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メインウェーブ日記

気になるニュースやスポーツ、さらにお小遣いサイトやアフィリエイトなどのネットビジネスと大相撲、競馬、ビートルズなど中心

地球上に棲む動物のうち、およそ7〜8割は、昆虫、クモ、エビ・カニなどを含む「節足動物」に分類される

なかでも昆虫の種数は数百万にのぼり、個体数に至っては百京から千京という天文学的な数が推定されている
想像を絶するその膨大な数こそが、彼らの生命力を物語っているといえるだろう

神話や伝承の世界でも、虫は得体の知れぬ異形としてしばしば登場してきた
多種多様な虫たちは、時に奇怪な怪物へと姿を変え、人々の想像力を刺激し続けてきたのである

今回も引き続き、虫にまつわる奇妙な伝承の数々を紹介していきたい
(前回の記事はこちら:https://kusanomido.com/study/fushigi/story/101068/)


1. 恙虫

恙虫(ツツガムシ)は、ダニの一種である

幼虫の体長はわずか0.2〜0.3ミリメートルほどしかなく、哺乳類の皮膚に取り付いて、刺してリンパ液を吸いながら成長する
人間も例外ではなく、噛まれると「ツツガムシ病」と呼ばれる病気を発症することがある

この病は、幼虫の体内に棲むリケッチアという細菌が人へ感染することで引き起こされる
適切に治療しなければ、重症化して命を落とす危険もある恐ろしい感染症だ

微小な幼虫は、肉眼ではかろうじて見えるかどうかというほど小さい
古の人々にとっては、原因不明の病が突如流行すれば、それは妖怪の仕業と考えざるを得なかった
こうして「恙虫(つつがむし)」という妖怪が生まれたとされる

夜な夜な人の生き血を吸い、病をもたらして命を奪う怪物として、人々に恐れられてきたのである

言うなれば、
「奇病が広がる → 妖怪の仕業とされ『恙虫』と名付けられる → 後にダニによる感染症と判明 → 妖怪の名がそのままダニの和名『ツツガムシ』となる」

といった経緯で、妖怪の名が医学用語へと引き継がれた格好だ

江戸時代の怪談集『絵本百物語(桃山人夜話)第五巻』には、恙虫の姿が挿絵と共に描かれている
フナムシとハサミムシを足し合わせたような異様な姿で、飛鳥時代の石見国(現在の島根県)に現れ、多くの人を死に追いやったという
物語では、最終的にとある博士によって封じられたと伝えられている

ツツガムシは現代の日本各地にも生息しており、いまもなお感染被害が報告されている

野外に出る際は、肌を隙間なく覆い、虫に噛まれない工夫が重要とされている





2.針口虫

針口虫(しんくちゅう)、またの名を孃矩吒(ひくた)は、仏教の地獄に棲みつくとされる怪異の虫である

仏典『起世経』によれば、地獄には八つの大地獄があり、その周囲にさらに十六の小地獄が存在すると説かれている
その中の一つ、「糞屎泥(ふんしでい)」と呼ばれる地獄に、この針口虫は現れるという

糞屎泥に落ちるのは、生前に清らかさや善意を軽んじ、汚穢や悪事を好み、仏の教えを嘲った者たちだ
この地獄は一面が糞尿の海となっており、罪人はその汚物の中に頭から投げ込まれる
鼻や口、目や耳など、あらゆる穴という穴から汚物が入り込んでくるという惨状が延々と続く

そこに現れるのが針口虫である

鋭い口を持つこの虫は、汚物の中を泳ぎ回りながら、罪人の体に噛みつき、肉を食い破っていく
やがて死に至るが、地獄においては死も救いにはならない。罪人は即座に蘇生させられ、再び針口虫に食われる苦しみを繰り返すのだ
こうして無限とも思える責め苦が続けられるのである

こうした地獄の壮絶な描写は、人々に「悪事を働けばこのような報いを受ける」と恐怖心を植え付け、道徳心や宗教的規律を保たせるための戒めとして語られてきたともいわれている

3.ジエイエン

ジエイエン(Dieien)は、アメリカ先住民族セネカ族に伝わる怪物である

巨大な蜘蛛の姿をしており、その体長はおよそ6フィート(約180センチメートル)にも達し、狡猾で邪悪な存在として、人々に恐れられてきた

この怪物の最大の特徴として、「心臓を体内から取り外せる」というものがある
心臓を別の場所に隠すことでジエイエンは不死身となり、いかなる攻撃も通じなくなったとされる

以下のような伝承が伝えられている

「ハゴワネン」という男が失踪したので、息子の「オセグウェンダ」が探しに行った。
森の中でジエイエンを見つけて後をつけていくと、巣穴からハゴワネンの呻き声が聞こえてきた。
オセグウェンダは、旅立つ前に母からもらったお守りに向かってジエイエンの倒し方を尋ねた。

するとお守りが、「地面の中に奴の心臓が埋まっている。木の枝を投げるがよい」と告げたため、オセグウェンダはその辺の木の枝を切り取り、巣穴に向かって投げつけた。
枝は見事に地中に隠されていた心臓を貫き、ジエイエンは絶命した。

ハゴワネンは全身の肉を食いちぎられ瀕死であったが、オセグウェンダが唾を塗りつけると、たちまち元気を取り戻したという。

4. ケプリ

ケプリ(Khepri)は、古代エジプトにおいて信仰された神のひとりである

その姿はきわめて特異で、人間の体にフンコロガシ(スカラベ)の頭部が付いている、あるいは頭部そのものがスカラベであるとされている

顔に虫が張りついているというより、もはや顔全体が昆虫に置き換わったかのような造形である
現代の感覚からすれば異様にも映るが、そこには古代人なりの深い象徴性が込められていた

フンコロガシは、糞を球状に丸めて転がす習性で知られる昆虫である
古代エジプト人は、この糞玉を転がす様子を「太陽が地平線を昇る様子」になぞらえたと考えられている
こうした連想のもと、ケプリは「太陽の再生」や「日の出」を象徴する神格として崇拝されるようになった

スカラベと同一視されたフンコロガシは、神聖な存在として神殿で飼育され、死後は丁重にミイラ化されて埋葬された
古代エジプトにおいてミイラは魂の再生に不可欠とされる重要な宗教的儀式であり、それは人間に限らず神聖視された動物にも適用された

2018年には、大量のスカラベのミイラが木箱に納められた状態で発見され、考古学界に大きな驚きをもたらした
このような出土品は、太古の宗教観や自然観を理解するうえで極めて貴重な手がかりとなっている

参考 :『絵本百物語』『起世経』『地獄草紙』他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

虫、特に昆虫は地球上で一番多い、ある意味、繁栄している種だ

小さな体で驚異の身体能力・特殊能力を持ち、人類のある意味、天敵であるウイルス、細菌などを媒介する

そのため、恐れられてもきた


 

 


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「虫」は、我々人類にとって身近な動物の一つである

特に昆虫は、この地球上でもっとも種類が多い動物として知られている

自然のサイクルにおいても重要な役割を担っており、例えばハチや蝶は花粉を運び、ボウフラは水を濾過する
こうした生態系の働きによって、自然の均衡は保たれているのだ

しかし、神話や幻想の世界に目を向けると、恐るべき虫たちの伝承が存在する

そんな「虫の妖怪」伝承について詳しく解説していく


1. アペヤキ

セミといえば、夏の風物詩である

セミの鳴き声は、うだるような夏の到来を、嫌というほど感じさせてくれる
そんな夏の暑さを体現したかのような、セミの妖怪の伝承があるのをご存知だろうか

アペヤキはアイヌ民族に伝わる、セミの怪異である
作家・中田千畝の著作「アイヌ神話」などで言及されている

日高国(北海道南部)幌泉郡に、このセミは生息すると信じられていた
アイヌの言葉でアペは「火」、ヤキは「セミ」を意味する

その名の通り、このセミは全身が真っ赤に燃えており、木に止まればたちまち黒焦げにしてしまう程の、凄まじい高熱を有していたとされる

こんなセミがもし体に止まったりすれば、当然火傷だけでは済まず、一瞬にして焼死してしまうこと必至だ

このため、アイヌの人々は、このセミを大いに恐れていたという

2. 最猛勝

日本の地獄は、実に多種多様な姿を持つ

ガンダーラ(現在のパキスタン北西部)出身の僧侶・闍那崛多(523~600年?)が漢訳した仏教経典『起世経』によれば、この世界の地下には八つの大地獄があり、その周囲にはさらに十六の小規模な地獄があると説かれている

この十六の地獄の中の一つに「膿血地獄」という地獄がある
その名の通り膿でドロドロになっている地獄であり、亡者たちは鼻の当たりまで膿に浸されるという
愚かで腹黒く、人に汚物を食わせた人間が死後、この地獄に堕ちると考えられていた

この膿血地獄に生息するとされた虫が、最猛勝(さいもうしょう・さいみょうしょう)である

最猛勝はハチによく似た虫であり、膿の海で溺れる亡者たちを、容赦なく針で刺したり、顎で噛み砕いたりするという
この虫から逃れるには汚染された膿に沈むしかなく、それはそれでとても不快なこと極まりない
どう足掻いても、亡者たちは苦しむよりほかにないのである

現実においてもハチは、刺されれば命を落とす危険さえある、危険な昆虫の一つだ
顎の力も存外強く、噛まれれば肉を食いちぎられることもある

もしハチの巣をみつけても、決して面白半分で近づいてはならない

3.ナマラカイン

ナマラカインは、オーストラリアに生息すると伝えられる妖怪である

作家・中岡俊哉の著書『恐怖大怪物』などで、その存在が言及されている

この妖怪の体はカマキリのように細く、両手は鋭利な鎌となっている
ナマラカインは自分より弱い動物を餌とし、特に人間は格好の捕食対象だったそうだ
人間を襲う際はきまって、自身の体を3つに分ける、いわゆる「分身殺法」を駆使し、惑わしながら襲ってくるという

だが自分より格上の存在には滅法弱く、特にサソリの姿をした「ギギ」という怪物には手も足も出ず、尻尾をまいて逃げ出すのだそうだ

4.セルケト

セルケト(Serket)は、古代エジプトの神話に登場する、サソリの女神である

足と尻尾のないサソリを頭に乗せた、女性の姿で壁画に描かれている
(古代エジプトでは、壁画に描かれた生物は実体化し、動き出すと考えられていた。ゆえにセルケトのサソリは人間に害を及ぼさないよう、足と尾をもがれているのである)

サソリといえば砂漠に生息する有毒の虫であり、尾の毒針に刺されれば、命を落とす危険性さえある
特にオブトサソリという種のサソリは、通称「デスストーカー」と呼ばれ、エジプトのみならずアフリカ全土で恐れられている

