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十字軍とは、11世紀末に始まった、イスラム教徒の支配下にあった聖地エルサレムを奪還するために、キリスト教徒たちが立ち上げた軍事遠征である

しかしその実態は、理念とはかけ離れたものであった
参加者の多くは、まるでゴロツキ・チンピラのような烏合の衆であり、遠征先では略奪・殺戮・暴行が横行した

彼らの行動は、しばしば宗教的「聖戦」の名のもとに正当化されつつも、現地住民にとっては蛮行そのものであった

そんな度し難い十字軍とは一線を画す存在として現れたのが、テンプル騎士団である

彼らは信仰と規律を重んじる戦士集団として、軍事力のみならず道徳的評価においても高い名声を得た

やがて騎士団は富と権力を手に入れ、欧州社会において無視できぬ存在となっていくが、その栄光は、ある疑惑によって突如として崩れ去ることになる

13世紀末から14世紀初頭にかけて、テンプル騎士団は「異端」の烙印を押され、投獄と処刑の嵐に巻き込まれていったのだ

当時の裁判記録の中には、彼らが「崇拝していた」とされる、ある謎めいた存在の名が記されている

その名は、バフォメット(Baphomet)

この不可解な存在とテンプル騎士団の悲劇に迫っていく

テンプル騎士団壊滅までの流れ

1099年、十字軍による第1回遠征は、エルサレムの奪還という当初の目的を達成した

だが、参加者の多くは軍事の素人であり、奪還後の聖地周辺の治安を守るには力不足であった

こうした混乱の中、1119年に設立されたのが、テンプル騎士団である

彼らは聖地を目指す巡礼者の護衛を目的とし、修道士としての信仰と騎士としての戦闘能力を兼ね備えた存在として、次第に注目を集めていった
騎士団は主に貴族階級の出身者で構成され、カトリック教会、特に教皇の強力な後ろ盾のもとに、宗教的かつ軍事的な権威を確立していく

やがて彼らは聖戦における活躍に加えて、ヨーロッパ各地での所領経営や金融業務にも従事し、修道会の枠を超えた大組織へと発展する
独自のネットワークと膨大な資産を築き上げたテンプル騎士団は、中世屈指の経済力と軍事力を誇る存在となっていった

しかし1187年、エルサレムが再びイスラム勢力に奪還されたことで、騎士団はその影響力を次第に弱めていくことになる
その後も存続はしたものの、かつての威光には陰りが見え始めた

トドメとなったのが、フランス国王フィリップ4世(在位1268~1314年)による騎士団への弾圧である

国王がなぜ弾圧を行ったかは諸説あるが、騎士団からの借金を踏み倒すためとも、その豊富な財産を略奪したかったがためともされている

1307年10月13日、フランス国内の騎士団員たちは一斉に逮捕され、異端審問にかけられた

審問官の多くは、騎士団の権威を快く思わぬ者たちで構成され、悪魔崇拝・背教・同性愛・不敬など、100を超えるさまざまな罪状がでっち上げられたとされる

団員たちは有無を言わさず過酷な拷問にかけられ、罪の自白を強制させられたのち、一人また一人と処刑されていった

最終的に財産の全てが没収され、騎士団は背教者の汚名を着せられたまま、壊滅してしまったのである

「バフォメット」とは何なのか

前述したように、テンプル騎士団に対する異端審問の中で、団員たちが崇拝していたとされた存在の名が記録に残っている

それが「バフォメット(Baphomet)」である

この名が史料上に初めて現れるのは、1098年のアンティオキア攻囲戦においてである
アンティオキアはかつて東ローマ帝国の支配下にあったが、1085年頃にはイスラム勢力の手に落ちていた

ある十字軍兵士の手紙には、イスラム教徒たちが「バフォメト(Baphometh)」の名を叫んでいたと記されている
この記述は曖昧であり、文脈からしても神名を呼んだのか、罵声をあげたのか、詳細は明らかではない

それから1300年代初頭頃までの間に、バフォメットの名は歴史上に散発的に登場したが、その正体について詳しく言及されることはなかった
一説によるとバフォメットの名は、イスラム教の預言者マホメットが訛ったものだともいわれている

このように、神話も伝承もない謎めいた存在のバフォメットであったが、その後の1307年の異端審問の際には、拷問にかけられた団員たちが「異教の神」あるいは「悪魔」としてこれを崇拝していた、ということにされてしまった。

団員たちが自白したとされる内容もバラバラであり、その姿は3つの顔を持つ異形だったり、猫であったり、両性具有であったりと、一貫性に欠けていた

いずれにせよ敬虔なクリスチャンであるはずの団員たちは、よく分からない異教の悪魔を崇拝していた罪で、片っ端から処罰されてしまったのである

近世におけるバフォメットの解釈
このように実態が不明瞭なバフォメットであったが、その姿や設定に関する肉付けは19世紀以降、盛んに行われるようになる

オーストリアの歴史研究者、ジョセフ・フォン・ハンマー・プルグスタル(1774~1856年)は自身の論文内で、両性具有の異形の怪物の図像を提示し、これをバフォメットであると主張した『※Mysterium Baphometis Revelatum(バフォメットの神秘の解明)』

彼はテンプル騎士団を、バフォメットを信奉していた異端であると論じたが、学術的な証拠は一切なく、各方面より批判を受けた

しかしこのバフォメットの図像は、後世の芸術家やオカルト研究家たちに大きな影響を与えたとされている

とりわけ決定的だったのが、フランスの魔術師・作家エリファス・レヴィ(1810〜1875年)による『高等魔術の教理と祭儀(1854年)』である

この著作においてレヴィは、「メンデスのバフォメット」として知られる図像を創出した

この図像は、善と悪、男と女、精神と物質といった二元的要素の統合を象徴する存在として描かれており、悪魔というよりは神秘主義的な均衡の象徴とされていた

しかしそのインパクトの強い外見から、以後のオカルティズムやサブカルチャーにおいて、「悪魔バフォメット」のイメージがほぼレヴィの図像に固定されることとなる

現代においても、バフォメットといえばこのレヴィの図を元にしたヤギ頭の姿が主流であり、多くの創作作品に引用され続けている

おわりに

なお、テンプル騎士団の大量逮捕が行われたのは、1307年10月13日である

この日付が「金曜日の13日」であったことから、のちに不吉な日とされる「13日の金曜日」の語源となったという俗説が存在する
ただし、この説に明確な裏付けはなく、あくまで後世に生まれた伝承の一つにすぎない

また、騎士団最後の総長であったジャック・ド・モレー(1244年頃〜1314年)は、火刑に処される直前、フランス国王フィリップ4世を呪う言葉を口にしたと伝えられている

「神の法廷に召喚してやる」との言葉通り、モレーの処刑からほどなくしてフィリップ4世は脳卒中に倒れ、回復することなく世を去った

果たしてこれは偶然か、それともモレーの呪い、あるいはバフォメットの祟りであったのか

その真相は、今なお闇の中である

参考 :『Mysterium Baphometis revelatum』『高等魔術の教理と祭儀 祭儀篇』『地獄の辞典』
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

十字軍とは、11世紀末に始まった、イスラム教徒の支配下にあった聖地エルサレムを奪還するために、キリスト教徒たちが立ち上げた軍事遠征である

しかしその実態は、理念とはかけ離れたものであった
参加者の多くは、まるでゴロツキ・チンピラのような烏合の衆であり、遠征先では略奪・殺戮・暴行が横行した

彼らの行動は、しばしば宗教的「聖戦」の名のもとに正当化されつつも、現地住民にとっては蛮行そのものであった

そんな度し難い十字軍とは一線を画す存在として現れたのが、テンプル騎士団である

彼らは信仰と規律を重んじる戦士集団として、軍事力のみならず道徳的評価においても高い名声を得た

やがて騎士団は富と権力を手に入れ、欧州社会において無視できぬ存在となっていくが、その栄光は、ある疑惑によって突如として崩れ去ることになる

13世紀末から14世紀初頭にかけて、テンプル騎士団は「異端」の烙印を押され、投獄と処刑の嵐に巻き込まれていったのだ


1307年10月13日、フランス国内の騎士団員たちは一斉に逮捕され、異端審問にかけられた

審問官の多くは、騎士団の権威を快く思わぬ者たちで構成され、悪魔崇拝・背教・同性愛・不敬など、100を超えるさまざまな罪状がでっち上げられたとされる


なお、テンプル騎士団の大量逮捕が行われたのは、1307年10月13日である

この日付が「金曜日の13日」であったことから、のちに不吉な日とされる「13日の金曜日」の語源となったという俗説が存在する
ただし、この説に明確な裏付けはなく、あくまで後世に生まれた伝承の一つにすぎない

また、騎士団最後の総長であったジャック・ド・モレー(1244年頃〜1314年)は、火刑に処される直前、フランス国王フィリップ4世を呪う言葉を口にしたと伝えられている

「神の法廷に召喚してやる」との言葉通り、モレーの処刑からほどなくしてフィリップ4世は脳卒中に倒れ、回復することなく世を去った

果たしてこれは偶然か、それともモレーの呪い、あるいはバフォメットの祟りであったのか

その真相は、今なお闇の中である



 

 


カバラ的、錬金術的、キリスト教的角度から、魔術の基本をなす原理と理論を解き明かした〈魔道中興の祖〉エリファス・レヴィの不朽の名著
 

 


理論を解説した『教理編』につづき、本書『祭儀篇』では、魔術の儀式に必要な諸道具、さらに降霊術、呪術、占術などの儀式の中での、これらの道具の具体的な使用法まで、魔術の実践方法が詳しく述べられている
まさに、人生の勝利者たらんと志す人たちのための実践的秘法指南書

