
フナムシとハサミムシを足し合わせたような異様な姿で、飛鳥時代の石見国(現在の島根県)に現れ、多くの人を死に追いやったという
物語では、最終的にとある博士によって封じられたと伝えられている

ツツガムシは現代の日本各地にも生息しており、いまもなお感染被害が報告されている

野外に出る際は、肌を隙間なく覆い、虫に噛まれない工夫が重要とされている





2.針口虫

針口虫(しんくちゅう)、またの名を孃矩吒(ひくた)は、仏教の地獄に棲みつくとされる怪異の虫である

仏典『起世経』によれば、地獄には八つの大地獄があり、その周囲にさらに十六の小地獄が存在すると説かれている
その中の一つ、「糞屎泥(ふんしでい)」と呼ばれる地獄に、この針口虫は現れるという

糞屎泥に落ちるのは、生前に清らかさや善意を軽んじ、汚穢や悪事を好み、仏の教えを嘲った者たちだ
この地獄は一面が糞尿の海となっており、罪人はその汚物の中に頭から投げ込まれる
鼻や口、目や耳など、あらゆる穴という穴から汚物が入り込んでくるという惨状が延々と続く

そこに現れるのが針口虫である

鋭い口を持つこの虫は、汚物の中を泳ぎ回りながら、罪人の体に噛みつき、肉を食い破っていく
やがて死に至るが、地獄においては死も救いにはならない。罪人は即座に蘇生させられ、再び針口虫に食われる苦しみを繰り返すのだ
こうして無限とも思える責め苦が続けられるのである

こうした地獄の壮絶な描写は、人々に「悪事を働けばこのような報いを受ける」と恐怖心を植え付け、道徳心や宗教的規律を保たせるための戒めとして語られてきたともいわれている

3.ジエイエン

ジエイエン(Dieien)は、アメリカ先住民族セネカ族に伝わる怪物である

巨大な蜘蛛の姿をしており、その体長はおよそ6フィート(約180センチメートル)にも達し、狡猾で邪悪な存在として、人々に恐れられてきた

この怪物の最大の特徴として、「心臓を体内から取り外せる」というものがある
心臓を別の場所に隠すことでジエイエンは不死身となり、いかなる攻撃も通じなくなったとされる

以下のような伝承が伝えられている

「ハゴワネン」という男が失踪したので、息子の「オセグウェンダ」が探しに行った。
森の中でジエイエンを見つけて後をつけていくと、巣穴からハゴワネンの呻き声が聞こえてきた。
オセグウェンダは、旅立つ前に母からもらったお守りに向かってジエイエンの倒し方を尋ねた。

するとお守りが、「地面の中に奴の心臓が埋まっている。木の枝を投げるがよい」と告げたため、オセグウェンダはその辺の木の枝を切り取り、巣穴に向かって投げつけた。
枝は見事に地中に隠されていた心臓を貫き、ジエイエンは絶命した。

ハゴワネンは全身の肉を食いちぎられ瀕死であったが、オセグウェンダが唾を塗りつけると、たちまち元気を取り戻したという。

4. ケプリ

ケプリ(Khepri)は、古代エジプトにおいて信仰された神のひとりである

その姿はきわめて特異で、人間の体にフンコロガシ(スカラベ)の頭部が付いている、あるいは頭部そのものがスカラベであるとされている

顔に虫が張りついているというより、もはや顔全体が昆虫に置き換わったかのような造形である
現代の感覚からすれば異様にも映るが、そこには古代人なりの深い象徴性が込められていた

フンコロガシは、糞を球状に丸めて転がす習性で知られる昆虫である
古代エジプト人は、この糞玉を転がす様子を「太陽が地平線を昇る様子」になぞらえたと考えられている
こうした連想のもと、ケプリは「太陽の再生」や「日の出」を象徴する神格として崇拝されるようになった

スカラベと同一視されたフンコロガシは、神聖な存在として神殿で飼育され、死後は丁重にミイラ化されて埋葬された
古代エジプトにおいてミイラは魂の再生に不可欠とされる重要な宗教的儀式であり、それは人間に限らず神聖視された動物にも適用された

2018年には、大量のスカラベのミイラが木箱に納められた状態で発見され、考古学界に大きな驚きをもたらした
このような出土品は、太古の宗教観や自然観を理解するうえで極めて貴重な手がかりとなっている

参考 :『絵本百物語』『起世経』『地獄草紙』他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

虫、特に昆虫は地球上で一番多い、ある意味、繁栄している種だ

小さな体で驚異の身体能力・特殊能力を持ち、人類のある意味、天敵であるウイルス、細菌などを媒介する

そのため、恐れられてもきた


 

 


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