セルケトは人間をサソリの毒から守護してくれると考えられており、古代エジプトの人々はこの女神を熱心に信仰していたという

5.ミルメコレオ

ミルメコレオ(Myrmecoleo)は、ヨーロッパに伝わる怪物である

なんとこの怪物は、半身がライオンで、もう半身がアリという、極めて奇怪な姿を持つと伝えられている

古代の博物図鑑「フィシオロゴス」によれば、ミルメコレオの父はライオン、母はアリであるとされる

肉食のライオンと、草食のアリ(当時はそう考えられていた)、双方の性質を合わせ持つため、肉を食っても消化ができず、最終的に餓死してしまう哀れな存在だと説かれている

また、「二兎追うものは一兎も得ず」と言うように、物事は一つにしぼらないと破綻するという例えに、ミルメコレオが引き合いに出されることがある

この怪物は、聖書の誤訳から生まれたと考えられている

ヘブライ語の「旧約聖書」がギリシア語に翻訳される際に、「雄ライオン」という言葉が「ミュルメクスライオン」と訳されてしまった
「ミュルメクス」はギリシャ語で「蟻」を意味するため、結果、この奇妙な「蟻ライオン」ミルメコレオが誕生したというわけだ

参考 : 『アイヌ神話』『大人を恐がらせる恐怖大怪物』他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

虫、特に昆虫は地球上で一番多い、ある意味、繁栄している種だ

小さな体で驚異の身体能力・特殊能力を持ち、人類のある意味、天敵であるウイルス、細菌などを媒介する

そのため、恐れられてもきた


 

 


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さまざまな面で出雲大社を超える熊野大社

有名な神社といえば、多くの人が「伊勢神宮」や「出雲大社(いずもおおやしろ)」の名を挙げるだろう

この二社のうち、皇室の皇祖神である天照大御神を祀る「伊勢神宮」は、「日本国民の総氏神」と称され、すべての神社の頂点に位置づけられている

対して、「伊勢神宮」が国家神道における特別な存在であることを踏まえれば、「出雲大社」は山陰地方のみならず、日本全体を代表する神社のひとつとされるのが通例である

しかし、その「出雲大社」が鎮座する島根県には、実は同社の格式を上回るとされる神社が存在するのだ

とすれば、その神社こそ「伊勢神宮」を除けば、日本で最も格式の高い神社ということになるだろう

さまざまな面で「出雲大社」を越えるとされる神社「熊野大社(くまのたいしゃ)」についてお話ししよう


天照大御神の弟・素盞鳴尊を祭神とする

「出雲大社」が鎮座する島根県出雲市
そして「熊野大社」が鎮座する島根県松江市
この両市は、いずれも旧国名である出雲国に属していた地域だ

そして、その出雲国の一の宮とされるのが、「出雲大社」と「熊野大社」の二社である
一の宮とは、簡単にいえば、その国の中で最も格式が高いとされる神社のことだ

とはいえ、「出雲大社」は全国的にも著名であるのに対し、「熊野大社」については、地元の人や神社に詳しい人を除けば、あまり知られていないのが実情ではないだろうか

ではなぜ、その「熊野大社」が「出雲大社」と並び、あるいはそれをも上回るとされ、ひいては日本で最も格式の高い神社の一つに数えられているのか、その理由を紐解いていきたい

そのためには、先ずは「熊野大社」の由緒を紹介しよう

同社の創建年代は不明である

しかし、927年(延長5年)に編纂された『延喜式神名帳』には「熊野坐神社」の名で記されており、さらにそれよりも約200年古い『出雲国風土記』にもその名が見えることから、古くから地元の産土神として信仰されていたと考えられる

では、「熊野大社」にはどのような神が祀られているのだろうか
その神名は、「伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命(いざなぎのひまなご かぶろぎくまのおおかみ くしみけぬのみこと)」という

「伊邪那伎日真名子(いざなぎのひまなご)」とは、日本神話の創造神・伊邪那伎命が特に愛した御子を意味する
「加夫呂伎熊野大神(かぶろぎくまのおおかみ)」は、熊野の地に坐す神聖な神
そして「櫛御気野命(くしみけぬのみこと)」は、皇祖神である天照大御神の弟・素盞鳴尊(すさのおのみこと)と同一神とされている

「熊野大社」の背後には素盞鳴山がそびえ、同社ではこの山を素盞鳴尊の御陵と見なしている

このように、「熊野大社」の祭神は素盞鳴尊であり、殖産興業・招福縁結び・厄除けの大神として、古くから多くの人々の崇敬を集めてきたのである

重要な神事・行事の際に熊野大社に出向く

ではここからは、「熊野大社」と「出雲大社」の関係、そして「熊野大社」が「出雲大社」を凌ぐ存在とされる理由の核心に迫っていこう

前述の『出雲国風土記』などによると、出雲には「熊野大社」と「杵築(きつき)大社」という二社があり、当初は「熊野大社」が一の宮、「杵築大社」が二の宮とされていたという(異説もある)

この二社の宮司は、いずれも出雲国造家が務めていたが、中世になると「杵築大社」へと拠点を移すこととなった

そして、明治時代に入ってこの「杵築大社」は社名を改め、「出雲大社」となったのである

このことから、「熊野大社」は当初より「出雲大社(=杵築大社)」よりも上位の存在であったことがわかる

そのため現在に至るまで、出雲国造の世継ぎの儀式である「火継式(神火相続式)」や「新嘗祭」などの重要な神事は、出雲大社宮司を務める出雲国造家が「熊野大社」に出向いて執り行うのが慣例となっている

また、毎年10月15日に斎行される神事「鑽火祭(さんかさい)」では、11月23日の出雲大社「古伝新嘗祭」で用いる神聖な火を起こすための「燧臼(ひきりうす)」と「燧杵(ひきりきね)」を、出雲国造自身が熊野大社に赴いて受け取ることでも知られている

その際、「出雲大社」からはお礼として大きな餅が持参されるが、それに対して押し問答が交わされる「亀太夫神事」がよく知られている

この神事では、出雲大社が納めた餅の出来栄えについて、熊野大社の下級神官である亀太夫が「色が悪い」「去年より小さい」「形が悪い」などと、口うるさく苦情を並べ立て、餅に対してあれこれと難癖をつける

その後、出雲大社の宮司によって「百番の舞」が舞われ神事は終了するのである

こうしたやり取りからも、「出雲大社」が「熊野大社」の下位に位置づけられていたことがうかがえる

ちなみに「熊野大社」の境内にある「鑚火殿(さんかでん)」の造りは、非常に独特である
屋根は萱葺き、四方の壁はヒノキの皮で覆われ、さらに周囲には竹の縁が巡らされている

この鑚火殿の内部には、火起こしのための神器である「燧臼(ひきりうす)」と「燧杵(ひきりぎね)」が大切に保管されている

「燧臼」は長さ100cm・幅12cm・厚さ3cmの檜板で、この板に長さ80cm・直径2cmの「燧杵」を立て、古来の錐揉み式によって火を起こす

この火起こしの方法は、素盞嗚尊が伝えたとされ、それゆえ「熊野大社」は「日本火出初社(ひのもとひでぞめのやしろ)」とも称されているのだ

まとめにかえて

日本で最も格式が高いとされる「出雲大社」よりも、さらにその上位に位置づけられる神社が、同じ島根県内に存在する
それが「熊野大社」であるということをご理解いただけただろうか

もちろん、神社にまつわる伝承には定説がなく、さまざまな解釈が存在するのは当然のことだ

加えて、明治維新以降の新政府の方針により、多くの神社が本来の祭神から政府が望む祭神へと変更されたり、神社名そのものが改められたりと、元の姿を歪められた事例も少なくない

こうした観点に立てば、「熊野大社」が「出雲大社」よりも上位にあるという主張に懐疑的、あるいは否定的な意見があるのも、無理からぬことだろう

しかしながら、島根県出身の多く人が、「出雲大社」と「熊野大社」を比較した際に、「熊野大社」の方をより格式が高いと見なしているのが実情である

さらに、南北朝初期から戦国時代にかけて、「出雲大社」の祭神が大国主命から「熊野大社」の祭神である素盞嗚尊へと変更されていた歴史的事実も、この見解に十分な根拠を与えているといえるのではないだろうか

※参考 :
高野晃彰著『日本全国一の宮巡拝パーフェクトガイド』メイツユニバーサルコンテンツ刊
文:高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

さまざまな面で出雲大社を超える熊野大社

有名な神社といえば、多くの人が「伊勢神宮」や「出雲大社(いずもおおやしろ)」の名を挙げるだろう

この二社のうち、皇室の皇祖神である天照大御神を祀る「伊勢神宮」は、「日本国民の総氏神」と称され、すべての神社の頂点に位置づけられている

対して、「伊勢神宮」が国家神道における特別な存在であることを踏まえれば、「出雲大社」は山陰地方のみならず、日本全体を代表する神社のひとつとされるのが通例である

しかし、その「出雲大社」が鎮座する島根県には、実は同社の格式を上回るとされる神社が存在するのだ

とすれば、その神社こそ「伊勢神宮」を除けば、日本で最も格式の高い神社ということになるだろう


『出雲国風土記』などによると、出雲には「熊野大社」と「杵築(きつき)大社」という二社があり、当初は「熊野大社」が一の宮、「杵築大社」が二の宮とされていたという(異説もある)

この二社の宮司は、いずれも出雲国造家が務めていたが、中世になると「杵築大社」へと拠点を移すこととなった

そして、明治時代に入ってこの「杵築大社」は社名を改め、「出雲大社」となったのである

このことから、「熊野大社」は当初より「出雲大社(=杵築大社)」よりも上位の存在であったことがわかる

そのため現在に至るまで、出雲国造の世継ぎの儀式である「火継式(神火相続式)」や「新嘗祭」などの重要な神事は、出雲大社宮司を務める出雲国造家が「熊野大社」に出向いて執り行うのが慣例となっている

また、毎年10月15日に斎行される神事「鑽火祭(さんかさい)」では、11月23日の出雲大社「古伝新嘗祭」で用いる神聖な火を起こすための「燧臼(ひきりうす)」と「燧杵(ひきりきね)」を、出雲国造自身が熊野大社に赴いて受け取ることでも知られている

その際、「出雲大社」からはお礼として大きな餅が持参されるが、それに対して押し問答が交わされる「亀太夫神事」がよく知られている

この神事では、出雲大社が納めた餅の出来栄えについて、熊野大社の下級神官である亀太夫が「色が悪い」「去年より小さい」「形が悪い」などと、口うるさく苦情を並べ立て、餅に対してあれこれと難癖をつける