世界最古の皇統とされる日本の天皇家

日本の王家である天皇家ほど、世界的な見地から見て摩訶不思議な皇統はないだろう

史実的には、6世紀(501年頃)から現在に至るまで、1500年以上にわたって同じ血筋の天皇が連綿と続いている

また、第二次世界大戦、すなわち太平洋戦争の敗戦を経てもなお、「国民の象徴」として存続していることも特筆すべき点である

さらに、実在が疑問視されている初代・神武天皇からの皇統を含めれば、その歴史はなんと2700年にも及ぶ、途方もない長さとなる

このような天皇家に対しては、1998年版までの『ギネスブック』にも「天皇家は紀元前から続く、現存する最古の王家である」と記されていた(2000年以降の掲載はなし)

それほどに、日本の天皇家は世界最古の皇統として広く知られているのである

4つの皇統に分けられる天皇家の系譜

本稿の主題である「天皇という称号」「日本という国号」が、いつから使われたのかを述べる前に、まずは天皇の系譜について触れておきたい

『古事記』や『日本書紀』によれば、初代・神武天皇から今上天皇に至るまで、歴代天皇は126代を数える

もっとも、この皇統が一貫した血筋で継承されてきたかという点については、現代の学説では否定的な見解が主流である

では、この皇統はどのように分かれるのだろうか
これについてはさまざまな説があるが、ここでは筆者の見解を述べることとする

先ず、初代神武天皇および、2代綏靖天皇から9代開化天皇までの、いわゆる「闕史八代(けっしはちだい 欠史八代)」の天皇については、神話上の存在であり、実在しなかったと考えるのが一般的である

実在した最初の天皇とされるのは第10代崇神天皇であり、彼に始まる王朝は、第14代仲哀天皇をもって一度断絶する
これが、いわゆる三輪(崇神)王朝である

その後に登場するのが第15代応神天皇であり、この系統は第25代武烈天皇をもって終焉を迎える
この応神王朝には、いわゆる「倭の五王」が含まれている

そして、現在の皇統へと繋がるとされるのが第26代継体天皇であり、これがいわゆる王朝交代説である

このように整理すると、天皇家の系譜は、神話上の「神武・闕史八代」、崇神を始祖とする「崇神王朝」、応神を始祖とする「応神王朝」、継体を始祖とする「継体王朝」の4つの皇統に分けられることになる

ただし、ここで注意しておきたいのは、今後の考古学的発見によって、これら各王朝の間に血縁的な繋がりが実証される可能性があるという点である

たとえば、崇神王朝と応神王朝の間には、神功皇后の存在がある

彼女は、『古事記』や『日本書紀』における記述から、第14代仲哀天皇の正妃であり、第15代応神天皇の母とされているが、これまでは伝説上の人物と見なされてきた

しかし、葛城氏(神功皇后の母は葛城高顙媛)と関係が深いとされる奈良県磯城郡にある島の山古墳の発掘により、多量の石製腕飾類が発見されたことから、神功皇后の実在性に注目が集まり、議論の対象となっている

同様に、邪馬台国と崇神天皇との関係、あるいは応神王朝と継体天皇との繋がりについても、今後の研究や発掘成果によっては再検討される可能性がある

「天皇」「日本」が定着したのは天武朝以降

さて、ここからは「天皇」「日本」という名称が、いつ頃から使われるようになったのかについて説明しよう

4世紀初め、畿内で生まれた首長勢力は、5~6世紀にかけて次第に勢力を拡大し、北九州や各地の首長(王)たちとの対立を経て、列島の広範囲にその影響力を及ぼすようになった

畿内の首長は、列島各地の首長(王)たちの頂点に立つ存在として、「大王(だいおう・おおきみ)」と称されるようになる

この動きと並行して、国家としての形成も進み、やがて日本は中国大陸や朝鮮半島の国家から「倭国」と呼ばれるようになった

つまり、ここで雄略天皇などの「倭の大王」が成立したのである

そして、このような国家形成がさらに進む過程で、「日本」および「天皇」という名称が次第に定着していくことになる

その時期については、「天皇」という称号が文献上に初めて登場するのが、第33代推古天皇の時代であることから、彼女の代以降に成立したとする説が、これまで有力とされてきた

ただし、これは後世の史書における遡及的な用法である可能性もあり、実際に当時から制度として称号が定着していたとは言い難い

「天皇」という称号が政権内部で一貫して用いられ、政治制度の中に明確に位置づけられたのは、やはり7世紀後半、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)が制定された、第40代天武天皇の時代からであると考えてよいだろう

また、8世紀初頭に大宝律令が施行された際、唐に派遣された遣唐使が自らを「日本」の使節と称していることから、「日本」という国号も天武朝(7世紀後半)に成立し、「天皇」という称号とセットで使用され始めたと見るべきである

これは、まだまだ未発達であった倭の社会に、高度な文明を誇る中国の律令制が導入されたことによる主要な成果であり、この時期をもって「日本」および「天皇」という概念が確立されたといえるだろう

おわりに

「天皇」および「日本」という称号・国号が、7世紀後半の天武天皇の時代以降に定着したものであるとすれば、それ以前の支配者は「大王」と称され、国名も「倭」であったということになる

にもかかわらず、私たちは現在、教科書をはじめさまざまな場面で、「天皇」「日本」という言葉を無自覚に使用している

しかし、天武朝以前の王権には「天皇」や「日本」といった国家的な概念はまだ存在しておらず、制度的にも文化的にも、それらは未成立だったと見るべきである

たとえば、天智や推古、継体といった支配者は、後の基準から「天皇」と呼ばれてはいるものの、実際には「大王」として倭国を統治していたにすぎない

歴史をより丁寧に見つめ直すためには、こうした視点に立ち返ることが、有効な手がかりになるのではないだろうか

※参考文献
網野善彦著 『日本の歴史をよみなおす』ちくま学芸文庫
小笠原好彦著 『奈良の古代遺跡』吉川弘文館
上田正昭著 『大和朝廷』講談社学術文庫
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

いつから「天皇」「日本」という言葉が使われるようになったのか?

「天皇」「日本」が定着したのは天武朝以降のようだ


「天皇」および「日本」という称号・国号が、7世紀後半の天武天皇の時代以降に定着したものであるとすれば、それ以前の支配者は「大王」と称され、国名も「倭」であったということになる

にもかかわらず、私たちは現在、教科書をはじめさまざまな場面で、「天皇」「日本」という言葉を無自覚に使用している

しかし、天武朝以前の王権には「天皇」や「日本」といった国家的な概念はまだ存在しておらず、制度的にも文化的にも、それらは未成立だったと見るべきである

たとえば、天智や推古、継体といった支配者は、後の基準から「天皇」と呼ばれてはいるものの、実際には「大王」として倭国を統治していたにすぎない

歴史をより丁寧に見つめ直すためには、こうした視点に立ち返ることが、有効な手がかりになるのではないだろうか


 

 


われわれの歩んできた日本の歴史を正しく理解することは今後の国際社会を生き抜くために必要だと考える
己を知ることが相手を知る第一歩だ

京極竜子(きょうごく たつこ)は、戦国時代から江戸時代にかけて生きた、絶世の美女と伝わる女性である

彼女は近江の名門・京極氏の娘として生まれて若狭国の武田氏に嫁ぎ、子にも恵まれ、武家の妻として慎ましくも穏やかに暮らしていた

しかし彼女の人生は「本能寺の変」以後、大きな変化を迎えることとなる

豊臣秀吉の寵愛深き側室となり「松の丸殿」と称された京極竜子の、波乱に満ちた生涯を紐解いていきたい

京極竜子の出自

京極竜子は、宇多源氏の流れを汲む京極氏の第16代当主・京極高吉と、浅井久政の娘である京極マリアの長女として生まれた

生年は明らかではないが、竜子が京極高次・高知兄弟の妹とされることから、次兄・高知(1572年生)以降、父・高吉が急逝する1581年までの間に生まれたと推定できる
なお、高吉とマリアの間には、この期間中に3人の娘が生まれたとされている

竜子にとって、北近江の戦国大名・浅井長政は母方の叔父にあたり、その娘たち、すなわち浅井三姉妹(茶々・初・江)は竜子の従妹にあたる

竜子は、若狭国(現在の福井県南部、敦賀市を除く)を治めていた武田元明(もとあき)の正室となり、2男1女をもうけたと伝えられる

夫の元明は、若狭武田氏を支配下に置いていた朝倉氏の滅亡後に丹羽長秀の与力となり、織田信長から大飯郡石山において3000石の知行を与えられた

このため、竜子は元明とともに、若狭国大飯井郡(現在の福井県おおい町)にあった石山城で暮らしていたという

若狭武田氏の運命を変えた「本能寺の変」

もともと若狭武田氏は、竜子の実家である京極氏と同じく名門であったものの、夫の元明が家督を継いだ頃には既に衰退していた

応仁の乱では副将を務めるほどの権勢を誇った武田氏の末裔として生まれた元明であったが、朝倉氏の支配下では傀儡として扱われ、織田信長にも軽視される存在となっていた
それでも彼は、かつて守護として若狭一国を治めた武田氏の勢力を再び盛り返そうと、野心を抱き続けていた

そんな元明に、若狭武田氏再興のまたとない好機が訪れた

それこそが、天正10年(1582年)6月に起きた「本能寺の変」である

変の直後、元明は若狭一国の支配権を掌握しようと、従兄弟にあたる明智光秀に味方した

しかし光秀が秀吉に敗れたことで、元明の野望は瞬く間に砕かれてしまう

山崎の戦いで敗走した光秀の死後、恭順の意を示すべく近江国・海津(現・滋賀県高島市)へ向かった元明は、そこで謀られ、自刃に追い込まれたとされる(丹羽長秀によって殺害されたという説もある)

元明の死によって若狭武田氏は事実上滅亡し、竜子とその子どもたちは敵方に捕らえられた

元明の血を引くとされる2人の男児は処刑されたと伝わるが、その出自については諸説あり、弟とされる津川義勝や、北政所の甥・木下勝俊が元明の遺児であったとする説も存在する

