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メインウェーブ日記

気になるニュースやスポーツ、さらにお小遣いサイトやアフィリエイトなどのネットビジネスと大相撲、競馬、ビートルズなど中心

胃と腸に不調があるときの回復法
食物繊維や脂質、刺激物を控える

胃は外部から食物を直接取り入れるため、さまざまな影響を受けやすく、不調になりやすい臓器です
しかし、同時に回復力が高いため、自分で管理しやすいという特徴もあります
ですから胃腸の調子がすぐれないときは、食生活において以下のような点を試してみてください
意外と早く復調の兆しが見えるものです

まずおすすめしたいのは絶食
消化にかかる時間は胃で2~3時間、小腸で5~8時ですから、10時間ほどのプチ断食で胃と腸を空にして休ませてあげましょう

食材選びという点では、食物繊維を多く含む食品を控えてください
とくにきのこやごぼう、たけのこなどに豊富な不溶性食物繊維は、消化に時間がかかる分だけ腸の負担が高まります
脂質の多い肉類なども同様です

私は「食べたいものは体が欲しているもの。自分の感覚に従い、味付けにも過敏になりすぎなくてよい」と考えています
ただし、それは健康体であるときだけ
食物繊維もたんぱく質も通常は推奨される食べ物ですが、胃や腸に乱れがあるときは、一時的に控えたほうがいいでしょう

また、刺激物といわれる香辛料の効いた食物、アルコールやカフェインを含む飲み物は胃酸の分泌を増やすため、胃の粘膜が刺激されて不調の原因に
これらも避けるのが無難です

胃と腸の調子が悪いときの注意点

1 無理に食べず、断食をして胃と腸を休ませる
食べ物を胃に入れなければ消化機能を使わないので、胃や腸を休ませることが可能です

2 熱すぎるor冷たすぎる物は控える
胃の血流を低下させる冷たい物は消化を妨げ、胃の粘膜を刺激する熱すぎる物は炎症を引き起こす可能性があります

3 食物繊維が多い食材は控える
とくに不溶性食物繊維は腸での消化に時間がかかるので、調子が悪いときは控えたほうがいいでしょう

4 脂が多い物は控える
消化しにくい脂っこい物は、胃に負担がかかり消化不良や胃もたれの原因になります

5 胃酸の分泌を高める物は控える
塩辛い物、甘い物、アルコール、炭酸飲料など、胃酸の分泌を高める可能性があるものは、症状の悪化につながります

6 刺激物を控える
わさびやからしといった香辛料や、コーヒーや紅茶などカフェインを含む飲料は、胃を刺激してしまうので避けましょう



【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 胃と腸の話』著:福原 真一郎

(この記事はラブすぽの記事で作りました)

 


胃と腸を整えれば、あらゆる不調はみるみる良くなる!
食事など、体に入るものの入口である胃、消化吸収の要である腸、その本来の力を取り戻すための効果絶大な方法だけを大公開!

太りやすい、病院に行ってもわからない慢性的な不調がある、疲れがすぐに溜まる、など、そんな悩みの原因は“胃と腸”が疲れているからかもしれません
また、胃と腸はメンタルとも密接に関わりがあり、痛みや不快症状が出やすい内臓でもあります。そんな胃と腸の状態が回復することで、その他の内臓や全身の機能がみるみるよみがえり、肥満、健康診断の数値、疲労感などが消えていきます
本書では、そもそも胃と腸の働きとは?といった基礎知識から、みるみる痩せる本来の胃の大きさに戻す方法、胃腸が一気に整う漢方や薬膳、さらにすごいスパイスカレーなども紹介
さらに過敏性腸症候群を改善するための座り方など、効果的な方法を厳選して紹介します
さらに今の自分はどんな状態なのか簡単にわかるチェック法なども掲載し、自分の体と向き合えます
どれも簡単にできる方法ばかりなので、ストレスで胃と腸の調子がよくない、なんとなく不調が続いている、という方にはぜひ手に取って頂きたい一冊です

イギリスでは、幽霊が出るとされる部屋や屋敷が人気を集め、時にはそうした物件に高い価値がつくこともあります

実際、イギリスには幽霊の名所を巡るツアーが存在し、歴史的な建造物の中には、幽霊の目撃談が多く残る場所も少なくありません

日本では、人が亡くなった後に幽霊や不可思議な現象が報告されると、「曰くつきの物件」として忌避され、お祓いや鎮魂の儀式が行われることが一般的です

一方、イギリスではこうした伝承を観光資源として活用する傾向があり、日本とは大きく事情が異なっています

不気味ながらも多くの人を惹きつけるイギリスの幽霊城と、それにまつわる歴史上の人物たちの関係について詳しく見ていきます


幽霊城の極み「ウインザー城

首都ロンドンから西へ約3.5km、テムズ川の南岸に位置するウインザー城は、イギリス国王が週末を過ごすことでも知られるヨーロッパ最大級の古城です

その起源は11世紀に遡り、征服王ウィリアム1世の治世に築かれました

当初は、盛り土による「モット」と呼ばれる丘の上に城塔(ドンジョン)を建て、周囲を堀と土塁(ベイリー)で囲んだ城塞でした
その後、歴代の王たちによる拡張と改築を経て、現在の壮大な姿へと発展しました

近年では、故エリザベス2世がこの城の聖ジョージ礼拝堂に埋葬されたことも記憶に新しいところです

しかしウィンザー城は、イギリスで最も由緒ある城のひとつであると同時に、最も幽霊の目撃が多い場所でもあるのです

その数は報告されているだけで25体以上にのぼり、その多くが歴史上の著名な人物です

城は王の居城や外交の場としてだけでなく、時には幽閉の場としても利用されてきました
また、城内の礼拝堂は王家の墓所でもあり、エリザベス2世を含む10人以上の王や王妃がここに埋葬されているのです

死してなお城を彷徨う王

ウィンザー城で目撃される数々の幽霊の中でも、特に有名なのはヘンリー8世とその妻たちです

16世紀前半に在位したテューダー朝第2代イングランド王ヘンリー8世は、絶対王政の強化を進め、ローマ教皇庁から分離してイングランド国教会を設立しました

また、王位継承のために男児を求め、半ば強引に6人の妃を次々と娶った上、妃らの殆どが無事に生き延びられなかったという、ある意味悪名高き人物としても知られています

身長182cmの堂々とした体格に恵まれていたものの、晩年には極度の肥満と足の潰瘍に苦しみました

ウィンザー城では、足を引きずりながら歩き回る彼の足音を聞いたという証言が数多く残されており、中にはうめき声を聞いたという人もいるそうです

哀し気な王妃、凛とした女王の幽霊

ヘンリー8世によって最初に処刑された王妃アン・ブーリンの姿も、ウィンザー城で目撃されています

ホールやバルコニーに現れる彼女は、どこか悲しげな佇まいを見せるといいます

アン・ブーリンは、男児を流産したことでヘンリー8世の不興を買い、王妃の地位を剥奪された上に、流産からわずか四か月後に斬首されました
その無念さが、今も城に彼女の姿をとどめているのかもしれません

また、ヘンリー8世とアン・ブーリンの娘であるエリザベス1世も、この城で目撃されている幽霊のひとりです

1558年に25歳で即位した彼女は、歴代の君主の中でも特に輝かしい足跡を残した人物といっても過言ではありません
善政を敷き、国内の宗教問題を解決し、イギリス海軍を改革してスペインの無敵艦隊を打ち破るという快挙を成し遂げました
また、産業の発展を促し、ウィリアム・シェイクスピアをはじめとする芸術・文化の黄金期をもたらした名君でもあります

このような偉業を成し遂げたエリザベス1世ですが、その姿がウィンザー城のライブラリーで目撃されています
城の警備員によると、黒のガウンに黒のショールを身にまとい、絨毯の敷かれていない床に靴音を響かせながら、隣の部屋へと移動していったそうです