その後、出雲大社の宮司によって「百番の舞」が舞われ神事は終了するのである

こうしたやり取りからも、「出雲大社」が「熊野大社」の下位に位置づけられていたことがうかがえる


日本で最も格式が高いとされる「出雲大社」よりも、さらにその上位に位置づけられる神社が、同じ島根県内に存在する
それが「熊野大社」であるということをご理解いただけただろうか

もちろん、神社にまつわる伝承には定説がなく、さまざまな解釈が存在するのは当然のことだ

加えて、明治維新以降の新政府の方針により、多くの神社が本来の祭神から政府が望む祭神へと変更されたり、神社名そのものが改められたりと、元の姿を歪められた事例も少なくない

こうした観点に立てば、「熊野大社」が「出雲大社」よりも上位にあるという主張に懐疑的、あるいは否定的な意見があるのも、無理からぬことだろう

しかしながら、島根県出身の多く人が、「出雲大社」と「熊野大社」を比較した際に、「熊野大社」の方をより格式が高いと見なしているのが実情である

さらに、南北朝初期から戦国時代にかけて、「出雲大社」の祭神が大国主命から「熊野大社」の祭神である素盞嗚尊へと変更されていた歴史的事実も、この見解に十分な根拠を与えているといえるのではないだろうか


 

 


神社は多くの日本人の生活・心に根づいていると思います
初詣、七五三など・・・
そんなある意味「身近な」神社についてわかりやすく解説・分析・魅力など

【世界史ミステリー】金融帝国メディチ家が誕生した「意外な理由」とは?
「地図を読み解き、歴史を深読みしよう」
人類の歴史は、交易、外交、戦争などの交流を重ねるうちに紡がれてきました
しかし、その移動や交流を、文字だけでイメージするのは困難です
地図を活用すれば、文字や年表だけでは捉えにくい歴史の背景や構造が鮮明に浮かび上がります
政治、経済、貿易、宗教、戦争など、多岐にわたる人類の営みを、地図や図解を用いて解説するものです
地図で世界史を学び直すことで、経済ニュースや国際情勢の理解が深まり、現代社会を読み解く基礎教養も身につきます
著者は代々木ゼミナールの世界史講師の伊藤敏氏
黒板にフリーハンドで描かれる正確無比な地図に魅了される受験生も多い
近刊『地図で学ぶ 世界史「再入門」』の著者でもある

● 金融帝国メディチ家が誕生した「理由」とは?

11世紀後半、西ヨーロッパで農業効率が向上し、余剰農産物が生まれたことで、これを売買する定期市が各地に誕生しました

やがて市が常設化し、市場の周囲に商人や職人が定住し、城壁で囲まれた中世都市が形成されます
これら都市は中央広場と城壁を特徴とし、市民(商人や手工業者)はギルドを結成し、都市運営に関わるエリート層となりました
城壁内に住む人々は「ブルジョワ」と呼ばれ、後の市民階層を象徴します

しかし、都市が繁栄すると、その地域を支配する領主(聖俗諸侯)との間で対立が生じるようになります
中世ヨーロッパの大半の都市は荘園と呼ばれた領主の私有地であり、ほとんどの土地には、教会や修道院・俗人諸侯といった誰かしら領主がいるのです

このため、都市は領主に対して納税するか、場合によっては闘争を経て自治権を手にします。後者を自治都市といい、イタリアでは自治都市はコムーネ(都市共和国)に発展し、在地の領主を排除して領域支配を打ち立てるようにすらなります

さらに、都市の権益が周辺領主や君主などによって脅かされると、近隣の都市は共同して都市同盟を結成することもあります

北イタリアのロンバルディア同盟、北海・バルト海域のハンザ同盟、アルプス山脈一帯の盟約者団(誓約同盟)はその典型です
盟約者団は、後にスイスという国家に発展することになります

都市の発展は、近隣都市との取引に加え、遠隔地との貿易も促すことになります
一連の十字軍遠征により、地中海を中心とした交易ルートが確立すると、イスラーム勢力や東ローマ帝国などとの通商が活性化したのです

また、西ヨーロッパではローマ帝国の崩壊以来、貨幣経済がほぼ失われていましたが、遠隔地貿易の興隆とともにイスラーム勢力や東ローマ帝国に倣った貨幣が製造・流通するようになります

遠隔地交易と貨幣経済の浸透により、イタリアのメディチ家や南ドイツのフッガー家のような金融取引を扱う一族(銀行家)も登場します

(本原稿は『地図で学ぶ 世界史「再入門」』を一部抜粋・編集したものです)

(この記事はDIAMOND onlineの記事で作りました)

● 金融帝国メディチ家が誕生した「理由」とは?

経済、交易活動が活発となり・・・

遠隔地交易と貨幣経済の浸透により、イタリアのメディチ家や南ドイツのフッガー家のような金融取引を扱う一族(銀行家)も登場・・・



 

 


本書は、政治、経済、貿易、宗教、戦争など、多岐にわたる人類の営みを、地図を用いてわかりやすく、かつ深く解説した一冊です
地図が語りかける「本当の世界史」

古代中国の死生観と墓の意味

古代の人々にとって、「死」は終わりではなかった

特に中国では、死後の世界は現世よりも永遠で重要な場所とされ、そこでも生活が続くと考えられていた
あの世でも不自由なく暮らせるよう、衣食住に必要な品々が墓に納められた

この考え方は、社会の上層になるほど顕著だった

王や貴族の墓は、地上の宮殿にも匹敵するほど壮麗につくられ、宝物や生活道具、時には使用人や動物までもが副葬された
それは単なる見せびらかしではなく、「死者に仕える」という一種の宗教的行為であり、家族や国家が死者を敬う証でもあった

副葬品の一つひとつは、故人の地位や暮らしぶりを示すと同時に、当時の流行や価値観、技術力までもを今に伝えてくれる

こうした理由から、古墓の発掘は歴史研究にとって重要な手がかりとなっている

始皇帝の祖母・夏太后とその巨大陵墓

紀元前3世紀、戦国時代の末期
後に中国を初めて統一する始皇帝の祖母にあたる女性がいた

史書では「夏姬(かき)」と記されている

彼女は秦の太子・安国君(後の孝文王)の側室であり、異人(後の荘襄王)を産んだが、母子ともに宮廷内では寵愛を受けていなかった
やがて異人は趙へ人質として送られ、夏姬も宮中で孤立した存在となっていた

しかし、正室の華陽夫人に子がなかったため、異人は彼女の養子として迎えられ、後に呂不韋の支援によって秦へ帰国
安国君の死後、異人は王位を継ぎ、荘襄王として即位した

これにより、夏姬は「夏太后」として正式に尊崇され、王の生母として王族内での立場を確立したのである

2006年、陝西省西安市南郊の神禾塬(しんかげん)で巨大な墓が発見され、彼女のものである可能性が高いとされている

墓域の面積はおよそ260畝(約17万平方メートル)に及び、南北550メートル、東西310メートルという規模は、中国で発掘された戦国期の王族墓として最大級である

墓室は四条の墓道を持ち、王侯にのみ許された「天子駕六(六頭の馬が引く御車)」が副葬されていた

だがこの墓もまた、歴史の荒波から逃れられなかった

内部には17ヶ所以上の盗掘痕が見つかり、棺は焼き払われ、壁面には高熱の痕跡が残されていた
それでも金銀器、玉器、青銅器など300点を超える副葬品が出土し、彼女の地位が極めて高かったことを物語っている

中でも注目を集めたのは、「私官」や「北宮楽府」などの文字が刻まれた遺物であった
これらは太后や王族と強く結びつく官職・機関であり、墓の主が夏太后であるとする考古学上の有力な証拠とされている

「謎の猿」の発見

夏太后の陵墓では、金銀玉器や馬具だけでなく、予想もしなかった“ある生き物の痕跡”が発見された

それは、人間の手では到底つくりえない精巧さと奇妙さを併せ持った、1体の小型霊長類の頭骨だった

最初に骨を見た考古学者たちは、その正体に困惑した。骨の形状が、中国に現存するどの霊長類とも一致しなかったからである

研究チームは骨を保存し、後にロンドン動物学会(ZSL)のサミュエル・ターヴィー博士らが詳しく分析を行った

DNA解析は許可されなかったため、研究者たちは3Dスキャンと形態測定という手法で、この謎の骨を現生のテナガザルと比較した

その結果、この霊長類は現存するいずれの属にも属さない、完全な新属・新種であることが判明したのである

学名はJunzi imperialis
中国語では「帝国君子长臂猿」、日本語に訳すと「帝国君子テナガザル」にあたる※本稿では以降、帝国君子テナガザルと記す

この名称は、中国文化に根ざした「君子」と「帝国」という概念に由来する
古代において、テナガザルは礼節と知性を備えた理想的人物「君子」の象徴とされ、特に高貴で風雅な存在として尊ばれていた

この発見は、単に新種の動物が見つかったという話では終わらない
帝国君子テナガザルは、人類の活動によって絶滅した霊長類の一つである可能性もあるのだ

墓に副葬されていたという事実から、この猿は夏太后の寵愛を受けていた“高貴なペット”だった可能性が高い

彼女の死後、愛玩動物としてともに埋葬されたその姿は、今や静かに絶滅という事実を語っている

テナガザルと古代中国の関係とは

古代中国において、テナガザルは単なる動物ではなかった

そのしなやかな肢体、静かな佇まい、そして森に響く哀切な鳴き声は、人間の精神性や美意識と深く結びつけられていた
儒教における理想的人物「君子」にたとえられることもあれば、道家思想では仙人や霊獣と並ぶ存在として描かれることもあった

唐代の詩人・李白は名詩『早発白帝城』の中で、「両岸の猿声啼きやまず、軽舟すでに万重の山を過ぐ」と詠んだ
これは、かつて三峡一帯にテナガザルが多数生息していたことを示すと同時に、その鳴き声が人の心を揺さぶる特別な響きであったことを物語っている

また、北魏の地理誌『水経注』にも、三峡の渓谷で鳴く「高猿(たかざる)」の声が何度も記されており、長い間、人々の記憶と風景に溶け込んできたことがうかがえる

宋や明の時代には、文人画や扇面画の中にたびたびテナガザルが登場する

樹上から身を伸ばし、ものを取ろうとする姿や、静かに佇む姿は、詩情と孤高を象徴する存在として愛された
このようにテナガザルは、宮廷や士大夫階層の精神文化とも密接に関わっていたのである