秀吉に見初められる

元明との死別後、竜子はその美貌と生まれの良さを見初められて、秀吉の側室となった

はじめは大阪城の西の丸に居を構えていたことから「西の丸殿」と呼ばれていたが、のちに伏見城に移り、北東にあった松の丸御殿に住んだことから「松の丸殿」と称されるようになる

名門・京極氏の姫として育った竜子は、絶世の美しさと気位の高さを持った女性だったと伝わっている

彼女の気位の高さを伝える逸話としては、後世の創作とされる説もあるが、京都の醍醐寺で秀吉が開催した「醍醐の花見」でのエピソードがよく知られている

「醍醐の花見」が催された当日、会場となった醍醐寺三宝院裏の山麓には、まず正室の北政所の輿が入り、続いて淀殿、松の丸殿(竜子)、三の丸殿(織田信長の娘)、加賀殿(前田利家の娘)とその母・まつの順で入場したと伝えられている

宴会の席で、秀吉の妻たちはそれぞれ秀吉から杯を受けることになるが、正室・北政所の次に誰が杯を受けるかをめぐって、竜子と淀殿の間で順番を争う場面があったという

秀吉の寵愛を奪い合ったというよりは、竜子はかつて京極家の家臣でありながら下剋上で成り上がった浅井家出身の淀殿が、自分よりも後に側室になったにもかかわらず、秀吉の実子を生んだからと尊大に振る舞うことが、とにかく気に入らなかったようである

お互いに気の強い竜子と淀殿の争いは収拾がつかず、ついには前田まつが機転を利かせ、「年齢の順から言えば私がふさわしい」と場を取り成したことにより、ようやく2人の争いは収まったという

秀吉に深く寵愛され、兄を窮地から救った竜子

あるとき竜子は、秀吉の存命中に眼病を患い、有馬温泉での湯治を命じられたとされる

湯治の手配を行ったのは秀吉で、竜子は数十人のお供を付けられて有馬温泉に向かったが、それでも秀吉は心配し、大坂から有馬温泉で過ごす竜子に宛てて、体調を思いやる何通もの手紙を送ったという

竜子の兄である京極高次は、本能寺の変後に竜子の最初の夫・武田元明とともに明智光秀に味方したために、山崎の戦い後は秀吉から追われる身となった
叔父の浅井長政の元妻で、柴田勝家と再婚していたお市の方のもとに逃れていたが、柴田家も秀吉に滅ぼされ、逃げ場を失ってしまう

この窮地にあった高次を救ったのが、秀吉の側室として寵愛を受けていた実妹・竜子の嘆願であった

元明と同じく、自刃を命じられてもおかしくはない立場だった高次だが、竜子の取り成しにより、高次は秀吉に許されるどころか近江国高島郡2500石を与えられた

1586年には5000石に加増、同年に九州平定の功を認められて10000石に加増されて大溝城を与えられ、大名としての地位を取り戻している

翌1587年には、従妹であり淀殿の妹でもある浅井初を正室に迎え、政略的にも豊臣家との結びつきを強めた

こうして高次は「妹と妻の七光りで出世した」として「蛍大名」と揶揄されたが、後の関ヶ原の戦いでは東軍に与して奮戦し、徳川家康からもその功績を認められて、若狭一国を領する国持大名となる

弟の高知とともに、京極家の再興を成し遂げるのである

秀吉の死後

秀吉の死後、竜子は高次が城主となっていた大津城に身を寄せていた

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに先立ち、西軍による大津城攻撃の際には、本丸に籠もっていたとされるが、激しい攻防の末に落城を迎えた後も命を長らえた

戦後、竜子は出家して「寿芳院(じゅほういん)」と号し、古来より女人往生の寺として知られる京都・誓願寺に帰依して、西洞院の自邸で余生を送るようになった

かつて「醍醐の花見」で杯の順を争った淀殿の息子・豊臣秀頼とは、贈り物や礼状のやり取りをしたり、直接大坂城に秀頼を訪ねたりと、良好な関係を築いていたという

しかし、慶長20年(1615)の大坂夏の陣で、大坂城は炎に包まれ、淀殿と秀頼は自害した

その混乱の中で、秀頼の嫡男・国松も、乳母や傳役に守られながら落ち延びようとしたが、ついに捕らえられ、わずか数え8歳で六条河原にて斬首刑に処された

国松は嫡子ではなかったため、誕生直後から母方の叔母・初が嫁いだ京極家に預けられ、大坂城入城までは若狭の町人・砥石屋弥左衛門の養子として密かに育てられていたという

京都に暮らしていた竜子は、六条河原での国松の処刑を阻止すべく駆けつけたとされるが、その願いは届かず、幼くして命を奪われた国松の亡骸を引き取り、誓願寺の墓所に丁重に葬った

また、落命を免れた淀殿の侍女たちを保護したとも伝えられている

国松の亡骸を誓願寺に埋葬してから19年後の寛永11年(1634年)10月22日、竜子は京都・西洞院の自邸にて、その波乱の生涯に幕を閉じた

夫を死に至らしめた秀吉から寵愛を受け、兄を助けて生家の再興のきっかけを作り、かつてのライバルの縁者もないがしろにせず誇り高く生きた竜子

その亡骸は誓願寺に葬られたが、1911年には国松の供養塔と共に、竜子の供養塔が豊国廟に移された

秀吉の数多の妻妾の中で、秀吉の墓所がある豊国廟に供養塔があるのは、竜子ただ1人である

参考文献
越乃国歴女倶楽部 (著)『歴女が往く 恋する若狭路 若狭・越前の山城紀行』
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

京極竜子(きょうごく たつこ)は、戦国時代から江戸時代にかけて生きた、絶世の美女と伝わる女性である

彼女は近江の名門・京極氏の娘として生まれて若狭国の武田氏に嫁ぎ、子にも恵まれ、武家の妻として慎ましくも穏やかに暮らしていた

しかし彼女の人生は「本能寺の変」以後、大きな変化を迎えることとなる


【秀吉に愛され、淀殿と張り合った側室】絶世の美女だったと伝わる京極竜子・・・


夫を死に至らしめた秀吉から寵愛を受け、兄を助けて生家の再興のきっかけを作り、かつてのライバルの縁者もないがしろにせず誇り高く生きた竜子

その亡骸は誓願寺に葬られたが、1911年には、竜子の供養塔が豊国廟に移された

秀吉の数多の妻妾の中で、秀吉の墓所がある豊国廟に供養塔があるのは、竜子ただ1人である


 

 


福井県内の20代女子を中心に立ち上げた「越乃国歴女倶楽部」のメンバーで県内の山城を紹介した冊子を作製
県内の24城を概要と現地レポートで紹介しています

城主や大名のイラストも魅力的で読みやすくなっています

ある世代以上の方なら、「イイクニ(1192)作ろう鎌倉幕府」という語呂合わせで、歴史の年号を覚えた記憶があるのではないでしょうか

けれど、最近ではこの「1192年=鎌倉幕府成立」という見方に疑問を投げかける説が有力になってきています

「源頼朝が征夷大将軍になった年ではなく、それ以前から幕府として機能していたのではないか?」そんな新しい視点が注目されているのです

鎌倉幕府が実際にいつ、どのように始まったのか

そして、よく比較される平清盛の政権とは何が違っていたのかを掘り下げてみます

征夷大将軍になる前から始まっていた鎌倉幕府

1192年に源頼朝が征夷大将軍に任命されたことは、もちろん大きな節目でした
ですが、実際にはその十年以上前から、頼朝は武士たちをまとめあげ、独自の政治組織を動かしています

1180年:御家人を取り締まる「侍所」を設置
1183年:朝廷(院庁)が頼朝の東国支配を追認
1184年:政治文書を扱う「公文所」や裁判を行う「問注所」を設置
1185年:守護・地頭の設置を朝廷に認めさせ、全国統治の足場を整備
こうした流れを見ると、頼朝はすでに征夷大将軍になる前から、武士による新しい政権を動かし始めていたことがわかります

平清盛の政権は「朝廷の一部」としての政治だった

では、源頼朝に先立って政権を握った平清盛はどうだったのでしょうか?

たしかに清盛も武士の出身ですが、その政治はあくまで京都を舞台とし、朝廷の権威を背景としたものでした

娘を高倉天皇に嫁がせ、天皇の祖父として外戚の地位を得る
太政大臣に上り詰め、形式上は朝廷政治の延長に立つ
政治の中心はあくまで貴族社会であり、武士の論理ではなかった
つまり、清盛のやり方は「武士が貴族の世界に入り込んで力を握る」方向性だったと言えるでしょう

源頼朝の政権は「朝廷の外側」から始まった

これに対して、源頼朝が築いた鎌倉幕府は、まったく異なる発想に立っていました

拠点は京都ではなく、東国・鎌倉
命令系統は朝廷からではなく、自らの判断による
支配の対象も貴族ではなく、同じ武士たち
つまり頼朝は貴族社会に入ることを目指したのではなく、朝廷とは距離をとって、武士が武士のままで政治を担う体制を作ろうとしたのです

なぜ頼朝は鎌倉を選んだのか?