そして興味深いことに、エリザベス2世と妹のマーガレット王女も、エリザベス1世の幽霊を目撃したというのですから、信憑性もなかなかのものではないでしょうか

もう一つの幽霊名所「ロンドン塔」

イギリスの観光名所として広く知られるロンドン塔は、その歴史の古さでも際立っています

その起源は古く、この地には古代ローマ時代から囲壁が存在していました。その東南隅に城郭を築いたのが、前述した征服王ウィリアム1世です

その後、ロンドン塔は増改築が繰り返され、王の居城としてだけでなく、幽閉や収監、さらには処刑場としても使われるようになりました

そのため、ロンドン塔はロンドンのランドマークであると同時に、その血塗られた歴史から「幽霊の名所」としても知られています

そして、ここで目撃される幽霊の中でも特に興味深いのが、アン・ブーリンです
王妃として暮らしたウィンザー城での目撃談が多い彼女ですが、このロンドン塔でも目撃が絶えません

というのも、アン・ブーリンが流産の後、言いがかり同然に姦通罪を問われ、処刑されたのがこのロンドン塔だからです

彼女の幽霊は塔内のさまざまな場所で目撃されていますが、特に多いのが斬首された王室礼拝堂前の芝生です。中には、首のない姿で徘徊しているという証言もあります

また、先に述べたウィンザー城で目撃されるエリザベス1世の幽霊は、女王が少女時代を過ごしたロンドン郊外の館ハットフィールド・ハウスでも目撃されているそうです
しかも、その姿は女王に即位する前の少女の姿だったといわれています

ことの真偽はともかく、こうした目撃談を通じて、かつて生きた人々が幽霊という形で現在の記憶に留められていることは、歴史上の人物への一種の鎮魂の形なのかもしれません

参考文献:『英国の幽霊城ミステリー』/織守きょうや(著),山田佳世子(イラスト)
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

イギリスでは、幽霊が出るとされる部屋や屋敷が人気を集め、時にはそうした物件に高い価値がつくこともあります

実際、イギリスには幽霊の名所を巡るツアーが存在し、歴史的な建造物の中には、幽霊の目撃談が多く残る場所も少なくありません

日本では、人が亡くなった後に幽霊や不可思議な現象が報告されると、「曰くつきの物件」として忌避され、お祓いや鎮魂の儀式が行われることが一般的です

一方、イギリスではこうした伝承を観光資源として活用する傾向があり、日本とは大きく事情が異なっています


イギリスは幽霊にまつわる話も多い
英国王室をめぐる話も・・・
ことの真偽はともかく、多くの目撃談を通じて、かつて生きた人々が幽霊という形で現在の記憶に留められていることは、歴史上の人物への一種の鎮魂の形なのかもしれません


 

 


今なお 城をさ迷う幽霊たちの物語の中に、英国の歴史を読み解く鍵がある

英国においては、言ってみれば先住者である幽霊たちを追い出すという発想は一般的ではないようだ
日本のように、視たら祟られる、呪われる、というような話はほとんどなく、英国の幽霊はほとんどの場合、ただそこにいるだけだ
悪さをするわけでもないなら共存しよう、というのが英国人の考えらしい
むしろ、歴史を体現する存在である幽霊に親しみを感じ、価値を見出す向きすらある(中略)
幽霊を恐れながらも尊重しようという英国人の姿勢からは、幽霊は歴史的事実に基づく存在であり、民衆の共感、同情、尊敬の念によってこの世にとどめられているものであるとする、彼らの幽霊に対する意識が見てとれる
――「CASE1  ウィンザー城と25人の幽霊」より抜粋

幽霊は英国の歴史を背負って現れる

「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば」

これは、藤原道長が後一条天皇に三女・威子を入内させて中宮とし、前例のない「一家立三后」を成し遂げたその立后の日に詠んだ、いわゆる「望月の歌」である

この和歌は、社会科や歴史の教科書にも必ずといってよいほど掲載されているので、ご存じの方も多いだろう

藤原道長は、平安時代中期の966年(康保3年)、摂政を務めた藤原兼家の五男として誕生した

いくら隆盛を極めた摂関家とはいえ、五男という立場は大きなハンディキャップであり、本来ならば氏長者となる資格はなかった

だが道長は、一条・三条両朝において摂政や関白には就任せず、内覧の地位にとどまりながらも、その権勢は摂政・関白に劣らぬものと評され、摂関政治の最盛期を築き上げた

その歩みをたどれば分かるように、この人物は運の面から見ても只者ではなかった

しかし一方で、道長は「望月の歌」を詠んだ頃から、華やかな生涯の裏で、糖尿病をはじめとするさまざまな病に長く苦しめられていたのである

道長がいかにして権力の絶頂に至ったのか、そして栄華の陰で病に苦しんだ姿についてたどっていく


兄たちの相次ぐ死とライバルの失脚

990年(永祚2年)、父・兼家が死去すると、長男の道隆が関白となった

しかし、道隆はおよそ5年で病没し、関白を継いだ三男・道兼も、その就任からわずか数日で死去してしまう

この時、道長は摂関に次ぐ地位である内覧に就いていた
これは道長の姉で円融天皇の后となった詮子(せんし/東三条院)の引き立てによるものであったという

とはいえ、ここからすんなりと摂関の地位に就くことはできなかった

それは、道長には道隆の長男で内大臣の伊周(これちか)という最大のライバルが存在していたからである

ところが、その伊周が思いもよらぬ理由で失脚することになる

996年(長徳2年)正月、藤原為光の四女のもとに通っていた花山法皇に対し、伊周は弟の中納言隆家と共謀し、待ち伏せして矢を射かけるという事件を起こした

これは、伊周が想いを寄せていた為光の三女と花山法皇が親しくしていると誤解し、逆上して引き起こした凶行であった

皇族に矢を射かけるという前代未聞の事件により、伊周は太宰権帥に左遷され、隆家も出雲権守に降格となり、兄弟はそろって失脚した

さらに兄弟の失脚に伴い、一条天皇の皇后であった妹・藤原定子も、自ら鋏を取って髪を切ったため落飾と見なされることになった

この時、定子は妊娠中であり、翌年の正月に第一子・脩子内親王を出産している

なお、定子に仕え、彼女の死去まで忠実にその側近を務めた女房が、随筆『枕草子』を著した清少納言である

長女・彰子により道長の威信が高まる
藤原伊周が失脚した後、道長は、彰子(しょうし)を一条天皇の皇后に、妍子(けんし)を三条天皇の皇后に、そして威子(いし)を後一条天皇の皇后に立て、いわゆる「一家立三后」を成し遂げた

彰子は、敦成親王(のちの後一条天皇)と敦良親王(のちの後朱雀天皇)をもうけ、妍子と威子もそれぞれ内親王を出産した

さらに、六女の嬉子(きし)も、彰子の子である後朱雀天皇の后となり、親仁親王(のちの後冷泉天皇)を産んでいる

道長の娘たちの中でも、やはり彰子の存在は大きかった
彼女が二人の皇子を天皇にしたことにより、道長の威信は大いに高まった

彰子の存在があってこそ、道長の子孫は「御堂流」と呼ばれ、代々摂政・関白および、藤氏長者の地位を継承する礎が築かれたともいえよう

ちなみに、彰子に仕えた女官が『源氏物語』を執筆した紫式部だ

道長と彼女が恋愛関係にあったとする説は古くからあり、大河ドラマ『光る君へ』でも、その微妙な関係が描かれていた

この点については、道長の人脈の一端として、改めて別の記事で紹介したい

絶好期から糖尿病による合併症に苦しむ

こうして権勢の頂点に立った道長であったが、いわゆる独裁者ではなかった

むしろ、政敵との調和を図りつつ政治を進める指導者であったとされる

そのことは、かつてのライバルであった藤原伊周についても、一条天皇に対して朝政への復帰を提案している点からも明らかである

学校の授業では、平安貴族は歌舞音曲や色恋にばかり興じ、地方政治を顧みなかったため、それが社会の混乱を招いたとよく語られる

実際、荘園における受領(国司)の横暴や、1019年(寛仁3年)3月末から4月にかけて女真系とみられる海賊が壱岐・対馬・九州を襲撃した刀伊の入寇への対応は、決して十分なものではなかった

しかし、平安貴族の中でも道長のような執政官は、宮中でのさまざまな儀式や役人の監督に追われ、ほとんど休む間もなく働いていたのである

しかも慢性的な運動不足や、贅沢で偏った食料事情による影響で、道長も「一家立三后」を成し遂げ、人生の絶頂期であった頃から糖尿病による合併症により、胸病の発作や視力の衰え(白内障)に苦しんでいたとされる