しかし、時が経つにつれ、テナガザルの姿は消えていった。

長安(現在の西安市)周辺はかつて森林に覆われ、多くの動植物が暮らしていたが、都市化と農耕の拡大によりその生息環境は急速に失われた。
帝国君子テナガザルが副葬された夏太后の墓があるこの土地も、今では猿の声が響くことはない

今日、テナガザルはアジアの熱帯林にわずかに残るのみであり、中国に生息する種の多くは絶滅寸前にある
特に海南島に生息する黒冠テナガザルは、現存数がわずか20数頭とされ、世界で最も希少な霊長類のひとつとなっている

かつて“君子”と称えられた猿たちの姿は、今や古代の墓や絵画の中にしか見ることができない

帝国君子テナガザル(Junzi imperialis)の発見は、静かに消えていった命の記録であり、同時に私たちが失いつつある自然との関係そのものを映し出しているのかもしれない

参考 :
Turvey, S. et al. (2018). Junzi imperialis: A new genus and species of extinct gibbon from ancient China. Science.
司馬遷『史記』李白『早発白帝城』他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

古代中国の死生観と墓の意味

古代の人々にとって、「死」は終わりではなかった

特に中国では、死後の世界は現世よりも永遠で重要な場所とされ、そこでも生活が続くと考えられていた
あの世でも不自由なく暮らせるよう、衣食住に必要な品々が墓に納められた

この考え方は、社会の上層になるほど顕著だった

王や貴族の墓は、地上の宮殿にも匹敵するほど壮麗につくられ、宝物や生活道具、時には使用人や動物までもが副葬された
それは単なる見せびらかしではなく、「死者に仕える」という一種の宗教的行為であり、家族や国家が死者を敬う証でもあった

副葬品の一つひとつは、故人の地位や暮らしぶりを示すと同時に、当時の流行や価値観、技術力までもを今に伝えてくれる

こうした理由から、古墓の発掘は歴史研究にとって重要な手がかりとなっている


テナガザルと古代中国の関係とは

古代中国において、テナガザルは単なる動物ではなかった

そのしなやかな肢体、静かな佇まい、そして森に響く哀切な鳴き声は、人間の精神性や美意識と深く結びつけられていた
儒教における理想的人物「君子」にたとえられることもあれば、道家思想では仙人や霊獣と並ぶ存在として描かれることもあった

唐代の詩人・李白は名詩『早発白帝城』の中で、「両岸の猿声啼きやまず、軽舟すでに万重の山を過ぐ」と詠んだ
これは、かつて三峡一帯にテナガザルが多数生息していたことを示すと同時に、その鳴き声が人の心を揺さぶる特別な響きであったことを物語っている

また、北魏の地理誌『水経注』にも、三峡の渓谷で鳴く「高猿(たかざる)」の声が何度も記されており、長い間、人々の記憶と風景に溶け込んできたことがうかがえる

宋や明の時代には、文人画や扇面画の中にたびたびテナガザルが登場する

樹上から身を伸ばし、ものを取ろうとする姿や、静かに佇む姿は、詩情と孤高を象徴する存在として愛された
このようにテナガザルは、宮廷や士大夫階層の精神文化とも密接に関わっていたのである

しかし、時が経つにつれ、テナガザルの姿は消えていった。

長安(現在の西安市)周辺はかつて森林に覆われ、多くの動植物が暮らしていたが、都市化と農耕の拡大によりその生息環境は急速に失われた。
帝国君子テナガザルが副葬された夏太后の墓があるこの土地も、今では猿の声が響くことはない

今日、テナガザルはアジアの熱帯林にわずかに残るのみであり、中国に生息する種の多くは絶滅寸前にある
特に海南島に生息する黒冠テナガザルは、現存数がわずか20数頭とされ、世界で最も希少な霊長類のひとつとなっている

かつて“君子”と称えられた猿たちの姿は、今や古代の墓や絵画の中にしか見ることができない

帝国君子テナガザル(Junzi imperialis)の発見は、静かに消えていった命の記録であり、同時に私たちが失いつつある自然との関係そのものを映し出しているのかもしれない

 

 


始皇帝は、史上初めて中国を統一した
中国で皇帝を最初に名乗った
あの精巧で緻密な兵馬俑を作り、歴代王朝へ引き継がれた万里の長城を作り始め、不老不死の仙薬を求めた興味深い人物の実像に迫る

虫歯は人類にとって、最も身近な病気の一つである

現代日本において、歯科医院の数は約68000件ほどもあるといわれており、我々はコンビニを利用する感覚で手軽に歯医者に掛かることができる

だが、古代において虫歯はほぼ不治の病であり、罹患したが最後、抜歯する以外に治療の術はなく、放置すれば命に関わることさえある恐ろしい疾患であった。

それゆえ虫歯は、時に人知を超えた存在として語られ、世界各地でさまざまな伝説が生まれていった

そういった虫歯にまつわる物語について、いくつか紹介したい


古代メソポタミア文明の虫歯伝説

紀元前7世紀頃のメソポタミア文明において、虫歯は文字通り「虫」が引き起こす病気だと考えられていた

当時の粘土板には、虫歯にまつわる興味深い神話が記されている

(意訳・要約)

メソポタミア神話の最高神アヌは、最初に天空を創造した。
天空は大地を、大地は川を、川は運河を、そして運河は沼を生み出した。

その沼から、やがて「虫」が生まれた。だがその虫は、どこか悲しげな様子であった。

虫は、太陽神シャマシュと水神エアの前に現れ、涙ながらに訴えた。
「神よ、私に食べ物と飲み物を与えてください!」

シャマシュとエアは「では、熟したイチジクとアンズを授けよう」と答える。
だが虫は「そんなものはいらぬ」と駄々をこねた。

「私を沼から引き上げ、人間の歯と歯茎の間に住まわせよ。
歯の血と歯茎の根こそ、私にふさわしい食べ物だ」などと口走った。

シャマシュとエアはこの願いを容認し、それ以来、人間は虫歯に苦しむようになった。

なぜこの虫は、わざわざ人間の歯に住みたがり、神々はそれを許したのだろうか

その理不尽さは、神話とはいえ理解しがたいものがある

聖アポロニア

聖アポロニア(?~249年)という、キリスト教の聖人をご存知だろうか

彼女の生涯は、イタリアの作家ヤコブス・デ・ウォラギネ(1230頃~1298年)の著作『黄金伝説』に詳しい

ローマ帝国皇帝デキウス(201~251年)は、キリスト教への激しい迫害を行った人物として知られている
デキウスは250年に帝国全土の住民に対し、ローマ土着の神々を信仰することを強制する勅令を下した

当時、帝国の支配下にあったエジプトのアレクサンドリアには多数のキリスト教徒が暮らしており、アポロニアもその一人であったとされる

勅令後、アレクサンドリアのキリスト教徒は次々と捕縛され、改宗を行わない者は拷問・処刑の憂き目にあった
アポロニアもこれに巻き込まれ、歯を全て引き抜かれるという、むごたらしい仕打ちを受けた

暴徒たちは彼女へ「信仰を捨てなければ、火あぶりにしてやる」と脅した

しかし、敬虔なアポロニアは信仰を貫き通すため、自ら火の中に飛び込み、壮絶な最期を遂げたと伝えられている

歯を全て破壊されたという伝承から、アポロニアは「歯にまつわる守護者」として敬われるようになった

毎年2月9日は「アポロニアの祝日」と定められ、歯痛に悩む者たちが祈りを捧げるという

アンデルセンの童話

デンマークを代表する童話作家、ハンス・クリスチャン・アンデルセン(1805〜1875年)の作品には、虫歯を題材とした幻想的な短編が存在する

ここでは、その一編『Tate TendpineTante (歯痛おばさん)』を紹介しよう

(意訳・要約)

『Tate Tendpine(歯痛おばさん)』

※これは、ゴミ箱の中から見つかった、最近亡くなった学生の手記という体裁をとっている

叔母は、私に会うたびにお菓子をくれる優しい人で、詩人を志す私を応援してくれている。
ただし、ひどい虫歯に悩まされており、周囲からは「歯痛おばさん」とあだ名されているらしい。

私は最近、騒音の激しい古びた家に引っ越したが、ここでの生活は意外にも快適で、詩作の意欲も湧いていた。

ある冬の日、猛吹雪のために叔母が帰れなくなり、一晩泊めることになった。
叔母はすぐに眠りについたが、私は風と家鳴りの音で寝つけずにいた。

そのとき突然、歯痛を司る魔女が現れ、「詩を書くのをやめろ。さもなくば歯に激痛を与える」と脅してきた。
私は恐怖のあまり、「もう詩は書きません」と叫んでしまい、その直後、激しい歯の痛みとともに意識を失った。

翌朝、叔母は「天使のように眠っていたわ」と微笑んだ。

あの魔女の正体は、果たして叔母だったのだろうか。
この出来事について私は、詩ではなく散文として書き留めておく。
もちろん、世に出すつもりはない。

このように虫歯の痛みは、神話や信仰、伝承の形をとって語り継がれてきた

そこに宿る物語は、今もなお私たちの想像力の奥底で疼いている

参考 : 『古代オリエント集』『黄金伝説』『アンデルセン童話集』

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

虫歯は人類にとって、最も身近な病気の一つである

現代日本において、歯科医院の数は約68000件ほどもあるといわれており、我々はコンビニを利用する感覚で手軽に歯医者に掛かることができる

だが、古代において虫歯はほぼ不治の病であり、罹患したが最後、抜歯する以外に治療の術はなく、放置すれば命に関わることさえある恐ろしい疾患であった。

それゆえ虫歯は、時に人知を超えた存在として語られ、世界各地でさまざまな伝説が生まれていった


虫歯の痛みは、神話や信仰、伝承の形をとって語り継がれてきた

そこに宿る物語は、今もなお私たちの想像力の奥底で疼いている


 

 


世界最古の文明は現在の西アジアを中心としたオリエントの地で生まれ、相互に関わり合いながら文字や芸術、金属加工技術、法律などを発達させ、後世の文明に大きな影響を与えた
本書ではメソポタミアやエジプトなどに加え、アナトリア、レヴァント、イランなど、エリアごとにその特徴や変遷を紹介する

「東国一の美少女」と称えられた駒姫(こまひめ)は、安土桃山時代に生きた女性です

出羽国(現在の山形県)に生まれ、その美しさと気品は都にまで伝わったとされています

やがて、天下人・豊臣秀吉の甥で、関白を務めていた豊臣秀次(ひでつぐ)の側室候補として上洛しましたが、その直後、15歳という若さで真夏の京都・三条河原において処刑されてしまいました