都から遠く離れた鎌倉に政権を構えた理由にも、しっかりとした意図がありました

頼朝自身の所領に近く、東国武士の支持を受けやすい
山と海に囲まれ、防衛に優れた軍事拠点である
京都から離れていることで、朝廷の干渉を避けやすい
頼朝にとって鎌倉は地の利と味方の多さをいかせる、武士の政権にふさわしい場所だったのです

武士が武士として治める政権の始まり

平清盛が「貴族の仲間入りを目指した政治」だったとすれば、鎌倉幕府はそれとは違い、武士が武士のままで社会を動かそうとした
はじめての政治体制でした

地頭・御家人といった武士中心の制度を整備
京都の貴族社会とは異なる独自の秩序を形成
朝廷に頼らない「もう一つの政権」として動き出す
この頼朝の挑戦が、室町幕府、江戸幕府へと続く「武士の時代」の扉を開いたのです

「イイクニ」ではなく「新しい国」の始まり

「イイクニ作ろう鎌倉幕府」という言葉は、たしかに親しみやすい記憶法でした
けれど、歴史の実像はそれよりもずっと早く、そして深く動き始めていました

源頼朝が築いた政権は「朝廷の外」で動き始めたもう一つの日本の姿。それは、貴族の支配が当たり前だった日本にとって、大きな価値観の転換を意味していました

参考文献:

本郷和人『東大生に教える日本史』(文春新書、2025年)

(この記事は歴プロの記事で作りました)

武士のまま治めた源頼朝と貴族を目指した平清盛


ある世代以上の方なら、「イイクニ(1192)作ろう鎌倉幕府」という語呂合わせで、歴史の年号を覚えた記憶があるのではないでしょうか

けれど、最近ではこの「1192年=鎌倉幕府成立」という見方に疑問を投げかける説が有力になってきています


頼朝は貴族社会に入ることを目指したのではなく、朝廷とは距離をとって、武士が武士のままで政治を担う体制を作ろうとしたのです
平清盛が「貴族の仲間入りを目指した政治」だったとすれば、鎌倉幕府はそれとは違い、武士が武士のままで社会を動かそうとした
日本ではじめての政治体制でした

 

 


東大史料編纂所に所属する本郷さんはふだん一般の学生への講義はありません
そのなかで2022年、東大駒場の教養課程(1、2年生)で、理系も含め、日本史専攻でない学生に「変革期にあらわれる日本のルール」をテーマに講義をしました
歴史はなぜ、いかにして動くのか??
東大での講義の内容をもとに、より分かりやすく、脱線もよりたっぷりと、新たに語り下ろしたものです

清朝最大の流刑地「寧古塔」とは

寧古塔(ねいことう/ニングタ)とは、清朝時代における代表的な流刑地の一つであり、当時の中国で「この世の地獄」とまで恐れられた土地である

その名前から、荘厳な塔や建造物を想像する者もいるかもしれないが、実際にはそのような塔は存在しない

地名の由来は満洲語にあり、「寧古(ninggun」が数字の「六」、「塔(-ta)」が助数詞の「〜個」を意味する
つまり、寧古塔とは「六つのもの」あるいは「六人の兄弟」を指す言葉であるとされている

この命名には複数の説があるが、最も知られているのは、清の実質的な初代皇帝とされるヌルハチの曾祖父がこの地に住み、六人の息子に土地を分け与えた、という伝承に基づくものである

寧古塔の位置は、現在の中国・黒竜江省東部からロシアの沿海地方にかけての広大な地域に相当する

かつては「吉林将軍」管轄の領域とされており、清朝初期には辺境防衛の拠点として重要な役割を果たしていた
※吉林将軍とは、清朝が東北辺境を統治するために設置した軍政官職

後に軍政の中心が他所へ移され、この土地は徐々に重要性が失われていった

そして17世紀半ば以降、清朝はこの地を重罪人の流刑先として活用し始める

こうして寧古塔は、辺境の一拠点から、凄惨な記憶とともに語られる流刑地へと姿を変えていくことになる

半数以上が到達前に死亡 ~苛酷すぎた1500キロの流配

寧古塔に流されるとは、ただ遠くに送られるというだけのことではない
その道のり自体が、命を落としかねないほど過酷な刑だった

清代の北京(京師)から寧古塔までは、直線距離でもおよそ1500キロに及ぶ
その行程は現代のように鉄道や道路が整備されたものではなく、基本的に徒歩による移動であった

流刑を宣告された者たちは、鉄の枷を首にかけられ、両足には鎖を巻かれた状態で連行される
護送を担当する役人たちは、定められた期日内に目的地へ到着させなければならないため、天候に関係なく歩みを進めた

囚人たちは、酷暑や暴風雪の中でも歩みを止めることなく、過酷な移動を強いられたのである

特に女性にとっては、移送の過酷さは筆舌に尽くしがたいものがあった

当時の女性の多くは纏足(てんそく)の習慣があり、足を小さく変形させていた
まともに立つことすら困難な足で、何ヶ月にも及ぶ旅を強いられたのである

その途中、鉄の鎖が擦れて皮膚が裂け、血が流れ、やがて化膿する。
適切な治療など望めず、多くの囚人は破傷風や感染症によって命を落とした。

科挙の不正事件で寧古塔へ流された文人・呉兆騫(ご ちょうけん)は、流配中に経験した気候の苛烈さを、母宛の手紙の中でこう記している

寧古寒苦天下所無,自春初到四月中旬,大風如雷鳴電激咫尺皆迷,五月至七月陰雨接連,八月中旬即下大雪,九月初河水盡凍。

意訳 : 「寧古の寒さと苦しさは、天下に比類がない。春先から4月中旬までは雷鳴のごとき強風が吹き荒れ、5月から7月は連日雨に覆われ、8月中旬には大雪が降り、9月にはすでに川が凍りつく。雪は地に触れた瞬間に堅氷となり、あたり一面が白銀の荒野と化す」

順治十八年『上父母書』より引用

徒歩を強いられ、記録によれば、寧古塔へ送られた囚人のうち、三分の二が到達前に死亡していたという

この状況は、もはや「移送」ではなく「死に至る行軍」であり、清朝による見せしめの一環として機能していたともいえよう


寧古塔での囚人たちの生活とは

命からがら寧古塔へたどり着いたとしても、そこで待ち受けていたのは決して安堵できる日々ではなかった

この地には「披甲人(ひこうにん)」と呼ばれる、辺境防衛の下級軍士が配置されていた

彼らは清朝の辺境警備を担う一方で、囚人たちの監視や管理も任されていた

社会的地位は低く、事実上の武装農奴のような存在であったが、囚人に対しては絶対的な権限を持っていたのだ

流刑者たちは、披甲人の私的な労働力として扱われ、農作業、伐採、家事などあらゆる雑務を強いられた
もともと官僚や富裕層の出身であった者も、ここでは身分を奪われ、命令に従わなければ容赦なく殴打された

披甲人による暴力や侮辱は日常的なものであり、最悪の場合、私刑によって命を落とす者もいた
にもかかわらず、披甲人が囚人を殺害しても重大な処罰を受けることはほとんどなかったという

形式上は違法であっても、辺境という閉ざされた空間では、証拠も証人も乏しく、実際の追及は困難だったからである

反対に、囚人が披甲人に手を上げた場合は重罪とされ、しばしば「連坐」の対象となった
すなわち、本人のみならず家族全体が死罪に処されることもあり、囚人に反抗する気持ちすら起こさせないような仕組みになっていた

とりわけ、女性囚人の置かれた状況はさらに過酷であった
容姿が整っていれば、披甲人たちに性的対象として見なされることがあり、日常的に暴行されることもあった

実際に、寧古塔への流刑を命じられた女性の中には、自ら命を絶つ者も少なくなかったのである

詩文に残る風土と、意外な美しさ

このように、寧古塔は恐ろしい流刑地であったが、そのすべてが暗黒に覆われていたわけではない

過酷さとは裏腹に、そこには自然の豊かさと、風雅な文化も存在していた

清代の文人・吳桭臣(ご しんしん)は、『寧古塔紀略』のなかで、この地の風土について詳しく記している

彼によれば、寧古塔一帯は山川や土地が非常に肥沃であり、山菜や野草に至るまで味がよく、物資も豊かだったという

また、吳桭臣は「道に落ちた物を拾わずそのままにし、落とし主が現れるのを待つ」といった習慣があったことも伝えている

こうした記録は、寧古塔で過酷な生活を送りながらも、人々の中に信義や節度といった価値観が息づいていたことを表している

また、寧古塔旧城の周辺には、春になるとバラの花が一面に咲き乱れたとされる

採集したバラの花びらを用いて「玫瑰糖(めいくいとう、バラの花の砂糖漬け)」や香水を作る風習もあり、特産品として親しまれていたという

その景色は、厳しい自然のなかにあっても確かに息づく生命の象徴であり、多くの囚人たちにとって、ささやかな心の拠り所となったのかもしれない

参考 : 『上父母書』『寧古塔紀略』『清史稿』他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

寧古塔(ねいことう/ニングタ)とは、清朝時代における代表的な流刑地の一つであり、当時の中国で「この世の地獄」とまで恐れられた土地である

その名前から、荘厳な塔や建造物を想像する者もいるかもしれないが、実際にはそのような塔は存在しない

地名の由来は満洲語にあり、「寧古(ninggun」が数字の「六」、「塔(-ta)」が助数詞の「〜個」を意味する
つまり、寧古塔とは「六つのもの」あるいは「六人の兄弟」を指す言葉であるとされている

この命名には複数の説があるが、最も知られているのは、清の実質的な初代皇帝とされるヌルハチの曾祖父がこの地に住み、六人の息子に土地を分け与えた、という伝承に基づくものである

寧古塔の位置は、現在の中国・黒竜江省東部からロシアの沿海地方にかけての広大な地域に相当する

かつては「吉林将軍」管轄の領域とされており、清朝初期には辺境防衛の拠点として重要な役割を果たしていた
※吉林将軍とは、清朝が東北辺境を統治するために設置した軍政官職

後に軍政の中心が他所へ移され、この土地は徐々に重要性が失われていった

そして17世紀半ば以降、清朝はこの地を重罪人の流刑先として活用し始める

こうして寧古塔は、辺境の一拠点から、凄惨な記憶とともに語られる流刑地へと姿を変えていくことになる


この地には「披甲人(ひこうにん)」と呼ばれる、辺境防衛の下級軍士が配置されていた

彼らは清朝の辺境警備を担う一方で、囚人たちの監視や管理も任されていた

社会的地位は低く、事実上の武装農奴のような存在であったが、囚人に対しては絶対的な権限を持っていたのだ

流刑者たちは、披甲人の私的な労働力として扱われ、農作業、伐採、家事などあらゆる雑務を強いられた
もともと官僚や富裕層の出身であった者も、ここでは身分を奪われ、命令に従わなければ容赦なく殴打された