当時は現在のような医療技術がなく、病を治すには神仏に祈ることが唯一の方法と考えられていたため、平安貴族たちは皆、信心深かった

道長も例外ではなく、1019年(寛仁3年)に長男・頼通に実権を譲ってからは、自ら造営した無量寿院(法成寺)に住み、本堂に安置した九体の阿弥陀像の前で、読経や念仏の日々を送ったと伝えられる

そして1027年(万寿4年)12月4日、死期を悟った道長は、九体の阿弥陀如来の手と自らの手とを糸で結び、僧侶たちの読経の中、自身も念仏を口ずさみながら西方浄土への往生を願い、62年の生涯を閉じたのである

※参考文献
山中裕著 『藤原道長』吉川弘文館刊
矢部健太郎監修 『偉人たちのやばい黒歴史 日本史100人の履歴書』宝島社刊
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば」

これは、藤原道長が後一条天皇に三女・威子を入内させて中宮とし、前例のない「一家立三后」を成し遂げたその立后の日に詠んだ、いわゆる「望月の歌」である

この和歌は、社会科や歴史の教科書にも必ずといってよいほど掲載されているので、ご存じの方も多いだろう

藤原道長は、平安時代中期の966年(康保3年)、摂政を務めた藤原兼家の五男として誕生した

いくら隆盛を極めた摂関家とはいえ、五男という立場は大きなハンディキャップであり、本来ならば氏長者となる資格はなかった

だが道長は、一条・三条両朝において摂政や関白には就任せず、内覧の地位にとどまりながらも、その権勢は摂政・関白に劣らぬものと評され、摂関政治の最盛期を築き上げた

その歩みをたどれば分かるように、この人物は運の面から見ても只者ではなかった

しかし一方で、道長は「望月の歌」を詠んだ頃から、華やかな生涯の裏で、糖尿病をはじめとするさまざまな病に長く苦しめられていたのである


道長は運と実力、「根回し」などで栄華を極めた
その一方で多忙や運動不足などで身体はボロボロだったようだ

 

 


日本史を彩ったよりすぐりの偉人100人が、もし自ら履歴書を作成したとしたら、やばい黒歴史で埋めつくされた!?
古代から近代にかけ活躍した偉人100人の足跡、家族構成、性格、変な癖、トラウマエピソードなど、現代人の感覚では想像を絶する驚愕の「個人情報」が満載
日本史の学習、大河ドラマがいっそう面白くなること間違いなしの一冊です
國學院大學文学部史学科教授の矢部健太郎監修

胃の不調の原因は胃だけではない
すべての臓器が協調して健康が保たれる

胃の不調を訴える患者さんがいると、西洋医学では胃の検査や診察をして原因を調べます
それに対して東洋医学では、胃はもちろんですが、胃を取りまく臓器にも目を向けます
胃から続く小腸をはじめ、腸の消化を助ける膵臓や肝臓の状態もチェックしていくのです

これは「体全体のバランスを見ながら症状改善に取り組む」東洋医学ならではのスタンスであり、「すべての内臓は互いに影響を与え合い、単独で働いている内臓はない」という考えに基づく診療といえるでしょう

胃や腸もその例外ではなく、まわりの臓器との相互作用によって働きが保たれています
心臓は血液を巡らせることで胃に力を与え、胃は水分を肺に供給、肺は大量の酸素を腎臓に送って濾過作用を助け、腎臓は老廃物を排除することで肝臓の機能維持に役立っているのです

さらに、こうした働きかけとは別に、肝臓は胃の粘膜の生成に関わることで、胃の正常な機能をコントロールしています
いわば乱調や暴走を防ぐ管理者となっているわけです
このようにそれぞれの臓器が異なる役割をこなしつつ、協調し合うことで体内の精密な均衡が保たれ、健康が維持されます
胃や腸をはじめ消化器系の臓器も、その一端を担っているわけです

胃と腸が健康なのは心臓や肺、腎臓、肝臓のおかげ!?
東洋医学では、「すべての内臓は互いに影響を与え合い、単独で働いている内臓はない」という考えがあります



それぞれの臓器が弱ると胃腸にこんな負担が!

肝臓
解毒にエネルギーを使いすぎると消化を助けられない


心臓
血流が悪くなると疲れやすく、精神面も不安定に。ストレスから胃腸が弱ってしまう



水分が不足すると機能が低下する。呼吸が浅いと吐き気の原因となる



体温と血圧の調整をしている。体温の調節がうまくいかないと消化不良を起こす


【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 胃と腸の話』著:福原 真一郎

(この記事はラブすぽの記事で作りました)

 


胃と腸を整えれば、あらゆる不調はみるみる良くなる!
食事など、体に入るものの入口である胃、消化吸収の要である腸、その本来の力を取り戻すための効果絶大な方法だけを大公開!

太りやすい、病院に行ってもわからない慢性的な不調がある、疲れがすぐに溜まる、など、そんな悩みの原因は“胃と腸”が疲れているからかもしれません
また、胃と腸はメンタルとも密接に関わりがあり、痛みや不快症状が出やすい内臓でもあります。そんな胃と腸の状態が回復することで、その他の内臓や全身の機能がみるみるよみがえり、肥満、健康診断の数値、疲労感などが消えていきます
本書では、そもそも胃と腸の働きとは?といった基礎知識から、みるみる痩せる本来の胃の大きさに戻す方法、胃腸が一気に整う漢方や薬膳、さらにすごいスパイスカレーなども紹介
さらに過敏性腸症候群を改善するための座り方など、効果的な方法を厳選して紹介します
さらに今の自分はどんな状態なのか簡単にわかるチェック法なども掲載し、自分の体と向き合えます
どれも簡単にできる方法ばかりなので、ストレスで胃と腸の調子がよくない、なんとなく不調が続いている、という方にはぜひ手に取って頂きたい一冊です

優れた才能をもつ秀吉の“でたらめさ”とは

豊臣秀吉といえば、素性のはっきりしない小者から身を起こし、戦国の世を天下統一へと導いた英雄として知られている

天性ともいえる才覚で織田信長の軍団の中枢にのし上がると、山崎の戦いで主君・信長を討った明智光秀を破り、天下人へと上り詰めた

そんな秀吉について、中世政治史を専門とする東京大学史料編纂所教授・本郷和人氏は、著書『戦国史のミカタ』の中で「一貫性というものがないように思える」と評している

さらに、「自分が今やりたいことを、他の何ものにも拘泥せずに実行している」とも述べている

本郷氏のこの指摘は、秀吉の人物像を語るうえで、きわめて鋭いものである

秀吉の「常識にとらわれない」数々の行動が、彼が人生において直面した幾多の困難を克服する原動力となったことは間違いない
山崎の合戦や賤ケ岳の戦いで行った“大返し”は、その典型的な事例といえるだろう

本郷氏のいう「秀吉のでたらめさ」を参考に、私見を交えつつ論じてみたい

そこには、常人では到底計り知れない秀吉の思考回路を垣間見ることができるのである

豊臣家存続のための方策を怠る

秀吉のでたらめさを指摘しつつも、本郷氏は彼を「アイデアマン」と称している

荘園制度を完全に消滅させた「太閤検地」や、兵農分離を実現した「刀狩令」など、新たな時代を切り開く数々の施策を断行した点を高く評価し、秀吉をきわめて有能な人物として認めているのである

そしてそれは「専制君主」とはそういうものだろうと納得しつつも、やはり秀吉の真意は理解できない、といぶかるのだ

秀吉の“ちぐはぐな行動”の一例として、本郷氏は「武士が何よりも重んじる“家”の重要性を無視している」と指摘している

その例として挙げられるのが、奥州会津の領主・蒲生氏郷(がもううじさと)没後の後継問題に絡み、氏郷の所領である会津92万石が没収された件である

このとき、氏郷には何ら過失はなく、跡継ぎの秀行が幼かったというだけである
にもかかわらず、秀吉がとった処置は蒲生氏にあまりにも過酷であり、このような仕打ちでは他の大名たちも安心して豊臣家に奉公することができない、と本郷氏は述べる