罪を犯したわけでもない駒姫が、なぜ命を奪われなければならなかったのか
その悲劇の経緯をたどってみたいと思います

教養も兼ね備えた美少女

駒姫は、出羽国(現在の山形県)の戦国大名・最上義光(もがみ よしあき)の娘です
義光は、最上家を地方の一勢力から、東北有数の大名へと成長させた人物として知られています

その娘である駒姫は、誰もが認める美少女であるうえに、教養も兼ね備えていました

江戸時代、秋田の戸部正直によって記された『奥羽永慶軍記』によると

という一文があり、容色に優れているだけではなく、琵琶を演奏したり歌を詠んだりするなど、才媛だったことがうかがい知れます

そんな才色兼備の駒姫に心を奪われたと伝えられているのが、豊臣秀吉の甥・秀次です

天正19年(1591年)、豊臣秀吉による天下統一の最後の戦いとされる「久戸政実の乱」が平定されたのち、秀吉の甥・秀次は帰京の途中、最上義光の山形城に立ち寄りました

その際、当時11歳ほどだった駒姫の美貌に心を奪われ、「側室にしたい」と強く望んだと伝えられています(なお、実際に面会したのではなく、美しさの噂を聞いて望んだという説もあります)

義光は「娘はまだ幼い」としてこれを断りましたが、秀次の求めはやまず、最終的には「15歳になったら」との条件で、しぶしぶ承諾したとされています(反対に、義光のほうから将来を見越して駒姫を差し出したという説も)

豊臣秀次切腹事件

文禄4年(1595)、15歳になった駒姫は、豊臣秀次の側室となるため、最上家から上洛の途につきました

山形から京都までの道のりは長く、まずは最上家の京都屋敷で一息ついてから、豊臣秀次の居館である聚楽第に移り、「お伊万の方」という名を与えられました

ところが、同年6月末に突然、秀次に謀反の疑いがかけられます

秀次が、なぜ謀反の罪を問われたのかについては諸説ありますが、通説としては、秀吉が実子・秀頼に家督を譲るために、あらぬ疑いをかけて秀次に切腹を命じたとされています

そのほか、秀吉との関係悪化や、秀次の素行の悪さが原因とする説もありますが、詳細な事情は今もはっきりしていません

そして同年7月15日、秀次は高野山青巌寺にて、秀吉の命により切腹しました

『※1 兼見卿記(かねみきょうき)』や『※2 言経卿記(ときつねきょうき)』などの史料には、「秀次は自らの潔白を証明するために、高野山へ自発的に赴いた」「実際には、秀吉は使用人の帯同を許可し、秀次を生かしておく意向だった」といった記述も見られます

また、「秀吉が切腹を命じたのではなく、秀次自身が潔白を示すために自ら命を絶った」という説もあります

秀次は享年28でした

※1『兼見卿記』:戦国〜江戸時代前期の神道家・吉田兼見の日記。神事関係以外にも政治情勢,社会、文芸など多方面の記事が含まれた史料
※2『言経卿記』:戦国末から江戸初期の公家・山科言経の日記。市井の生活記録として社会・風俗・年中行事・文芸などについての記載を多く残す

秀次のみならず、妻妾や侍女たちまで処刑

しかし、秀次の切腹で幕が引かれることはありませんでした

縁座(家族や親族も罪に問われる)や、連座(家臣や関係者も処罰される)によって、駒姫をはじめとする妻妾や、侍女たちも処刑されることになったのです

この経緯についても諸説ありますが、駒姫は「まだ秀次と対面していなかった」ともいわれています

そして、秀次が切腹した7月15日から約3週間後の8月2日、駒姫を含む秀次の妻妾や子どもたち、あわせて38〜39名が処刑されたのです

その際、一行は処刑前に牛車で市中を引き回され、『関白雙紙』によれば、髪をおろして白い経帷子(きょうかたびら)をまとった姿であったと記されています

駒姫は、三条河原に到着した牛車から降ろされ、河原へと引き立てられました
そこには秀次の首が据えられ、妻妾たちは一人ひとり、それに手を合わせるよう命じられたといいます

このとき、父・最上義光は秀吉に対して必死に助命嘆願を行っていました
わずか15歳の駒姫を、上洛したばかりで処刑するのはあまりにも酷であるとして、各方面からも同様に助命を求める声が上がっていたようです

通説では、秀吉の側室である淀殿の取りなしもあって、秀吉はようやく命を救う決断をし、「鎌倉で尼となることを条件に助命する」として、早馬を処刑場へ向かわせたといいます

しかし、その知らせはわずかに遅れ、あと一町(100m)ほどの差で、駒姫は処刑されてしまったのです

駒姫(お伊万の方)は、辞世の句を残しています

「罪をきる 弥陀の剣にかかる身の なにか五つの障りあるべき」

(意訳)罪なき私が、阿弥陀仏の剣にかかって命を落とすというのに、どうして女性にあるとされる五つの障りなどがあろうか。私は極楽浄土へ行けるに違いない。

※五つの障りとは、一部の仏教思想に見られるもので、女性は梵天王・帝釈天・魔王・転輪聖王・仏陀になることができないとする考え方です。「女性は成仏できない」という教義の一部とされていました

15歳の少女でありながら、我が身を達観したような句です

地獄の鬼の責め ~情け容赦ない仕打ち

処刑後、妻妾たちの遺体は無造作に投げ入れられ、遺族が引き取りを願っても許されませんでした
すべての遺体は一つにまとめられ、「畜生塚」や「悪逆塚」といった名で埋葬されたといいます

このような無慈悲な仕打ちは、太田牛一が記した豊臣秀吉の一代記『大かうさまぐんきのうち』においても、「地獄の鬼の責めとはこのことか」と記されています

妻妾や侍女だけでなく、幼い子どもまでもが命を奪われるという残酷な処断は、見せしめの範疇を超えていました
この事件をきっかけに、豊臣政権の権威に陰りが見え始めたともいわれています

ただし、全員が処刑されたわけではありません
たとえば、秀次の正室で池田恒興の娘だった若政所など、一部には処刑を免れた者もいました

秀次のもう一人の正室である一の台が、聚楽第にあった関白家の財産を実家の菊亭家に移したり、各方面に貸し付けたりしていたことが、謀反の決定的証拠とされたという説もあり、若政所は聚楽第に住んでいなかったため、処刑を免れたともいわれています

そうだとすれば、上洛したばかりの駒姫に処罰が及ぶ道理はなかったはずですが、命は奪われてしまったのです

父・最上義光は、愛娘の最期を屋敷で知らされ、『最上記』には「愁傷限りなく、湯水も喉を通らずに嘆き臥した」と記されています

さらに山形では、飛脚によって娘の死を知った駒姫の母が、2週間後に後を追うようにして亡くなりました(一説には自害とも)

最愛の娘と妻を矢継ぎ早に失った義光の怒りや悲しみは、いかばかりだったでしょうか

当然、憎しみの矛先は豊臣側へ向かい、後の関ヶ原の戦いでは東軍・徳川方に加担し、会津の上杉景勝と戦って武功を挙げ、義光は57万石の大大名へと躍進することになったのです

京都の瑞泉寺と山形の専称寺には、駒姫を弔う墓が

江戸時代、京都の三条河原は、処刑場や遺体の晒し場とされていました

その三条大橋のたもとにある瑞泉寺は、京都の豪商・角倉了以が、豊臣秀次とその一族の菩提を弔うために建立した寺です

一族の処刑から16年後、角倉了以は高瀬川の開削工事の際に、荒れ果てた塚と石塔を発見し、深く心を痛めました

彼は僧・桂叔と相談し、石碑に刻まれていた「悪逆」の二文字を削り取り、墓域を整備して新たな墓碑を建立し、「慈舟山瑞泉寺」と号したといわれています

本堂には本尊の阿弥陀如来像が安置されており、寺宝として、秀次やその妻・妾たちの辞世の和歌も伝えられています

境内には、妻妾の墓や、犠牲者49人の五輪塔が建てられています

また、山形県山形市にある専称寺には、最上義光が愛娘の死を悼んで建立した壮麗な伽藍があります

境内の奥には、駒姫の墓とともに、遺髪を納めた塚に供養石を置いた「黒髪塚」が、今も静かに佇んでいます

参考:
駒姫―三条河原異聞―武内涼/著
戦国武将の本当にあった怖い話 (知的生きかた文庫)
文 / 桃配伝子 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

「東国一の美少女」と称えられた駒姫(こまひめ)は、安土桃山時代に生きた女性です

出羽国(現在の山形県)に生まれ、その美しさと気品は都にまで伝わったとされています

やがて、天下人・豊臣秀吉の甥で、関白を務めていた豊臣秀次(ひでつぐ)の側室候補として上洛しましたが、その直後、15歳という若さで真夏の京都・三条河原において処刑されてしまいました

罪を犯したわけでもない駒姫が、なぜ命を奪われなければならなかったのか


文禄4年(1595)、15歳になった駒姫は、豊臣秀次の側室となるため、最上家から上洛の途につきました

山形から京都までの道のりは長く、まずは最上家の京都屋敷で一息ついてから、豊臣秀次の居館である聚楽第に移り、「お伊万の方」という名を与えられました

ところが、同年6月末に突然、秀次に謀反の疑いがかけられます

秀次が、なぜ謀反の罪を問われたのかについては諸説ありますが、通説としては、秀吉が実子・秀頼に家督を譲るために、あらぬ疑いをかけて秀次に切腹を命じたとされています

そのほか、秀吉との関係悪化や、秀次の素行の悪さが原因とする説もありますが、詳細な事情は今もはっきりしていません

そして同年7月15日、秀次は高野山青巌寺にて、秀吉の命により切腹しました

しかし、秀次の切腹で幕が引かれることはありませんでした

縁座(家族や親族も罪に問われる)や、連座(家臣や関係者も処罰される)によって、駒姫をはじめとする妻妾や、侍女たちも処刑されることになったのです

この経緯についても諸説ありますが、駒姫は「まだ秀次と対面していなかった」ともいわれています

そして、秀次が切腹した7月15日から約3週間後の8月2日、駒姫を含む秀次の妻妾や子どもたち、あわせて38〜39名が処刑されたのです


処刑後、妻妾たちの遺体は無造作に投げ入れられ、遺族が引き取りを願っても許されませんでした
すべての遺体は一つにまとめられ、「畜生塚」や「悪逆塚」といった名で埋葬されたといいます

このような無慈悲な仕打ちは、太田牛一が記した豊臣秀吉の一代記『大かうさまぐんきのうち』においても、「地獄の鬼の責めとはこのことか」と記されています

妻妾や侍女だけでなく、幼い子どもまでもが命を奪われるという残酷な処断は、見せしめの範疇を超えていました
この事件をきっかけに、豊臣政権の権威に陰りが見え始めたともいわれています