披甲人による暴力や侮辱は日常的なものであり、最悪の場合、私刑によって命を落とす者もいた
にもかかわらず、披甲人が囚人を殺害しても重大な処罰を受けることはほとんどなかったという

形式上は違法であっても、辺境という閉ざされた空間では、証拠も証人も乏しく、実際の追及は困難だったからである

反対に、囚人が披甲人に手を上げた場合は重罪とされ、しばしば「連坐」の対象となった
すなわち、本人のみならず家族全体が死罪に処されることもあり、囚人に反抗する気持ちすら起こさせないような仕組みになっていた

とりわけ、女性囚人の置かれた状況はさらに過酷であった
容姿が整っていれば、披甲人たちに性的対象として見なされることがあり、日常的に暴行されることもあった

実際に、寧古塔への流刑を命じられた女性の中には、自ら命を絶つ者も少なくなかったのである


このように、寧古塔は恐ろしい流刑地であったが、そのすべてが暗黒に覆われていたわけではない

過酷さとは裏腹に、そこには自然の豊かさと、風雅な文化も存在していた

清代の文人・吳桭臣(ご しんしん)は、『寧古塔紀略』のなかで、この地の風土について詳しく記している

彼によれば、寧古塔一帯は山川や土地が非常に肥沃であり、山菜や野草に至るまで味がよく、物資も豊かだったという

また、吳桭臣は「道に落ちた物を拾わずそのままにし、落とし主が現れるのを待つ」といった習慣があったことも伝えている

こうした記録は、寧古塔で過酷な生活を送りながらも、人々の中に信義や節度といった価値観が息づいていたことを表している

また、寧古塔旧城の周辺には、春になるとバラの花が一面に咲き乱れたとされる

採集したバラの花びらを用いて「玫瑰糖(めいくいとう、バラの花の砂糖漬け)」や香水を作る風習もあり、特産品として親しまれていたという

その景色は、厳しい自然のなかにあっても確かに息づく生命の象徴であり、多くの囚人たちにとって、ささやかな心の拠り所となったのかもしれない



 

 


中国の刑罰にはとても厳しいものもあったという
現在の感覚では残虐ともいえる中国刑罰史

遊女は文化の基盤となり歴史を動かした

吉原遊郭を正面から描いた大河ドラマ『べらぼう』

主人公・蔦屋重三郎が日本橋に拠点を移したとはいえ、主な舞台が吉原である以上、春を売ることを生業とする妓楼や、そこに属する遊女たちの存在を無視することはできません

そのため、この作品は、江戸時代の四大改革(享保の改革・田沼意次の政治・寛政の改革・天保の改革)を理解するうえで非常に有意義であるにもかかわらず、「子どもには見せられない」といった意見も多く見受けられます

たしかに、ジェンダーの視点から見れば、遊郭という制度は、決して再びこの世に生み出してはならず、再現されてはならないものであると言えるでしょう

しかし一方で、「遊女」と呼ばれた女性たちは、紛れもなく歴史の中に存在していました

それどころか、彼女たちは時代ごとにさまざまな境遇に置かれながらも、それぞれの時代において文化の基盤となり、歴史を動かす力の源泉ともなっていたのです

女性が「聖なる存在」としての役目を担う

歴史学者・網野善彦氏は、名著とされる『日本の歴史をよみなおす』の中で、「女性の無縁性」という言葉を提唱しました

この言葉によって、女性が人ならぬ力をもつ存在、すなわち「聖なるもの」と結びつく特質をもつことが示されています

こうした特質は、室町時代初期、すなわち南北朝の頃までに特に顕著であったと網野氏は指摘しています

とりわけ、平安末期から鎌倉時代という中世において、女性がしばしば重要な文書や資産を預けられていたという史実に着目し、戦乱の時代においても、それらを女性に託すことである程度の安全性が確保されていたという点に注目しています

このようなことが、女性の性そのものの特質と深く関わっていると網野氏は定義づけているのです

なお現代においては、文書や資産は現実的・経済的な価値を持つものと捉えられていますが、かつてそれらは「聖なるもの」と考えられていました

というのも、資産価値をもつ米や銭は、そもそも神仏に納めるためのものであったからです

そのため、米や銭を納める「聖なる倉・蔵(くら)」の管理者として、女性が大きな役割を果たしていたという事実は、女性が「聖なる存在」としての役目を担っていたことを示しているのです

遊女の源流は古代における「遊行女婦」

女性の性そのものに関わる特質は、女性の職能とも深く結びついていたと考えられます

その一例が、古代にまでその活動を遡ることができる「歩き巫女」です

彼女たちは漢字で「遊行女婦」と表記され、「あそびめ」「うかれめ」などと読まれており、いわゆる“遊女の源流”であった可能性も指摘されています

古代の「遊行女婦」に関する著名な逸話の一つに、奈良時代、大宰帥として太宰府に赴任していた大伴旅人(おおとも の たびと)が、都に帰る際の出来事があります

旅人を見送る太宰府の官人たちに交じって、「遊行女婦」も見送りに加わり、彼と和歌の応酬まで交わしたとされています

この逸話は、近世において売春を生業としながらも、和歌を詠み、生け花や茶道といった教養を身につけていた遊女たちの姿の原型を示すものとも解釈できます

太宰府は「遠の朝廷(とおのみかど)」とも称されるほどの重要な拠点であり、西海道を統括し、外交や軍事の一端を担うなど、朝廷と同様の機能と施設を備えた都市でした

このような場において、すでに太宰府という平城京に匹敵する“律令の府”と遊女たちが深く関わっていた可能性は、十分に考えられるのです

「遊女」は天皇や神に従事する職能民だった

日本における律令制は、飛鳥時代後期の7世紀後期に始まり、平安時代中期の10世紀頃まで機能します

そのような律令制の下には、さまざまな官庁がおかれ、多種多彩な職能民を統括していました

しかし10世紀以降、律令制が衰えて官庁の機能が徐々に変質してくると、そこに管理されていた職能民たちは、それぞれに独立した集団を形成していくことになります

遊女もまた同じような経緯をたどり、後宮や雅楽寮などの官庁に所属していた女性の官人や歌女などが、その源流となっていったと考えられます

そして、10世紀から11世紀にかけて、女性の長者に率いられた遊女の集団が現れます

この集団は、官庁からある程度自立した女性の職能集団であったわけです

西日本において彼女たちは、津・泊(港湾)を拠点として船を用いて活動しました

また東日本においては、やはり官庁から独立したと考えられる芸能集団である傀儡(くぐつ)の女性が遊女となり、こちらは宿を拠点に活動しました

ただこの時点では、遊女は完全に朝廷から独立したわけではなく、鎌倉初期の仁和寺御室の記録である『右記』には、「遊女・白拍子は公庭」と書かれており、朝廷に属していたことを明記しています

つまり遊女の集団は、雅楽寮などに属して、朝廷の儀式に奉仕していたことは間違いないようです

白拍子や傀儡も同様で、鎌倉前期には白拍子奉行人という役所が存在していました

鎌倉時代までは、遊女・白拍子・傀儡の女性が、天皇や上皇、あるいは貴族や上級武家の子どもを産んだり、勅撰和歌集に詠んだ和歌が採用されるという事実があります。

それは、決して低くない彼女たちの社会的地位を如実に物語っていると同時に、そのような女性職能民が天皇や神に直属する「聖なる者」と考えられていたことを証明しているといってもよいでしょう

このように古代から中世にかけては、日本の社会に女性の職能民が、社会的地位を保ちながら活躍していました

また、遊女・白拍子などの芸能民だけでなく、商人の世界にも女性が非常に多かったとされています

しかし、時代が中世から近世へと移り変わるにつれ、女性自体の「聖なる特質」が徐々に衰退していきました

それにともない女性の地位の低下が著しくなり、遊女という職能民もまた、制度や社会の枠組みに取り込まれ、かつて担っていた宗教的・文化的役割を忘れられていきます

それでも、彼女たちが歴史の中で果たしてきた存在の重みは、今なお私たちの文化の底流に息づいているのです

※参考文献
網野善彦著 『日本の歴史をよみなおす』 ちくま学芸文庫刊 他
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

遊女は文化の基盤となり歴史を動かした

吉原遊郭を正面から描いた大河ドラマ『べらぼう』

主人公・蔦屋重三郎が日本橋に拠点を移したとはいえ、主な舞台が吉原である以上、春を売ることを生業とする妓楼や、そこに属する遊女たちの存在を無視することはできません

そのため、この作品は、江戸時代の四大改革(享保の改革・田沼意次の政治・寛政の改革・天保の改革)を理解するうえで非常に有意義であるにもかかわらず、「子どもには見せられない」といった意見も多く見受けられます

たしかに、ジェンダーの視点から見れば、遊郭という制度は、決して再びこの世に生み出してはならず、再現されてはならないものであると言えるでしょう

しかし一方で、「遊女」と呼ばれた女性たちは、紛れもなく歴史の中に存在していました

それどころか、彼女たちは時代ごとにさまざまな境遇に置かれながらも、それぞれの時代において文化の基盤となり、歴史を動かす力の源泉ともなっていたのです


天皇・神とも深い関係があり、遊女は“聖なる存在”だったようです
「遊女」は天皇や神に従事する職能民だったようです



 

 