ただ、このような秀吉の“家”への無頓着さは、彼自身の家である豊臣家に対しても同様であった

武士が“家”を重んじるのは、子孫の繁栄を第一とするからであり、そのために自らの命を投げ打ってまで戦場で武功を立てようとするのである

しかし秀吉は、没後に豊臣家を存続させるための方策を講じなかった

それどころか、みずから進んでその芽を摘み取ってしまったのである

その代表的な例として、関白職を譲った甥の秀次を、淀殿との間に秀頼が誕生するや否や、一族もろとも滅ぼしたうえ、古くから自らに仕えていた秀次与力の大名たちまでも粛清してしまったことが挙げられる

当時は幼児の死亡率が高く、秀頼が夭折する可能性は十分にあった
また、秀頼が成長するまで秀次が関白職を保持していれば、豊臣家の基盤はさらに堅固となり、徳川家康に対抗できる力を保ち、豊臣の“家”が存続する可能性は高まったはずである

秀吉は山崎の合戦で光秀を討ち果たして以来、一貫して家康を最大のライバルとみなし、その懐柔に苦心してきた

ゆえに、自らの死後に豊臣家にとって最大の脅威が徳川家康であることを、十分に認識していたのは間違いないだろう

それなのに、秀吉は家康に対して甘すぎた

天下統一を果たした北条征伐の後、150万石に満たなかった家康の領地を関東に国替えし、250万石に加増した

これで家康は、優に7万を超える兵力を有することになった
そしてその兵力を抱えながらも、朝鮮出兵では留守居役を命じられている

秀吉の子飼いの大名たちが渡海して疲弊する中、家康は自らの兵力を温存することに成功したのである
これは家康の意志によるものではなく、あくまで秀吉の意向によるものであった

そもそも、朝鮮出兵こそが豊臣家衰退の最大の原因であった
秀吉の死後、若き秀頼を扶けるのは、秀吉に臣従してきた豊臣家臣団であるべきだった

しかし、朝鮮出兵による文治派と武断派の分断により、福島正則や細川忠興といった本来ならば秀頼を支えるはずの大名までもが、家康側に加わることとなってしまった

それが、関ヶ原合戦の帰趨に大きな影響を与えただけでなく、その後の大坂の陣による豊臣家滅亡を招いてしまうのである

人生の最終局面で“家”という概念に目覚める

1598年(慶長3年)7月4日、自らの死期が近いことを悟った豊臣秀吉は、伏見城に徳川家康ら諸大名を召し寄せ、その席で家康に対し、秀頼の後見人となるよう依頼した

さらに8月5日には、次のような遺言を残している

• 徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家は、秀吉の遺言を遵守し、互いに婚姻関係を結んで紐帯を強めること。
• 徳川家康は3年間京都に在留し、必要があれば嫡子・秀忠を京都に呼び寄せること。
• 徳川家康を伏見城の留守居の責任者とする。また、五奉行のうち前田玄以・長束正家を筆頭に、さらに一名を伏見に置くこと。
• 伏見城の留守居でない五奉行の残り二名は、大坂城の留守居を務めること。
• 豊臣秀頼が大坂城に入城した後は、人質として武家衆の妻子を大坂に移すこと。

秀吉が繰り返し口にしたのは、自身の死後に豊臣家が滅亡してしまうのではないか、という強い懸念であった
そして何よりも、その最大の要因となりうる徳川家康への潜在的な不安であったのだ

病臥しながら、「どうか皆で秀頼を支えてほしい」「秀頼を家康から守ってほしい」と懇願する秀吉の姿には、痛切な哀れささえ漂う

人生の最終局面にあたり、秀吉は初めて守るべき“家”という概念に深く目覚めたのであろう

そして8月18日、稀代の英傑・豊臣秀吉は62歳で波乱に満ちた生涯を閉じたのである

※参考文献
本郷和人著 『戦国史のミカタ』祥伝社新書刊
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

優れた才能をもつ秀吉の“でたらめさ”とは

豊臣秀吉といえば、素性のはっきりしない小者から身を起こし、戦国の世を天下統一へと導いた英雄として知られている

天性ともいえる才覚で織田信長の軍団の中枢にのし上がると、山崎の戦いで主君・信長を討った明智光秀を破り、天下人へと上り詰めた

そんな秀吉について、中世政治史を専門とする東京大学史料編纂所教授・本郷和人氏は、著書『戦国史のミカタ』の中で「一貫性というものがないように思える」と評している

さらに、「自分が今やりたいことを、他の何ものにも拘泥せずに実行している」とも述べている

本郷氏のこの指摘は、秀吉の人物像を語るうえで、きわめて鋭いものである

秀吉の「常識にとらわれない」数々の行動が、彼が人生において直面した幾多の困難を克服する原動力となったことは間違いない
山崎の合戦や賤ケ岳の戦いで行った“大返し”は、その典型的な事例といえるだろう

本郷氏のいう「秀吉のでたらめさ」・・・


秀吉は確かに優れた才能があったが、晩年は秀次に対する処遇、家康への甘さなどがあった
これらが豊臣家滅亡へつながったかも・・・


 

 


見方を変えることで、見えてくるもの
日本史における激動の時代であり、人物が躍動した戦国期を、「合戦」「天下人」「家康の家臣操縦術」「戦国女性」の4テーマに分け、著者独自のミカタ(見方)で読み解いていく
たとえば――織田信長は、命をかけて死に立ち向かった者だけを認めた。どんなに有能でも、戦場で成果を残せなかった者、戦死してしまった者は「こっち側」に来られなかった者として認めなかった
ここに、信長の死生観と家臣評価の特徴がある
いっぽう、豊臣秀吉の家臣評価は文官優位
武将といえどもデスクワークができない者は評価しなかった――
見方を変えると、新たなおもしろさが発見できる!
本書は、産経新聞の連載「本郷和人の日本史ナナメ読み」(2023年1月5日~2024年3月14日。現在は終了)をテーマごとに再構成して加筆修正し、新章・新原稿を加えたものです

「腸活」だけじゃなく「胃活」も大切!
好不調を共有する運命共同体

食物を消化、吸収、排泄する仕組みは、胃と腸(小腸、大腸)の連携プレーが生み出すものです
つまりこれはお互いが緊密な関係にあり、どちらか一方が不調になれば、たちまちその影響がもう一方に及ぶことも示しています

胃の不調で消化機能が低下すれば、腸の負担が増えて下痢や便秘を起こすことになるでしょう
腸での栄養吸収も低調になるため、ガスもたまりやすくなります

腸の不具合も同様です。腸内環境の悪化が自律神経の乱れを引き起こせば、胃酸過多や胃もたれにつながるリスクが高まります

じつは原因不明の胃のトラブル「機能性ディスペプシア」も、胃の問題ばかりで生じるのではなく、小腸の低調が胃の不快感などを引き起こすケースもあるのです
口から肛門までは消化管と呼ばれる1本の管で結ばれています
そう考えれば、胃と腸に限らず消化器系の臓器は運命共同体の関係にある、といえるのでしょう
実際に東洋医学では、膵臓や十二指腸までを消化器系のひとつの臓器(脾ひ)と見なしています

近年、「腸活」がもてはやされていますが、腸の好不調は胃の調子に左右されるのですから、胃への関心も高まることを期待します。いつか「胃活」が健康のキーワードになるかもしれません

胃と腸は消化器官としてチームで働く

腸が不調だと胃の働きが鈍る/胃の消化力が弱いと腸に負担がかかる

胃活をすることで腸活もうまくいく
消化吸収がスムーズになる
食べたものがしっかりと消化・吸収できるようになり、栄養が体に行き渡るように。栄養が行き渡ることで、疲労回復、美肌などの効果も

腸内環境がよくなる
腸への負担が減るので、善玉菌が増えやすくなり、腸内フローラが安定するように。便通がスムーズになり肌トラブルなども軽減します

自律神経が整いやすい
腸は脳のストレスを受けやすく、腸の不調でホルモン分泌が弱るとうつ状態になるなど、脳と腸はお互いに影響し合っており、それを「脳腸相関」といいます

【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 胃と腸の話』著:福原 真一郎

(この記事はラブすぽの記事で作りました)

「腸活」が注目されていますが「運命共同体」ともいえる胃の「胃活」にも注目です

 

 


胃と腸を整えれば、あらゆる不調はみるみる良くなる!
食事など、体に入るものの入口である胃、消化吸収の要である腸、その本来の力を取り戻すための効果絶大な方法だけを大公開!