ただし、全員が処刑されたわけではありません
たとえば、秀次の正室で池田恒興の娘だった若政所など、一部には処刑を免れた者もいました

秀次のもう一人の正室である一の台が、聚楽第にあった関白家の財産を実家の菊亭家に移したり、各方面に貸し付けたりしていたことが、謀反の決定的証拠とされたという説もあり、若政所は聚楽第に住んでいなかったため、処刑を免れたともいわれています

そうだとすれば、上洛したばかりの駒姫に処罰が及ぶ道理はなかったはずですが、命は奪われてしまったのです

父・最上義光は、愛娘の最期を屋敷で知らされ、『最上記』には「愁傷限りなく、湯水も喉を通らずに嘆き臥した」と記されています

さらに山形では、飛脚によって娘の死を知った駒姫の母が、2週間後に後を追うようにして亡くなりました(一説には自害とも)

最愛の娘と妻を矢継ぎ早に失った義光の怒りや悲しみは、いかばかりだったでしょうか

当然、憎しみの矛先は豊臣側へ向かい、後の関ヶ原の戦いでは東軍・徳川方に加担し、会津の上杉景勝と戦って武功を挙げ、義光は57万石の大大名へと躍進することになったのです

京都の瑞泉寺と山形の専称寺には、駒姫を弔う墓が

江戸時代、京都の三条河原は、処刑場や遺体の晒し場とされていました

その三条大橋のたもとにある瑞泉寺は、京都の豪商・角倉了以が、豊臣秀次とその一族の菩提を弔うために建立した寺です

一族の処刑から16年後、角倉了以は高瀬川の開削工事の際に、荒れ果てた塚と石塔を発見し、深く心を痛めました

彼は僧・桂叔と相談し、石碑に刻まれていた「悪逆」の二文字を削り取り、墓域を整備して新たな墓碑を建立し、「慈舟山瑞泉寺」と号したといわれています

本堂には本尊の阿弥陀如来像が安置されており、寺宝として、秀次やその妻・妾たちの辞世の和歌も伝えられています

境内には、妻妾の墓や、犠牲者49人の五輪塔が建てられています

また、山形県山形市にある専称寺には、最上義光が愛娘の死を悼んで建立した壮麗な伽藍があります

境内の奥には、駒姫の墓とともに、遺髪を納めた塚に供養石を置いた「黒髪塚」が、今も静かに佇んでいます


 

 


山形十九万石を治める最上義光の愛娘で東国一の美少女と称される駒姫は、弱冠十五歳にして関白秀次のもとへ嫁ぐこととなった
が、秀次は太閤秀吉に謀反を疑われて自死
遺された妻子には非情極まる「三十九人全員斬殺」が宣告された
危機迫る中でも己を律し義を失わない駒姫と、幼き姫に寄り添う侍女おこちゃ
最上の男衆は狂気の天下人から愛する者を奪還できるか
手に汗握る歴史小説!

江戸時代、大火や地震、事件、政変など、さまざまな速報を庶民に伝える役割を果たしていたのが、「瓦版(かわらばん)」です

もともとは「読売(よみうり)」「辻売りの絵草紙」などと呼ばれており、「瓦版」という呼び名が広まったのは、幕末ごろからとされています
語源については、印刷物の仕上がりが瓦のように粗雑だったためという説などがありますが、はっきりとはわかっていません

(ちなみに、現在の「読売新聞社」の社名は、江戸時代の「読みながら売る」方法である「読売」にちなみ、誰にでも読みやすい新聞を目指すという意味を込めて名付けられたといわれています)

テレビや新聞、雑誌、インターネット、SNSといった情報メディアが存在しなかった時代において、「瓦版」は人々にとって大切な情報伝達の手段であり、同時に娯楽のツールでもありました

さまざまな話題を発信し、お江戸のワイドショー的な役割を果たしていた「瓦版」についてご紹介します

※「瓦版」という呼び方は、実際には江戸後期から幕末にかけて使われるようになったとされていますが、本文中ではわかりやすさを優先して「瓦版」の表記で統一しています


「瓦版」を売るスタイルは2種類あった

最初に登場した瓦版は、1615年(元和元年)大坂夏の陣の結末を報じた『安部之合戦之図」と『大坂卯年図』が知られ、現存しています(ただし、当時のものと証明できる直接的な証拠はありません)

このときの瓦版は、のちに「無許可で発行される瓦版」とは異なり、幕府が命じて作らせたもので、幕府側の圧勝を強調し、徳川の世の到来を世に知らしめる「官製」的なものでした

その後、庶民の間で瓦版が売り買いされるようになったのは、天和2年(1682年)に発生した『八百屋お七の火事』の頃から、という説もあります。

「瓦版売り」といえば、手拭いを頭にかぶって「てえへんだ!てえへんだ!大事件だ!」などと大声で叫びながら、片手に瓦版、片手に箸のような木の棒を持って、売り歩いている姿を想像する方が多いのではないでしょうか

実際に彼らは、町中を瓦版を読み上げながら売り歩いていたので、「読み売り」「辻売りの絵草紙」とも呼ばれていました
また、露店や絵草紙店などの店頭で売ることもあり、サイズや料金は時代とともに変動していました

内容は、天変地異、大きな災害、火事、心中事件のほか、「江戸麻布の大猫」などの妖怪出現ネタ、娯楽ネタ、ガセネタなど多岐にわたります

多くは1枚もので「絵入り」のものもあり、浮世絵師の作風を取り入れたものもあり、歌川国芳らの作品を思わせる絵も見られました

顔を隠して売っていた

冒頭で触れたような、「てえへんだ!てえへんだ!」と大声で売り歩くスタイルは、実際には江戸時代初期には存在せず、登場したとしてもかなり後期になってからと考えられています

いわば、後世のイメージや演出によって定着したものといえるでしょう

延宝元年(1673年)には、出版規制令によって「噂事や人の善悪」に関する内容の出版が禁じられ、瓦版もその対象となりました
さらに、貞享元年(1684年)には「当座のかわりたる事」などの一時的な話題の印刷物も禁止され、辻や橋のたもとでの販売行為自体が処罰の対象となったのです

享保改革期には、特に好色ものの出版が厳しく規制される一方で、忠孝や慈善を奨励する内容のものはむしろ歓迎されました
享保7年(1772年)には「筋無き噂事並に心中の読売を禁じる」という法令が出され、享保9年(1724年)にも「御曲輪内での読売をしてはならぬ」という規制が加えられました

これらの規制からも、瓦版の内容や販売方法がたびたび問題視されていたことがうかがえます

さらに、寛政2年(1790年)には、老中・松平定信によって「出版取締令」が発布され、出版統制がいっそう強化されました

こうした厳しい状況の中で、街中で目立つようなパフォーマンスを伴う売り方は現実的ではなく、実際には尖った形の編笠を目深にかぶって顔を隠し、二人一組でひっそりと売り歩くスタイルが主流だったとされています

このような販売では、一人が節をつけて瓦版の内容を読み上げ、もう一人が役人の巡回を警戒して周囲を見張るという分担がなされていたそうです

ゴシップや真偽不明の噂話よりも、実際には信ぴょう性の高い時事ネタや、御政道(政治)を批判するような記事がよく売れたそうです

しかし、御政道批判は当然ながら取り締まりの対象となるため、そのような内容を扱う瓦版は、木版印刷ではなく筆写によって作成されていました

売り手は瓦版を売り終えるとすぐに姿を消し、買った側も処罰の対象になるおそれがあったため、読み終えるとすぐに燃やして処分するという、非常にスリリングな販売方法でした

「見てはいけない」とされる情報ほど、人々は見たい・読みたいと思うもの

瓦版は、たびたび規制の対象となりながらも、江戸の庶民の間で根強い需要があったのです

どこが燃えているか分かる「火事速報」

「瓦版」の題材の中で、特に売れたとされるのが、火事の速報を伝える『方角場所付(ほうがくばしょづけ)』です

切り絵図という既存の版下に、火事が発生している地点を赤く刷る方法で、その日のうちに刷りを重ねることで、どこでどれくらい火事が広がったのかリアルタイムで発信することができました

人々は、この瓦版を被災者への見舞いの気持ちとして購入し、買いそびれたり購入しなかったりすると、「不人情な人間だ」と陰口をたたかれることもあったと伝えられています

また、火事に地震が伴った場合には、地下に棲む巨大な鯰(なまず)が暴れて地震を起こすという民間信仰に基づき「鯰絵」というユーモラスな絵が掲載されることもありました

これは、厄落としや災厄の笑い飛ばしとしての意味合いを持っていたと考えられています

瓦版から知る江戸時代の文化

瓦版は、江戸時代における重要な情報源であると同時に、多くの人々の手によって生み出される「作品」でもありました

文章を書く人、挿絵を描く絵師、原稿を版木に彫る彫り師、そして版木に墨をのせて刷り上げる刷り師など、複数の職人たちが連携し、速報性を求められる中で迅速に仕上げていたのです
小規模な瓦版業者の中には、これらの工程を一人でこなしていたところもあったようです

人々の関心を引き、売れ行きを伸ばすためには、「話題性のある内容」に「絵」を添えるという工夫が欠かせませんでした
この点は、江戸時代も令和の現代も変わらないところかもしれません

たとえば、「漁船を悩ませていた人魚を捕獲」といった記事では、鬼のような顔を持ち、胴体に目のある不気味な人魚の姿が描かれていました

どう見ても実話とは思えない内容ですが、売る側も買う側も、半ば冗談と理解したうえで楽しんでいたと考えられています

最後に ~あのアマビエも瓦版に

ちなみに、近年のコロナ禍において話題となったのが、「疫病退散」に効能があるとされる妖怪「アマビエ」です

このアマビエも、江戸時代の瓦版に登場した存在とされています。

江戸時代後期の弘化3年(1846」年)ごろ、肥後国(現在の熊本県)の海で、夜ごとに海面が光る現象が続いたため、地元の役人が調査に出向いたところ、突如として異形の存在が姿を現したといいます

その存在は自らを「アマビエ」と名乗り、

私ハ海中ニ住アマビヱト申者也。当年より六ヶ年之間諸国豊作也。併病流行、早々私ヲ写シ人々ニ見セ候得。

(私は海中に住むアマビエという者です。今年から6年間は諸国が豊作になりますが、同時に病が流行します。私の姿を描き写して、人々に見せなさい)

と語ったと伝えられています

そして令和の時代、多くの人々がアマビエの絵を描いてSNSで発信する動きが生まれ、厚生労働省も公式SNSでアマビエのイラストを啓発用に活用するなど、一部の民俗ファンにしか知られていなかったこの妖怪が、一気に全国、さらには海外にも知られる存在となりました