われわれの歩んできた日本の歴史を正しく理解することは今後の国際社会を生き抜くために必要だと考える
己を知ることが相手を知る第一歩だ

陽気で楽し気なのに、どことなく物憂げな雰囲気もあわせ持つ不思議な存在、道化師

近年では、ホアキン・フェニックス主演で大反響を巻き起こした映画「ジョーカー」の中で登場したピエロのイメージが強烈でした

異彩を放つ独特な衣装やメイク、そして英雄でもなくヒロインでもなく、まして味方なのか敵なのかすらも分からない

そんないわば素性の知れない存在が、どうして長年人々の想像力を惹起し、権力者や民衆、芸術家たちにも広く愛されてきたのでしょうか

その歴史と成り立ちを探ってみました


語源から見る道化師の原型

日本語で「道化師」と言われてすぐに思い浮かぶのが、白塗り顔をしたいわゆる「ピエロ」の姿でしょう

実は「ピエロ」という言葉が登場したのは比較的新しく、16世紀のイタリアにおける即興喜劇の中で登場する「プルチネッラ」から派生したものです

また、フランスの俳優・劇作家として知られるモリエールが1665年に発表した戯曲『ドン・ジュアン』において、「ピエロ」という名の農民が登場しています

これはフランス人男性の名前として一般的な「ピエール(Pierre)」が元となったとされています

また、道化師を表す言葉としては「クラウン」も有名です
ciown(クラウン)は土の塊を意味するclodなどから転じ、田舎者、滑稽な者、そして道化師を含むようになったと言われています

それからタロットカードを見たことがある人なら、「愚者」のカードに描かれた「fool(フール)」も連想するかもしれません

この「fool」も道化を表す言葉です。

foolはラテン語で「ふいご」を意味するfollisを語源としていますが、道化師が軽妙な話をする様子が、まるでふいごを使って口から風を吹いているように見えたのでしょう

ちなみに混同されがちな「クラウン」と「ピエロ」ですが、クラウンは道化師の総称であり、その中でもおなじみの涙のメイクを施されたものをピエロと呼びます

古代から生き延びる異能の者たち

道化師の歴史はかなり古く、古代エジプトにおいてはファラオを興じさせるために存在していたと言われています

そして古代ギリシャから古代ローマへと時代が下ると、裕福な家庭の晩餐に際して、当意即妙な受け答えや物まね芸などで場を盛り上げて、食事に与る者たちが現れます


彼らはいわゆる「伴食者」としての役割を担っていました
またローマ帝国の頃には心身が健常ではない者などを魔除けとみなし、奴隷としてそばにおくような習慣も見られました

こうした人々は「愚者」として扱われるとともに、彼らを愛玩の対象として所有したがる貴族の趣味や習慣が、ヨーロッパの一部では18世紀に至るまで続きました

国の命運までも見抜いた宮廷道化師「スタンチク」

こうして、近代ヨーロッパの多くの王侯貴族の邸宅では「楽しみを与える人々」が職業のひとつとして存在するようになったのです
特に16世紀半ば以降のイングランド王国・チューダー朝においては、宮廷に召し抱えられた道化師たちが盛んになります

彼ら宮廷道化師たちの仕事は単なるエンターテイナーに留まらず、主人への自由な物言い、つまりオブザーバー的な性格も帯びていきました

宮廷道化師の存在は心身の先天的な条件などから特権的であり、その物言いは「狂人の戯言」と付される場合もありました
しかし多くは「神聖なもの」とみなされており、次第に治外法権的な「権力者に対する自由な発言」が求められるようになったのです

その中でも舌峰鋭い宮廷道化師といえば、ポーランドのスタンチクが有名です

スタンチクは15-16世紀に生きた宮廷道化師で、レクサンデルとジグムント1世スタルィ、そしてジグムント2世アウグストの、三代の王達に重用されました

スタンチクは高い知性と政治哲学の才を備えた人物で、その慧眼を当時のポーランドの状況と行く末に対して如何なく発揮しました

彼の宮廷に対する鋭い風刺と批判は、人々に畏敬の念さえ抱かせるほどであったと言います

1533年のある日、リトアニアから取り寄せられた巨大な熊が首都クラクフ近くの森に放たれ、ジグムント1世王がそれを狩るという狩猟が行われました

ところがこの熊が王のみならず、同行していた側近、身重の王妃ボナらに突進し、王たちの一行は大パニックとなりました
そしてボナはこの時の落馬が原因で流産してしまったのです

しかし、その場に居合わせたスタンチクは、なんといち早く逃げていたのです

これに憤怒したジグムント1世王は、スタンチクを大いに批判しました

しかしスタンチクは「檻に入っている熊を放つ方が馬鹿げているでしょう」と、あっさり言い返したのです

これは王が行った熊狩りに対してだけではなく、王がとっていたプロイセン公領への政策を暗に批判した発言でもありました

当時ポーランドはプロイセン公領を征服していたものの、王はこれを直轄領にはしていませんでした
のみならず、王は属領としてプロイセン公領に一定の自治権が与えていたのです
まさに熊を手元に置きながら、その扱いに油断が生じていたかのごとくです

そしてスタンチクが予見し危惧したように、後にプロイセン公領は独立国家となり、ロシア・オーストリアとともに、ポーランド分割へと参入していったのです

おわりに

その後「宮廷道化師の伝統」は、イギリスでの内戦やフランス革命など歴史の転換期を機に、18世紀には一部の国を除いて終焉を迎えます。

しかし、古代から息づいた道化師の歴史は現代でも身近なエンターテイナーとして引き継がれています

自由で批判精神に富んだ時代の名残が、現代の彼らの不思議な魅力にもつながっているのかもしれません

参考 :
城西人文研究第19巻第2号『道化のコンセプト』小野昌

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

陽気で楽し気なのに、どことなく物憂げな雰囲気もあわせ持つ不思議な存在、道化師

近年では、ホアキン・フェニックス主演で大反響を巻き起こした映画「ジョーカー」の中で登場したピエロのイメージが強烈でした

異彩を放つ独特な衣装やメイク、そして英雄でもなくヒロインでもなく、まして味方なのか敵なのかすらも分からない

そんないわば素性の知れない存在が、どうして長年人々の想像力を惹起し、権力者や民衆、芸術家たちにも広く愛されてきたのでしょうか



国の命運までも見抜いた宮廷道化師「スタンチク」

こうして、近代ヨーロッパの多くの王侯貴族の邸宅では「楽しみを与える人々」が職業のひとつとして存在するようになったのです
特に16世紀半ば以降のイングランド王国・チューダー朝においては、宮廷に召し抱えられた道化師たちが盛んになります

彼ら宮廷道化師たちの仕事は単なるエンターテイナーに留まらず、主人への自由な物言い、つまりオブザーバー的な性格も帯びていきました

宮廷道化師の存在は心身の先天的な条件などから特権的であり、その物言いは「狂人の戯言」と付される場合もありました
しかし多くは「神聖なもの」とみなされており、次第に治外法権的な「権力者に対する自由な発言」が求められるようになったのです

その中でも舌峰鋭い宮廷道化師といえば、ポーランドのスタンチクが有名です

スタンチクは15-16世紀に生きた宮廷道化師で、レクサンデルとジグムント1世スタルィ、そしてジグムント2世アウグストの、三代の王達に重用されました

スタンチクは高い知性と政治哲学の才を備えた人物で、その慧眼を当時のポーランドの状況と行く末に対して如何なく発揮しました

彼の宮廷に対する鋭い風刺と批判は、人々に畏敬の念さえ抱かせるほどであったと言います

1533年のある日、リトアニアから取り寄せられた巨大な熊が首都クラクフ近くの森に放たれ、ジグムント1世王がそれを狩るという狩猟が行われました

ところがこの熊が王のみならず、同行していた側近、身重の王妃ボナらに突進し、王たちの一行は大パニックとなりました
そしてボナはこの時の落馬が原因で流産してしまったのです

しかし、その場に居合わせたスタンチクは、なんといち早く逃げていたのです

これに憤怒したジグムント1世王は、スタンチクを大いに批判しました

しかしスタンチクは「檻に入っている熊を放つ方が馬鹿げているでしょう」と、あっさり言い返したのです

これは王が行った熊狩りに対してだけではなく、王がとっていたプロイセン公領への政策を暗に批判した発言でもありました

当時ポーランドはプロイセン公領を征服していたものの、王はこれを直轄領にはしていませんでした
のみならず、王は属領としてプロイセン公領に一定の自治権が与えていたのです
まさに熊を手元に置きながら、その扱いに油断が生じていたかのごとくです

そしてスタンチクが予見し危惧したように、後にプロイセン公領は独立国家となり、ロシア・オーストリアとともに、ポーランド分割へと参入していったのです

おわりに

その後「宮廷道化師の伝統」は、イギリスでの内戦やフランス革命など歴史の転換期を機に、18世紀には一部の国を除いて終焉を迎えます

しかし、古代から息づいた道化師の歴史は現代でも身近なエンターテイナーとして引き継がれています

自由で批判精神に富んだ時代の名残が、現代の彼らの不思議な魅力にもつながっているのかもしれません



 

 


近代サーカスの誕生時から、本場のサーカスや舞台で道化を演じるのは“クラウン”と呼ばれてきた
だが、日本で道化師といえば“ピエロ”が一般的だ
日本ではなぜ“クラウン”ではなく、“ピエロ”が定着したのか
クラウンは日本でいかに受けとめられてきたか
サーカス研究の第一人者が、日本における「道化師」の歴史をたどる

27日に大相撲名古屋場所千秋楽が行われ、2敗でトップの平幕・琴勝峰が勝ち、初優勝

注目の新横綱・大の里は11勝4敗、もう1人の横綱・豊昇龍は途中休場

優勝 琴勝峰 13勝2敗 (初)

三賞
殊勲賞 玉鷲(3)、琴勝峰(初)
敢闘賞 草野(初)、藤ノ川(初)、琴勝峰(2)
技能賞 安青錦(初)、草野(初)

18世紀初頭、ヨーロッパの片隅にあったプロイセンという小国に、異様なまでの軍事主義者が君臨していました

その人物は、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世

「軍人王」と呼ばれた彼は、徹底した軍備拡張と厳格な規律を重んじ、浪費と贅沢をことごとく排しました
しかし、生涯を通じて深く愛したものは、戦術でも銃剣でもなく、背の高い兵士たちだったのです