太りやすい、病院に行ってもわからない慢性的な不調がある、疲れがすぐに溜まる、など、そんな悩みの原因は“胃と腸”が疲れているからかもしれません
また、胃と腸はメンタルとも密接に関わりがあり、痛みや不快症状が出やすい内臓でもあります。そんな胃と腸の状態が回復することで、その他の内臓や全身の機能がみるみるよみがえり、肥満、健康診断の数値、疲労感などが消えていきます
本書では、そもそも胃と腸の働きとは?といった基礎知識から、みるみる痩せる本来の胃の大きさに戻す方法、胃腸が一気に整う漢方や薬膳、さらにすごいスパイスカレーなども紹介
さらに過敏性腸症候群を改善するための座り方など、効果的な方法を厳選して紹介します
さらに今の自分はどんな状態なのか簡単にわかるチェック法なども掲載し、自分の体と向き合えます
どれも簡単にできる方法ばかりなので、ストレスで胃と腸の調子がよくない、なんとなく不調が続いている、という方にはぜひ手に取って頂きたい一冊です

「南朝 宋」少年皇帝の登場

いまから1500以上前、中国は「南北朝時代」と呼ばれる分裂の時代を迎えていた

北では鮮卑(せんぴ)という異民族が建てた北魏(ほくぎ)が強大な力を誇り、南では漢人の王朝が江南に興り、時代ごとに交替していった

そのひとつが宋(そう)である
後の北宋や南宋と区別するため、ここでは劉宋と記す

劉宋は、西暦420年、劉裕(りゅうゆう)が建てた王朝で、長江の南に都・建康(現在の南京)を置いていた

もともと江南は豊かな米どころであり、文化の中心でもあったが、王朝の権力争いは常に血で血を洗う激しさを見せていた

そんな劉宋の第5代皇帝となったのが、劉子業(りゅうしぎょう)である

西暦464年、まだ16歳の若さで帝位に就いた

父は孝武帝(劉駿 りゅうしゅん)、母は文穆皇后(王憲嫄 おうけんげん)で、血筋だけ見れば、帝位を継ぐにふさわしい家柄の嫡子だった

だが若くして父を亡くし、また周囲に彼を正しく導く人物もいなかった

そのため幼い皇帝は、次第に奇行と暴虐に傾き、宮廷を震撼させる存在となっていった

即位直後の異常な兆し

こうして帝位に就いた劉子業(りゅうしぎょう)だったが、華やかな即位式の裏で、すでに彼の行動には異常性が垣間見えていた

父・孝武帝の死は、本来であれば国中が悲嘆に包まれるべき出来事である

しかし、劉子業は柩の前で涙を見せず、後殿で宮女と追いかけっこに興じ、朝臣たちを唖然とさせたという
幼さゆえの軽率と片付ける者もいたが、これは後に宮廷を揺るがす暴虐の前触れにすぎなかった

さらに、母である王太后が重病に倒れ、臨終の床から息子を呼び寄せたときのこと

誰もが皇帝の見舞いを待ち望んだが、劉子業は「病人の部屋には鬼がいる、恐ろしくて行けぬ」と言い放ち、ついに足を運ばなかった
王太后はその怒りを抱いたまま世を去り、母子の絆は最期の場面で断ち切られてしまった

政務においても、不穏な兆しが見え始める

孝武帝の遺命により、江夏王・劉義恭(りゅうぎきょう)、名将・柳元景(りゅうげんけい)、重臣・顔師伯(がんしはく)、老将・沈慶之(しんけいし)らが新皇帝の補佐を担うことになっていた

ところが実際には、孝武帝のもとで力を振るっていた戴法興(たいほうこう)や巢尚之(そうしょうし)が内外の政務を握り、若い皇帝の意志はしばしば退けられた

父の死に冷淡と見られ、母を臨終の床で怒らせ、政務の場でも権限を奪われる

こうした孤立と抑圧が積み重なり、少年皇帝の性格はさらに偏り、やがて自らの力を誇示しようとする衝動へと変わっていった

恐怖政治の始まり

即位からわずか一年、劉子業の周囲は血に染まりはじめた

最初の犠牲となったのは、父・孝武帝の時代から権勢を振るっていた戴法興(たいほうこう)である

若い皇帝の意志をたびたび抑え込んできた彼は、465年、宦官の讒言をきっかけに失脚させられ、郷里に帰されたのち、やがて自邸で殺害された
棺は壊されて焼かれ、子らも連座して命を奪われ、財産も没収されたと伝えられる

だが、これだけでは止まらなかった

続いて標的となったのは、補佐役の江夏王・劉義恭、柳元景、顔師伯らである
彼らは暴政を憂い、密かに廃立を相談していたが、計画は露見し、劉子業は永光元年(465年)に禁軍を動かして一斉に誅殺した

なかでも、劉義恭への仕打ちは常軌を逸していた

劉義恭は初代皇帝・劉裕の五男で、三代に仕えた功臣として知られていたが、捕えられて四肢を断たれ、眼をえぐられ蜜に漬けられたと伝わる

この残虐な所業は「鬼目粽(きもくそう)」と呼ばれ、後世まで悪名高く語り継がれた

こうして功臣や宗室を血で粛清した劉子業は、もはや誰も諫められぬ暴君となり、宮廷は恐怖政治の舞台へと変わっていった

血縁さえも弄ぶ暴君

政敵を血で粛清した劉子業の狂気は、やがて身近な親族へと向かった

もっとも衝撃的だったのは、叔母の新蔡公主・劉英媚(りゅうえいび)を、後宮に強引に連れ込んだ事件である

彼女は元々、将軍の何邁に嫁いでいたが、劉子業はこれを無理やり宮中に留めて、自分の側室の一人とした

そして、外向けには「公主はすでに亡くなった」と偽り、女官の遺体を取り繕って夫のもとに送り返したという
真相を知った何邁は憤激し、反乱を企てたが、事が露見して一族もろとも滅ぼされた

さらに、実の姉である山陰公主・劉楚玉(りゅうそぎょく)との関係も異常だった

彼女は「陛下の後宮には無数の美女がいるのに、私は夫ひとりだけでは不公平です」と訴え、劉子業はその願いを受け入れ、数十人の男を遊び相手として与えたという

姉弟そろっての逸脱した行動は、宮廷内外を震撼させた

皇族の叔父たちに対する仕打ちも凄惨であった

湘東王・劉彧(りゅういく)らを宮中に囚え、肥えた体をからかって「豚王」と呼び、竹の籠に閉じ込めて泥水に沈め、家畜のように餌を食わせて嘲笑した

こうした、血縁までも弄んだ劉子業の暴虐は、宮廷を恐怖で満たした

やがてその刃は、彼自身へと向けられることになる

暴君の最期

恐怖に満ちた宮廷のなかで、ついに暴君を討つ動きが芽生えた

首謀者となったのは、かつて「豚王」と嘲られ辱めを受けた叔父、湘東王・劉彧(りゅういく)だった
彼は側近の寿寂之(じゅじゃくし)らと密かに結託し、甥である劉子業を討つ機会をうかがっていた

永光元年(465年)の冬、劉子業は都・建康にある離宮、華林園の竹林堂で、巫術を行っていた

これは「鬼を祓う」と称して宮女や家臣を矢で射殺し、血を捧げるという荒唐無稽な儀式であった

その最中、寿寂之が抜刀し、皇帝の背後から斬りかかったのである

戊午夜,帝於華林園竹林堂射鬼。時巫覡云:「此堂有鬼。」故帝自射之。壽寂之懷刀直入,姜產之為副。帝欲走,寂之追而殞之。時年十七。

【意訳】

465年11月29日(西暦466年1月1日)の夜、帝は華林園の竹林堂で「鬼を射る」儀式をしていた。
巫覡(ふげき 呪術を行う者)が「この堂には鬼がいる」と言ったためである。