現代は、江戸時代と比べて情報の伝達技術がはるかに発達しています

しかしながら、「怖い」「不気味」「不思議」といったキャッチーな話題が人々の関心を引きつける点は、今も昔も変わりません

「これは大変だ、誰かに知らせなければ」という拡散の心情は、普遍的な人間の性と言えるでしょう

参考:
森田健司『かわら版で読み解く江戸の大事件』
杉浦日向子監修 『お江戸でござる 現代に生かしたい江戸の知恵』
文 / 桃配伝子 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

江戸時代、大火や地震、事件、政変など、さまざまな速報を庶民に伝える役割を果たしていたのが、「瓦版(かわらばん)」です

もともとは「読売(よみうり)」「辻売りの絵草紙」などと呼ばれており、「瓦版」という呼び名が広まったのは、幕末ごろからとされています
語源については、印刷物の仕上がりが瓦のように粗雑だったためという説などがありますが、はっきりとはわかっていません

(ちなみに、現在の「読売新聞社」の社名は、江戸時代の「読みながら売る」方法である「読売」にちなみ、誰にでも読みやすい新聞を目指すという意味を込めて名付けられたといわれています)

テレビや新聞、雑誌、インターネット、SNSといった情報メディアが存在しなかった時代において、「瓦版」は人々にとって大切な情報伝達の手段であり、同時に娯楽のツールでもありました


江戸の大事件はこうして伝わった!庶民メディア「瓦版」・・・


瓦版から知る江戸時代の文化

瓦版は、江戸時代における重要な情報源であると同時に、多くの人々の手によって生み出される「作品」でもありました

文章を書く人、挿絵を描く絵師、原稿を版木に彫る彫り師、そして版木に墨をのせて刷り上げる刷り師など、複数の職人たちが連携し、速報性を求められる中で迅速に仕上げていたのです
小規模な瓦版業者の中には、これらの工程を一人でこなしていたところもあったようです

人々の関心を引き、売れ行きを伸ばすためには、「話題性のある内容」に「絵」を添えるという工夫が欠かせませんでした
この点は、江戸時代も令和の現代も変わらないところかもしれません

たとえば、「漁船を悩ませていた人魚を捕獲」といった記事では、鬼のような顔を持ち、胴体に目のある不気味な人魚の姿が描かれていました

どう見ても実話とは思えない内容ですが、売る側も買う側も、半ば冗談と理解したうえで楽しんでいたと考えられています

あのアマビエも瓦版に

ちなみに、近年のコロナ禍において話題となったのが、「疫病退散」に効能があるとされる妖怪「アマビエ」です

このアマビエも、江戸時代の瓦版に登場した存在とされています。

江戸時代後期の弘化3年(1846」年)ごろ、肥後国(現在の熊本県)の海で、夜ごとに海面が光る現象が続いたため、地元の役人が調査に出向いたところ、突如として異形の存在が姿を現したといいます

その存在は自らを「アマビエ」と名乗り、

私ハ海中ニ住アマビヱト申者也。当年より六ヶ年之間諸国豊作也。併病流行、早々私ヲ写シ人々ニ見セ候得。

(私は海中に住むアマビエという者です。今年から6年間は諸国が豊作になりますが、同時に病が流行します。私の姿を描き写して、人々に見せなさい)

と語ったと伝えられています

そして令和の時代、多くの人々がアマビエの絵を描いてSNSで発信する動きが生まれ、厚生労働省も公式SNSでアマビエのイラストを啓発用に活用するなど、一部の民俗ファンにしか知られていなかったこの妖怪が、一気に全国、さらには海外にも知られる存在となりました

現代は、江戸時代と比べて情報の伝達技術がはるかに発達しています

しかしながら、「怖い」「不気味」「不思議」といったキャッチーな話題が人々の関心を引きつける点は、今も昔も変わりません

「これは大変だ、誰かに知らせなければ」という拡散の心情は、普遍的な人間の性と言えるでしょう


 

 


かわら版は、江戸中期以降、大変な人気を博した情報伝達媒体だ
その具体的な形態は、1枚から数枚の印刷物である
安価な印刷物だったかわら版には、大抵、絵と文字が摺られていた
内容は多岐にわたるが、全てに共通しているのは、「民衆が興味を持つ情報であること」だった
(中略)本書は、江戸時代におけるかわら版を紹介しながら、そこに記されたさまざまな出来事を読み解いていくものである
民衆の心が反映されたかわら版を通して見る江戸時代は、教科書で学んだものとは、かなり違っている

18世紀後半のフランス、華やかなヴェルサイユ宮殿に、一輪の花のように人々の目を引く女性がいました

彼女の名はマリー=テレーズ=ルイーズ・ド・サヴォワ=カリニャン、通称「ランバル公妃」として知られています

この高貴な公妃は、フランス王妃マリー・アントワネットと深い友情を育み、その献身的な姿勢によって歴史に名を刻みました

しかし彼女は、あまりにも無惨な最期を遂げることになります

そんなランバル公妃の生涯と、マリー・アントワネットとの純粋で悲劇的な友情の軌跡をご紹介いたします


高貴なる出自と若き日の結婚

マリー=ルイーズは1749年9月8日、イタリアのトリノに生まれました

父はサヴォイア家の分家であるカリニャーノ家の当主ルイージ・ヴィットーリオ公、母クリスティーネ・フォン・ヘッセン=ローテンブルクも、ブルボン家と縁戚関係にある由緒ある血筋の出身でした

1767年、18歳となったマリーは、フランス王家の傍系にあたるルイ・アレクサンドル・ド・ブルボン=パンティエーヴル、通称「ランバル公」と結婚します
※以降、マリーは「ランバル公妃」として知られるようになり、本稿でもこの名で記します

二人は美男美女の組み合わせであり、家柄の釣り合いも取れていたことから、誰もが羨むような華やかで理想的な結婚として受け取られていました

しかし、この結婚生活は長くは続きませんでした

夫のランバル公は結婚後まもなく放蕩にふけり、わずか1年後に病を悪化させて若くして亡くなってしまったのです

未亡人となったランバル公妃は、舅のパンティエーヴル公に引き取られ、静かな生活を送りながら慈善活動などに身を投じていくことになります

マリー・アントワネットとの出会い

1770年、オーストリアからフランスへと輿入れしたマリー・アントワネットと、ランバル公妃が出会ったのはその数年後のことでした

ヴェルサイユ宮殿で正式に紹介された二人はすぐに親しくなり、深い友情を築いていきます

当時、まだ十代だったアントワネットは、フランス宮廷の堅苦しい儀礼や陰謀めいた空気に息苦しさを感じており、心を許せる存在を求めていました

ランバル公妃は、その優雅な立ち居振る舞いと内気ながら誠実な人柄によって、アントワネットの信頼を一身に集めることになります

1775年、アントワネットが正式に王妃に即位すると、彼女はランバル公妃を宮廷女官の最高職である「王妃家政機関総監(シュランタンダント)」に任命しました

これは単なる名誉職ではなく、王妃の生活全般を取り仕切り、女官たちの行動を統括する極めて重要な役職でした

陰る寵愛、ポリニャック侯爵夫人の登場

しかし、この友情にもやがて陰りが見え始めます

1770年代後半、アントワネットは新たに、ポリニャック侯爵夫人ヨランドと親しくなりました
社交的で華やかな性格のポリニャック夫人は、内気で繊細なランバル公妃とは対照的な人物で、次第に王妃の寵愛を奪っていきました

ランバル公妃はこれに対して嫉妬や対抗心を表に出すことなく、距離を置いて一時的に宮廷を離れました

それでも王妃との絆が完全に断たれることはなく、二人は手紙を交わし続け、ランバル公妃は再び王妃のもとへ戻る機会を得ることになります

友情は静かに、しかし確かに続いていたのです

フランス革命が勃発

1789年、フランス革命が勃発すると、ヴェルサイユ宮廷の華やかさは瞬く間に失われ、国王一家は次第に孤立していきました

この時期、多くの貴族たちが国外へ逃れましたが、ランバル公妃は王妃マリー・アントワネットのもとを離れようとはしませんでした

前述したように、王妃との関係が希薄になった時期もありましたが、危険を承知の上で王妃の側に留まることを選んだのです

そして1792年、ついに国王一家がタンプル塔に幽閉されてしまった際も、ランバル公妃は忠義を貫き、その近くに居を構え続けました
情勢が一層悪化するなかでも、彼女は献身的に王妃の家族の世話を焼きました

しかし、ランバル公妃は、次第に市民の憎悪の的となっていきます

「王妃の密偵」として、革命派から敵視されるようになってしまったのです

「九月虐殺」でのあまりに酷い最後

1792年9月、フランス国内は混乱の極みに達していました

パリの監獄では、多くの貴族や王党派が囚われており、暴徒による監獄襲撃が相次ぎました

いわゆる「九月虐殺」のさなか、ランバル公妃もラ・フォルス監獄に収監されており、9月3日、革命派の即席裁判にかけられました

その場で「王政への敵意と共和国への忠誠」を誓うよう求められた公妃は、信念に従って後者のみを承諾し、王妃や王政への憎悪を否定したと伝えられています

それを理由に「連れていけ」と命じられたランバル公妃は、抵抗する間もなく監獄の外へと引き出されました

待ち受けていたのは、凶器を手にした怒れる群衆でした
彼らは公妃の姿を見るや否や罵声を浴びせかけ、彼女の髪をつかんで引き倒し、容赦のない暴力を加えはじめたのです

公妃は棒やナイフで滅多打ちにされ、頭部や胴体に無数の傷を負いました
やがて顔は判別がつかないほど腫れ上がり、衣服も血で染まりました
剥き出しになった身体はさらに損壊され、ついには斬首されたと伝えられています
遺体は路上に打ち捨てられ、周囲には民衆の嘲笑と怒号がこだましました

公妃の首は槍に刺されて市中を引き回され、タンプル塔の前にまで運ばれました

これをマリー・アントワネットに見せつけようとしたという証言もありますが、その真偽については史料によって異なります

いずれにせよ、ランバル公妃の死が王妃にとって筆舌に尽くしがたい衝撃であったことは間違いないでしょう

公妃の死から約一年後、アントワネットもまた革命裁判を経て断頭台へと送られます

宮廷という絢爛たる舞台に育まれた友情は、革命という血に染まった時代の中で試練にさらされ、やがて最期を迎えたのです

身の危険を顧みず、再びアントワネットのもとへ戻ったランバル公妃の決断は、単なる友情の範疇を超えた、深い信義の証でした

その最期は悲劇的であったものの、彼女の名は王政とともに散った最後の忠臣として今も刻まれています

参考:
『Mme. Campan, Mémoires sur la vie privée de Marie-Antoinette』
『思わず絶望する!? 知れば知るほど怖い西洋史の裏側』他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