この執着はやがて、「ポツダム巨人軍」と呼ばれる異形の部隊を生み出し、国家プロイセンに奇妙な影を落とすことになりました

王が偏愛したこの異様な軍隊が生まれた背景に迫ります

軍人王の誕生と精神

フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は、1688年にベルリンでプロイセン王家の嫡子として誕生しました

幼いころから、父であるフリードリヒ1世の華美な宮廷生活や浪費に対して、冷ややかな視線を向けていたといわれています
王位継承者としての教育を受けるなかで、彼は次第に自らの理想を形づくっていきました

1713年、父王の死去にともない、わずか25歳で王位に就くと、すぐさま国家財政の引き締めと軍制の改革に乗り出します

新王となった彼は、宮廷の祝宴を廃止し、無駄な出費を徹底的に削減しました
王宮からは音楽や舞踏が姿を消し、そのかわりに鳴り響いたのは、軍靴の足音と銃剣の金属音でした

フリードリヒ・ヴィルヘルム1世にとって、理想の国家とは、整然と隊列を組み、命令ひとつで統率される軍隊のような社会だったのです

彼の治世下で、プロイセン軍は8万人を超える規模に拡大しました
そのなかには、やがて特別な存在として知られることになる一部の兵士たちが含まれていました

それこそが、ポツダム巨人軍(ドイツ語:Potsdamer Riesengarde、英語では“Potsdam Giants”とも)と呼ばれる部隊です

異様な美意識

フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は、厳格な規律を重んじる一方で、どこか歪んだ美意識の持ち主でもありました

彼はなにより「背の高い男たち」に強く惹かれていたのです
その理由については、兵士としての威容を重視した軍事的な判断だったとも、あるいは私的な偏愛に近い感情だったとも言われています

ともかく、王は長身兵の徴募に強い執着を示し、やがてポツダムの地に「巨人部隊」を組織します

この部隊に入隊するには、少なくとも188センチ前後の身長が理想とされていました
当時としては並外れた高さであり、王は国内だけでなく、ヨーロッパ諸国の外交官や軍人にも「該当する人物がいれば報告せよ」と命じていました

中には、外国で見かけた長身の男をそのまま連れ帰るよう命じた例もあり、実際に外交上の摩擦を引き起こしかけたこともあったようです

兵士たちは高い報酬と引き換えに軍服を与えられ、閲兵式などでは見せ物のように扱われました
身長をさらに強調するために、帽子はわざと高く設計され、威圧感を高める工夫が凝らされていました

こうした中で、王は一部の兵士に対して、長身の女性との間に子どもをもうけさせるよう仕向けたとも伝えられています

遺伝の知識すらなかった当時に、まるで育種家のような発想で兵士を「繁殖」させようとしたこの試みは、常軌を逸していたと言えるでしょう

息子との軋轢

王が国家と軍に注いだ情熱は、家庭の中にも容赦なく及びました

とりわけ息子のフリードリヒ2世に対しては、まるで兵士を鍛えるかのように接し、愛情よりも恐怖を与えました

王子は音楽や文学を好み、なかでもヴォルテールの思想に深く傾倒していました
フランス語に親しみ、ルイ14世のような華やかで文化的な宮廷を理想としていた彼にとって、甲冑をまとった父の質実剛健な軍国体制は、大変息苦しく感じられたことでしょう

王は息子のその感性を「軟弱」と見なし、軍事訓練を強要しました
些細なことで叱責や暴力を加えることもあり、父子の間にはしだいに深い溝が生まれていきます

そして1730年、ついに決定的な事件が起こりました

若き王子フリードリヒは、親友であり副官でもあったハンス・フォン・カッテとともに、国外への逃亡を計画したのです
しかし計画は発覚し、王は激怒
カッテは軍法会議によって死刑を宣告されました

フリードリヒ王子は、その処刑の場に立ち会うよう命じられ、目の前でカッテが斬首される瞬間を見せつけられたのです
若き日の王子はその衝撃に耐えられず、気を失ったとも伝えられています

この一件は、父と子の間に深く、決定的な亀裂を生じさせました

王の死と継承、そして巨人兵の終焉

1740年、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は病に伏し、そのままこの世を去りました

王位を継いだのは、長年にわたって父の威圧と愛情の狭間で揺れ続けてきた息子、フリードリヒ2世でした

新たな王となったフリードリヒ2世は、父の軍事政策の多くを受け継ぎながらも、自らの理想を重ね合わせていきました
軍備の増強は継続しつつも、音楽や哲学、そして法による統治を重視する啓蒙思想を導入し、プロイセンをより洗練された国家へと導いていきます

その流れのなかで、「ポツダム巨人軍」も、次第に姿を消していくことになります

フリードリヒ2世にとってこの部隊は、父の存在を象徴するものであり、同時に軍の非合理さの象徴でもあったからです

やがてポツダム巨人軍は、他の部隊へ吸収されるかたちで解体されていきました

父が集めた長身の兵士たちは、ある者は戦場で命を落とし、ある者はそのまま歴史の舞台から姿を消していきました

ポツダム巨人軍を生み出したフリードリヒ・ヴィルヘルム1世の人生は、強烈な意志と異様な趣向に彩られたものでした
質素と軍事を至上とし、国民からは「倹約王」「軍人王」と称えられた一方で、心の奥底には、長身兵への病的な執着がありました

そして、彼にとって最大の葛藤は、愛情と支配のはざまで揺れた息子との関係にありました
父は軍人として国家を築こうとし、息子は哲学と文化を尊びながらも、現実主義の王として国を導こうとしたのです

二人は激しく対立しながらも、それぞれの方法でプロイセンを次の時代へと押し出しました

ポツダム巨人軍は、単なる奇癖としては片づけきれない存在です
そこには、父と子の断絶、専制と啓蒙、秩序と自由という、18世紀プロイセンが内包していた深い矛盾が静かに映し出されているのです

参考文献:
『Thomas Carlyle, History of Friedrich II of Prussia, Called Frederick the Great』
『思わず絶望する!? 知れば知るほど怖い西洋史の裏側』他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

18世紀初頭、ヨーロッパの片隅にあったプロイセンという小国に、異様なまでの軍事主義者が君臨していました

その人物は、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世

「軍人王」と呼ばれた彼は、徹底した軍備拡張と厳格な規律を重んじ、浪費と贅沢をことごとく排しました
しかし、生涯を通じて深く愛したものは、戦術でも銃剣でもなく、背の高い兵士たちだったのです

この執着はやがて、「ポツダム巨人軍」と呼ばれる異形の部隊を生み出し、国家プロイセンに奇妙な影を落とすことになりました


フリードリヒ1世の死後、「ポツダム巨人軍」も、次第に姿を消していくことになります

フリードリヒ2世にとってこの部隊は、父(フリードリヒ1世)の存在を象徴するものであり、同時に軍の非合理さの象徴でもあったからです

やがてポツダム巨人軍は、他の部隊へ吸収されるかたちで解体されていきました

父が集めた長身の兵士たちは、ある者は戦場で命を落とし、ある者はそのまま歴史の舞台から姿を消していきました

ポツダム巨人軍を生み出したフリードリヒ・ヴィルヘルム1世の人生は、強烈な意志と異様な趣向に彩られたものでした
質素と軍事を至上とし、国民からは「倹約王」「軍人王」と称えられた一方で、心の奥底には、長身兵への病的な執着がありました

そして、彼にとって最大の葛藤は、愛情と支配のはざまで揺れた息子との関係にありました
父は軍人として国家を築こうとし、息子は哲学と文化を尊びながらも、現実主義の王として国を導こうとしたのです

二人は激しく対立しながらも、それぞれの方法でプロイセンを次の時代へと押し出しました

ポツダム巨人軍は、単なる奇癖としては片づけきれない存在です
そこには、父と子の断絶、専制と啓蒙、秩序と自由という、18世紀プロイセンが内包していた深い矛盾が静かに映し出されているのです





 

 


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大正時代、人々を熱狂させ絶大な人気を巻き起こした芸能・浅草オペラ

そんな浅草オペラが盛んな頃、「現代オペラ界における、随一のダンサー」と称賛された女性がいた

彼女の名は、澤モリノ

華やかな舞台姿と磨き抜かれた技芸で、多くの観客を惹きつけた彼女は、浅草オペラの顔ともいえる存在であった
しかし、時代の移ろいとともにオペラの熱気がしずまると、モリノの人生もまた、静かに崩れはじめていく

浅草オペラの熱狂の只中を生き、舞踊に人生を捧げた澤モリノの生涯をたどっていきたい


音楽の家に生まれ、舞台への道を歩み始める

明治23年(1890)3月19日、澤モリノ(本名・深澤千代)は、音楽家の家庭に生を受けた

父・深澤登代吉、母・たけ子は、ともに東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)の出身で、音楽を職業とする家庭に身を置いていた
長女・千代(のちの澤モリノ)は、2歳年下の妹・美代とともに、音楽に囲まれた環境で幼少期を過ごすことになる

出生地についてはアメリカ・ニューヨーク、あるいはカリフォルニア州サンフランシスコとの記録もあるが、実際には父の郷里・群馬県前橋市であったとの遺族証言も残されている

幼少期は父の任地に伴い、富山や滋賀を転々としつつ、比較的恵まれた生活を送っていた
しかし、モリノが11歳の折、父が病に倒れ、東北の旅先で没するという不幸が訪れる
以後、母とも離別し、姉妹は叔父のもとに引き取られ、東京での暮らしが始まった

やがて、モリノは東京女子師範学校附属高等女学校(現・お茶の水女子大学附属高等学校)に進学する
学業と並行して、彼女は舞踊に惹かれていくようになった

明治44年(1911)、21歳のとき、帝国劇場が新設した歌劇部の養成生募集に応じ、厳しい選考を経て合格
当初は第二期生としての参加予定であったが、彼女の歌唱力と舞台映えする容姿が評価され、特例として第一期生に迎え入れられたという