そこへ寿寂之が刀を懐に忍ばせて突入し、配下の姜產之が副として従った。
帝は逃げようとしたが、寿寂之に追われて殺された。享年17。

『宋書』巻七「本紀第七 前廃帝紀」より

劉子業は、絶命の間際に「寂寂」と叫んだという逸話もあるが、それが刺客・寿寂之の名を呼んだものか、それとも己の末路を嘆いたものかは定かではない

こうして、劉子業の短い治世の幕は閉じられた

その後は劉彧が即位し、劉宋はしばらく命脈を保ったものの、内乱と外圧に押されてやがて歴史の舞台から姿を消していった

一年半足らずの治世ながら、劉子業はその暴虐ゆえに史書では「前廃帝(ぜんはいてい)」と記され、暴君として歴史に刻まれた

その名は千年を超えてなお、人々の記憶に暗い影を落とし続けている

参考 :『宋書』巻七「本紀第七 前廃帝紀」『南史』『資治通鑑』他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

「南朝 宋」少年皇帝の登場

いまから1500以上前、中国は「南北朝時代」と呼ばれる分裂の時代を迎えていた

北では鮮卑(せんぴ)という異民族が建てた北魏(ほくぎ)が強大な力を誇り、南では漢人の王朝が江南に興り、時代ごとに交替していった

そのひとつが宋(そう)である
後の北宋や南宋と区別するため、ここでは劉宋と記す

劉宋は、西暦420年、劉裕(りゅうゆう)が建てた王朝で、長江の南に都・建康(現在の南京)を置いていた

もともと江南は豊かな米どころであり、文化の中心でもあったが、王朝の権力争いは常に血で血を洗う激しさを見せていた

そんな劉宋の第5代皇帝となったのが、劉子業(りゅうしぎょう)である

西暦464年、まだ16歳の若さで帝位に就いた

父は孝武帝(劉駿 りゅうしゅん)、母は文穆皇后(王憲嫄 おうけんげん)で、血筋だけ見れば、帝位を継ぐにふさわしい家柄の嫡子だった

だが若くして父を亡くし、また周囲に彼を正しく導く人物もいなかった

そのため幼い皇帝は、次第に奇行と暴虐に傾き、宮廷を震撼させる存在となっていった


『叔母を無理やり・・・』中国史上最も狂っていた少年皇帝・劉子業・・・


血縁までも弄んだ劉子業の暴虐は、宮廷を恐怖で満たした

やがてその刃は、彼自身へと向けられることになる

暴君の最期

恐怖に満ちた宮廷のなかで、ついに暴君を討つ動きが芽生えた

首謀者となったのは、かつて「豚王」と嘲られ辱めを受けた叔父、湘東王・劉彧(りゅういく)だった
彼は側近の寿寂之(じゅじゃくし)らと密かに結託し、甥である劉子業を討つ機会をうかがっていた

永光元年(465年)の冬、劉子業は都・建康にある離宮、華林園の竹林堂で、巫術を行っていた

これは「鬼を祓う」と称して宮女や家臣を矢で射殺し、血を捧げるという荒唐無稽な儀式であった

その最中、寿寂之が抜刀し、皇帝の背後から斬りかかったのである

戊午夜,帝於華林園竹林堂射鬼。時巫覡云:「此堂有鬼。」故帝自射之。壽寂之懷刀直入,姜產之為副。帝欲走,寂之追而殞之。時年十七。

【意訳】

465年11月29日(西暦466年1月1日)の夜、帝は華林園の竹林堂で「鬼を射る」儀式をしていた。
巫覡(ふげき 呪術を行う者)が「この堂には鬼がいる」と言ったためである。

そこへ寿寂之が刀を懐に忍ばせて突入し、配下の姜產之が副として従った。
帝は逃げようとしたが、寿寂之に追われて殺された。享年17。

『宋書』巻七「本紀第七 前廃帝紀」より

劉子業は、絶命の間際に「寂寂」と叫んだという逸話もあるが、それが刺客・寿寂之の名を呼んだものか、それとも己の末路を嘆いたものかは定かではない

こうして、劉子業の短い治世の幕は閉じられた

その後は劉彧が即位し、劉宋はしばらく命脈を保ったものの、内乱と外圧に押されてやがて歴史の舞台から姿を消していった

一年半足らずの治世ながら、劉子業はその暴虐ゆえに史書では「前廃帝(ぜんはいてい)」と記され、暴君として歴史に刻まれた

その名は千年を超えてなお、人々の記憶に暗い影を落とし続けている


 

 


全二九四巻にもおよぶ膨大な歴史書『資治通鑑』のなかから、侯景の乱、安禄山の乱など名シーンを精選
破滅と欲望の交錯するドラマを流麗な訳文で

長編アニメ『千夜一夜物語』の制作現場で、初めて手塚治虫氏と机を並べ、「天才的な仕事ぶりに驚愕した」というやなせたかし氏

自伝『人生なんて夢だけど』では、手塚氏と自身について、「神様と毛虫、月とスッポン」と書いています

一緒に旅行をしたこともあり、テレビ番組で共演したこともあったという二人の交流には、忘年会での宴会芸や絵本の会での親密な時間、そしてアニメ制作現場での葛藤と感動といったエピソードが詰まっています

やなせ氏と手塚氏の交流エピソードを紹介します(以下敬称略)

漫画界の地図を大きく塗り替えた手塚治虫

1947年1月、大阪の「育英出版」から刊行された手塚治虫の『新宝島』は、40万部を売り上げる大ヒットとなり漫画界に衝撃を与えました

すい星のごとく現れた手塚治虫に、子どもたちは夢中になります

子どもたちにとってあこがれの存在となった手塚でしたが、既成漫画家たちは邪道だと酷評し、その功績を認めませんでした

そんな手塚を、やなせたかしはどう見ていたのでしょうか

「手塚治虫」という名前は知っていたものの、彼の活躍は別世界の出来事だと思っていたそうです

やなせの目指していた漫画家とは、当時所属していた「漫画集団」に名を連ねる大御所たち
芸術的な「大人漫画」を描きたいと思っていた彼には、手塚の描く子ども向けの漫画は眼中になかったのです

1952年に上京した手塚は、『鉄腕アトム』、『ジャングル大帝』、『リボンの騎士』といったヒット作を連発

1954年には、関西の長者番付・画家部門でトップに輝き、26歳にして売れっ子漫画家の仲間入りを果たしました

ところが、時代が移り変わり、劇画ブームが到来すると「手塚治虫は時代遅れ」と言われ、ノイローゼになったことがありました

そんな手塚の苦悩する姿に、やなせは深い共感を抱いていました

「無名と有名の差はあるし、収入も天と地ほど違っていても、自分の走るレールはよく見えず、脱線転覆しそうになりながら、ただシャニムニ走っていたのと、考えてみれば同じようなものである」