18世紀後半のフランス、華やかなヴェルサイユ宮殿に、一輪の花のように人々の目を引く女性がいました

彼女の名はマリー=テレーズ=ルイーズ・ド・サヴォワ=カリニャン、通称「ランバル公妃」として知られています

この高貴な公妃は、フランス王妃マリー・アントワネットと深い友情を育み、その献身的な姿勢によって歴史に名を刻みました

しかし彼女は、あまりにも無惨な最期を遂げることになります


あまりにも残酷すぎる最後を遂げたマリー・アントワネットの親友『ランバル公妃』・・・


フランス革命が勃発

1789年、フランス革命が勃発すると、ヴェルサイユ宮廷の華やかさは瞬く間に失われ、国王一家は次第に孤立していきました

この時期、多くの貴族たちが国外へ逃れましたが、ランバル公妃は王妃マリー・アントワネットのもとを離れようとはしませんでした

前述したように、王妃との関係が希薄になった時期もありましたが、危険を承知の上で王妃の側に留まることを選んだのです

そして1792年、ついに国王一家がタンプル塔に幽閉されてしまった際も、ランバル公妃は忠義を貫き、その近くに居を構え続けました
情勢が一層悪化するなかでも、彼女は献身的に王妃の家族の世話を焼きました

しかし、ランバル公妃は、次第に市民の憎悪の的となっていきます

「王妃の密偵」として、革命派から敵視されるようになってしまったのです

「九月虐殺」でのあまりに酷い最後

1792年9月、フランス国内は混乱の極みに達していました

パリの監獄では、多くの貴族や王党派が囚われており、暴徒による監獄襲撃が相次ぎました

いわゆる「九月虐殺」のさなか、ランバル公妃もラ・フォルス監獄に収監されており、9月3日、革命派の即席裁判にかけられました

その場で「王政への敵意と共和国への忠誠」を誓うよう求められた公妃は、信念に従って後者のみを承諾し、王妃や王政への憎悪を否定したと伝えられています

それを理由に「連れていけ」と命じられたランバル公妃は、抵抗する間もなく監獄の外へと引き出されました

待ち受けていたのは、凶器を手にした怒れる群衆でした
彼らは公妃の姿を見るや否や罵声を浴びせかけ、彼女の髪をつかんで引き倒し、容赦のない暴力を加えはじめたのです

公妃は棒やナイフで滅多打ちにされ、頭部や胴体に無数の傷を負いました
やがて顔は判別がつかないほど腫れ上がり、衣服も血で染まりました
剥き出しになった身体はさらに損壊され、ついには斬首されたと伝えられています
遺体は路上に打ち捨てられ、周囲には民衆の嘲笑と怒号がこだましました

公妃の首は槍に刺されて市中を引き回され、タンプル塔の前にまで運ばれました

これをマリー・アントワネットに見せつけようとしたという証言もありますが、その真偽については史料によって異なります

いずれにせよ、ランバル公妃の死が王妃にとって筆舌に尽くしがたい衝撃であったことは間違いないでしょう

公妃の死から約一年後、アントワネットもまた革命裁判を経て断頭台へと送られます

宮廷という絢爛たる舞台に育まれた友情は、革命という血に染まった時代の中で試練にさらされ、やがて最期を迎えたのです

身の危険を顧みず、再びアントワネットのもとへ戻ったランバル公妃の決断は、単なる友情の範疇を超えた、深い信義の証でした

その最期は悲劇的であったものの、彼女の名は王政とともに散った最後の忠臣として今も刻まれています


 

 


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知られざるヨーロッパの真実をユーモアたっぷりにお届けします
あの有名な王族、貴族の教科書には載っていないウラの顔、実在したトンでも職業、庶民たちのおもしろブームなど、世界史が好きな人も、苦手な人も楽しめる1冊です

1918年、第一次世界大戦下のロンドン
ブリクストン刑務所に、一人の哲学者が収監されました

彼の罪状は「戦争に反対し、平和を訴えたこと」でした

その人物こそ「分析哲学」の父と呼ばれ、ノーベル文学賞作家ともなるバートランド・ラッセルです

歴史に名を残す哲学者は、なぜ囚人服を着ることになったのでしょうか

平和を訴え続けたラッセルのエピソードを紹介します


哲学の巨人、バートランド・ラッセルとは?

1872年、イギリスの名門貴族の家系に生まれたバートランド・ラッセルは、哲学と数学の両分野で世界的な名声を得た人物です

ジョージ・エドワード・ムーアとともに、それまでの観念的な哲学に対して明晰な論理を重視する「分析哲学」の潮流を打ち立てました

また、数学者ホワイトヘッドとの共著『プリンキピア・マテマティカ』では、数学を論理に基づいて体系化するという画期的な試みに挑み、現代論理学の基礎を築いたことで知られています

ラッセルの筆致は、難解な数理論理を明快な言葉で表現する力に優れ、専門家のみならず一般読者からも高く評価されました
その功績は哲学や論理学にとどまらず、人道的・倫理的なエッセイによって文学的評価も高まり1950年にはノーベル文学賞を受賞しています

貴族階級出身という恵まれた立場にありながら、ラッセルは常に個人の良心に従うことを選び、生涯を通じて反戦と反核を訴え続けるなど、権力に屈しない反骨の精神を貫いた哲学者でした

ラッセルはなぜ独房へ? 第一次大戦下の反戦活動

1914年に第一次世界大戦が始まると、イギリス国内では愛国主義の機運が一気に高まり、戦争に反対する意見は次第に封殺されていきました

そんな中、ラッセルはケンブリッジ大学の講師という立場にありながらも、理性と良心に基づいて戦争反対を訴え続けました

彼はとりわけ徴兵制の非人道性に強く異を唱え、「理性に反する組織的な殺人行為である」と批判したのです

その姿勢は、徴兵反対協会(NCF)を通じたビラの執筆などに表れます
ラッセルはこの活動を理由に、1916年にロンドン市長の前で罰金刑を受け、ケンブリッジ大学の講師職を失うこととなります

それでもなお反戦活動を続けたラッセルは、1918年にはアメリカ兵の英国駐留に反対する内容の記事を寄稿したことが問題視され、「公共の安全を脅かした」として、治安維持法違反により6か月の禁固刑を言い渡されてしまったのです

刑務所が教室に変わった

ロンドンのブリクストン刑務所に収監されたラッセルは、自伝の中で「ある看守がチョークを手に、論理の問題を教わりにやって来た」と振り返っています

毎朝の洗面時間などのわずかな機会を利用しながら、彼は三段論法や命題論理の基本などを丁寧に説明し、「理性的な思索こそが人間の尊厳を守る」と穏やかに語りました

この即興の講義は徐々に評判を呼び、当直の看守たちがラッセルの独房前に椅子を並べて聴講するようになった、という逸話も残されています

独房で生まれた平和への道標

1918年、ラッセルは独房の静けさを学びの場へと変え、「国家の命令よりも個人の良心を優先させるべきだ」という信念を、さらに強く深めていきました
獄中では哲学書の執筆にも取り組み、とくに『数学哲学序説(Introduction to Mathematical Philosophy)』などは、この時期の思索を色濃く反映した代表作として知られています

同じく1918年には、戦争と国家の構造に根本から疑問を投げかけた書籍『自由への道(Roads to Freedom)』が出版されました

その冒頭においてラッセルは、国民を殺戮に駆り立てる国家の政策を「誤った公理体系」であると断じています

公理体系とは、数学におけるあらゆる定理の出発点となる基本的な前提のことです

彼は、「もしその前提が誤っていれば、そこから導かれる結論も必ず誤る」と述べ、国家の戦争政策に潜む論理的欠陥を鋭く批判したのです

釈放後もラッセルは、国内外で平和を訴える講演活動を続け、世界の平和運動に大きな影響を与え続けることになります

そうした活動の中で生まれたのが、1955年に発表された「ラッセル=アインシュタイン宣言」です

アインシュタインが署名したわずか数日後に世を去ったこともあり、この宣言は世界中に大きな衝撃を与えました

この声明は、特定の国家や政治思想の立場ではなく、「人間としての視点」から核兵器の危険性を訴えた、きわめて普遍的なメッセージでした

多くの科学者の良心に訴えかけたこの宣言は、やがて科学者たちが社会的責任について討議する国際的な場、「パグウォッシュ会議」の設立へとつながっていきます

哲学者、数学者、そしてノーベル文学賞作家でもあるラッセルは、自らの良心に従い、反戦を訴え、平和を希求し続けました

異なる意見を安易に排除するのではなく、理性によってお互いの理解を目指したラッセルの姿勢は、深刻な「分断」が問題となっている現代社会に、重要なメッセージを示しているのではないでしょうか

参考文献:
齋藤孝(2022)『60代からの幸福をつかむ極意 -「20世紀最高の知性」ラッセルに学べ』中央公論新社
ラッセル『自伝〈第1巻・第2巻〉』みすず書房
文 / 村上俊樹 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

1918年、第一次世界大戦下のロンドン
ブリクストン刑務所に、一人の哲学者が収監されました

彼の罪状は「戦争に反対し、平和を訴えたこと」でした

その人物こそ「分析哲学」の父と呼ばれ、ノーベル文学賞作家ともなるバートランド・ラッセルです

哲学者、数学者、そしてノーベル文学賞作家でもあるラッセルは、自らの良心に従い、反戦を訴え、平和を希求し続けました

異なる意見を安易に排除するのではなく、理性によってお互いの理解を目指したラッセルの姿勢は、深刻な「分断」が問題となっている現代社会に、重要なメッセージを示しているのではないでしょうか



 

 

 


少子高齢化、自然災害、パンデミックなどネガティブな世相の昨今だが、実は日本は「隠れ幸福大国」である
ただ、バラ色老後のために足りないのは「考え癖」と「行動癖」
この二つを身に付けて幸福をつかみとるための最良テキストが、哲人ラッセルの『幸福論』なのだ
同書を座右の書とする齋藤氏が、現代日本の文脈(対人関係、仕事、趣味、読書の効用、SNSやデジタル機器との付き合い方等々)にわかりやすく読み替えながら、定年後の不安感を希望へと転じるコツを伝授する
なお、ラッセルは九七歳で天寿をまっとうするまで知と平和と性愛に身を投じており、本書は高齢社会のロールモデルとして読み解いていく