帝劇では、招聘されたイタリア人舞踊家ジョヴァンニ・ヴィットーリオ・ローシーの指導のもと、クラシック・バレエの基礎を徹底して叩き込まれる

ローシーの訓練は厳格を極め、脱落する者も少なくなかったが、モリノはその中で確かな技量を身につけていった

芸名「澤美千代」を名乗って舞台に立ち始めたのもこの時期であったが、やがてローシーの助言により、伊太利の著名な女性舞踊家の名にちなんで「澤モリノ」と改めることとなる

帝国劇場歌劇部での経験は、彼女にとって舞踏家としての土台を築く決定的な時期であった

しかし大正5年(1916)、以前からあまり好評でないうえに経費がかかる歌劇部は、経営陣から解散が通達されたのだった

浅草オペラの女王・澤モリノ

帝国劇場歌劇部の解散後、モリノは新たな舞台を浅草に求めた

当時の浅草は、西洋音楽と舞台芸術を、大衆娯楽として再構築しようとする気運が高まり、「浅草オペラ」と呼ばれる革新的な芸能が動き出していたのである

同年、アメリカ帰りのダンサー・高木徳子が、ボードビル仕立ての「世界的バラエチー一座」を率いて公演を行い、やがて浅草オペラの隆盛へとつながる最初のきっかけとなった

翌大正6年(1917)1月、浅草常磐座で上演されたオペラ『女軍出征』は、軍事パロディ・笑い・恋愛・艶笑を織り交ぜた国産ミュージカルとして注目を集め、観客の熱狂を呼んだ

この成功により、「浅草オペラ」の名が東京中に響き渡り、やがて六区一帯の劇場が、次々とオペラ専門館に転じていくことになる

この流れのなかで、モリノは旧知の石井漠(帝劇歌劇部の同期)から誘いを受け、大正6年10月、「東京歌劇座」の旗揚げに参加した

ライバルの歌劇団がひしめく浅草の中でも、モリノはひときわ高い人気を集め、やがて「浅草オペラの顔」として知られるようになった

東京歌劇座で、モリノと並んで注目を浴びていたのが、華やかな演技と色気で知られた河合澄子である

舞台歴はモリノのほうが長かったが、若さと愛らしさで学生たちから圧倒的な支持を受ける河合に、モリノは複雑な思いを抱いていたとも伝えられている

当時の観劇熱は異様なほどであり、モリノと澄子の両ファンが劇場二階席に陣取り、「モリノ!」「澄子!」と連呼するあまり、台詞が聞き取れなくなることもしばしばだった

東京歌劇座で活躍後、モリノは石井らとともに脱退し、大正7年(1918)夏に「オペラ座」を新たに創設する

ここでも彼女は中心的な存在として舞台に立ち、石井とのコンビによる舞踊作品『ジプシイの生活』や『女軍出征』などで評価を高めていった

この時期、モリノは映画にも出演し、舞踊以外の表現にも幅を広げるなど、まさに舞台芸術家としての頂点を迎えていた

また私生活では、帝劇管弦楽部のヴァイオリニスト・小松三樹三と結婚し、一児をもうけている

まさに人生の絶頂であった

夫の死と浅草オペラの衰退 ~女王の悲劇

大正10年(1921)、モリノの人生に大きな転機が訪れる。

夫のヴァイオリニスト・小松三樹三が、興行先で急逝したのである

帝劇時代より共に歩み、家庭を築いた小松の死は、モリノに大きな衝撃を与えた
さらに追い打ちをかけるように、最愛の子を幼くして亡くし、彼女の私生活は深い悲しみに沈んでいった

一方、舞台の世界でも異変が起きつつあった
隆盛を極めた浅草オペラは、第一次大戦後の不況や観客の嗜好変化、内部の路線対立などにより、次第に勢いを失っていた

かつて共に舞台に立った石井漠も、やがて舞踊の革新を志して欧州へと渡り、モリノとのコンビも大正11年(1922)夏をもって解消されることとなる

頼る相手を失ったモリノは、幾つかの劇団を転々としながら、舞台に身を置き続けた

そんな矢先の大正12年(1923)、関東大震災が東京を襲う
浅草の劇場街は壊滅的な被害を受け、復興のめどが立たないまま、多くの歌劇団が解散を余儀なくされた

震災の翌年、モリノは『澤モリノ歌舞劇団』を立ち上げ、再び自らの名を冠して精力的に活動する

こうした中で彼女は、かつての石井の弟子であった若手俳優・根本弘と関係を結び、数人の子をもうけるに至る
だが、旅回りの興行に身を置く中、幼い子どもたちは里子に出されたり、知人に預けられたりしたという

舞台への執念と、母としての現実のはざまで、モリノは確実に消耗していった

昭和初期頃には、浅草オペラの勢いは過去のものとなり、かつての仲間たちの多くは映画界や新興の音楽界へと転身していった

石井漠はモダンダンスの先駆者として、洋舞の新時代を切り拓いていたが、モリノはなおも浅草に未練を残し、中途半端なかたちで流れに取り残されていった

昭和3年(1928)頃には、根本とともに九州を巡業するなど活動を続けていたが、やがて根本も彼女のもとを去る
モリノは一座を失い、生活の基盤も崩れつつあった

それでも、レヴュー女優として新天地を模索し、幾度か舞台に立つことはあったが、かつてのような華やかな拍手に包まれることは二度となかった

手放せなかった栄光 ~女王の最期

昭和7年(1932)初夏のある日、石井漠のもとに、突然、幼い男の子を連れたモリノが現れた

「この子と一緒に死のうと思っている…」そう訴える彼女の目には涙が浮かび、かなり切羽詰まった様子であったという

石井は、かつての舞台仲間であるモリノの窮状を見過ごさず、自身のダンススタジオに迎え入れ、講師としての場を与えた

ようやく落ち着いた暮らしが始まるかに見えたその矢先、内縁の夫だった根本がふたたび彼女の前に姿を現す

根本は「満州で一座を旗揚げする」と語り、再起を願うモリノの心を大きく揺さぶった
かつての喝采を忘れられなかった彼女は、迷いの末に子どもを残し、根本とともに満州へ渡った

しかし巡業の興行は振るわず、過酷な旅の中でモリノの体は徐々に衰えていった

そして昭和8年(1933)5月、モリノは朝鮮・平壌の宿で心臓麻痺を起こし、そのまま静かに息を引き取った
享年43

死の直後、当時の新聞は「『瀕死の白鳥』を舞っている最中に倒れた」と報じたが、真実は違った
実際には劇場近くの宿で、誰に見守られることもなくひっそりと息を引き取ったのである

遺骨は根本によって納骨堂へと運ばれ、「迎えに来る」と言い残されたまま放置された

そのまま2年が過ぎた昭和10年(1935)、石井が偶然その所在を知り、奉天の寺に安置されていた骨壺を引き取り、東京・多磨霊園の深澤家の墓所に改葬した
そこには、モリノの踊る姿を刻んだレリーフ碑が今も残されている

澤モリノの人生は、決して華やかさだけで語られるものではない

母として、舞踊家として、一人の女性として、困難に抗いながら舞台に立ち続けたその姿には、静かで揺るがぬ誇りが宿っていた

浅草オペラという一時代の光と影を象徴する存在として、彼女の名は今なお語り継がれている

参考 :
小針侑起「あゝ浅草オペラ」えにし書房
笹山敬輔「幻の近代アイドル史」彩流社
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

大正時代、人々を熱狂させ絶大な人気を巻き起こした芸能・浅草オペラ

そんな浅草オペラが盛んな頃、「現代オペラ界における、随一のダンサー」と称賛された女性がいた

彼女の名は、澤モリノ

華やかな舞台姿と磨き抜かれた技芸で、多くの観客を惹きつけた彼女は、浅草オペラの顔ともいえる存在であった
しかし、時代の移ろいとともにオペラの熱気がしずまると、モリノの人生もまた、静かに崩れはじめていく


浅草オペラの女王・澤モリノ ~伝説の舞姫が迎えた、あまりに悲しい最期・・・

昭和7年(1932)初夏のある日、石井漠のもとに、突然、幼い男の子を連れたモリノが現れた

「この子と一緒に死のうと思っている…」そう訴える彼女の目には涙が浮かび、かなり切羽詰まった様子であったという

石井は、かつての舞台仲間であるモリノの窮状を見過ごさず、自身のダンススタジオに迎え入れ、講師としての場を与えた

ようやく落ち着いた暮らしが始まるかに見えたその矢先、内縁の夫だった根本がふたたび彼女の前に姿を現す

根本は「満州で一座を旗揚げする」と語り、再起を願うモリノの心を大きく揺さぶった
かつての喝采を忘れられなかった彼女は、迷いの末に子どもを残し、根本とともに満州へ渡った

しかし巡業の興行は振るわず、過酷な旅の中でモリノの体は徐々に衰えていった

そして昭和8年(1933)5月、モリノは朝鮮・平壌の宿で心臓麻痺を起こし、そのまま静かに息を引き取った
享年43

死の直後、当時の新聞は「『瀕死の白鳥』を舞っている最中に倒れた」と報じたが、真実は違った
実際には劇場近くの宿で、誰に見守られることもなくひっそりと息を引き取ったのである

遺骨は根本によって納骨堂へと運ばれ、「迎えに来る」と言い残されたまま放置された

そのまま2年が過ぎた昭和10年(1935)、石井が偶然その所在を知り、奉天の寺に安置されていた骨壺を引き取り、東京・多磨霊園の深澤家の墓所に改葬した
そこには、モリノの踊る姿を刻んだレリーフ碑が今も残されている

澤モリノの人生は、決して華やかさだけで語られるものではない

母として、舞踊家として、一人の女性として、困難に抗いながら舞台に立ち続けたその姿には、静かで揺るがぬ誇りが宿っていた

浅草オペラという一時代の光と影を象徴する存在として、彼女の名は今なお語り継がれている


 

 


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