『アンパンマンの遺書』より

時代の寵児となっても悩み、もがき続ける手塚治虫に、やなせは進むべき道が見えず、ただがむしゃらに走り続けていた自分の姿を重ねていたのでした

「漫画集団」で同じ時を過ごした二人

1954年、やなせは漫画家の団体「漫画集団」に参加します

この集まりは、漫画家同士の親睦を深める役割も担っており、1950年代から70年代にかけては、旅行や忘年会など、にぎやかなイベントが盛んに行われていたそうです

中でも箱根で行われる大忘年会には、大勢の漫画家が参加し、夜通し大宴会が繰り広げられました

忘年会では、宴会芸の披露が恒例となっており、太鼓の演奏、どじょうすくい、さらには裸踊りまで、個性豊かな名人芸が次々と飛び出します

一方で、少女の格好で童謡を歌った谷内六郎が貧血で倒れ、赤塚不二夫が下ネタ全開の芸で警察沙汰になるなど、ハチャメチャな一幕もあったようです

そんな赤塚について、やなせは「宴会芸にも全力で臨む、真面目で一途な人」と評しています

ちなみに、手塚はアコーディオンやピアノを演奏したそうです

年に一度ハメを外して一晩中大騒ぎする忘年会は、やなせにとって、漫画家同士が語り合える貴重な時間でもありました

手塚の圧倒的な才能に驚愕『千夜一夜物語』

「今度、長編アニメ(千夜一夜物語)を作るのですが、美術監督をお願いできませんか?」

そんな突然の電話が、やなせのもとにかかってきたのは、1967年の秋のことでした

一応、顔見知りではありましたが、人気絶頂の手塚が、なぜ畑違いの自分に依頼してきたのか、やなせには皆目見当もつかなかったそうです

とりあえず仕事を引き受けてはみたものの、アニメの世界は右も左も分からない全くの素人
一から教えてもらいながら、キャラクターデザインの仕事をこなしていきました

キャラクターのイメージは次々に浮かび、「自分にはキャラクターデザインの才能があるのかも」と思っていた矢先、やなせは壁にぶち当たります

蛇島に登場する裸の女性たちが描けないのです
ストーリーをもったキャラクターであればなんとか描けるのですが、その他大勢となると全くイメージが浮かびません

困り果てているやなせを見かねて、手塚はそのシーンのキャラクターデザインも絵コンテも、すべて自ら描き上げました

「それにしても手塚治虫の天才っぷりは素晴らしかった。机を並べて描いていた時には、あまりの凄さに声も出ないくらいでした。羨ましいなんて思うのも僭越で、愛らしくって魅力的。絵を描くスピードは百万馬力!誰にも真似できません」

『わたしが正義について語るなら』より

手塚の圧倒的な才能に、ただ舌を巻くばかりのやなせでした。

「漫画家の絵本の会」で交流を深めた二人

1973年、『詩とメルヘン』を創刊したこの年、やなせは「漫画家の絵本の会」を立ち上げ、気の合う漫画家たちが集まりました

馬場のぼるや長新太、手塚治虫といった、そうそうたる顔ぶれが勢ぞろいしたこの会で、最年長のやなせは仲間から学ぶことがたくさんあったそうです

何よりも手塚と親しくなれたことが、やなせにとって大きな財産となりました

手塚は、忙しいスケジュールの合間をぬって展覧会に作品を出品し、サイン会にも参加
会場にはファンが押し寄せ、活気に満ちた華やかな雰囲気になりました

そして、手塚自身もまたイベントをとても楽しんでいる様子だったといいます

その理由についてやなせは、有力な新人に対して激しいジェラシーを抱くこともあった手塚にとって、

「絵本の会の仲間は、みんな手塚治虫の競争相手ではなかったから、気を許していた」

『アンパンマンの遺書』より

と考えていました

1989年2月9日、手塚治虫は60歳でこの世を去りました

手塚が亡くなったとき、やなせは69歳
手塚の晩年の作品の中では『アドルフに告ぐ』が一番好きで、夢中になって読んだそうです

コミック雑誌に一度も漫画を描いたことのないやなせたかしと、「漫画の神様」と称された手塚治虫
同じ土俵に上がることのなかった二人は、良好な関係を築いていました

「ぼくはあんなに笑顔のいい人を他に知らない。」

『アンパンマンの遺書』より

「絵本の会」での手塚をこう綴ったやなせ

彼が天才・手塚治虫を思い出すとき、いつもとびっきりの笑顔を浮かべていたのかもしれません

参考文献
やなせたかし著『人生なんて夢だけど』フレーベル館
やなせたかし著『アンパンマンの遺書』岩波書店
やなせたかし著『わたしが正義について語るなら』ポプラ社
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

長編アニメ『千夜一夜物語』の制作現場で、初めて手塚治虫氏と机を並べ、「天才的な仕事ぶりに驚愕した」というやなせたかし氏

自伝『人生なんて夢だけど』では、手塚氏と自身について、「神様と毛虫、月とスッポン」と書いています

一緒に旅行をしたこともあり、テレビ番組で共演したこともあったという二人の交流には、忘年会での宴会芸や絵本の会での親密な時間、そしてアニメ制作現場での葛藤と感動といったエピソードが詰まっています


1973年、『詩とメルヘン』を創刊したこの年、やなせは「漫画家の絵本の会」を立ち上げ、気の合う漫画家たちが集まりました

馬場のぼるや長新太、手塚治虫といった、そうそうたる顔ぶれが勢ぞろいしたこの会で、最年長のやなせは仲間から学ぶことがたくさんあったそうです

何よりも手塚と親しくなれたことが、やなせにとって大きな財産となりました

手塚は、忙しいスケジュールの合間をぬって展覧会に作品を出品し、サイン会にも参加
会場にはファンが押し寄せ、活気に満ちた華やかな雰囲気になりました

そして、手塚自身もまたイベントをとても楽しんでいる様子だったといいます

その理由についてやなせは、有力な新人に対して激しいジェラシーを抱くこともあった手塚にとって、

「絵本の会の仲間は、みんな手塚治虫の競争相手ではなかったから、気を許していた」

『アンパンマンの遺書』より

と考えていました

1989年2月9日、手塚治虫は60歳でこの世を去りました

手塚が亡くなったとき、やなせは69歳
手塚の晩年の作品の中では『アドルフに告ぐ』が一番好きで、夢中になって読んだそうです

コミック雑誌に一度も漫画を描いたことのないやなせたかしと、「漫画の神様」と称された手塚治虫
同じ土俵に上がることのなかった二人は、良好な関係を築いていました

「ぼくはあんなに笑顔のいい人を他に知らない。」

『アンパンマンの遺書』より

「絵本の会」での手塚をこう綴ったやなせ

彼が天才・手塚治虫を思い出すとき、いつもとびっきりの笑顔を浮かべていたのかもしれません


 

 


「手のひらを太陽に」の作詞者でもある戦中派の作者が、自身の風変わりなホップ・ステップ人生を語る
銀座モダンボーイの修業時代、焼け跡からの出発、長かった無名時代、そしてついに登場するアンパンマン――
手塚治虫、永六輔、いずみたく、宮城まり子ら多彩な人びととの交流を横糸に、味わい深い人生模様が織り上げられていく
図版多数収録

胃の構造と働き
消化のほか殺菌や一時的に貯蔵庫の役割も

胃は「胃袋」といわれるように筋肉でできた袋状の臓器で、粘膜や粘膜下層など5層構造になっています
空腹時はぺちゃんこですが、胃に食物が送られてくると胃壁が伸び、風船のように膨らみます
その容量は成人平均で1.5~2ℓ、大容量のペットボトル並です

胃に食物が入ると噴門と呼ばれる部位が弁の役割をして、食物が食道へ逆流するのを防ぎます
また、胃の出口の幽門が、小腸へ食物が一気に流れ出ないよう調整
こうした出入り口の働きで食物は一時的に胃にためられ、その間に消化が進むわけです
通常、消化にかかる時間は2~3時間ですが、消化の悪い物は4~5時間かかるといわれています

胃での消化は胃液の分泌と、筋肉の収縮によるぜん動運動との連携作業です
強酸性の胃酸や消化酵素を含む胃液が食物を溶かし、ぜん動運動による攪拌(胃液と食物を混ぜ合わせる)や粉砕(食物を分解する)によって胃の内容物をおかゆのような状態にして小腸へと送り出します

あまり知られていませんが、胃の役割は消化だけではありません
酸性の強い胃液は、食べ物とともに入ってきた病原菌などを殺菌し、体内に取り込まないよう防御します
また、熱い物や冷たい物がそのまま小腸へ行かないよう、温度調節するのも胃の大切な役目です


胃は袋状の筋肉で風船のようにふくらむ臓器

空腹時の胃
食べ物を消化した状態の胃は、縮んで平べったい状態に。胃が収縮するときに腸内のガスや液体が動き、ぐ~という音が発生する


食べた時の胃
胃に食べた物が入ると、水を入れた風船のようにふくらむ。極端な食べ過ぎが慢性化すると伸びきったゴムのようにたるんでしまうことも


消化は通常2~3時間、消化に悪い物は4~5時間
食べた物は実は胃液だけでは消化されません。 ぜん動運動で固形物をすりつぶしたり(攪拌)、胃液と混ぜ合わせたり(粉砕)して消化されます


胃液だけでなく、ぜん動運動で固形物を攪拌・粉砕し、消化を促している

【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 胃と腸の話』著:福原 真一郎

(この記事はラブすぽの記事で作りました)

 


胃と腸を整えれば、あらゆる不調はみるみる良くなる!
食事など、体に入るものの入口である胃、消化吸収の要である腸、その本来の力を取り戻すための効果絶大な方法だけを大公開!

太りやすい、病院に行ってもわからない慢性的な不調がある、疲れがすぐに溜まる、など、そんな悩みの原因は“胃と腸”が疲れているからかもしれません
また、胃と腸はメンタルとも密接に関わりがあり、痛みや不快症状が出やすい内臓でもあります。そんな胃と腸の状態が回復することで、その他の内臓や全身の機能がみるみるよみがえり、肥満、健康診断の数値、疲労感などが消えていきます
本書では、そもそも胃と腸の働きとは?といった基礎知識から、みるみる痩せる本来の胃の大きさに戻す方法、胃腸が一気に整う漢方や薬膳、さらにすごいスパイスカレーなども紹介
さらに過敏性腸症候群を改善するための座り方など、効果的な方法を厳選して紹介します
さらに今の自分はどんな状態なのか簡単にわかるチェック法なども掲載し、自分の体と向き合えます
どれも簡単にできる方法ばかりなので、ストレスで胃と腸の調子がよくない、なんとなく不調が続いている、という方にはぜひ手に取って頂きたい一冊です

【世界史の悲劇】ヨーロッパが豊かになり、アフリカが貧しくなった“本当の理由”
「地図を読み解き、歴史を深読みしよう」
人類の歴史は、交易、外交、戦争などの交流を重ねるうちに紡がれてきました
しかし、その移動や交流を、文字だけでイメージするのは困難です
地図を活用すれば、文字や年表だけでは捉えにくい歴史の背景や構造が鮮明に浮かび上がります
政治、経済、貿易、宗教、戦争など、多岐にわたる人類の営みを、地図や図解を用いて解説するものです
地図で世界史を学び直すことで、経済ニュースや国際情勢の理解が深まり、現代社会を読み解く基礎教養も身につきます
著者は代々木ゼミナールの世界史講師の伊藤敏氏
黒板にフリーハンドで描かれる正確無比な地図に魅了される受験生も多い
近刊『地図で学ぶ 世界史「再入門」』の著者でもある


● ヨーロッパが豊かになり、アフリカが貧しくなった“本当の理由”

中世後期の西ヨーロッパでは農奴解放が進み、自由になった農民(ヨーマン)が土地を購入して地主となり、その土地に工場を設立しました

これらの工場は工場制手工業(マニュファクチュア)と呼ばれ、機械化は不十分ながらも分業によって手作業で製品を作るため、個々の職人による生産より効率が高くなりました

価格革命によって工場製品は比較的安価で安定した利益をもたらし、特に羊毛を用いた毛織物業でマニュファクチュアの発展が進みます

その結果、経営者たちは利益を再投資して事業を拡大し、工場規模を大きくしたり雇用を増やすなどして、やがて産業資本主義の基盤を築きました。こうしてマニュファクチュアの経営者は産業資本家となり、資本主義社会の形成が進んでいきます

● 経済の「流れ」が変わった

西ヨーロッパで生産された毛織物などの工業製品は、大航海時代の航路を介して、世界中に輸出されることになります。しかし、東ヨーロッパやアフリカなどでは、そもそも産業資本家の数が希少であることなどから、西ヨーロッパの工業製品に十分に対抗できません

したがって、これらの地域では、西ヨーロッパの工業製品が絶え間なく流入することで工業化が進まず、西ヨーロッパに原材料などを輸出(といっても実際は吸い取られるというニュアンスが近いです)せざるをえなくなります

アフリカ、とりわけギニア湾に面した西アフリカから西ヨーロッパ商人に輸出されたのが奴隷(黒人奴隷)です
沿岸の諸国はヨーロッパ商人から火砲などの武器を購入し、これで内陸地域に対して奴隷狩りを繰り返すのです
黒人奴隷は主に新大陸の銀山などの鉱山労働に従事しました
奴隷貿易により恒常的に生産年齢人口を奪われた西アフリカは、産業の停滞により「低開発化」に甘んじることになるのです

このように、世界は次第に西ヨーロッパに富が集中し、東ヨーロッパやアフリカのような地域はその源泉を吸い上げられるという構図ができます

● 近代世界システム論とは?

こうした国際分業体制を、1970年代にアメリカの社会学者・経済史学者であったイマニュエル・ウォーラーステイン(19301〜2019)は、「近代世界システム論」として体系化しました

近代世界システムとは、大航海時代以来、世界は「中核」と「周辺」と呼ばれる2つのグループからなる国際分業体制のことです
「中核」は今回の西ヨーロッパのように世界の富が集中する地域、「周辺」は東ヨーロッパやアフリカのように、その富を一方的に「中核」に搾取され経済的に従属せざるをえない地域を指します

大雑把に言えば、この「中核」と呼ばれた地域が今日の「先進国」の、「周辺」と呼ばれた地域は「途上国」のそれぞれ源流をなすのです

 (本原稿は『地図で学ぶ 世界史「再入門」』を一部抜粋・編集したものです)

(この記事はDiamond onlineの記事で作りました)

● ヨーロッパが豊かになり、アフリカが貧しくなった“本当の理由”

中世後期の西ヨーロッパでは農奴解放が進み、自由になった農民(ヨーマン)が土地を購入して地主となり、その土地に工場を設立しました

これらの工場は工場制手工業(マニュファクチュア)と呼ばれ、機械化は不十分ながらも分業によって手作業で製品を作るため、個々の職人による生産より効率が高くなりました

価格革命によって工場製品は比較的安価で安定した利益をもたらし、特に羊毛を用いた毛織物業でマニュファクチュアの発展が進みます

その結果、経営者たちは利益を再投資して事業を拡大し、工場規模を大きくしたり雇用を増やすなどして、やがて産業資本主義の基盤を築きました。こうしてマニュファクチュアの経営者は産業資本家となり、資本主義社会の形成が進んでいきます

● 経済の「流れ」が変わった

西ヨーロッパで生産された毛織物などの工業製品は、大航海時代の航路を介して、世界中に輸出されることになります。しかし、東ヨーロッパやアフリカなどでは、そもそも産業資本家の数が希少であることなどから、西ヨーロッパの工業製品に十分に対抗できません

したがって、これらの地域では、西ヨーロッパの工業製品が絶え間なく流入することで工業化が進まず、西ヨーロッパに原材料などを輸出(といっても実際は吸い取られるというニュアンスが近いです)せざるをえなくなります

アフリカ、とりわけギニア湾に面した西アフリカから西ヨーロッパ商人に輸出されたのが奴隷(黒人奴隷)です
沿岸の諸国はヨーロッパ商人から火砲などの武器を購入し、これで内陸地域に対して奴隷狩りを繰り返すのです
黒人奴隷は主に新大陸の銀山などの鉱山労働に従事しました
奴隷貿易により恒常的に生産年齢人口を奪われた西アフリカは、産業の停滞により「低開発化」に甘んじることになるのです

このように、世界は次第に西ヨーロッパに富が集中し、東ヨーロッパやアフリカのような地域はその源泉を吸い上げられるという構図ができます

● 近代世界システム論とは?

こうした国際分業体制を、1970年代にアメリカの社会学者・経済史学者であったイマニュエル・ウォーラーステイン(19301〜2019)は、「近代世界システム論」として体系化しました

近代世界システムとは、大航海時代以来、世界は「中核」と「周辺」と呼ばれる2つのグループからなる国際分業体制のことです
「中核」は今回の西ヨーロッパのように世界の富が集中する地域、「周辺」は東ヨーロッパやアフリカのように、その富を一方的に「中核」に搾取され経済的に従属せざるをえない地域を指します

大雑把に言えば、この「中核」と呼ばれた地域が今日の「先進国」の、「周辺」と呼ばれた地域は「途上国」のそれぞれ源流をなすのです


 

 


本書は、政治、経済、貿易、宗教、戦争など、多岐にわたる人類の営みを、地図を用いてわかりやすく、かつ深く解説した一冊です
地図が語りかける「本当の世界史」